波多野睦美「終わりなき歌」 イギリス的なブラームスとショーソンだった

 20201127日、王子ホールで波多野睦美 歌曲の変容シリーズ第14回を聴いた。「終わりなき歌~カルテットとの声の戯れ」とのタイトルのもと、波多野と弦楽四重奏の共演による演奏が中心だった。波多野睦美のメゾソプラノのほか、滝千春(ヴァイオリン)、直江智沙子(ヴァイオリン)、大島亮(ヴィオラ)、門脇大樹(チェロ)、草冬香(ピアノ)。

 相変わらずの波多野の美声。ヴィブラートのほとんどない澄んだ声で、自然にのびのびと歌う。英語の発音が美しく、言葉が聞き取りやすい。詩を大事にしていることがよくわかる。知的な歌いまわし。波多野のトークが入るが、知性の豊かさがひしひしと感じられる。

 曲目は、最初にブラームス(ライマン編曲)の歌曲集「オフィーリアの5つの歌」を英語で歌われた。ブラームスのこの曲は何度か聴いたことがあるはずだが、弦楽四重奏伴奏によって英語で歌われると、まったくブラームスという感じがしない。

 そのほか、ヴォーン=ウィリアムズ歌曲集「ウェンロックの断崖で」やフィンジ作曲の歌曲集「小道や柵の脇を」、ガーニー作曲の歌曲集「ラドロウとテイム」から数曲ずつ、いずれも英国の歌。そのほかにヒンデミット「9つのイギリスの歌」。

 また、ブラームスの弦楽四重奏曲2番の第1楽章とヒンデミットのヴィオラ・ソナタの終楽章も演奏された。最後にショーソンの「終わりなき歌」。

 もちろん、悪くない。いや、素晴らしいといってよいだろう。だが、私は、ドイツ臭くないブラームスにちょっとびっくり。波多野さんの「オフィーリアの5つの歌」も、弦楽四重奏曲も、あっけらかんとしており、弦楽四重奏曲に至っては、甘美で流動的。私の好むブラームスのがっしりした構築性が極めて希薄。きれいな若い女性たちが楽しそうにブラームスを弾いている感じ。ブラームス特有の暗さや重さもあまりなく、少しイージーリスニングっぽい。

 最後のショーソンも、フランスっぽさをあまり感じない。ショーソン特有の、やるせなく、憧れと諦めとため息にあふれたフランス的退廃が感じられない。かなり健康的なショーソンになっている。もしかしたら、イギリス的といえるのかもしれない。ドイツ的な深みもフランス的な濃厚な香りもなく、平明で率直。これはこれでとてもいいのだが、私の好きなブラームスやショーソンではない。

 そんなわけで、やっぱり波多野さんはイギリスの音楽を得意とする人であって、少なくとも私好みのドイツ、フランスの音楽を演奏してくれる人ではなさそうなことに気づいた。

 繰り返すが、これはこれで見事な演奏だと思う。ただ私のこれまで好んできた音楽の作りとはかなり異なっていたのだった。

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「フランス・バロック・オペラの栄華」 良い演奏だったが、私は素養不足だった

 20201122日、北とぴあさくらホールで「フランス・バロック・オペラの栄華」を聴いた。オペラ「アルミード」上演予定だったところ、新型コロナウイルスのために、オペラ上演は来年に回して、今年はこのような形になった。指揮は寺神戸亮。オーケストラは特別編成のアンサンブル・レ・ボレアード。歌は波多野睦美(メゾソプラノ)、中島克彦(テノール)、山本悠尋(バリトン)。松本更紗のダンスも加わった。

 曲目は、リュリの「アティス」「町人貴族」「アルミード」を中心に、マルカントワーヌ・シャルパンティエやカンプラ、クープランと盛りだくさん。バロック・オペラにしばしば現れる「異国趣味」「眠り」「悲劇」「愛」などに焦点を当てて、ナビゲーターの朝倉聡さんと寺神戸さんの解説によってオペラを抜粋して演奏するという趣向。わかりやすく、面白く解説してくれた。

 歌手の中では、私は特に中島に強く惹かれた。伸びのある美声でフランス語の発音も美しい。しかも自然に歌う。波多野も素晴らしく美しい透明な声。エマ・カークビーの歌声を思わせる。ほれぼれするほど。ただ、あまりフランス語らしく聞こえないところもあった。山本は少し不調だったのか低音があまり出ていないように思えた。

 オーケストラに関しては見事というしかない。日本の古楽のレベルに改めて驚く。縦の線もしっかりと合い、音程もよく、バロックの情感にあふれている。松本のダンスも素晴らしかった。もちろん、私にはダンスのことはまったくわからないが、しなやかで音楽的な動きに魅了された。

