ノット&オピッツ&東響 ブラームスの協奏曲第2番 まさに本格派!

 2021125日、ューザ川崎シンフォニーホールで東京交響楽団の演奏会を聴いた。指揮はジョナサン・ノット。曲目は、前半にゲルハルト・オピッツが加わってブラームスのピアノ協奏曲第2番、後半にルトスワフスキの管弦楽のための協奏曲。

 チケットを購入した時点では、ピアノはニコラ・アンゲリッシュの予定だった。アンゲリッシュが来日できなくなって、代わりに演奏することになったのがオピッツだった。

 私はピアノ独奏曲をほとんど聴かないため、ピアニストに関心を持つことはまずない。だが、30年近く前だったと思うが、だれだったかのヴァイオリンを聴きにゆき、ヴァイオリン以上に伴奏者のピアノに感動したことがあった。それがオピッツだった。どっしりと安定した、いかにもドイツ的なピアノは素晴らしいと思った。

 久しぶりにオピッツを聴いたが、やはり実に安定した音。重心の低い味わい深い渋い音。横で力いっぱい押しても微動だにしないような安定。まったくリズムが崩れない。小細工もない。正攻法でがっちりと弾く。ただ、独特の解釈なのだろう、ところどころ今まで私の聴いたことのないような力点の置き方がなされる。しかし、それによって新鮮な音楽にはなるが、もちろん安定した世界が揺らぐことはない。これがオピッツの持ち味だろう。まさに本格派。

 それに対して、ノットの指揮はとても色彩的でしなやか。かなり対照的な音楽づくりと言えるかもしれない。しかし、むしろそれがうまく合致して、素晴らしい音楽になっていく。なるほど、これがブラームスの世界だとつくづく思う。

 ただ、ちょっとだけ告白すると、素晴らしい!と思いつつも、オピッツほどにテンポを動かさずに安定して演奏されると、ちょっと退屈するのも事実だ。この本格的演奏に退屈してしまう自分のほうが修行不足だろうと思いながらも、ほんの少しでいいから観客サービスをしてほしいなと思ってしまう。

 だが、ともあれまさにドイツ音楽の正統を行く見事な演奏だった。

 後半のルトスワフスキの管弦楽のための協奏曲については、まさにタイトル通り、「オーケストラの皆さんこそが主役です!」というモットーとでもいうべき演奏。すべての楽器を存分に吹かせ、弾かせて、すべての楽器を主人公にする。音の交通整理をするノットの手際の良さたるや凄まじい。おそらく、全員が気持ちよく演奏しているのだと思う。だが、それぞれの楽器が見事にアンサンブルをなし、全楽器の爆音であっても透明感をもって鳴り響く。ヌケがよく、爽快な音が響き渡る。民族色も心地よい。私はこの曲をけっして名曲だとは思わないが、ともあれこのような演奏で聴くと、圧倒され、終わった後に喝采を叫びたくなる。

 とても充実したコンサートだった。

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デスピノーサ&N響 「浄夜」 何度か感動に震えた

 2021124日、東京芸術劇場 でNHK交響楽団演奏会を聴いた。指揮はガエタノ・デスピノーサ、曲目は前半にブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」作品56aと、小林海都が加わってバルトークのピアノ協奏曲 第3番、後半にシェーンベルクの「浄められた夜」。

 とはいえ、実はチケットを購入した時には、山田和樹の指揮で佐々木典子のソプラノによる「四つの最後の歌」が予定されていた。ところが、新型コロナウイルスの影響で演奏者も曲目も変更。「四つの最後の歌」を目当てだった私としては大いに落胆し、実は行こうか行くまいかと迷っていたのだった。

 だが、実際に聞いてみると、とても良い演奏だった。デスピノーサという指揮者、私はたぶん初めて聴いたと思う。音楽にさりげなく陰影をつけ、しかも自然に音楽が流れていく。ブラームスの変奏曲も、変奏ごとに見事に聴きどころを際立たせてくれる。全体が一つのドラマのように起伏を持っていることがとてもよくわかる演奏だった。

 バルトークの協奏曲については、私はこの曲をよく知らないので、何かを語る資格はない。ただ、小林海都という若いピアニスト、とても魅力的な音色の持ち主だと思った。一つ一つの音になんだか芯があるような印象を持った。そのため、一つのメロディが新しい響きを持って聞こえる。ピアノのアンコールが演奏された。シューベルトのアレグレットD915だという。帰宅して、所有しているだけでおそらく一度も聴いていないCDを引っ張り出して聴いてみた。シピリアン・カツァリスの演奏だが、まったく印象が異なる。小林の音はもっとずっと現代的に聞こえた。現代的でありながら不思議な陰影と哀愁を持つ曲に思えた。

