ロッセリーニの映画「アモーレ」「神の道化師」「ストロンボリ」「殺人カメラ」「ヨーロッパ1951年」

 私が学生生活を送った1970年代、ロッセリーニの映画は、一般の映画館では取り上げられることはめったになかったものの、大学祭などでしばしば上映会も行われていた。私も、「戦火のかなた」や「無防備都市」は何度もみた。

 ところが、それ以降の作品は、当時、ほとんどがみるべき価値のないものとみなされていた。「ロベレ将軍」はよいほうだが、とりわけイングリット・バーグマンと知り合い、その虜になってからは、かつての理念を忘れてしまって、商業映画、しかも質の高くない商業映画ばかりを撮り始めたといわれていた。そして、事実、それらの映画は日本ではみる機会がなかった。私は、それらについては一度もみたことがないままだった。

 それから40年以上たって、DVDでロッセリーニの代表作以外の作品もみられるようになっているのに、久しぶりに気づいた。きっとつまらないのだろうが、ともあれみてみようと思って、みはじめた。ところが、何本かはとてもおもしろかった。

 新型コロナウイルスの非常事態宣言が出される直前なのかもしれない。簡単に感想を書く。

 

「アモーレ」 1948

 同じアンナ・マニャーニが主演を演じる二つのエピソードからなる。第一部は、コクトーの「人の声」に基づく。私には、プーランクのモノオペラとして昔からなじみの物語だ。

 登場人物は一人だけ。女性が電話を待ち、電話がかかるとそれにかじりついて必死の形相で話をする。徐々に、電話の相手が別れを切り出されてしまった愛人であり、何とか引き留めようと必死になっていることがわかってくる。プライドを保とうとしながら、あるいはプライドを捨て、うそをついたり。その心の動きを名女優マニャーニが見事に演じる。

 オペラではこの物語を何度かみたことがあるが、やはり歌でなくリアルなセリフで語られると、まさにリアルになる。映画では愛犬が登場する。それもとてもリアル。

 第二部は、農婦が聖人(なんと、フェデリコ・フェリーニが演じている!)の幻想を見て、その子供を宿し、村の人々から迫害される物語。すべてが幻想なのか、それとも村にやってきた放浪者を聖者と思いこんだのかは定かではない。最後には村を出て人里離れた山の上の無人の教会にたどり着く。

 無垢な信仰を描いている。必死の信仰が胸を打つ。愚かといえば、まさに愚かだが、うむを言わせない生きる力を持っている。山があり、谷があり、そこに山羊たちが人々と暮らしている。最後、山羊たちが女を教会に導く。まさしく信仰の世界が現出する。見事な映像世界。

 それにしても、マニャーニの圧倒的な演技力に驚嘆。それをみられるだけでもうれしくなる。そして、若いころのフェリーニが「イケメン」であることにもびっくり。

 とてもいい映画だと思う。「無防備都市」や「戦火のかなた」に匹敵する名作だと思う。

 

「神の道化師、フランチェスコ」 1950

 初めてのつもりでみはじめたが、どうも以前に一度みたようだ。

 聖フランチェスコとその弟子たちの行動を描く。徹底的に自己犠牲を行い、他者に尽くし、自己の欲望を否定して、何よりも完全な神への帰依を求める。全員が大変生真面目だが、あまりの徹底ぶりに呆れるし、愚かで無邪気に見えるし、現代人の目から見ると、むしろ混乱を起こすだけに見える。

 戦後さほどの時間がたっていない時期にロッセリーニはどのような意図でこの映画を作ったのだろう。おそらく、戦後の生きるためにがむしゃらら欲望をかなえようとする社会へのアンチテーゼとして示したのだろう。ただ、映画としては、少なくとも今みると、あまり面白いとは思えない。

 

「ストロンボリ 神の土地」 1950

 ロッセリーニが大スター、イングリット・バーグマンを主役にして初めて撮った映画。この後、二人は不倫関係に陥り、その後、結婚をすることになる。

 ともあれ、映画としてとてもおもしろかった。それどころか、大いに驚き、大いに感動した。「戦火のかなた」や「無防備都市」に劣らぬ名作だと思った。

 カリン(バーグマン)はドイツ兵と関係を持ったためにリトアニアで暮らせなくなってイタリアに入り、難民収容所で暮らしていたが、捕虜キャンプにいるアントニオに言い寄られ、その気になって結婚。アントニオの故郷で暮らし始める。ところが、アントニオの故郷ストロンボリ島の村は、公共の交通手段もない文明の果てにある活火山の島だった。しかも、島民たちは閉鎖的で、アントニオは暴力的。カリンは監視され、島の灯台守と少し親しくすると不倫を決めつけられる。夫の子どもを宿すが、それでも島の生活に我慢できなくなったカリンは、灯台守の助けを得て島から脱出することを考え、ひとり火山を超えて島を横断しようとする。火山付近を通りかかって、有毒ガスを浴び、自分の力に絶望し山の中で一晩をあかす。朝、火山を前にして、自然の偉大さに目ざめ、神にすがろうとする。そこで映画は終わる。

 火山の噴火の場面、マグロの大漁の場面など自然の猛威や人と自然の営みを描くドキュメンタリー的な場面が圧倒的だ。映像はとても美しい。そのような自然の営みとは隔絶したおしゃれで華やかなバーグマンも目を見張る美しさ。(ただ、ほかのイタリア女たちと比べてのバーグマンの「がたい」の良さに驚く!)。

 最後、カリンは島の残ることにしたのか、それとも一人で生きることにしたのか、定かではない。ただ、自然の猛威を知り、それとは対極の文明を求めて生きてきた自分をゼロに戻そうとしたことだけが示される。

 公開当時、この映画は不評だったという。そして、最後の曖昧な場面もその原因だったようだ。だが、今、みると、この結末は見事としかいいようがない。島に残るにせよ、離れるにせよ、カレンのこれから先の人生はつらいものになるだろう。だが、ともあれ、ここでカレンは神に目覚める。神父を誘惑するなど不敬な気持ちを抱いていたカレンが人間の無力を知り神にすべてをゆだねる。そのことのほうが問題だったのだろう。

 ロッセリーニは凄い監督だったと改めて思った。 

 

「殺人カメラ」 1952

 喜劇、あるいは寓話といってよいだろう。

 海辺にある美しい村。写真店を営むカメラマンの前に、守護聖人らしい老人が現れ、あるカメラで人物を撮影すると、その人を死なせられることを教える。善良なカメラマンは、それを正義と信じて、不正をしようとする人々を死なせていく。カメラマンは自分が行き過ぎてしまったことに気づき、自分自身を撮影して死なせようとする。そこで、守護聖人だと思った老人が実は悪魔だったと気づき、自分の行動を悔いて、悪魔に頼んで死なせた人々を生き返らせる。

 何が正義かわからない、状況によって多くの人が正義にも悪にもなってしまう。そのことを喜劇として描いている。

 村の墓場を壊して、観光施設を作ろうとするアメリカ人が登場。外国資本による伝統的な村の破壊というテーマがこの時代にすでに起こっており、それをロッセリーニが題材にしていたことに驚く。権力者も権力を持っていることによって堕落し、貧しい人々も自分の利益しか考えていない。だが、それ以上に、正義を行使するほうが悪だ。そのようなことを寓話として語っている。

 ただ、あまりに教訓がありきたりで、しかもディテールについてもそれほど面白いわけではないので、特に優れた映画だとは思わなかった。

 

「ヨーロッパ1951年」 1952

 これも名作だと思った。

 上流夫人イレーネ(イングリッド・バーグマン)は、息子の自殺を契機にそれまでの自分たちの階級の恵まれた生活に疑問を持ち、社会矛盾に目をやるようになる。そして、貧しい人、苦しんでいる人に愛を注ぐ。だが、強盗の逃亡を助けることになってしまって警察沙汰になり、スキャンダルを恐れた夫に精神病院に入れられてしまう。イレーネは元に戻ってかつての上流の生活を送るよりは、精神病院で生きることを選ぶ。

 イレーネはまさに聖女になる。だが、現代社会での聖人は狂人とみなされるしかない。すべての人に愛を注ぐというキリスト教の理想は、最も人類に必要なことなのだが、社会を混乱させてしまう。そのことがリアルに伝わる。

 息子に十分の愛をかけなかった自分を嫌悪するあまり、他者にできるだけの愛を注ごうという心理はとてもよく理解できる。バーグマンは演技派女優というわけではないが、そのようなけなげな女性を見事に演じている。

 1951年。私の生まれた年だ。戦後の混乱がひとまず収まり、新たな階層が生まれ、それが徐々に固定化していく。資本主義がますます拡大し、キリスト教の精神から外れていく。そうした時代の始まりの時期だったのだろう。

