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村冶佳織さんのFM番組を収録

2009_03300002  昨日は、日本を代表するギタリストの村冶佳織さんがナビゲーターを務めるJ-WAVEの三菱地所CLASSY CAFEにゲストとして出演して収録。ラ・フォル・ジュルネについて、そしてバッハについて話をした。

 3年前に続いて二度目の出演だ。初回はお互い硬かったが、今回はかなり打ち解けて話ができたと思う。

 村冶さんにははっきりとは言わなかったが、私の監修するバッハのCDを選曲していたとき、それまでなじみの薄かった曲を中心に大量のバッハのCDを新たに購入して聴いた。そのなかに村冶さんの弾くギターに編曲したCDがあった。

 不思議な感覚だった。特に驚いたのはシャコンヌだった。私の最も好きなヴァイオリン曲だ。だが、ギターで聞くとまったく違う曲に聞こえる。シャコンヌの中で私の好きだった部分が、まったくない。まずは「つまらない」と思った。が、すぐに切らずにもう少し聴いているうちに、「これはこれでいい曲ではないか!」と思った。ヴァイオリンで演奏される時のような研ぎ澄まされた緊張感はない。宇宙的巨大さもない。が、親しみやすく家庭的なバッハが現れる。これがバッハだと思った。つまり、ほかの楽器に編曲しても、また別の魅力が表れ、それがまた素晴らしい。

 楽しく話ができた。4月25日の放送らしい。多くの人に聞いていただきたいものだ。

 また、村冶さんもラ・フォル・ジュルネでギターを演奏する。是非聴きたい。これも多くの人にお聞きいただきたい。

 ついでにいうと、村冶さんは本当にきれい! 音楽の天才のわりにきれいという人はたくさんいるが、そのレベルではない。音楽の天才でありながら、絶世の美女だと思った。私はこれほど美しい音楽家は諏訪内さん(この人ともちょっとだけ話をしたことがある)くらいしか知らない。

 その後、移動して、エンジン・ゼロワンの委員会に出席。日本を代表する作曲家の三枝成彰さんと日本を代表する作家である林真理子さんが中心になって作った日本の文化に積極的に発言していこうという集まり。昨年からメンバーになっている。

 といっても、単なる飲み会と大差なし。が、知的刺激は受ける。様々な情報を知ることもできる。

 昨晩は、林さんが欠席していたが、三枝さんのほか、和田秀樹(評論家であり、映画監督であり、受験のカリスマ)、秋尾沙戸子(作家。キャスター)、奥谷禮子(経済界、政界のドン)、勝間和代(今をときめく経済評論家)、小山泰夫(幼児教育のプロ)、多田宏行、(評論家)、藤原和博(もと和田中学校長)、山本益博(料理評論家)、米澤明憲(東大教授にして世界的コンピュータ科学者)というそうそうたるメンバー。

 この中の数人ほど弁が立つわけでもなく、しゃべり好きでもなく、声も大きくなく、テレビで有名でもない私は、ずっと聞き役に回っていた。

 帰りにまたタワーレコードに寄って、CDとDVDを買った。

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『タンホイザー』DVDは、宮崎駿の影響?

695  発売されたばかりの『タンホイザー』のDVDを見た。フィリップ・ジョルダン指揮、ニコラウス レーンホフ演出、ベルリン・ドイツ交響楽団の2008年、バーデン=バーデン祝祭劇場ライヴだ。

 素晴らしい!  歌手も指揮も演出も見事!

 タンホイザーのロバート・ギャンビルは、ちょっと荒いが、声の威力も演技力も十分。領主のスティーヴン・ミリンも声に貫禄があっていい。

 が、何と言っても、エリーザベトを歌ったカミッラ・ニールンドとヴェヌスのヴァルトラウト・マイヤー、そしてヴォルフラムのローマン・トレケルの三人が素晴らしい。

 ニールンドは清楚で芯が強い女性をしっかりと演じている。歌に関しては、第二幕の有名なアリアよりも第三幕のほうが清楚な声がしみじみとした情感があってよかった。

 ついでにいうと、私はニールンドがメジャーになる前からのファンだ。7、8年くらい前になると思うが、武蔵野市民会館でのリサイタルでシュトラウスとシベリウスの歌曲に圧倒された。

 昨年、ドレスデンのゼンパーオパーと来日して歌った『タンホイザー』と『サロメ』も素晴らしかった。そのときのパーティで顔を合わせて少し話をした。武蔵野で聴いて以来のファンだと告げると、通訳の方が訳す前に私の「ムサシノ」という発音に反応して、うれしいそうな顔をしてくれた。近くで見ても、とても美しい人だった(こんなことをいうと、私の人格を疑われるかもしれないが、信じられないほどの巨乳だった)!

 マイヤーも圧倒的。もちろん何度もナマを聞いてきたが、まだ衰えていない。ヴェヌスの不気味さ、妖艶さを余すところなく表現していて、第三幕には空恐ろしさに震えが来たほどだ。

 トレケルも相変わらず折り目正しい歌いぶり。細かいニュアンスをしっかり表現して、「夕星の歌」はとりわけ感動的だった。

 そして、指揮のジョルダンも凄い。DVDで見た『サロメ』も素晴らしかったが、ワーグナーもいい。不気味なエロティシズムを作り出していた。色彩的で精妙。しかも、生きがいい。目くるめく感じがする。ただ、第一幕の終わりの部分など、オケにずれが生じたのを感じたが、気のせいだったか。まあ、ライヴでそんなことを気にするのはよそう。ただ、ワーグナーにはもう少しどっしりとした音楽の流れがほしい気がするが、そうなると今の音楽性がくずれてくるのかもしれない。

 レーンホフの演出もいい。螺旋階段がすべての幕に登場している。ニンフたちが、まるで、宮崎駿の『もののけ姫』に出てきた「もののけ」たちみたい。きっと、レーンホフは『もののけ姫』に影響を受けたのだと思う。不気味でうずうずした雰囲気を作り出している。演出意図については、メイキング映像がついているので、関心のある人は見るといいだろう。私は時間がないので、飛ばし見しただけ。

 ただ、生硬な文語の混じる日本語字幕は、かなり違和感を覚えた。日本語字幕があるだけありがたいが、もう少しこなれた訳にしてほしいものだ。

『タンホイザー』のDVDとしては、コリン・デーヴィス指揮、シノーポリ指揮、ウェルザー=メストなどがかなりのレベルだが、それに勝るとも劣らない。

 やはりワーグナーは別格だ・・・と、ワーグナーに触れるごとに思う。

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『カルメル会修道女の対話』と『シェルブールの雨傘』の共通点

 先日(312日)、新国立劇場オペラ研修所公演の『カルメル会修道女の対話』を見て、大いに感動したことは、前に書いた。

 これまで何度かこのオペラに接しながら、なぜ、これほど素晴らしいオペラだということに気づかなかったのか。とりわけ、ムーティ指揮、スカラ座による超一流の演奏のDVDを見て、なぜ私は違和感を覚えていたのか。

 気になったので、『カルメル会修道女の対話』のDVDを見直した。ロバート・カーセン演出、ダグマー・シュレンベルガーがブランシュを歌い、アニア・シーリアが修道院長を歌う。