「浄夜」も素晴らしい名演奏だった。N響の弦のメンバーの実力が存分に発揮されたといっていいだろう。心の中に蠢く官能と悶えと歓びがうねる。デスピノーサのコントロールも見事。音が自然に重なり、うねり、ささやく。魂の潮が押し寄せてはまた静まり、また押し寄せる。昔々(おそらく、40年ほど前)、まだレコードの時代、この曲のオーケストラ版が好きでよく聴いていたが、この2、30年、六重奏版ばかりを聴いていた気がする。久しぶりにオーケストラ版を聴くと、それぞれの楽器のソロが胸のざわめきのようなものを掻き立て、六重奏版とは異なった魅力があるのに気付く。迫ってくるものがあった。N響弦楽器群のメンバー、そしてそれぞれの楽器のトップの独奏陣に脱帽。何度か感動に震えた。

 客はかなり少なかった。真ん中のブロックはほぼ埋まっていたが、左右のブロックはガラガラ。演奏者と曲目の変更のせいもあったのかもしれない。私も、行こうかどうかと迷って、せっかくの名演奏を聞き逃すところだった。短気を起こさなくてよかった。

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オペラ映像「ひどい誤解」「ジュリエッタとロメーオ」「村の結婚式」「タイス」

 やむを得ない措置であって、私もこの決定を支持するが、とはいえ、オミクロン株の感染拡大を防ぐための外国人の入国停止は私にはかなりの痛手だ。大学を定年退職した後、日本人の文章指導とともに、日本に留学する外国人への日本語文章指導をライフワークにしたいと思っていたのだったが、計画はもろくも崩れつつある。そのほか、ヨーロッパの音楽祭にも行きたいと考えていたが、もちろんそれも難しい。そして、何より、外来演奏家が入国できないのがつらい。年内に、あと8回コンサートを聴く予定にしているが、そのうちの5回は外来演奏家が指揮をしたり、ソロを演奏したり、そもそもが外国人の団体だったり。ファビオ・ルイージが来日できず、第九を振らないことになったという通知が先ほど届いた。あといくつ変更があるか・・・。

 オペラ映像を数本みたので、感想を記す。

 

ロッシーニ 「ひどい誤解」 2018年 ヴィルバート・ロッシーニ音楽祭

 ともあれロッシーニのBDの新譜なので購入したのだったが、知らない劇場での知らない団体の上演であり、指揮者も歌手陣も知っている名前がない。どんなものかと恐る恐るみてみたが、これがなかなかいい。確かに小さな劇場での簡素な舞台。登場人物の服装も現代の普段着に近いもの。しかし、これぞ本来のロッシーニの世界ではないかと思わせるだけの力がある。

 指揮はホセ・ミゲル・ペレス=シエーラ。ヴィルトゥオージ・ブルネンシスという名称が出ているが、これがオーケストラ名だろうか。出てくる音は、躍動感があり、若々しくてとてもいい。

 歌手陣もそろっている。すべてかなりの若手のようだ。ガンベロットのジュリオ・マストロトータロは、ふだん芸達者なベテランが歌うこの役を見事に歌っている。フロンティーノ役のセバスティアン・モンティとロザリア役のエレオノーラ・ベロッチも、原作の従僕と小間使いというより現代社会のアルバイト学生といった風情。

 ヒロインのエルネスティーナを歌うアントネッラ・コライアンニはとてもいい。容姿もきれいで声も美しく、音程もよく見事に歌う。エルマンノを歌うのはアフリカ系のパトリック・カボンゴ。外見的には、正直言ってこの役にふさわしくないと思われるが、いざ歌いだすと、この役にふさわしい柔らかくて甘い美声。素晴らしい。ブラリッキオのエマヌエル・フランコも感じの悪い軽薄男を好演。すべての歌手が音程のしっかりした美しい声。

 演出はヨッヘン・シェーンレーバー。合唱団の男性たち女装している。去勢男と疑われるヒロインのひどい誤解の物語の時代錯誤性を弱めるための工夫だろう。確かに、今の時代、かつての女性差別、宗教差別、少数者差別の題材を扱うときには何かしら緩和させるための工夫をしなければならない。

 ザルツブルク音楽祭などでの大御所たちの名舞台もいいが、このような才能ある若手のういういしい舞台もいい。小さな劇場で、目の前でこれほどの名演奏を繰り広げられると、ザルツブルク以上の感動をおぼえるだろう。ロッシーニ19歳のオペラであるこの作品はむしろ、このような若々しい演奏家によって演奏されるにふさわしいのではないかと思った。

 

