加耒徹×古海行子の「水車屋の美しい娘」 知的でありながらも鬼気迫る演奏!

 2026718日、トッパンホールで、加耒徹×古海行子デュオリサイタル《シューベルト~一瞬の春~》を聴いた。曲目は、前半に古海行子のピアノでシューベルトの「楽興の時」、後半に加耒徹のバリトン、古海の伴奏で「水車屋の美しい娘」。素晴らしい演奏だった。3日連続で感動のコンサートを聴くことができた。

 前半については、ピアノ独奏曲をほとんど聴かず、しかもシューベルト好きではない私としては、何も語ることができない。古海のピアノは勢いがあってとてもいいのだが、私の修行が足りないというべきか、シューベルトの室内楽曲やピアノ曲を聴くと「長いなあ」と思ってしまう(古海さん、ごめんなさい)。

「水車屋の美しい娘」は素晴らしかった。加耒の歌は、ほとんどオペラ全曲を聴くほどの起伏を持ち、ドラマを持っていた。時に鬼気迫ると表現すべきほどだった。ピアノも勢いがあってとてもよかった。見事に、時に鋭い和音で激しい想いを伝え、シューベルトの世界を作り出した。

 加耒は最初の一音から最後まで正確な音程で完璧にコントロールした声で歌う。声そのものも美しい。余裕のある知的で穏やかな声。そして、ドイツ語の発音も実に美しい。私にはドイツ語は分からないが、きっと発音も正確なのだろう。しかも、知的に音楽を構築し、一つ一つの曲にドラマがあり、歌曲集全体も大きなドラマがある。それが、ドイツを理解してない私にも十分も伝わるように歌う。しかも、声の広がりや響き具合までも完璧で音楽に即している。うーん、すごい! ドイツの最高峰のリート歌手たちにまったく引けを取らないと思う。

 序盤の数曲は活気にあふれ、恋心にあふれている。加耒の歌は、第5曲や第7曲での高揚は恋心の高鳴りが感じられる。そして、第14曲「狩人」や15曲「妬みと誇り」では、痛々しくまさに鬼気迫る。そして、第19曲では静かな絶望が支配し、最終曲では平和な川の流れに戻る。まさしく、恋をし、嫉妬し、苦しみ、絶望した若者の心の軌跡をたどることができる。全曲を聴き終えた後、一人の若者の生涯をともに生きた気がした。

 アンコールは「楽に寄す」。これも、70分近く歌った後とは思えない美声で、まさに音楽の楽しみを歌う。

 このところの日本人声楽家の躍進はすさまじい。実にうれしいことだ。

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映画「急に具合が悪くなる」 ユマニチュードの考え方!

 濱口竜介監督の映画「急に具合が悪くなる」をみた。濱口監督の映画は「寝ても覚めても」「ドライブ・マイカー」「悪は存在しない」を見て、いずれもとても良い映画だと思った。今回も話題になっているので気になっていた。3時間を超すので二の足を踏んでいたが、ともあれ時間を見つけてみることにした。

 原作は宮野真生子と磯野真穂の往復書簡であって、まったく映画とは異なるという。

 パリの老人介護施設のディレクターを務めるマリー(ヴィルジニー・エフィラ)はユマニチュード(認知症などの障害のある人も人間として敬意をもって接するという介護のあり方)の考えに基づいた介護をしようとしているが、現場の実務者たちから反対の声が上がってうまくいかずにいる。そんなとき、障害のある少年・智樹(黒崎煌代)を通して、日本人の役者・清宮(長塚京三)と演出家の森崎真理(岡本多緒)を知る。彼らの演劇がまさにユマニチュードの精神に基づき、それを実践しているように思えたからだった。とりわけ演出家の真理は癌のステージ4であり、急に具合が悪くなったら最期が近いという状況にいる。マリーは真理と意気投合し、真理に施設でイベントを行ってもらってユマニチュードを進める。反対していた人たちも、ユマニチュードを認めていく。だが、最後、真理は、急に具合が悪くなって亡くなる。

 全編、ユマニチュードの思想にあふれているといってよいだろう。ただし、これは単に認知症の高齢者に対しても人間らしく接する、というレベルではない。障害者も病人も健康な人と同じように生きていくべきだという考え方だ。それどころか、ホワイトボードに真理が書いてマリーに説明する通り、資本主義は外部を侵食していくことから成り立っている。そのため、少子高齢化が起こり、格差が生じ、様々な弊害が生み出されている。この映画で提唱されるのは、外部と内部をなくし、枠をなくし、すべてをひとまとめにしようというユマニチュードの考え方だ。つまり、ここでは、おそらく国籍も人種も階層もひとまとめにされる。生も死も同じこととみなされる。だから、この施設では健常者と被介護者が同等に行動し、役者・清宮はフランス語と日本語の混じった芝居を演じ、真理は死を生きようとする。

 実は私にはこの映画はことのほか親しみやすかった。私には、がんを患っていた妻が急に具合が悪くなって、そのまま緊急入院し、11日後に帰らぬ人になった経験がある。そして、妻の経験を踏まえて、その後、「70過ぎたらサメテガル」(小学館新書)という本を書いたが、それは「すべてサメテガル、つまり、どちらでもいい、どちらでも同じ、という意識で生きるべきだ」というテーマだった。その中に、生も死も同じではないか、という考えに少しだけ触れた。それは今から考えると、ユマニチュードの考えに近いものだった。

 ユマニチュードを実現するのは難しい。濱口監督も、この映画で描いたのが一つのユートピアであることは承知していると思う。だが、理念としてのユマニチュードを描いたこと自体、素晴らしいことだと思う。

 ストーリーの運びもとても明確でわかりやすい。あっと驚くような美しい場面がたくさんある。それにしても、二人の女優さん(ヴィルジニー・エフィラと岡本多緒)が魅力的だ。二人とも今回初めて知った。カンヌ映画祭で主演女優賞を獲得したという。当然の受賞だと思った。

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マルッキ&都響の「青ひげ公の城」に感動!