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 一言でいって、指揮のムーティに責任があると思った。つい数日前に『ドン・パスクァーレ』のDVDを見て、そのあまりのうまさに舌を巻いたばかりだったが、『カルメル会修道女の対話』はいただけない。

 ムーティはこのオペラをドラマティックにしようと腐心している。もちろん、抑制された部分もあり、それをうまく演奏しているのだが、ムーティはそのような場面を、あくまでも後の爆発への布石だと考えているようだ。チャンスがあるごとに、ドラマティックに音を鳴らし、ドラマを盛り上げようとする。

 だが、それではこのオペラの凄みは伝わらない。このオペラは、最後の断頭台の場面まで、じわじわとドラマが高まっていくオペラなのだ。そして、断頭台の場面も、象徴的に扱われるだけで、生のドラマが展開されるわけではない。

51t2mbc13jl  1960年代のフランス製ミュージカル映画『シェルブールの雨傘』(ジャック・ドゥミー監督。ミシェル・ルグラン作曲、カトリーヌ・ドヌーヴ主演)のことを思い出した。高校生のころ見て感動した映画だ。

 このミュージカル映画の特徴、それは、最初から最後まで、すべての台詞がオペラのように歌から成っているということだった。郵便配達のおじさんが「こんにちは」というのも、傘屋の客が「雨傘をください。・・・いくらですか」というのも、すべて歌われる。しかも、その歌は、感情を大袈裟に歌い上げ、声を張り上げるものではない。淡々としっとりと、ふつうの会話に少しメロディをつけたような歌だ。

 なぜ、すべてを歌にしたのか。それは、観客が過度に登場人物に感情移入させないためだと私は思う。

 ハリウッドのミュージカル映画なら、感情を歌い上げる。失恋の悲しみ、孤独の叫びを大袈裟に歌う。観客はそれに感情移入する。だが、このミュージカルは、むしろドラマを盛り上げるのを避けようとする。ドラマティックになると、ウソになってしまう。心の真実を映し出し、残酷な現実を描き出すために、あえて抑制する。淡々とした歌が続く。だから、最後の場面でじわじわと人生の悲哀が観客の心に広がっていく。

『カルメル派修道女の対話』も同じような傾向といえるだろう。そして、ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』もデュカスの『アリアーヌと青ひげ』も同じタイプだ。これらのオペラを盛り上げてはいけない。ドラマティックに演奏してはいけない。感情を歌い上げる歌ではなく、あくまでも台詞、あくまでも対話でなければならない。そうしてこそ、奥底にある目に見えないドラマがふつふつと沸きあがってくる。

 このような演奏を先日の新国立劇場オペラ研修所の公演は実現していた。そして、ムーティ指揮のDVDは実現していなかった。

 CDもおりを見て聴いているが、ここに書く余裕がない。前回だったか、買いためたオペラDVDが30セットほどあると書いたが、間違いだった。数え忘れが20セットあった。しかも、昨日8セット新たに買った。クラシカ・ジャパンやNHKで録画したものも数十曲ある。オペラ以外のコンサートも同じほどある。何だか、音楽に追われているような気が、時々してくる・・・

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3つの疑問についての私の仮説

 先日(3月18日)、私が疑問に思っている3つの謎を書いた。それについて、その後、私なりに考えてみた。3つのうちの2つについては、漠然とながらそれなりの仮説が得られた。ただし、残念ながら、この仮説を確かめてみる手段がない。どなたかお教えいただけると、ありがたい。

疑問① なぜ、英語のoneをワンと発音するのか。そんな発音は英語の発音体系ではありえないではないか。

仮説 フランス語では、1・2・3はunアン、deuxドゥ、troisトロワだ。発音と綴りの両方がイギリスに入るときに変化したのではないか。アンとワン、oneun(女性形はune)は発音も綴りも似ている。もとはフランス語だったものがイギリスに入って英語化したものは多い。これもそのひとつではないのか。

(ただし、この仮説には、たまたま私がかつてフランス文学を専攻していて、多少フランス語がわかるから思いついただけという側面があるのは否定できない)

疑問②なぜ、伊達を「だて」、服部を「はっとり」と読むのか。

? 莫大小をメリヤスと読むのと同じような当て字ではないかと思うが、今のところ、仮説さえも思いつかない。

疑問③なぜ、イエス・キリストは「神の子」であるはずなのに、「人の子」と呼ばれるのか。

仮説  イエスは「神の子」と自称することができなかった。自称すると、傲慢・不敬とみなされ、旧来の宗教に罰せられた。そこで、「神の子」という代わりに「人の子」と自称した。つまり、イエスのいう「人の子」とは「神の子」という意味であり、罰を免れるための暗号のようなものだった。それが広まって、イエスのことを他者が呼ぶときも「人の子」というようになった。

(私はキリスト者ではなく、聖書もとばし読みした程度の知識しかないが、この説は正しそうな気がする)

 25日から仕事で京都に来ている。京都は寒い! 昨日の明け方の気温は零度に近かったようだ。

 今日の午後、新幹線で移動して、夕方、東京で多摩大学の懇親会に出席予定。

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角川文庫『大人のための文章道場』発売!

412bdnseml3l 拙著『大人のための文章道場』(角川文庫)が発売になる。

 が、実は、これは草思社から出していた『人の心を動かす文章術』の文庫版。新作ではない。

 まだ草思社の 本も動いているのに、別のタイトルでほかの出版社から文庫を出すことについて、ちょっと言い訳をさせていただく。

 実は草思社の本は、発売当初、かなりの反響があった。ある若者がこの本をそっくりそのまま真似てブログの書き方の本として出版し、私が「著作権侵害」で訴えるという事件もあった(すでに和解成立)。

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 ところが、近年、草思社側の事情が重なって、あまり売れなくなっていた。そのころ、角川書店から文庫化の話があり、喜んで話に乗った。相談の上、タイトルを変えて文庫にすることになった。もちろん、草思社も快く同意してくれた。

 ところが、その後、神田昌典さんと勝間和代さんの共著『10年後、あなたの本棚に残るビジネス書』で私のこの本が推薦され、とりわけ神田さんが、「究極の10冊」に選んでくれたおかげで、突然、再び売れ出した。

(神田さん、本当にありがとうございます!)

 草思社はもとのまま刊行を続けたいということになり、角川書店も予定通り文庫化を進めるということになって、両方が別のタイトルのまま書店に並ぶことになった。

 当初、私は「著者としての仁義」に反するのではないかと、一本化することを願ったが、折り合いがつかなかった。が、法的にも問題はないというし、このような例はほかにもよくあるとのことで、しかも両方から印税をもらえるわけだから著者としてもありがたいと思いなおして、このような状態になった。

 ただ、読者の方が、あやまって二度買いすることだけが心配だ。お買い求めいただく場合には、どうかお気をつけください。

 手軽に出先で読むには文庫本を! 家でじっくり読んで、中に含まれる文章力養成の練習問題をしっかりしようと思われる方は草思社の単行本を! と、私はお勧めしたい。

 ところで、WBCでの日本の優勝は愉快だった。私はイチローのファンなので、テレビを見ながら狂喜した。

 同じ時間帯にNHKで、21世紀枠で出場した私の母校、大分上野丘高校と箕島高校の甲子園野球が中継されていた。二つのチャンネルを交互に見ていた。が、母校は、予想通り、箕島高校に大差で敗れた。選手一人一人の体格、技術に大きな差があった。これでは勝てるはずがない。

 私が通っていた頃は私の高校は進学一本やりで、スポーツに関しては、どの競技であっても全国大会はおろか、市の大会でも大差で初戦敗退のレベルだったので、甲子園にいけただけでもたいしたものだ!

