園田+日フィル 「ウィリアム・テル」序曲と「ジュピター」 ニュアンスと躍動

 2020年9月20日、東京芸術劇場で日本フィルハーモニー交響楽団サンデーコンサートを聴いた。指揮は園田隆一郎。曲目は、前半にロッシーニの「ウィリアム・テル」序曲と、ヴァイオニストの石上真由子が加わってのメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調、後半にモーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」。

 園田のロッシーニはやはり素晴らしい。細かいニュアンスをきちんと描くが、それによって躍動感は少しも減じない。むしろ、ニュアンスが描かれれば描かれるだけ、動的になり、ダイナミックになる。平板なダイナミズムではなく、しっかりと躍動の刻印されたダイナミズムというべきか。日フィルの音も濁らずに、とても爽快。

 ただ、次のメンデルスゾーンについては、ちょっともたついた気がした。石上のヴァイオリンの音色がちょっと独特だと思う。重めの真面目な音色だとでもいうか。つまり、軽やかでなく、流麗でもない。それはそれでメンデルスゾーンの抑制された悲しみの世界を描くには悪くないと思うのだが、どうも音楽が流れない気がする。第一楽章では石上のヴァイオリンの細かい処理がちょっと雑だと思った(緊張していたのか?)。だんだん良くなったが、メンデルスゾーンのこの曲はもっと流れてほしい。オーケストラにも濁った音が混じった。

 ヴァイオリンのアンコールが演奏された。曲名を確認するのを忘れたが、パガニーニの24のカプリースの中の曲だったかな? ただ、この演奏もテクニックの確かさを知ることはできたが、感動するには至らなかった。

 後半の「ジュピター」はとても良かった。第2・3楽章は私にはちょっと退屈に感じる瞬間があった(演奏がよくないかどうかはわからない)が、終楽章は息をのむような瞬間が何度もあった。壮大にして躍動的。音が見事に重なり合っていった。しかも、あくまでも自然に流れる。ここでも細かなニュアンスが躍動につながっていく。

 初めの予定では、この日はロッシーニの「スターバト・マーテル」が予定されていた。コロナのせいで曲目変更になった。園田の「スターバト・マーテル」を聴きたかったと、改めて思った。

 

| | コメント (0)

広上+N響の「町人貴族」 きれいな演奏だったが、ちょっと香りが不足

 2020919日、東京芸術劇場でHK交響楽団定期公演を聴いた。指揮は広上淳一。曲目は、ウェーベルン(シュウォーツ編)緩徐楽章(弦楽合奏版)、リヒャルト・シュトラウス 歌劇「カプリッチョ」より六重奏(弦楽合奏版)、リヒャルト・シュトラウス組曲「町人貴族」作品60。ヴァイオリン・ソロを受け持つコンサートマスターは白井圭。

 かなりの空きの多い客席だった。新型コロナウイルス感染予防のためだけでなく、もしかしたら客の入りが悪かったのかもしれない。演奏も、もちろん悪くはないのだが、精妙に決まったかというと、そうでもなかった。芳醇なワインのような上質な香りの立ちのぼる演奏を期待していたが、ちょっと肩の力が入りすぎている気がした。ほんのちょっとリハーサルが不足しているのだろうか。

 ウェーベルンについては、かなり後期ロマン派的な演奏。「カプリッチョ」は、聴きなれた六重奏とは異なって、かなりドラマティックな盛り上がりがあった。マエストロ広上の判断なのだと思うが、私の個人的な好みからすると、弦楽合奏版にしても、六重奏と同じように、穏やかな演奏のほうがよかったのではないか。この曲で盛り上げても盛り上がる先がないような気がするのだが。

「町人貴族」は徐々にオーケストレーションが色彩感を増していった。シュトラウスらしいオーケストレーションの醍醐味を感じられるような演奏だった。ただ、これについても、私は、もっと軽やかで、もっと芳醇な、まさしく軽い上質のワインのような後味のある演奏が私の好みだ。今回の演奏は、ちょっと強すぎるというか、重すぎるというか。

 とはいえ、もちろん美しいオーケストラの音を味わうことができ、白井圭のしなやかで流麗なヴァイオリンを聴くことができて、幸せな時間を過ごすことができたのはうれしかった。

| | コメント (0)

オペラ映像「真夏の夜の夢」「シモン・ボッカネグラ」「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」「魔笛」「ボリス・ゴドノフ」

 やっと秋らしい天気になった。今日(2020918日)は33℃を超す暑さが予報されているが、真夏ほどの酷暑の朝ではない。数本のオペラ映像をみたので簡単な感想を記す。

 

ブリテン「真夏の夜の夢」 2005年 バルセロナ、リセウ劇場

 シェークスピア原作によるオペラ。これまでみたブリテンのいくつかのオペラと違って喜劇なので、私がブリテンの魅力と思っていたもの、すなわち抜き差しならない差し迫った感情が前面に現れない。その点、少々不満だった。だが、シェークスピアの時代の音楽といわれても納得するような、つまり「現代音楽」的な要素が強くない、普遍的な音楽はとても魅力的だ。「前衛音楽」が全盛だった1960年代に、このような新古典主義的な音楽を書いて、しかも完璧な説得力を持たせるのは奇跡的だと思う。「現代音楽」の臭みもなく、もちろんロマン主義的な大時代的な要素もない。ドラマに寄り添い、無駄なく、誇張なく、登場人物の心を歌にしている。何よりブリテンのその手腕に驚く。