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イタリア映画「雲の中の散歩」「警官と泥棒」「パンと恋と夢」「われら女性」

 新型コロナウイルスの感染はますます広まり、オリンピックの延期が決定し、東京・春・音楽祭の残りのコンサートのすべての中止、そしてラ・フォル・ジュルネの中止が発表された。

 私は、2005年の初回からアンバサダーとしてラ・フォル・ジュルネの開催に関わった。覚悟していたことではあるが、そんな私には、この中止のニュースはとても残念だ。いったんは途切れるにしても、また来年からの開催を祈りたい。

 昨日と今日、都知事によって「不要不急の外出自粛要請」が出されて、さすがに繁華街に人通りはほとんどなかったという。しかも、今日は朝から雪で、私の暮らす街も10センチほどの積雪に見舞われた。

 私は典型的な屋内型の人間で、自室にこもることにそれほどのストレスは感じない人間なのだが、さすがにこれはつらい。閉塞感を覚えてどうにもならない。が、そうはいっても仕方がないので、イタリア映画を見続けた。

 

「雲の中の散歩」1942年 アレッサンドロ・ブラゼッティ監督

 とてもおもしろい映画だった。ちょっと感動した。

 口うるさい妻に邪険にされながらセールスマンとして必死に働いているパオロ。通勤途中、列車内でマリアに席を譲ったことからトラブルに巻き込まれ、列車を下ろされ、バスで目的地に向かうことになってしまう。ところが、そこでマリアと再会し、マリアが不義の子を妊娠していることを知る。そうこうするうち、マリアに夫のふりをして実家に同行してほしいと頼まれる。パオロはマリアに同情して農家に出向き、歓待される。最後には真実が知られてしまうが、マリアは両親に許される。

 農村地帯の人間模様がおもしろい。バスの運転手に男の子が生まれたばかりだとわかると乗客全員でお祝い騒ぎになる。女性の実家でも、大勢の人が集まって結婚を祝福する。善良であけっぴろげでちょっと偏屈な人たち。愛情にあふれる世界だ。

 最後、マリアと心を通わせかけるが、パオロは都市の自宅に戻り、また自己中心的な妻に冷たくあしらわれる生活に戻る。

 1942年の作品。イタリアはファシスト政権のもと、戦争を開始し勢力を拡張していた。戦争中の都市部の人々はこのような生活をしていたのだろう。そこではかつてのイタリアの農村部の人情が失われていたのだろう。そのような時代感覚を伝える意味でも、とても興味深い映画だった。

 

「警官と泥棒」1951年 マリオ・モニチェリ、ステーノ 監督

 コミカルな、とてもおもしろい映画だと思った。

 警官(アルド・ファブリッツィ)は泥棒(トト)を追いかけるが、取り逃がしてしまう。期限内に捕らえなければ解雇されることになる。警官は必死で泥棒の身元を調べ、個人的に接触しようとする。ところが、その家族と親しくなり、家族ぐるみの付き合いになり、泥棒の苦しい生活森化できるようになって友情めいたものが湧いてくる。最後、二人で警察署に向かうところで映画は終わる。

 警官の家庭と泥棒の家庭のそれぞれの階級、道徳、生活態度の違いをコミカルに描き、人間臭いふたりの感情が共感をもって描かれている。昔のイタリア喜劇でおなじみの二人の芸達者ぶりにも驚く。

 

 

「パンと恋と夢」1953年 ルイジ・コメンチーニ監督

 二組の恋の成就を描く恋愛映画。ほのぼのとしてコミカル。

 山の上の小さな村に赴任してきた警察署長(ヴィットリオ・デ・シーカ)は、二人の女性、じゃじゃ馬と呼ばれるマリア(ジーナ・ロロブリジーダ)と助産婦アンナレッラに惹かれる。マリアが部下の青年を愛していることを知って、二人を結び付け、自身はアンナレッラに言い寄る。祭りの日、二組とも愛を認め合う。

 小さな村なので、みんなが署長に注目し噂しあっている。嫉妬があり、感情の行き違いがあり、おせっかいがあり、誤解がある。そのような小さな村の様子も見事に描く。

 監督としてのデ・シーカももちろん超一流だが、俳優としても素晴らしい。軽みがあり、面白みがあり、おかしみがある。そして、ロロブリジーダの美しさにも改めてため息が出る。私が映画を見始めたときには、ロロブリジーダはすでに過去の大女優だったが、映画を見るたびに胸をときめかしたものだ。

 二組の恋物語もさることながら、村人たちの生き生きとした姿が何よりも魅力的に思えた。

 

「われら女性」 1953年 ロッセリーニ、ヴィスコンティなど

 新人女優や4人の大女優(アリダ・ヴァリ、イングリッド・バーグマン、イザ・ミランダ、アンナ・マニャーニ)が自信を演じてそれぞれの私生活を描くオムニバス映画。とてもおもしろかった。

 第一話(アルフレッド・グワリーニ監督)は二人の女優志望者がオーディションに勝ち抜く様子を描く。第二話(ジャンニ・フランチョリーニ監督)はアリダ・ヴァリがメイキャップ係の女性の結婚パーティに出かけ、庶民的だった自分の過去を思い出し、メイキャップ係の結婚相手に心惹かれながら、その場を後にするエピソード。第三話はロッセリーニが妻であるバーグマンと隣の夫人との近隣トラブルを描く。バーグマンのイライラ、大人げない怒りなどがほほえましく描かれる。第四話(ルイジ・ザンパ監督)では、ミランダが、偶然目撃した子どもの事故をきっかけに、貧しい家庭の親子関係を知り、つい親身になるが、思い返して、子どものいない女優業の自分を振り返る様子を描く。第五話はヴィスコンティが監督しており、マニャーニがタクシーに乗って連れていた子犬のために1リラの特別料金を請求され、それに納得できず、その数十倍のお金をかけて自分の正しさを証明しようとする様子が描かれる。物事を中途半端にしないで強い自己主張をするイタリアの庶民的なマニャーニがとてもおもしろい。

 おそらくここに描かれるのはそれぞれの女優さんの実体験なのだろう。もちろん、脚色が加えられていると思われるが、それぞれの個性がうかがわれ、「女優」という職業の宿命のようなものも描かれる。女優を生きることの意味も見えてくる。私はすべてのエピソードを面白いと思った。

 1953年に作られた映画だが、豊かさが映画の中に現れるようになった。戦後の混乱期を終えて、やっと生活にゆとりができ、華やかな世界が生まれてきた。そんなイタリア社会の様子も見える。これより少し前の時代にこのような女優さんたちの生活を描く映画を発表しても反発を買うだけだっただろう。

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古いイタリア映画「にがい米」「オリーヴの下に平和はない」「ローマ11時」「無法者の掟」

 小池都知事が今週末の外出自粛要請を行った。このままだと東京都は新型コロナウイルスの感染爆発が起こり、東京都のロックダウンを招いてしまうとのこと。私自身はなるべく外に出ないようにしているが、仕事がらみの外出やコンサートはやはりできれば参加したい。できるだけ社会活動をしないと、まさに日本の文化は壊れてしまう。今週末、今のところ私は最大限の注意を払いながら外出するつもりでいるが、やはり外出そのものをやめるべきなのかと迷わざるを得ない。悩ましいところだ。

 相変わらず、時間を見つけて古いイタリア映画をみている。簡単な感想を書く。

 

「にがい米」 1948年 ジュゼッペ・デ・サンティス監督

 昔、深夜枠のテレビでみた覚えがある。パゾリーニの「アポロンの地獄」や「テオレマ」で知ったシルヴァーナ・マンガーノの若き頃のあまりのグラマラスな肢体に圧倒されたのだけはよく覚えている。改めて、みたわけだが、名作といわれているわりに、私はまったくおもしろいと思わなかった。

 北イタリアの米作地帯に女たちが40日間集まって米の取入れをする(たぶん、このこと自体は事実に基づくのだろう)。そこに紛れ込んだギャング(ヴィットリオ・ガスマン)とその女(ドリス・ダウリング)、そして女たちのリーダーであるシルヴァーナ(シルヴァーナ・マンガーノ)、そのなじみの軍曹(ラフ・ヴァローネ)が入り乱れる。ギャングの盗んだ宝石に目のくらんだシルヴァーナがギャングと結託して仲間たちを裏切るが、利用されていたのに気付いて自ら命を絶つ。

