ハイティンクのこと、そして「コンバット」のこと再び

 ベルナルト・ハイティンクの訃報をみた。グルベローヴァに次いで、また親しんできた名演奏家が亡くなった。

 私にとってハイティンクは大好きな指揮者というわけではなかったが、コンセルトヘボウ管弦楽団、ウィーン・フィル、ロンドン交響楽団、シュターツカペレ・ドレスデン、ロイヤル・オペラ・ハウス来日公演でモーツァルト、ベートーヴェン、ブルックナーを聴いて、そのたびに深く感動した記憶がある。じっくりと音楽の本質を聴かせてくれる演奏だった。若いころの録音は「特徴がない・生ぬるい」などと批評されることが多く、ヨーロッパでの名声のわりに日本では人気がなかったように思う。そして、実際、私も録音を聴いて、そのような印象を抱いた。だが、実演を聴くと、そのような低い評価を忘れてしまうだけの説得力があった。本当に素晴らしい指揮者だなあと何度も思った。合掌。

 

 先日、昔のアメリカのテレビ・ドラマ「コンバット」のDVDを購入して観始めたことをここに報告した。結局、シーズン1・2と6の合計73話をみた。全152話の中の半分弱ということになる。とてもおもしろかったが、さすがにちょっと飽きてきて、シーズン3・4・5はとばした。

 シーズン6からカラー放送になっているが、さすがにネタ切れになったようで、だんだんと設定が不自然になっていく。囚人兵を組織してならず者部隊にしたり、敵味方が入り乱れて洞窟に閉じ込められたり、敵の戦死者を味方の生きた兵士に見せかけて敵の攻撃をかわしたりといった、ちょっとふつうではありえないエピソードが続くようになった。それはそれで面白いし、ドラマとしてとてもよくできているのだが、初期のリアルな戦争の状況を描いていたのとは様変わりしている。

 それにしても、登場人物のキャラクター設定がおもしろい。ヴィック・モロー演じるサンダース軍曹は身のこなしも機敏、人間の心を知ったうえで、厳しく戦争の現実と向き合い的確に戦闘を進めていく。リュック・ジェイソン演じるヘンリー少尉は身のこなしこそサンダース軍曹に劣るが、知的な雰囲気はなかなか魅力的。6、7割はサンダース軍曹が主役、時にヘンリー少尉が主役だったが、中学生の私は、その回の主役がサンダース軍曹ではなくヘンリー勝利だとちょっとがっかりしたものだ。それから50年以上経った今も、やはり同じように私はヘンリー少尉よりもサンダース軍曹が登場する回を好む。

 ほかのレギュラー陣も実に人間的。このようなキャラクターであるからこそ、戦争ドラマが無理なく続いたのだと思う。カービーはきわめて優秀な兵士であり、他人思いで心優しいが、喧嘩っぱやくて、女にだらしがなくて、差別意識を強くて常に問題を起こす。ケーリー(アメリカ版ではケージという名前になっている)はフランス系のカナダ人で、フランス語通訳を務め、しっかりと自分の仕事をやり遂げる、いわば職人。リトルジョンは少し動作がのろく、あまり知的とは言えないが、しっかりした倫理観と常識を持っている。カーター衛生兵は、銃撃にはかかわれない中、衛生兵として人の命を何よりも大事にして、仕事を全うしようとする。そんな兵士たちの織り成すドラマは戦場という究極の場での人間ドラマになる。

 当時の映画スターたちやその後スターになる人たちが大勢出演しているのにも驚いた。以前、再放送などでみて、ジェームス・コバーン、リカルド・モンタルバン、ロバート・デュヴァル、デニス・ホッパーが出演していたのは認識していたが、エディ・アルバートとアリダ・ヴァリが(内縁の?)夫婦役で出たときには本当に驚いた。ただ、私のようなヨーロッパ映画ファンにとって、アリダ・ヴァリと言えば、オードリー・ヘップバーン級の大スターなのだが、あまり扱いが大きくないのが残念。

