« 2009年4月 | トップページ | 2009年6月 »

コペンハーゲン・リングのDVDに感動した!

 コペンハーゲンの王立オペラ劇場によって上演されたワーグナーの『ニーベルングの指環』全曲(『コペンハーゲン・リング』)のDVDを一週間ほどかけて見た。もしかしたら、これまで見た『リング』のDVDの中で、最も感動したといえるかもしれない。

 指揮はシェーンヴァント。CDは何枚か持っているが、大指揮者としての認識はない。歌手陣も、ブリュンヒルデを歌うイレーネ・テオリンを除いて、ほとんど馴染みがない。だから、実は、特に期待せずに見始めた。

044007432655 『ラインの黄金』では、まずカスパー・ベック・ホルテンの演出に目を引かれた。

 舞台は1950年代という設定だろう。キャバレーに飲みにきた客アルベリヒが三人のホステス(ラインの乙女たち)に徹底的にからかわれて、愛を諦め、黄金を手に入れるといった雰囲気。ヴォータンがあまりに残酷。指環(「腕輪」と呼ぶほうが近い)を手放そうとしないアルベリヒの腕を切り取るし、最後にはヴォータンに批判的な様子を見せるローゲまでも殺してしまう。かなり思い切った演出だが、音楽と矛盾はない気がしてくる。

 歌手陣もバイロイトと比べてもまったく遜色がない。特にアルベリヒ役のステン・ビリエルが見事。ただ、指揮については、かなり一本調子を感じた。

   私は『ワルキューレ』あたりから、上演にのめりこんでいった

 演出は相変わらずおもしろいが、私は何よりも歌手陣の驚くべき充実に目を見張った。ジークムントを歌うスティー・アンセン(スティグ・アンデルセンと発音しそうだが、こう発音するらしい)が圧倒的。バイロイトの歴代のヘルデン・テナーに負けない。アンセンは、97年、ベルリン・シュターツ・オパーのコンサート形式での『パルジファル』で、風邪をひいたエルミングの代役をして見事に歌った歌手だという。あの演奏はよく覚えている。ただ、もう少し若いと思っていたが、かなりの年齢なのが意外だった。

 ヴォータンのジェイムス・ジョンソンもブリュンヒルデのイレーヌ・テオリンも、フンディングのステファン・ミリガンも実に見事。第三幕は、演出の火の効果とあいまって、大いに感激し、涙を流した。娘に敢えて残酷に振舞うヴォータンの顔の表情に泣けてきた。

044007432693 『ジークフリート』も同じくらい充実している。ジークフリート役は、『ワルキューレ』のジークムントを歌ったアンセン。ブリュンヒルデもヴォータンもアルベリヒもミーメもファフナーも小鳥も、実にいい。『ワルキューレ』まで、指揮の一本調子が気になっていたが、ドラマに中に引き込まれてしまったというべきか、まったく気にならなくなった。

 

044007432723  そして、最も感激したのが、『神々の黄昏』だ。時代設定は現代。テレビがあり、電話があり、ジークフリートはブリュンヒルデに携帯電話で連絡を取ろうとする! ハーゲンは軍服を着ている。どうやらギービッヒ家は反逆分子を捕らえる役割を負っているらしく、ハーゲンはその責任者らしい。第二幕では、市民を捉えて射殺する光景が見られる。音楽と演出が合っていて、違和感がない。

 そして、何よりも驚くのは、ブリュンヒルデが妊娠しているという設定だ。ただでも妊婦のように見えるテオリンの妊婦姿は、それはそれで実にチャーミング。

 ブリュンヒルデは、ジークフリートに裏切られ、真相を知ろうとするうちに、アルベリヒの切られた腕を発見し、古文書を読んで、これまでのいきさつを知る。指環の呪い、実の父ヴォータンの残酷さ、その帰結としてのハーゲンの武力による圧制。ブリュンヒルデは、そのようなものをすべて焼き尽くして、指環をラインの娘たちに返す。

 最後、すべてが焼き尽くされた後、ブリュンヒルデは子どもを産む。未来を子どもに託そうとするのだろう。しかも、その子どもは、きれいごととしての子どもではない。自分で赤ん坊を取り上げたという設定らしく、服が血で汚れているところがなまなましい。