 まず、出稼ぎ労働としてやってくる女たちがそろいもそろって(もちろん、そうでない人もいるが)グラマラスで魅力的でおしゃれで惜しげもなく魅力的な肢体をさらけ出すことに違和感を覚える。しかも、その女たちが、まるでミュージカルのように声をそろえて歌ったり、だれからも命じられていないのに統制の取れた動きをしたり、みんなが同じような感情を表に出したりといった演出に、私は強い抵抗を感じる。ネオ・レアリスモらしくなくて、あまりに不自然。しかも、私には、女たちの感情の変化にも納得できないし、そもそも女たちの置かれている状況や、近くの倉庫にギャングたちが出没する不自然さが気になる。話もあまりに都合よく起こる。要するに、リアリズムを感じない。シルヴァーナ・マンガーノが始終、心配そうな表情をしているのも納得できない。

 納得できないことだらけの映画だった。

 

「オリーヴの下に平和はない」 1950年 ジュゼッペ・デ・サンティス監督

 まるでオペラのような演出だと思った。心の中に葛藤があると、登場人物はみんなが肩で息をし、全員が喜怒哀楽を顔の表情だけでなく、姿勢で示す。展開される物語も、善悪が明確で型通りの展開をする。しかも、合唱団のような集団がいて、その人たちも一様の動きをする。オペラを意識しているのかもしれないが、映画でこのような演出をされると、白けてしまう。リアリティを感じない。しかも、ストーリーもあまりにありきたりで、しかも話がうまくいきすぎていて、これまたリアリティを感じない。

 チョチャリアという山岳地帯が舞台になっている。フランチェスコ(ラフ・ヴァローネ)が戦争から帰ってみると、羊は村のボスであるポンフィリオに横取りされ、恋人だったルチア(ルチア・ボゼー)も結婚を迫られている。フランチェスコが羊を奪い返そうとすると、逆に強盗として警察に捕らえられて、裁判でも、ルチアを含むみんながポンフィリオに有利な証言をする。フランチェスコは刑務所に入るが、脱獄して、復讐をする。ルチアもそれを助けて、二人は愛情を取り戻す。村人たちもフランチェスコに味方してポンフィリオを追い詰める。ポンフィリオは崖から落ちて死に、フランチェスコも警察から許される。

 チョチャリアの風景は美しい。この風景の中でオペラのように抽象化された世界を描いていれば、それなりの説得力を持つと思うが、やはりリアルさを目指しているようなところもあるので、私としては映画の世界に入れなかった。はっきり言って、つまらない映画だと思った。サンティス監督は私には合わないようだ。

 

「ローマ11時」 1952年 ジュゼッペ・デ・サンティス監督

 実際の事件に基づいているらしい。戦後のイタリアでは、失業率が高く、仕事が見つけられなかった。一名のタイピスト募集に数百人の女性が押しかけ、老朽化したビルの階段で行列を作って混乱が起こり、階段が崩壊して1名の死者と多数のけが人を出した。その事件を題材にしている。

 数人の女性に焦点を当てて、人間模様、そして、世相を描いていく。夫が失業中のめに割り込んでしまい、そのために大根来の原因を作ってしまった女性、妻子ある男性の子供をはらんでしまった女性、小間使いの立場から逃げたがっている娘、親離れできない娘、貧しい職人を恋人にした上層出身の娘、貧しい暮らしをしながら見栄を張る女性などが描かれる。そうしながら、必死に職を求めて必死にならざるを得ないイタリア社会とそこで生きる人々の生きざまを描く。

 私は「にがい米」や「オリーヴの下に平和はない」よりはずっと面白いと思ったが、好きな映画ではない。

 

「無法者の掟」 1949年 ピエトロ・ジェルミ監督

 ピエトロ・ジェルミ監督のデビュー作。ジェルミの監督作品はかなり見ている。芸術作品いうわけではないが、職人の作った映画として素晴らしいと思う。サンティス監督の映画の後にこれをみると、人物の動きにリアリティがあり、画面に無駄がなく、シチリアの雰囲気も見事に描かれて、てきぱきと物語が進んでいくのを感じる。

 ただ、てきぱきし過ぎていて、じっくり描き足りない面がなくもない。男爵とマフィアが牛耳るシチリアの貧しい村に若き裁判官(マッシモ・ジロッティ)が赴任し、正義を貫こうとして男爵もマフィアも村人たちをも敵に回してしまうが、かわいがっていた少年が殺されたのをきっかけに、なんとか理解を得るための光明が見えたところで映画は終わる。

 描き足りないところはあるが、マッシモ・ジロッティの知的でさっそうとした風貌もあって、この裁判官には説得力がある。シチリアの状況もきっと実際にこのようなものだったのだろう。無法者が支配するシチリアを法治国家イタリアの支配下に置こうという意識が強く見える。ともあれ、サンティス監督の映画をみているときのような退屈はまったく感じなかった。

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トリオ・アコードのベートーヴェン ピアノ三重奏曲全曲演奏 真摯な音楽!

 20203192021日、3日連続で、東京・春・音楽祭のトリオ・アコードによるベートーヴェンのピアノ三重奏曲の全曲演奏を聴いた。トリオ・アコードは、白井圭(Vn)、門脇大樹(Vc)、津田裕也(Pf)の注目されている若手演奏家の結成したグループだ。場所は旧東京音楽学校奏楽堂。

 新型コロナウイルスの影響で多くのコンサートが公演中止になっている。私自身もこれまでひと月ほどコンサートには足を向けなかった。が、さすがに我慢できなくなって、3日間、足を運んだ。

 19日はピアノ三重奏曲第1番と第5番「幽霊」を中心に演奏された。新型コロナウイルスの影響か、客はまばら。客席の5分の一も入っていなかったと思う。演奏も十分にリハーサルを行っていないようで、ただ合わせているだけの感じだった。私は少々不満を抱いた。

 20日は、ピアノ三重奏曲第2番、4番「街の歌」、「仕立てやカカドゥの主題による変奏曲とロンド」、ピアノ三重奏曲第6番だった。客は19日の2倍以上入っていたと思う。会場の半分近く埋まっているように見えた。演奏についても、やっと本領発揮だと思った。

 スケールの大きな演奏ではない。あざとさのない、きわめて誠実な音楽。「ここを強調したら、音楽が決まるのに!」と素人が考えるような箇所がたくさんあるのだが、そんな小細工はしない。誇張せずに、真摯に音楽に向かっていく。そうして集中力あふれた音楽を作り出す。だんだんとそのような音楽が作り出されるようになった。

 後半の第6番は素晴らしいと思った。ただ、それでも、私としてはちょっと合わせることに気を使いすぎているような気がしてならない。それぞれの演奏者がもっと自由であってくれないと、音楽がおもしろくならない。律儀でまじめで、少しもはみだしがなく、各人の表現がない。とりわけ、ピアノに自己主張がまったく感じられなかった。

 そして、21日。8割から9割くらい席が埋まっていた。19日、20日に比べるとかなりの客の入りだ。演奏も日に日によくなっていくのを感じた。

 前半にピアノ三重奏曲第10番と、第3番、そして後半に第7番「大公」。

 第3番がまずとても良かった。はったりのない真摯な音楽。若きベートーヴェンの、しかし十分に後年のベートーヴェンを思わせる深く重みのある音楽を、気負いもなく自然にのびのびときかせてくれる。前日に感じた不自由さも感じず、各自が自分らしく自然に弾いているのを感じた。やっと三人の息が合い、「合わせているだけ」という雰囲気ではなくなった。「大公」も素晴らしかった。だが、演奏の印象は前日と変わらない。真摯で誠実な音楽だと思う。無理にドラマティックにしないし、あざとくもしない。むしろ自然体で明確な音によって緊密な音楽を作っていくタイプだと思う。「大公」では見事にそれが実現されていた。

 これからしばらく、新型コロナウイルスのため、外国人演奏家の来日公演はほとんど期待できない。大変残念だが、やむを得ない。私としては、十分に感染に用心しながら、これからコンサートを楽しみたいと思っている。ああ、それにしてもやはりなまの音楽は素晴らしいと改めて思った。

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映画「金曜日のテレーザ」「子供たちは見ている」「白い酋長」「愛と殺意」

 安売りDVDでイタリア映画をみつづけている。これからもしばらくみつづけるつもりだ。前回は、すでに見たことのあるデ・シーカ監督の映画数本の感想を書いたが、今回は、今回初めて見た数本の感想を書く。

 

「金曜日のテレーザ」 1941年 ヴィットリオ・デ・シーカ監督

 ネオレアリスモ作品をとる前のデ・シーカの作品。ブルジョワ劇といえるだろう。デ・シーカ自ら主演を務めている。

 小児科医(デ・シーカ)が踊り子(アンナ・マニャーニ)に入れあげて借金まみれになって、そのカタに病院を取られそうになっている。そんなとき、孤児院で診察をすることになり、そこで看護師志望の少女テレーザ(アドリアーナ・ベネッティ)と出会う。テレーザは医師に恋をする。医師は愛してもいない女性と婚約する羽目に陥ったり、早合点の召使がかきまわしたりして、あれこれの勘違いがあり、あれこれの行き違いがあるが、最後、万事めでたく終わり、二人は結ばれることになる。