ヴァッカイ 「ジュリエッタとロメーオ」 2018 第44回 ヴァッレ・ディトリア音楽祭

 コロナ禍のために中止になったが、昨年だったか、藤原歌劇団が確かこのオペラを上演する予定だったと思う。それまでヴァッカイという作曲家の名前も知らなかった。1790年に生まれて1848年に没したというから、ロッシーニとほぼ同時代。「ロミオとジュリエット」とほぼ同じ物語。ロメーオを女性が歌う。

 現在上演されなくなったオペラを観ると、だいたいいつもそう思うが、それなりに美しいメロディが続く。しかし、とびっきり美しいメロディや、とびっきりぐっとくる場面がない。確かに長い歴史を潜り抜ける魔力を持っていないなあと思う。これも同じように感じる。ただ何しろストーリーが劇的で見せ場があるので、このオペラは歌手の力によっては十分に楽しめるといえそうだ。

 ジュリエッタのレオノール・ボニッラが素晴らしい。澄んできれいな高音にうっとりする。ロメーオのラファエッラ・ルピナッチもとてもいい。もちろん想定されているロミオとジュリエットの年齢とはかけ離れているが、外見的にもとても見栄えがする。カペッリオのレオナルド・コルテッラッツィ、アデリアのパオレッタ・マッロークもしっかりした声。

 ミラノ・スカラ座アカデミア管弦楽団を指揮するのはセスト・クアトリーニ。まさにロッシーニの時代を彷彿とさせる音。しかも、しなやかで繊細。とてもいいオーケストラと指揮者だと思う。演出はチェチリア・リゴーリオ。穏当な演出といってよいだろう。わかりやすくて、初めてこのオペラに接する者にはありがたい。

 

ドニゼッティ 「村の結婚式」 2020年 ベルガモ、ドニゼッティ歌劇場

 コロナ禍の中の無観客ライブ。演出はダヴィデ・マランケッリとなっているが、本来の意図からはかなり異なったものになってしまったのだろう。歌手たちは、舞台上ではなく、椅子を取り払われた観客席で歌い、演じる。舞台上ではどうしても密になるので、それを避けるためにはこうするしかない。自分が歌うとき以外はマスクをつけ、かなり距離をとって行動する。このような状況を知らずに見たら異様に思うだろうが、今、これを見る私たちは、これほど苦労して上演しようとする姿勢にある種の感動を覚える。

 ドニゼッティの初期のオペラ・ブッファ。もちろん、私がこのオペラを観るのは初めて。存在自体も知らなかった。だが、そこはドニゼッティ。爆発的におもしろいわけではないが、楽しい歌が存分にあり、ある意味でお決まりのストーリー、お決まりの人物のキャラクターなので、とてもわかりやすく、それほど上演時間も長くないので、ともあれ楽しめる。そう、私にとってドニゼッティのオペラは、吉本新喜劇のようなもの。他愛のない話なのだが、ともあれとても楽しくオペラを味わうことができる。

 演奏もとてもいい。ステファノ・モンタナーリの指揮も生き生きしていてまったく不満はない。最も目を引くのはクラウディオ役のジョルジョ・ミッセーリだ。とてもきれいな声のテノールで、音程もよく、外見的にも「イケメン」を十分にこなせる。村娘ザビーナのガイア・ペトローネもとてもきれいなコントラルトの声で好感が持てる。そのほか、ドン・ペトローニオ役のオマール・モンタナーリ、トリフォリオのファビオ・カピタヌッチもしっかりとした演技と歌。ただ、この演出では、広い空間で、歌手同士の絡みがないままストーリーが展開するので、やはり芝居の醍醐味が不足するのは致し方ないところだろう。逆に言えば、音楽というもの、オペラというものがいかに「密」によって成り立っていたのかを再認識させられる。

 

マスネ 「タイス」 2021年 アン・デア・ウィーン劇場

 おそらく無観客上演だろう。観客は一切映し出されない。

 タイス役のニコール・シュヴァリエは妖艶な娼婦というこの役にふさわしい容姿で、声も美しい。しっかりと歌って好感が持てる。アタナエルはヨーゼフ・ワーグナー。ちょっと声が硬いが、生真面目な修道士でありながらタイスにほだされてしまうさまをしっかりと歌う。ニシアスを歌うロベルト・ザッカはさすがの歌唱で、この天真爛漫な女好きの金満家を造形している。

 演出はペーター・コンヴィチュニー。そのわりには、大きな読み替えはない。時代は、オリジナルではもちろん古代ローマの時代なのだが、おそらくマスネが活躍していた時代、つまり、19世紀後半に設定されている。アタナエルをはじめとする修道士たちが背中に黒い羽根を付けており、むしろニシアスが白い羽をつけている。宗教者たちの偽善性を表現しているのだろう。

 指揮はレオ・フセイン。来日したことがあるらしいが、私は初めてこの名前を知った。前半はオペラそのものの性格なのか、一本調子で音楽に広がりがなくて少々退屈した。しかし、後半、徐々に官能的になり、「タイスの瞑想曲」あたりからぐんぐんと魅力を増してきた。