 しばらく休んで、また「コンバット」をみたくなり、そのころ、まだDVDが販売されていたら(できれば、それほど高くない金額で!)、その時、残りのシーズン3・4・5をみることにしよう。

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ラザレフ&日フィルのショスタコーヴィチ第10番 芝居っけたっぷりで爽快

 20211022日、サントリーホールで日本フィルハーモニー交響楽団演奏会を聴いた。指揮はアレクサンドル・ラザレフ。曲目は、前半にリムスキー=コルサコフの「金鶏」組曲と、福間洸太朗が加わって、同じリムスキー=コルサコフのピアノ協奏曲、後半にショスタコーヴィチの交響曲第10番。

 先日のブロムシュテットとN響のときと同じように、ラザレフが最初に登場して、その後、団員が現れた。このごろ、このような登場の仕方がスタンダードになったのだろうか?

 オペラ「金鶏」は大傑作だと思うが、組曲は、私はあまり楽しめなかった。ラザレフと日フィルの演奏は、とても色彩的で濁りがなく、リムスキー=コルサコフの音楽の魅力を伝えてくれたと思う。だが、ストーリーや場面から切り離されてこの音楽を聴いても、滑稽さや神秘を感じ取ることができない。やはりこの曲はオペラとして聴きたいと思った。

 ピアノ協奏曲はとてもおもしろかった。先ごろ、ブリリアントから発売されているリムスキー=コルサコフの25枚組作品集を購入し、コンドラシン指揮、スヴャトスラフ・リヒテルのピアノ、モスクワ・ユース管弦楽団による演奏を聴いて、とても魅力的な曲だと知った(ただ、録音はあまりよくない)。きわめてオーソドックスな造りで、理にかなった展開を見せる。リストのピアノ協奏曲第2番をモデルにして作曲したとのこと。今回、楽しみにして聴いたが、福間洸太朗のピアノの切れもよく、一つ一つの音の粒立ちも美しい。ラザレフの音も明瞭で美しく、音楽に張りがあってとても良い演奏だと思った。

 私はピアノをあまり聴かないし、しかもショパンはかなり苦手な作曲家なので、恥ずかしいほどに無知なのだが、たぶんピアノのアンコールはショパンのとびきり有名なノクターンだと思う。ただ、ショパンを苦手とする私の感覚なのでまったくあてにはならないのだが、なんだかあまり魅力的なショパンではなかった。リムスキー=コルサコフの協奏曲の演奏のほうがずっとよかった。

 後半のショスタコーヴィチは、圧倒的に素晴らしかった。ラザレフが指揮すると、日フィルの音が明快になり、轟音でありながらもまったく濁りがなくなる。そして、スケール大きく展開する。あれこれ仕掛けをし、しばしば轟音を鳴り響かせる。かなりあざといというか、芝居っけたっぷりの演奏だと思うが、ここまでやってくれると、むしろ潔いというか、爽快でもある。ぐいぐいと音楽を進めて、聴いているものを巻き込む。私はしばしば我を忘れて音楽に没入した。

 ただ、ショスタコーヴィチの音楽はもっともっと内にこもって鬱積して、ヒステリックなまでに自己破壊的だと思うのだが、ラザレフの演奏にはそのような破滅的なところは感じられなかった。とはいえ、ないものねだりをしても仕方があるまい。

 ラザレフは立ち居振る舞いも芝居っけたっぷり。あれこれ団員や客席に向かってジェスチャーをする。ただ、私にはそれらのジェスチャーの意味がよく分からなかった。楽団員も十分にわかっていないように思えた。楽団員から退場した後、ラザレフが残って拍手を受けてから退場した。

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グルベローヴァ逝去!