 2026717日、サントリホールで、東京都交響楽団定期演奏会を聴いた。指揮はスザンナ・マルッキ、曲目は前半に、デュカスの歌劇「アリアーヌと青ひげ」第3幕への前奏曲とドビュッシ「夜想曲」より「雲」「祭」、後半に、バルトークの歌劇「青ひげ公の城」(演奏会形式)。

 素晴らしい演奏だった。素晴らしい指揮者だと思った。

 都響が見事な音を出した。前半は、緻密で繊細で気品にあふれている。弦のトレモロがまるで雪の結晶がキラキラと光っているようだった。こんなきれいなトレモロを久しぶりに聴いたと思った。フランス的な響きと言ってよいだろう。だが、かなりドイツ的な構築性のようなものを感じる。力感もある。そして、マルッキの指揮姿が実に美しい。こんなに美しい指揮姿は、カルロス・クライバーを初めとして、数人しか覚えがない。優美な姿から、力強くも繊細な音楽が奏でられる!

 後半は圧巻だった。ソロの二人にまず驚嘆した。ジョン・レリエ(バス)とシルヴィア・ヴェレシュ(メゾ・ソプラノ)はともに声量も豊か(ただ、レリエの声になんとなくPAが入っているような感じだったが、気のせいだろうか)で歌いまわしも絶妙。舞台がないのに、目の前に情景が見えるようだった。とりわけヴェレシュの無理のない自然な声に圧倒された。

 そして、何よりもマルッキ指揮の都響が精妙で、時に爆発的で、まさに青ひげ公の城の幻想的で官能的で不気味な雰囲気を作り出し、ドラマを盛り上げた。緊張感にあふれ、まったく退屈しない。演奏会形式で、演技もつかないし、映像などもないのだが、特有の色彩がオーロラのように動いているような感じがした。

 それにしても、スザンナ・マルッキという指揮者、初めて聴いたが、素晴らしい指揮者だと思った。リズムがぴたりと決まって、揺るぎがない。そうした中で、構築的に音を作り、てきぱきと推進していく。しかも、細かいところまで神経が行き届いているので繊細で豊かな音が出てくる。都響の美しい弦楽器と管楽器を引き出している。

 もっと大熱狂の喝さいが起こるかと思ったのだが、意外とおとなしかったのは、曲の終わり方が地味なせいだろうか。私はなんだかマルッキ・ファンになりそう・・・。

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高関&シティフィル&荒井のショスタコーヴィチ 協奏曲第2番に興奮!

 2026716日、東京オペラシティコンサートホールで、東京都交響楽団の定期演奏会を聴いた。指揮は高関健、曲目は前半にヴァイオリンの荒井英治が加わって、ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第2番、後半に武満徹の「ア・ウェイ・ア・ローン」と同じ荒井のソロでショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番。荒井はモルゴーア・クァルテットの第一ヴァイオリンとしてショスタコーヴィチの弦楽四重奏の演奏に定評がある。ぜひ聴いてみたいと思って、暑い中、足を運んだ。

 前半を聴き終えた段階では、とても良い演奏だとは思うものの、もう少し荒井には羽目を外してほしいと思っていた。ちょっと優等生的な演奏だと思った。もちろん、音程の良い鋭い音で明確に鳴らし、力感もあってとてもいいのだが、爆発しない。

 だが、後半はすさまじかった。まず、武満の曲もとてもおもしろかった。原曲は弦楽四重奏曲だとのこと。だが、弦楽合奏版だと内声部が充実して、魂の高鳴りを感じる。

 そして、ショスタコーヴィチの第1番の協奏曲は、高関の指揮によるシティ・フィルの切れの良さと楽器の重なりの美しさもさることながら、やはり新井のヴァイオリンに圧倒された。

 第1楽章の途中で弦が切れるというアクシデントがあった。が、すぐさまコンサートマスターの戸澤哲夫のヴァイオリンを受け取り、何事もなかったように続きを演奏。荒井と戸澤はシティ・フィルでもたびたび共演しているだろうし、モルゴーア・クァルテットでも第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンの仲でもある。気心の知れる仲なので、スムーズに受け渡しができたのだろう。次の楽章からは、再び、自分のヴァイオリンに戻って演奏。私は50年以上前からコンサートに通っているが、このような光景を見たのは、たしか2度目だ(前回見たのがいつだったか、思い出せない!)。

 第1楽章から集中力あふれるすごい演奏だったが、スケルツォからは、曲自体がそうだともいえるのだが、まさにはっちゃけて、ものすごい演奏になった。前半の第2番を不満に覚えたのは私の不徳の致すところだとつくづく思った。荒井は楽譜に書いていないことはしないのだろう。そして、第1番では後半ははっちゃけるようにできているのだろう。ショスタコーヴィチ特有の狂乱が爆発し、宇宙に向かって躍動するようなカデンツァが展開し、一気呵成に終楽章の熱狂に進んだ。高関のサポートも見事。ショスタコーヴィチの世界を堪能した。

