オペラ映像「エフゲニー・オネーギン」「運命の力」「フィガロの結婚」

チャイコフスキー 「エフゲニ・オネーギン」202327,9日 モネ劇場

 なんとロラン・ペリーが「エフゲニ・オネーギン」を演出。ペリーと言えば、コミカルで軽快でユーモラスな演出をする人。カラッとして都会的。チャイコフスキーの田舎の貴族の館を舞台にした哀愁を帯びたこのオペラとは対極にある。どんな演出をするのだろうかという興味でみてみた。

 が、ちょっとがっかり。ペリーの良さが現れていないように思えた。さすがに舞踏会の場面などは生き生きとしているが、このオペラの持つ陰鬱でけだるい雰囲気はうまく出せていないし、それに代わるものも提示し得ていないように思える。

 指揮のアラン・アルティノグリュについても、私にはこのオペラに特有のえもいわれぬやるせなさ、哀愁、「ふさぎの虫」のようなものが伝わってこない。かといって、豪華絢爛な雰囲気があるわけでもない。演出も演奏も、私には中途半端に思える。

 歌手陣は充実している。私が最も惹かれたのは、レンスキーのボグダン・ヴォルコフだった。若い歌手で、自然な発声で、声そのものが美しい。レンスキーにふさわしい素直な歌唱。オネーギンのステファン・デグーもタチアナのサリー・マシューズもよいのだが、ちょっとわざとらしい声に聞こえる。デグーはオネーギンらしく歌おう、マシューズは若々しく歌おうとして無理をしているのではないか。

 

「運命の力」 ミラノ・スカラ座 202412月7日 (NHK/BSで放送)

 現在考えられる最高の演奏家による上演だと思う。指揮はリッカルド・シャイー。序曲から大きく盛り上げる。シャイーらしく、細かいところまで神経が行き届いて、しかもシャープでドラマティック。しかも、けっして大袈裟にはならない。レオ・ムスカートの演出も、大きな読み替えなどなく、納得がいき、とても説得力がある。

 レオノーラのアンナ・ネトレプコがやはり素晴らしい。以前のような細めの強い声ではなくなって、ヴィブラートも強まり、声のコントロールは少し甘くなった気がするが、表現力は圧倒的。ドン・アルヴァーロのブライアン・ジェイドも高貴な声でしっかり歌う。ちょっと演技力が物足りないが、若いので仕方がないだろう。ドン・カルロのルドヴィク・テジエは、このような敵役を歌わせたら比類ない歌い手と言って間違いないだろう。プレチオシルラのヴァシリーサ・ベルジャンスカヤも凄味のある声、修道院長のアレクサンドル・ヴィノグラードフも余裕のある深い声。合唱も素晴らしい。第三幕幕切れの合唱など圧倒的だった。

 

「フィガロの結婚」201511月 ベルリン、シラー劇場

 ドゥダメルをきちんと聴いたことがなかった。デビューしたころ、断片的に聴いてあまり好きな指揮者ではなさそうだと思った。「フィガロの結婚」を指揮したことは知っていたが、モーツァルト向きの指揮者ではなかろうと思って、あまり興味を惹かれなかった。が、先日、ダルカンジェロの歌を聴いて、そのすごさを再認識、彼が伯爵を歌うドゥダメル指揮のこの映像を購入した。

 見てみると、これはすべてのそろった大変な名演! ドゥダメルについては、初めのうちは、ちょっとおとなしすぎではないかと思えるほど落ち着いた演奏。が、しっかりとモーツァルトの音を出し、勢いがあり、楽しくも気品のある世界を作り出していく。

 歌手陣が素晴らしい。ダルカンジェロの伯爵は凄味がある。悪役でありながらのコミカルな演技も見事。私はフィガロも、ドン・ジョヴァンニもこの人が最高だと思っている!ドロテア・レシュマンの伯爵夫人もしっとりした声がとてもいい。いやいや、それどころかまさに最高の歌唱! アンナ・プロハスカのスザンナも澄んで声でしかも勢いのある歌唱。ラウリ・ヴァシャールのフィガロは、演出のためだろう、ちょっと気まじめな雰囲気だが、裏のありそうな演技がおもしろい。声ももちろん見事。マリアンヌ・クレバッサのケルビーノも実にチャーミング。そして、カタリナ・カンマーローアーのマルツェリーネが第四幕でこれまで聴いたことのアリアを見事に歌う。