 全体的にかなりレベルの高い上演だと思うが、とびきり引き込まれるほどのことはなかった。

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井上&新日フィルの「ペトルーシュカ」など 曲目変更だが、コロナ禍なので仕方がない

 20211129日、新型コロナウイルス、オミクロン株の感染拡大を防ぐため、水際対策を強化。岸田首相はビジネス目的や留学目的の外国人の入国を明日から全面的に停止すると発表した。私は日本語学校の校長の職にある。やっと留学生が入国できそうになったというときにこの措置は打撃というしかない。だが、もちろんこの状況ではやむをえない。日本語学校にとっては厳しい状況が続く。

 そんななか、サントリーホールで新日本フィルハーモニー交響楽団の演奏会を聴いた。指揮は井上道義。曲目は前半に武満徹の「弦楽のためのレクイエム」とモーツァルトの交響曲第39番、後半にドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」とストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」(1911年版)。

 私がこの演奏会のチケットを購入したのは、デュトワの指揮でラヴェルのピアノ協奏曲と「ラ・ヴァルス」が予定されていたからだった。ピアノの北村朋幹が帰国できなくなり、デュトワがコロナに感染して、演奏者も曲目も大幅に変更。ラヴェルは好きだが、ドビュッシーは好きでない私としては残念なことになった。

「弦楽のためのレクイエム」は、昔々、CDではなくレコードで聴いていた。久しぶりに聴いた。昔聴いたときには衝撃的だったが、今聴くと、正直言って、ちょっと退屈だった。モーツァルトの交響曲については、私はもっと素直にさらりと演奏してくれるほうが好きだ。井上の指揮はテンポを動かし、様々な楽器を強調するもので、入念と言えば入念。とても繊細ともいえるのだが、私にはちょっといじりすぎているように感じられた。

「牧神の午後へ前奏曲」は、実は私の苦手な曲だ。私は子どものころからがっしりと構成されたドイツ音楽になじんできたので、どうもこのような不定形な音楽は居心地が悪くなる。フルートをはじめ、金管楽器はきれいな音だとは思ったが、特に感慨はわかなかった。

「ペトルーシュカ」ついては井上の指揮に疑問を抱いた。井上のショスタコーヴィチの演奏は、もっとヌケの良い音で、鮮烈でメリハリがあり、ドラマが盛り上がる。だが、「ペトルーシュカ」を聴くと、音のヌケがあまりよくなく、音の透明感がなく、ドラマもあちこちで唐突な気がする。ただ、実をいうと私は「ペトルーシュカ」についても、あまりなじみがないので、もしかしたらこんな曲なのか、あるいはこれが井上の解釈なのかとも思う。

 私は音楽評論家ではないので、好きな曲だけを聴きに行く。ところが、今回は、曲目が変更されて、実は好きな曲が演奏されなかった。そんなわけで、残念ながらあまり楽しめなかったし、批評めいたことはまったく語る資格がない。運が悪かったと諦めることにしよう。

 実は次に行く予定のコンサートも、曲目が変更になり、私の目当ての曲が演奏されなくなった。この時期なので仕方がないとはいえ、割り切れない気持ちが残る。

 ところで、外国人入国停止ということは、外来演奏家たちも入国できないということになるのだろうか。手元にあるチケットのかなりが外国人の演奏家のかかわるものなのだが、また演奏者変更、曲目変更、あるいは公演中止になるのだろうか。またまた先が暗くなってしまった。

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東京二期会「こうもり」を楽しんだ

 

 20211127日、日生劇場で東京二期会公演、ヨハン・シュトラウスII世のオペレッタ「こうもり」をみた。歌の部分はドイツ語、台詞部分は日本語。オペレッタにはこのようなあり方が好ましいと私は思う。

 私はワーグナー好きなので、友人たちからは意外に思われるが、実は高校生のころ、カラヤン&フィルハーモニア管弦楽団のレコードを聴いて以来(ということはつまり55年くらい前から)、「こうもり」が大好き。一時期、ありったけのCDを買って聴き比べていたが、今でも公演があるとついみたくなる。同じアンドレアス・ホモキ演出の東京二期会公演を2017年にもみた記憶があるが、やはりまたみたくなった。

 指揮は川瀬賢太郎、オーケストラは東京交響楽団。2017年に観たときは阪哲朗指揮の東フィルだったと思うが、それよりもずっと躍動感があり、アンサンブルも美しかった。ただ、アデーレのアリアの部分などで、ほんの少し歌と合わないところがあるような気がしたが私の耳のせいだったか。

 第一幕の最初から、幕切れまでずっと同じ場所で演じられる。オルロフスキーはどうやらファルケが雇った役者らしいことがほのめかされる。最後、すべてが終わった後、最初の場面に戻るので、「すべては一夜の妄想だった」という設定なのかもしれない。かなりカットがあったようで、全体を二幕に改めた形になっている。が、特に違和感はなく、とても楽しめた。

 歌手に関しても全体的に高いレベルでそろっていた。アイゼンシュタインの又吉秀樹は声量もあり、歌いまわしもうまい。そして何より喜劇役者ぶりに脱帽。この人の姿かたちと動きをみていると、往年のフランスの映画俳優レイモン・コルディ(『自由を我等に』でルイを演じた俳優)にそっくりだと思う。本人は意識していないのだろうか??

