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イダ・ヘンデルの魂の音楽

 何のコンサートだったか覚えていない。東京のどこかのホールだというだけで正確な場所も記憶にない。10年ほど前の何かのコンサートの休憩時間だった。老齢の西洋人女性が私の横を通り過ぎていった。長身で、上品な身なり。その特徴ある顔を見て、はっとした。どこかで見覚えのある顔! 昔知っていた顔。それどころか、とっくの昔に亡くなったと思っていた人の顔! しばらくたって、思い出した。イダ・ヘンデルだった。

 イダ・ヘンデルといえば、クラシック音楽ファンには懐かしい名前だ。ジョコンダ・デ・ヴィートやジネット・ヌヴーとともに、モノラル時代の伝説の女性ヴァイオリニストとして知られている。私は、ヌヴーと同じように1960年前後に亡くなった人だとばかり思っていた。その人が、間違いなく横を歩いていた。私は幽霊を見たような驚きを覚えたのだった。

 再び、別の演奏会でも見かけた記憶がある。もしかしたら、イダ・ヘンデルは東京に住んでいるのだろうかと私は思った。そして、そのころから、イダ・ヘンデルがまだ活動を続けていることがニュースとして伝わってきた。1928年の生まれと言うから、80歳ということになる。ほとんど最高齢の現役ヴァイオリニストだろう。

 ところで、昨年の今頃のことだった。何度か仕事をご一緒した若いピアニストの新居由佳梨さんと雑談している時、「数日前、突然、呼び出されて行ってみたら、イダ・ヘンデルがいて、わけもわからずに練習もそこそこに伴奏をした。録音をしたみたいだけど、あれがどういうことだったのかわからない」と言い出した。

 私は新居さんを高く買っている。今年の2月15日のブログにも書いたとおりだ。だが、まさか大巨匠であるイダ・ヘンデルの伴奏をしたとは! 不思議に思いつつ、そのままになっていた。

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 そして、数日前、「レコード芸術」誌を見ていると、イダ・ヘンデルを新居さんが伴奏した「魂のシャコンヌ」と題されたCDの記事が出ているではないか! あわてて買い求めた! 後で知ったが、新居さん自身、このCDが発売されていることをつい最近知ったばかりだという。

 すばらしい演奏だと思う。デ・ヴィートを思わせるような、まさに昔風の演奏。しかも、しばしばミスがある。ノイズも入る。音もかすれる。音程やリズムも時々怪しくなる。が、すぐにそんなことはどうでもよくなる。音楽の本質にぐいぐいと食い込んでいく。まさしく気迫の演奏! 魂を音にこめたというよりも、ヴァイオリンの音そのものがまるで魂の声のような気がしてくる。これぞ音楽! 音が魂そのものなのだから、音程が怪しくなったり、ノイズが入ったりするのは当たり前なのだ! フルトヴェングラーを聞くときと同じように、何とこれまで技術だけ完璧なニセモノの音楽ばかりを聴かされてきたのだろう、と思ってしまう。それほどの力がある。私が演奏会に足を運び、次々とCDを買い求めるのは、このような演奏を求めていたためなのだと、再認識する。

 新居さんは3曲を伴奏しているが、しっかりとヘンデルをサポートしている。いや、ヘンデルのヴァイオリンに負けじとしっかりと食らいついている。ヘンデルの音楽に負けないピアニストとして抜擢されたのだろう。30歳そこそこの新居さんが伝説のイダ・ヘンデルを十分に知っていたとは思えないが、しっかりと伝説の音楽に参加している。私は、「ハンガリー舞曲第一番」で不覚にも涙を流しそうになった。

 もう一人のピアニストも同じくらいにしっかりしている。そして、ヴァイオリンのソロで演奏されるシャコンヌは、気迫が外に出るのでなく、きわめて内省的。それはそれで迫力がある。私は最近、96年に演奏されたバッハの無伴奏ソナタとパルティータのCD(テスタメント)を手に入れたが、基本的には同じような演奏だ。ただ、じっくりと歌い上げようという気持ちがいっそう強いように思う。残された年月を慈しむように演奏される。

 

 昨日は、このイダ・ヘンデルのCDといい、ドレスデン・シュターツカペレの演奏会といい、実に音楽的に充実した一日だった。

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気品と人間味に溢れるルイージの『英雄の生涯』

 私は、昨年のドレスデン歌劇場の『ばらの騎士』でいっぺんにファビオ・ルイージのファンになった。CDも何枚か買ったが、どれも気に入った。そこで、今回、サントリーホールで、ファビオ・ルイージ指揮、ドレスデン・シュターツカペレの『ドン・ファン』『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯』『英雄の生涯』(アンコールに『オベロン』序曲)に出向いた。

『ばらの騎士』同様、素晴らしかった。

『ドン・ファン』は、ややもたれ気味。決まるべきところで決まらなかった。「やや不調かな」と思ったが、『ティル』以降は快調。『英雄の生涯』はひたすら感動! 完全にコントロールされながらも、音楽の自由さを失わない。

 ドレスデン・シュターツカペラがまず素晴らしい。チューニングのオーボエの音に、まず驚いた。何と潤いのある音であることか! そして、ルイージの指揮が、まさにドレスデン・シュターツカペレにぴったり。しなやかで、気品に溢れている。鳴らすべきところは十分に鳴らすが、決して下品に響かない。知的に抑制され、音楽の喜びに満ちている。ふくよかで、深い人間性がにじみ出る。

 かつてジェフリー・テイトのシュトラウスのCD(『アラベラ』と『町人貴族』)を聴いた時、同じような印象を受けた。育ちの良さ、品性の高貴さが音に表れている。(それにしても、テイトの噂をとんと聞かなくなったが、元気にしているのだろうか?)