 演出はユルゲン・フリム&ベッティーナ・ハルトマン。かつてのフリムの演出に手を加えたということだろうか。20世紀前半?の設定で、どうやら避暑地に引っ越しての「狂った一日」ということらしい。時代に合わせて道具立てを変え、細かい趣向はいくつもあるが、ほぼ台本通りに話は進み、とても楽しく見ていられる。

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藤原歌劇団「ロメオとジュリエット」 健闘しているが、グノーらしくなかった

 2025年4月26日、昭和音楽大学 テアトロ・ジーリオ・ショウワで藤原歌劇団公演 グノー作曲「ロメオとジュリエット」をみた。指揮は園田隆一郎、演出は松本重孝。実際の舞台というよりは、オーケストラが舞台上にいてその手前で歌手陣が演技をしながら歌う、いわば「セミ・ステージ」に近い形。背景に映像が映されるだけで、舞台装置はない。

 全体的には、堅実な仕上がりだったといえるだろう。園田の指揮は推進力のある音楽を作り出し、オーケストラの掌握もしっかりしている。とても好感を持てる音楽づくりなのだが、私としてはもう少し叙情性を深めてもいいのではないかと思った。言い換えれば、フランス的な雰囲気が欠けている気がした。

 私がかつてフランス文学を学んでいたためについ気になってしまうせいもあるのかもしれないが、フランス語のオペラについては、どうも発音が気になる。今日も、歌手陣に対しては、一様にフランス語の発音に少し問題を感じた。どうもすべての歌手のフランス語がフランス語に聞こえない。鼻母音もきれいに聞こえてこないし、フランス語特有の柔らかい母音も聞こえてこない。そうなると、直情的ではなく、しなやかで叙情的な中にドラマが立ち上がってくるグノーの雰囲気が出てこない。なんだかイタリアオペラを聴いている気分になってくる。

 ロメオの渡辺康とジュリエットの光岡暁恵もその傾向が強かった。二人ともだんだんと声に張りが出てきてなかなかの迫力だった。メルキューシオの井出壮志朗、ティバルトの工藤翔陽、ステファノの山川真奈、ジェルドリュードの高橋未来子、ローランの伊藤貴之も熱演。合唱は藤原歌劇団合唱部、管弦楽はテアトロ・ジーリオ・ショウワ・オーケストラも健闘。ちょっと音程がふらついたり、声が不安定になることはあるが、全体的にはしっかりと声を出し、その役を演じている。

 ただ、逆にいえば、健闘しているように聞こえてしまうのが問題なのだと思う。いかにも頑張っている雰囲気なのだが、そうなると、グノーでなくなり、フランス・オペラでなくなる。細かなニュアンスがなくなり、気品が薄れる。その意味では少し不満に思えた。

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GW前の京都の1日

 2025年4月23日、私が塾長を務める白藍塾が立命館宇治中学校の小論文指導をサポートしているので、その仕事(現在、私は執筆活動と白藍塾の仕事のみ続けている)で京都に行った。立命館宇治の先生方、生徒さんたちのおかげでとても良い仕事ができたと思う。その日のうちに東京に戻ってもよかったのだが、1泊して、24日、京都で過ごすことにした。24日は晴天。最高気温が23℃くらい。過ごしやすい気候だった。

 ところどころに修学旅行の生徒たちを見かけたが、まだ今の時期はそれほど多くはない。街には西洋系の観光客が目立った。西洋系の人たちの半分以上がTシャツ姿。中にはTシャツ短パンの人もいる。日本人のように長袖に上着を着ている・・・という人はゼロに近い。

 23日の夜、四条のホテル近くのコンビニに寄ってお茶を買おうとしたら、そこにいた30人近い客の8割が白人で、しかも列を守らないために大混乱に陥っていた。新聞記事で「外国人がマナー違反」という文章を読むと、近年ではつい中国人が批判されているというふうに判断するが、少なくとも現在の京都については、これは西洋人(ドイツ語らしい言語やスペイン語らしい言語がやたらと耳に届く!)のことらしい。新幹線の列車内の予約の必要な荷物置き場でも、それを無視して予約なしに荷物を置く外国人が問題になっているが、それも西洋人がほとんどなのかもしれない。