 ファルケの宮本益光も知的な雰囲気をうまく演じて声も確か。フランクの斉木健詞もとてもいい。アルフレードの澤原行正は少し音程が怪しかった。

 女性歌手では、ロザリンデの幸田浩子は気品があり、声も美しい。アデーレの高橋維もきれいな声で、特に高音が見事。そして、オルロフスキーの郷家暁子はこの不思議な役をしっかりした声で見事に演じていた。

 日本人のオペラ歌手も演技がうまくなったことに改めて驚く。私がオペラを観始めたころ、すなわち1970年代の歌手たちの演技レベルは今から考えると学芸会レベルだったとつくづく思う。一つ間違うと下品になってしまうこのオペレッタを気品を保ちながら演じている。

 フロッシュを演じたのは森公美子。フロッシュという役を逸脱して森公美子としてのトークがアドリブ(?)でたくさん入った。テレビでよく知られている人なだけに、大いにウケていたが、私は「こうもり」を観に行ったのであって、森公美子ショーを観に行ったわけではなかったので、あまり愉快ではなかった。オペレッタなのだから堅いことは言いたくないが、やはりフロッシュの役からは逸脱してほしくない。逸脱すると、せっかく保ってきた大人の娯楽としての品位を落としてしまうと思う。

 とはいえ、今年はめでたく「こうもり」を味わうことができた。ありがたいことだ。

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メイエ&カルテット・アマービレ 2つのクラリネット五重奏曲

 20211125日、東京オペラシティ・コンサートホールで、ポール・メイエ&カルテット・アマービレのコンサートを聴いた。曲目は前半にモーツァルトのクラリネット五重奏曲、後半にブラームスのクラリネット五重奏曲。ともに私の大好きな曲。楽しみにして出かけた。

 モーツァルトが始まったとき、冒頭の柔らかい音に惹かれた。繊細に、しなやかに音楽を進めていく。メイエのクラリネットも実に高貴にして繊細。長調でありながらどこか物悲しい晩年のモーツァルト独特の美しいメロディが続く。うっとりして聴いたが、ただ聴き進めるうち、カルテット・アマービレがあまりに遠慮しすぎているようなのを感じた。メイエ先生が名人芸を披露し、ほかの若い生徒たちが先生の機嫌を損ねないようにおとなしく演奏する・・・とまでいうといいすぎだろうが、なんだかそんな雰囲気があった。クラリネットは素晴らしい。美しい音、モーツァルトの心の襞が聞き取れるかのよう。弦楽器もとても美しい。音程がいいし、アンサンブルも美しい。ただ、曲のせいかもしれないが、クラリネットばかりが目立っている。ちょっと前半の時点では、それが気になった。

 が、後半のブラームスになるとそのような雰囲気は感じなかった。カルテットも十分に豊かな表現を行い、メイエとがっぷり四つに組んだ感じだった。若いカルテット一人一人ではメイエに太刀打ちできないかもしれないが、四人が組めばメイエだって怖くない。素晴らしい演奏だと思った。

 私はブラームスのクラリネット五重奏曲の第2楽章が大好きだ。魂のいななきとでもいうか、そんなものを感じる。孤独な魂が一人ぽつんと野原に出て星空をみながら自分の人生を振り返る。亡くした人、失った愛、傷つけてしまった人を思い出す。そして、周囲に誰もいないのを確認して思い切り魂の哀しみを叫ぶ。魂が動物のように思い切りいななく。いななくクラリネットと抑制しつつそれを支える弦楽器。

 メイエのクラリネットはどこまでも高貴で、いななくといってもそこには気品がある。四台の弦楽器も高貴で美しい。だが、若い奏者の演奏の中にも、そのような人生の深みを感じ取ることができた。

 モーツァルトとブラームスのクラリネット五重増曲をこれほどの演奏で聴けて実に満足。日本の若い演奏家たちは実に頼もしい。

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新国立劇場「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ともあれ感動!

