「17歳のウィーン」 時代に翻弄された人々

17歳のウィーン フロイト教授人生のレッスン」をみた。

 ローベルト・ゼーターラーのベストセラー小説「キオスク」をニコラウス・ライトナーが監督した作品。フロイトは一時期、かなり熱心に読んだ。フロイトが主人公として登場するのなら、見ないわけにはいかないと思ったのだった。とてもおもしろかった。

 17歳のフランツ(ジーモン・モルツェ)は、シングルマザーの母が土地の男たちの世話を受けて、湖のある山間部で育てられてきたが、生活が成り立たなくなり、母の知人であるオットー(多分、かつて母の面倒を見た男性)を頼ってウィーンのタバコ屋(正確には、Tabak Trafik)で働き始める。フランツはうぶで誠実で一本気。ボヘミア出身の少女と知り合い、恋に落ちる。常連の一人が精神分析学者のフロイト(ブルーノ・ガンツ)だったことから、フランツはフロイトの好む葉巻をプレゼントする代わりに恋愛相談に乗ってもらうようになる。

 時代はナチス侵攻期。ヒトラーはドイツで政権を握りオーストリアを併合する。ウィーンにもカギ十字が氾濫するようになり、ユダヤ人に好意的なオットーは嫌がらせを受け、ついには逮捕され、ゲシュタポ本部で殺される。ユダヤ人であるフロイトはだんだんと暮らしにくくなり、最後にはロンドンに亡命する。アネシュカはフランツの母と同じように、生活のためにやむなくナチス将校の愛人になる。そうした息苦しさ、ナチズムの浸透、生きるための必死の努力など、まさにナチスが勢力を拡大した時期、つまりはフロイトがウィーンで暮らした晩年の様子がリアルに描かれる。

 フランツはフロイトの「夢判断」に出てきそうな夢をたびたび見る。映画の中で夢の謎解きが行われるのかと思っていたら、そんなことはなかった。母が生活を愛人たちから得ていたことにわだかまりを持ち、性的な欲求に何らかのコンプレックスを持っていることがこれらの夢からうかがい知れるだけだった。

 フロイト理論が映画とどう関係するのかなど、疑問に思うところは多々あったが、ともあれ、時代に翻弄されながら自分らしく生きた青年と老精神分析学者、そして、男の性的な満足に身をゆだねるしか生きるすべがなかった二人の女性の生きざまを描く映画として、とてもおもしろかった。

 

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「愛情物語in Paris」(「アンドレア・シェニエ」の物語)を楽しんだ

 202088日、川崎市の小黒恵子童謡記念館で、ANCORA+特別企画 愛情物語in Paris「アンドレア・シェニエ」より をみた。

 脚色・台本・演出は三浦安浩。「アンドレア・シェニエ」から抜粋し、フランス革命の時代と現代をつなぐ語り手役を配し、日本語による台本をつけ足して、奇跡的に日本人にもわかりやすくおもしろい物語に作り直している! 歌のほとんどは原語で歌われるので、よくわからないところはたくさんあるが、音楽の魅力もあって、特に気にならずに物語に入り込めるようにできている。

 歌手陣は充実している。私はとりわけ、シャルル・ジェラールを歌う清水良一とシャルルの父親などのいくつかの役を歌う大塚博章に感銘を受けた。清水は複雑な役を見事な声で歌った。大塚も、シャルルの父親の役では少々不自然な演技だった(年齢的に、かなりこの役は現在の大塚さんには苦しい!)が、それ以外の役を演じると、堂に入っている。声の豊かさは圧倒的。

 マグダレーヌの斉藤紀子も芯の強いしっかりした声。ほかの歌手陣もそろっており、しっかりと音楽を盛り上げた。ただ、題名役の小野弘晴について、私には声のコントロールが不足するように聞こえた。声は出ているが、私に言わせれば、むしろ声が出すぎている。こんな小さな会場でこんなに声を張り上げる必要はないだろうと思う。声を張り上げようとするあまり、コントロールが甘くなっているように思えた。

 小さな劇場でオペラを見るとき、常に思うのだが、歌手の方たちは声の威力を発揮しようとしすぎるのではないか。ささやくような声があり、しんみりとした静かな声があってこそ、フォルテの声の威力が出る。いや、そもそもささやくような声にこそ、迫力が宿ると思う。完璧な音程で観客の心の中にじっくりと入り込む弱音こそ、私は歌手の醍醐味だと思うのだが、それは私が素人だからだろうか。