 素晴らしい演奏だった。感動した。興奮した。

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デュラスの映画「バクステル、ヴェラ・バクステル」「トラック」「船舶ナイト号」

 2026714日。映画「急に具合が悪くなる」をみに出かけようかと思っていたが、35℃を超す予報に恐れをなし、急に具合が悪くなってはシャレにならないと思ってとどまった。代わりに自宅の涼しい部屋でマルグリット・デュラスの監督した1970年代の映画をみた。

 デュラスは大好きな作家だった。後年、映画を監督するようになるが、それについても私は大いに関心を持って追いかけていた。簡単に感想を記す。

 

「バクステル、ヴェラ・バクステル」 マルグリット・デュラス監督 1976

 デュラスの監督した映画を何本か観ているが、いずれもわかりやすい映画ではない。この映画も例外ではない。

 最後まで観て、ようやく輪郭がわかってくる。どうやら、ヴェラ・バクステル(クローディーヌ・ガベイ)は浮気性の夫と破局。大富豪の夫は、若い男ミシェル(ジェラール・ドパルデュー!)の借金を帳消しにすることを条件にヴェラに言い寄らせて離婚を承知させようとしているらしい。ヴェラはそのことにうすうす気づいており、自殺を覚悟して別荘にやってきたようだ。

 ただ、そのような過去が語られるのは、ぽつりぽつりと語られるヴェラとほかの女性との会話の中であって、しかも、その話も行ったり来たりするので、全体像は把握しづらい。それどころか、ヴェラと話す二人の女性(デルフィーヌ・セイリグとナタリー・ネル)の正体もよくわからない。なぜ突然現れるのかもよくわからない。中心人物の一人であるヴェラの夫は登場しない。人物はほとんど表情を崩さず、特に演技をするわけでもなく、ほとんど棒立ちでしゃべる。

 要するに、登場人物が棒立ちで脈絡なく語り、そこから過去が少しずつ浮かび上がってくるというだけの映画であって、一般に言われるアクションもなく、メリハリもない。そして、全編にわたって、この避暑地にやってきた客がどこかで演奏しているという南米のカーニバル風の音楽が鳴り続けている。最後になって、ヴェラ・バクステルというのはかつて魔女として火あぶりの処せられた女性の名前だと明かされるが、それが全体とどうかかわるのかも明らかにされない。ただそれだけで、何事も起こることなく、映画は終わる。

 多様な解釈を許す映画だと思う。デュラス自身、それを意識して作っているだろう。

 私は、不確定な世界の中で孤独に生き、コミュニケーションを信じることのできない人間の魂をひしひしと感じる。カーニバル風の音楽は、あっけらかんとして明るいだけにいっそうヴェラの孤独感を浮き彫りにする。不確定の中でヴェラは喘ぎ、絶望し、何かを求めようとするが何を求めるかもつかめずにいる。そんな心象風景が人気ない寒々とした海辺の別荘地で展開される。絶望の衝動、破壊したいという衝動が、静的で淡々とした映像の中で静かにうごめいている。

 きっと一般受けはしない映画だろう。私もこれが名作だとは思わない。だが、「好きだあ!」とつくづく思う。デュラスの世界を私は心から愛する。

 

「トラック」  デュラス監督 1977

 部屋(デュラスの自宅だとのこと)の中にいる高齢の女(デュラス)と若い男(ジェラール・ドパルデュー)が語る。名前は語られないが、デュラス自身とドパルデュー自身として出演しているのだろう。

 二人は書類を見ながら、撮ろうとしている映画について打ち合わせをする。作者であるデュラスが、主演の一人であるドパルデューと話しながら未完成のシナリオを完成させようとしているということだろうか。

 映画の内容は、青いトラックにヒッチハイクで乗った女性(孫が生まれる、という設定なので、おそらく60歳前後)とトラック運転手がトラックの中で話を交わす、というものらしい。デュラスとドパルデューが話を進めるうちに、だんだんと登場人物の人物像が出来上がっていく。町や郊外、建設中の団地わき、田舎道あんどを走る青いトラックや、トラックからの光景が挿入される。しばしばベートーヴェンのディアベリ変奏曲が聞こえる(クレジット・タイトルによれば、パスカル・ロジェの演奏)。ただし、物語の中の人物は登場しない。ほとんど無人の光景や走りゆく車、遠くの建物が映し出されるだけだ。

 二人の話から映画の内容がだんだんと明らかになっていく。女は精神病院から抜け出したらしく、子どもを産み、ユダヤ人でもないのに生まれた子どもにアブラハムという名をつけた娘を尋ねようとしているようだ。ぽつりぽつりと女は語り、時に歌う。運転手は語る女に耳を傾ける。女とトラック運転手は親しくなるわけでもなく、意気投合するわけでもない。トラック運転手は共産党員で、女の夫も共産党員だったらしいが、女は共産主義に絶望している。マルクスも終わった、プロレタリア独裁も終わった、世界は終わったと語る。

 世界が終わった今、もう起承転結のある映画を作ることができないのだろう。共産主義が資本主義に飲み込まれ、プロレタリアが誰に抑圧されているのかもわからなくなり、共産主義が教条になってしまい、世界が不確定になった今、生き生きとした人物像を映画の中で描くことはできない。何を描いても嘘になってしまう。

