2026年7月14日。映画「急に具合が悪くなる」をみに出かけようかと思っていたが、35℃を超す予報に恐れをなし、急に具合が悪くなってはシャレにならないと思ってとどまった。代わりに自宅の涼しい部屋でマルグリット・デュラスの監督した1970年代の映画をみた。
デュラスは大好きな作家だった。後年、映画を監督するようになるが、それについても私は大いに関心を持って追いかけていた。簡単に感想を記す。
「バクステル、ヴェラ・バクステル」 マルグリット・デュラス監督 1976年
デュラスの監督した映画を何本か観ているが、いずれもわかりやすい映画ではない。この映画も例外ではない。
最後まで観て、ようやく輪郭がわかってくる。どうやら、ヴェラ・バクステル(クローディーヌ・ガベイ)は浮気性の夫と破局。大富豪の夫は、若い男ミシェル(ジェラール・ドパルデュー!)の借金を帳消しにすることを条件にヴェラに言い寄らせて離婚を承知させようとしているらしい。ヴェラはそのことにうすうす気づいており、自殺を覚悟して別荘にやってきたようだ。
ただ、そのような過去が語られるのは、ぽつりぽつりと語られるヴェラとほかの女性との会話の中であって、しかも、その話も行ったり来たりするので、全体像は把握しづらい。それどころか、ヴェラと話す二人の女性(デルフィーヌ・セイリグとナタリー・ネル)の正体もよくわからない。なぜ突然現れるのかもよくわからない。中心人物の一人であるヴェラの夫は登場しない。人物はほとんど表情を崩さず、特に演技をするわけでもなく、ほとんど棒立ちでしゃべる。
要するに、登場人物が棒立ちで脈絡なく語り、そこから過去が少しずつ浮かび上がってくるというだけの映画であって、一般に言われるアクションもなく、メリハリもない。そして、全編にわたって、この避暑地にやってきた客がどこかで演奏しているという南米のカーニバル風の音楽が鳴り続けている。最後になって、ヴェラ・バクステルというのはかつて魔女として火あぶりの処せられた女性の名前だと明かされるが、それが全体とどうかかわるのかも明らかにされない。ただそれだけで、何事も起こることなく、映画は終わる。
多様な解釈を許す映画だと思う。デュラス自身、それを意識して作っているだろう。
私は、不確定な世界の中で孤独に生き、コミュニケーションを信じることのできない人間の魂をひしひしと感じる。カーニバル風の音楽は、あっけらかんとして明るいだけにいっそうヴェラの孤独感を浮き彫りにする。不確定の中でヴェラは喘ぎ、絶望し、何かを求めようとするが何を求めるかもつかめずにいる。そんな心象風景が人気ない寒々とした海辺の別荘地で展開される。絶望の衝動、破壊したいという衝動が、静的で淡々とした映像の中で静かにうごめいている。
きっと一般受けはしない映画だろう。私もこれが名作だとは思わない。だが、「好きだあ!」とつくづく思う。デュラスの世界を私は心から愛する。
「トラック」 デュラス監督 1977年
部屋(デュラスの自宅だとのこと)の中にいる高齢の女(デュラス)と若い男(ジェラール・ドパルデュー)が語る。名前は語られないが、デュラス自身とドパルデュー自身として出演しているのだろう。
二人は書類を見ながら、撮ろうとしている映画について打ち合わせをする。作者であるデュラスが、主演の一人であるドパルデューと話しながら未完成のシナリオを完成させようとしているということだろうか。
映画の内容は、青いトラックにヒッチハイクで乗った女性(孫が生まれる、という設定なので、おそらく60歳前後)とトラック運転手がトラックの中で話を交わす、というものらしい。デュラスとドパルデューが話を進めるうちに、だんだんと登場人物の人物像が出来上がっていく。町や郊外、建設中の団地わき、田舎道あんどを走る青いトラックや、トラックからの光景が挿入される。しばしばベートーヴェンのディアベリ変奏曲が聞こえる(クレジット・タイトルによれば、パスカル・ロジェの演奏)。ただし、物語の中の人物は登場しない。ほとんど無人の光景や走りゆく車、遠くの建物が映し出されるだけだ。
二人の話から映画の内容がだんだんと明らかになっていく。女は精神病院から抜け出したらしく、子どもを産み、ユダヤ人でもないのに生まれた子どもにアブラハムという名をつけた娘を尋ねようとしているようだ。ぽつりぽつりと女は語り、時に歌う。運転手は語る女に耳を傾ける。女とトラック運転手は親しくなるわけでもなく、意気投合するわけでもない。トラック運転手は共産党員で、女の夫も共産党員だったらしいが、女は共産主義に絶望している。マルクスも終わった、プロレタリア独裁も終わった、世界は終わったと語る。
世界が終わった今、もう起承転結のある映画を作ることができないのだろう。共産主義が資本主義に飲み込まれ、プロレタリアが誰に抑圧されているのかもわからなくなり、共産主義が教条になってしまい、世界が不確定になった今、生き生きとした人物像を映画の中で描くことはできない。何を描いても嘘になってしまう。
まさに1970年代の、ヌーヴォー・ロマンやヌーヴェル・ヴァーグさえもがすでに古臭くなった時代、プロレタリアートの意識がブルジョワジーそのものに化した時代。68年のパリの「五月危機」の時代。この映画で語られるのは、当時の知識人の精神の表明の一つと捉えられるだろう。だが、考えてみると、今もこの状況が深刻化するばかりで、まったく改善されていない。真面目に考えれば考えるほど、芸術の不可能、小説の不可能、映画の不可能の時代になってしまっている。
「船舶ナイト号」 デュラス監督 1977年
「トラック」などと同じように、劇映画の体をなしていない。
パリや周辺、建物や庭園や室内などが映され、ときおり映画出演のために待機しているらしい俳優たち(なんと女優の一人はドミニク・サンダではないか! もう一人の女優はビュル・オジェ、男優はマチュー・カリエール)が描かれるが、その人たちが登場人物を演じるわけではない。終始、無表情に座り、順番にメイキャプをするだけだ。
デュラスとブノワ・ジャコの朗読がそれらの映像に重なって、作られるかもしれない映画のストーリーを語る。徐々に少しずつ分かってくるのは、どうやら、電話局で働く男に電話がかかり、それをきっかけに男は女と長電話をするようになり、二人の間に恋が芽生えるというのが、この映画のストーリーのようだ。
二人は、しばらく声だけによるやり取りだったが、一度会おうということになる。しかし、女は現れず、ただ女は車から男を見てその姿を認識する。女は若くて美しい女性であり、私生児だが、父親は財界の大物であり、裕福に暮らしていること、白血病で会って自由に出歩けないらしい。最後には、少女のころから病状を見てくれていた医師と結婚をするが、その少し後に死を迎える。
最初にアテネの街が映るが、同映画と関係があるのかよくわからない。船舶ナイト号というタイトルだが、船らしいものは映し出されない。
要するに、「映画の不可能」を語る映画ということなのだろう。世界が解体してしまった以上、リアルに見える人物を登場させて、リアルに見える物語を展開させることなどできない。真実の人間は映画の中の登場人物のように、生き生きとリアルに生きているわけではない。いや、真実の人間という言葉も使うことはできない。何が真実なのかもわからない。だったら、このような、映画になろうとしてなれなかった映画を作りしかない。
気持ちはわからないでもないが、実は、デュラスびいきの私であっても、この映画を楽しく観ることはできないし、傑作ということもできない。
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