 中国の人たちは超有名な観光地に集中して団体で行動する傾向があるが、西洋人は個人や家族で行動してマニアックな寺院仏閣などを訪れる傾向にあるので、場合によっては西洋からの観光客のほうが日本人の生活の場に入り込んでいるのだろう。

 が、もちろん私は彼らを非難する気はない。1970年代、80年代、「パリの観光客は日本人ばかり。女性客がブランド店の前に行列をなし、男性客は夜遊びをする」として、日本人の無作法を指摘されているころ、私はヨーロッパを何度か訪れ、かなり長期間の旅行をした。まあそれほど無作法なことはしなかったとは思うものの、ひどい貧乏旅行の中でフランスの人に迷惑をかけ、勝手がわからず顰蹙を買うようなこともしたという自覚がある。オーバーツーリズム対策は必要だとは思うが、「外国人は無作法」と思わずに、「彼らは日本の勝手がわからずに、自国での流儀をそのまま繰り返しているだけ」ということは理解してほしいと思っている。

 

 ところで、今回、京都では長谷川等伯に縁のあるところを回ってみようと思った。

 美術にも、日本史にも疎い私が等伯を知ったのは、20年近く前、京都産業大学客員教授という資格で京都に頻繁に行き来していたころだ。様々なことに忙しい時期でなかなか観光はできなかったが、たまたま訪れた智積院で等伯と息子の久蔵の絵に出合った。息をのむ凄さだと思った。それ以来、京都を訪れ、時間があったら智積院にまで足を延ばして、これらの絵を見る。東京で長谷川等伯展が開かれるときには足を運ぶ。安部龍太郎の小説「等伯」も読んだ。もちろん素人なので、専門的なことはわからない。そんなに熱心に等伯に入れ込んでいるわけではない。ともあれ、京都見物の一つの方法として、今回は等伯ゆかりの地を訪ねてみようと思った。

 24日、四条のホテルに泊まっていたので、まず朝のうちに市バスで本法寺に向かった。等伯がかなり長期間滞在した寺で、確か安部の小説でもかなり細かく描かれていた。こじんまりした寺で、10時過ぎに着いたのでちょうどお寺の展示室を開いているところだった。最後まで観光客は私だけ。

 巨大な涅槃図が壁面にかけられていた。ただし、これは精巧なプリントだとのこと(今回観た中にも、真筆は展覧会のために別のところにあったり、一定期間しか一般公開しないという個所がいくつもあった)だが、情報を十分に仕入れずに、仕事の都合で観光をしている身にしてみれば致し方のないことだ。私の知っている楓図とも晩年の松林とも異なる、まるで若冲のような作風で、日本にいるはずのない動物が多数描かれていた。

 次は、また市バスで3つほど先の停留所にある大徳寺に向かった。大徳寺を訪れるのはたぶん3度目。気持ちよく歩いた。ここでも西洋系の人たちが静かに寺を楽しんでいた。

 ただ、等伯の絵があるという場所は立ち入り禁止で、等伯由来の場所も見つからなかった。関係者に尋ねようとしたが、観光客数人しか周囲にいない。仕方がないのであきらめて別の場所に行くことにした。

 が、広大な大徳寺を歩いているうちに、場所がわからなくなった。スマホで調べると、近くの駅や停留所までかなり歩かなければいけないようだ。寺の外に出たところでタクシーを見つけた(京都ではタクシーはなかなかつかまらないと聞いていたが、観光地では意外と見つけることができた!)。せっかくタクシーに乗ったからには、そのまま高台寺圓徳院に行くことにした。大徳寺で迷ったさいちゅうにスマホを調べて、そこに等伯の襖絵があることを知ったのだった(思ったよりもタクシー料金がかかったのは誤算だった!)。

 高台寺は観光客でごった返していた。西洋人も多いが、日本人、中国人らしい人も大勢いた。さっさと圓徳院に行って、庭園を楽しみ、等伯の襖絵を見つけた。襖に墨絵のように松林を描いたものだった(ただし、これも複製とのこと)。襖の色が濃いので、絵がはっきりと見えない。少々失望。ついでに、高台寺の庭園や方丈も見た。