 すべての歌手が見事。グートルーネを歌うイエルヴァ・キールベルク(Ylva Kihlberg)は容姿も歌もいい。三人のラインの娘の一人であるヴェルグンデ役を名歌手エリザベート・マイヤー・トプセー(Elizabeth Meyer-Topsoe)が歌っていた! 指揮も、もう一本調子だと感じず、私はただただ夢中になってドラマを追いかけていた。

 DVDになっている『リング』には、ブーレーズ、サヴァリッシュ、レヴァイン、バレンボイム、ド・ビリー、ヘンヒェンのものがあるが、私はこのコペンハーゲン・リングを、レヴァイン、バレンボイムと並ぶ最高の一つと考える。指揮ではやや劣るし、歌唱においても飛びぬけた存在はいないが、全体的な歌のレベルと演出は圧倒的。歌手陣の演技も素晴らしい。人間の心理を巧みに表現し、人間ドラマとして感動させる。シェローのバイロイト音楽祭の演出に匹敵するきめ細かさだと思う。

 ともあれ、実演、DVD、CDにおける私のリング体験の中でも最も充実した一つになったことは間違いない。

044007432662

| | コメント (2) | トラックバック (0)

多摩大・樋口ゼミ企画による学内コンサートを予定!

 やっと、夢の第一歩がかないそうだ。

 私は多摩大学で「クラシック音楽を日本に広めるゼミ」を担当している。学生は12人。 最終的には、外部の会場(たとえば、パルテノン多摩)で、一般客も集めて、学生が企画したクラシックのコンサートを開きたい。学生が自分たちで将来有望な演奏家を見つけ出し、最高レベルの演奏会を開けるようになってほしいと思っている。こうすることによって、音楽ビジネスの一端を見につけ、同時に高い教養を身につけてほしいと思っている。

 その第一歩として、6月26日にすばらしいコンサートが開けそうなのだ。

 もちろん4月にスタートしたばかりのゼミでは、学生に自分たちで演奏家を選ぶ力はない。私が個人的に知っている若手の優秀な演奏家ふたり、ピアニスト・新居由佳梨さんとヴァイオリニスト・江島有希子さんに特別にお願いして、多摩大学内の101教室で演奏会を開くことになった。ギャラを含め、様々な面で無理難題を申し入れたが、お二人は私たちの企画に快く応じてくれた。ほんとうに感謝に耐えない。

 数週間前から、この計画を進めてきたが、やっとお二人の演奏者の意見を伺いながら、学生たちと相談して曲目を決めるところまで達した。これからは配布するプログラムを作成したり、ポスターを作ったり、宣伝をしたりといった作業に移る。学生たちが演奏会を開くことに強い意欲を持ってくれているのがうれしい。

 この二人の演奏家については、このブログに2月15日に書いた。二人の『クロイツェル』に私は大いに感激したのだった。しかも、先日ブログに書いたとおり、新居さんは伝説の大ヴァイオリニスト、イダ・ヘンデルのCDのピアノ伴奏に抜擢されたピアニストだ。お二人とも、これからますます飛躍していく若手演奏家だ。

 曲目は、今のところ、「愛の挨拶」(エルガー)、「アヴェ・マリア」(シューベルト)、「別れの曲」(ショパン)などの親しみやすい曲のほか、「カルメン幻想曲」(ワックスマン)、「ラ・カンパネッラ」(リスト)という超絶技巧の曲、そして、最後には本格的な芸術作品であるベートーヴェンの「春」と「クロイツェル」の一部を予定している。

 多摩大生のほとんどはクラシック音楽に縁のない若者だ。クラシックのCDを一枚も持っていない、コンサートを一度も聴いたことがない人がほとんどだろう。だからこそ、おふたりの音楽に触れさせたい。一流の音楽、しかもナマの音楽に触れさせたい。そうすれば、きっと心の奥から音楽に心を揺さぶられる学生が、たとえ数人だろうと、必ず出てくるだろう。同時に、これを企画したゼミ生が、いっそうクラシック音楽に関心を寄せるようになるだろう。私はそうなることを確信している。

 こうして、まずは多摩大生がクラシック音楽の素晴らしさを知り、それが徐々に広まって、多くの若者がクラシック音楽に親しむようになれば、こんなうれしいことはない。もし、今度のコンサートが好評だったら、同じような企画を進めたい。ほかの大学や多摩地区で演奏会を企画したい。