 私は40年来のシュトラウス・ファンだが、実は交響詩はあまり好きではない。中学生のころから、『ばらの騎士』や『サロメ』や『四つの最後の歌』に夢中だったが、交響詩は底の浅さを感じてしまう。だが、ルイージの『英雄の生涯』を聴くと、人間的な深い感情にあふれていることを痛感する。

 ただ、シュトラウスはもう少し下品で卑俗なところがあっていいのではないかと思わないでもない。その点で、多少欲求不満が残る。ほんの少し、羽目をはずして下品になったら、もっと凄みが増すと思うのだが、そうならないのがルイージの持ち味なのだろう。

 同じことが、『オベロン』序曲にも言える。洗練された都会的なウェーバー! もう少しドイツの森を思わせるような田舎臭さがあってよいような気がするが、あくまでも古都ドレスデンを思わせる。

『英雄の生涯』は、静かに終わるバージョン。これはこれでよかったのだが、静かに終わっている時に大きな声で咳をする客がいて、雰囲気がぶち壊しになった。「ここで咳をするくらいなら、息を止めて死んでしまえ!」と数年前までの私なら思っただろうが、さすがに今の年齢になると、そうは思わなくなった。が、あの咳は我慢してほしかった!

 ともあれ、大きな感動を抱いて、帰った。

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コープマンのマタイ受難曲DVDに満足!

 昨日のことだ。京産大からの帰り、京都駅付近を歩いていると、携帯が鳴った。「今日が原稿の締め切りのはずだけど、どうなっていますか」という電話。依頼原稿をすっかり忘れていた・・・ということがこれまでも何度かあったので、焦った。が、今回は本当に覚えがない。話の行き違いがあったことが判明。が、相手も困っているようなので、予定とされていた昨日よりも一日伸ばして、翌日(つまり、今日)書くことにした。

 そんなわけで、今日一日、昨日までの疲れを取るためにゆっくり休もうと思っていたのだが、午前中は、原稿に費やした。

 午後から、やっと自分の時間を持てた。

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 5月3日から、東京国際フォーラムで開かれるラ・フォル・ジュルネ(「熱狂の日』音楽祭」のバッハ特集に合わせて、トン・コープマン指揮、アムステルダム・バロック管弦楽団・合唱団によるマタイ受難曲のDVDを見た。昨年だったか、ふと見つけて買ったものだが、見るのは三回目だ。

 リヒターの有名な映像に匹敵する完成度だと思う。古楽の映像としては最高のマタイだ。歌手もそろっている。私は、マタイの中ではアルトのアリアがことのほか好きなので、アルトのボーニャ・バルトス(発音については自信なし)の歌唱力が抜群なのがうれしい。バスのクラウス・メルテンスも見事。オケも文句の付け所がない。「ペテロの否認」の後の「憐れみたまえ」のヴァイオリンのソロも素晴らしい。

 ただ、私はどうもコープマンの指揮に深い宗教性を感じない。きわめて機能的で、ドラマティックなメリハリ。宗教性よりも、演劇性のようなものを感じる。ほかはともかく、マタイについては、もっと深い宗教性がほしい。その点で、リヒターの映像にはかなわないと、つくづく思う。

 とはいえ、十分に感動して見た。外国盤だが、何はともあれ、字幕があるのはありがたい。

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 昨年、大和書房から『クラシック名曲名盤独断ガイド』という本を出した。150曲のベストとワーストのCDを選んだが、プロの音楽評論家ではない私にすべての曲を担当するのは不可能なので、友人たちと手分けして書いた。『マタイ受難曲』は、残念ながら、私の担当ではなかったので、代わりに、マタイ受難曲のCDの私の選ぶベスト5をここに書いておこう。

① アーノンクール、ウィーン・コンチェントゥス・ムジクス。 かつて、アーノンクールは嫌いな指揮者だった。アクセントをつけすぎた表現が受け入れられなかった。だが、この演奏は素晴らしい。アーノンクールも円熟してきたのか。歌手もそろっている。完璧だと思う。

② リヒター ミュンヘン・バッハ管弦楽団(1959) やはりバッハは古楽器がいい。だから、名盤の誉れ高いリヒター盤を2位にした。だが、改めて私が言うまでもないが、宗教性、緊張感、そして歌手たち。非の打ち所がない。現代楽器では、これ以上は考えられない。

③ ガーディナー、イングリッシュ・バロック・ソロイスツ これも名盤の誉れ高い。アーノンクール以上に音楽が息づいている。これも歌手が粒ぞろい。ただ、私はアーノンクールのほうが精神的な深みを感じる。

④ ヘレヴェッヘ コレギウム・ヴォカーレ しなやかで柔らかく、信仰心に溢れている。ソプラノもあるとも男性歌手で、いかにもバロック時代の音楽にふさわしい(それにしても、なぜヘレヴェッヘは、バッハ以外の曲だと、ああも構成感がなくなってしまうのか、不思議だ!)

⑤ クレンペラー フィルハーモニア管弦楽団  その昔、私はこれを聞いて、マタイを知った。今からすると、あまりに大時代で、あまりにロマンティックだが、今、聴いても深さと大きさに圧倒される。私にとってマタイの原点といえる演奏だ。ただ、私の大好きな歌手であるシュヴァルツコップが、この演奏に関しては、みんなの足を引っ張っているようだ。残念!