 すでにかなりの脚の疲れを感じていたので、タクシーでなじみの智積院に向かった。2年前に完成した新しい宝物館で久蔵の「桜図」、等伯の「松に秋草図」「松に黄蜀葵図」「雪松図」をみる。大好きな絵だ。しばらくゆっくりと大好きな絵をみた。

 少し休んでから徒歩で京都国立博物館へ。「日本美のるつぼ」という特別展が行われていた。西洋に日本の美を知らせた作品、西洋の美術を取り入れてに日本人が描いた作品、日本にわたってきた中国や西洋の品など異文化交流を示す美術品が展示されていた。北斎の三十六景のいくつかや俵屋宗達の「風神雷神図」などがあった。面白く見て回った。

 朝、ホテルで欲張って朝食を食べたので、お昼の食欲がわかない。夕食が早めなので昼は抜くことにして観光を継続。

 タクシーで南禅寺に向かった。この寺はこれまで何度か訪れたことがある。案内の人に尋ねて、金地院(こんちいん)に等伯の襖絵があることを確かめて南禅寺の正面門の外にある金地院に入場。徳川家光を迎えるために作られた石を鶴亀の形に並べた部分を中心にした見事な庭園、その裏の東照宮をみて、その後、案内の人の説明を聞きながら方丈に入った。

 その一部屋に等伯の猿の絵があった。先日の東京での展覧会で観たものだったが、こうして襖絵としてみるとなかなか趣がある。池に映る月に手を伸ばしているテナガザル。実体のないものを求める愚かさを描いているという。ふわふわした猿の毛を描いて見事。

 そのほか、金地院の茶室などをみて、観光は終わり。その後、ホテルに戻って預けていた荷物を受け取って、京都駅へ。新阪急ホテルの地下にある贔屓の店・美濃吉で早めの夕食。筍の和え物と筍ご飯がとてもおいしかった。京都駅に移動して、新幹線で東京へ。

 ともあれ、欲張って駆け足になったが、満足のできる京都の一日だった。

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映画「侍タイムスリッパ―」「PERFECT DAYS」

 Prime videoで映画を2本みた。簡単に感想を記す。

 

「侍タイムスリッパ―」 2024年 安田淳一監督

 日本アカデミー賞最優秀作品賞受賞作品。話題になった作品。幕末、会津の藩士・高坂新左衛門(山口馬木也)は、長州藩士を殺害しようと闘っているとき、雷に打たれてタイムスリップ。現代の京都の太秦撮影所に移動してしまう。ほかにできることもなく、時代劇の斬られ役として働くうち、時代劇の大御所・風見恭一郎(冨家ノリマサ)の推薦で話題の映画の準主役に抜擢される。ところが、その風見は、実は30年前にタイムスリップした戦いの相手だった。二人は、侍魂を現代に見せようとして、時代劇つくりに励む。高坂は会津藩の悲劇を知って同胞に報いたいと考える。

 簡単にまとめるとそんな話。ありがちな設定、まさにベタな映画。だが、これが実におもしろい。純朴で生真面目な高坂の気持ちが手に取るようにわかるように作られている。現代にタイムスリップした戸惑い、不器用な恋、風見への揺れ動く心が面白おかしく描かれる。そして、映画と現実が重なり合う、というこれまたベタな展開もうまく応用される。

 私は藤田まことのファンだったので、彼の主演する「剣客商売」は熱心に見ていた。息子役を当初演じていたのは渡部篤郎だったが、途中から山口馬木也に代わった。まったく知らない俳優さんだった。渡部に比べて華がなく地味な感じがしたが、それでも味のある役者なのでひそかに応援していた。また、冨家ノリマサは美男だけで味のない役者だと思って、もったいないと思いながら見ていた。ところが、この二人の凄さ! 年を経るにしたがって、味が増し、本当にいい役者になっていた。いや、二人だけでなく、すべての役者がいい味を出している。

 

PERFECT DAYS」 2023年 ヴィム・ヴェンダース監督

 ヴェンダース監督が日本を舞台に、役所広司を主人公にして撮った映画。小津安二郎の映画に傾倒するヴァンダースらしい、まさに小津を思わせる映画。

 毎日、決まった時刻に起きて決まった行動をとって東京のトイレを清掃する作業員平山(役所広司)の毎日を追いかける。姪が登場して平山の過去の状況がほのめかされたり、仕事仲間の恋愛事情、行きつけのスナックのママの苦悩などが描かれたりするが、さりげなく、日常の一コマとして扱われる。そして、平山は日々の生活の喜びと悲しみと苦悩を抱えながら、完璧に仕事をこなし、トイレを見事なまでに清潔にし続ける。

