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3つの疑問についての私の仮説

 先日(3月18日)、私が疑問に思っている3つの謎を書いた。それについて、その後、私なりに考えてみた。3つのうちの2つについては、漠然とながらそれなりの仮説が得られた。ただし、残念ながら、この仮説を確かめてみる手段がない。どなたかお教えいただけると、ありがたい。

疑問① なぜ、英語のoneをワンと発音するのか。そんな発音は英語の発音体系ではありえないではないか。

仮説 フランス語では、1・2・3はunアン、deuxドゥ、troisトロワだ。発音と綴りの両方がイギリスに入るときに変化したのではないか。アンとワン、oneun(女性形はune)は発音も綴りも似ている。もとはフランス語だったものがイギリスに入って英語化したものは多い。これもそのひとつではないのか。

(ただし、この仮説には、たまたま私がかつてフランス文学を専攻していて、多少フランス語がわかるから思いついただけという側面があるのは否定できない)

疑問②なぜ、伊達を「だて」、服部を「はっとり」と読むのか。

? 莫大小をメリヤスと読むのと同じような当て字ではないかと思うが、今のところ、仮説さえも思いつかない。

疑問③なぜ、イエス・キリストは「神の子」であるはずなのに、「人の子」と呼ばれるのか。

仮説  イエスは「神の子」と自称することができなかった。自称すると、傲慢・不敬とみなされ、旧来の宗教に罰せられた。そこで、「神の子」という代わりに「人の子」と自称した。つまり、イエスのいう「人の子」とは「神の子」という意味であり、罰を免れるための暗号のようなものだった。それが広まって、イエスのことを他者が呼ぶときも「人の子」というようになった。

(私はキリスト者ではなく、聖書もとばし読みした程度の知識しかないが、この説は正しそうな気がする)

 25日から仕事で京都に来ている。京都は寒い! 昨日の明け方の気温は零度に近かったようだ。

 今日の午後、新幹線で移動して、夕方、東京で多摩大学の懇親会に出席予定。

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コメント

樋口君、お久しぶりです。
 仏文の世界に今も住んでいるSです。
 ご連絡をいただき、ブログを見せていただきました。貴兄のような無精者(失礼!しかし、ご当人もそのように自称しておられるので、問題ないか?)にして、よくこのようなブログをつづけているなあ、と感心しております。また、一昨年秋には私の依頼を快く容れて下さり、わざわざ薄謝にもめげず、講演にきていただいたこと、感謝しております。
 さて、貴兄の3つの疑問ですが、1)については英語史をかじった人にとっては常識といってよいものでしょう。英語に対するフランス語の影響は、11世紀のノルマン・コンクエスト以後の時代と、17世紀以後の宮廷外交の時代に顕著に表れるもので、このoneをワンと読む理由についてはよくわかっていないものの、時代的には16〜17世紀のことといわれています。それ以前はオンと読まれていたようで、そのほかにもfiveはフィーフと読んでいた(長母音から二重母音への変化)ものがファイブになったとか、rootもロートと読んでいたものがルートになったとかいわれています。いずれにしてもはっきりとした理由は不明らしいのです。
 次に服部ですが、これは実にはっきりしていて日本の姓のうち、部という字のつくものの多くは飛鳥〜奈良時代の「部の民」という職能集団を表しています。たとえば、錦織(これは部がついてませんが)は錦織部であり、渡辺(渡部)は渡し部でしょう。服部も錦織と同様、おそらくは朝鮮半島から渡来した渡来人のうち、機織りの技術を持った人々をこう呼んだもので、もとは「はとりべ」であったと思われます。このあたりのことは高校の日本史でちゃんと教えているはずなのですが…
伊達については、明治のはじめまで、仙台の大名のことを実は「いだて」と読んでいたという記録があるようです。日本語では特に固有名詞の場合、最初の母音が落ちることはよく起きる現象のようです。
 最後にキリストの「人の子」問題ですが、これは私には確信を持って言える答えはありません。ただ、よく言われるように「キリストはキリスト者ではなかった」のであって、イエス自身は特に晩年(といっても30歳近くになってのことですが)自分が神によって選ばれた存在であることを確信していたとしても、それを人前で公言することは控えていたであろうと思われます。逆に人から「神の子」として奉られ、それが彼ら小さな教団の前途に悪影響を及ぼすことを恐れたということもあったのはないでしょうか?彼は、自らを「神の子」ではなく、「人の子」と呼んだのでしょう。後の世になって、カトリックの教義が確定したときイエスは神としての性質と人間としての性質を兼ね備えたものとして「神・人二性論」が正統とされるようになりました。これは、カトリックやギリシャ正教、後のプロテスタントには共通ですが、もっと古いキリスト教の宗派(中近東やエチオピアなどで信仰されていた)では、イエスを神そのものととらえる見方もあるようです。私は不信心者ですが、私の妻は近頃カトリックに入信したので、正確な所をたずねてみましょう。
 では、ごきげんよう。(音楽の話題、おもしろく読ませてもらっています。貴兄がイタリアオペラを聴くようになったこと、またバロック音楽を評価できるようになったこと、うれしく思っています。お忙しいでしょうが、ぜひ、楽器を始められることをおすすめします。音楽の理解がものすごく広がること、請け合いです。その節いただいた物語の草稿についてはいずれまた)