 夕刊をみて、エディタ・グルベローヴァが亡くなったことを知った。74歳。合掌。

 1970年代(たぶん、1976年)、NHK-FMでザルツブルク音楽祭のベーム指揮、「ナクソス島のアリアドネ」が放送された。ツェルビネッタを歌う歌手に驚嘆した。その時、初めてグルベローヴァの名前を知った。

 それから数年後の1980年、ウィーン国立歌劇場の来日公演。ベーム指揮によって「ナクソス島のアリアドネ」が上演され、ツェルビネッタを歌うグルベローヴァの生の声を初めて聴いた。その時の興奮が忘れられない。東京文化会館全体にコロラトゥーラの美声がびんびんと響き渡った。演奏家にサインをもらう習慣の一切ない私も、その時ばかりは興奮を抑えきれず、文化会館の出口に押しかけて多くのファンに交じってプログラムにサインをもらった。しばらくの間、そのサインは私の宝物だった(今もどこかにある)。

 その後、2000年にもウィーン国立歌劇場の来日公演でシノーポリの指揮でツェルビネッタを聴いた。これもすごかった。そして、2012年、ウィーン国立歌劇場来日公演「アンナ・ボレーナ」。当時、私はイタリア・オペラをほとんどみなかったが、グルベローヴァは別格。感動した。そして、2016年には、川口リリアホールでのピアノ伴奏によるコンサートを聴いた。なんと、アンコールで「タンホイザー」のエリーザベトのアリアが歌われた。しかも見事なドラマティックな歌! 1980年ほどの声の威力はなかったが、表現力はすさまじかった。私が最後にグルベローヴァを聴いたのは、2018年、ミューザ川崎でのオーケストラ伴奏によるアリア・コンサートだった。ドイツ系の音楽を好む私は「こうもり」のアリアに感動。その時も心の底から感動した。

 おそらく、私はグルベローヴァの出演するオペラ映像はほとんど所有していると思う。CDも、少なくともドイツ系の音楽はほとんど持っている。若いころから、どれほど感動し、どれほど慰められてきたか。歌声を聴くだけで、力がわき、感動した。

 私の愛した女性歌手たち。エリーザベト・シュヴァルツコップ、クリスタ・ルートヴィヒ、ジェシー・ノーマン、そしてエディタ・グルベローヴァまでが鬼籍に入ってしまった。実に悲しい。再び合掌。

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ブロムシュテット&カヴァコス&N響のブラームスに魂が震えた!

 20211016日、東京芸術劇場でNHK交響楽団のコンサートを聴いた。指揮はヘルベルト・ブロムシュテット。曲目は、前半にレオニダス・カヴァコスが加わってブラームスのヴァイオリン協奏曲、後半にニルセンの交響曲第5番。魂が打震えるような名演奏だった。

 楽団員より前に、ブロムシュテットとカヴァコスが肩を並べて舞台上に登場。マスクをつけているのですぐには誰だかわからなかった。それに続いて楽団員が現れた。大拍手。

 ブラームスのヴァイオリン協奏曲は、第1楽章でほんの少し音楽の停滞を感じたが、それを除いて、いかにもブロムシュテットらしい自然で明るめで生き生きとした音楽が流れていく。94歳になるはずなのだが、まったくそのようなことを感じさせない。きびきびとして明快。そこにブラームスらしい燃える情熱がある。ちょっと足取りがおぼつかない感じで登場したが、音楽はまったく年齢を感じさせない。素晴らしい。いや、それどころか奇跡としか言いようがない。N響のメンバーもとても美しい音を出す。ブロムシュテットの指の動きに合わせて、即座に反応してニュアンス豊かな音を出しているのがよくわかる。

 カヴァコスの名前はもちろん前からよく知っていたが、演奏を聴いたのは初めてだったが、素晴らしいヴァイオリニストだと思う。折り目正しい清潔な音で、音程がよく、リズムもびしっと決まっている。特に第2楽章のメロディの歌わせ方に感嘆した。完璧なまでに安定した、まったく揺るぎのないリズムに乗って、流麗に歌われる。第3楽章も情熱的に歌われるが、リズムが崩れず、完璧に安定した音楽世界の中で歌われるので、感情による歌というよりは、知性のエッセンスによる歌のように聞こえる。いわば、哲学者が世界の本質を歌い上げているかのよう。こんなヴァイオリンをこれまで私は聴いたことがなかった。情熱的に躍動する音楽もいいが、このようにこの上なく安定し、この上なく知的な抒情が盛り上がっていくのもまた素晴らしい。第3楽章は知的に盛り上がって、私は何度も感動に身を震わせた。