 それだけの映画なのだが、映像美、ゆっくりと流れる生活感、登場する人々(仕事仲間の柄本時生、ホームレスの田中泯、居酒屋店主の甲本雅裕、スナックママの元夫の三浦友和)の存在感が素晴らしい。風景がそこにあり、そこに人が生きている、ただそれを描くだけで素晴らしい映画になるのだと、つくづく思う。

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BCI「マタイ受難曲」 吉田のエヴァンゲリストが素晴らしかった

 2025420日、彩の国さいたま芸術劇場音楽ホールでバッハ・コレギウム・ジャパンによるヨハン・セバスチャン・バッハ「マタイ受難曲」を聴いた。指揮は鈴木雅明。BCJの実力のほどはもちろん知っているし、この団体の「マタイ」も聴いたことがあるので、今回は見送ろうかと思っていたが、今回、エヴァンゲリストを歌うのは吉田志門だという。私がこの数年、シューベルトやシュトラウスやフォーレの歌曲をきいて実力のほどを知った歌手だ。これは聴かねばならないと思ってあわててチケットを入手。期待通り素晴らしかった。

 私は実はずっと前からBCJのオーケストラや合唱には満足していたが、ゲストとして招かれる独唱者には不満を抱いていた。これだけのレベルのオーケストラと合唱団の演奏のわりには独唱者がそろっていないと思ってきた。だが、今回は最高度の充実。

 やはりエヴァンゲリストの吉田志門が素晴らしいと思った。日本人で初めて世界的なレベルでエヴァンゲリストを歌える歌手が誕生した!と思った。柔らかい美声、しなやかなで知的な歌いまわし、(私はドイツ語がまったくできないので、よくわからないが、耳で聞く限りは)完璧なドイツ語の発音、いずれも素晴らしい。ペテロの否認、ユダの後悔、イエスの死の場面などの無念さの表現も見事。エヴァンゲリストという役割をはみ出すことなく、しっかりと聖書の「語り手」の心を伝える。私が実演で聴いたエヴァンゲリストの中で今回が最も感銘を受けた。これまで録音で聴いてきた世界的名歌手に匹敵すると思う。吉田志門はこれまでエヴァンゲリストの経験はほとんどないと思うのだが、もう数十回も歌ってきたかのような安定感だった。

 イエスなどを歌うヨッヘン・クプファーも気品のある声と表現。イエスの気高さがじかに伝わる。ソプラノのハナ・ブラシコヴァも驚くべき輝かしくも落ち着いた声が素晴らしい。安川みくも清楚の美声で細かいところまで神経の行き届いた歌唱。バスの加耒徹も知的でしっかりした歌。テノールの櫻田亮も落ち着いた声でとても好感が持てる。カウンターテナーの青木洋也も安定して見事。アルトのマリアンネ・ベアーテ・キーラントも美声なのだが、私にはオーケストラとかみ合っていないように思えた。

 コンサートマスターは寺神戸亮、オルガンは鈴木優人。すべての奏者が超一流ですべての音が生き生きとしている。強い力で信仰心を促す。しかし、この信仰心は若々しい躍動感にあふれている。鈴木雅明はかなりの年齢だと思うが、この若々しい音楽は驚異的。

 考えてみると、「マタイ受難曲」を実に久しぶりに聴いた。ひところはしょっちゅうCDで聴いていたのだが、トシのせいかこんな生真面目で長い曲がしんどくなってきた。が、久しぶりに聴いてみると、やはりこれはバッハの中でも別格だと思う。すべての曲が信じられない完成度で心に迫る。静かにしみじみと深い感動を覚える。最後の合唱では涙が出てくる。