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『シモン・ボッカネグラ』の二人のバス対決!

 先週は過労状態だったので、昨日の夜から今日にかけては休養日。仕事は必要不可欠な数時間だけにして、WBCの日米戦をテレビで見た以外は、買いためたままずっと見られずにいたオペラDVDを立て続けに見た。30本ほどたまっているが、そのうちの5本ほどを夢中になって見てしまった。

 イタリア・オペラ嫌いを脱皮しようと、意識的にイタリアもののDVDを見た。疲れを癒すために見始めたのだったが、5本も見ると、さすがに疲れる! 短く感想をまとめてみる。

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・プロコフィエフ『三つのオレンジへの恋』(仏語版)。シルヴァン・カンブルラン指揮、ジルベール・デフロ演出、パリ国立オペラ2005年の上演。好きなオペラだ。わくわくするような演出。登場人物の多くに道化師の格好をさせているのも、このオペラにマッチしている。歌手陣は全体的にレベル以上。チェリオを歌っているのがホセ・ファン・ダムだったと後で気づいた。さすが! 

 肝心の王子(シャルル・ワークマン)が弱いのが残念。指揮も、もっとハチャメチャでいいのではないか。ちょっとおとなしすぎるように聞こえるのは、装置を通しているせいだろうか。

 とはいえ、全体的には、きわめて満足。やはり、このオペラは楽しい。私は、ケント・ナガノ指揮のリヨン、ステファヌ・ドゥネーヴ指揮のロッテルダム、ソキエフ指揮のエクサンプロヴァンス音楽祭のものの計3本のDVDを持っているが、いずれもおもしろい。音楽的にはケント・ナガノのものが充実しているが、決定版というほどではない。

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・モーツァルト『魔笛』  イヴァン・フィッシャーの指揮、ベンノ・ベッソン演出。パリ・オペラの2001年の上演だ。フィッシャーのきびきびした指揮は好感が持てる。演出も妥当。レッシュマンのパミーナが素晴らしい。パパゲーノのデトレフ・ロートもいい。ただ、タミーノを歌うピョートル・ベッツァーラと夜の女王を歌うデジレ・ランカトールが弱い。ベッツァーラは、『リゴレット』のマントヴァ公爵がかなりよかったので期待していたが、細かい処理がかなりザツだと思う。

 サルミネンがザラストロを歌っている。声の威力を失っているが、存在感は相変わらず。

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ドニゼッティ『ドン・パスクァーレ』。ムーティ指揮、ステーファノ・ヴィジオーリ演出の1994年スカラ座の上演。これは、見事な演奏! フルラネットのドン・パスクァーレ、ルチオ・ガッロの医者、グレゴリー・クンデのエルネスト、ヌッチア・フォチーレのノリーナなど、すべての役がぴったりで、歌唱も見事。おもしろおかしく、そして、ドン・パスクァーレに同情! とりわけ、フルラネットの歌に圧倒された。

 ムーティの指揮も素晴らしい。私は、ワーグナーやベートーヴェンを聴いてムーティがかなり嫌いで、これまで避けてきたが、このDVDを見ると、それが早計だったのを感じる。ただ、音楽とストーリーがちょっと単純すぎるので、このオペラからモーツァルトやワーグナーやシュトラウスに触れた時のような深い感動を得るのは難しい。

915 ・ドニゼッティ『連隊の娘』。ブルーノ・カンパネッラの指揮、ローラン・ペリーの演出。2007年コヴェント・ガーデンの上演。ともあれ、演技力も声もナタリー・デセイが圧倒的。 こんなに少年っぽくてコミックな演技を、これほどの歌唱とともに見せてくれる歌手はほかにいない。演出もしゃれている。全体を通して、とても楽しめた。笑えるところも多い。

 ただ、実は私は、このDVDの最大の売り物らしいホアン・ディエゴ・フローレスが好きではない。ほかの劇場での『連隊の娘』や『チェネレントラ』など、いくつかの演目を聞いたが、私には彼の声が美しいと思えない。時に音程が微妙にも思えるのだが・・・。だから、このDVDについては素晴らしいと思うが、フローレスについては保留。フローレスが好きな人には、こたえられないDVDだろう。

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・最後に、ヴェルディ『シモン・ボッカネグラ』 ダニエーレ・ガッティの指揮、ペーター・シュタイン演出のウィーン国立歌劇場2002年の上演。

 ドニゼッティを2本見た後にヴェルディを見ると、オペラ作曲家としての力量の違いを痛感してしまう。私はイタリア・オペラに関しては初心者に近いが、『シモン・ボッカネグラ』は文句なしに感動的だ。ドイツオペラ好きにも違和感がない。(ただ、第一幕最後の、パオロをみんなの前に呼び出すときのあまりの大袈裟な音楽にはドイツ音楽好きとしては大いに閉口する!)

 シモン(トーマス・ハンプソン)とフィエスコ(フェルッチェ・フルラネット)のバス二人の渡り合いが最高! ずしりと胸に響く。ガブリエーレ役のミロスラフ・ドヴォルスキーもいい。アメリア役のクリスティナ・ガイヤルド=ドマスは、私は少し硬さを感じるが、感動を妨げない。

 アバド指揮のフィレンツェ歌劇場のDVDも、1976年のイタリ アオペラの日本公演のDVDもよい舞台だが、これはそれを凌ぐ。

 さて、明日からまた仕事に復帰しなければ・・・

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12歳をあなどってはならない!

 11時から、小学館主催の第三回「12歳の文学賞」授賞式に審査員の一人として参加。場所は、大崎駅近くのゲートシティ大崎。オープンスペースでの催しだった。

2009_0322_061 私のほかに審査委員として、何と『バッテリー』などで有名なあさのあつこさん、そして、『毎日かあさん』の西原理恵子という豪華な顔ぶれ。

 お二人とは、第一回からの馴染みなので、一緒に写真をとった。二人とも、知性、感性に優れ、おしゃべりのとても楽しい人たち! さすが一流の人は違う!

 特別審査員として、アイドルの中川翔子さん。来年の特別審査員のベッキーさんも登場。そばで見ると、ほんとに可愛い! 脚の長さ、脚の細さに驚く! まあ、決して細いとは言えないうちの妻や娘を見慣れているせいもあるだろうけれど・・・

 ベッキーさんとのツーショットの写真も撮ってもらったが、ネットで公開しないでほしいと念を押された!

 

 今年の大賞である中石海くんの「陽射し」などを表彰。「樋口裕一賞」を授賞した「ぼーずは今日もたんしゃに乗る」を書いた米沢歩佳さんが、私が表彰。ともに素晴らしいと思った。

12歳の文学 第三集』(小学館)にこれらの作品が収録されているので、是非読んでいただきたい。今の小学生のレベルの高さに驚くことだろう。そして、将来が頼もしくなる!