 ただ、感動したかといわれると、残念ながら、そうではなかった。私の個人的趣味によるのだと思うが、「やっぱりモーツァルト以降のオペラのほうがおもしろいな」と思ってしまう。バロック・オペラもきっと面白いだろうと思って足を運んだのだったが、素養のない私にはどれも同じように聞こえる。

 とてもいい演奏だと思いながら、私がバロック・オペラを楽しむには10年早かった!と思ったのだった(ただし、10年後の私は耳が遠くなって、もう音楽を聴いていられないかもしれない)。もう少し修行してから、バロック・オペラをみることにしよう。

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尾高+新日フィルの「スコットランド」 しなやかで高貴

 2020年11月21日、すみだトリフォニーホールで新日本フィルハーモニー交響楽団の演奏を聴いた。指揮は尾高忠明。曲目は、前半にメンデルスゾーンの序曲「静かな海と楽しい航海」と、成田達輝(ヴァイオリン)、東条慧(ヴィオラ)が加わってのモーツァルトの協奏交響曲、後半にメンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」。とてもいい演奏だった。

 尾高らしい、ピタリと腰の座った繊細でしなやかな音。ドタバタしたところがなく、ぐいぐいと音楽の本質に迫っていく。新日フィルもそれにぴたりとついて精妙な音をだす。

 協奏交響曲の成田と東条も、まるでふだんから二人でコンビを組んでいるかのようにぴたりと息が合ってみごと。オーケストラとも音色がマッチして、滋味あふれる音楽になっていた。成田と東条二人とも素晴らしい演奏家だと思った。

 二人のアンコールはとてもおもしろい曲だった。フックス「ヴァイオリンとヴィオラのための作品 OP60のワルツだという。楽しめた。

「スコットランド」も素晴らしかった。メンデルスゾーンらしいきびきびとして高貴な音楽のなかに人生の悲哀が混じる。私は第2楽章のしなやかな躍動感が大好きなのだが、尾高の指揮によってその躍動感を存分に味わうことができた。ただ、もしかしたら私の集中力に問題があるのかもしれないが、第3楽章あたりで私はしばらくの間、音楽の行方を見失った。構築性が弱まったのではないかと思う。だが、最終楽章は再び大きく躍動し、生気にあふれた音楽になった。

 私はこの曲を聴くと、しなやかで品性の高い音楽性に心打たれる。本当に素晴らしい音楽だ。マエストロ尾高にぴったりの曲だと思った。

 マエストロのコロナ禍の中でも音楽を盛り上げたいという思いを語るちょっとした挨拶があって、アンコールはモーツァルトの若書きのディベルティメント(K137より)らしい。オーケストラの生きもあって素晴らしい演奏だった。

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ヴェルディのオペラ映像「椿姫」「シチリア島の夕べの祈り」「仮面舞踏会」

 本日の東京都の新型コロナウイルス感染者は初めて500人を超えて、534人だという。これからもっと感染者が増えるのだろうか。昨年の夏に北京に行って以来、どこも旅行していないので、せめて関西か小笠原諸島にでも行こうかと考えていたが、これではためらってしまう。仕事の打ち合わせもなるべく減らす必要がありそうだ。

 ヴェルディのオペラ映像を3本みたので簡単な感想を書く。

 

ヴェルディ 「椿姫」 2014年 グラインドボーン音楽祭

 みたことがないつもりで安売りBDを購入したが、見覚えがある。NHK・BSで放送されたもののようだ。

 何はともあれ、ヴィオレッタを歌うヴェネラ・ギマディエワが素晴らしい。声が美しいし、歌の演技も見事、容姿も見事。まさにヴィオレッタが目の前にいるように感じる。それに比べると、アルフレードのマイケル・ファビアーノ、ジョルジョ・ジェルモンのタシス・クリストヤンニスは影が薄くなってしまう。

 マーク・エルダーの指揮するロンドン・フィルはさすがというべきか、情感豊かで心にしみるが、もちろんセンチメンタルにはならない。演出はトム・ケアンズ。登場人物のほぼ全員が現代の服をきちんと着こなしており、まさしく物事が機能的に動く現代の劇として展開される。ただヴィオレッタだけがやけになまめかしい。私は疎いので専門用語がわからないが、下着に見えるような服を着ている。これは単に男性ファンへのサービスということではなく、ヴィオレッタと堅気の人との差を際立たせているのだろう。

 