 ひところ、きちんとこの曲を「研究」したいと思って厚い本を何冊か買ったのだったが、きちんと読んでいない。改めてこの曲に向かいたいと思った。

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紀尾井ホール室内管弦楽団 一筆書きのようなシューマン

 2025418日、東京春音楽祭の「こうもり」が終わったのは1810分ころ。興奮も冷めない中、大慌てで上野から四谷に電車で移動。「こうもり」が終演予定時間よりも10分ほど早く終わったので助かった。余裕をもって紀尾井ホールに着くことができた。19時開始の紀尾井ホール室内管弦楽団 第142回定期演奏会を聴いた。

 指揮はサッシャ・ゲッツェル。曲目は前半にハイドンの交響曲第39番、ツェムリンスキーのシンフォニエッタ、ベルクの7つの初期の歌、後半にシューマンの交響曲第4番(1941年初稿版)。

 ゲッツェルの選んだ曲目らしいが、不思議な選曲。前半だけで1時間を超した。ハイドンの交響曲は余計だったのではないかと思ったのだったが、後半のシューマンを聴いて納得した。ゲッツェルはこの二つの交響曲を同じようなスタンスで演奏。まさに疾風怒濤。じっくりと構成を意識しながら・・・という演奏ではなく、一筆書きのように激しい勢いで演奏。こうして聴くと、シューマンの、オーケストレーションに少し難があって、あまりにモノフォニックな交響曲が、ハイドンの伝統に上にある勢いのある若々しい音楽であることがよくわかる。

 ツェムリンスキーのシンフォニエッタ、ベルクの7つの初期の歌はまさに初期の若々しい音楽。ゲッツェルは若々しい勢いのある音楽を並べたということだろう。まさにマーラー以降、12音階に向かう直前の若者の音楽を聴くことができた。

 千々岩英一をコンサートマスターとする紀尾井ホール室内管弦楽団は見事に指揮者の要求を満たしたといえるだろう。勢いのあるとてもいい演奏だった。

 ベルクの歌曲を歌ったスヴェトリーナ・ストヤノヴァは今売り出し中の若い歌手で、ちょっと深みのある美声。ただ、私はちょっと音程が不安定な箇所があったような気がしたのだが、気のせいかもしれない。

 とてもよい演奏だったが、正直言って、私の頭の中ではまだ「こうもり」が鳴っていた。「こうもり」の興奮が大きすぎて、ゲッツェルと紀尾井室内管弦楽団には申し訳ないことをしてしまったなあと思ったのだった。

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東京春音楽祭 演奏会形式「こうもり」 興奮の演奏!

 2025418日、東京文化会館で東京春音楽祭、演奏会形式によるヨハン・シュトラウス2世のオペレッタ「こうもり」を聴いた。世界レベルの素晴らしい演奏! 興奮した。

 演奏会形式ではあるが、テーブルとソファがいくつか置かれ、演技を加え、必要不可欠な衣装(ガウン、看守の制服など)や小物(時計など)を使って歌われる。「こうもり」はこれだけで十分に楽しい舞台が出来上がる。

 アイゼンシュタインがアドリアン・エレート、ファルケ博士がマルクス・アイヒェ。すでに日本でもおなじみのこの二人が出演するということだけで、すでにこの演奏が世界レベルであることがわかる。エレートは実際、芸達者でユーモラスで、見事な声で表現力豊かに歌う。アイヒェもエレートに劣らず芸達者。笑いを醸し出す。二人の安定感はすさまじい。

 アデーレのソフィア・フォミナも見事。調べてみたら、私はコヴェントガーデンの「ギヨーム・テル」の映像でこの人の歌うジェミに感心した覚えがある。演技もコケティッシュでとてもチャーミング。アルフレートのドヴレト・ヌルゲルディエフもこの役にふさわしい美声。オルロフスキー公爵のアンジェラ・ブラウアーは私も映像でしばしばみては、いずれもとても感心してきた。まさに名歌手。この不思議な役を見事に歌う。

 そして、何よりも圧倒されたのは、ロザリンデのアニタ・ハルティヒ。突然の代役だったので、それほど期待しないでいたのだが、驚くべき凄さだった。ワーグナーでも歌えるような強い声で、音程がよく、しかも声量がある。声の表現力も豊かで、いくつもの表現を持っている。チャルダッシュはまさに圧巻。ドラマティックな要素からコミカルな要素まで心行くまで聴かせてくれた。

 いやはや、出演する歌手、全員が素晴らしい!