番外 レオンハルト プティット・バンド 良い演奏だ。みんなが絶賛するのはよくわかる。深い信仰が息づいている。が、私はマタイにはアリアの素晴らしさを求める。アルトとソプラノは、最高の技術の演奏を聴きたい。このCDでは少年がこれらのパートを受け持っている。もちろん、そのためのよさもあるが、やはり女性のプロの歌手の名人芸を聴きたい。

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新聞を使った家庭学習について岩田学園(大分市)で講演

 今日は、4月27日月曜日の午前。土曜日から先ほどまで、たかだか3日間のこととは思えないほど移動し、仕事をした気がする。

 25日土曜日の朝、岩田学園での講演のため、羽田から大分に向かったが、悪天候のために30分ほど遅れて到着。ちらと空港からタクシーにしようかと思ったが、バスの発車時刻を尋ねた係りの人が「すぐに発車する。バスでも市内までの時間は変わらない」というので、それを信用してバスに乗ったが、すぐに焦りだした。終点まで行かずにバスを降り、あわててタクシーに乗り換えて岩田学園に向かった。

 12時から講演のつもりだったので、多少の時間的余裕があったと思っていると、生徒や保護者らしい人が体育館にすでにぎっしり入っている。学園に着いたのが11時半を少し回ったところ。11時40分から講演だったらしい。ぎりぎりセーフといったところだった。先生方はいつまでも私が到着しないのでやきもきしていた様子。

 心の準備ができないまま講演を始めた。

 私が塾長を務める白藍塾では、立命館大学とかかわりのある各地の小学校・中学・高校、京都産業大学附属中学・高校、京都のノートルダム学園などで作文・小論文の指導をサポートし、大きな成果をあげている。若者の能力を伸ばすのに貢献していると自負している。その一環として岩田学園でも昨年からが先生方をサポートして小論文指導を行っている。今回、先生方の研修を予定していたが、その機会に講演をすることになった。

 講演の内容は、新聞を使った小論文の家庭学習。対象は、岩田学園中学生と高校生、そしてその保護者の方々。新聞を使っての家庭での小論文の練習が、論理性、知識、社会性を身につける、つまりは、「頭をよくする」ことにつながることを説明した。大分合同新聞の朝刊を全員に用意してもらい、どの部分をどのように読むか、日常の中でどのようなことを心がければよいかも話した。

 生徒たちは真剣に話を聞いてくれたので、大変気持ちよく話すことができた。

 この講演の様子は5月の大分合同新聞に掲載される予定だと聞いた。

 実際、私は、今、多くの家庭での新聞離れが、若者の論理力や社会性、社会的知識の低下につながっていると思っている。ぜひ、多くの若者に新聞に親しんでほしいものだ。そして、小論文の練習をしてもらいたい。そうすれば、小論文だけでなく、国語、社会科などの文系科目、そして、論理力を必要とする理系科目にも役に立つ! もちろん、社会に出てからの力に直結する!

 大分市は私が小学校5年生から高校3年生までの8年間を過ごした土地だ。大学に入ってから、転勤族だった父が大分市を離れたので、私も大分とは縁がなくなったが、岩田学園と仕事をするようになったおかげで、ときどき大分に寄ることができるようになった。

 大分市を少しぶらぶらし、友人にも会いたかったが、時間がないので岩田学園での仕事が終わると、すぐに久大線に乗って、特急で1時間半ほどの日田市に住む80歳を過ぎた両親の元に行った。大分に行く機会があるときには、できるだけ両親のところに帰ることにしている。両親は元気なので、こちらが面倒を見るというよりも、実家でゆっくさせてもらい、おいしいものを食べさせてもらうだけだが、まずは安心する。叔母や従姉妹とも久しぶりに会った。

 疲れきっていたので、ひたすら寝て、翌日、日曜日は墓参りなどをした。生まれ故郷である日田市を父の運転する車から眺めたが、さびれた様子が目に付いた。

 午後の列車で京都に向かった。そして、夜は原稿を書き、一区切りついたのが先ほど。 これからちょっと休憩して、京都産業大学での授業に出かける。

 授業の後、今日のうちに東京に戻る予定。それで、札幌・東京・大阪・東京・大分(日田)・京都を移動するというハードな7日間が終わる。

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『「教える技術」の鍛え方』(筑摩書房)発売!

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 私は実は、東進ハイスクールのカリスマ講師だった。もちろん、今でも教えたことのないタイプの相手を前にすると戸惑うことがあるが、教えるのはうまいほうだと思う。が、もちろん、昔からうまかったわけではない。

 はじめは惨憺たるものだった。大学院生のころ、ある塾の50人くらいいたクラスが、授業のごとに半分に減っていって、5回目には5人くらいになったことがある。仕方がないので、自分からその塾をやめることにした。

 その後、少しずつ教えるテクニックを身に着けていった。そして、カリスマ講師になった。そのノウハウを今日発売の『「教える技術」の鍛え方』の中に押し込んでいる。教師だけでなく、自分の子どもに教えようとする人、職場で部下に教える必要のある人には、絶対に役立つと思う。自分としても、よくできた本だと思う(ただし、よくできた本と売れる本はまったく違うのだけど)。

 今、羽田空港近くのホテルにいる。朝の便で大分に発つ。雨模様なので、定刻に飛ぶかどうか、やや心配・・・

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「ビーバップ・ハイヒール」出演(5月14日放送)に苦い思い!

 一昨日(4月22日)、大阪に行ったのは、朝日放送のテレビ番組「ビーバップ・ハイヒール」に出演するためだった(5月14日放送予定)。が、収録を終えて、苦い思いで帰ってきた!

 「ビーバップ・ハイヒール」は関西でしか放送されていないので、馴染みのない人が多いだろう。かつての人気漫才コンビ「ハイヒール」が司会し、「かしこチーム」(作家の筒井康隆と漫画家の江川達也がレギュラー)とお笑い芸人などのタレントから成る「凡人チーム」(一昨日は、チュートリアルと「たむけん」、そしてグラビアアイドルの水沢友香が出演)に分かれて、人生の問題を学ぶという、ちょっと教養がかったバラエティ番組だ。木曜日の夜に放送されている。200回続いている人気番組だ。

「ビーバップ・ハイヒール」には、三度目の出演だ。これまでは、大ベストセラーになったPHP新書の『頭がいい人悪い人の話し方』と、その続編である『頭がいい人、悪い人の〈言い訳〉術』を題材にした回に出演した。いずれも、私が「先生」として登場し、話し方などを解説、それをクイズ形式にして賢人チームとお笑いチームに分かれて答えてもらい、笑える場面をたくさん作っていく。

 尊敬する筒井先生と話ができ、ブラックマヨネーズやチュートリアルとも顔合わせができ、きれいなタレントさんにも会えて、楽しかった。私の本を題材に、それをテレビ風にアレンジしていくテレビ制作者の能力のほども堪能させてもらえた。そして、何よりも番組の中身が笑えるところばかりで、最高におもしろかった。私が出演した回はいずれも視聴率が良かったということで、満足だった。(今回は、チュートリアルのお二人と収録前に少し話した。楽しかった。水沢さんの脚にも見とれた!)