 ピアノは村上尊志。私の席のせいか、初めのうち音のバランスが悪く思えたが、徐々に良くなった。

 三浦安浩流の味付けの「アンドレア・シェニエ」。イタリア・オペラに疎い私はそれほどこのオペラになじんではいない。実演と映像を合わせて数回みたことがある程度だ。だが、三浦流案内のおかげでフランス革命の時代(学生のころ、フランス革命が大好きで、何冊も関係書を読んでいたのを久しぶりに思い出した!)に戻ることができ、激動の時代、先の見えない時代の愛の激情を目の当たりにできた。三浦さんの群衆の作り方に感服。少人数でありながら、祝祭感を出し、激動の時代であることを予感させている。

 三密を避けた客席の配置(ただ、歌手たちが大声なので、実はちょっと感染が心配になった)がなされ、ソーシャル・ディスタンスという言葉が繰り返し台本でも触れられる。三浦さんが挨拶でも触れていたが、オペラこそ新型コロナの直撃を受けている。負けないでほしいと無責任に言うだけしかできないが、本当に歌手の方々に先の見えない状況に負けないでいただきたいものだ。

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YAMATO String Quartetのラズモフスキー1・2・3番 もっとはっちゃけたベートーヴェンを聴きたかった!

 202085日、神奈川県立音楽堂でYAMATO String Quartetによるベートーヴェンの中後期弦楽四重奏曲連続演奏の初回を聴いた。演奏者は第1ヴァイオリン・石田泰尚、第2ヴァイオリン・執行恒宏、ヴィオラ・榎戸崇浩、チェロ阪田宏彰。初めてこの音楽堂を訪れたが、真昼間、35℃くらいある中、マスクをつけて坂を上った。かなり急な坂だった。客に高齢者の方が多かったので、みんな大変だったのではないか。いや、かくいう私も十分に高齢者。

 曲目は、ラズモフスキー第1・2・3番(すなわち弦楽四重奏曲第7・8・9番)。第1番は、正直言って期待外れだった。音にまとまりがない。第1ヴァイオリンの石田さんの音もぴしりと決まらない。今まで何度か石田さんの演奏を聴いたが、たぶんスロースターターなのだと思う。

 それに、ちょっとベートーヴェンに遠慮しすぎている気がする。まるでおさらいをしているようで、おそるおそる音を鳴らしている感じがある。自分なりの音楽を作るというよりも無難に合わせようとしているように聞こえる。

 私がベルチャ四重奏団やエベーヌ四重奏団のような凄まじすぎる演奏を好んで聴いているせいもあるのだが、あまりに微温的に思えた。

 だが、第2番になってから、私はかなり音楽に乗ることができた。石田さんが意識的にリードするようになったように思った。特に第3楽章の独特の雰囲気を石田さんのヴァイオリンが見事に演奏した。細身の独特の美音でキレがよく、諧謔的でもあり大真面目でもある。

 第3番もそれに続いて、しっかりした演奏になった。

 ただ、アンコール(何の曲か知らない。ミニマルミュージックっぽい現代曲)を聴いて、ベートーヴェンでももう少しこんな味を出してほしかったと思った。これは素晴らしい演奏。音楽を自分のものにし、自在に弾きまくる。楽しいし、躍動的だし、音楽の楽しみがいっぱい。ベートーヴェンでまじめにお勉強の曲を弾いた後、そこから解放されて思いっきり演奏した感じ。でも、ベートーヴェンをもっと思いっきり演奏してほしかった。私はそれを期待して足を運んだのだった。

 この団体独特のベートーヴェンを聴きたいと改めて思った。もっとはっちゃけたベートーヴェンを聴きたかった。

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映画「剣の舞」 ハチャトゥリアンの人生を知ることができたが、特に感銘は受けなかった

 ユスプ・ラジコフ監督の映画「剣の舞 我が心の旋律」をみた。アラム・ハチャトゥリアンが「剣の舞」を作曲するまでの物語。

 ジョージア生まれのアルメニア人であるハチャトゥリアンは、ソ連の作曲家として活躍している。レニングラードの劇場でバレエ音楽「ガイーヌ」を初演準備中。ショスタコーヴィチやオイストラフも友人として駆けつける。ところが、ハチャトゥリアンを苦々しく思っている共産党の指導員が作曲を邪魔し、権力をかさに着て、ひそかに心を通わせているバレリーナを卑劣な手口で横取りしようとする。だが、ハチャトゥリアンは、アルメニアの魂を忘れず、虐げられている人々の心を描くべく、最後に「剣の舞」を仕上げる。

 ハチャトゥリアンは特に好きな作曲家というわけではない。だが、昨年だったか、ジョージアとアルメニアを旅行し、それを機会にハチャトゥリアンのCDも数枚聴いた。日本語ガイドさんとハチャトゥリアンの話もした。

 アルメニア人のトルコ人による虐殺に対する怨念、魂の故郷でありながら、今トルコ領となっているアララト山への思いはよく理解できた。ハチャトゥリアンの同胞への思い、ソ連でも悲哀を感じながら生きるしかないアルメニア人の思いも伝わってくる。