 余裕のあるユーモア、弱いもの、貧しいものへの愛情など、デ・シーカの魅力があふれているが、現在からみると、あまりにありきたりで、さほどおもしろいとは思えなかった。

 

「子供たちは見ている」 1944年 ヴィットリオ・デ・シーカ監督

 プリコは小学生2、3年生くらいの男の子。母親にべったりだが、母は夫以外の男と関係を持っている。母は男と別れようとするが、男は復縁を迫り、母もそれに抗しきれない。父は必死に母をとどめようとするが、母は夫と子供を置いて男のもとに走る。そして、父は少年を寄宿学校に預けた後に自殺する。母の不倫を目の当たりにし、それをとどめようとしながら何もできなかった子供の苦しみと孤独を描いている。

 とてもリアルで真に迫っている。少年の悲しみが伝わってくる。子供の目から見た社会を描くデ・シーカらしい作品だと思う。おもしろかったが、ちょっと見るのがつらかった。

 

「白い酋長」 1952年 フェデリコ・フェリーニ監督

 フェリーニの単独監督デビュー映画だとのこと。初めてみた。この映画の存在も初めて知った。いやはや、フェリーニはまさに別格。すさまじい。

 イタリアの田舎から新婚旅行でローマに出てきた若夫婦。妻はテレビドラマで「白い酋長」を演じる男優の大ファンで、ファンレターを書いて、ちょっとしたやり取りがあったので、これを機会にぜひ会いたいと思っている。ホテルを抜け出し、会いに行くと、混乱にまきこまれてロケ地までついていってしまい、ドラマに出演しかける。が、白い酋長役の男が女たらしであることに気づき、逃げ出そうとするが、道がわからず、夜中になってしまう。翌日になってやっと妻が行方不明になって絶望する夫のもとに帰り、そろって親戚にあってバチカンに挨拶に行く。

 それだけの話なのだが、のちのフェリーニの要素がふんだんに出てくる。サーカス的な乱痴気騒ぎ、ニーノ・ロータの軽やかで賑やかな音楽、わけのわからない動物や人物の軽やかな登場。そして、「やがて悲しき人生」というものをしみじみと感じさせる。「カビリアの夜」「道」「8 1/2」「甘い生活」「アマルコルド」を思い出す。なんだかわけがわからず、フェリーニの魔法にかかって、最後の部分では涙を流しそうになった。

 夫が絶望しているときに、ジュリエッタ・マシーナ演じる夜の女が登場。カビリアと呼ばれている! そうか、これは「カビリアの夜」を準備する作品だったんだ!

 私は決してフェリーニ・ファンではない(私は、イタリア映画では、パゾリーニ、アントニオーニが大好き!)のだが、こういう映画を見せられると、「フェリーニ凄い!」と思ってしまう。

 

「愛と殺意」 1950年 ミケランジェロ・アントニオーニ監督

 アントニオーニ監督の初期の作品。富豪が若い美人妻(ルチア・ボゼー)の過去に嫉妬して、私立探偵に調べさせる。ところが、妻の過去、恋人(マッシモ・ジロッティ)、そして過去に死んだ女性があぶりだされていく。最後には、妻とその恋人が富豪を殺すことを計画するが、富豪は自動車事故で死ぬ。

 すでに後年のアントニオーニ映画の枠組みができている。富豪から見れば、何もしなければよかったのに、私立探偵を雇って調べさせたために、妻はかつての恋人とよりを戻してしまい、自分の死を招いてしまう。妻とその恋人についていえば、明確な殺人ではないエレベーター事故に負い目をもって自由な行動ができず、互いに疑心暗鬼になっている。しかも、同じような殺人を計画するが、結局、それは実行されない。

 ありもしないものがまるであるかのように作用し、事実でないはずのことが実際に起こってしまう。アントニオーニがしばしば描く世界だ。その複合体が展開される。ただ、後年のアントニオーニの映画のような空虚感が希薄なので、アントニオーニ風の気分が漂ってこない。ミステリー映画風にしようとしたために、そのようになったのかもしれない。

 名作だとは言えないが、アントニオーニ・ファンにはとても興味深い映画だった。

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「デルス・ウザーラ」「靴みがき」「自転車泥棒」「ミラノの奇蹟」「ウンベルト・D」「終着駅」

 新型コロナウイルスがパンデミック宣言され、経済的な打撃も深刻さを増している。東京オリンピックの中止あるいは延期が公式の場でも話題になるようになった。

 私の知り合いに、クラシック音楽の演奏家、音楽事務所関係者、音楽ジャーナリストが大勢いるが、仕事が激減しているという。観光業者への打撃も伝えられる通り。

 かくいう私も10月開校予定の日本学校の校長の役に就いている。アジア圏を中心に生徒集めをする予定だったのだが、まったくそれができていない。それどころか、生徒が来日できない状況にいる。ウイルスの日本語学校業界への影響は計り知れない。

 私は周囲に妊婦と高齢者を抱えているので、万一を考えて自粛をしていたが、このままではどうにもならない。体を縛り付けられているような息苦しさを感じてきた。来週からはコンサート通いを再開させようと思っている。

 ただ、そうはいっても、コンサートも軒並み中止になっている。必然的に家で過ごす時間が長くなる。そんなわけで、家で古い映画のDVDを数本みた。いずれも、かつてみたことのあるものだが、いま改めてみると、新しい発見がある。簡単な感想を書く。

 

「デルス・ウザーラ」 黒澤明 監督 1975年

 黒澤明がソ連・日本の合作で撮った映画。探検家作家のアニセーニエフの作品に基づく。登場人物の中に日本人は含まれない。当時大きな話題になり、アカデミー外国語映画賞を受賞した。もちろん私は封切り時にみて、とてもいい映画だと思った。ただ、当時はそれほどの名作とは思わなかった。

 アニセーニエフ率いる軍の小隊が地誌調査のためにシベリアに入って、東洋系の猟師デルス・ウザーラと知り合う。デルスはシベリアの土地を知り、過酷な自然の中で生き抜く知恵を知り、自然と共生するすべを知っている。アニセーニエフはデルスに案内してもらうことにする。二人は親友になり、隊はデルスに何度も助けられ、アニセーニエフ自身も命を救われる。だが、デルスは近寄ってくるシベリア虎を傷つけてしまったころから、森の精を怒らせ、そのため視力が弱まったと考えるようになる。森で生きるのをあきらめ、一旦はハバロフスクのアニセーニエフ一家とともに暮らすが、都会になじめずに森に戻る。しかし、アニセーニエフが友情の印に与えた新型銃があだとなって、それを狙うならず者に殺害される。

 私は黒澤映画は嫌いではない。ほとんどすべての映画を見ている。ただ、特に三船敏郎を主役にしたときのヒロイズムや、これも三船が演じる人物の大袈裟な演技が鼻についていた。ところが、「デルス・ウザーラ」はシベリアの広大な自然が舞台のために、過酷な自然そのものが主役になっており、全体的に演技は抑制されている。とてもいい映画だと改めて思った。黒澤らしい激しく盛り上がるドラマがないのも、むしろ私は好きだ。

 シベリアの森の風景を見るうち、一昨年、個人ツアーでイルクーツクを旅し、バイカル湖付近を観光した時に見た農奴たちの村を思い出した。原生林の中の川の近くに木の小屋が並んでいた。確か、その時にも「デルス・ウザーラ」の場面と重なって、日本語ガイドさんに「黒澤の『デルス・ウザーラ』の舞台はこのあたりなのか」と尋ねた記憶がある。日本語も達者、知識も多いガイドさんだったが、黒澤のことも作品のことも知らなかった。

 

「靴みがき」 1946年 ヴィットリオ・デ・シーカ監督

 10枚組DVDが2000円以下で販売されている。買いためておいたのを、見始めた。

 フランスやイタリアの古い映画は、学生のころ(1970年代)、京橋のフィルムセンターでまとめてみた。名画座でも時々かかっていた。大学内で上映会も開かれていた。「靴みがき」をみるのは、3回目か4回目だと思う。とてもいい映画だと思う。ロッセリーニの映画ほどには鮮烈ではないが、もちろんネオレアリスモの傑作の一つだ。