ヴェルディ 「シチリア島の夕べの祈り」2010年 アムステルダム音楽劇場

 とてもレベルの高い上演だと思う。歌手陣は充実している。とりわけ、エレーヌを歌ったバーバラ・ハーヴェマンに私は惹かれた。初めて聴く歌手だと思うが、フランス語の発音も美しく、知的な歌いまわしと容姿はとても魅力的だ。モンフォールを歌うアレヤンドロ・マルコ=ブールメスターも父親の優しさを持つ権力者の役割を見事に歌っている。声が美しい。アンリのブルクハルト・フリッツは体形と風貌から、二枚目というよりも、ちょっと浮世離れしたとぼけた人物像になっているが、それはそれで説得力がある。

 ただプロシダ役のバリント・サボが、見かけは大変立派なのだが、フランス語と言えないようなフランス語で歌いまくるので、私としては大いに気になる。ほかの歌手たちは全員しっかりとしたフランス語を歌っているのだから、だれか一言注意してやればいいのにと思うのだが、大人の事情があってそれができないのだろう。

 演出はおなじみのクリストフ・ロイ。このオペラは13世紀の実話に基づくが、全員が現代(あるいは1960年代?)の服を着ている。フランス・グランド・オペラの形式をとっているので、第3幕で長いバレエの場面が続くが、そこでは幼馴染だったアンリとエレーヌとニネッタの子どもの頃の家庭的な様子が再現される。歴史的な事件としてではなく、現代にも起こる文化衝突の事件として描いている。

 パオロ・カリニャーニの指揮によるオランダ・フィルハーモニー管弦楽団は悪くはないと思うのだが、あと少しの勢いが感じられない。とはいえ、全体的にはとても見事な上演だと思う。

 

ヴェルディ 「仮面舞踏会」2008年 マドリード王立劇場

 外見的にはいろいろと注文をつけたくなるが、マルセロ・アルバレスのリカルドとヴィオレータ・ウルマーナのアメーリアの歌を聴くと、「千両役者!!」と叫ぶしかない。とりわけ、アルバレスの歌は観客を引きつける力を持っている。

 レナートのマルコ・ヴラトーニャもウルリカのエレーナ・ザレンバもとてもいい。とてもしっかりした歌と演技。マリオ・マルトーネの演出ではレナートが最初から悪役然とした扮装で登場するが、このような演出は多いのだろうか。このオペラにそれほど詳しくない私はよく知らない。私としては、もっと律儀な人間が妻を奪われたと誤解して復讐にかられるほうが説得力があるような気がするのだが。

 ヘスス・ロペス・コボスの指揮は、これぞヴェルディといった感じでこのうえなくドラマティックでメリハリが強いのだが、私としては、これほど引き締まっていると、むしろ違和感を覚える。

 とはいえ、ヴェルディのオペラの魅力、そして二人の歌手の声の威力を十分に堪能できた。

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鈴木優人+日フィル 「新世界より」を聴いて懐かしくなった

 20201115日、江戸川区総合文化センターで「フレッシュ名曲コンサート 〜楽しいオーケストラ!」を聴いた。このホールを訪れたのは初めてだった。

 日本フィルハーモニー交響楽団を指揮するのは鈴木優人。曲目は、最初にメンデルスゾーンの「夏の夜の夢」序曲、次に23歳の若きピアニスト原田莉奈が加わってベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番。後半に、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」。

 メンデルスゾーンの若書きの曲と若いピアニストによる「フレッシュ」コンサートなのだろう。また、ふだんクラシック音楽を聴きなれない「フレッシュ」な人に向けてのコンサートという意味も含まれているのかもしれない。曲の間に、鈴木さん、そして原田さんが加わっての初心者向けのトークもはさまれた。

「夏の夜の夢」が始まった時点では、オーケストラの粗さが気になった。正直言って、「初心者向けということで、手を抜いているのかな?」と疑いを持った。だが、ベートーヴェンが始まったあたりから、音がしっかりと整ってきた。

 原田莉奈のピアノは、清楚で高貴で音の粒立ちが美しかった。本人が語っていた通り、初めのうちは緊張が見えて、硬さが感じられたが、すぐにのびやかになっていった。感じの良いお嬢さんという感じなのでやむを得ないと思うが、まだ遠慮がちで自己主張が弱いのが残念。とはいえ、とても楽しみなピアニストであることは間違いないと思う。応援したい気持ちになった。