 まさに1970年代の、ヌーヴォー・ロマンやヌーヴェル・ヴァーグさえもがすでに古臭くなった時代、プロレタリアートの意識がブルジョワジーそのものに化した時代。68年のパリの「五月危機」の時代。この映画で語られるのは、当時の知識人の精神の表明の一つと捉えられるだろう。だが、考えてみると、今もこの状況が深刻化するばかりで、まったく改善されていない。真面目に考えれば考えるほど、芸術の不可能、小説の不可能、映画の不可能の時代になってしまっている。

 

「船舶ナイト号」 デュラス監督 1977

「トラック」などと同じように、劇映画の体をなしていない。

 パリや周辺、建物や庭園や室内などが映され、ときおり映画出演のために待機しているらしい俳優たち(なんと女優の一人はドミニク・サンダではないか! もう一人の女優はビュル・オジェ、男優はマチュー・カリエール)が描かれるが、その人たちが登場人物を演じるわけではない。終始、無表情に座り、順番にメイキャプをするだけだ。

 デュラスとブノワ・ジャコの朗読がそれらの映像に重なって、作られるかもしれない映画のストーリーを語る。徐々に少しずつ分かってくるのは、どうやら、電話局で働く男に電話がかかり、それをきっかけに男は女と長電話をするようになり、二人の間に恋が芽生えるというのが、この映画のストーリーのようだ。

 二人は、しばらく声だけによるやり取りだったが、一度会おうということになる。しかし、女は現れず、ただ女は車から男を見てその姿を認識する。女は若くて美しい女性であり、私生児だが、父親は財界の大物であり、裕福に暮らしていること、白血病で会って自由に出歩けないらしい。最後には、少女のころから病状を見てくれていた医師と結婚をするが、その少し後に死を迎える。

 最初にアテネの街が映るが、同映画と関係があるのかよくわからない。船舶ナイト号というタイトルだが、船らしいものは映し出されない。

 要するに、「映画の不可能」を語る映画ということなのだろう。世界が解体してしまった以上、リアルに見える人物を登場させて、リアルに見える物語を展開させることなどできない。真実の人間は映画の中の登場人物のように、生き生きとリアルに生きているわけではない。いや、真実の人間という言葉も使うことはできない。何が真実なのかもわからない。だったら、このような、映画になろうとしてなれなかった映画を作りしかない。

 気持ちはわからないでもないが、実は、デュラスびいきの私であっても、この映画を楽しく観ることはできないし、傑作ということもできない。

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映画「夏至」「青いパパイアの香り」「ノルウェイの森」

 DVDなどで映画を数本みた。今回はいずれもトラン・アン・ユン監督の作品だ。感想を記す。

 

「夏至」 トラン・アン・ユン監督 2000

 先日の夏至の日の少し前、知人との会話の中で話題になって、そういえば、この映画をみていないことに気づいてDVDを購入した。とても良い映画だった。

 ハノイに住む3姉妹を中心に話が進む。母親の命日、母が死の直前に父とは別の男性の名前を呼んだことが話題になるが、この三姉妹もそれぞれ異性関係で悩みを持って生きている。

 夫にかまわれなくなった長女は外で男と密会している。次女は夫の子を妊娠している。三女は兄と同居しているが、兄に「男」を感じて妖しい状況にいる。最終的には長女の夫には外に愛人と子どもがいることが発覚、離婚を切り出される。次女の夫はサイゴンに出かけて、浮気心を出したことが知られる。三女は兄とは別の男性と関係を持つ。

 そんな三姉妹の心の機微が、緑を主調とした美しい映像によって詩的に、淡々と描かれる。ここに描かれるのは女性の普遍的な心の内だろう。いや、女性に限らない。男性も同じように生き、同じように感じている。

 家の周りは草木にあふれ、カーテンやドアも緑色、服装も緑のことが多い。この映画に描かれるのは、自然の中で、自然の一部として行われる人間の愛の行為であることがしみじみとわかる。監督は生命に対する深い愛情に基づいて自然の中の人間の愛の営みを詩情豊かに描く。

 ただ、人間の顔の識別能力に難のある私はベトナム美人たち数人の顔の区別ができずに困った。いやいや、男性も何人か区別がつかない! DVDを見直して、やっと納得したが、それでもかなり混乱した。この原因として、私がひどく能力不足だということもあるのだろうが、似た格好をするベトナムの人の特性もあるのだろうと思う。そして、むしろ俳優の個性が際立たないようにという監督の意向もあるだろう。

 いずれにせよ、心に残る良い作品だと思った。

 

「青いパパイアの香り」 トラン・アン・ユン監督 1993

 封切時に観ていたが、「夏至」がよかったので、30数年ぶりにもう一度観たくなった。トラン・アン・ユン監督がフランスで撮ったデビュー作だ。緑色が全体を覆っていた印象が残っていたが、話の内容はほとんど覚えていなかった。

 10歳で名家に女中に入ったムイが健気に尽くし、かつて娘をなくした奥様に可愛がられ、その後、新進作曲家のもとに奉公するが、その作曲家は西洋文化に染まった知識層の婚約者を捨てて、ムイと心を通わせるようになり、二人は結ばれる。それだけのストーリーだが、奉公先の緑にあふれた庭の草木、小動物、昆虫などが丁寧に描かれ、ムイが自然の中で生きていること、ベトナム社会が自然と共生していること、人間の営みが自然の中の一コマであることをしみじみと実感する。