 私はクラシック音楽に育てられたという思いをずっと持ってきた。父が転勤族だったために、故郷を持たない私にとって、クラシック音楽はまさしく「心の故郷」だった。クラシック音楽を親しむ人を少しでも増やすのが、私にできるクラシック音楽に対する恩返しだと思っている。そして、そうすることは、日本人の精神を豊かにすることにつながるはずだ。

 そのためにも、まずは6月26日のコンサートを成功させたい!

| | コメント (3) | トラックバック (0)

サイレント・チェロがほしくなった!

 昨日は、2回目のチェロのレッスン日だった。

 私としては、自分の「演奏」を「優・良・可・不可」という、私の学生時代の成績で言えば、「良」くらいだろうと思っていた。が、どう贔屓目に見ても、先生の口調や表情はそのような成績を語っていない。せいぜい、「可」がいいところだったようだ。

 まず弓の持ち方を注意された。子どものころ、ヴァイオリンをやっていた影響で、ヴァイオリンの弓の持ち方をしていたようだ。チェロらしい持ち方に矯正されたが、これが実に持ちにくい。悪い癖がついていたようだ。

 次にリズムがよくない。われながら、音が生きていないのが、よくわかる。先生の弾くチェロと比べて、歴然とした差だ。まさしく死んだ音。死んだリズム。が、わかっているのだけど、それができない。

 しかも、悪いことにしょっちゅう間違える。間違いようがないほど単純に書かれているのに、間違う。何度やっても間違う。

 私にも言い分がある。私はこの曲を知らない。ピアノ伴奏のないチェロのパートだけを見て、そこから音楽が頭の中で浮かぶほど楽譜を読めるわけではない。だから、死んだ音しか出てこない。だから、先がどうなるかわからず、間違いが多くなる。

 が、そんな言い訳をしても仕方がない。なぜ、これほどできないかを考えてみた。

 まず、練習不足が考えられる。仕事が忙しい。時間があったら音楽を聴きたい、本も読みたい。ちょっとした時間を使って練習しようとしても、家族や外の道を歩く人に気を遣ってしまう。いや、気を遣うというより、こんな下手な音を人に聞かれるとみっともないという意識が働く。だから、後回しにしてしまう。しかも、気を遣いながら、小さな音で弾こうとしている自分に気づく。

 そういえば、サイレント・チェロというものがあるそうだ。一時期、購入を考えたが、やはりホンモノのチェロのほうがいいだろうと思い直した。が、考えてみると、サイレント・チェロがあれば、いつでもどこでも気兼ねなく練習できる。大学の研究室に持っていって、空き時間にも練習できる。

 そう思ったが、きっとサイレント・チェロを買ったら買ったで、また。別の理由を持ち出して、チェロの練習をサボろうとするだろう。人間なるもの、本当に弱い存在だと、自分で何かをやろうとするごとにつくづく思ってしまう。

 しかし、レッスンの後、前回に比べて、肩の痛み、指の痛みは少なかった。それはそれで多少は上達したということだろう。それを支えに、次回に臨むことにする。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

拙著『絶望の中で自分に言い聞かせた50の言葉』発売!

51af4ycyt6l 「しまった! こんな本、書かなければよかった」と思ったことが、これまで何度もある。そのうちの一度は、250万部のベストセラーになった『頭がいい人、悪い人の話し方』だった。

 本ができてすぐに妻に読ませたところ、めちゃくちゃに酷評されたのだった(米川先生に献本しなかったことは、数日前に書いたが、誰にも献本しなかったのはそのような理由だった)。頭の悪い人の話し方のいくつかのモデルが妻だったので、妻が怒るのも当然といえば当然だった(印税で家を建て替えられたので、今では妻は喜んでいるが・・・)。

 今度また、『絶望の中で自分に言い聞かせた50の言葉』を出して、「しまった、書かなければよかった」と少々後悔している。今回もまた、献本はやめようかと思っている。

 私は幸せいっぱいの人生を過ごしてきたわけではない。挫折の人生、苦悩の人生だった。とりわけ、20代後半から30代前半にかけて、かなり苦しい日々を送った。自分で言うのもナンだが、私はきっと「苦労人」の一人だと思う。とりわけ、2年間ほどは絶望の中で暮らしていた。