 後半の「新世界より」は、さすがというべきか、素晴らしい演奏だった。どこかを強調したり、テンポを動かしたりといったことはしない、正攻法の演奏だが、ここぞというところで音が決まり、よどみなく音楽が流れ、ロマンティックに高揚していく。もともとこの曲は緊密に構成され、見事に統一が取れているが、ややもするとわざとらしくなってしまう。ところが、鈴木の手にかかると、音楽がおのずと統一あるものになっていく。そんな印象を受けた。終楽章では何度か感動を覚えた。アンコールはスラヴ舞曲集の一曲。これもよい演奏だった。

 よく、「音楽を聴くと、それを聴いたころの光景や気持ちを思い出す。音楽は記憶と結びついている」という人がいる。だが、きっとそれはクラシック音楽以外の音楽のことを語っているのだろうと思う。クラシック音楽を繰り返し聴き続けている人間は基本的にそのような思いを抱いていないだろうと思う。私も、音楽を聴いて、それを聴いたころの記憶がよみがえるといったことはほとんどない。

 だが、数少ない例外がある。それが私にとって「新世界より」だ。なぜかこの曲を聴くと、盛んにこの曲を聴いていた中学生の頃(50年以上前のことだ!)を思い出す。大分市の丘の上の墓地の隣にある家で、カレル・アンチェル指揮、チェコフィルによるこの曲のレコード(17センチ盤だったような気がするのだが、そんなはずないか?)を繰り返し聴いていた。生意気で傲慢なくせに気が弱くて引っ込み思案な子どもだった。社会に対してあれこれの思いを抱きながら、親に買ってもらったステレオでこの曲をかけていた。このレコードをかけている最中に地震が起こって針が飛び、レコードに傷がついたのではないかと心配したこと、同時期に音楽好きになった友人のF君から別の指揮者(ケルテスだったと思う)の演奏するレコードを借り、私の持っているレコードよりも評価が高いと知って悔しい思いをしたことなどを思い出した。当時、この曲は「交響曲第5番」という表記になっていた。

 この曲はやはり「郷愁」をかきたてる力を持っているのだろうか。何やら懐かしい気持ちになって会場を出た。

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ウェールズ弦楽四重奏団 あまりに内向的なベートーヴェン

 20201114日、第一生命ホールでウェールズ弦楽四重奏団のベートーヴェン・チクルスⅢをきいた。曲目は前半にベートーヴェンの弦楽四重奏曲第4番と第10番「ハープ」、後半に第7番(ラズモフスキー第1番)。残念ながら、私は退屈した。

 第4番が始まったとき、あえて小さく音楽を作り、精妙に、繊細に演奏するやり方にとても興味を持った。そのうち音楽が大きくなるのだろうと思った。だが、そのまま、第10番になっても、後半の第7番になっても同じ。どの楽章も、静かに精妙に繊細に演奏する。3曲を通して、私の感覚ではもっとも大きな音でもせいぜいメゾフォルテ程度。ほとんどの部分がピアニシモかピアノで演奏される。四人が息を合わせ、静かに、繊細に、小さな小さな音を大事にして音楽を進めていく。ベートーヴェンの繊細な心の奥をそって描くかのように。その意味では息が合っているし、技術が高い。

 しかし、これがベートーヴェンの音楽だろうか。こんな、当たり障りのない、こんなか弱い内向的で神経質な音楽がベートーヴェンなのだろうか。私も、このようなあえて小さく作る室内楽が世界でもしばしば演奏されていることは知っている。だが、その場合には、もっと流動があり躍動があるはずだ。小動物が駆け巡り生命を謳歌するような音楽になっているはずだ。だが、今回の音楽は徹底的に繊細でスケールが小さい。躍動はなく、うちに閉じこもる。内向的で、神経質。しかも、3曲すべて同じようなアプローチ。おおらかでスケールの大きい第7番までも同じように演奏される。

 もちろん、演奏者たちはあえてこのような解釈をぶつけているのだろう。だが、私には承服しがたい。これではまるでかのベートーヴェンは、巣の中の閉じこもってびくびくする臆病でか細いウサギにでもなったようではないか。

 とても期待して出かけてコンサートだったが、期待外れだった。

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オペラ映像「ルクレシアの凌辱「ドン・キショット」「ニシダの天使」

 一昨日から部屋の片づけをしていた。かつての仕事の跡がたくさん出てきた。フランス文学にこだわっていたころの様々な資料、小論文の資料、授業準備のノートなどなど。そしてまた捨てるに忍びなくて残していたオペラや映画のVHSのテープ、大量の本。自分ではかなり怠け者だと思っていたが、思えばずいぶんと仕事をし、ずいぶんと趣味に力を注いできたものだ。ちょっと感慨にふけったが、思い切ってかなりを捨てた。

 そんな中、何本かオペラ映像をみたので簡単な感想を記す。

 