 ただ、ハチャトゥリアンの人生について知ることができたとはいえ、映画としては、共産党員の横暴、若い女性とのふれあいなどに既視感を覚えた。これまで何度も同じような映画をみてきたような気がする。それに、「剣の舞」そのものの作曲については特に描かれることなくすんなりと通り過ぎていった印象がある。機関車の音にインスピレーションを受けて「剣の舞」のリズムが生まれたように描かれていたが、それは実話に基づくのだろうか。もう少し民族的な意識の盛り上がりを描いてほしかった気がする。

 退屈せずに最後までみたが、特に感銘を受けることはなかった。

 

 

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ヴァルダの映画「ポワント・クールト」、クレマンの映画「生きる歓び」

「ポワント・クールト」 1954年 アニェス・ヴァルダ監督 

 ヴァルダの映画を数本立て続けに岩波ホールでみたが、「ポワント・クールト」がDVDで発売されたので、早速購入した。素晴らしい映画だと思った。ポワント・クールトとは狭い岬のこと。舞台となっている南仏の町セット(ポール・ヴァレリーの故郷。40年近く前、私はこの土地を通り過ぎた記憶がある)の海辺を指す。

 ヌーヴェル・ヴァーグはここから始まったといわれるだけあって、ゴダールやアラン・レネをほうふつとさせる作風。

 夫の故郷であるセットの浜辺にやってきた夫婦(フィリップ・ノワレとシルヴィア・モンフォール)を縦軸に、海辺の人々の生活が描かれる。夫婦は、レネの「去年、マリエンバードで」の中の男女のように観念的な言葉をぼそぼそと話しながら海辺を歩き回る。妻は夫の浮気をきっかけに離婚を考えている。夫は静かに引き留める。最後には妻は復縁を決意する。海辺では、漁師たちが役人を出し抜いて禁漁地域で漁をし、若い男女が恋をし、小さな子どもが病死し、祭りが開かれている。まさに生と死が静かに渦巻いている。モノクロの詩的な映像が激しい怒りと悲しみと愛憎を抽象化し、純化する。きわめて抽象的だが、同時にきわめてリアル。そのような奇跡をこの映画はなしている。

 ヴァルダの猫好きは知っていたが、この映画には執拗なほどに猫が出てくる。ほとんどの場面に何らかの形で猫が姿を現しているのではないか。海の中に浮かぶ猫の死体も映る。猫。これほど生と死を強く感じさせる動物はいない。私は猫が大嫌いで、猫を見るだけ不快になる(私はヴァルダ・ファンなのだが、ヴァルダの映画を見るとしばしば猫が登場するので閉口している!)のだが、私が猫嫌いなのは、おそらく生と死を目の前に突き付けられるような気がするからだ。この映画は、静かに、しかし強烈に生と死を突き付けてくる。

 フィリップ・ノワレは好きな俳優だが、これがデビュー作だという。若い! 女優さんもとても魅力的な顔つき。そのほかの人々は本職の役者ではなく、土地の人だろう。どの顔もその人の生きてきた姿をしっかりと描き出している。一つ一つの映像、一人一人の顔がそれだけで芸術だと感じる。

 久しぶりの心の奥から感動する映画をみた。

 

「オペラ・ムッフ」 1958年 アニェス・ヴァルダ監督

 17分の短編映画。ムッフというのは、パリのムフタール通りのことらしい。男女のヌードやムフタール通りの市場や商店などが映し出される。脈絡のない映像詩とでも呼ぶべきもの。音楽と字幕だけでつづられる。「ダゲール街の人々」と同じように、町に対する、そしてそこを行きかう人々に対するオマージュと呼べるような映画だ。ここでも人々の顔がとても魅力的だ。もちろん、美男美女ばかりではない。老若男女の様々な顔が映し出される。17分を超すと、これだけでは退屈するが、この時間であれば、一つ一つの顔の中に人生を感じて過ごすことができる。顔はそれだけで芸術である、と強く思う。

 

「生きる歓び」 1960年 ルネ・クレマン監督

 これまでこのブログで、古い映画の感想を書く際、しばしば「以前みたつもりだったが、どうやら今回初めて」といった文を加えてきた気がする。今、それについて自信がなくなっている。

 というのは、「生きる歓び」は絶対に間違いなく、1970年代にみた。かなり期待してみたが、まったくおもしろくないと思ったのをよく覚えている。で、今みたらどうだろうと思って、50年ぶりくらいにみた。ところが、まったく覚えていなかった! 1秒たりと記憶のある場面がなかった。してみると、私はこれまで、「みたつもりだったが、今回初めて」というのは、実は私が単に映画の内容を完璧に忘れているだけなのかもしれない。