 この二人に限らず、どの入賞者も、審査の時、文章を読んで、その文体の素晴らしさ、感性の豊かさに驚いたが、本人を目の前にすると、まるで子どもなのに、あきれる! 12歳、つまり小学六年生なのだから、当然なのだけど・・・

 昨年の大賞受賞者、「ヘチマと僕と、そしてハヤ」の三船恭太郎君も来ていた私は、三船君を大天才だと思っている。彼の作品を「三島由紀夫レベル」と最初に表現したのは私だ。「花ざかりの森」を書いた三島少年と同じくらい、いや、それ以上恐ろしいほどの才能を感じるからだ。が、彼が三島レベルになれるかどうかは、彼自身のこれからの生き方にかかっている。

 授賞式の後も、トークショーなどにも参加。その後は、いくつかの取材を受けた。ともあれ、疲れた。へとへとになって帰ってきた。

 考えてみると、猛烈にハードな1週間だった! ふつうに大学の仕事をこなし、日常的な仕事もした上に本を一冊書き上げたのだから。

 明日一日だけは休憩して、火曜日から次の本にかからなければならない。

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ハーディング指揮の『サロメ』DVDも素晴らしい!

少し日記風に・・・

319日午前  「かんづめ」になっていたホテルをチェックアウト。肩と腰が強烈に痛むので、帰りにマッサージを受ける。

・午後~夜  一眠り後、留守中に届いた雑誌記事を校正。そして、紀伊国屋書店で販売する新刊『新・大人のための〈読む力〉、〈書く力〉トレーニング』(新評論)250冊にサイン。くたくたになったが、ホテルでの原稿の続きを書いた。

320日午前  多摩大学卒業式に出席。開始直前から、ちょうど終わるころまで、大雨だった。多摩大学には今年度から勤め始めたので、教えた卒業生はごく少数だが、大人に見える彼らを頼もしく思った。

・午後  謝恩会にも出席予定だったが、腰が痛むので、立食パーティは辛いと判断して、帰宅。一眠りしたら、少し楽になったので、ホテルで書いていた原稿の残りにかかった。

・夜  原稿完成。月曜日からのホテルでの「かんづめ」を含め、5日間で1冊を書き上げたのは、最短のタイ記録! 

321日 午前 多摩大学の系列校推薦入試の面接担当。

・午後  少しハードに仕事をしすぎたので、自分への慰労をかねて、ハーディング指揮、リュック・ボンディ演出のミラノ・スカラ座の2007年の『サロメ』DVDを見た。

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 サロメ役は、先日見たフィリップ・ジョルダン指揮のものと同じナディア・ミヒャエル。圧倒的! 今後、サロメはこの人に集中するだろう。カラヤン時代のベーレンスに匹敵する素晴らしさ! 強靭で美しい声、迫力ある声の演技、演技力、容姿(もちろん、オペラ歌手としては、だけど)ともに、申し分ない。

 どうしても、ジョルダン指揮のDVDと比べてしまう。

 ヨカナーン役のシュトルックマン(実演も含めて、10以上の演目を見たと思うが、なぜか私はこの人の顔をいつまでたっても識別できない! むしろ癖のある声で彼だと気づく)、ヘロデ役のペーター・ブロンダー、ヘロディアス役のイリス・フェルミリオン(なかなか妖艶!)、ともに素晴らしい。しっかりと聞き比べたわけではないが、フィリップ・ジョルダン指揮のものよりも全体的にはレベルが高いかもしれない。

 演出は、ドホナーニ指揮、マルフィターノがサロメを歌ったDVDと同じだが、豊満なエロスが魅力のマルフィターノと細身で鋭利なミヒャエルとでは、かなり印象が異なる。ジョルダン指揮のマクヴィガーによる血みどろになる演出と比べると、私としては血みどろの演出のほうが好みだった。

 指揮については、私はフィリップ・ジョルダンのほうに強い感銘を受けた。ジョルダンのほうがオペラ風にドラマの起伏を描こうとするケレン味があるように思う。ハーディングは『サロメ』を演奏するには真面目すぎるように思った。が、もう一度よく聞き比べてみないと、正確なことはいえない。

 いずれにせよ、DVDになっている『サロメ』では、最近の2種類ともに素晴らしい。『サロメ』は中学生のころから大好きなオペラなので、立て続けにこのようなレベルのDVDが出たのが、うれしい!

 明日は『12歳の文学賞』の授賞式。私は審査員の末席を汚しているので朝から出かけなければならない。

 新刊の校正など、明日までに仕上げなければならない仕事がかなりある。今晩、またせっせと働かなくてはいけない!

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新国立劇場『ラインの黄金』で大きな感動は得られなかった

 昨晩、執筆でかんづめになっているホテルを抜け出して、新国立劇場『ラインの黄金』を見てきた。手短かに感想を書く。

 8年ぶりの再演だが、実は前回、見ていない。その時期のスケジュールがなかなか決まらず、やっと決まってチケットを買おうとしたら完売だった。臍を噛む思いだったのを覚えている。

 全体として、かなりのレベルの上演だと思う。日本の新国立劇場でこれだけのレベルの『リング』が見られるようになったことに、感謝。世界の一流のオペラ座に決して劣らないと思う。

 歌手で言えば、アルベリヒ役のユルゲン・リンとフリッカ役のエレナ・ツィトコーワ、エルダ役のシモーネ・シュレーダーがすばらしい。

肝心のヴォータン役のユッカ・ラジライネンは後半、特に不安定だった。これが実力なのか、単に不調だったのか。ローゲを歌ったトーマス・ズンネガルドも悪いとは言わないが、精彩を欠いた。

 いつもどおり、日本人が脇を固めているが、海外の主役たちと比べて、ほとんどの歌手が遜色ない。とりわけミーメを歌った高橋淳がいい。私は、ヴォータンやローゲよりも安心して聴けた。少なくとも、初めて出現した日本人ミーメ歌いだと思った。

 フライア(蔵野蘭子)、三人のラインの乙女(平井香織、池田香織、大林智子)と二人の巨人(長谷川顕、妻屋秀和)も見事。

 キース・ウォーナーの演出も面白い。みんなが語っているので、演出については私は付け加えない。

 ただ、実を言うと、残念ながら、期待ほどの大きな感動は覚えなかった。ずっと原稿を書いていて疲れきっていたせいではあるまい。

 ダン・エッティンガーの指揮と東フィルが、やはり弱い。バイロイトやベルリンと比較するつもりはないが、これだけの演出、歌手陣だと、どうしても指揮やオケももっと高いレベルを期待してしまう。

エッティンガーはこれまでも何度か新国立で聴いて、将来性のあるいい指揮者だとは知っている。第九のCDも悪くない。が、まだワーグナーの大きなうねりや力感を描くことができずにいる。

  朝起きて、目を覚ますつもりでこれを書いたが、こんなものを書いている場合ではない。本来の原稿を書き続けなければ・・・

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3つの疑問

 都内ホテルに泊まりこんで、原稿を書いている。

 3泊4日で原稿用紙150枚ほど書く予定。たぶん、予定通りいきそう。私はかなりの速筆なのだが、われながらあきれるくらい速い。

 が、ずっとパソコンに向かっているので、腰が痛い。肩も凝った。もうふらふら。ちょっと一休みしたくなった。テレビでWBCの日韓野球をやっているが、負けているので、原稿を離れて、最近疑問に思っていることを3つ、書きたい。