ブリテン 「ルクレシアの陵辱」2015年 グラインドボーン歌劇場

 先日、2001年のオールドバラ音楽祭のこのオペラの映像をみて大いに感激したのだったが、今回みたグラインドボーン音楽祭の映像はそれに勝るとも劣らない。オールドバラ音楽祭を詳細に覚えているわけではないので、違いを細かく指摘することはできないのだが、今回はレオ・フセインの指揮の強烈さにまず驚いた。こけおどしではなく、本質的に恐怖を感じさせる。サスペンスにあふれているというか。不吉なことが起こりそうな予感が最初から濃厚に漂っている。

 歌手陣はみんなが実に素晴らしい。最初に登場するコロスの二人(アラン・クレイトンとケイト・ロイヤル)の存在感が大きい。客観的な語り手としてではなく、ルクレシアに共感する観客の視線で舞台にかかわり、ドラマティックに語る。ルクレシアのクリスティーネ・ライスは色気のある美しい声。タキニアスのダンカン・ロック欲情を抑えきれなくなった乱暴な権力者を見事に歌う。コラティナスのマシュー・ローズもしっかりした声、ジュニアスのマイケル・サムエルも堂々たる歌。

 演出はフィオナ・ショー。男たちも、そしてルクレシアも泥(石炭礫?)に汚れながら舞台上を動く。清純でいられない人間の性とでもいうか。あまりに無残。そして、人間の本質を見せてくれる。

 私の大好きな「サロメ」「エレクトラ」「ヴォツェック」「イェヌーファ」と同じような凄味のあるオペラだと思う。

 

マスネ 「ドン・キショット」2019年 ブレゲンツ、祝祭劇場

 ブレゲンツ音楽祭での公演。演出はマリアム・クレマン。「男たるもの、人の役に立つべきだ」といったメッセージを伝えるテレビCMのような映像が映し出され、客席の一人がそれに大声でクレームをつけて席を離れ、劇に導くという凝ったオープニング。だが、わざわざそのようにする意味が私にはよくわからない。

 ドン・キショットが老人として登場するのは第1幕だけで、ほかは現代の若者として登場。しかも、第2幕、第3幕、第4幕でそれぞれ役柄が異なる。第3幕ではスパイダーマン、第4幕ではスーパーマン=クラーク・ケントの格好で現れる。どうやら、一人の老いた過去のドン・キショットが主人公ではなく、正義のために崇高に戦う何人もの現代人が主人公ということのようだ。別の服装、別の髪形でドン・キショットやサンショやデュルシネが現れるので、観客としては初めのうちはそれが誰なのかわからずに戸惑う。世界の各地で正義のために戦っている人への応援メッセージとしてのオペラになっているということだろう。

 ただそうすると、ドン・キホーテの晩年を描くこのオペラのテーマから大きく離れるし、とりわけ第5幕での老年のドン・キショットの自分の人生を振り返っての感慨が宙に浮いてしまい、このオペラの最も感動的な部分を切り捨ててしまうことになる。このオペラから、老いた老人の物語という点を除いてしまったら、最大の魅力がなくなってしまう。

 歌手陣は充実している。とはいえ、ドン・キショットのガボール・ブレッツは時々声のコントロールがうまくいかず、フランス語の発音もかなり粗い。デュルシネのアンナ・ゴリャチョーワはきれいな声だが、発音が不明瞭なのが気になる。サンショのデイヴィッド・スタウトがもっとも安心して聴けた。ダニエル・コーエンの指揮するウィーン交響楽団に特に文句はないが、心惹かれることもなかった。

 

ドニゼッティ 「ニシダの天使」2019年 ベルガモ、ドニゼッティ劇場(ドニゼッティ・オペラ・フェスティバル2019) 

 ドニゼッティはこの「ニシダの天使」から多くの部分を転用して、「ラ・ファヴォリータ」を作ったという。「フィデリオ」における「レオノーレ」のような意味を持つのが、この「ニシダの天使」らしい。

 残念ながら、私は「ラ・ファヴォリータ」の実演をみたことがないし、映像も一、二度しかみていない。よって、確かに「ニシダの天使」をみて既視感は覚えるのだが、どこがどのように似ていて、どう違うのは全く把握できない。

 レオーヌは愛した女性シルヴィアが王の愛人だったと知り、絶望して修道院に行くが、そこを訪れたシルヴィアと愛を交わすが、すぐにしリヴィアはこと切れる。一言でいえばそのようなストーリーだ。なかなかおもしろいし、ともかくわかりやすいのはありがたい。