 今回のテーマは「自慢力」。ある出版社から出しながら、まったく売れなかった『してもいい自慢、ついてもいいウソ』を題材に選んでくれたのだった。これは画期的な本だと思っている。が、売れなかった。そこに目をつけてくれた制作者の眼力に敬服!

 今回も最高におもしろかった。芸人さんたちの話力に感嘆! チュートリアルは凄い! たむけんもテレビで見るよりずっとおもしろい。水沢さんも、抜群のスタイルはさることながら、頭の回転もたいしたもの! そして何よりも、それを仕切るハイヒールのリンゴさんとモモコさん! 笑い転げていた。 

 

 そして、ふと我に返った。一人だけ、まったく冴えず、しゃべれば噛んでしまい、余計なことをいい、笑いに水を差し、求められていることをできずにいたのが、私だった!

 これまで、『世界一受けたい授業』や『平成教育委員会』などのテレビ番組に出演してきた。ニュース番組のコメンテーターを1週間したこともある。その度に、暗い気持ちになって、「つまらないことを言ってしまった」「あんなことをいわなければよかった」と思い続け、立ち直るのに1週間くらいかかる。

 今回は、それがもっと長引きそうだ。が、そんなことは言っていられない。今日は、大学で授業をした後、羽田のホテルに泊まって、明日の朝、大分に飛ばなければならない。

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明日からバッハモードに突入!

 町田市で行われた音楽ジャーナリストの山尾敦史さんのラ・フォル・ジュルネに向けての講演に遊びに行った。山尾さんの話を聞いてみたかったし、音楽祭を盛り上げたいと思った。もしかしたら、迷惑だったかもしれないが。山尾さんの話のうまさに舌を巻いた。バッハを無性に聴きたくなった。

 これまで、DVDはイタリアオペラを中心に見ていたが、これからラ・フォル・ジュルネに向けて、バッハ・モードに入ることにする。

 とはいえ、実はCDについては、このところバッハを聴くことが多かった。レオンハルトとアーノンクールが手分けして録音した教会カンタータ全集全60枚を手に入れて、少しずつ聴いていた。どのカンタータも実にすばらしい! ただ、それぞれのカンタータを識別できずにいるけれど。

 

 これからしばらくイタリアオペラから遠ざかるが、中断の前に、これまでに聴いた二角オペラについて簡単に感想を書く。

638 ●仮面舞踏会

 ドミンゴのグスターヴォ3世、レオ・ヌッチのレナートが圧倒的。シュレジンジャーの映画的な演出も見事。バーストゥのアメーリアも、スミ・ジョーのオスカルもよい。ただウィーンフィルを指揮するショルティについては、私は疑問を感じる。私は常にショルティのあまりに力の溢れる音のダイナミズム、機械的なリズムに違和感を覚える。ショルティに合った曲もあるだろう。だが、ワーグナーもシュトラウスもヴェルディも、ショルティに合っているとは思えない。もっとおずおずしたところ、もっと胸のうちを秘めたところがないと、ドラマが盛り上がらない。

 が、全体的に満足できるオペラDVDだ。何よりも、二人の男性のがっぷり四つの歌と演技に酔った。

646 ●アイーダ

 ゼフィレッリ指揮、マッシミリアーノ・ステファネッリ指揮のブッセートにおけるライブ。新人歌手を中心としているという。が、アムネリス役のケイト・オールドリッチが素晴らしい。顔もきれい! 迫力ある美しい声! アイーダのアディーナ・アーロンも新人離れしている。『椿姫』でアルフレートを歌っていたスコット・パイパーがラダメスを歌っているが、『椿姫』の時よりは声が出ているものの、二人の女性にはかなり引けをとる。

 指揮者は知らない人。インターネットで調べたが、ほとんど出てこなかった。この人も新人なのかもしれない。が、高音の木管を強めに演奏するなど、生きがよい。私は大いに好感を持った。

 しかし、このDVDは明らかにゼフィレッリの演出を見るためのものだろう。オーソドックスだが、実に繊細。なるほど、一世を風靡しただけのことはある。

 明日は早朝から札幌に出発する。今週は、札幌・東京・大阪・東京・大分・京都と大移動をしなければならない。

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「長」になるということ

 年齢のせいか、「長」に推薦されることが多くなった。大学内部の委員長や副委員長、外部の会長などなど。だが、私はずっと断ってきた。今日も断った。自分のこれまでのポリシーを守って断ったのだったが、それでよかったのかどうかまだ迷っている。そろそろ、ポリシーを改めるべき時期に来ているのか。それとも、これまで通りでよいのか・・・

 そろそろ、「長」になるのは当たり前の年齢であって、それを断るのは無責任ではないのかと思わないでもない。妙に若ぶって断るのも、みっともない気がする。だが、踏ん切りがつかない。

 私が「長」になりたくないのは、一つにはそのような能力が自分にあるとは思えないからだ。人をまとめる力もない。会議の場で司会をするのも苦手。上手に取りまとめることなど出来そうもない。開会の挨拶など、儀式的行動がとりわけ苦手だ。

 が、それだけではない。私は自由で無責任な発言のできる位置を確保していたい。組織の代表としてではなく、いつでも組織を敵に回して一人で反抗するような場にいたい。「長」になってしまうと、組織の代表になってしまって、少数意見を主張できなくなってしまう。