 20211124日、新国立劇場で「ニュルンベルクのマイスタージンガー」をみた。ザルツブルク・イースター音楽祭、ザクセン州立歌劇場の国際共同制作による。指揮は大野和士、演出はイェンス=ダニエル・ヘルツォーク

 演奏に関しては、私は大野和士の指揮に少々疑問を抱いた。とりわけ、第1幕への前奏曲があまりに重ったるい。その後も滑らかに音楽が流れない。第2幕はあまり緊張感がなくて、私は少々退屈してしまった。ワーグナーだというので無理やり重々しくしようとしているのではないかとさえ思った。とはいえ、第3幕になると、さすがに音楽が流れるようになってきた。初めからこのような感じだったら、私はもっと感動しただろう。

 歌手陣では、ハンス・ザックス役のトーマス・ヨハネス・マイヤーが圧倒的に素晴らしかった。この役にふさわしい自在な歌いっぷりで音程もいいし、声も通る。演技もこの役にふさわしい。ベックメッサーのアドリアン・エレートも芸達者ぶりを発揮している。もう少しワーグナー的な声も欲しいが、これはこれで押しも押されもしないベックメッサーだと思った。そして、エファの林正子も素晴らしい。第3幕の「トリスタンとイゾルデ」が引用される場面は感動的だった。発声が良いのだろう、音程が安定しているし、素直な音が伸びていく。素晴らしい歌手だと思う。

 ポーグナーのギド・イェンティンスはもう少し声の輝きがほしい。ヴァルターのシュテファン・フィンケはかなり声があまり美しくなく、いかにも苦しげだった。音程も不安定。マイスタージンガー太刀を歌ったのは、大沼徹、妻屋秀和、与那城敬、長谷川顯、村上公太、青山貴といった日本オペラ界を代表するそうそうたるメンバー。ダーヴィットの伊藤達人、マグダレーネの山下牧子も大健闘。三澤洋史の合唱指揮による合唱団もいつもながら素晴らしい。ただ、第3幕第4場の五重唱が美しいハーモニーを作り出さなかったのが残念。

 演出については、私としては今回もまた大いに疑問に思った。

 ワーグナーの台本では、確か中世の民衆がヴァルターに与えた冠を、エファがザックスにかぶせ、大喝采の中で楽劇は終わる。ところが、今回の演出では、基本的に舞台は現代であり、ザックスがヴァルターにマイスタージンガーを認めるように説得し、一応、ヴァルターはそれを受け入れたように見えるが、ダヴィデの肖像画(? ●注)をザックスがエファに渡そうとすると、エファはそれを打ち破って受け取ることを拒否する。ザックスが途方に暮れるところで幕が下りる。

 つまり、エファは、女性をモノのように扱い、規則を無理強いし、ドイツ万歳を叫ぶ過去を拒否したということだろう。そういう演出については私も納得する。この楽劇を現代において上演するとすれば、そのような演出も許容するべきだと思う。

 ただ、私が大いに気になったのは、あちこちで小芝居が行われていることだ。煩わしいことこの上ない。たとえば、第3幕第3場。1階ではザックスとベックメッサーがあれこれとやり取りをしている時、暗い2階で何やら小芝居が行われている。暗くてよく見えないので誰が何をしているのか私の席からはよくわからなかった。もしかしたら、ダーヴィット(もちろん、ダヴィデ王と同じ綴り!)がメイキャップをしてくれる女性に言い寄っていたのだろうか? 男性社会への揶揄なのか?

 それにしても、せっかくワーグナーが必死に作詞作曲した歌を歌手たちが必死に歌っているときに、それ以外のところに注意が向くような演出はいかがなものか。私には音楽に対する冒涜に思えるのだが。それにしても、現代の服を着たり、中世の服に着替えたりと、登場人物たちも忙しいことこの上ない。あれこれと意味ありげなパントマイムもたくさんある。パントマイムの読み取りを気にしないでもう少し音楽に集中したい。

 全体的に、私としては、指揮が滞り気味で、ヴァルターの声が苦しげで、しかも演出があれこれと煩わしいので、心の底からは感動できなかった。とはいえ、ワーグナーは素晴らしい。何はともあれ素晴らしい。ともあれ感動した。

 

  • 注 実は、この肖像画は誰なのか、私にはよくわからなかった。もしかしたら、登場人物のうちの誰か? あるいはワーグナー? それとも台本に出てくるダヴィデ王? ダヴィデ王という言葉が台本に出てくるのは、きっとキリスト教世界の詩作の王という意味なのだろう。

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オペラ映像「ジークフリート」「フィデリオ」

 新型コロナウイルスも、なぜか日本では鳴りを潜めている。不気味な状態だが、ともあれ社会生活は復活しつつある。そんな中、ともあれオペラ映像を時間を見つけてみている。感想を書く。

 