 私はカウンターテナーのオベロン役、デイヴィッド・ダニエルズに少し不満を覚えた。声が伸びないし、少々音程が不安定。カウンターテナーが登場するタイプの音楽に疎い私でも知っている名前なので、有名な歌手だと思うが、少し不調だったのか。

 それ以外の歌手たちについては、とても満足。タイタニアのオフェリア・サラ、ライサンダーのゴードン・ギーツ、ハーミアのディアンヌ・ミークなど、まさに適役。パック役のエミル・ワークもまさにこの役にふさわしい不気味さと愛嬌を兼ね備えている。

 演出はロバート・カーセン。イギリス人にはなじみのストーリーとはいえ、取り違え劇なので下手をすると、登場人物が混乱してしまう。それをこの演出はうまく処理をし、時代を超越した芝居に創り上げている。ハリー・ビケット指揮のバルセロナ・リセウ大劇場交響楽団については、ブリテン初心者の私には特に不満はない。

 私としては十分に楽しんだが、私はほかにこのオペラの実演も映像をみたことがないので、よくわからない。もしかしたら、別の上演であったら、もっと楽しいものであるかもしれないとは思う。10月にこのオペラが新国立劇場で上演されるのが楽しみだ。

 

ヴェルディ 「シモン・ボッカネグラ」 2010年 パルマ

 レオ・ヌッチのタイトルロールがやはり素晴らしい。声と仕草の演技力に感服。決して心から善良な人間ではない。だが、心からマリアを愛し、その死後、娘を愛している。敵対に苦悩し決断を迫られる。そのような役をやらせると、これほど見事な歌でリアルに演じられる人は少ない。フィエスコのロベルト・スカンディウッツィも素晴らしい。この二人のやり取りはまさに絶品。

 ガブリエーレのフランチェスコ・メーリも強靭な美しいテノール、アメーリアのタマール・イヴェーリも率直で清純な声。二人の若い恋人の歌はとても気持ちがいい。ただ、パオロ役のシモーネ・ピアッツォラの声があまり出ていないようで、悪役としての存在感が弱かったのは残念。

 ダニエレ・カッレガーリの指揮もドラマティック(ただ、ちょっとドラマティックすぎる気がしないでもない)、ジョルジョ・ガッリョーネの演出もわかりやすく、簡素ながらも十分に総督府の豪華さを感じさせる。とても良い上演だと思う。感動しながらみた。

 

モーツァルト 「フィガロの結婚」 2006年 ロイヤル・オペラ・ハウス

 安売りしていたので、OPUS ARTEのコヴェント・ガーデンのロイヤル・オペラ・ハウスで上演されたモーツァルトのオペラ3本の5枚組BDを購入。まず「フィガロ」をみた。とても楽しい上演。ウキウキして最後までみることができる。アントニオ・パッパーノの指揮も躍動している。かなりドラマティックな演奏。デイヴィッド・マクヴィカーの演出も楽しい。身振りが大きく、伯爵の悪漢ぶりを強調する。しかし、それが不自然ではなく、笑いが自然と沸き起こる。歌手陣も最高度に充実している。

 アーウィン・シュロットは大柄で精悍な野性的なフィガロを演じる。スザンナのミア・パーションはとてもチャーミング。アルマヴィーヴァ伯爵のジェラルド・フィンリーは憎々しさを全開。伯爵夫人のドロテア・レッシュマンもしとやかに歌う。隅から隅まで完璧にそろっている。躍動的に人物の動く活発なオペラになっている。

 文句なしに楽しく、最高の舞台と最高の音楽が楽しめる。モーツァルトはやっぱり素晴らしい!

 

 モーツァルト 「ドン・ジョヴァンニ」2008年 ロイヤル・オペラ・ハウス

「フィガロの結婚」をみて、あまりに素晴らしかったので期待したのだったが、それほどの感銘は受けなかった。もちろん、きわめて高いレベルのとても良い上演だと思う。

 サー・チャールズ・マッケラスの指揮に、私が乗れない原因があるのかもしれない。好きな指揮者なのだが、このオペラ演奏については、私には神経質で痩せた音楽に聞こえる。しかも、フランチェスカ・ザンベロの演出を含めてとてもリアルな造りになっているため、神話性を感じない。このオペラはドン・ジョヴァンニという人並外れた人物が主人公であり、亡霊が出るなどして、私には神話的なオペラに思われる。それがリアルに演じられると、違和感を覚えてしまう。

 サイモン・キーンリサイドのドン・ジョヴァンニは容姿も見事、声もよいのだが、これまたリアルすぎて神秘性がない。だから、悪の凄味も感じない。ドンナ・アンナのマリーナ・ポフラフスカヤ、ドン・オッターヴィオのラモン・ヴァルガスも、もちろん悪くないのだが、ちょっと魅力に乏しい。レポレッロのカイル・ケテルセンも道化としての役割を果たしていない気がする。

 ただジョイス・ディドナートは凄味のあるドンナ・エルヴィーラを聞かせてくれ、ミア・パーションは可愛らしいツェルリーナを歌ってくれた。また、ロバート・グリアドウのまマゼットも初々しい。この3人にとても感銘を受けた。

 