 戦後のローマで靴みがきをする仲良しのジュゼッペとパスクアーレ。お金をためて馬を買うが、その直後に、犯罪にかかわったために少年院に入れられる。パスクアーレがジュゼッペを救おうとして犯罪の主犯の名前を明かしてしまったために、ジュゼッペにスパイと誤解されたころから、二人の間がうまくいかなくなり、ジュゼッペは邪な少年院仲間と親しくなり、その誘いに乗って脱獄。それを止めようとしたパスクアーレは争ううちにジュゼッペを死なせてしまう。

 戦後イタリアの格差の大きな社会の中、必死に生きながら、大人の利害や社会の硬直性によって傷つけられていく子供たち。無二の親友だった無垢な二人の仲互いと悲劇という形で社会を告発している。映画造りの名手デ・シーカらしい作品。子どもたちの心の中がよく理解できるし、だれもが共感できる。

 

「自転車泥棒」 1948年 ヴィットリオ・デ・シーカ監督

 この「自転車泥棒」も3度目くらいだろう。これも、ネオレアリスモの傑作。

 男が仕事に不可欠な自転車を奪われ、子どもと一緒に必死に探すが、見つからない。最後、どうしようもなくなって、子どもを遠ざけて他人の自転車を盗む。すぐにつかまるが、泣いて父親にすがる子どもに免じて許してもらう。それだけのストーリーだが、終戦直後のイタリアの貧富の差、貧しい人々の必死の生活、庶民のたくましく生きる力、人間の心の機微が描かれている。客観的に現実を描くというよりも、子どもの目から父親の犯罪を見る悲しみを描いており、いかにもデ・シーカらしい。改めてみて、とても良い映画だと思った。

 

「ウンベルト・D」 1952年

 40年以上前に、一度だけみた覚えがある。ただ、貧しい老人が主人公の、とてもいい映画だったという記憶があるだけで、詳細はまったく覚えていなかった。

 ウンベルトは身寄りのない年金暮らしの老人。部屋代を値上げされ、未納がかさんで、アパルトマンを追い出されそうになっている。子犬をかわいがり、アパルトマンの女中をしている若い娘とだけ心を通わせながら、何とか部屋代を工面しようとするが、それができない。売るものも底をつき、かつての友人や同僚に借金を申し込み、乞食をしようとまで腹を決めるが、かつての公務員のプライドがそれを邪魔する。外に出るときにはネクタイを締め、それなりの格好をすることを忘れない。犬をかわいがってくれる人に託して自分だけ死のうとするが、それもできずに途方に暮れる。

 貧しい老人の悲しみ、絶望、必死の思いが伝わる。解決は何も見いだされずに映画は終わる。現実はそれほどまで厳しかったのだろう。1952年のイタリアの映画だが、第二次大戦の大混乱を経たイタリアには高齢者が生きていくだけの経済力を持たなかったのだろう。アパルトマンの女中は妊娠するが、父親と思われる兵士も責任を取ろうとしない。明るい未来は示されないまま終わる。

 もしかすると今の私はこのウンベルトよりも年上かもしれない。そして、これからの日本は当時のイタリア以上の深刻な状態になるかもしれない。その意味ではとても現代的な映画といえるかもしれない。

 

「ミラノの奇蹟」 1951年 ヴィットリオ・デ・シーカ監督

 これも以前、一度だけみた。不思議なファンタジー映画だったという記憶があるだけで、よく覚えていなかった。

 ミラノの郊外で、キャベツ畑に捨てられていた男の子がトトと名付けられて、やさしい魔女?に育てられる。魔女の死後は孤児院で暮らして、楽天的で心優しい青年になる。トトは貧民街で暮らすようになり、底抜けの明るさとやさしさで人気者になり、町をもっと快適なものに改めようとする。そんなとき、貧民街から石油が噴き出し、地主がそこに住む人々を追い出そうとする。トトは地主の善意を信じて行動するが、裏切られる。トトは貧民たちとともには警官隊に捕らえられて、ミラノのドゥオーモの前にやってくるが、亡き魔女にもらったすべての願いをかなえる鳩の力で箒に乗って大空を飛び回る。「ちょっとした住むところと食べるもの、そして明日への希望さえあれば十分」という歌声で映画は終わる。

 社会が落ち着くにつれて格差が拡大していた当時の時代を反映しているのだろう。ファンタジーという形でしかユートピアを描けなかったともいえそうだ。だが、あまり面白い映画だとは思わない。「ちょっとした住むところと食べるもの、そして明日への希望さえあれば十分」というメッセージはとても素晴らしいと思うのだが、どうも話そのものがそうしたメッセージに結びつかない。最後、多くの人々が放棄に乗って空を舞うのも、意味がよくわからない。

 私は実はあまりファンタジーというものを理解しない人間だからかもしれないが、デ・シーカ作品としては少し物足りなく思えた。

 

「終着駅」 1953年 ヴィットリオ・デ・シーカ監督

 この映画も二、三度みた記憶がある。この映画が作られてから20年以上たった1970年代、私は初めてローマを訪れ、4、5日間、この映画の舞台になっているローマのテルミニ駅付近の安ホテルに泊まって、周囲をうろうろした。列車を使ってヨーロッパを旅行していたので、もちろんテルミニ駅から何度も列車に乗った。私が訪れたころはすでに蒸気機関車は使われなくなっていたが、それを除けば、この映画そのままの施設とお店だった。今も、鮮明に思い出す。

 アメリカ人の人妻(ジェニファー・ジョーンズ)がローマに住む妹の家に身を寄せて一か月ほどを過ごした後、夫と娘の待つ家に列車を使って帰ろうとしている。イタリアで出会って狂おしいほどの恋に落ちた男性(モンゴメリ・クラフト)ときっぱりと別れようとしているのだが、列車に乗り込んだ後、青年が追いかけて、必死にとどめようとする。いったんは列車を降り、二人は混雑するターミナル駅の中で時間を過ごす。揺れ動く人妻と、恋を成就させようと引き留める青年を、その映画の時間と同じ90分間ほどで描いていく。メロドラマなのだが、両方の心がよく理解できるために、身につまされる。結局は、人妻は列車に乗って恋人と別れを告げる。長い人生の中で、私もこのような体験をしていないでもないので、実に切ない。

 駅はその日、大統領が到着することになっており、ふだん以上に混乱している。人妻の甥、駅で出会う体調を崩した貧しい女性やその子供たち、女性を誘惑しようとしている中年男、田舎から来た人々、外国人、新婚夫婦、新聞記者、カメラマンなど、駅を行きかう集団や個人が描かれる。どのようにして撮ったのかわからないが、まさに現実の駅そのままのように感じられる。駅では、日々、形を変えながらこのような別れと出会いがなされているだろうことを強く感じさせる。

 そして、今、これを見て非常に強く感じるのは、階層の違いが明確に表れていることだ。ほかのデ・シーカの映画とは違って、この映画の主人公たちは上位の階層の人々だが、見るからに貧しい人とは服装が異なり、立ち居振る舞いも異なり、駅や列車の中の出入りする場所も異なる。このような背景があるから「靴みがき」や「自転車泥棒」などの映画が成り立たったのだということも改めて感じる。現在、階層が極端に拡大していると思われるが、服装などの面では、それが見えにくくなっているともいえそうだ。

 

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ベルトルッチの映画「殺し」「1900年」「魅せられて」「シャンドライの恋」「孤独な天使たち」

 新型コロナウイルスの影響で家にいることが多いので、購入したままになっていたベルトルッチ監督の映画のDVDを数本みた。かつてみたことのあるものもあれば、初めてのものもある。簡単に感想を書く。

 

「殺し」 1962

 ベルトルッチのデビュー作。原案はパゾリーニ。私は学生時代、パゾリーニに心酔していたので、この映画にはずっと昔から関心を持っていた。この映画は日本では一般公開されていないと思うが、どんな機会だったか、一度見た記憶がある。期待ほどではなかったのでちょっとがっかりしたのを覚えている。で、今回みて、やはりあまり名作ではないと思った。

 ローマの場末の公園近くで娼婦が殺される。その公園を通った人物数人が刑事に向かって証言する。証言者たちの回想によって下町の人々の生活が浮き彫りにされていく。のぞき、かっぱらい、高利貸し、男あさりする同性愛者が夜の公園をうろうろする。いかにもパゾリーニ好みの下層の愛すべきろくでなしたち。パゾリーニの小説「生命ある若者」や映画「アッカートーネ」で描かれる世界だ。

 ただ、物語としては、特に何の仕掛けもなく娼婦殺しが発覚し、ほかの証言と錯綜するといったこともないので、少々肩透かしの気分になる。とはいえ、映像は素晴らしい。モノクロの画面に下町の人々の猥雑な生命が抽象化されて描かれる。下町の薄汚い光景が一編の詩になっている。