①なぜ、oneをワンと発音するのか。ふつうに発音すれば、これはオンかオウンといったところだろう。どこからwの音が出てくるのか。英語の発音体系で、これをワンと発音するなんて、ありえないのではないか。インターネットで調べてみたが、納得できる回答はなかった。

②なぜ、伊達を「だて」、服部を「はっとり」、長谷を「はせ」、和泉を泉と同じ「いずみ」と呼ぶんだろう。もう慣れてしまって不思議に思わなくなったが、考えてみれば、実に不思議だ。

③もう一つ、昔から抱いている疑問。なぜ、イエス・キリストを、イエス自身も他者もしばしば「人の子」と呼ぶのか。人間誰もが「人の子」なのだから、イエスを特定することにならないと思うのだが、それがイエスと特定されるのはなぜなのか。イエスは人の子でもあり、神の子でもあるという存在だと自分でも認めていたはず。だったら、「神の子」と呼ぶほうが明確だと思うが。

昔、「なぜ三振でアウトになるのに、一塁に進めるのはフォアボールなのか。ボール三つで一塁に進めていいではないか」「なぜ、読売ジャイアンツなのに、巨人と呼ぶのか。阪神タイガーズを阪神と呼ぶのなら、当然、(読売)と呼ぶべきではないか。あるいはタイガースを(トラ)とよぶべきではないか」などについて疑問に思って考えたことがあった。それについての私の仮説は『ホンモノの思考力』(集英社新書)の中で書いた。

①~③の疑問に、誰か答えてくれないだろうか・・・

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母校の甲子園出場に複雑な気持ち!

今、ホテルにこもって原稿を書いている。だから、大あわてで、ちょっとだけ書く。

 知人から、「朝日新聞どらくのサイトを見た」という電話があった。

 それで、思い出した。自宅で取材を受けたのだった。あわてて、サイトを見てみた。

 よろしかったら、ご覧になっていただきたい。音楽について話している。

(昨日あたりから、どうやら突然、このブログへのアクセスが増えたようなので、一体何が起こったのかと思っていたのだが、もしかしたら、朝日新聞のサイトが原因だったのか?)

http://doraku.asahi.com/hito/interview/index.html?bnum=102

 私が40年ほど前に通った母校・大分上野丘高校が21世紀枠で甲子園大会に出る。60年ぶりらしい。

 大嫌いな高校だった。坊主頭にさせられ、校則にがんじがらめにされ、受験勉強を強いられ、受験にそっぽを向くと非国民のようになじられ、朝から晩まで補習によって暗記させられた。私のようなはみ出し者は存在を否定された。まるで、軍国主義だった。

私は反抗を繰り返した。弁論大会があった。私は出場して、遠まわしの学校批判をしようとした。事前に検閲があり、教師によって全面的に書き直させられた。私のかなりレベルの高い文章を低劣な、いかにも才能のない文章に改められた。私は、元通りの文章で発表した。そんなことの繰り返しだった。

何度、退学しようと思ったかわからない。生徒にいじめられた記憶はないが、学校にいじめられたという思いがある。

 だから、寄付金の申し出があったとき、ためらった。

 もちろん、今の学校はかつてと違う。今の生徒に責任はない。が、まるで韓国や中国の人々が日本を今も許さないように、私も大分上野丘高校を許す気になれなかった。

 が、寄付金が集まっていないという同窓生からのメールを受けて、やはり寄付することにした。たいした額ではない。が、私にしてみれば、これは母校への怒りをひとまず終息させた徴でもある。

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探偵ナイトスクープ特番を見て、「リアル」について考えた

 探偵ナイトスクープの特番を見た。関東では不人気というこの番組、実は私は大好きで、以前、楽しみにして毎週見ていた。今回、特番で放送され、腹を抱えて笑った。同時に、いろいろと考えさせられた。

 ゾンビをやっつける三兄弟の話が放送されていた。傑作として有名らしい。

 ホラー映画が好きで、本気でゾンビをやっつけたいと願っている幼い三兄弟。映画の『ホームアローン』のように家中に仕掛けをして、ゾンビをやっつけようとしている。そこに役者が扮するゾンビがやってきて、子どもたちは必死に戦う。感動的に、そして滑稽に!

 西田敏行と同じように、私も涙を流しながら笑い転げた。

 その後で放送されたのが、90歳を過ぎたマジシャンの珍妙なマジック。みすぼらしい衣装を身につけ、手作りのちゃちな道具を使って、失敗を繰り返しながら、本人は大真面目にマジックを続ける。これもまた、笑い転げた。

 見ているうちに、ふと思った。

 ゾンビの子供たちも、マジックの老人も、きっと本人たちは大真面目に映画と同じようなゾンビとの戦いを行い、テレビで見るプロと同じような本格的なマジックをやっているつもりなのだろう。

 傍から見ると、滑稽で「本物」と似ても似つかないものでも、彼らには自分たちの行動はリアルなものとして映っている。そして、本物とマネの間の距離が大きく、しかも本人たちが真剣であるだけに、私たちは笑い転げ、感動する。

 翻って考えるに、私たちの行為もこんなものといえるかもしれない。自分だけでリアルなものと考えて真剣に行動している。だが、本人は、自分以外の人間にはそれがリアルでないことに気づいていない。人間はそれほどまでに自分のリアルに囚われてしまう。

 自分を客観視できないで、大真面目に滑稽なことをし、しかもそれに気づかないことは、ある意味で恐ろしいことだと思う。だが、考えてみれば、そうであるからこそ、自分でいられ、平気で生きていられる。

 いつ死ぬかも知れず、多くの人からも軽蔑されているかもしれず、愛する人からも嫌われているかもしれない自分の本当の姿をもし知ったら、人間は一日たりと平穏に生きていられないだろう。

 子どもたちや老人たちの滑稽な行動を笑ってみながらも心の底から感動するのは、滑稽な行動の中に普遍的な人間の姿、まさしく自分たちの姿を見るからだと私は思う。

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自分の動画は恥ずかしくて見られない!

 ラ・フォル・ジュルネをいろいろと検索していたら、インターネットラジオ、スォーノ・ドルチェの画面が出てきた。クリックしたら、私の声が聞こえ、私の姿が見えた。驚いた!

 以前、私が出演したラジオ番組だ。そういえば、ラジオ番組なのにカメラで撮影していた。そして、後にインターネットで動画が公開されるとのことだった。自分が動いている画像を見ても、少しも楽しくないので、つい忘れていた。今回も、すぐに消した。

 が、まあここは恥をしのんで紹介させていただく。よろしかった、以下のアドレスをクリックして、ご覧になっていただきたい。ホストの中塚武さんは好青年なので、少なくとも彼のほうは見る価値があるだろう。

http://www.suono.jp/ondemand/?id=1574

 ついでに、ラ・フォル・ジュルネのメルマガで、今回の見所について語った動画もあるので、よろしかったら、ごらんになっていただきたい。ただし、これも、私は見ていない。

http://lfj2009-tv.com/

 先日、和田秀樹監督の『受験のシンデレラ』を紹介した。

 このブログに書き込んだことを知らせると、和田氏からメールが届いた。私が「ステレオタイプの使い方が見事」と書いたことに対して、納得してくださったようだが、和田さんのメールには、ちょっと不満げな様子も感じられた。

「それと対照的に、受験と緩和医療と格差社会についてはリアリティを狙ったつもりです」とのことだった。

 私の言葉足らずだった!