 モーツァルト 「魔笛」 2003年 ロイヤル・オペラ・ハウス

 この映像はかつてみたことがある。テレビだったか、DVDだったか。その時も思ったが、改めてとても充実した上演だと思う。すべての配役が理想的といってよいだろう。

 タミーノのヴィル・ハルトマン、パミーナのドロテア・レシュマン、ザラストロのフランツ=ヨーゼフ・ゼーリヒ、パパゲーノのサイモン・キーンリサイドはとても素晴らしい。ハルトマンは高貴な声、レシュマンもとても魅力的な歌唱で、後半ますます声の美しさに磨きがかかっていく。ゼーリヒは深みのある美声。ドン・ジョヴァンニで惹かれることのなかったキーンリサイドもこの役ではみごとに愉快で人間的なパパゲーノを作り出している。

 しかし、そうしたベテランたちを押しのけて圧倒的な存在感を見せるのが、夜の女王のディアナ・ダムラウだ。私は初めてこの映像をみた時、ダムラウの歌に驚き、ものすごい新人が出てきたと感嘆したのだった。かつてグルベローヴァの夜の女王にも圧倒されたが、ダムラウはもっと勢いがあり、激しさがある。まさにこの役にふさわしい。

 サー・コリン・デイヴィスの指揮も素晴らしい。抑えるところは抑えて、勢いのある音楽を作り出している。デイヴィッド・マクヴィカーの演出は、夜の女王と三人の侍女をはじめから悪辣な扮装にして、弁者やザラストロを啓蒙主義時代の哲人に見立てているようだ。モノスタトスはまるで啓蒙主義や民主革命に歯向かう悪徳貴族を思わせる。旧来の価値観による夜の女王の世界をザラストロが改革し、民衆がザラストロを支持しているという構図が示される。「魔笛」のストーリーの持つ矛盾をこの解釈によってすべて解決できるだけではないが、それはそれで説得力のある解釈とはいえるだろう。とてもおもしろく感じた。

 

ムソルグスキー 「ボリス・ゴドノフ」 2019年 ボリショイ劇場 (NHKBS放送)

 楽しみにして、NHKの放送をみた。上演のレベルの高さに驚く。歌手陣全員が最高レベル。ボリスを歌うミハエル・カザコフもしっかりとして深い声、グリゴリーのティモフェイ・デュボヴィツキーは十分に王子を騙る美男の曲者に見え、しかも若々しい美声。マリーナのアグンダ・クラエワは絶世の美女に見えるうえ、声も美しい。シュイスキー公爵のマクスム・パスターも嫌味な役を見事に歌う。まさに全員が容貌も含めてまさにその役にしか見えない。

 ただそのわりに私はさほどの深い感銘は受けなかった。「散文的すぎる」という印象を抱いた。トゥガン・ソヒエフの指揮はきわめて輪郭のはっきりしたキレの良い音で論理的に音楽を展開していく。だが、その分、この難渋なオペラの不可解な部分が少なくなり、スラブ的な得体のしれない魅力が薄れている気がしてしまう。むしろ、イタリア・オペラなどとはまったく違った作劇法に基づく台本のわかりにくさ、まとまりのなさが前面に出てしまう気がする。イーゴリ・ウシャコフの演出についても、同じような印象を受けた。

 もちろん私はこのオペラに詳しいわけではないが、映像は何本かみて、素晴らしいオペラだと思っていた。これまでにみたものは、論理を超越した得体のしれない魅力があったような気がする。

| | コメント (2)

アンサンブル・ノマドと波多野睦美 土地の風が吹き、草のにおいがする演奏

 2020915日、東京オペラシティ リサイタルホールでアンサンブル・ノマドの第69回定期演奏会を聴いた。ゲストとしてメゾ・ソプラノの波多野睦美が出演。素晴らしい演奏だった。とても楽しい時間を過ごすことができた。

 曲目はまさしくこのアンサンブルの名称ノマドに示される通り、バロックから現代まで、ヨーロッパ、アジアなどの様々な時代の様々の国の音楽。いずれも、その土地の風が吹き、その土地の草のにおいのするような演奏だった。しかも、いずれもその民族の誇りが漂うような高貴な演奏。時代に迎合するのではなく、美しくすがすがしい世界を作り出してくれた。私はずっと感動して聴いた。

 バスケスの「旅の印象」(2016)より第3番、第8番は日本初演、高橋悠治(会場に来ておられた!)の「冷却の音(藤井貞和の回文詩による) (2020)と渡辺裕紀子の「ソングス 」は世界初演。いずれもちょっと不思議な曲だったが、言葉と音楽の絶妙のアンサンブルが際立っていた。これらの演奏には、波多野の音程の正確なヴィブラートの少ない清澄な声が不可欠だっただろう。言葉の響きがストレートに伝わる。私には、今日歌われた言葉のうち、それなりの判別できるのは日本語のほかは英語くらいだが、イタリア語もカタルーニャ語もベトナム語も韓国語もポルトガル語もきっと正確な発音だったのだと思う。そうでなければこれほど美しく言葉が響かないはずだ。波多野がいかに言葉を大事にしているかが伝わってくる歌唱だった。