 

1900年」  1976

 封切時にみたのをよく覚えている。大きな感銘を受けたが、必ずしも名作とは思わなかった。が、今みてみると、これはベルトルッチの代表作の一つだと思う。

 1900年に生まれた二人の男の子の生涯をイタリアの歴史の中に描いている。5時間を超す大作。一人は大地主の孫として、もう一人は小作人の孫として生まれ、兄弟のように競い合い、けんかしあって生きていく。だが、長じるにしたがって、立場が変わり、地主階級のアルフレード(ロバート・デ・ニーロ)は、強権を嫌いながらも、そこから一歩も出ようとせず、ファシストたちが手下として動くのをやめさせることができない。小作人のオルモ(ジェラール・ドパルデュー)は搾取に喘ぎ、社会主義者になって農民を組織化しようとし、ファシストに抵抗する。1945年、ファシストは破れ、農地は社会主義的高揚に包まれる。アルフレードは人民裁判にかけられ、有罪となるが、オルモに提案によって命は助けられる。最後、老年になった二人が幼いころと同じように喧嘩をし、競い合っているところで映画は終わる。

 大きく時代が動いた半世紀の人間、土地、自然のさまがまさにリアルに生きたものとして描かれている。大スターたちの演技も見事だが、それ以上に、すべての場面がまさに動く美術品といえるほど美しい。戸外も屋内も、牛小屋や豚小屋でさえも美術作品になっている。

 アルフレードの自由奔放な妻アーダを演じるドミニク・サンダ(一時期、私の最も好きな女優さんだった!)、地主のバート・ランカスター、ファシストのドナルド・サザーランド、その妻役のラウラ・ベッティ、そしてファシストに陥れられる貴婦人役のアリダ・ヴァリなどの世界的大スターたちが存在感を示している。

 1945年の社会主義的高揚をこれほど鮮やかに描くのは、ベルトルッチ自身の思想によるのだろうが、おそらくこれは第二次大戦終了後の西欧の気分を描くと同時に、この映画が作られた1976年の時代の気分も反映しているだろう。いま、みなおして、古典的なファシストは存在しなくなったが、形を変えたファシストが現在もいることを思わぬではいられない。

 

「魅せられて」  1996

 若く美しいアメリカ人女性(リブ・タイラー)が、かつて一度だけ訪れたことのあるイタリア・トスカーナの山間にある亡き母の友人の家に滞在し、自分の出生の秘密を探ろうとする。そして、そうするうち、そこに集まる人々の性愛を知り、人間模様を知り、母と交流のあった死を直前に控えた詩人(ジェレミー・アイアンズ)を知る。最後、本当の父を知り、憧れを抱いていたのとは別の男性に処女を捧げる。

 見始めた時には、大勢の登場人物(しかも、みんなが美男美女!)の人物把握に苦労したが、さすがベルトルッチだけあって、自然に理解できるように進んでいく。無防備な女性が性を知り、愛を知り、死を知る・・といういわば「教養小説」の類の物語だが、トスカーナの自然も美しく、画面全体が官能的でもあり、描かれる人生に重みもあって、とても魅力的な映画に仕上がっている。近所に暮らすフランス人老人の役でジャン・マレーが出演している。圧倒的存在感。そして、ジェレミー・アイアンズがいい味を出している。もちろん、リブ・タイラーはあまりに魅力的。

 

「シャンドライの恋」 1998

 アフリカの国で、夫を政治犯として捕らえられたシャンドライ(タンディ・ニュートン)は、その後、ローマで暮らし、イギリス人のピアニスト、キンスキ(デヴィッド・シュールス)の家の手伝いをしながら医学を学んでいる。シャンドライを愛するようになったキンスキはシャンドライの願い通り、様々な物を売り払って夫を出獄させる。シャンドライもキンスキを愛し始め、夫が解放されてシャンドライのもとにやってくる前の夜、シャンドライは酔ったキンスキの胸に体を寄せる。

 ピアノが官能を掻き立てる。モーツァルト、ベートーヴェン、スクリャービン。アパルトマンの螺旋階や物干し場になった屋上の映像が美しい。アフリカの女とイギリスの男。真面目で内向的な二人がおずおずと不器用に自分の思いを伝え、心を通わせていく様子が、音楽を通し、ローマの下町の光景を前にして描かれていく。

 最後、夫がアパルトマンに到着するが、キンスキのベッドの中にいるシャンドライはそのまま動かない。夫が途方に暮れているところが遠景で撮られて映画は終わる。

 私のような前期高齢者がみても心にしみる恋愛映画の傑作だと思う。

 

「孤独な天使たち」 2012

 ベルトルッチ最後の作品。闘病生活後に撮影。その後の作品が期待されたが、結局、映画を撮らなかった。

 14歳のロレンツォは周囲となじめず、社会に敵意を示して生きている。学校のスキー教室に参加すると親をだまして、家の地下室で一人の時間を過ごそうとする。ところが、そこに長い間、絶縁状態だった異母姉が寝場所を求めてやってくる。孤独な少年とヤク漬けの若い女との同居が始まる。初めのうち、少年は女性を拒否するが、だんだんと大人になりかけた女性の苦しみ、社会との軋轢を知るようになる。

 要するに、引きこもり少年の個室に同じように苦しむ女がやってきて、そこで女性を見るうちに、社会との接点を取り戻す物語といってよいだろう。

 ただ、私には、少年が社会性を取り戻していく過程がよく理解できなかった。14歳のころの私も、この少年と同じように周囲に敵意を向け、自分の中にこもるタイプの人間だったのだが、それから50年以上がたって、あのころの気持ちを忘れてしまったのかもしれない。

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中国映画「古井戸」「草原の女」「あの子を探して」「妻への家路」

 外に出る用がないので、自宅で仕事をしたり、音楽を聴いたりしている。昨日からちょっと風邪気味。間違いなく、ふつうの軽い風邪だと思うが、大事をとって自宅でゴロゴロすることにした。中国映画を何本か見た。簡単な感想を書く。

 

「古井戸」 1987年 呉天明(ウー・ティエンミン)監督

 原作の訳本はずっと昔に購入。ただし、読まないまま本棚のどこかに並んでいる。名監督チャン・イーモウが主役を演じている。よい役者だと思うが、恋人役の女性と年齢的に釣り合わない気がする。

 山間の盆地にある部落。井戸が枯れたため、村人全員が新しい井戸を渇望している。主人公は井戸の事故で死んだ父の後を受けて、井戸掘りに奮闘し、最後には水を出すことに成功する。そうした状況を主人公の恋や、別の未亡人との無理やりの結婚を通して描く。

 中国の寒村の苦難、文革後の人々の状況、その中で懸命に生きる人の姿が描かれて、とてもおもしろい。ただ、現在の日本で暮らす肩の力の抜けた私からすると、主人公たちはちょっとうっとうしい。ストーリーも少し無理を感じる。

 

「草原の女」 2000年 ハスチョロー監督

「胡同の理髪師」のハチチョロー監督のデビュー作。出身地の内モンゴルを舞台にしている。「胡同の理髪師」があまりに素晴らしかったので、購入してみた。

 息子と二人で暮らす女性のもとに暗い過去を持つ男が仕事を求めてやってくる。その交流と男の過去、そして留守中の夫の関係が描かれる。

 初めのうちは、淡々と描かれる内モンゴルの草原やゲルでの暮らしに惹かれるが、残念ながら、期待外れとしか言いようがない。あまりに都合の良い、しかもありきたりの波乱万丈のストーリーが展開され、そこに必然性が感じられない。昔、少年向けの西部劇をまねた漫画でこんな話をずいぶん読んだような気がする。人物像もあまりに薄っぺら。途中からみるのがつらくなってきた。

 

「あの子を探して」 1999年  チャン・イーモウ監督

 代用教員として、本職の教員の留守を預かって小学校で子供たちの面倒を見るようになった13歳の少女ミンジ。何とか子どもたちをまとめ、出稼ぎのために町に出て行方不明になった子どもホエクーを迎えに単身でかけて、苦労の末に見つけ出す。

 ミンジは賢いわけではない。やることなすこと、あまりに子供っぽくて、失敗ばかりする。まさに等身大の13歳。最後には、子どもたちは心からミンジを慕うようになる。そうしたミンジの行動や子どもたちとの心の交流を貧しい農村や人でごった返す都会の中で丁寧に描く。

 ミンジはかわいい少女でもなく、かわいげのある行動もとらないし、賢くもないので、初めのうちは感情移入できない。だが、徐々に、そのけなげな行動に心打たれるようになってくる。そして、そのうち、ミンジやホエクーがたまらなく愛しく思えてくる。私だけでなく、だれもがそうだろう。そのように仕向ける子どもたちの演出が見事ということだろう。