 ステレオタイプが見事なのは、もちろん、最も肝心な面のリアリティを増すためなのだ。受験の実際について、格差社会について、しっかりと描いていた。だからこそ、私を含め、観客の多くが涙を流したのだ!

『受験のシンデレラ』は、ステレオタイプの使い方が見事で、ステレオタイプで済ますところと、力を入れてリアルに描くところの使い分けが素晴らしいのだ。その潔さに私は感銘を受けたのだった。

 繰り返すが、この映画の「潔さ」に私は最も引かれる。潔さがあるからこそ、一つ間違うと嫌味になってしまう「東大受験」の映画が気品のある作品になっている。そして、そうだからこそ、見終わった後、深い感動とともに、心地よさと清清しさを覚えるのだ。

 ここのところ、時々大学に顔を出すのを除けば、ずっと原稿を書いている。今日も、つい先ほどまで、ずっと原稿を書いていた。一区切りついたが、明日から数日間、都内ホテルにこもって、別の原稿に専念する。今日の午後はちょっとゆっくりしたい。

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『ヤバいクラシック』発売!

 昨晩は、19時から、東京国際フォーラムで開かれたラ・フォル・ジュルネのソムリエ・サロンで100人前後のお客さんを前に、1時間半ほど、ホストの田中泰氏と対談し た。いつものことながら、田中さんのサポートに助けられて、何とか話ができた。

 バッハに対する個人的な思い、ナントのラ・フォル・ジュルネの演奏について報告をし、東京のラ・フォル・ジュルネでの見所などについて話しながら、ラックスマンのCDプレーヤーとアンプ、JBLのスピーカーでバッハや、東京のラ・フォル・ジュルネで期待される演奏家の演奏を聴いていただいた。ピエルロ指揮のリチェルカール・コンソート、ヴァイオリンのシュポルツルやフラマジラン、チェロのヴァシリエヴァなどのCDをかけた。

 私のしゃべりはともかく、バッハの作曲、見事な演奏、そして圧倒的なオーディオの音には堪能していただけたと思う。いや、私のしゃべりも、何はともあれ、バッハは凄い、ラ・フォル・ジュルネは凄いということは伝わったことだろう。

 ただ、もし私が客だったら、「このおっさんの話はどうでもいいから、音楽だけ聴かせろよ」と思うに違いない。このごろ、コンサートで話をすることもあるが、その度に、このような意識を持つ。お客さんが、私のようなひねくれ者ばかりでないことを祈りたい・・・

0fd858cfd35602332032c96a40e46693abc ところで、拙著『ヤバいクラシック』が幻冬舎から発売になった。

 クラシック音楽の中の猟奇、狂気、エロスなどに焦点を当てたクラシック入門書だ。

 この本で、「クラシックは退屈」「クラシックは癒し」という思い込みを打ち壊して、クラシック音楽こそ、妖しくて戦慄的でおぞましいものであり、そうであるがゆえにすばらしいものだということを訴えたかった。つまりは、「クラシックは癒し」という思い込みに対する挑発として、これを書いた。

 同時に、実はクラシック音楽というのは、確固とした信仰に基づいた安定した世界が崩壊して、ヤバくなって来た時代の音楽なのだということもわかってほしかった。そして、何はともあれ、多くの人にクラシック音楽に馴染んでほしかった。

 ただ、本の性質上、オペラが中心になってしまったのは、少し残念だ。もし私に音楽理論についての知識があり、もっと楽譜を読めれば、歌詞のつかない曲についても分析できただろう。音楽の素人であり、音楽をあくまでも「思想の表明」として聴いている私には、歌詞のあるもの、ストーリーのあるものを選んで論じることしかできなかった。

 もし私の入門書を読んで、少しでも多くの人がクラシック音楽に近づいてくれたら、うれしいと思う。きっと多くの人に、「クラシック音楽への冒涜だ」「解釈が独りよがりだ」などと批判されるだろう。とりわけ「音楽通」と自認している方のそのように言われそうで、内心、かなり怖い。

 が、これが私の選んだ入門書のスタイルだ。このような入門書があってしかるべきだと、少なくとも私は思う。多くの人がそう思ってくれることを願う。

 

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歌劇『カルメル会修道女の対話』は歌劇ではなく対話だ!

 特に期待していたわけではない。何しろ新国立劇場オペラ研修生の上演。指揮のジェローム・カルタンバックという人も、演出のロベール・フォルチューヌという人も知らない。そして、『カルメル会修道女の対話』というオペラも、好きなオペラというわけではない。

 かつてベルナノスの原作を読んだが、あまりの生真面目さに馴染めなかった。プーランク作曲のオペラも何だかよくわからなかった。同じプーランクの『声』は好きなオペラだが、それに比べて何と退屈なんだと思っていた。

 数年前、小澤征爾指揮、サイトウキネンでこのオペラを見た。また、つい最近、ムーティ指揮、スカラ座によるDVDも見た。もちろん悪くなかった。「なるほどこんなものか」と思った。だが、感動するまでにはいたらなかった。何だかよくわからんオペラだ・・・という印象は消えなかった。

 上演には期待しないまま、よくわからないオペラの正体を見てみたいつもりで、昨晩、新国立劇場(中劇場)での新国立オペラ研修生と東京ニューシティ管弦楽団の上演に出かけたのだった。

 ところが、昨晩の上演を見て、大いに感動した! そして、これまで私がこのオペラに違和感を覚えていた理由がわかった。

 これまで私が見た上演は、すべてあまりにオペラティックに演奏しすぎていた! 神に仕えながら死を前にして錯乱する修道院長をまるでワーグナーのように歌っていた。とりわけ、ムーティのDVDのアニア・シーリアは声の艶は失いながらも、かつてバイロイトで歌っていた時と同じように熱唱していた(しかも、フランス語とは思えないメチャクチャな発音! シーリアは好きな歌手だが、ちょっと幻滅)。すべて最後の処刑を盛り上げるために、ドラマティックに音楽を作っていた。もちろん、小澤もムーティも超一流指揮者だから、それを極めて精緻に美しく表現していた。だが、あくまでもドラマとして、オペラとして演奏していることに変わりはなかった。

 だが、そうすると、このオペラの最も美しい部分が失われるのではないか。「この曲はオペラではない。対話(ディアローグ)なんだ」と初めて気づいた。これを無闇に盛り上げてはいけない。抑制し、対話を重視し、フランス語の響きを大事にし、一つ一つの音を大事にして演奏する。そうすると、対話の向こうからじわじわと魂の苦悩が浮かび上がってくる。そんな曲なのだ。

 ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』と同じように、反ドラマの音楽なのだと思った。私のこれまでの違和感は、盛り上げようとしていないオペラを、盛り上げようとしている演奏のせいだったのだと思った。

 その点、研修生たちを中心とした演奏は素晴らしかった。ブランシュを歌った木村眞理子の清楚な歌声、修道院長の茂垣裕子(研修生ではなく賛助出演らしい)の抑制した苦悩の表現も素晴らしい。コンスタンス役の山口清子もほかの修道女たちも見事。男声陣もまったく引けをとらない。研修生でこれだけのレベルのものが歌えるなんて!