 後半のニルセンの交響曲第5番については、私は何かを語る資格はない。この曲を聴いたのは、たぶん2度目だと思うが、自信がない。もしかしたら初めてからも知れない。ニルセンという作曲家についても関心を持ったことがない。小太鼓やタンバリン、そしてクラリネット、ファゴットが大活躍して、なんだかよくわからない曲だと思ったが、ただ、ブロムシュテットの手にかかると、きわめてスケールが大きくなり、宇宙的になり、明快になり、人間賛歌になることを感じた。なんだかさっぱりわからない曲だと思いつつも、引き締まった音の中から大きく広がる豊かな音の響きに何度か感動した。きっと良い演奏なのだと思う。

 コンサートの終わり、楽団員が退場した後にブロムシュテットが残り、コンサートマスターの白井圭に導かれて退場。まさしく奇跡のコンサートの終了だった。ブロムシュテットとカヴァコスが今宵を特別の日にしてくれたのを感じた。

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オペラ映像「ブルスキーノ氏」「タンクレディ」「チェネレントラ」

 ロッシーニのオペラを時代順にみなおしている。感想を書く。

 

ロッシーニ「ブルスキーノ氏」2012年 ペーザロ、ロッシーニ・オペラ・フェスティヴァル (アッリーゴ・ガッザニーガによる批判校訂版)

 9作目ともなると、もはやロッシーニは押しも押されもしない人気オペラ作曲家なのだろう。もし、このあたりでロッシーニが作曲をやめても、十分に歴史に残ったかもしれない。台本もよくできているし、音楽も楽しい。歌いたくなるアリアもたくさんある。

 この上演の演出は、ロッシーニランドとでもいうべきテーマパークに見立てた舞台を作り出している。見物客が次々と訪れ、その中でオペラが繰り広げられる。テアトロ・ソテッラネオの演出だということだが、とても気が利いている。こうすることでオペラの古めかしい設定をうまくかわしている。

 歌手はそろっている。特に二人の中年男役(ブルスキーノ父のロベルト・デ・カンディアとガウンデンツィオのカルロ・レポーレ)が愉快で、歌のテクニックも見事。ソフィーアのマリア・アレイダは素晴らしく美しい声。もう少し躍動感と声量があったら申し分ないのだが、ないものねだりになってしまうだろう。フロルヴィッレのデイヴィッド・アレグレットも美しい声と余裕のある演技がおもしろい。ダニエーレ・ルスティオーニの指揮も、しなやかさの中に躍動感があって、とてもいい。

 

「タンクレディ」 2005年 フィレンツェ五月祭、テアトロ・コムナーレ

 これまで実演を含めて何回かこのオペラをみたことになるが、どうも私は「タンクレディ」があまり好きではない。ストーリーについていけない。ヴェルディの「オテロ」と同じように、薄弱な情報をうのみにして他者を誤解して悲劇に陥る主人公に同情できない。タンクレディに向かって、「おいおい、一方的な情報をうのみにしないで、もっとちゃんと確かめろよ!」と言いたくなるし、アメナイーデにも「誤解されて困ってるんだったら、いくらでも機会があるんだから、さっさと、『それは誤解です』と言えよ!」と思ってしまう。そう思うといらいらして、オペラを楽しめなくなる。情報を確かめないでうのみにする愚か者たちの自業自得の物語に思える。一方的な誤解の話だったら、悲劇にしないで喜劇にしてほしいとつくづく思う。

 タンクレディ役のダニエラ・バルチェッローナ、アメナイーデ役のダリナ・タコヴァともになかなかいいのだが、爆発的ではない。リッカルド・フリッツァの指揮、ピエール・ルイージ・ピッツィの演出もとてもいいが、これも圧倒的ではない。

 