投稿: ヴァレリアン | 2009年3月28日 (土) 23時12分

ヴァレリアンさんというか、Sさん。
 丁寧なコメント、ありがとうございます。本当にお久しぶり!
 うちの子どもたちに、博覧強記で何にでもめっぽう詳しく薀蓄が大の得意で、美空ひばりやアイドル歌手から、シャンソン、ドイツオペラまで歌いこなし、チェロの名手でもあリ、優秀なフランス文学研究者でもあるSという人物のことを話して聞かせていました。が、そんなスーパーマンがいるはずがないと思っているらしく、信じてもらえませんでした。が、今回のコメントを読めば、信じてもらえるでしょう。
 この種のことは、ブログに書く前に貴兄に尋ねれば、すぐに答えが出たんですね。
 ただ、まだ疑問は残ります。今回の疑問についてのコメントを整理してみます。
① 周辺の状況は理解できましたが、なぜoneをワンと発音するかという肝心の疑問については不明ということですね。
② つまり、服部というのは、「機織(はたおり)部」のことであり、「はたおりhataori」が「はっとりhattori」に変化したということでしょうか。そうだとすると「服」を「はたおり」と読んだということですね。うーん、そのあたりの傍証がほしい気がします。
 伊達については、かつては「いだて」と読んでいたのだが、母音の「い」が脱落して「だて」になったということですね。これは納得できます。が、新たな疑問が出てきます。もしそうなら、「阿達・安達・足達」と書いて「だち」と読んだり、「井沢」と書いて「ざわ」と読んだり、「井田川」と書いて「だがわ」と読んだりする例があってよいような気がします。なぜ、「伊達」にだけそのようなことが起こったのでしょう。
③ イエス・キリストが「神の子」を自称しなかった理由はよくわかります(これについては「マタイ伝」に出ていると思います。バッハの中にでてきますので)。が、なぜ「人の子」という誰にでもあてはまる事象で呼んだのかという疑問は残されたままに思えます。

 いずれにせよ、だいぶ解明されたように思います。少なくとも、どのあたりを調べればわかるか、見当がつきました。ありがとうございました。
 チェロをやりたいと思っています。まだ手もとに古いチェロ、ありますか? あったら、譲ってもらおうかな・・。奥様、洗礼を受けたんですか。初耳でした。
 このごろ、「俺は無精者だ」といっても、周囲はあまり信じてくれません。まるで「働き者」「マメな人間」と思っているようで、困ってしまいます。どれほど不精かを知っているのは家族と仕事仲間ぐらい。不精だということを認めてくれる人に再会できて、とてもうれしく思います。
 とはいえ、個人的なことは、メールをください。

投稿: 樋口裕一 | 2009年3月29日 (日) 09時12分

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