 そして、何よりも指揮と演出に感服。この二人の解釈のおかげで、これがディアローグとしてオペラになっていたのだと私は思う。そして、この二人がフランス人だったおかげで、歌手のフランス語がきちんとしたフランス語になっていた。それだけでも、このオペラの雰囲気が変わっている。・・・ただ、オーケストラの練習不足は大いに気になった。

 ともあれ、超一流の演奏家たち以上に感動させてくれた研修生主体の舞台だった。『カルメル会修道女の対話』は私の大好きないペラになりそうだ。

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潔さの美学 和田秀樹監督『受験のシンデレラ』

Photo  和田秀樹氏が初監督した映画『受験のシンデレラ』のDVDが発売された。DVDをいただいたので、改めて見た。2007年のモナコ映画祭で最優秀作品賞と最優秀男優賞、最優秀女優賞、最優秀脚本賞を獲得したというが、まさにそれにふさわしい。とりわけ、作品全体を覆う潔さの美学に感服した。

 和田氏と旧知の仲だから言うのではない。私は実は、かつて早稲田大学第一文学部演劇学科で映画を専攻して、映画監督になりたいと思っていた人間だ。イタリアの鬼才監督パゾリーニを卒論で取り上げた。映画評論新人賞というのをもらったこともある。シナリオを書いて、あと少しで映画化というところまで行ったことがある。『遠雷』などを監督した根岸吉太郎とは早稲田の同級生でよくいっしょに遊んだものだ。

 ・・・つまり、本音をいうと、和田秀樹氏をあまり誉めたくない。映画監督を夢見ていた私がそんな機会に恵まれず、とっくに諦めているのに、東大医学部を出て受験指導者として名をなし、精神科医としても論客としても日本を代表する存在である和田氏がちょっと映画を作って、それが名作だなんて、シャクではないか。努力を重ねながら、映画を作る機会に恵まれずにいる人、必死に作っても駄作でしかなかった人をどうしてくれるんだ。

 しかも、奥さんも美人ときているから、自分との差の大きさに愕然とする! 私はもともとかなり東大コンプレックスが強いのだが、和田氏を見ていると、それが爆発する!

 が、実際に映画を見たら、そんなことは言っていられない。まさしく名作! 私は涙を流しながら感動してこの映画を見た。

 私が何よりも感服したのは、映画全体を貫く「潔さ」だった。

 最初から、これでもかと言うほど戯画化されたステレオタイプの場面が続出する。徹底的に金の亡者の予備校講師、徹底的にだらしのない母親、徹底的に嫌味な東大生とその母などなど、まさしくステレオタイプの登場人物、そしてステレオタイプのお涙頂戴のストーリー展開。

 しかし、実は、このようなステレオタイプを描くのは難しい。とりわけ、和田氏ほどのインテリが臆面もなくステレオタイプを用いるには、潔さが必要だ。芸術性を切り捨て、娯楽に徹し、微妙なニュアンスを潔く切り捨ててこそ、ステレオタイプが生きてくる。潔くステレオタイプを用いているから絶妙のバランス感覚が働いてユーモアが漂う。

 映画の中で展開される和田流受験哲学も実に潔い。「東大に合格できれば、自分の力で人生を変えられる。東大に合格するには、すべての科目ができる必要はない。入試で最低合格点を越すためだけの勉強をすればよい。無駄を省いて要領よく勉強すれば、東大合格は多くの人間に可能だ」。私は、徹底的なまでに合理的な思考の中にある潔さの美学に惹かれる。

 主人公の予備校講師は癌に侵されながら、高校中退の女の子を潔い勉強法で東大合格に導く。そして、その直後に死んでいく。その死に様もまた潔い。

 映画の中には勉強法も展開される。受験産業にいた私から見て、かなり鋭く的確な勉強法だとはいえ、それが果たして現実に東大合格を可能にするものかどうかについては、東大卒でない私には多少疑問が残る。

 だが、この映画の全体に漂う潔さは全面的に納得できる。そして、寺島咲、豊原功補の主演二人も見事。

 このような傑作が世の中に知られないまま埋もれてしまうとすると、こんなもったいないことはない。多くの人の見てもらいたい作品だ。

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寺島実郎セミナーと『ドン・カルロス』DVDのこと

 昨日、虎ノ門駅近くの商工会館で知研(知的生産の技術研究会)主催の寺島実郎セミナーが開かれた。私も知研の「顧問」という肩書きをいただいているし、寺島先生は私の勤める多摩大学の次期学長でもあるので、聞かせていただいた。

 2時間近くみっちりと、現在の世界の動向についての分析や意見を聞いた。日本の進むべき方向、そして改善のための対策にいたるまで、実に説得力ある提言だった。最新のデータに基づき、欧米に限らず世界のあちこちの動向への洞察が含まれているだけに、心を動かされる。実り豊かな、感動ものの2時間だった。この後、知研会長の八木哲郎さん、事務局長の秋田英澪子さん、理事長の久恒啓一さんらと二次会を楽しんでから帰宅した。

 これについて、考えることがたくさんあった。だが、原稿に追われている今、それについてしっかりと考える余裕はない。近日中にもう少し自分の考えがまとまったら、書かせてもらう。寺島先生には、大きな宿題をいただいたように思った。

972 ヴェルディの『ドン・カルロス』のDVD(TDK)を見た。ド・ビリー指揮、ペーター・コンヴィチュニー演出のウィーン国立歌劇場の舞台だ。ラモン・ヴァルガスのカルロス、イアノ・タマルのエリザベート、ナジャ・ミカエルのエボリ。

『ドン・カルロス』は、ヴェルディの中で私の最も好きなオペラだ。とりわけ、5幕によるフランス語版がいい。これぞヴェルディの『トリスタン』だと思っている。

 休憩時間に観客を巻き込んでオペラが展開する・・・というかなり奇抜な演出だが、私はこれについては許容できる。コンヴィチュニーなので「大胆な読み替え」をしているのではないかと心配していたが、そんなことはなかった。

 ロドリーグがメガネをかけ、大審問官が盲人用のサングラスをかけているのは、世界を見る目の有無を象徴しているのか。が、ちょっと安易だと思った。

 歌手はかなりのレベル。ロドリーグが少し弱いが、それほど気にならない。エボリを歌うナジャ・ミカエルが特に素晴らしい。先日見たDVDでサロメを演じていた歌手だが、細身でかなりの美人で声も強靭。これからが楽しみだ。

 全体的にはかなり満足できる上演だった。

 ただ、ほとんどの歌手のフランス語の発音が気になる。いや、私もフランス語会話が得意なわけではないので、細かいことを言うつもりはない。が、多くの歌手がleを「レ」 deを「デ」、無音であるはずの語尾のeを「エ」と堂々と発音しているのはいただけない。もう少しフランス語指導をしてもらえないものか。

 もう一つ思ったこと。ラモン・ヴァルガスとイアノ・タマルの顔がそっくり! 肥満度こそ差があるが、目つきは瓜二つ。見ているうち、「実は二人は兄と妹だった・・・」という展開になるのではないかという錯覚にふと陥りかけた。