ロッシーニ 「チェネレントラ」 2016年 ローマ歌劇場

 新国立劇場の新制作の「チェネレントラ」をみて、手元にある「チェネレントラ」の映像も観たくなった。時代順の順番をちょっと入れ替えて、これを先に観た。

新国立の上演に比べて、ずっとテンポが速く、指揮のメリハリがある。ただ、新国立劇場での今回の城谷の指揮に比べて、少々雑さを感じないでもない。そんなわけで、素晴らしい名演というほどでもなく、よくまとまった上演にとどまっていると思う。

 アンジェリーナを歌うセレーナ・マルフィとドン・ラミーロのフアン・フランシスコ・ガテルはともに、もちろんとてもいいのだが、圧倒的というわけではない。マルフィは活力あるボーイッシュな雰囲気、ガテルは逆に陰のある感じ。演出でそのようにしているのだろうか。ドン・マニーフィコを歌うのは、今回の新国立劇場と同じアレッサンドロ・コルベッリだが、映像のほうがずっといい。1952年生まれというから私よりも1歳年下なので、言いたくはないが、きっと年齢による声の衰えがあるのかもしれない。

 ヴィート・プリアンテのダンディーニ、ウーゴ・グァリアルドのアリドーロも歌手陣はみんなかなりのレベルだが、突き抜けてはいない。

 演出はエンマ・ダンテ。アンジェリーナのもとにいるネズミたちやドン・ラミーロの召使たちにネジがついている。ネジは、主人に従順であることの象徴のようで、ドン・マニーフィコらがアンジェリーナに従うときに、ネジを付けられる。

 

・ロッシーニ 「チェネレントラ」 バルセロナ、リセウ大劇場 パトリック・サマーズ(指揮)

 もう1本、気に入っている映像をみることにした。これは凄い。

 何しろドン・ラミーロを歌うのはフアン・ディエゴ・フローレス、アンジェリーナはジョイス・ディドナート。この二人は圧倒的。最後のアンジェリーナのアリアなど、呆然とするほど素晴らしい。ドン・マニーフィコのブルーノ・デ・シモーネ、アリドーロのシモン・オルフィラも大喝采したくなる。

 ジョアン・フォントの演出も絵本の世界を再現して楽しい。パトリック・サマーズの指揮もメリハリがあり、勢いがあってとてもいい。

 心の底から満足。ロッシーニの世界を堪能できる。見終わった後、しばらく幸せな気持ちに浸ることができる。このオペラが「セヴィリアの理髪師」に匹敵する傑作だということがよくわかる。

 もう1本、ヒューストン歌劇場のブルーノ・カンパネッラの指揮、チェチーリア・バルトーリがアンジェリーナを歌った映像をみたくなったが、これは後回しにしよう。

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中国映画「大地と白い雲」 モンゴル文化への共感

 岩波ホールで、中国映画「大地と白い雲」をみた。ワン・ルイ監督作品で、原作は内モンゴルの作家・漠月の小説「放羊的女人」だという。

 内モンゴルの大草原の中で暮らす若い夫婦チョクトとサロール。チョクトは草原の中で羊を飼って暮らす生活に嫌気がさし、都会での生活を夢見る。しばしば家を空けて、仲間と連れ立って街に出て飲んだくれ、車を買って行動したがっている。サロールは、それに対して、しばしば怒りをぶつけながらも夫を愛し、いつまでも草原で暮らしたいと考えている。大寒波が訪れた日、車を買う夢を実現しようとしていつまでも帰らぬチョクトに怒りをぶつけるうちにサロールは流産してしまい、その後、チョクトは一旦は草原で暮らそうとする。しかし、サロールが二人目の子どもを懐妊して新たな希望を持ち始めた矢先、またもチョクトは都会に出稼ぎに出てしまう。しばらくしてチョクトが草原の家に帰ると、サロールは赤ん坊を抱えての生活に立ち行かなくなって、それまでの生活を捨て、やむなく都会に出た後だった。