 佐藤紀雄を中心とするアンサンブル・ノマドも、10名を少し超すメンバー一人一人の技量が確かで、とても美しいアンサンブルを聞かせてくれた。音程の取りにくい楽器も混じっているはずだが、しっかりと音が合って、清澄な雰囲気を作り出す。ヨルダン・マルコフの演奏するガドゥルカという楽器の奥深い音色にも驚いた。弦楽器も凛として美しい。

 隣の席を空けて座って、全員で100名程度の客だった。こんな素晴らしい演奏をこれだけの人数しか聴けないのがもったいないと思った。

| | コメント (0)

萩小旅行

 2020911日ちょっとした萩観光ができた。

 10日の昼過ぎから大阪の堺市にある初芝立命館中学校で白藍塾塾長として小論文指導の研修があり、12日は午前中から山口県セミナーパークで開かれる「やまぐちで学ぶ! 高校教育魅力向上事業」における「ニューフロンティアセミナー」で小論文の特別授業をおこなうことになっていた。一度東京の自宅に戻って、翌日また山口に出かけるのもつらいので、大阪での初芝立命館中学校での仕事が終えた後、その日のうちに新山口駅付近のホテルに行き、そこで2泊し、11日は観光に時間を費やすことにしたのだった。

 まず、新山口に到着したが、あまり人気がない。駅の建物はそれなりに立派だが、人がいない。ホテルやレストランもほとんどない。東京の急行の停まらない私鉄駅周辺とさほど変わりのない光景だった。着いたのが21時過ぎだったせいか、あるいはコロナの影響なのか、まばらな人しかいない。

 山口県は何度か訪れたことがある。瀬戸内海側のいくつかの都市はこれまでに見物した。が、萩には行ったことがない。この際、萩に行ってみようと思いたった。ついでに津和野も考えたが、ちょっと遠すぎるので断念。列車があるのかと思っていたら、新山口からでは大変な遠回りになる。まず、そのことに驚いた。いや、そもそも新山口と山口の間もかなりの距離があるのにびっくり。レンタカーを予約しておいた。気ままな一人観光だ。

 そして、翌11日、10時に予約通りレンタカーを借りて、一人で出発。もちろん、ナビ頼り。松陰神社を目的地に設定して出発。高速道路は避けて、のんびり風景を見ながら一般道で行くことにした。1時間程度で到着すると思っていたら、ナビが12時近い到着予定時間を表示したのでびっくり。山口市をかすめて、すぐに車は山中に入った。雨がぱらつく天気。たまに信号はあるが、ほとんどひっかからない。山中ではほとんどノンストップ状態だった。

 ずっと山道。もちろん、きれいに舗装されており、運転するのは快適だが、見えるのは山や田畑ばかり。雨模様なので、雲が山々にかかっている。大分県の山間部、日田市で生まれ、母の実家が日田市のはずれの大鶴地区という山の中にあった私としては慣れた風景だ。大鶴や伏木峠の山道を走っているのと同じ気分。ある意味、とても懐かしい。子どものころは父の運転する車に乗ってこのような風景の中を走っていた。大人になってからは自分で運転して母の実家などを訪れていた。

 目当てのコンサートチケットが、その日の11時にネット発売開始されることになっていた。私は4枚購入予定だった。ポケットWi-Fiを持っているので、11時過ぎたらコンビニにでも車を停めて、ネットにつないで予約しようと甘く考えていた。

 ところが、11時になったが、コンビニなどあろうはずがない。ずっと山道だ。やむなく、側道に停められる場所を探してネットに接続しようとしたら、つながらない! このような山間部にはWi-Fiは通じていないのだろう。その後、2度ほど同じように車を停めて試すが、やはり接続できなかった。

 11時半近くになって平坦な土地になり、人家が増え、やっとコンビニを発見。車を停めてネットにつないだが、接続状態が良くないために苦労した。希望の席はすでに売り切れていたが、かなり時間をかけてともあれ4枚ゲット。安心して、コンビニで購入したコーヒーを飲んで一息いれた。いずれにせよ、山口県の南北をつなぐ交通網の弱さと、そこに横たわる山地の存在を、チケットのおかげではからずも実感した。

 

 そこから10分ほどで松陰神社に到着。雨模様のせいか、観光客はまばらだった。私が訪れている間に目に入った観光客は10人ほどだった。そのうち四人は中国人のようだった。

 吉田松陰を祀る神社が雨の中で落ち着いて見えた。松下村塾はその中にある。小さな掘立小屋としか思えない。日田市の誇る広瀬淡窓の咸宜園のようなものを想像していたが、それよりももっと小さく質素。8畳の間取りの部屋が二部屋あるだけのようだ。しかも、ここで松陰が指導にあたったのは2、3年だとのこと。80年間続いた咸宜園に比べてなんと短期間なのに、これほど知名度に差があるのか!と日田出身の私としては少々嫉妬心を抱かないでもないが、そこは歴史における役割の大きさの差だろうと納得する。

 雨の降る神社内を歩き、多くの人形で松陰の生涯を紹介する歴史館にも入って、時代の雰囲気を多少は感じた。客は私だけ。ただ、幕末の歴史に詳しくない私は、表面的にしか松陰の役割や思想を知らない。この歴史館は私の表面的な知識を確認するくらいのことしかできなかった。