 13歳の子供が代用教員として子供を教えるというようなことが現実にあったのかどうかはわからない。が、1999年には小学校も十分に機能していない中国の農村があったのは事実だろう。貧しい子供たちの心の交流を描く映画として、とても感動的だ。

 

「妻への家路」  2015年 チャン・イーモウ監督

 文化大革命の間、右派として西域に収容されていた夫(チェン・ダオミン)が解放されて、妻(コン・リー)のもとに戻ってくる。だが、夫は文革中、娘を含めて周囲のみんなに存在を否定されていた。そのせいか、今では妻は心の病にかかり、夫の姿が記憶から失われている。夫が帰宅しても、妻はそれを夫と認識せずに拒んでしまう。夫は近くに住んで、娘とともに妻の記憶を取り戻そうとするが、最後まで記憶は戻らない。妻は文革から解放されて駅に戻るはずの夫を待って駅に迎えに行く。夫はその妻に寄り添って、幻影の自分を待つ。

 文革というあまりに理不尽な歴史に翻弄された夫婦の物語。だが、同時に、人間と人間の心のすれ違いをとても鋭く描いている。人は多くの場合、心底、人を愛する。そして、しばしば心から愛し合う。だが、愛の対象は、実は幻想のものでしかないことも多い。愛し合っていながら、それがかみ合わない。そんな思いをした経験は私にもある。そのような心の奥底がつたわってくる。せつなくて、美しくて悲しい映画だ。

 まさに大人の映画。俳優たちの抑えた演技も見事、文革の傷跡もさりげなく、しかも痛々しく描いて、心にしみる。名作だと思う。

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オペラ映像「死の家より」「アフリカの女」「アンジュのマルガリータ」「火刑台上のジャンヌ・ダルク」「ラ・ドンナ・セルペンテ」

 新型コロナウイルス警戒中の戒厳令下ともいえるような状況の中、行く予定だったオペラやコンサートも中止になり、仕事の打ち合わせもキャンセルされて、仕事場に週に2度ほど出かける以外は自宅で仕事をしたり、音楽を聴いたりしている。政府のウイルス対策の甘さに呆れ、突然の休校要請にも驚き、あれこれ言いたいことはあるが、ともあれ、政府の対応が間違いなかったと示してくれることを祈るしかない。

 この間にみたオペラ映像について簡単な感想を記す。

 

ヤナーチェク 「死の家から」2018年 ミュンヘン、バイエルン国立歌劇場

 ヤナーチェクは大好きな作曲家なのだが、この映像については噴飯ものというしかない。私の最も嫌いなタイプの演奏と演出だ。

 指揮はシモーネ・ヤング。穏やかで鋭さのないヤナーチェク。私はヤナーチェクの、心の奥底を抉り出し、人間の宿命を呪いたくなるような生の音が好きなのだが、それがまったくない。気の抜けたヤナーチェク。これでは、ヤナーチェクの良さが少しも感じられない。ドストエフスキー原作の、シベリアに流刑になった囚人たちの絶望と呪いと憎しみと生への執着とはかない憧れがまったくない。ヤングは好きな指揮者なのだが、この柔和さはいただけない。

 演出は悪趣味この上ない。舞台上に撮影隊がいて、登場人物たちを舞台中央に据えられた大画面に大写しにする。そこで登場人物が何やらパントマイムをして本来のオペラとは異なる小芝居がなされる。無声映画のように大げさな動きで口をパクパク言わせ、何かを語り、それが字幕で示される。しかも、その小芝居やせりふはほとんど意味不明。

 そして、少年犯罪者であるはずのアリイエイヤを美形のエフゲニア・ソトニコワが美しい鳥の扮装で登場。このオペラでは、鳥が自由に象徴として登場するが、その鳥の役をアリイエイヤがいわば二役で演じているわけだ。しかし、そんなことをするとこの悲惨な囚人たちの死の家がまったく違ったものになってしまう。

 もとのオペラとはまったく無関係な自己主張を行う演出家の自己満足のおふざけでだただにぎやかなだけ舞台と、腑抜けた音楽によるオペラに仕上がってしまっていた、

 期待していただけに大変残念。

 

マイアベーア 「アフリカの女」1988年 サンフランシスコ歌劇場

 先日に続いて、マイアベーアのオペラ映像を見た。かなり古い映像だが、まさに伝説的名演といってよいだろう。マイアベーアのオペラそのものもなかなかおもしろい。ヴァスコ・ダ・ガマと二人の女性をめぐる物語。マイアベーアがユダヤ人だったせいか、虐げられ、差別されているアフリカ女への共感が音楽にも表れている。

 ヴァスコ・ダ・ガマを歌うのはプラシド・ドミンゴ。さすがというか、輝かしい声が素晴らしい。ただ、ちょっと訛りの強いフランス語といった感じ。だが、そうであるがゆえに、このような輝かしくも強さのある声が出せるのだろう。それ以上に、ヴァスコを愛するアフリカ女セリカを演じるシャーリー・ヴァーレットが素晴らしい。ドミンゴにまったく引けを取らず、芯の強い、しかも魅力的なセリカを歌っている。イネスを歌うルース・アン・スウェンソンも清楚で美しくて可愛らしい。この歌手、これまで注目したことがなかったが、とてもいい歌手だ。ネルスコのフスティーノ・ディアスも怒りを心の奥に秘めた男を見事に演じている。

 マウリツィオ・アレーナの指揮もドラマティックでとてもいい。ルトフィ・マンソーリの演出も、極めて古典的ながら、わかりやすくていい。

 

マイアベーア 「アンジュのマルガリータ」2017年 マルティナ・フランカ、第43回イトリアの谷音楽祭

 まるでロッシーかドニゼッティのオペラのよう。とりわけ、ガウマッティはフィガロのような役割を果たし、アジリータを駆使したアリアもある。マイアベーアがロッシーニの後を継ぐ作曲家だったことを思い出した。

 オーケストラは、イタリア国際管弦楽団。音楽祭のための臨時編成のオーケストラなのだろう。最初のうち、情けない音を出す場面があるが、だんだんとしっかりした音が出るようになる。ファビオ・ルイージの指揮のおかげなのか、引き締まっていながらも色彩的な音楽になっている。

 ばら戦争が舞台だが、アレッサンドロ・タレヴィの演出は現代に移し替えられている。しかし、それほど違和感はない。

 マルガリータを歌うジュリア・デ・ブラシスが自在な演技と歌でとてもいい。あけっぴろげな権力者の未亡人を見事に歌いだしている。夫をマルガリータに奪われたイサウラ役のガイア・ペトローネも見事。男に変装して裏切った夫に近づき、最後には夫の元に戻るという複雑な役を自然に演じている。メゾ・ソプラノの声も歌もしっかりしている。ガマウッテのマルコ・フィリッポ・ロマーノも声が安定し、芸達者。とてもいい歌手だ。ただ、ラヴァレンヌ公を歌うアントン・ロシツキーは、きれいな高音を出すが、声のコントロールが粗い。ちょっと残念。

 とはいえ、全体的に歌手陣は充実しており、とても楽しめた。

 

オネゲル オラトリオ「火刑台上のジャンヌ・ダルク」2012年 バルセロナ、サラ・パウ・カザルス

 この曲は何度かCDで聴いたり、映像で見たりしたことがあったが、おもしろいと思ったことがなかった。私はかつてクローデルをフランス語で何冊か読んだ(翻訳もした)が、そのあまりの難解さに頭を抱えたものだ。この台本もわかりにくい。しかも、音楽もとらえどころがない。そう思っていた。

 が、今回聴いてみて、初めて感動した。演奏会形式なので、歌手たちは演技するわけでもなく、それらしい服装をしているわけでもない。もちろん舞台装置もない。だが、ジャンヌを歌うマリオン・コティヤールがとてもいい。清楚で美しい声。完全にジャンヌに見えてくる。コティヤールが何度か涙を流す。まさにそれはジャンヌの涙だ。無理解な周囲に悲しみを抱きつつ、神の世界に入ろうとして火刑になる。生きながら焼かれることで神に近づく。抽象化されたクローデルの台本に、緻密で繊細で知的で、しかも情熱的な音楽が付されていることに初めて気が付いた。

 ドミニク神父を歌うグザヴィエ・ギャレも誠実な歌で見事。そのほかの歌手たちもいいし、いくつかの混声合唱団らしいが、合唱もいい。マルク・スーストロの指揮を初めて聴いたが、真摯で静かに盛り上がる。

 一度だけでなく、これから何度か聴いて、もう少し深く理解したいと思った。

 