 で、今回みたが、やはりつまらなかった。1920年代が舞台になっている。ユリウス(アラン・ドロン)は孤児として育ち、兵役を終えて仕事がなく、食べるために黒シャツ隊に入隊する。反体制的なビラを作った印刷所に調べに行くが、そこの娘に恋をして、そのまま印刷所で勤め始める。印刷所は経営者一家や従業員がみんなアナキストで、ユリウスはなりゆきから正体を偽って潜入しているアナキストの大物を装う。あれこれあって、ともあれ平和にすべてが収まる。コメディだとのこと。ただ、別に笑うところはなかった。

 警官とアナキストたちが和気あいあいとやっていたり、国家的な行事のたびにアナキストたちはお決まりで牢獄に入り、しかも抜け道があって、何人もがそこから一時的に脱獄したり・・・といった牧歌的なストーリー。ただ、そこにあまりリアリティを感じないし、おかしみも感じない。

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「アニエスによるヴァルダ」 日常の奥の心の襞を見つける

 アニエス・ヴァルダの映画「アニエスによるヴァルダ」をみた。90歳になったアニエス・ヴァルダが聴衆を前に自分の人生を語っている場面を中心に、過去のヴァルダ自身の映像作品が挿入される。初めて見る映像もかなりあった。

 自在な語り口。大きな枠に沿って話は進むが、自由に脇道にそれ、そうでありながら、またいつの間にか元に戻っている。「ダゲール街の人々」や「落穂拾い」や「アニエスの浜辺」や「顔たち、ところどころ」でも存分に発揮された語り口だ。しかも、今回は、90歳になったヴァルダ自身が直接に自分を語る。「5時から7時までのクレオ」や「幸福」の撮影秘話も語られる。

 興味をひかれることが多い。とりわけ、「幸福」が大好きな私としては、うれしい場面がいくつもあった。色に対する気遣い、音楽への関心が聴かれたことも収穫だった。

 人に対して尽きせぬ興味を抱き、人の行動に対して愛情を注ぎ、日常のさりげないものに新しい側面を見つけ出し、そこに人間の心の襞を見つける。これがヴァルダの精神だと思った。

 ただ、実を言うと、少々退屈したのだった。よく知らない作品も言及されるが、説明なしに語られるので、その意味するところをすぐに理解できない箇所もあった。2時間ほどの映画だったが、少々長すぎた気がする。

 映画はできれば映画館でみたいとしばしば思う。自宅でみると、雑用や気がかりのために集中できない。が、今回のこの映画に関しては、むしろDVDなどのソフトを家でみるほうがよかったと思った。家にいながら、映像を止めたり、前に戻したりしながら、過去のヴァルダの映画のDVDを引っ張り出したり、ネットで調べたりしてみるほうが楽しかっただろうと思った。続けてみると、ヴァルダの生涯の映画をうまく整理できないまま終わりそうな気がした。

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神フィル再開公演 「運命」の第4楽章に圧倒された

 2020年723日みなとみらいホールで神奈川フィルハーモニー管弦楽団再開公演を聴いた。指揮は川瀬賢太郎。曲目は前半にリヒャルト・シュトラウスの13管楽器のためのセレナード作品7とチャイコフスキーの弦楽セレナードハ長調作品48。後半にベートーヴェンの交響曲第5番(運命)。

 別の曲のつもりでチケットを購入したような気がする(ラヴェルやバルトークが予定されていたはず)が、新型コロナ対策のために、楽器が少なくて済むこれらの曲に変更になったようだ。神奈川フィルも4か月ぶりの公演だということ。隣の席を空けて、全席でせいぜい500名くらいの聴衆だっただろうか。帰りも、一斉に席を立つのではなく、エリアごとに順番に退席するように指示があった。

 私自身も新型コロナウィルスのために3ヶ月ほどコンサートに足を運べなかった。3ヶ月もの間、なまの音楽を聴かないということは、おそらくこの20年くらいなかったと思う。コンサート禁断症状が出かかっていた。

 ただ残念ながら、やはり演奏は精妙さに欠ける。リハーサル不足を感じないわけにはいかない。逆に言えばそれほどオーケストラは普段からの顔合わせても演奏が重要だということだろう。

 もちろん、しっかりした音にはなっている。だがシュトラウスもチャイコフスキーも、きちんと音が合うだけでは、その魅力は立ち現れない。川瀬の指揮ぶりによってどういう音にしたいのか、オーケストラ団員がどのような音楽を目指しているのかが想像できるのだが、オーケストラからはしなやかにうねってロマンティックな香りのある精妙な音は出てこなかった。