 脇を日本人歌手が固めたが、フランクの山下浩司は外国人に一歩も引かない歌と演技。ブリント博士の升島唯博、イーダの秋本悠希も見事な演技。ドイツ語も、少なくとも私にはネイティブの発音に聞こえる。フロッシュの志村文彦も専門の役者顔負けのユーモラスな演技。時に日本語を交えて、観客の笑いを誘っていた。東京オペラシンガーズの合唱もよかった。

 しかし、この演奏の最大の功績はジョナサン・ノット指揮の東京交響楽団にあるだろう。生き生きとしてわくわく感にあふれ、スピーディで躍動的。第2幕の夜会の部分で、スーペイン風、スコットランド風、ボヘミア風、ハンガリー風の舞曲が演奏されたが、それも本当にワクワクする演奏だった。

 第二幕、第三幕と、私はわくわくし、興奮し、幸せな気持ちになった。ワーグナーもいいが、ヨハン・シュトラウスもいい! 本当に楽しい。

 昔、カラヤンの二つの録音でこのオペレッタになじんでいた私は、初めてカルロス・クライバーの演奏を聴いて、その生きのよさとシャープでさっそうとした音楽に驚嘆したが、もし、クライバーの演奏を知らなかったら、今回、その時と同じほどの衝撃を受けただろう。表現そのものはかなり異なると思うが、クライバーに劣らないほど躍動と刺激に満ちている。いやあ、ノットという指揮者、リヒャルト・シュトラウスもあれほど素晴らしく演奏、ヨハンもこれほど。これは改めてとんでもない指揮者だと思った。

 私の東京春音楽祭2025年はこれにて終了。今年もまた素晴らしい演奏がたくさんあった!

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辻本玲 無伴奏チェロ組曲2・3・6番 

 2025417日、東京国立博物館で東京春音楽祭「東博でバッハ」を聴いた。今日は、辻本玲によるバッハの無伴奏チェロ組曲全曲演奏の2日目。前半に第2番と第3番、後半に第6番。昨日、1・4・5番を聴いたが印象は変わらない。

 第2番はふくよかで深い哀愁がじわじわと伝わるような演奏だと思った。自由でのびやかだが、自由すぎない。安定し、おおらかでしみじみしている。何かを表現しようとしているのではなく、おのずと音楽が語るに任せている感じがする。

 第3番はスケールが大きく、まさにのびやか。素晴らしいと思った。無理をしていないのに音楽が大きくなる。テクニック的にも見事だが、それを誇張して聴かせることなく、音が重なって大きな世界を作りあげていく。もともと私の好きな曲であるせいかもしれないが、大いに感動した。

 第6番は、あくまでも舞曲であることを強調しているように思えた。精神の深みと人間精神の自由を歌い上げるような無伴奏チェロ組曲全曲なのだが、とりわけ第6番は舞曲的な要素が強いと思う。辻本はそれを的確にとらえて、深刻になりすぎずに、踊りの曲として、何よりも楽しむ曲として、そして人々が集ってわいわいがやがやとにぎわう曲として演奏する。なるほど。

 全曲を聴いて、この演奏家はバッハを生真面目で宗教的な人物としてではなく、あくまでも自由で生き生きとした、そして人々とともに生きる喜びや悲しみを分かち合い、楽しみあおうとする人として描いているのを感じた。それにとても説得力があった。

 

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辻本玲 無伴奏チェロ組曲1・4・5番

 2025416日、東京国立博物館で東京春音楽祭「東博でバッハ」を聴いた。今日は、辻本玲によるバッハの無伴奏チェロ組曲全曲演奏の初日。前半に第1番と第4番、後半に第5番を聴いた。

 第1番はかなり開放的な演奏だと思った。開けっぴろげで、自由闊達、おおらかで流動的。気のせいか、途中ほんのちょっとの間、もたついたところがあったような気がしたが、全体的にはとてもよかった。

 第4番は第1番とは異なってかなり複雑な性格を持っていると思う。全体的には緊張感にあふれ、きっとテクニック的にも難しいのだろう、複雑な和音や、1本の楽器で演奏されているとは信じられないような音が聞こえてくる。それを辻本は見事に再現。ただ、これも途中、私は少し緊張感が薄れた個所があった。私だけかもしれないが。