カゼッラ 「ラ・ドンナ・セルペンテ」 2016年 トリノ、レッジョ劇場

 カゼッラは1883年に生まれたイタリアの作曲家。このオペラは1932年の作曲だという。もちろん、初めてこのオペラを知った。「ラ・ドンナ・セルペンテ」を日本語に訳すと、「蛇女」。とてもおもしろかった。

 ストーリー的には、ドヴォルザークの「ルサルカ」に似ている。人間世界のアルティドール王に恋をした妖精ミランダが、永遠の愛を条件に人間になろうとするが、王は試練に耐えきれずミランダを呪ってしまう。そのため、罰としてミランダは蛇の姿に変えられるが、最後には愛の力が勝ってミランダは人間になる。そのような物語がコミカルでモダニズム風の音楽によって展開される。音楽的には、プロコフィエフの「三つのオレンジへの恋」を思わせる。抒情性はなく、からりとしてちょっとハチャメチャ。それがなかなかおもしろい。

 ミランダを歌うカルメラ・レミージョがとてもいい。ちょっと色気があって、しかも十分に清楚。アルティドール王のピエロ・プラッティは、外見はこの役にぴったりだが、声は少し不安定。そのほかの歌手たちはかなりレベルが高い。

 アルトゥーロ・チリッロの演出はとても楽しい。道化芝居風の衣装やら妖精たちの衣装など、色とりどり。バレーが多用され、帽子や仮面を身に着けた妖精たちの踊りも楽しい。色鮮やかな舞台の上で様々な登場人物が動きまわって、ファンタジックな世界が繰り広げられる。指揮はジャナンドレア・ノセダ。ダイナミックでリズミカル。とてもいい演奏だ。

 初めて知る作曲家の初めてみるオペラだったが、とても楽しめた。

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マイアベーアのオペラ映像「ユグノー教徒」「悪魔のロベール」

 テレビでニュースを見るごとに、新型コロナウイルス感染者の数が増えている。実は、報道されているよりはずっと多くの感染者がいて、すでに危機的状況になっているのではないかと恐怖を覚える。私の周囲には妊婦がいて、90歳を過ぎた高齢者がいる。間違っても、私が媒介になって病気をうつすわけにはいかない。

 そんなわけで、予定していたコンサートにも映画にもいかず、できるだけ自宅で過ごしている。だいぶ前に購入してみないままになっていたマイアベーアのオペラ映像を取り出してみはじめた。

 マイアベーアには、もちろんあまりなじみはない。アリア集などで数曲知っている程度。オペラ全曲のCDは何枚か持っているが、最後まで聴いたという自信がない。実演には一度も接したことがない。ものの本には、きまって「マイアベーアは熱狂的人気を博したが、芸術的価値がない」と書かれていた。ともあれ、自分の耳で確かめてみようと思って見始めたのだったが、これがなかなかおもしろい。簡単な感想を記す。

 

マイアベーア 「ユグノー教徒」(ドイツ語版)1991年 ベルリン・ドイツ・オペラ

 この映像をみるのは初めてのつもりだったが、途中から既視感(既聴感!)を覚えた。とりわけ、マルセルの不安定な声を聴くうち、これとそっくりのマルセルを聴いた気がしてきた。たぶん、昔LDで発売されていたのと同じ映像だろう。

 この映像はかなりカットされているようだが、ストーリーはありきたりとはいえ、聖バルテルミーの戦いを題材にとって、とても現代的だし、魅力的な旋律も多い。

 ジョン・デューの演出は、現代の宗教的不寛容と重ね合わせられるようになっている。登場人物は現代の服を着ている。イスラエルとパレスチナの壁を思わせる。

 ラウルのリチャード・リーチ、マルグリット王妃のアンジェラ・デニング、ヴァランティーヌのルーシー・ピーコックは、突出はしていないが、しっかりとしたアンサンブルで歌って、とてもいい。ウルバンのカミュ・カパッソは少し弱い。もう少し、声の輝きが欲しい。マルセルを歌うマルティン・ブラシウスが不調なのか、あまりに不安定。

 ステファン・ゾルテスの指揮については、このオペラになじんでいない私としては何もコメントすることはない。特に不満は感じなかった。ただ、ぐいぐい引き込まれることもない。

 なお、私の購入したDVDは、時々画像が乱れ、1時間8分のころから10数分、視聴できなかった。別のプレーヤーで試してみたが、そこでも同じ結果だった。数年前に購入してみないままでいたので、今更交換してもらうことはできないと思うが、少々残念。

 

マイアベーア 「ユグノー教徒」(仏語) 1990年 シドニー・オペラ・ハウス

 以前、サザーランドの6枚組DVDを購入したものの、画質・音質ともにあまりよくなく、字幕も英語しかついておらず(私は、日本語字幕がない時にはフランス語字幕でみる。英語字幕はかなり苦手)、しかもなぜか画面が横に広がって見える(つまり、実際以上に歌手たちが太目に見える!)ので、そのままみないでいたのだが、「ユグノー教徒」が含まれているのを思い出して、引っ張り出してかけてみた。ベルリン・ドイツ・オペラのものよりは、こちらのほうがずっとドラマティックでよかった。

 マルグリットをサザーランドが歌っている。最盛期を過ぎており、声のコントロールが十分ではないが、高音の美しさは圧倒的。世界のプリマの声の威力は格別だ。そのほかの歌手たちはずぬけた人はいないが皆がそろっている。ヴァランティーヌのアマンダ・セインは可憐、ラウルのアンソン・オースティンは実直な雰囲気でなかなかいい。そしてそれにも増して、ヌヴェール伯爵のジョン・プリングル、サン・ブリ伯爵のジョン・ヴェーグナー、マルセルのクリフォード・グラント、ウルバンのスザンヌ・ジョンストンの四人がしっかり脇を固めて、堅固な世界を作り出している。

 リチャード・ボニングの名前は、サザーランドの夫として認識していたが、改めて聴くと、とてもいい指揮者だと思う。ドラマティックで躍動感があり、ぐいぐいとドラマを進めていく。ロトフィ・マンスリの演出も、豪華で、いかにもグランド・オペラ。ヴァランティーヌの動きなど、まさに可憐でか弱い女性の動きとして、1980年代によく見かけたものだった。それはそれでなかなか説得力がある。とても楽しめた。

 

マイアベーア 「悪魔のロベール」 2012年 ロンドン、ロイヤル・オペラ・ハウス

 これをみると、マイアベーアが大作曲家だと納得する。もちろん、ワーグナーとは比べるべくもないが、フランス・グランド・オペラの魅力が存分に味わえる。ぞくぞくするような蠱惑的な音楽、ドラマティックな音楽が全体を貫き、ストーリーもおもしろい。悪魔ベルトランも魅力たっぷり。

 上演も素晴らしい。私はとりわけベルトランを歌うジョン・レリエに驚嘆した。豊かな声量で、凄味がある。ロベールのブライアン・イーメルは芯の強い美声で、二つの心の間で揺れ動く姿をリアルに歌う。イザベルのパトリツィア・チオーフィはさすがの歌唱。大写しになると恋する乙女に見えないのが残念だが、致し方ないだろう。アリスのマリーナ・ポプラフスカヤは可憐な声でとてもいい。ランボーのジャン=フランソワ・ボラも純朴な青年らしくて好感が持てる。フランス語の発音も私にわかる限りとても正確で美しい。

 ダニエル・オーレンの指揮も、観客をドラマの世界に巻き込んで、見事。修道女たちのバレーも場面など、蠱惑的で不気味。こんなにいい指揮者だったとは。

 そして、何よりもロラン・ペリの演出に圧倒される。舞台全体に動きがあり、それがまったく無駄がなく、しかも邪魔ではない。そうして、わかりやすく舞台が進行する。修道女たちの踊りも出色。マイアベーアってすごい作曲家ではないか!

 

・サザーランド・パヴァロッティ・ボニング コンサート 1983年 シドニー・オペラ・ハウス

 サザーランドの6枚組DVDのなかに、1983年のシドニー・オペラ・ハウスでのガラ・コンサートが含まれていたので、聴いてみた。イタリア・オペラ、フランス・オペラのアリアや二重唱が含まれている。まさしく圧巻。サザーランドはトマの「ハムレット」の有名なアリアあたりから全開になっていく。「ルチア」の二重唱も素晴らしい。そして、それ以上にパヴァロッティがすごい。「衣装を着けろ」や「人知れぬ涙」は言葉をなくす。パヴァロッティの濁りのない軽やかな声を聴くと、まさに稀代のテノールだったと痛感する。

 

 それにしても、早く新型コロナウイルスが終息してほしい。大ごとにならないでほしい。政府の対応に期待したい。

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