 お昼になっていたので、海や川をのぞみながら車で道の駅・萩しーまーとに行って、ネットで評判の店に入って海鮮丼を食した。絶品だった。

 明倫学舎の横に車を停めて、次に学舎を見学。様々な展示があった。幕末から明治にかけての長州・山口の役割が語られている。いわば、「長州史観」とでもいうべき歴史観が示されている。長州が中心になって日本の産業革命が起こり、文化革命が起こり、その人脈が日本の近代を作ったことが分かる仕組みになっている。なるほど、確かにこのような見方に説得力がある。その方面に詳しくない私としては、そうかもしれないが、ほかの見方もあるだろうなという程度のことしかわからない。ただ、長州が日本の近代化にとても大きな役割を果たしたのは否定のしようのない事実であることは実感した。

 雨が止んだので、近くを散策。江戸屋横町、伊勢屋横町、菊屋横町など、江戸時代の雰囲気の残る道を歩いた。もっと広い道を想像していたら、車がすれ違えないような狭い道だった。暑すぎもせず、人通りもほとんどなく、静かに歩くことができた。白壁や土色の壁が続いていたり、生け垣が続いていたりの道にとても落ち着く。その中に、高杉晋作立志像があり、高杉晋作や田中義一の誕生地がある。子どものころ、高杉晋作のドラマを見た記憶がある。史実とは異なるのだろうが、なじみのある名前ばかりで、故郷を歩くような気持になった。

 もう少しゆっくりしようとも思ったが、何しろ一人旅で、話をする相手もいない。帰りの道も心配になるので、そのくらいにして、萩を後にして、新山口に戻った。

 

 12日のセミナーについても付け加えておく。県内の意欲ある高校12年生50名ほど集まってもらっての小論文講義だった。午前中に小論文の書き方を簡単に解説した後、やさしめの問題に取り組んでもらい、午後には2020年度の慶應文学部の小論文入試問題に挑戦してもらった。こちらは超難問といってよかろう。みんなてこずっていたようだが、少し解説すると、すぐに小論文を書き始めた。

 あまりに優秀な生徒さんたちばかりなので驚いた。みんなが積極的に授業に参加してくれ、鋭い意見が次々と出してくれ、しかも超難問についても、しっかりと取り組んでくれた。きっと生徒さんたちも小論文とは何かがわかり、超難問であってもどうすれば手掛かりがつかめるかをわかってもらえたと思う。

 私自身もとても楽しく充実した時間を過ごすことができた。が、1時間の昼休みを含めて5時間半の講義だったので、私は大いに疲れた。セミナー終了後、新山口までタクシーで出て、広島まで「こだま」号、そこからは「のぞみ」号に乗り継いで、東京に戻った。ますます疲れた!

| | コメント (0)

映画「ポルトガル、夏の終わり」「オフィシャル・シークレット」

 九州に台風が押し寄せている。九州出身で、その方面に知り合いの多い私としては大いに気になっている。大きな被害にならないことを祈る。

 昨日、京都シネマでみた「ポルトガル、夏の終わり」と「オフィシャル・シークレット」について、簡単な感想を記す。

 

「ポルトガル、夏の終わり」

 アイラ・サックス監督。しみじみとした良い映画。ただ何事かが起こるわけではない。エリック・ロメールの映画を思い出した。

 フランキーというあだ名で呼ばれる初老になった有名女優(イザベル・ユペール)はガンで死期を悟り、バカンスに関係者をポルトガルの名勝地シントラに集める。若い親友アイリーン(マリサ・トメイ)を頼りない息子ポールと結婚させたいと思うなど、自分の死後、残された家族を自分の思い通りに生活させたいと計画している。だが、フランキーの思い通りにはいかない。アイリーンはむしろフランキーの夫ジミーと心を通わせ始めている。フランキーは家族それぞれのそのような様子を、穏やかになって見つめる。ストーリーはそうまとめられるだろう。

 フランキーには最初の夫と現在の夫がおり、最初の夫との間に息子がいて、現在の夫に連れ子がいて、その家族ができている。初めのうち、その関係がつかめず、フランス語のほかに英語やポルトガル語が話される映画そのものが謎に思えるが、フランキーの病の状況とともに家族関係が徐々に明かされていく。そして、それと同時にさりげなく生活している人たちの心の奥が見えてくる。それぞれが不満を抱き、生活を変えようとし、それぞれに一応に解決策を考えているが、果たしてそれが長続きするかどうかはわからない。

 風光明媚なバカンス地でのそのような人々の生活が描かれる。最後、家族は全員が丘の頂に集まり、それをフランキーが見つめる。死にゆく人間が、自分の力で残された人々を動かそうという気持ちをなくして、半ばあきらめの気持ちでそれぞれの生を穏やかに見る。とても美しい場面だと思う。

 ああ、これが人生だよなあ……と思わされる。

 美しい風景、イザベル・ユペールをはじめとした俳優たちの見事な演技、そして徐々に心の奥が明かされていくシナリオ。情感をたたえながらも緻密に作られた映画だと思った。

 

映画「オフィシャル・シークレット」

 グアビン・フッド監督。エンターテインメント映画としてとてもおもしろかった。

 実話に基づく。アメリカのジョージ・ブッシュ大統領は、イラクが2001911日のニューヨーク同時多発テロ引き起こしたテロリストたちを支援し、大量破壊兵器を製造・所有しているとの理由で、国際連合安全保障会議によってイラク攻撃を呼びかけていた。実際にはそのような証拠は一切ないのに、強引に関係各国に呼びかけ、英国のブレア首相もそれに同調する。