 監督は漢民族の人らしいが、セリフのほとんどがモンゴル語で語られる。大草原の美しい風景。壮大な自然の中で暮らす夫婦。それに満足する妻とそこから出たがる夫。ある意味、ありきたりのテーマなのだが、モンゴル文化を守ろうとする人間と、それに嫌気がさして都会の文化(つまりは漢民族の世界)にあこがれる人間というテーマが見え隠れし、背景に壮大なモンゴルの風景があるので、映画に深みがある。なかなか良い映画だと思った。

 知識がないので、この監督の思想がどのようなものかわからないのだが、この映画をみる限り、監督はモンゴル文化に深く共感しているようだ。チョクトをあえて軽佻でどうしようもない人間として描くことによって、「モンゴル」対「漢民族」という対立軸を避けて、モンゴルの文化への共感を語っているのだろう。中央文化になびくことを拒み、自分たちの文化に誇りを持つモンゴルの人々。しかし、物質文明になびいてしまう人々がふえ、中央政府の力が増して(落下した人工衛星の断片を探す軍隊の車列がそれを象徴している)、モンゴルの人々は生活基盤を失われて、伝統的な文化を守ることができない。そのような状況を淡々と描いている。

 ちょっと図式が単純で、しかも話がなかなか進まないので、退屈しないでもないが、じっくりと人間と風景を描いて、説得力がある。ただ、これを内モンゴルの人が見ると、どう感じるのだろうかと気になった。

 ところで、私がモンゴル旅行に出かけたのは2017年。ウランバートル中心の短い旅行だったが、中国国内の内モンゴルとモンゴル共和国の違いはあるとはいえ、やはり風景は似ている。ただ、その時、ゲルに泊まったが、この映画をみて、ゲルがまったく出てこないのが意外だった。モンゴル共和国では、ゲルは観光客向けの簡易ホテルとしてだけでなく、間違いなく、庶民の住居として機能していた。中国ではそのような文化は廃れたのだろうか。それも気になった。

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新国立劇場「チェネレントラ」 なぜこんなにテンポが遅いのだろう?

 2021106日、新国立劇場で「チェネレントラ」新制作をみた。指揮は城谷正博、演出は粟國淳。

 まず私はあまりのテンポの遅さに疑問を持った。東京フィルはとてもきれいでしなやかな音を出している。城谷の指揮はとても丁寧。だが、丁寧すぎて、躍動感が出ないと私には感じられる。ロッシーニ特有のクレシェンドが活きてこない。ワクワク感を覚えない。もたついて聞こえる。第二幕ではだいぶ速くなってように感じたが、最後までかなりスローテンポだったと思う。

 意識的にこんなに遅くしたのだろうか。近年のロッシーニ演奏に物申したくてこうしているのだろうか。もしかして、日本人歌手は早口を歌えないので意図的に遅くしているのかな?と思ったが、この一流のロッシーニ歌いたちにそのようなことはないと思う。私にはこれほどスローテンポの理由がよく理解できなかった。

 演出に関しては、どうやら舞台は1960年前後の映画界らしい。雑用係だったチェネレントラが大物プロデューサーに認められるというストーリーが、本来の物語に重ねられている。背後であれこれの昔の映画のオマージュが示される。だが、私にはかなり不自然に思えた。字幕にも「業界の大物」とか「付き人」というように設定に合わせて工夫がされているが、それでも、かなり無理がある。それにペーザロのロッシーニ・フェスティバルにすでに同じようなアイデアでもっと気のきいた演出があったので、ちょっと真似したというように思えてしまった。また、ロラン・ペリー風のところもある。奇をてらわない演出のほうがよかったと思うのだが。また、チェンバロがかなり遊んでいた(様々な曲の断片が現れた!)が、私はあまり趣味が良いとは思わない。そのようなことをしないでも、もっと十分に笑わせ、楽しませることはできると思う。

 歌手陣ではやはりドン・ラミーロのルネ・バルベラの美声が印象的だった。ドン・マニフィコのアレッサンドロ・コルベッリも、もちろん長年この役を当たり役として来ただけあって芸達者ぶりを発揮していた。第一幕ではやや精彩を欠いたが、第二幕はとても良かった。アリドーロのガブリエーレ・サゴーナもきちんとした声で好感が持てた。