 演奏的にはトップレベルというわけではない。王を歌うフロリアン・センペイとレオーヌのコヌ・キム(多分、韓国人、あるいは韓国系の歌手。韓国人歌手の活躍はすさまじい!)とシルヴィアのリディア・フリドマンの3人はこなれた声で見事に歌うが、群を抜くほどではない。ドン・ガスパールのロベルト・ロレンツィと僧侶のフェデリコ・ベネッティは少々苦しい。ジャン=リュック・タンゴー指揮のドニゼッティ歌劇場管弦楽団は少し音が重い。フランチェスコ・ミケーリの演出はほとんど舞台装置や大胴部のない円形の舞台の動きだけで展開される。十分に予算を使えないためかも、知れないが、少々単調。

 最高の舞台というわけではないが、十分に楽しめる。ドニゼッティ・ファン垂涎のソフトといったところだろうが、ドニゼッティでなじんでいるのは「ルチア」と「愛の妙薬」と「ドン・パスクワーレ」くらいの私としては、なかなか楽しめたといったところだ。

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ブリテン作曲のオペラ映像「ヴェニスに死す」「ビリー・バッド」「オーウェン・ウィングレイヴ」

 アメリカ大統領選挙が行われ、バイデン候補が当選確実になって、私としては、人類の未来のために胸をなでおろしている。その間、ブリテンのオペラ映像を数本みた。まだまだ私はブリテン入門者。よくわからないまま、ただぼんやりみることしかできない。が、これを重ねるうちに、深くみることができるようになるだろう。簡単な感想を書く。

 

「ヴェニスに死す」2014年 マドリード王立歌劇場

 先日、イングリッシュ・ナショナル・オペラの上演映像(ジョン・グラハム=ハールがアッシェンバッハを歌っている)によってこのオペラを初めてみて衝撃を受けたのだったが、それに劣らぬ名演だと思う。ただ、今回は二度目のためか、衝撃を受けるまでには至らなかった。

 アッシェンバッハ役のジョン・ダスザック。グラハム=ハールよりも声の威力があり、少しワーグナー的な歌唱になる。実に素晴らしい。ウィリー・デッカーの演出意図によると思うが、ゴンドラの船頭やホテルの支配人、理髪師などを歌うリー・メルローズは見事な演技だが、男色的な不気味さを強調しているのが私には少々やりすぎに思える。主人公が異界に入り込んだことを強調したいのかもしれないが、まるでサーカスの世界のように戯画化する必要はないではないか。アレホ・ペレスの指揮。私にまったく不満はない。

 

「ヴェニスに死す」1990年(グラインドボーン音楽祭でのプロダクションに基づいて、BBCテレビ放送用に収録された映像ソフト)

 30年前の映像なので、画質・音質ともにあまりよくない。英語も含めて字幕は一切ない。しかも、我が家の装置のせいか、私に機械を調整する能力がないせいか、実際よりもみんなが太目に映っているような気がする。だが、アッシェンバッハを歌う往年の名歌手ロバート・ティアーを見られるのはうれしい。さすがの歌唱。声に伸びがある。旅人やホテルの支配人、理髪師を歌うアラン・オピーも見事。ドラマとしての盛り上がりも十分。グレイム・ジェンキンスの指揮によるロンドン・シンフォニエッタも特に不満はない。演出はちょっとちゃちだが、ドラマを味わうのに不足はない。最近みたほかの二つの映像に決して劣らない感動を与えてもらった。

 

「ビリー・バッド」 2017年 マドリード王立歌劇場

 先日、グラインドボーン音楽祭の2010年の公演DVD(マーク・エルダー指揮、マイケル・グランデージ演出)を見たが、それに劣らぬ迫力だった。ビリーを歌うのは、グラインドボーンのものと同じジャック・インブライロ。まさに当たり役といっていいだろう。善良で楽天的な若者を見事に演じている。ヴィア艦長のトビー・スペンスはためらう良心を感じさせてなかなかいい。クラガードのブラインドリー・シェラットは陰険な雰囲気をうまく出している。

 指揮はアイヴァー・ボルトン。グラインドボーンのエルダーもよいと思ったが、ボルトンもドラマティックに盛り上げてとてもいい。デボラ・ワーナーの演出も、全員が男の子のオペラの男くささを前面に出して成功している。ただ、グラインドボーンほどには、善と知性と悪という三人の主要人物の構図を明確にしていない。そのため、テーマが少しぼやける気がした。ただ、乗組員たちに扮する合唱団の疲れと怒りと鬱積はとてもよく表れていると思った。

 