 キャサリン(キーラ・ナイトレイ)はイギリス情報局に勤め、中国語関係の翻訳などをしているが、ある時、イラク対策を有利に進めるためにアメリカが違法工作をしていることを知る。ありもしない大量破壊兵器攻撃を目的として戦争が引き起こされ、大勢の人が死傷する恐れがあることに憤りをもって、キャサリンはこの情報をリークし、オブザーバー紙のブライト記者(マット・スミス)がそれを記事にする。キャサリンは国家機密漏洩の罪で逮捕され、夫がトルコ移民であるために政府から嫌がらせを受けるが、有能な弁護士エマーソン(レイフ・ファインズ)の手助けもあって、最終的には英国政府が事を荒立てるのを恐れて早々に幕引きを図り、キャサリンは無罪になる。

 イラク戦争はよく覚えている。私自身を含め、世界中の多くの人が、「イラクがテロリストを支援しているはずがない。大量破壊兵器など持っていないだろう」と思っていた。ところが、ブッシュ大統領が強引に戦争に突き進んだ。米国の最も愚かな行動の一つだ。結果的に戦争を食い止めることはできなかったが、リークすることによってそれをとどめようとした女性の詳細をこの映画によってはじめて知ることができた。小さな新聞記事で読んだ記憶はあったが、確かにこの女性はこのように苦しみ、このように迷い、しかしながらそれでも確固たる意志をもって戦ったのだろう。

 国家の理不尽、国家機密漏洩罪の矛盾、そしてそれを是正しようとしてキャサリンを支援する人々が存在する。そのような状況がリアルに、冷静に描かれる。強圧的で国家の論理を振り回す刑事たちも、それはそれで理性的であって、必ずしもキャサリンを全否定するわけではない。英国の民主主義国としての成熟を感じると同時に、感情的にならずに問題を取り上げようとする作り手たちの意識が見える。だからこそ、リアルで面白い映画に仕上がっている。

 ただちょっと思ったのは、もしこれが現在の日本であれば、キャサリンの名前も明かされ、素性もわかっているのだから、凄まじいマスコミ攻勢と、それ以上のネット攻撃にさらされ、通常の生活を維持することができなくなるだろう。時代が違うのか、それとも英国と日本の違いなのか。あるいは映画の中では詳しく描かれなかったが、キャサリンの個人攻撃に進まないような何らかの配慮が政府や警察などによってなされたのか。または単に、作劇上の都合によってそのような状況は映画から省かれたのか。

 ともあれ、権力側も含めて、現在の日本よりもずっと理性的に動く当時の英国のあり方に感銘を受けた。

| | コメント (0)

久しぶりの京都 美濃吉での三度の食事、ちょっとの観光

 202094日と5日、仕事で京都を訪れた。出発時、名古屋付近で大雨だということで新幹線のダイヤが乱れ、ひやひやしたが、ともあれ仕事時間に間に合った。

 私は大学を定年退職した後は、年に6~9回の海外旅行をしていた。国内のあちこちにも仕事で出かけていた。ところが、新型コロナウイルスの影響で、2019年の夏から1年以上にわたって海外旅行はしていない。仕事での遠出も静岡がせいぜいだった。久しぶりの関西での仕事。4日の夜が遅くなり、久しぶりの遠出でもあるので、ホテルに一泊して5日は一日、ひとりで観光することにした。あれほどしばしばホテルを利用していたのに、そもそもホテルに泊まるのもまさに1年ぶりだと、フロントに立って思いあたった。

 京都はがらんとしていた。あれほど飛び交っていた中国語はほとんど聞こえない。レストランや喫茶も閉まっているのが目に付いた。地下街などの冷房のきいた場所はそれなりには人気があるが、京都駅付近の戸外では人影はあまり見えなかった。35℃を超す暑さなのに、ヨーロッパと同じようにテラス席で食事を楽しむ客をあちこちで見かけた。密を防ぐために、外での飲食をしているのだろう。そこで聞こえてくるのも日本語、しかも関西弁ばかり。

 4日の夜、5日の朝と夕、京都駅前の新阪急ホテル地下にある美濃吉で食事をとった。京都を訪れるたびに私はこのお店での食事を楽しんでいる。ここの美濃吉は格別においしいと私は思う。久しぶりに満喫したいと思っていたが、思いはかなえられた。私の大好物、「京の白味噌仕立て」はまさに絶品。4日の夜は定食「鴨川」、5日の夜は「花懐石」と土瓶蒸しを食べたが、いずれも最高のうまさだった。「白味噌仕立て」もさることながら、鉢物も木の子の炊き込みご飯も最高。5日の朝のおかゆもおいしかった。これほどの味なのに、新型コロナウイルスのために客が少ない。あまりにもったいない。

 ちょっと心配していたが、美濃吉はもちろん、ほかのお店も新型コロナウイルス感染防止対策は万全のようだ。どこに行っても検温があり、アルコール消毒を行い、給仕する方は二重にマスクをしているようだ。私自身も、感染の多い東京から出向いているので、間違っても京都に人にうつすことのないように気を付けた。

 5日には久しぶりに京都の世界遺産を見たいと思っていたが、朝から30℃を超している。昼間は36℃を超す予報だった。外を歩き回るのはあきらめて、京都シネマで映画をみて過ごすことにした。