 私自身、かなり丸くなって、今では、一人で周囲全員を敵に回して議論するようなことはなくなった。だが、中学生のころから、ずっと、「長」にならず(というか、クラス委員長などに推薦されたこともなかったし、生徒会に立候補しても、いつも最下位で落選だった!)、「反体制の少数派」を通してきた。「通してきた」というよりも、正確には、気がつくと常にそのような場に立たされていた。

今更、それを変えたくない。そのような立場を通してきたから、現在の私がある。それをやめたら、自分でなくなってしまいそうだ。

 それに、私はクールで落ち着いて見えるようだが、実はかなり攻撃的な人間だ。とりまとめをするのではなく、先頭に立って敵に向かって切り込んでいくことが多い。私にいわせれば、私のような人間を「長」に据えるよりは、むしろ在野に置いて、何か新しいプロジェクトを一人で仕掛けるような地位につけるほうが、組織全体のためにもなると思う。

 このように自分に言い聞かせているが、果たしてこの言い分にどのくらいの説得力があるのか。もう少し自問自答することになりそうだ。

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初めてのグルメ情報

 こう見えても、私は味にうるさい。

「グルメ」と言えるほど高級レストランに出入りするわけではないが、おいしいお店には目がない。これまでこのブログには、食について一切書いてこなかったが、このところ立て続けにおもしろい店に入ったので、紹介する。

 まずは私の贔屓の店。

 「美濃吉」新阪急ホテル店だ。京都駅の目の前、京都タワーのすぐ横の新阪急ホテルの地下一階にある。美濃吉は京料理の老舗だ。東京にも支店がいくつかある。が、私の知る限り新阪急ホテルの店が一番だ。

 ほとんどいつも一人で店に入るので、最も安価な「鴨川」の会席コースをいただく。白味噌仕立が絶品! 季節感いっぱいの京野菜の料理もいつも最高。京都駅付近のホテルやデパートに入っている有名店にも行ってみたし、出版社の接待で有名料理店に行くこともあるが、この店以上においしいものを出してくれるところはほとんどない。

 琴の独奏に編曲されたバッハの音楽がしばしばかかっているが、まさにバッハにも似た微妙で深くしっかりとした味付けだ。時に感動的にうまい。

 私は京都産業大学の客員教授を勤めているが、この店に行くのが楽しみで、京都に通っている。

 もう一軒は、味よりも不思議な雰囲気が魅力の店。新宿の白龍館。西新宿6丁目のアイタウンプラザにある。しばらく前から親交のある東京シティフィルのフルート奏者である海冶陽一氏に連れて行ってもらった。

 モーツァルトの「魔笛」をイメージしたという不思議な内装。ガウディ風の装飾による大蛇や夜の女王の住処のような山の装飾も目立つ。ドイツ料理かスペイン料理でも出てきそうだが、中華の店だという。ただし、刺身やマグロ丼やうに・いくら丼も出てくる。トマトたんめんが名物料理らしい。味のほどは、絶品といわないが、悪くない。ともかく安い! 2000円のコースでたっぷりと食べられる。

 

 この店が何よりも目を引くのは、入り口にあるグランドピアノ。

 私が寄った晩は、ギターとピアノのジャズコンサートが行われていたが、何よりおもしろいのは、その合間に、客が思い思いにソプラノのアリアを歌ったり、マスターが自らモーツァルトのピアノソナタを弾いたりすること。ついには、私の連れの海冶さんがバッハのフルートソナタを吹き出し、マスターがお嬢さんのピアノ伴奏で「カタリ」を歌い始めたり・・・。それが少しもうるさくなく、すべてを許容できる雰囲気が、客にも店にもできている。それでいて、みんなが常連客というわけではないらしい。

 まさしく、何が何だか、わけのわからない不思議な空間!

 マスターのピアノは決して上手ではない。だが、実に楽しそうに、音楽を味わいながら弾く。これが音楽の本来のあり方なんだ!と強く感じる。まさしく、誰もが思い思いに自己表現する場。マスターの漂うようで明るくて自由な雰囲気がなんともいい。

 待ち合わせに待ち人が現れなかったために残念な気持ちで出かけた店だったが、楽しい気分で帰ることができた。

 と書きつつ、「そんなことをしている場合ではないだろう! 締め切り直前の原稿が山のようにあるぞ、それを片付けろ」という声がどこからか聞こえてくる・・・

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ドミトリー・リスはストコフスキーの再来?

 11日の夜、ドミトリー・リス指揮、東京都交響楽団の演奏会に出かけた。前半はラロの『イスの王』序曲と、堤剛が加わってのチェロ協奏曲、後半はフランクの交響曲。これを聴いてリスという謎の指揮者の正体を見極めたと思った。

 真面目さとロマンティックな情感が程よく入り混じる堤剛のチェロが私は好きだ。が、この日は、堤の遠慮がちながらもユーモラスな面を発見して、おもしろかった。ただ、ラロについては何ともいえない。二曲ともほとんど初めて聴く。

 私にとってのこのコンサートの目的はフランクだった。私はフランクのヴァイオリンソナタが大好きだ。交響曲もすばらしい。それをリスの指揮で聴けば、リスの正体がわかると思ったのだ。

 リスの指揮は、一昨年、ナントのラ・フォル・ジュルネでウラル・フィルと演奏した『悲愴』を聴いた。東京でも『フィンランディア』、そしてベレゾフスキーのピアノによるラフマニノフの第二番の協奏曲を聴いた記憶がある。

『悲愴』ははっきりと覚えている。あまりに激烈な初めの三つの楽章に圧倒された。第三楽章が終わったところで大拍手が巻き起こった。ヤンソンスの指揮などでも同じようなことが起こるが、ヤンソンスの場合には第四楽章もじっくり聞かせてくれる。ところが、リスは第四楽章が付け足しのようになって、腰砕けになったのが印象的だった。

 私は、『悲愴』を聴きながら、かなり感動しつつ、違和感を拭いきれなかった。今回も同じことが起こった。

 フランクの交響曲を聴いて、私は何度も魂が震えた。エネルギッシュで熱く、メリハリの効いた演奏!