「夏至」以上に、最初から最後まで緑色に覆われている。日本語タイトルは「青いパパイアの香り」だが、原題はL'odeur de la papaye verte。訳せば、「緑色のパパイアの香り」。緑も青も日本語では区別が難しいわけだが・・・。ともかく自然の緑色にあふれている。熟す前のパパイアがサラダにされる場面が二度出てくるが、青臭いパパイアが育っていくように、幼かったムイが成長していく様子が自然の一コマとして描かれる。

 フランス在住のベトナム人を中心にパリ近郊で撮影されたというが、幼いムイ(リュ・マン・サン)のなんと健気でかわいいことか、そして娘になってからのムイ(トラン・ヌー・イェン・ケー この後、「夏至」で三女を演じることになる女性のようだ)も美しい! 詩的で叙情にあふれる映像。本当に名作だと思う。

 

「ノルウェイの森」  トラン・アン・ユン監督 2010

 ついでに「ノルウェイの森」もみたくなった。

 前回観た時は、なぜ、ベトナム人のユン監督が村上春樹を映画化するんだろう!と不思議に思いながら、あくまでも村上春樹の「ノルウェイの森」の映画化だという意識でみた気がする。

 私は村上春樹よりも2歳年下で、同じ早稲田大学第一文学部演劇科の学生だった。きっとあちこちですれ違っていたと思う。彼の大学生活について書いたエッセイを読むと、なじみの場所や教授の名前がいくつも出てくる。とりわけ、「ノルウェイの森」を最初に読んだ時、「これは俺のことだ。もしかしたら村上春樹は俺の生活をのぞいていて、俺のことを書いたのではないか!」という荒唐無稽な錯覚にとらわれたほどだ。異性関係については私はワタナベほど恵まれていなかったが、それを除けば、同じような感覚を抱き、同じようなところに住み、同じような女性と付き合い、同じような言葉づかいをし、同じような行動をとっていた。のちに知り合った同世代の早稲田出身者もまったく同じように感じたと語っていたので、ほかにもたくさん同じ思いをした人がいたのだろう。

 映画をみても、ベトナム人の監督がよくもまあこれほど当時の早稲田の学生の生活や光景、そして精神世界を再現できたものだと思った。早稲田大学内の学生運動の状況は、まさにあの通り! ただ、私の通った1970年には早稲田大学内は革マルのヘルメットがほとんどで、校舎はもっと荒廃していた。それに、村上春樹は文学部の学生なので、授業を受けていたのは映画で映し出されるのとは別の校舎のはずだが、そんなことはどうでもいいだろう。

 高校時代にもう一人の自分とでもいうべきキズキ(高良健吾)を自死によって失ったワタナベ(松山ケンイチ)と直子(菊地凛子)は喪失感を共有しつつも、キズキとの関係から愛し合うこともできず、そこから逃れて生きることもできない。ワタナベは同じ大学の緑( 水原希子)と、直子は同じ精神病の施設で生きるレイコ(霧島れいか)と心を通わせて空虚を埋めようとする。

 考えてみれば、直子の住む山間部の療養施設は、村上のこの後の小説に頻出するパラレルワールドの原型なのだろう。ワタナベは二つの世界、二人の女性を行き交い、生のありようを見つめる。

 私は、それほど熱心な村上春樹の読者ではないとはいえ小説のほとんどは読んでいる。だが、いまだにパラレルワールドの意味などについて理解できずにいる。よって、ここではこれ以上、村上の小説には踏み込まない。そもそも踏み込むだけの知識もない。

 ユン監督は、この療養施設のある山間部をまさに、ユン監督が好んで描いてきた緑の世界として捉えている。自然の神秘にあふれ、生命の原型のような場。そこでワタナベと直子は苦しい愛の営みを行う。その場面のあまりの美しさ、あまりの壮絶さに驚く。ただし、この緑の世界は、ほかのユン監督の映画と違って小動物は現れない。むしろ周到に避けられているというべきか、小動物の姿もほとんど映らない。つまりは、緑の世界ではあるが、生命にあふれる世界ではない。心臓の鼓動の欠けた大自然! そして、徐々にその緑の世界は失われ、雪になり、直子は自死する。

 そうなんだ、そういえば、ワタナベが都会で出会ったもう一人の女性の名前は「緑」。しかも、緑の登場場面でも、確かに草木が周囲に映る。直子が療養所で暮らすのは緑のおいしげる世界。ワタナベは緑=生命を追い求めているということだろうか。そう考えると、否定的に描かれる女漁りをする永沢 (玉山鉄二)の登場場面では緑の草木があまり見えない。

 原作を読んだ段階ではこのことにまったく気づかなかったが、村上の小説の中にこの要素はあっただろうか。それとも、ユン監督の洞察? もしくは、もしかしたら、私の単なる妄想? 