 ベートーヴェンの交響曲第5番も同じような雰囲気を感じた。もちろん盛り上がる。気迫が伝わってくる。だが、気迫が空回りしているところがある。

 とはいえ、第4楽章になったら、もうそんなことは言っていられない事態になった。突如、団員たちの音楽を演奏したいという気持ちが爆発したかのように、音楽が生きてきた。ちょっと粗いところもあるし、音がずれている感じがしないでもないが、そんな小さなことはどうでもよくなる。

 1947年のフルトヴェングラーのベルリンフィル復帰公演で演奏された第5を思い出した。ミスも多く、アンサンブルもめちゃくちゃ。しかし、ものすごい気迫で押しまくり、聴く者を圧倒させずにはいない。神奈川フィルの演奏にもそれと同じようなものを感じた。怒涛の音楽になって曲は終わった。

 やっぱり音楽は素晴らしい。やっぱりベートーヴェンはすごい。やっぱり人間は音楽なしには生きていけない。聴きながらそう思った。

 コンサートの後、拍手の中で川瀬さんがマイクを握って客席に向かって語り始めた。「音楽がなければ生きていけない」といいたかったようだ。が、言葉に詰まった。しばらく言葉が出てこなかった。私ももらい泣きしかけた。客席の多くがそうだっただろう。

 完璧な演奏ではなかった。だが、何はともあれ、なまの音楽は人の心を高揚させる。生きる力を心の奥底から引きずり出してくれる。少々の欠点なんて、なまの音楽の圧倒的な力に比べたらたいしたことではない。そう思った。

 

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オペラ映像「イル・トロヴァトーレ」「シモン・ボッカネグラ」「サンドリヨン」

 ウナギが好きだ。そのほかの魚料理も大好きだ。友人とウナギやら魚料理やらの店に行こうと約束をしていたのだが、いずれも感染者増加のために二の足を踏んでいる。私はかろうじて70歳以上ではないので、致死率が高いといわれる年齢に含まれていないが、危険であることに変わりはない。

 そんななか、オペラ映像を数本見たので感想を書く。

 

ヴェルディ 「イル・トロヴァトーレ」 2019年 アレーナ・ディ・ヴェローナ

 レオノーラを歌うアンナ・ネトレプコを目当てに購入。で、予想通り、ネトレプコが圧倒的に素晴らしい。高音の響きの美しさ、全体の声のコントロール、けなげで気高いレオノーラの造形、すべてにおいて完成度が高い。容姿も含めてほれぼれし、感情移入できる。マンリーコを歌うユシフ・エイヴァゾフ(確か、現在のネトレプコの結婚相手)も、ルーナ伯爵のルカ・サルシもフェルランドのリッカルド・ファッシもとてもいいが、コントロールの完璧さという点では、やはりネトレプコには及ばない。アズチェーナのドローラ・ザジックは少し年齢を重ねすぎて声が伸びず、イネス役のエリザベッタ・ツィッツォは若すぎて声が硬い。

 アレーナでの上演なので、オーケストラの精度はあまり高くないが、ピエル・ジョルジョ・モランディの指揮するアレーナ・ディ・ヴェローナ管弦楽団は、なかなかにドラマティック。演出はなんとフランコ・ゼフィレッリの古いもの。しかし、さすがに定番というか、豪華にして絢爛。リアリティもある。動きの一つ一つも音楽にぴたりと合っている。

 ただこのオペラを見るたびに思うのだが、私はやはりこの荒唐無稽さについていけない。設定の不自然さはまだ許容できるのだが、アズチェーナが取り違えて実の息子を殺してしまい、敵の子供を育ててしまったと、当の息子であるマンリーコに語って聞かせるあたりから、私の心はドラマから離れる。そのあとは音楽の迫力も空虚に感じられる。「物語は荒唐無稽だけど、音楽が素晴らしい」と多くの人が言うので、私もたびたび挑んでみるのだが、結局は自分が音楽人間ではなく、やはり根っこのところで文学人間なのだと納得して終わる。

 

ヴェルディ 「シモン・ボッカネグラ」 2019年 ザルツブルク祝祭大劇場

 大変な名演だと思う。すべてが充実している。

 シモンを歌うルカ・サルシがまず素晴らしい。観たばかりの「トロヴァトーレ」でルーナ伯爵を歌って、ところどころ声をコントロールできていないところを感じたが、もしかしたらそれは野外劇場だったせいかもしれない。こちらでは安定した見事な歌いっぷり。そして、フィエスコのルネ・パーペがまさに圧倒的。凄味がある。サルシとパーペの場面は凄さにぞくぞくしてくる。悪役パオロを歌うアンドレ・エイボエールもまったく引けを取らない。このオペラはバス・バリトンの低音の凄味が魅力だが、それを最高レベルで作り出している。

 テノールのガブリエーレ役を歌うチャールズ・カストロノヴォも素晴らしい。見事な美声でコントロールもしっかりされており、容姿もいい。これからの時代を作る「イケメン」テノールの代表だろう。アメーリアのマリーナ・レベカもこれらの名だたる男たちに交じって紅一点。清澄で高貴で強い声。物語の中心になる女性を見事に演じている。