 日本人歌手陣も健闘していた。アンジェリーナの脇園彩もさすがヨーロッパで活躍しているだけあって張りのある声だったし、クロリンダの高橋薫子、ティーズベの齊藤純子も見事な歌唱。ダンディーニの上江隼人は前半、少し声が出なかったが、後半、かなり良くなったと思う。三澤洋史の合唱指揮による新国立劇場合唱団はいつも通り、しっかりとまとまって、とてもよかった。

 ただ、全体に言えることだが、スローテンポでかなり一本調子になっているためか、演奏が爆発力に欠ける気がした。

 そんなわけで、とても楽しみにして出かけたのだったが、やや不満だった。とはいえ、そこはロッシーニ。最後までみると、「やっぱりロッシーニは最高に楽しい!」と思った。

 

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園田&日フィル ロッシーニ「スターバト・マーテル」 マスクなしならどんなにすごかったことか!

 2021103日、東京芸術劇場で日本フィルハーモニー交響楽団芸劇シリーズを聴いた。曲目は前半にモーツァルトの交響曲第40番、後半にロッシーの「スターバト・マーテル」。とても良い演奏だった。

 モーツァルトの交響曲については、私は第2楽章だけ、少しもたつき気味ではないかと思った。少し音楽が停滞しているのを感じた。だが、それ以外は、楽器がとても美しく重なり合い、しっかりと音楽が進み、音楽そのものの開館を堪能できた。とりわけ終楽章が素晴らしかった。ただ、もしかしたら指揮者の解釈かもしれないが、「悲しみ」はあまり強調されていないように思った。まさに純音楽。音楽そのものが美しく、人間感情といった余計なものは入り込んでいないように思えた。

「スターバト・マーテル」も素晴らしい演奏。ただ、合唱(日本フィルハーモニー協会合唱団)もソリスト(髙橋絵理、中島郁子、清水徹太郎、伊藤貴之)も最初から最後までマスクを着けたままだった。間違いなくすばらしい歌唱なのだが、やはりマスクがあると声がこもってしまう。やむを得なくこうしているのだろうが、あまりに残念。

 とはいえ、独唱陣は素晴らしかった。全員が張りのある美声で正確に歌った。中でも私はソプラノの髙橋絵理にほれぼれした。十分に世界に通用する声だと思う。声自体美しいし、声に伸びがある。もとてもよかった。

 園田隆一郎の指揮も見事。張りがあり、盛り上がりがあり、メリハリがあり、しかもしっかりと信仰心の震えのようなものも感じる。

 そうであるがゆえにいっそうマスクが残念。マスクなしで聴きたかった!

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小山由美&佐藤正浩 ブラームスの歌曲 女声による厳粛な歌に戸惑った

 2021102日、HAKUJU HALLで、「ブラームスの愛と死」と題された小山由美(メゾ・ソプラノ)リサイタルを聴いた。ピアノ伴奏は佐藤正浩。

 曲目は、すべてブラームスの歌曲。前半に「49のドイツ民謡集」からの4曲とそのほか、「日曜日」「二人で散歩した」「湖上で」「サッフォー頌歌」「甲斐なきセレナード」「教会墓地で」「雨の歌」「永遠の愛」などのブラームスの有名な歌曲、後半は「4つの厳粛な歌」。

 バイロイト音楽祭にも出演している小山さんの歌はこれまでも何度か聴かせていただいた。毎回、深い感銘を受けてきた。小山さんがブラームスの歌曲を歌うとあれば聴かないわけにはいかないと思って出かけた。今回もとてもよかった。

 実は「ドイツ民謡集」ではどの曲もピアノがぐいぐいと引っ張って、かなり速めのテンポで、言ってみればかなりそっけなく演奏されたので、違和感を抱いたが、最後まで聴いて納得した。初めの曲から遅く、深く歌うと、後半の「四つの厳粛な歌」にたどり着かなくなる。リサイタル全体の組み立てとして、徐々に深い思いの音楽になっていくわけだ。実際、徐々に深いブラームスの世界に入り込んでいった。