 今回は、村上春樹の作品の映画化というだけでなく、ユン監督の作品としてもみることができた。この映画も名作だと思った。そして、村上春樹をきちんと読み返したくなった。

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女流義太夫のこと クルドのこと

 202677日、蕨市立文化ホールくるるで女流義太夫を聴いた。初めに、鶴澤津賀佳によるレクチャーがあり、「生写朝顔話(しょううつしあさがおばなし)」の「明石船別れの段」(浄瑠璃:竹本京之助、三味線:鶴澤弥々、琴:鶴澤朔弥)、(こいにょうぼうそめわけたづな)」の「道中双六の段」(浄瑠璃:竹本綾一、竹本越里、三味線:鶴澤津賀寿、鶴澤津賀榮、鶴澤三響)。

 私は義太夫初心者につき、専門的なことはまったくわからない。初めのレクチャーで三味線の役割について説明を受け、なるほどと納得。ふだんは義太夫の語りのほうに耳が行く私も、三味線を意識することができた。

 「生写朝顔話」は、文楽でも鑑賞したことがあり、DVDでもみたことがあるのでストーリーはしっかりと頭に入った。要するに、宇治川で恋に陥った後、別れ別れになっていた男女が明石の浦で再会しながらも、またも離れ離れになる。三味線が船の動き、河の動き、登場人物の心の動きを音によって描いているらしいことに気づいた。鶴澤弥々の三味線は時に鋭く、時に叙情的。西洋音楽に比べるとあまりに少ない音なのだが、これによってこれだけの情景や感情を作り出しているのだと再認識できた。

「恋女房染分手綱」は、輿入れのために東国に行くのを嫌がっている幼い姫君が双六で気を紛らせて江戸に向かう話。語りも三味線も複数人で、物語の登場人物も大勢いる。周囲の人々の混乱がこの話の面白いところだと思うが、残念ながら竹本綾一の語りでは、人物の語りわけがはっきりしなくて、あまり状況が頭に浮かばなかった。その分、こちらも鶴澤津賀寿、鶴澤津賀榮、鶴澤三響がみごとで、馬方が急ぎ足になり、宿場が次々と過ぎていく部分の描写などとてもおもしろかった。前半のアダージョからアンダンテになり、最後にはアレグロ・ヴィヴァーチェになっていくとでもいうか。鶴澤津賀寿は人間国宝だとのこと。三人とも、三味線がくっきりとした音を出しているのを感じた。

 ただ、まだまだ修行不足。語りも聞き取れないし、三味線を味わう段階には達していない。もっと聴いていくうちに、理解が深まっていくだろう。

 終了後、せっかくクルド問題で名高い蕨市に来たので、トルコ・クルド料理の店で早い夕食をとった。なかなかおいしかった。私はクルド人のよき理解者というわけではないが、バフマン・ゴバディ監督のあまりに詩的な映画をみた人間としては、クルド人の文化に敬意を抱かずにはいられない。そして、川口、蕨が平和な共存を実現できることを願っている。

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ネマニャ&海老原&読響  ヴァイオリンの音そのものに感動

 202675日、かつしかシンフォニーヒルズ モーツァルトホールで、読響プレミアクラシックスを聴いた。

 指揮は海老原光、曲目は前半に、ビゼーの「アルルの女」第2組曲、その後、ヴァイオリンのネマニャ・ラドゥロヴィチがソリストとして、ドヴォルザークの「我が母の教え給いし歌」、ラヴェルの「ツィガーヌ」、マスネの「タイスの瞑想曲」、モンティの「チャルダーシュ」、後半にベートーヴェンの交響曲第5番「運命」。コンサートマスターは白井圭。

 私は、ネマニャ・ラドゥロヴィチのファン・クラブ「プレピスカ」の発起人にして、初代会長であって、現在もネマニャを追いかけている。そんなわけで、今回が今年3回目のネマニャのコンサートだった。

 ネマニャに関しては、あいかわらずの素晴らしい音色! 研ぎ澄まされた、音程のよい美音によって、躍動感のある超絶技巧が爆発する。しかも、テンポを動かしながらも、ほかの演奏家や観客と心を通わせあって演奏するので、音楽の高揚にまったく不自然さがない。最高の密度でぐいぐいと観客の心に訴えかける。

 ラヴェルの「ツィガーヌ」はお得意の曲だが、オーケストラ版もやはりすごい。超絶技巧を上手に目立たせながら、それだけでなく、ラヴェルの韜晦、諧謔、アイロニーが顔を出す。「チャルダーシュ」も、相変わらずの切れの良い超絶技巧の華やかさと躍動! その後、アンコールとしてヴァイオリンとオーケストラの躍動的な曲。とても楽しかったが、曲名は知らない! 全体的にはとても満足だった。

 海老原の指揮については、最初はもたつき気味だったが、後半になるにつれてよくなっていった。だが、全面的に感動というわけにはいかなかった。

 身振りの大きい指揮なので、どのような音楽を作りたいのか、観客からもとてもよくわかる。そして、その作りたい音楽は私にもとても納得できる。だが、私は音楽の流れが自然ではないというのか、作為的な感じがしてしまう。

 私は、常々、生きた音楽が、まさに生きもののように展開していってほしいと思っているのだが、海老原の音楽は、無理やり造形しているように聞こえる。まるで、音楽の論理によって出来上がった音楽ではなく、音楽好きが自分の好きなように音楽をいじろうとしているような感じがする。しかも、スケールの大きな音楽を作ろうとして、繊細な部分がおろそかになって、緻密でなくなる部分がある。私はまったくに素人なので、スコアを見てどこをどうとは言えないのだが、感覚的にそう思ってしまう。

 だが、ともあれ、私はネマニャの音にただただ感動する。不満があるとすると、ネマニャの同じ曲ばかりを何度も聴いていることくらいだろう。小曲ばかりでなく、大曲も聴きたい。ベートーヴェンやブラームスのソナタをすべて演奏してほしい。無伴奏曲も日本で演奏していない曲はたくさんある。それらを聴きたい。次回以降に期待したい。

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新国立「エレクトラ」 思い入れのあるこのオペラに心から感動した!