 ワーグナーの『ワルキューレ』第1幕に、ジークムントとジークリンデが顔を見合わせて、互いに瓜二つであることに気づくシーンがある。似ても似つかぬ二人の歌手が演じることが多い。金髪のすらりとしたペーター・ホフマンと、巨大な体躯の黒人歌手ジェシー・ノーマンだったりすると、いくらノーマンの歌が素晴らしくても、台詞と映像のあまりの違いにしらける。

 だが、このヴァルガスとタマルならぴったりだ。ただ、ドイツオペラとイタリアオペラでは発声が異なるし、必ずしもこの二人が美男美女ではないのが、弱点といえば弱点。

 ・・などと意地悪なことを考えながら、見ていた。

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マリア・カラスに導かれてイタリアオペラを聴く

 私はずっとイタリアオペラを避けてきた。

 高校生のころ(つまり、40年以上昔のこと!)には、多少聴いた。多感な少年だった私は、サンティ指揮、マリア・カラスの歌う『椿姫』全曲盤を涙を流しながら聴いていた。『セヴィリアの理髪師』も大好きだった。が、その後、『蝶々夫人』と『ラ・ボエーム』を聴いて、あまりのつまらなさにあきれた。その後、モーツァルト、ベートーヴェン、ワーグナー、リヒャルト・シュトラウス、ベルクなどのドイツオペラ、そして、チャイコフスキーやヤナーチェクやプロコフィエフなどのスラブ系のオペラをこよなく愛するようになったが、イタリアオペラは聴けなかった。

 愛だ恋だと大騒ぎするストーリーにまず辟易する。感情をこめて恋を歌うのも、うんざりする。そして、台本の不自然さ、オーケストレーションの下手くそさ! あまりに大袈裟な演技と歌は、見ていて恥ずかしくなる。そもそも、ドイツオペラのような思想性も観念性もない。薄っぺらな娯楽音楽と思っていた。

 ところが、最近、多少なりと音楽の仕事をするようになった。音楽関係の本を書いたり、コンサートを監修したり、CDを企画したり。オペラ歌手とも知り合うようになった。しかも、しばしば「オペラ通の樋口」と紹介される。それなのに、「イタリアオペラはまったく知りません」で通すわけにはいかない。仕方なく、イタリアオペラも聴くようになった。

 まだプッチーニは聴けない。マーラーほど嫌いではないが、情緒的な音楽にいらいらする。が、ヴェルディ、ロッシーニ、ベッリーニ、マスカーニ、レオンカヴァルロに関しては、ときに感動するようになった。まだまだドイツオペラほどの深い感動を覚えるわけではないが、音楽に酔っている自分を発見してしまう。ネトレプコやデセーやゲオルギュー(考えてみると、みんな美人ソプラノだ! 男たるもの、いくら歳を経ても、美人に弱い!)に導かれて、イタリアオペラに分け入るようになっている。私はかなり凝り性のほうなので、昔からのイタリアオペラ好きに負けないくらいの映像ソフトを見たのではないかと思う。

 このところ、マリア・カラスのCDを大量に入手して、少しずつ聴いている。さすがに凄い! ベッリーニの『清教徒』と『ノルマ』を聴いた。ストーリーの不自然さとベッリーニのオーケストレーションの拙さにはさすがに参るが、アリアの高貴さ、その美しい旋律にはぞっとするような感動を覚える瞬間がある。

 とりわけ、カラスが歌うとリアルになる。プロではないので、理由をきちんと分析できないが、カラスが登場した途端、舞台が張り詰め、それまで少し遠くに存在していたものが突如としてクローズアップされ、現実味を帯び、凛と張り詰めた空気が漂ってくる。そして、モノラルの貧弱な音なのに、まるで生身の人間が目の前にいるかのような錯覚にとらわれる。

 そうか、イタリアオペラが好きな人は、この感覚が好きだったのか! と納得。高校生のころ、プッチーニの聴き始めにカラスのレコードを買っていれば、もしかしたら、私の音楽の嗜好はまったく違った方向に進んだかもしれない。

 このところ、ずっと原稿を書いている。その合間に、出版社の方との打ち合わせ、大学の仕事などが入る。原稿が進んでいると、どうしてもブログに文章を書く時間は少なくなる。

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フルトヴェングラーの新発見の第九を聴いた!

 しばらく原稿執筆に専念していたが、今日、DREAMLIFE社から発売になった1953年5月30日の演奏とされるフルトヴェングラー指揮、ウィーン・フィルによる「第九」を聴いた。昨年発売された1951年のバイロイト音楽祭の演奏に続く、新発見の録音だ。

 私はベートーヴェンの第九だけで220枚を超えるCDを持っている。「220枚を超える」という曖昧な言い方をするのは、正確な数字を数えていないからだ。間違って二重買いしたものや、単独で買って、後に交響曲全集を買ったものもある。だから、正確な枚数を言うには、きちんと数える必要がある。だが、時間がない。そこで曖昧な言い方をしている。もしかしたら、230枚を越しているかもしれない。

 そして、その中でベスト1からベスト4くらいまでを独占するのが、フルトヴェングラーだ。フルトヴェングラーは、演奏するたびに少しずつ雰囲気が異なる。そして、どれも魂をグイとつかまれて感動の極に達する。フルトヴェングラーが亡くなって、もう50年以上がたっているが、私もまた、フルトヴェングラーが古今東西最高の指揮者とみなす一人だ。

 私は周囲からはクールで冷静な人間と思われているが、こと音楽に関しては感激屋であり、特にフルトヴェングラーとなると、我を忘れてしまう。

 これまでのフルトヴェングラーの第九の名演は3つのパターンに区別できると私は思っている。

①1943年3月2224日のBPOによる凄絶でド迫力の演奏。呪いと怒りと祈りと喜びを絶頂にまで表現したドラマティックで凄まじい演奏。

51年のバイロイト音楽祭(EMI)のような拡散的でデュオニュソス的な演奏。深くて壮大だが、ルツェルン盤よりも外面的で祝祭的。最後の白熱、燃焼は圧倒的。

51年のバイロイト音楽祭(新発見 Orfeo)やルツェルン音楽祭のような壮大でありながらも一途で深い演奏。私はこの二つの録音から一心不乱という感じを受ける。

 今回発売された録音は、このいずれとも異なる。敢えて言えば、②と③の中間のような演奏だ。バイロイト新発見やルツェルンと同じように内向的で深く、緊張感に溢れているが、一途な感じはしない。もっと広がりを持っている。

 第1楽章を聴き始めた時、それほどの演奏ではないと思った。が、5分を過ぎたあたりから、ぐいぐいと引かれていった。そして、第2楽章の素晴らしさ! フルトヴェングラーの演奏はいずれも第2楽章が素晴らしいが、これが最高ではないかと思う(ただし、きちんと聴き比べたわけではない)。第3楽章は、ほかの演奏のほうが感動的だったように思う。

 第4楽章は残念ながら、とりわけ合唱部分にテープの劣化によると思われる音の揺れがある。最終部の盛り上がりが、バイロイトEMI盤に匹敵するほどの凄まじさであるだけに、音の悪さが惜しまれる。

 いずれにせよ、素晴らしい演奏だ。これが私の第九コレクションの中のどのくらいに位置するかはもう少し聴き込む必要があるが、ともあれ感動的な演奏であることは間違いない。

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