 もしかしたら、ちょっと風邪気味だったのか。何度か声がかすれて音が不安定になるのを感じた。だが、歌の基軸がしっかりしているので、見事な説得力で迫ってくる。前半の最後に歌われた「永遠の愛」はとりわけ素晴らしかった。抑えられない愛が高まっていく。ドイツ語の響きが美しく、張りのある強い声がとてもよかった。

「四つの厳粛な歌」は昔からハンス・ホッターやフィッシャー=ディスカウの録音で聴いてきたので、私としては女声だと居心地の悪さを感じた。そう、私はこの歌をブラームスの肉声のような気がして聴いていたような気がする。だから、女性の声でこの歌が聞こえてくると、ブラームスの声と思えなくなるので、私の頭が混乱してしまう。これは私の思い込みのせいには違いないが、いかんともしがたい。頭を整理しようとしているうちに音楽は終わってしまった。

 アンコールはブラームスの「子守歌」。小山さんは、マイクを持って「フランスの小さな子守歌を歌う」といわれていたので、もしかしたら、Au Clair de la Luneでも歌われるのかと思っていたが、これは間違いなくブラームス。いい間違いだったのだろう。しっとりしていてとてもよかった。

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井上&宮田&読響のゴリホフのチェロ協奏曲 超時間、超空間の音楽!

 2021929日、サントリーホールで読売日本交響楽団定期演奏会を聴いた。指揮は井上道義、曲目は、前半に宮田大を独奏に迎えて、ゴリホフのチェロ協奏曲「アズール」(日本初演)、後半にストラヴィンスキーの管楽器のための交響曲とショスタコーヴィチの交響曲第9番。

 実は、チラシをみて、ショスタコーヴィチのチェロ協奏曲が曲目に含まれると勘違いして、チケットを購入、先日の読響のコンサートに出かけた際に改めてチラシを見てびっくり。ゴリホフという作曲家は1960年生まれだという。現代曲に関心のない私としては、退屈な時間を覚悟して出かけたのだった。

 だが、どうしてどうして。とてもおもしろかった。いや、それどころか凄い曲だと思った。様々のパーカッションやアコーディンが加わる。中央アジアの音楽を思わせる響き。鳥の羽ばたき、大気の動きの音が聞こえる。宇宙的な広がりを持っている。超時間的、超空間的とでもいうか。25分ほどの曲だが、まったく退屈せず、圧倒されて聴いた。チェロの宮田のとてつもないテクニックにも驚嘆。緻密にして壮大な世界を聴かせてくれた。

 後半のショスタコーヴィチの交響曲第9番もとてもおもしろかった。いったいショスタコーヴィチはこの曲をどんなつもりで作ったのか。ソ連当局に向かって「あかんべえ」をしているのか。韜晦なのか自虐なのか皮肉なのか。調子はずれの人を食ったような音楽が続き、グロテスクとさえいえるような身振りがある。だが、その中に純粋なものへの憧れのようなものも確かに聴きとれる。結局、よくはわからないが、ともあれそのようなごったまぜのようなショスタコーヴィチの特異な世界を井上道義の指揮する読響は見事に説得力を持って聞かせてくれた。なんだかよくわからないが、ともあれショスタコーヴィチの矛盾に満ちた世界が現前に広がる。なんだかよくわからないが、ともあれ凄い世界だ。何度か感動に震えた。

 私は実は音楽に関してはかなり偏狭な人間で、嫌いな作曲家がたくさんいる。嫌いというわけではないもののまったく関心のない作曲家も多い。いや、正確に言うと、7人の作曲家が大好きで、十数人の作曲家がかなり好き、それ以外は嫌いか無関心。だから、同じ作曲家の曲ばかりを聴いている。もういい加減トシだから、これから無理をしないで、好きな作曲家の曲ばかり聴いて過ごそうと思っていたが、今回のように知らない作曲家の曲を聞いて感動することもある。たまには幅を広げてみるのもいいものだと思った。

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