ワーグナー 「ジークフリート」 2012年 ソフィア国立歌劇場

 これまで、「ラインの黄金」「ワルキューレ」をみて、いずれもあまりレベルの高い上演ではなかったが、ついでだから最後までみようと思って、ソフィア国立歌劇場の「ジークフリート」BDを購入。やはり、かなり苦しい。

 歌手陣は健闘しているといえるだろう。しかし、やはりどの歌手も音程が怪しかったり、息苦しかったり、声が濁ったりで、聴き続けるのがつらくなる。

 ジークフリートのマルティン・イリエフ、ブリュンヒルデのバラスガラン・ダシニャム(顔に色を塗っているのでよくわからないが、たぶん、アジア系の女性だと思う)はともに、よいところはたくさんあるのだが、やはり西欧の一流の人たちと比べるとかなりの差がある。イリエフは発声が苦しいし、ダシニャムは低い音で音程が怪しくなる。その中では、ミーメのクラシミール・ディネフとアルベリヒのビセル・ゲオルギエフ、さすらい人のマルティン・ツォネフのほうが安定しているといえるかもしれない。だが、それでも感動して聴くほどには達しない。

 だが、私が何よりも気になるのは、パヴェル・バレフ指揮のソフィア国立歌劇場管弦楽団の精度の悪さだ。反応が鈍く、音が濁っている。音程もよくない。録音の仕方によるのかもしれないが、音がこもっている。

 聴き続けるのがつらくなって、ところどころとばしたことを告白しておく。

 

ベートーヴェン 「フィデリオ」2020年 英国ロイヤル・オペラ・ハウス

 NHKBSプレミアムの放送を録画して観た。

 まず、レオノーレを歌うリーゼ・ダヴィドセンのあまりの素晴らしい歌に圧倒された。もしかしたら歴代最高のレオノーレではあるまいか。フラグスタートやニルソンやルートヴィヒやジェシー・ノーマンなど伝説のレオノーレ歌いよりも伸びのある美しくて強い声。容姿的にも美しくありながらも十分に男性に見える。第二幕に登場するヨナス・カウフマン(決して、背の低い人ではない!)よりも背が高い! このフィデリオにぴったり。

 マルツェリーネのアマンダ・フォーサイスも潤いのある美しい声。これも素晴らしい。ロッコのゲオルク・ツェッペンフェルトももちろん最高に見事。ワーグナーやベートーヴェンのバスの役はこの人に匹敵する人は今のオペラ界にはいないと断言できる。そして、第二幕に登場するカウフマンの最初の声の凄さときたら! 最初の一声で誰もが虜になってしまう力を持っている。この四人に関しては、レコード、CD、映像、実演を問わず、これほどそろったものに接した記憶がない。

 指揮はパッパーノ。この指揮については好悪がわかれるだろう。パッパーノらしい明快でメリハリのしっかりした指揮。ただ、ここまで明快にする必要があるのだろうかという疑問を感じないでもない。もっと陰影や曖昧さや幽玄さのようなものがあってもいいのではないかと思えてしまう。とはいえ、ドラマの世界にぐいぐいと引き込まれる。

 何よりも驚いてしまうのが、トビアス・クラッツァーの演出だ。第一幕はフランス革命後のテロリズムの時代らしい。革命を主導した人たちもすぐに反革命の烙印を押されて告発されている状況が描かれる。つまり、どうやらピツァロも革命を推進した一人なのだが、いつのまにか抑圧する側になってしまっているということのようだ。だが、そこまではよしとしよう。問題はその後だ。歌の入らないセリフ部分は原作に基づかず、新たに作り替えられているが、そのような部分で、なんとマルツェリーネがすでにレオノーレが女性であることに気づく場面が挿入される!

 そして、第二幕に進む。突然、舞台の状況が変わる。フロレスタンのいる牢獄は舞台前方に置かれた黒い堆積物の上に設定され、現代の服を着た人々がその堆積物の周囲に椅子を置いて取り巻いている。それらの人々は面白がって苦しむフロレスタンをみているようだ。暴逆を傍観する現代人を揶揄しているのだろうか。レオノーレのフロレスタン救出が進んでいくにつれて、どうやら傍観者たちはことの深刻さに気付いて狼狽し始める。そして、ピツァロがフロレスタンを殺そうとし、レオノーレが助けに入る。しかし、レオノーレは助けられずに抵抗する。そこにやってきたのが、革命戦士の格好をしたマルツェリーネ。そして、マルチェリーネが銃でピツァロを撃つ! 革命の担い手となる階層に属し、レオノーレに同情したマルツェリーネがフロレスタンの解放を手伝ったということか。

 そこでようやくピツァロは敗北し、本来のあるべき自由を求めるフロレスタンとレオノーレ、そしてドン・フェルナンドたちが勝利し、それまで傍観していた人たちはそこでようやく力を得て、自由を高らかに叫ぶ。

