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音楽の「淀川長治」になりたい!

 かつて、私は「何でもけなす人間」だった。コンサートに行っても、CDを聴いても、必ず批判した。よほどでないと誉めなかった。そのせいだろう。最近の私のブログや発言を読んで、「最近、樋口も人を誉めるようになった」という人がいる。

 なぜ私は何でもけなしていたのか。そのほうがカッコイイと思っていたという面があるのは否定できない。当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだったカラヤンやフィッシャー=ディスカウをけなすと、自分が偉くなったような気がしたものだ。

 だが、それだけではない。みんなが誉めるものにも、強い不満を抱いていた。どの曲も、「もしオレに才能があったら、こんなふうに演奏する。それに対して、この演奏家はなんて的外れな演奏をするのか!」と思って不満を感じていた。時には憤慨していた。

 だが、年齢とともに、そのような聴き方をやめた。私の考えるベートーヴェンとは異なるベートーヴェン像を聴かせてくれる演奏がある。かつての私はそれを否定的に捉え、「ベートーヴェンをわかっていない演奏だ」と判断して、時にはその演奏に怒っていた。今は、「私の知っているベートーヴェンとは別の新鮮なベートーヴェンを聴かせてくれた」と思うようになってきた。

 もちろん、今でも、「この曲はこうでなくてはならない」と思うことがある。怒りを覚える演奏もある。ときどき、それをこのブログにも書いている。新たな解釈に私が必然性を感じないときには、そのように思う。だが、だんだんと、様々な解釈を楽しみ、そこに新しい要素を発見できるようになった。

 私は今、ほとんどの演奏をけなさない。「180度変換したんだね」と皮肉をいう人がいる。今の私はほとんどの演奏が見事な演奏に思える。下手な演奏もあるし、けしからん解釈もあるが、それでも、必ずはっとするような優れた面がある。けしからん演奏にも、必ずそれなりの根拠がある。

 かつて、淀川長治という映画評論家がいた。若い人はご存じないだろう。テレビの洋画劇場で解説をして、人気があった。どんなつまらない映画も誉めていた。「おもしろいでしたねえ」「なんともしれんいい映画でした」という珍妙な日本語表現を含めて、私は彼が大嫌いだった。くだらない映画も誉めて映画のレベルを下げる評論家、映画を深く理解することなどできない低能評論家だと思っていた。

 が、後に北野武監督を最初に認めたのが彼だったと知った。彼に関わる本を読んで、実は大変な見識の持ち主だったと知った。当時の私とは比べ物にならないほどのたくさんの映画を見て、深い理解を示した上で語っていたのだった。

 今、私は音楽における淀川長治のような存在になりたいと思っている。音楽の素晴らしさをみんなにわかってもらい、どんな演奏も「素晴らしい、素晴らしい」といえる人。そして、誰よりも深く音楽を理解しながら、それぞれの演奏の素晴らしさを理解できる人。そして、クラシック音楽を一人でも多くの人に聞いてもらえるように力を尽くす人。そんな存在になりたい。ある音楽を批判するにしても、その背景を理解した上で、敬意を持って批判したい。

 今では私は「音楽評論家」と呼ばれることもある。状況によっては、そのように自称する場合もある。が、実は私は、音楽を「評論する」人間ではなく、「音楽賞賛者」にほかならないと思っている。音楽の素晴らしさを多くの人にわかってもらうように努める存在だ。人の音楽をけなし批評する存在ではない。

 何はともあれ、これからも音楽賞賛者、つまりは音楽における淀川長治をめざして、音楽に接していきたいと思っている。

 

 仕事で京都に来ている。

 くたくたに疲れた。原稿を猛烈な勢いで書き続けているが、書いても書いても、大量に書かなければいけない原稿がやってくる。が、さすがに、仕事が終わると、今日はぐったりして、原稿は捗りそうもない。

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