 後半の第5番は圧巻だった。短調の激しい音で緊張感にあふれ、全体的に大きなスケールで最後まで弾きとおした。第1番のおおらかさとはまったく異なる表現。素晴らしいと思った。

 明日、また聴くので、このくらいにしておく。

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イタリア映画「慈悲なき世界」「マロンブラ」「鉄の王冠」「金持ちを追放せよ」「栄光の日々」

 時間を見つけて、安売りのイタリア映画DVDセットをみている。簡単な感想を記す。

「慈悲なき世界」 1948年 アルベルト・ラトゥアーダ監督

 これは正真正銘の傑作。フェリーニが脚本を担当すると、途端におもしろくなる。さすが! 第二次大戦直後、アメリカ軍がイタリアを管轄している時代。兄を探しに港町に行くアンジェラ(カルラ・デル・ポッジョ)は銃で撃たれた黒人米兵ジェリーを助ける。二人の間に恋が芽生えるが、アンジェラは犯罪組織の一員に組み込まれてしまい、ジェリーもそれに巻き込まれる。そこから抜け出してアメリカに密航しようとするが、犯罪組織のボスに見つかり、アンジェラは殺される。ジェリーはアンジェラの死体とともに車で岸壁から転落する。

 まさに戦中戦後の慈悲なき社会を描く。ネオリアリズムのタッチで、戦後の紺頼がリアルに描かれる、犯罪に手を染める人、健気に生きる人が見事に描かれる。本国で差別される黒人の状況もしっかりと描かれている。アンジェラを助ける女性をジュリエッタ・マシーナが演じている。音楽はニノ・ロータ。

 

「マロンブラ」 1942年 マリオ・ソルダーティ監督

 厳格な叔父に湖畔の城から出ることを禁止されて生きる令嬢マロンブラ(イザ・ミランダ)。かつて、同じ城に閉じ込められていた女性チェチーリアの手紙を見つけて、コロンブラはチェチーリアと区別がつかなくなる・・・。まあそんな話。ゴチック小説まがいの展開。このタイプの映画を「カリグラフィスモ」というのだそうだ。ただ、狂気じみた気位の高い令嬢、チェチーリアの息子らしい作家、遺産を争う貴族たちなどという道具立てに、私のような現代の高齢者はリアリティを感じることができない。ヒロインにまったく感情移入できなかった。

 

「鉄の王冠」 1941年 アレッサンドロ・ブラゼッティ監督

  歴史映画。ヴェネチア国際映画祭金獅子賞を受賞と言おうが、そんな良い映画とは思えなかった。いくらか史実、あるいは中世の伝説に基づいているのだろうか。中世の鉄の王冠をめぐる物語。オイディプス伝説とジークフリート伝説と「マクベス」をごたまぜにしたようなお話。背景や音楽は、ワーグナー、とりわけ「タンホイザー」や「ローエングリン」を思わせる場面がたくさんある。

 ただ、どの人物も掘り下げが甘く、その心情が伝わらない。戦闘場面や、コロッセオのようなところでの決闘場面があるが、それも現在からみると、かなり安っぽくてリアリティに欠ける。

 

「金持を追放せよ」 1946年 ジェンナロ・リゲルリ監督

 果物屋を営むジョコンダ(アンナ・マニャーニ)はとんとん拍子に成功して大富豪になり、没落した伯爵(ヴィットリオ・デ・シーカ)の館を買い取るが、集まってきた詐欺師たちにすべてをはぎ取られて、元に戻ってしまう。結局信頼できたのは、伯爵だけ。そうした人間喜劇を、マニャーニとデ・シーカが演じる。他愛のないストーリーだが、戦後の混乱期の経済事情も分かって、とてもおもしろい。

 

「栄光の日々」 1945年 監督:ジュゼッペ・デ・サンティス、マリオ・セランドレイ、マルチェロ・パリエーロ、ルキノ・ヴィスコンティ

 第二次大戦末期、イタリア北部は、ナチスとファシストに占領されており、愛国者たちはパルチザンの戦いを挑んだ。その有様を描くドキュメンタリー。実写の力というべきか、まさに「事実」が迫ってくる。戦後のイタリア映画を支えたフェリーニ、ヴィスコンティ、パゾリーニといった人々がネオリアリズムから出発したことがよくわかる。

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