 202672日、新国立劇場で「エレクトラ」を観た。素晴らしい上演だった。

「エレクトラ」は高校時代(つまり1967年ころ)から大好きな作品だ。当時は日本盤のレコードはなく、セリフもわからないままただ輸入盤の音だけで魂が震えるような感動を覚えていた。初めて実演に接したのは、1977年、ローマを訪れた際、たまたまローマ国立歌劇場でマタチッチ指揮で上演されているのを知って、なんとラッキーなんだ!と思って観に行った。ところが、オーケストラにやる気がなく(私の安い席からヴァイオリンの若い女性奏者がガムを噛みながら演奏していたり、出番のない奏者がおしゃべりしていたりするのが見えた!)、歌手たち(名前は記憶していない)もあまり良くなかった。その次にみたのは、1980年のウィーン国立歌劇場の来日公演。ビルギット・ニルソンがエレクトラを歌い、そのほか、リザネク、グレース・ホフマン、ジェームス・キングという、伝説の歌手たち総出演のとんでもない配役だった! これは心底感激した!

 書き出すときりがないので、このくらいにするが、私の音楽人生の中で「エレクトラ」はこのようにかなり大きなウェイトを占める!!

 で、今回の公演についてだが、素晴らしいと思った。

 大野和士の指揮する東フィルにまず大いに感心した。調性音楽のたどり着いた極致とでもいうべき音楽を見事に再現してくれた! 激しい情念が渦巻き、豊穣でありながらも緊迫感にあふれている。シュトラウスの音の世界を堪能した。ぞくぞくし、何度となく感動に身が震えた。

 ヨハネス・エラートによる演出は、クリテムネストラとエレクトラの類似性(背景の二つの球体によってそれが暗示される)とアガメムノンとオレストの類似性(背後の人型がそれを暗示している)を強調する。エレクトラは母親クリテムネストラと似ているがゆえに憎しみを強め、父アガメムノンと弟オレストをあがめる。

 ホフマンスタールの作品は「変化する者と、それを拒否する者」というテーマが繰り返される。マルシャリンやアリアドネは変化を拒み、オクタヴィアンやツェルビネッタは変化を求める。「エレクトラ」でも、そのテーマが明確に示される。エラートの演出はホフマンスタールのテーマを明確に踏襲している。

 エレクトラは宮殿内に閉じ込められ、変化することを拒否して、過去への復讐心を抱き、未来の展望がない(ピエロの格好をした三人がエレクトラの心証を象徴している)。妹クリソテミスは母の世界と姉エレクトラの世界の間で揺れ動いている(クリソテミスがしばしば乗るブランコは揺れを象徴しているのだろう)。オレストは変化を求め、まさに実際に暗殺を行うことで変化を成し遂げる。オレストによる復讐はなされたものの、エレクトラは実際に手を下したわけではない。つまり、変化したわけではない。ただ踊るばかり、すなわち先に進んで変化しようとするわけでもなく、一箇所で運動を繰り返す。

 しかも、エラートの演出では、最後にクリテムネストラが現れて、ホフマンスタールではぼかされていた「母殺し」というテーマが明確に示される。結局、エレクトラは自分とよく似た母親殺しに加担しただけで、何も変化させることはできなかった! ということをエラート演出は残酷にも示してしまう。

 歌手陣はすさまじい。エレクトラのアイレ・アッソーニは見事にこの難役を歌いこなす。声が強靭であるだけでなく、表現力も素晴らしい。そして、それ以上の存在感を示すのが、クリテムネストラの藤村実穂子だ。依然として声は衰えない。しかも、妖女の雰囲気が実にいい。クリソテミスのヘドヴィグ・ハウゲルドはエレクトラを圧するほどの驚くべき声量を聴かせてくれる。ふだんはこの役はもう少し清純な声の歌手が歌うことが多いが、これはこれで立派に演出と合致する。オレストのエギルス・シリンスも見事な声で文句なし。

 エギストの工藤和真はこの役にしては高貴な声だが、王さまなのだから、これでよいのだと思う。脇役を歌うのは、糸賀修平、河野鉄平、森谷真理、金子美香、谷口睦美、清水華澄、髙橋絵理、田崎尚美、斉木健詞、中村真紀、杉山由紀という日本を代表する名歌手たち! すべての役が最高度に歌われる。

 60年前から大好きなオペラが日本の新国立劇場でこれほどのレベルで上演されるのを観ることができて、本当に感動した。

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オペラ映像「椿姫」「ドン・ジョヴァンニ」「コシ・ファン・トゥッテ」

 数本のオペラ映像をみたので、簡単に感想を記す。

ヴェルディ 「椿姫」 199212月 ヴェネツィア、フェニーチェ大劇場

 グルベローヴァの「椿姫」の映像をみたことがあるつもりだったが、これは知らなかった。「ユダヤの女」を改めてみて、シコフの凄さを痛感し、ネットで探しているうちにこの映像を見つけた。

 ヴィオレッタを歌うグルベローヴァの凄さは言うまでもない。なんという美しい声! 高音の美声だけで心が震える!第一幕もさることながら、最終幕も素晴らしい。涙なしにはいられない。稀有な存在だったと改めて思う。

 アルフレードのニール・シコフもグルベローヴァにまったく引けを取らない。声の伸びも素晴らしいし、やはり演技力には圧倒される。知的な人間でありながら、一本気で愛のための抑えのきかなくなった青年を見事に歌う。ジョルジョ・ジェルモンのジョルジョ・ザンカナーロもさすがの歌唱。