 ウィーン・フィルを指揮するのはワレリー・ゲルギエフ。さすがの指揮ぶり。緊迫感にあふれ、どす黒い欲望と清らかな愛と人間と愛憎の世界を緻密に描く。

 演出はアンドレアス・クリーゲンブルク。現代の服装で、無機的な総督の館を中心に舞台が作られている。民衆はスマホばかりをみて政治にかかわろうとせず、一体感を作ろうとしない。そうした民衆の中で政治に携わる権力者たちの血なまぐさい闘争が行われている。現代を風刺しているのだろう。

 このオペラは物語としても面白く、私はヴェルディの大傑作の一つだと思う。私はイタリアオペラを聴くようになって日が浅いので、まったくもって素人の好みでしかないのだが、愛するものを思おうとする男たちの物語に心が熱くなる。私はヴェルディの作品の中で、「ドン・カルロ」「椿姫」「ファルスタッフ」と並んで、このオペラが好きだ。

 

マスネ 「サンドリヨン」 (1899) 全曲 2019年 グラインドボーン音楽祭

 マスネの「サンドリヨン」は、ディズニーなどの「シンデレラ」と異なって、孤独なサンドリヨンを名付け親の妖精が救い、悩める王子をサンドリヨンが救うという要素が強調され、夢の中のようなファンタジックな愛の世界が展開される。王子を歌うのがメゾ・ソプラノなので、聞こえてくる声のほとんどが女声。すべてが不確定で、曖昧で、まさに夢の中。そんなオペラだ。

 この映像をみると、このオペラがこのような夢の中の世界を描くものだったことに改めて気づく。

 三人の女性歌手が本当に素晴らしい。サンドリヨンのダニエル・ドゥ・ニースはしっかりした声で美しく歌う。シャルマン王子役のケイト・リンジーは、悩める王子をしなやかに繊細に歌う。音程のしっかりした清澄な美声。それにも増して、驚くほどの美声なのが、名付け親の妖精を歌うニーナ・ミナシヤンだ。妖精にぴったり。神々しいまでに澄み切っている。

 そのほか、頼りない父親パンドロフを歌うライオネル・ロートも、憎々しい継母を歌うアグネス・ツヴィエルコも芸達者でしっかりと歌って見事。二人の姉も含めて穴がない。

 ジョン・ウィルソンの指揮するロンドン・フィルハーモニー管弦楽団も、豊饒で繊細な音。マスネの求めていたのもこのような音なのだろう。

 オリジナル演出はフィオナ・ショウ、再演新演出はフィオナ・ダンという。ローラン・ペリーの演出として私たちが知っているような雰囲気。舞台全体にしなやかな躍動があり、奇抜な動きがある。フランス的なエスプリにあふれ、おしゃれでファンタジックな世界が展開される。

 かなり女性的な世界だと思う。実をいうと私の趣味ではないが、それはそれで素晴らしい上演だと思った。

 

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ヴァルダ監督の「ダゲール街の人々」「落穂拾い」 しなやかな知性と豊かな感性

 岩波ホールでアニエス・ヴァルダのドキュメンタリー映画を2本「ダゲール街の人々」と「落穂拾い」をみた。私は、50年以上前に「幸福(しあわせ)」をみて以来、ヴァルダの映画を愛してきた。この2本は見たことがないので、ぜひみたいと思っていた。

 

「ダゲール街の人々」 1975

 ヴァルダが住んでいたダゲール通りという庶民的な小さな通りの人々を描いたドキュメンタリー。老夫婦の営む香水・薬品などを扱ううらぶれた化粧品店や、ある店で行われたマジックショーを中心に、床屋、肉屋、パン屋、自動車教習所などの日常が淡々と描かれる。特にドラマがあるわけではない。はっきりした主張があるわけでもない。

 中年以上の人、とりわけ夫婦が描かれる。華やかなところのない、言ってみれば、少しくたびれた、美男美女でもない、ふだんは映画の画面に出てこない人々。決して清潔ではなく、おしゃれでもない、むしろ不潔で薄汚れたお店で客に接待し、おかしな客が来たり、なじみの客が来たりして対応する。

 今は失われてしまった下町の光景。店で肉を切り分け、客に目の前で肉を切って渡す。口にくわえたナイフでパンに筋目を入れて焼く。スーパーでは見られない光景だ。長年寄り添った男女がヴァルダのインタビューに答えて、そこに住む人たちの出身地や夫婦のなれそめを語る。

 多くの人が地の自分を見せる、ヴァルダはなんらかの思想に基づいて何かを断罪したり支持したりすることなく、すべてに愛情をこめて描く。ヴァルダの好奇心は行きつ戻りつする。好奇心の赴くままにカメラが動く。何という自由な感性、何というしなやかな知性!