「オーウェン・ウィングレイヴ」 Channel Four Television 2001

 このオペラの存在自体知らなかった。HMVオンラインを検索してDVDを知って入手。テレビ用に作られたオペラ映画。

 英国将軍の家に生まれ、軍人になることを運命づけられ、しかも最後の男子として家族全員の期待を担っていたオーウェン・ウィングレイヴが、士官になるための勉強をするうち、戦争は犯罪だという認識を持つにいたり、軍人になることを拒否する。その意思を表明したとたん、オーウェンは家族のみんなから、そして恋人のケートからも排斥され、攻撃される。そして、ついには、オーウェンはこの家にまつわる伝説の部屋で家の掟によって死に追いやられる。まあ、まとめていえばそんなストーリーだ。

 ブリテンが反戦思想の持ち主だったことは有名だが、まさにこれは真正面から反戦思想を扱ったオペラだ。1970年に作られたオペラだというが、この時代、ベトナム戦争下のアメリカの状況もあって、やっと反戦を口にできるようになった時代であったが、同時にまだまだそれを口にすると総攻撃を受ける時代でもあったのだろう。ブリテン特有の切羽詰まったリアリティによって人々の激しい非難と理解されないオーウェンの苦悩が描かれる。みる者はオーウェンの苦悩の中に投げ込まれ、オーウェンと一緒になって周囲の無理解に苦しむことになる。なかなかに説得力のあるオペラだ。ただ、「ねじの回転」と同じように幽霊が登場するが、この映像ではその説得力には疑問を持つ。

 オーウェンを歌うのはジェラルド・フィンリー。さすがにフィンリーだけあって、美しい声で折り目正しく誠実な人間を好演している。そのほかの歌手たちもいずれも見事な声と演技。英国で演じられたオペラをみると、歌手たちの演技が圧倒的なのを感じる。このオペラ映画も、高圧的な祖父や叔母が見事に演じられて、映画としても見ごたえがある。

 ケント・ナガノの指揮によるベルリン・ドイツ交響楽団の演奏もみごと。折り目正しく、悲劇が展開される。映像も美しく、美しい情景の中に登場人物の心理を巧みに描いている。完成度の高い映像だと思う。

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高橋悠治作曲の山本幡男の俳句「黒い河」に感動

  2020113日、三軒茶屋のサロン・テッセラで、「新しい耳 第27回テッセラ音楽祭 高橋悠治の耳 vol.13」を聴いた。出演は、高橋悠治(ピアノ・作曲)、工藤あかね(ソプラノ)

「現代音楽」に疎い私は、高橋悠治の音楽は昔々1970年代だったか80年代だったか、サティの演奏を小さな会場で何度か聴いた程度。作曲した作品は、もちろん実演でもFM放送やテレビでもたびたび耳にしたが、これまでそれを目的にコンサートに行ったことはなかった。今回は、曲目の中に、山本幡男の俳句に高橋悠治が作曲した「黒い河」初演が含まれると知って、ぜひ聴きたいと思ったのだった。

 山本幡男は辺見じゅんのあまりに感動的なノンフィクション「収容所(ラーゲリ)から来た遺書」で知られている。満鉄で働いていたため、戦後、シベリアに抑留され、その中で文化活動を行ったのち、帰国できずにその地で病死した人物だ。故国の家族への思いをつづる遺書を残して亡くなるが、文書の持ちだしが許されなかったため、山本を慕う友人たちが遺書を分担して暗唱し、帰国を許された者たちがそれを母国に残る妻子に伝えたことは辺見の著書に詳しく記されている。私は大学院時代の恩師である山本顕一先生のお父上が山本幡男だと知り、辺見の著書を読んで心から感動。山本先生の不肖の弟子のひとりとしてイベントなどがあると参加させてもらっている。

 そのような事情で、今回のリサイタルに足を運んだのだったが、それ以外の曲も素晴らしかった。

 今回の隠れテーマは、おそらくは「死」だっただろう。

 最初に演奏されたピアノソロの現代作曲家チャボー・ジュラの「オルフェイド」は、黄泉の国にいくオルフェウスにかかわる音楽(ただ、私にはこの曲はさっぱりわからなかった)。次に、高橋悠治作曲、木村迪夫の詩による「祖母のうた」。祖母が戦地に行った子どもたちを思いながら語った言葉から成る(工藤さんはとても明瞭に歌ったのだったが、山形弁のためによく聞き取れなかったのが残念)。そして、バロック時代の作曲家ヨハン・ヤーコブ・フローベルガーがリュート奏者である友人ブランロシェの事故死に際して墓碑として作曲されたもの。そのあとに戸島美喜夫が作曲した「ヴェトナムの子守唄」が演奏されたが、戸島は今年亡くなった作曲家だ。