 指揮はカルロ・リッツイ。演出はピエル・ルイジ・ピッツィ。現代の感覚からすると、ちょっとあか抜けない指揮と演出に思えるが、ともあれ、二人の主役の歌唱が圧倒的なので、ほかはどうでもよくなる。

 

モーツァルト 「ドン・ジョヴァンニ」 202112月 ウィーン国立歌劇場

 フィリップ・ジョルダンの指揮なのに、どういうわけか序曲からまったくもって精彩を欠く。まるで、気の抜けたビールのような味わい。もっとシリアスでドラマティックな演奏を期待していたのだが、あまりに淡白。どうしたことだ!・・・何の情報もなく観始めて、そう思っていた。上演日付を見たら、2021年の演奏。もしかしたら、と思っていたが、最後のカーテンコールになって納得。コロナ禍のための客のいない上演だった! 確かにこれでは気合の入ろうはずがない。

 バリー・コスキの演出は、コミックな要素を退け、シリアスに徹しているように見える。ずっと岩山のような、ごつごつした黒い岩肌の見える舞台で展開される。ドン・ジョヴァンニの心象世界を描いているのだろうか。ただ、このような背景にすると、特にレポレッロによるコミカルな部分が失われてしまう。それにしても歌手陣は大きく動き回る。そのせいだろう、細身の若い歌手たち!

 歌手陣はレベルが高い。ただ、どの歌手も、観客がいないせいだろう、高揚していかない。みんなが冷めている。それがよくわかる。ただ、さすがというべきか、第二幕後半になって音楽が盛り上がってきた。ドン・ジョヴァンニの地獄落ちのあたりは震撼するほどだった。

 ドンナ・アンナのハンナ=エリザベート・ミュラー、ドンナ・エルヴィラのケイト・リンジー、ツェルリーナのパトリツィア・ノルツアとても魅力的。マゼットのペーター・ケルナーも美声でしっかり歌う。騎士長のアイン・アンガーもさすが。ドン・ジョヴァンニのカイル・ケテルセンももちろん悪くないのだが、ドン・ジョヴァンニの悪の魅力を放つまでには至らない。レポレッロのフィリップ・スライはかなり弱い。それなりにコミックな動きをするが、ことごとくスベッているように思える。この殺伐とした舞台でコミカルさを出すのは、ベテランの大歌手でも難しい。客がいないので、なおのことだ。経験の少ない若い歌手にこのような役をやらせるのは酷だと思った。

 それにしても、女性三人があまりに容姿面できれいなのに驚く。よく見ると男性たちもほとんどがかなりのイケメンではないか。歌唱面でも見事なので文句を言う筋合いはない、いや、それどころか実にありがたいことなのだが、オペラ歌手がこんなに美男美女ぞろいでいいんだろうか、という不思議な疑問に駆られてしまう。

 ところで、この頃のソフトによくあることなのだが、字幕と歌がずれていたり、日本語の字幕の字体が日本では絶対に使わない形であったり、男言葉と女言葉が逆になっていたりといったことが起こっている。国際版のディスクには日本人スタッフが字幕作成にかかわっていないのだろうか。何とかならないものか。

 

モーツァルト 「コジ・ファン・トゥッテ」 20246月 ウィーン国立歌劇場

 こちらは「ドン・ジョヴァンニ」とは違って、最初から張りのある気合の入った音! 躍動感があり、自然に音楽が流れる。オーケストラについては素晴らしい。

 こちらも、演出はバリー・コスキ。最初は全員が現代の服装で登場。ドン・アルファンソが演出家、デスピーナが助手で、4人の歌手たちとともにオペラ(たぶん、「コシ・ファン・トゥッテ」!)を上演しようとしているという設定。確かにこのオペラは現代から見ると、変装が不自然だったり、コンプライアンス違反だったりするので、二重舞台にすることでそれを緩和できる。

 しかも、このオペラはアルファンソとデスピーナ、フィオルディリージとドラベッラ、グリエルモとフェランド、フィオルディリージとグリエルモ、ドラベッラとフェランドなどがそれぞれ対称をなし、それが錯綜する劇なのだが、コスキの演出では、第二幕で二人の男性が女装してフェランドがフィオルディリージとそっくり、グリエルモがドラベッラとそっくりの服を着る。二人の女性はかなり大柄なので、遠目では見分けがつかなくなるほどだ。つまりは、もう一つ左右対称が明示されるわけだ。

 最後、裏切りが発覚したあと、四人は怒り出して、ドン・アルファンソの演出する劇団から飛び出していく。その後、ドン・アルファンソはリンゴを食べる。つまりは、愚かだった四人は、知恵のあるドン・アルファンソによって人間の真実を知ってしまって、怒って出て行った…ということだろう。私としては、それほど大きな感銘は受けないが、なかなかおもしろいとは思う。

 特に傑出した人はいないが、歌手陣は充実している。フィオルディリージのフェデリカ・ロンバルディ、ドラベッラのエミリー・ダンジェロ、グリエルモのペーター・ケルナー、フェランドのフィリペ・マニュ、ドン・アルフォンソのクリストファー・モルトマン、デスピーナのケイト・リンジーはそれぞれみごとに歌っている。

 全体的にとても良い上演だと思った。ただ、これも「ドン・ジョヴァンニ」と同じように字幕に不備が多い。何とかならないか!

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