 まあ要するに、現代の世論は今も行われている暴虐を傍観的に眺めるだけで何もできない、実際に世界を変えるのは虐げられた階層にいる人たちである、世論は決着がついた後で正義を叫ぶ・・・そのようなメッセージなのだろうか。

 私の解釈が正しいかどうかはわからない。だが、たとえこれが正しいとしても、私は納得できない。私はベートーヴェンのオペラの中にこのような要素があるとは思わない。これはクラッツァーの現代社会へのメッセージでしかない。ベートーヴェンの中にないものを、セリフを変えて無理やり押し込むのを、私は「演出」とは思わない。そう言いたければ、演出という形をとらずに、ほかの場所でもっとわかりやすく語ればいいことだ。

 というわけで、私はこの上演の演奏については素晴らしいと思う。とりわけ歌手陣に関しては伝説の歌手たちを超えていると思う。だが、演出については承服しがたい。

 私は引っ込み思案でおとなしい人間なので、実際にブーイングするようなことはないが、もし私が現場にいたら、ブーイングしたい気持ちになっただろうと思う。

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ファウストのバッハ無伴奏ヴァイオリン全曲演奏の2日目 自然体のシャコンヌ

 2021年11月18日、東京オペラシティ・コンサートホールでイザベル・ファウストのバッハ無伴奏ヴァイオリン全曲演奏の2日目を聴いた。曲目はパルティータ第3番、ソナタ第2番、パルティータ第2番。

 昨日は初めのころ、少し指がもつれる感じがあったが、今日はまったくそのようなことはなかった。しなやかで一つ一つの音がくっきりして知的な音で世界を作っていく。肩の力の入らない自由で澄み切った演奏だといってよいだろう。だが、いわゆる「草書体」の演奏ではない。形は崩れず、むしろ行儀が良い音楽だと思うのだが、気品があり、精神の自由があるので、のびやかに聞こえる。

 やはり「シャコンヌ」は素晴らしかった。これこそまさに肩の力の抜けたシャコンヌ。力まず、がなり立てず、しゃかりきにならない自然体のシャコンヌ。だが、自然体で少しも音を引き伸ばしたりアクセントをつけたり、気合を入れたりず、大きな音を出したりしないのに、スケールの大きな世界が広がる。こっそりいうと、私としてはもうちょっとだけ思い入れをこめて踏ん張ってほしかったのだが、そうしないでこれだけの世界を作れるところが今のファウストなのだろう。

 アンコールはソナタ第1番のシシリアーナかな? (書き忘れていたが、昨日のアンコールは、確かソナタ第2番のアンダンテだった)。壮大なシャコンヌの後にこのような曲を聴かせてくれて心が落ち着く。

 バッハの無伴奏曲はその時々の演奏家の心を聴かせてもらえる気がする。また近いうちにファウストのバッハ無伴奏曲を聴きたいものだ。

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ファウスト バッハ無伴奏全曲演奏初日 無限の中の自由な精神の広がり

 20211117日、東京オペラシティ・コンサートホールでイザベル・ファウストのバッハ、無伴奏ヴァイオリン・ソナタ・パルティータ全曲演奏の初日を聴いた。曲目はソナタ第1番とパルティータ第1番、そしてソナタ第3番。ストラディバリのバロックボウを使っての演奏だという。3曲が休憩なしで演奏された。

 初めのうちは、かすかだが、指がもつれる感じがあった。そのせいで音楽が縮こまって、少し停滞気味だったと思う。ファウストほどの人でもこのようなことがあるということだろう。だが、ソナタ第1番の第3楽章あたりから本領発揮。

 あえて音楽を小さく作っているように思えた。もっとスケール大きく弾くことができるだろうに、そうしない。音の色彩感を重視して繊細に弾く。大きな音を出すわけではない。音を大きく伸ばしたりもしない。どこかを強調したりもしない。むしろ、小刻みに音を作り出し、静かな音色を重ねていく。音はどこまでも美しく、しっかりしたテクニックに支えられて、まったく音が濁らない。がむしゃら音楽ではなく、解放された精神をもって自由に遊んでいる雰囲気がある。そうして作られてゆく音楽は決してスケールが小さくはない。むしろ必然的にスケールが大きくなり、夢幻の宇宙に広がっていく。まさしく無限の中の自由な精神の広がりになる。

 とても感動したのだったが、実をいうと、私はもっと感動するつもりで出かけたのだった。爆発的な感動は覚えなかった。以前きいたファウストの無伴奏バッハはもっとすごかった気がする。本日も残りの曲が演奏される。本日はもっと感動させてもらえるに違いない。

  なお、昨日のうちにこの投稿もアップしたかったが、ココログのメンテナンス中とのことで遅くなった。

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