 まさしく老齢を迎えた高橋悠治の死についての音楽エッセイとでもいうべきリサイタルだ。曲の合間に高橋悠治の解説が入るが、静かでシャイで、はったりも気負いもない雰囲気が伝わってくる。静かに、ありのままに死を見つめようとしている。しかも、このリサイタルのテーマが「死」であることも明言されない。静かに、かすかに、死が語られる。自作においても、ほかの方の作曲した曲でも、静かに死が語られる。

 後半にいよいよ山本幡男の俳句による「黒い河」。「黒い河」とはアムール河を指す。幡男は収容所で「アムール句会」を主宰していた。その8つの俳句を、一部の言葉を繰り返したりしての夏から新年を経て春に至るまでの光景を描くが、高橋の音楽にも死が感じられるのは、私が幡男の悲劇を知っているためばかりではないだろう。諦観と万物への思い。最後に歌われた「小さきをば子供と思う軒氷柱」の句には涙が出た。

 後で山本先生に楽譜を見せていただいたが、拍子もなく、小節線もなく♭やら♮やらが山のようについた音符に驚嘆。このとんでもなく難しい歌をヴィブラートの少ないきれいな声で明晰に、しかも豊かな感受性をもって歌った工藤さんに感服。

 その後、フェルッチョ・ブゾーニの子守歌。ただしこれは、亡き母の棺のための子守歌だという。最後に藤井貞和の詩による高橋悠治作曲「修羅の子供たち」。いじめによって自殺した少年の霊が風になって校庭をめぐる様子が語られる。いじめへの告発というだけではなく、人間の生をいとおしみ、死を見つめる音楽が聞こえてくる。

 繰り返すが、私は「現代音楽」に疎いので、その語法をよく知らない。聴き方もよくわからない。高橋悠治の音楽そのものについても何かを語る資格はない。ただ、これが死を身近に感じている高橋の偽らざる心境なのだろうと思った。それはそれは尊い音楽であると思った。虚飾を排し、思いだけを残そうとした音楽。

 コンサートの後、山本先生に誘われ、高橋悠治さん(皆さんは悠治さんと呼んでいたが、私は恐れ多くてそのような呼び方はできない)、工藤あかねさんが参加されている飲食の場に、私も加わらせていただいた。皆さんのお人柄に接することができた。

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映画「鵞鳥湖の夜」 フィルム・ノワールの形をとって躍進に取り残された人々の生をえぐる

 映画「鵞鳥湖の夜」をみた。とてもおもしろかった。引き込まれてみた。

 監督はディアオ・イーナン。中国の新鋭という。舞台は中国のたぶん南のほう。バイク窃盗団の抗争に巻き込まれて、誤って警官を殺してしまったチョウ(フーゴー)は仲間のつてで鵞鳥湖といううらぶれたリゾート地周辺に逃げ、妻とおちあおうとするが、そこに現れたのは仲介を頼まれた売春婦アイアイ(グイ・ルンメイ)だった。妻は出稼ぎに出たまま帰らぬチョウに愛想をつかしており、警察に密告している。チョウは傷を負いながら逃亡し、自分に身代金がかけられていることを知って、妻に密告させて妻子に金を残したいと考える。が、敵の窃盗団からも、警官からも狙われ、逃げ惑うしかない。結局、アイアイは妻に代わって密告し、その金を妻に渡すことを引き受ける。(ネタバレになるのでストーリーはこのくらいにする)。

 フィルム・ノワールという宣伝文句だが、まさにその通り。主人公たちが躍進を歌い上げる看板を背に歩く場面に象徴的に表現される通り、ここは開発から取り残された薄汚れたリゾート地。場末の汚れたホテルやレストラン、そこでうごめくやくざ者や権力を笠に着る小物や底辺で懸命に生きる人々が描かれるが、その映像はまるで美術作品のように美しい。そうであるだけに、薄汚れた建物や品が良いとは言えない人々が圧倒的な存在感で迫ってくる。そして、けだるそうにしながらも、チョウと妻の間でうろたえつつも力になろうとするアイアイの姿を初々しく描いていく。フィルム・ノワールという形をとりながら、躍進から取り残されて生きる人々の生きざまをえぐっている。

 鵞鳥湖に手を突っ込んで死ぬチョウの場面で、私はアンジェイ・ワイダの世紀の名作「灰とダイヤモンド」の主人公の死を思い出した。それに匹敵する壮絶な死だと思う。

 鵞鳥湖というのは実在するリゾート地なのだろうか。まさに躍進する中国の負の部分を象徴するかのような土地に見える。一度行ってみたいと強く思った。

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