 午前中に「ポルトガル、夏の終わり」、午後に「オフィシャル・シークレット」をみた(日を改めて、このブログに感想をアップする)。空き時間にタクシーで智積院に乗り付けて、短時間で長谷川等伯とその息子、久蔵の襖絵をみた。京都に行くたびに智積院の襖絵を見るのが私のこのところの習慣になっている。美術に関しては疎い私だが、この襖絵には感動する。襖絵に囲まれると、心が洗われる。

 その後、京都国立博物館で「聖地をたずねて」が開催されているのをしって、しばらく展示を見て過ごした。この方面の知識のない私には、残念ながらあまりありがたみはわからないが、ともあれ国宝や重要文化財を含む西国の寺院の所蔵する経典や縁起絵巻、曼陀羅図、仏像をみることができた。

 ごった返しているとまでは言えないが、かなりの人が訪れており、ゆっくりとみることができなかった。ふだんなら残念に思うところだが、コロナ禍の中、しっかりと文化活動を行われていることを頼もしく思った。思えば、京都シネマもかなり多くの人が訪れていた。満員ではないが、それなりには席が埋まり、チケット売り場にはしばしば長い行列ができていた。配置する人員を減らしていることも関係しているかもしれないが、文化活動がしっかりと行われているのはとてもうれしい。

「オフィシャル・シークレット」を見終わると、もう日は傾いていた。真昼間ほどの暑さではなくなっていたので、四条付近をぶらぶらと歩いた。だが、まだ35℃近くはあったと思う。意外と多くの人が歩いていた。もちろんほとんどが日本人。10年以上前、私が京都産業大学の客員教授として週に2回通っていたころと大差ない人出だと思った。

 暑いのはつらいが、京都の町をふらふらするのはとても楽しい。昔からあったお店、新しくできたお店を確かめて歩いた。が、やはりあまりの暑さにめげて、阪急河原町から阪急線と地下鉄を経由して京都駅に戻り、イノダコーヒーで一休みしてから、先ほど書いた通り、夕食のために美濃吉に向かい、その後、新幹線で東京に戻ったのだった。

 9月なのでいくらか観光ができるかと思っていたが、甘かった。もう少し涼しくなってから、また京都を訪れる機会があると嬉しい。

| | コメント (0)

東京二期会「フィデリオ」 期待してみたが、解放感を感じられなかった

 202093日、新国立劇場オペラパレスで、東京二期会オペラ劇場「フィデリオ」をみた。新型コロナウイルスの感染を避けるために、席数も少なく、合唱も密集しないように工夫しての上演。

 冒頭、「フィデリオ」序曲ではなく、「レオノーレ」序曲第3番が始まったのでびっくり。指揮は大植英次、演出は深作健太。「密」を避けて、合唱なども隣の人と距離をとっているせいもあるだろうし、初日だということもあるだろう。完成度にやや欠ける気がした。東フィルはきれいな音を出していたが、歌手とぴたりと合わない箇所を感じた。

 歌手陣はもちろんとても健闘しているのだが、とりわけ第一幕で声が伸びなかったり、声のコントロールが甘かったりする歌手が多かった。レオノーレの土屋優子は声量のある美声なのだが、コントロールが甘くて、音程が不確かになることがあった。また、ドン・ピツァロの大沼徹も、素晴らしい声でありながら、低音で声が伸びないところがあった。徐々に良くなったが、前半、やや苦戦していたのかもしれない。

 そんななか、フロレスタンの福井敬はさすがの歌唱。第二幕冒頭のアリアは、初めのうちこそ声が硬かったが、徐々にこなれてきて、後半すばらしい声の演技力を発揮した。私は感動した。ロッコの妻屋秀和はさすがの貫録。安定度が抜群。ヤッキーノの松原友はとても声が出ていて音程も正確。とてもいい歌手だと思った。マルツェリーネの冨平安希子はきれいな声と容姿だが、いかんせん声量不足を感じざるを得なかった。オーケストラにかき消されて聞こえないことが多かった。

 私が最も問題を感じたのは、深作健太の演出だった。このオペラを戦中から現在までの壁からの解放の歴史として捉え、ナチス時代やスターリン時代の収容所、ベルリンの壁、パレスチナの壁が舞台や映像に現れる。そして、しばしば字幕や文字が現れ、自由をたたえるメッセージや、壁に苦しんだ時代についての説明がなされる。私はそもそも演出というのは、文字を使わないで観客に意図をわからせるものだと思っているので、まずこの文字の多さに閉口した。このオペラが自由・解放をメッセージとして持っていることは、わざわざ文字にしてくれなくてもだれにでもわかるだろう。それなのに、こんなに文字を使って「説明」することにどのような意味があるのだろう。

 そして、そもそもこのオペラを戦後から2020年までの歴史と重ね合わせることにも無理がある。無理があるという以上にあまりに陳腐。私には、ヘアハイムなどのバイロイトの演出を未消化のまままねたとしか思えない。

 しかも、最初にアウシュヴィッツの門にあった有名な標語「働くことによって自由になる」が示され、それがしばしば掲げられるが、それにどのような意味があるのか、私には理解できなかった。ロッコが牢番の仕事をし、フロレスタンが地下牢で「自由Freiheit」と書かれた板をせっせと張り付けているが、それが「働く」ということなのだろうか。