 が、聴き終わったときのじわりと盛り上がってくる感動がやや薄い。どうしても、外面的過ぎるのを感じてしまう。往年の人気指揮者(敢えて大指揮者とは言わない)であるストコフスキーを思わせる。

 おもしろい演奏をする。曲芸をやってくれる。盛り上がるし、感動もする。極によっては私も大好きだ。だが、形が崩れるので、私のようなドイツ音楽育ちの人間には居心地が悪い。

 体臭がむんむんとするような八方破りのフランク! これはこれでおもしろかったし、もしかしたら、フランクというのはこんな作曲家なのかも?と思わせるだけの説得力は持っていた。だが、私は、もう少し厳かな深みを持つフランクのほうが好きだ。

 昨日から京都にいる。仕事の合間を見て、仁和寺で一人で花見をした。豪華絢爛な御室桜。気温25度を超えて、暑いほど。京都の最後の桜だという。

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新国立の『ワルキューレ』はジークリンデが圧倒的!

 新国立の『ワルキューレ』再演(4月9日)を見た。実は、『ラインの黄金』だけでなく、これも初演を見ていない。チケットは買っていたものの、ワーグナーの10演目をバレンボイム指揮、クプファー演出で上演するベルリンのフェストターゲとちょうど重なって、ベルリンのほうを選んだ(ベルリンの10演目は私の生涯最高の思い出の一つとなった!)。

 さて、今回の『ワルキューレ』、一言で言って、世界一流レベルの上演だと思った。ただし、超一流ではない。感動はした。ワーグナーの、しかも『ワルキューレ』は感動するに決まっているものだ。だが、魂が震えるような大感動ではなかった。

 圧倒的に素晴らしいと思ったのは、ジークリンデを歌ったマルティーナ・セラフィンだ。声の質も美しく、歌い回しも見事。声もよく出ているし、容姿も文句なし。すごい歌手が出てきたものだと思った。きっとそのうちバイロイトにデビューするだろう。第一幕の「春」の場面と第三幕の第一場では、涙が出てきた。強靭でありながら美しいというのはワーグナー歌手には必須の美質だ。

 フンディングのクルト・リドルとブリュンヒルデのユディット・ネーメット、フリッカのエレナ・ツィトコーワも不満はない。日本人歌手が演じた8人のワルキューレも見事。ここまでは世界超一流級だと思った。

 演出のキース・ウォーナーもこのレベルだと言っていいだろう。妙なメッセージや意味ありげな謎かけがないのがいい。見た目も美しく、ワーグナーの神話性を現代に捉えなおしているところは面白い。ただし、これについてはみんなが言ってきていることなので、私はあまり口をはさまない。

 音楽の上でやや物足りなかったのが、ヴォータンを歌ったユッカ・ラジライネンとジークムントのエンドリック・ヴォトリッヒ。二人とも悪くはない。が、やはりこれでは、耳が肥えてしまった現代の聴衆を満足させられない。

ラジライネンは『ラインの黄金』のときよりずっと声が出ていた。が、だんだんくたびれてきた、「告別」の場面でいかにも余裕がない。時々、声がかすれ、音程が怪しくなる。ヴォトリッヒも頑張ってはいたが、ずっとマルティーナ・セラフィンの引き立て役に甘んじていた。昨年のバイロイト音楽祭でもヴォトリッヒはジークムントを歌い、一人で足を引っ張っている感があったが、今回は、それほどには感じなかったが、やはり声の弱さと表現力不足は否めない。

 が、やはり何といっても、エッティンガーに『リング』を引っ張る力がまだ備わっていないというのが、大満足に至らなかった最大の原因だろう。歌手で言うと、まさにラジライネンやヴォトリッヒと同じレベル。頑張ってはいる。悪いというわけではない。素晴らしいところはある。が、圧倒的感動は呼ばない。第一幕前半や第二幕のフリッカの場面など、渋いところの緊張感がない。だから、全体が生きてこない。

 

 とはいえ、これは私のかなりわがままな要求だ。このレベルのワーグナーを東京で見られること自体、少し前では考えられなかったことだ。何はともあれ、ワーグナーの素晴らしさをしっかり味わって家に帰った。

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拙著『読ませるブログ』発売!

 Yomaseru_blog

『読ませるブログ』(ベスト新書)が発売になった!

  ブログの意味や具体的な書き方のテクニックなどをまとめたものだ。

 少し前にこのブログでも書いたとおり、拙著『人の心を動かす文章術』の内容をそのままに、ただ少しブログ向けに改めただけの『ウケるブログ』という本が出版されたことがある。

 私は、インターネットでそのことを知り、大いに怒リ、裁判を起こした。結局、ほぼ私の望む方向で和解が成立した。そのときから、私もブログの書き方の本を書くべきだと考えていた。ブログに関心を持ち、様々のブログを読んでいた。が、忙しさ、ためらいなどがあって、自分でブログを開設するには至らなかった(そのあたりのことについては、『読ませるブログ』の中に詳しく書いている)。

 そんな折、KKベストセラーズから、ベスト新書での本の執筆依頼があり、編集の方と話しているうち、ブログの書き方の本にしようということになった。ブログの書き方の本を出すのに自分でブログを開設していないのは問題だろうということになって、あわててこのブログを開いたのだった。

『人の心を動かす文章術』も『大人のための文章道場』も、「ブログにも役に立つ」といってくれる人がたくさんいるので、ブログ向けのこの本がもっとずっと役に立たないわけがないと、自分では思っている。

 ただ、ちょっと心配なことがある。「偉そうに、いろいろな楽しいブログの書き方を解説しているわりに、お前のブログはおもしろくないではないか」と言われそうな気がするのだ。

 私はこの本の中で紹介したブログをおもしろくするテクニックの数々を、このブログの中ではあまり使用していない。クラシック音楽のコンサートやCD,DVD、社会に対する私の考え(これについては、考えをまとめる時間がなくて、あまり書いていない)などについて書きたいと思っているので、地味なスタイルを選んでいる。

 つまり、やろうと思えば、もっと楽しくできるのだが、あえてこのようなスタイルを選んでいる!と、いいたいわけだ。このことをご理解いただきたいと思う。

 昨晩、新国立劇場で『ワルキューレ』を見た。これについては、後ほど書く。ここ数日、テレビ出演についての打ち合わせをしたり、八木哲郎さんのイスラム世界についての講演に行ってパレスチナ問題について勉強したり、授業が始まったり、コンサートに行ったり、明日また京都で仕事があったりで猛烈に忙しい。

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『リゴレット』DVDのヌッチの気迫が凄まじい!