 この映画は1975年に撮られたらしい。私が初めてパリを訪れたのは、1977年。私が初めてパリを訪れたころの光景が描かれていた! 私はモンパルナスの安ホテルでひと月以上を過ごし、まさしくこの映画に出てくるようなお店でパンやチーズを買っていた。モンパルナスの場末の店も、ダゲール街と似ていた。ダゲール街と私がうろついていた界隈は距離的にもすぐ近くのようだ。華やかな世界を予想してパリを訪れた私はこのようなパリの姿に驚き、同時に大きな魅力を感じた。それがそのまま描かれている。ああ、当時、こんな服装だった! こんな店構えだった! フランス人はこんな態度だった! そう思いながら懐かしさがこみあげてきた。

 それにしても、登場するのがほとんど白人。そこが現在と異なる。現在、同じ場所を撮影したら、半分近くが有色人種だろう。その面でも時代の変化を感じる。

 映画の最初から何度も登場する化粧品店の老いた女性が、どうやら認知症らしいことが徐々に観客にも見えてくる。初めから顔に表情がなく、挙動がおかしいのに気付いていたが、いよいよ不思議な行動をとる様子が示される。そうした様子をもヴァルダ愛情をこめて描く。失われゆくパリの世界。失われゆく人間の世界。ああ人間。

 懐かしいパリを見ることができ、ヴァルダの初々しい感性に触れることができて、とても感動。

 

「落穂拾い」 2000

 ミレーなどの画家の落穂拾いの様子はしばしば描かれている。そこに着想を得て、現代社会における落穂拾いをする人、ものを拾う人、そして、情景の落穂拾いをするヴァルダ自身(原題はLes Glaneurs et la Glaneuse「落穂拾いをする人々と落穂拾いをする女性」 女性単数形の定冠詞のついた拾う人というのは、もちろんヴァルダを指す)を描く。

 ものを拾う人を肯定的に描く。収穫後、農場に取り残された野菜や果物を貧しい人々がやってきて拾って貴重な食べ物にする。職をなくした人、移民として生活苦の中にいる人、半ば趣味として拾っている人、そこから芸術作品を作っている人、都会の中でホームレスとして生きている人。

 そんな人たちがヴァルダの前では自然な姿を見せる。飽食社会、ものを無駄にする社会、そのために食べるものがなく苦しんでいる社会、そうした社会を人々が語る。ヴァルダ自身は声高に何かを主張するわけではない。それに反対の立場の人がいても素直に耳を傾ける。

 登場する人物が皆とても魅力的だ。パリの市場の近くで捨てられた野菜をその場で食べて生活している男性が、ボランティアで移民にフランス語を教えている。そのような人々の営みが、「拾う」という行為を追いかけるうちに見えてくる。

 素直に見たいものを見て、それを率直に表現し、論理にも縛られず、自由自在に撮影し、自在にそれを編集する。まさに、社会の中で落っこちているものを自由に拾って映画にする。そこにヴァルダの知性と感性が魅力的に現れる。しなやかな知性と豊かな感性があってこそできる映画なのだと思った。

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オペラ映像「こびと」「チェネレントラ」「セヴィリアの理髪師」「影のない女」

 新型コロナウイルス感染者の東京の感染者が数日間、200名を超し、今は少し減ったが、それでも100名を超す。9月に地方に行く仕事が入ったので、その地の友人にLINEで連絡したら、すぐに電話がかかってきた。どうも、「今は来るな」ということらしい。さて、どうしたものか。

 何本かオペラ映像をみた。簡単な感想を記す。

 

ツェムリンスキー「こびと」 2019年 ベルリン・ドイツ・オペラ

 演奏会形式で聴いたことはあったが、オペラ上演の映像をみたのは初めてだ。とてもおもしろかった。

 演出はトビアス・クラッツァー。序曲の部分で、ツェムリンスキーと思しき男性がアルマ(のちのマーラー夫人)らしき女性に邪険にされながらも執着する様子が黙劇で演じられる。ツェムリンスキーがアルマとの関係を意識して、この「こびと」を作曲したというのは有名な話なので、きわめて納得のゆく演出。あのクラッツァーにしてはむしろありきたりに感じるほど。

 こびとをプレゼントとして与えられた王女は、鏡を見たことがなく、自分の醜さを知らないこびとに真実を知らせ絶望させる。こびとを実際の小人症の人が演じ、横で歌手が歌う。音楽的にも演劇的にも極めて充実している。王女役のエレーナ・ツァラゴワは明晰な美声で残酷な美しい王女を見事に歌い、演じる。こびとを歌うデイヴィッド・バット・フィリップも高貴な声、演じる男性も見事。侍女のギータを歌うエミリー・マギーもこびとに同情的でありながらも侍女としてふるまう役をうまく演じている。真実を知る場面などツェムリンスキーの音楽が悲劇的に響いて、とても感動的だった。