 これまで深作演出に驚き、感心してきたのだったが、今回はあまりに当たり前の言わずもがなのことを文字を使い、あれこれの仕掛けを使って語るだけの演出に思えた。

「フィデリオ」によって、現在の閉塞感から解放された気分になりたいと思っていたのだったが、あれこれ不満を覚えて、そのような意識を持てなかった。新型コロナウイルスの影響できっとリハーサル不足なのだろう。あと数回上演を行うちにもっと精度が上がって、舞台全体の印象も変わるのかもしれない。

| | コメント (3)

映画「シチリアーノ」 裏切った男の心のうち

 マルコ・ベロッキオ監督の映画「シチリアーノ」をみた。原題は「il Traditore」つまり、裏切り者。マフィアを捜査する検事に協力して、組織を裏切り、300人以上の犯罪者を逮捕に導いた実在の人物ブシェッタ(ピエルフランチェスコ・ファビーノ)を描く。

 ブシェッタはマフィアの一員として犯罪に手を染めながら、妻子を愛して暮らしていたが、内部抗争に巻き込まれ命を狙われる。しかも、ブラジルに逃げていたところ、警察に逮捕されてしまう。自殺を図るなどして逃れようとするが、有能なファルコーネ検事の取り調べを受けるうちに考えを変えて、むしろ現在のマフィアこそが本来のコーザ・ノストラ(マフィアを指す言葉だが、字義どおりには「われらが家」を意味する)を裏切っていると考えて、むしろ犯罪者逮捕の急先鋒に立つ。

 女好きで、家族を愛し、歌を好むブシェッタの人間らしい面、その苦悩と怒りを見事に描いている。初めのうち、たくさんの人物が次々と登場して名前と顔の識別に苦労したが、後半はそんなこともなく、心情を理解できた。

 ブシェッタはかつて殺した男を思い出す。その男は、自分が殺されると悟ってから、自分の子どもを常に幼い連れ歩き、殺人者が実行しないように仕向ける。ブシェッタはそれでも狙い続け、子どもが成長して結婚し、親から離れた日の夜、男を殺害する。殺される男の覚悟、その男を殺したころとその後のブシェッタの心情をうまく描くエピソードだと思う。ベロッキオはその場面をカットバックで挿入し、詩的に描く。

 終わりの部分で、当時の首相であったアンドレオッティの裁判でブシェッタが証人として証言する場面がある。そういえば、アンドレオッティとマフィアの関係が当時大きな話題になった。アンドレオッティを擁護する弁護士の手腕によって追い詰めることができなかった様子が描かれる。

 詩情にあふれる映像、心情の伝わる場面を追いかけながら、2時間半ほど、とてもおもしろくみたが、ただこれが「ポケットの中の拳」や「愛の勝利を」や「肉体の悪魔」ほどの傑作かというと、さほどとも思わなかった。

| | コメント (0)

映画「シリアにて」 ドキュメンタリー・タッチで緊迫のシリアを描く

 岩波ホールで、映画「シリアにて」をみた。監督はフィリップ・ヴァン・レウ。ベルギー出身の監督だ。

 シリア内戦中の首都ダマスカス。砲弾が飛び交う中、避難しないでマンションにとどまる家族の緊迫した一日を描く。夫が戦地に行っているため、妻のオームが義父と子ども3人の家族を守っている。そこに、上の階に住む若夫婦と赤ん坊も身を寄せている。ところが、朝、若夫婦は外国に逃れようとして夫がその算段に外出したとたん銃撃手に撃たれてしまう。家政婦がその瞬間を目撃し、若妻にそれを伝えようとするが、オームは、若妻がすぐに夫のもとに行くと危険があまりに大きいので知らせることを禁止する。オームの判断は正しかったのか、いつまで秘密を守れるか、オームはいつ打ち明けるのか。そうした緊迫した雰囲気の中で物語は進む。

 オームは家族を守るため責任を引き受け、若夫婦を乱暴な兵士の犠牲にする。きれいごとは許されないぎりぎりの中でオームは必死に身を守ろうとする。そうする以外に家族を守るすべがない。そのような状況を、この映画は過度に感情移入せず、ドキュメンタリータッチで描いていく。戦場のリアルが伝わり、残酷になっていく兵士たち、痛みを分かち合いながら生き抜こうとする人たちの様子がよくわかる。誰も信用できない。親しい人以外はみんな敵という状況。確かに戦場はこのような状況になっているのだろう。

 ただ、私の認識不足のせいだと思うが、マンションが正確にはどのような状況にあるのか、よくわからなかった。シリアは政府派と反政府派とISが入り乱れて戦っているということだが、若妻を犯す男たちは政府派なのかISなのか。この家族の宗教は何なのか。イスラム教の祈りの音楽が聞こえるのにこの家族は祈っている様子はないので、もしかするとイスラム教徒ではないのか。では、どのような状況にいるのだろう。そうしたことについて疑問が残った。

 若い夫は銃撃では殺されていなかった。病院に運ばれた。そこに救いはある。だが、安易な解決は示されないまま、映画は終わる。現実も同じように、解決の糸口はつかめないまま、まだしばらくこのような状況が続くのだろう。映画はそのような現実を教えてくれる。

| | コメント (0)

«清水和音・藤江扶紀・岡本侑也のラヴェルを堪能