 腰痛と肩凝りがひどくなって、原稿を書くのが辛くなると、マッサージ機に座ってDVDオペラを一幕ずつ見ている。そのおかげで、このところかなりのDVDを見ることができた。つまり、原稿もそれなりに進み、腰痛と肩凝りもひどいということにほかならない・・・

 DENONの廉価版オペラDVDのシリーズのヴェルディ作曲のオペラを3本。

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『イル・トロヴァトーレ』

 実は、かなり苦手なオペラ。カラヤン+ドミンゴ、ウィーン国立歌劇場の伝説的な名演だが、やはり私はオペラそのもののメチャクチャなストーリーに耐えられない。

 

 不自然な展開にいちいち突っ込みを入れたくなる。「敵の赤ん坊を殺そうとして、間違えて、自分の子どもを殺してしまっただって? いくらなんでもそりゃないだろ!」「息子とされている男に、そんなことを言えば、〈お前は私の息子でなく、敵の子供だ〉と告白しているに等しいはずなのに、なぜ、そんなことを言うのか? しかも、それを聞いた息子が、自分が敵の子だと気づかずにいるとは、一体、この二人はどういう頭の構造をしているのか!」と、どうしても思ってしまって、何度CDを聴いても、DVDを見ても、鑑賞するどころではなくなる。これでは、どんなに立派な演奏をされても、ドラマにリアリティを感じることができない。

 

 私がイタリア・オペラに長い間馴染めなかった理由が、ここに詰まっている。私がドイツ系のオペラを好むのは、音楽的な理由からだけでなく、文学的な理由もあるのだと、これを見ると納得する。

 とはいえ、壮麗で繊細で豊かな音楽の絨毯は見事。カラヤンとドミンゴはもちろん、アズチェーナを歌うコッソットも、フェランド役のヨセ・ファン・ダムも素晴らしい。ストーリーに対するわだかまりさえなければ、楽しめるはずなのだけど・・・

 

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『椿姫』 ドミンゴ指揮、ゼフィレッリ演出。アルトゥーロ・トスカニーニ財団管弦楽団・合唱団の上演。

 先日、このブログであまり演奏をけなしたくないと書いたばかりだが、このDVDについては、けなしたい衝動に駆られる。

 もちろん、よいところはある。同じゼフィレッリ演出のオペラ映画(ドミンゴがアルフレートを歌い、ストラータスがヴィオレッタを歌った)もよかったが、これも見事。オペラ全体を瀕死のヴィオレッタの回想とみなすという発想は素晴らしい。すべての場面が絵になっている。ステファニア・ボンファデッリも美しい。

 

 が、音楽的にはかなりお粗末。ボンファデッリは容姿こそネトレプコやゲオルギューに匹敵するが、歌唱に関しては、表現力も声もこの二人、そして、ゼフィレッリ演出の映画でヴィオレッタを歌っているストラータスよりもかなり劣る。細かい処理がザツだし、声も出ていない。

 

 ジョルジュを歌うベテランのブルゾンも声がかすれ気味で、音程が不安定になる。アルフレートを歌うスコット・パイパーにいたっては、なぜ抜擢されたのか理解に苦しむ。音程もあやしいし、表現も声も容姿も演技力も優れているとは思えない。そして、ドミンゴの指揮も、やはり歌手の素人芸の域を超えていない。音楽を引っ張っていない。逆説的ながら、イタリア・オペラでも指揮者は大事な存在なのだと再認識させられる。もっとも、ドミンゴはこのあと、指揮者としてキャリアを積んでいるはずなので、今ではもっとよい指揮者になっているだろうが。

 

 これは、演出を見せたいために、音楽面を軽視した上演と考えるべきだろう。音楽ファンとしては、これはかなり悲しい。

 

 

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『リゴレット』。ヴィオッティ指揮、シャルル・ルボー演出。アレーナ・ディ・ヴェローナ上演。

 ジルダを歌うインヴァ・ムーラも素晴らしい。可憐で美しい。高音も見事! マントヴァ公爵を歌うアキレス・マチャードも、ちょっとライヴならでは失敗もなくはないが、このくらい歌ってくれれば文句はない。ただ、この人、どう見ても色男の貴族の風貌でないのが辛いけれど。むしろ、「農夫 その3」といった役柄にふさわしい風貌だ。

 しかし、本当に凄いのは、リゴレットを歌うレオ・ヌッチ。ただただ圧倒されるのみ。声の威力、声の表現力もさることながら、存在感、そして演技力、気迫が凄まじい。リゴレットの怒りと憎しみと悔恨が乗り移ったかのようだ。ヌッチの力で、少々不自然なストーリーも気にならなくなる。芸達者というレベルを超えて凄まじい。指揮のヴィオッティも見事。「悪魔も、鬼め」のオーケストラの迫力には、ちょっと驚いた。

 このような上演を見ると、イタリア・オペラに酔うことの意味がよくわかる。アリアや二重唱のあとに拍手喝采をしたくなる。これを実演でみたら、病み付きになることだろう。

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多摩大学入学式、そして、新たな謎

 昨日、多摩大学の入学式が多摩センター駅付近のパルテノン多摩で行われた。

 何を隠そう、私は北朝鮮フリーク(北朝鮮に行ったこともある。それについては角川oneテーマ21『旅にハプニングから思考力をつける』に書いたので、よろしかったら、ご覧いただきたい)なので、ミサイル(人工衛星?)問題に大いに関心を抱き、気になっていたが、車で出かけた。