 指揮はドナルド・ラニクルズ。なるほど、この先鋭的でありながらも抒情的な音楽がツェムリンスキーなのだろうと納得できた。

 

ロッシーニ 「チェネレントラ」  1995年、ヒューストン・グランド・オペラ

 チェチーリア・バルトリ ロッシーニ・エディション(15CD+DVD)を購入。その中から、これまでみたことのないDVDをみた。その一つが「チェネレントラ」。

 なんといっても、アンジェリーナ役のバルトリが図抜けている。いかにもバルトリらしい躍動的で生き生きとして重みのある声。可愛らしい声ではないが、圧倒的な力感がある。

 ドン・ラミロ役のラウル・ヒメネスも高貴な声で声もしっかり出ている。ドン・マニフィコのエンツォ・ダーラとダンディーニのアレッサンドロ・コルベッリはともにベテランの味を出して、歌も見事で、しかも芸達者。ただ、アリドーロのミケーレ・ペルトゥージの歌がかなり硬い。

 ブルーノ・カンパネッラの指揮は現在のロッシーニ演奏からするとかなりおとなしいが、当時としてはこんなものだったのだろう。

 

ロッシーニ 「セヴィリャの理髪師」 1988年、シュヴェツィンゲン音楽祭

 1988年というから、30年以上前の上演。私の世代の人間が「セヴィリアの理髪師」として思い浮かべる通りの扮装、仕草での上演。懐かしい。とても楽しい。

 歌手陣は最高度に充実している。往年の名歌手たちだ。フィガロはジーノ・キリコ、アルマヴィーヴァ伯爵はデイヴィッド・キューブラー、バルトロはカルロス・フェラー、ドン・バジーリオはロバート・ロイド。そして、もちろんロジーナはチェチーリア・バルトリ。みんなすばらしいが、私はバルトリとロイドに驚嘆した。バルトリは一筋縄ではいかない強いロジーナを演じている。ロイドは滑稽で不気味で、しかも実に声量豊かな深い声。

 ガブリエーレ・フェッロ指揮によるシュトゥットガルト放送交響楽団。いかにも1980年代の演奏だが、歌手たちは個性的で、オーケストラの音もふくよかで、演出もわかりやすく、それはそれでとても楽しい。

 

シュトラウス 「影のない女」 ウィーン国立歌劇場 2019年 (NHK/BS放送)

 2011年のザルツブルク音楽祭でティーレマン指揮の「影のない女」をみて、驚嘆した記憶がある。ただこの時は、クリストフ・ロイの意味不明の演出だった(新人歌手がレコーディングをするという設定だった。何のことやら?)が、今回は同じティーレマンの指揮ながら、演出はヴァンサン・ユゲで、かなり原作に則している。

 圧倒的名演だと思う。三人の女性歌手、皇后のカミッラ・ニールント、乳母のエヴェリン・ヘルリツィウス、バラクの妻のニナ・シュテンメが最高の力演。私は武蔵野市民文化会館でまだ無名のころのリサイタルを聴いて以来のニールントの大ファン(一度、数人で飲食をご一緒したことがある!)。美しい声で強靭に歌い、しかも威厳ある美しい容姿に改めて圧倒された。皇后にぴったり。ヘルリツィウスはザルツブルクではバラクの妻を歌ったが、乳母もまた素晴らしい。ドスのきいた声で裏のある性格を見事に描いている。シュテンメもイゾルデ並みの声で複雑な女ごころを歌う。皇帝のステファン・グールド、バラクのヴァルフガング・コッホも女性陣に劣らず、心をえぐる歌だった。

 このオペラは超名曲だと思うが神秘的寓話であるため、観客はキツネにつままれた気持ちになる。そうなると歌も一本調子に聞こえてくることがある。だが、この五人の名歌手たちはニュアンスを歌いわけ、張りのある、しかも余裕のある声で表現する。凄い!

 ティーレマンの指揮についても、まさに縦横無尽、快刀乱麻、しかもニュアンス豊か。ザルツブルク音楽祭でかなり良い席で実演を聴いた時ほどの切れ味は感じなかったが、それはテレビ放送の録画を自宅の装置(低級ではないが、高級でもない)で聴いたせいだろう。演出については、皇后がバラクに恋愛感情を抱くふうを見せるのを除けば、私の理解できる限りではそれほど大胆な解釈はないようだ。わかりやすくこのオペラの荘厳で神秘的で不可思議でエロティックな雰囲気を作り出す。久しぶりにこれほどの高レベルの「影のない女」をみて実に満足。

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