 寺島実郎新学長や田村常任理事の話、そして、新入生の言葉、いずれも私にはおもしろかった。寺島学長の言葉は、多摩大学をITの進んだグローバル社会で存在感を示す大学にしていきたいという思いが溢れていた。

 入学式に出ていて、いくつか疑問に思った。いつのころから、入学式や卒業式はスーツ姿になったのだろう。大学に入学した時、私は入学式にはセーター姿で出た記憶がある。1970年当時、スーツ姿の学生は皆無だったような気がする。

 そして、卒業式や入学式に親が来るようになったのは、いつごろからだろう。これも、少なくとも私が学生だったころには考えられなかった。

 スーツを着るというのは、大人の格好をするということだろう。反対に、親同伴で行動するというのは大人になりきれていないということになるだろう。この一見、矛盾するように見える行為が同時に進行しているのはどういうことなのか。

 この状況について、そのうち、少し考えてみたい。

 そして、もう一つ、寺島学長の話を聞きながら、かつて疑問に思っていたことを、ひょいと思い出した。先日、「三つの疑問」について書いたが、それと同じような疑問だ。

 よく反対語が問題になる。小学校のころ、国語の問題でよく出されたものだ。「権利」の反対語が「義務」というのもかなり疑問に思ったが、もっと大きな疑問だ。

「ある」の反対語は、誰にも聞いても「ない」と答える。だが、これはおかしくないか。反対語であるからには、当然、品詞も同じでなければならないだろう。ところが、「ある」は動詞だが、「ない」は形容詞だ。

「有」という名詞の反対語が「無」だというのならわかる。が、「ある」という動詞の反対語が「ない」という形容詞だというのは納得できない。

 この疑問の中に日本語の特質、あるいは歴史、あるいは日本人の精神のあり方が表れているのかもしれない。

 が、ともあれ、原稿を書かなければならないので、いろいろと考えるのは後にしよう。まずは、明後日くらいまでに、今書いている本の原稿を終わらせなくては・・・

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音楽の「淀川長治」になりたい!

 かつて、私は「何でもけなす人間」だった。コンサートに行っても、CDを聴いても、必ず批判した。よほどでないと誉めなかった。そのせいだろう。最近の私のブログや発言を読んで、「最近、樋口も人を誉めるようになった」という人がいる。

 なぜ私は何でもけなしていたのか。そのほうがカッコイイと思っていたという面があるのは否定できない。当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだったカラヤンやフィッシャー=ディスカウをけなすと、自分が偉くなったような気がしたものだ。

 だが、それだけではない。みんなが誉めるものにも、強い不満を抱いていた。どの曲も、「もしオレに才能があったら、こんなふうに演奏する。それに対して、この演奏家はなんて的外れな演奏をするのか!」と思って不満を感じていた。時には憤慨していた。

 だが、年齢とともに、そのような聴き方をやめた。私の考えるベートーヴェンとは異なるベートーヴェン像を聴かせてくれる演奏がある。かつての私はそれを否定的に捉え、「ベートーヴェンをわかっていない演奏だ」と判断して、時にはその演奏に怒っていた。今は、「私の知っているベートーヴェンとは別の新鮮なベートーヴェンを聴かせてくれた」と思うようになってきた。

 もちろん、今でも、「この曲はこうでなくてはならない」と思うことがある。怒りを覚える演奏もある。ときどき、それをこのブログにも書いている。新たな解釈に私が必然性を感じないときには、そのように思う。だが、だんだんと、様々な解釈を楽しみ、そこに新しい要素を発見できるようになった。

 私は今、ほとんどの演奏をけなさない。「180度変換したんだね」と皮肉をいう人がいる。今の私はほとんどの演奏が見事な演奏に思える。下手な演奏もあるし、けしからん解釈もあるが、それでも、必ずはっとするような優れた面がある。けしからん演奏にも、必ずそれなりの根拠がある。

 かつて、淀川長治という映画評論家がいた。若い人はご存じないだろう。テレビの洋画劇場で解説をして、人気があった。どんなつまらない映画も誉めていた。「おもしろいでしたねえ」「なんともしれんいい映画でした」という珍妙な日本語表現を含めて、私は彼が大嫌いだった。くだらない映画も誉めて映画のレベルを下げる評論家、映画を深く理解することなどできない低能評論家だと思っていた。

 が、後に北野武監督を最初に認めたのが彼だったと知った。彼に関わる本を読んで、実は大変な見識の持ち主だったと知った。当時の私とは比べ物にならないほどのたくさんの映画を見て、深い理解を示した上で語っていたのだった。

 今、私は音楽における淀川長治のような存在になりたいと思っている。音楽の素晴らしさをみんなにわかってもらい、どんな演奏も「素晴らしい、素晴らしい」といえる人。そして、誰よりも深く音楽を理解しながら、それぞれの演奏の素晴らしさを理解できる人。そして、クラシック音楽を一人でも多くの人に聞いてもらえるように力を尽くす人。そんな存在になりたい。ある音楽を批判するにしても、その背景を理解した上で、敬意を持って批判したい。

 今では私は「音楽評論家」と呼ばれることもある。状況によっては、そのように自称する場合もある。が、実は私は、音楽を「評論する」人間ではなく、「音楽賞賛者」にほかならないと思っている。音楽の素晴らしさを多くの人にわかってもらうように努める存在だ。人の音楽をけなし批評する存在ではない。

 何はともあれ、これからも音楽賞賛者、つまりは音楽における淀川長治をめざして、音楽に接していきたいと思っている。

 

 仕事で京都に来ている。

 くたくたに疲れた。原稿を猛烈な勢いで書き続けているが、書いても書いても、大量に書かなければいけない原稿がやってくる。が、さすがに、仕事が終わると、今日はぐったりして、原稿は捗りそうもない。

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