 

 私は、今の「非正規労働者」の苦しみを他人ごとには思えない。定職がない、金がない、明日の暮らしの目処がたたない、親以外には愛し、愛される人もいない、将来に希望が持てない、生きる意欲がわいてこない・・・。そんな中で、私も暮らしていた。自暴自棄になりそうだった。まさか、この私が秋葉原のような事件を起こしたりはしなかったと思うが、一つ間違えば、何かの事件を起こしかねなかった。

 私は何とか生きる気力を取り戻そうと努力した。自暴自棄になりそうになる自分を鞭打って、自分の心の中に希望を持たせようとした。これまでの生き方を反省し、新しい生き方をするように自分を鼓舞した。

 今回の本の中には、当時、私が自分に言い聞かせていたフレーズを50ほどまとめた。

 最初のフレーズだけをあげておくと、「ベートーヴェンの耳が正常だったなら、名曲のほとんどは生まれていない」。このようなフレーズを示し、それを具体的に説明している。もちろん、これよりももっとずっと気のきいた、ずっと鋭いフレーズもたくさんある。

 本書を企画したのは、それほど前のことではない。今年の2月ころだったと思う。草思社の編集顧問である木谷さんに以前から懸案になっていた新しい本の依頼を受けた。木谷さんは、実はつい先日、深刻な絶望を経験した人だ。ご存知の方も多いだろうが、先日、草思社は不渡りを出し、倒産するところを、別会社に買い取られる形で救われた。旧経営陣は責任を取って退職したが、その責任者がもとの草思社の社長だった木谷さんだ。

 話しているうち、まだ絶望から脱し切れていない木谷さんを励ましたくなった。私も同じような状況にいたことを思い出した。同時に、苦悩の中にいた私が自分に言い聞かせた言葉を、木谷さんに、そして、現在苦しんでいる多くの人々に伝えたくなった。そうすれば、絶望の中にいて苦しむ人の何人かにも役立てるのではないかと考えた。そして、この本を私自身が提案し、数日間で書き上げたのだった。

 この本を「書かなければよかった」と思い始めている理由、それは、生々しい自分を出しすぎた点だ。これまで私の書いた本はいずれも、私の「なま」の部分はほとんど出していない。面白半分に、からかい半分に、皮肉に書くことが多い。それを私の一つのスタイルにしてきた。それなのに、今回、ちょっとムキになったところがある。

 しかも、私らしくもなく、説教調になりすぎた。若者を鼓舞するのは、私のガラではないのに、ついわけ知り顔のことを書いた部分がある。ふだんの私だったら、「そんな人生訓を大袈裟に口にするなよ」とからかいたくなるようなことを、書いてしまった。苦しんでいる人にしっかりと伝えるにはそのようなことも大事だと思ったからだった。

 いろいろと恥ずかしいことが、この本の中には含まれている。

 といいつつ、出さなければよかったと後悔した「頭がいい人、悪い人の話し方」と同様に、本書もまたベストセラーになってほしいと期待しているのも確かなのだ。印税が入るのもうれしいが、それ以上に、多くの苦しむ人に読んでもらって、本書をきっかけにして多くの人が絶望から脱出してくれたら、こんなうれしいことはないと、私は本気で思っている。

| | コメント (10) | トラックバック (0)

最近、気に入ったCD

 一体どうしたことか。中学生のころから、一貫してベートーヴェン、ブルックナー、ブラームス、リヒャルト・シュトラウス、ワーグナーばかりを聴いていた私が、ラ・フォル・ジュルネ以来、バロックを中心に聴いている。

 そんなわけで、ここ数ヶ月の間、聴いてきたCDのうち、印象に残ったものというと、バロック音楽が多くなる。それらを紹介しよう。

792

・カントゥス・ケルン、ユンクヘーネル指揮のバッハの「ミサ・ブレヴィス」集(BWV233,234,235,236 ハルモニア・ムンディ)。 私のこのブログにコメントを寄せてくれた「ミサ・ブレヴィス」さんに教えてもらったCD。ほんとうに素晴らしい。祈りの心が溢れている。歌手陣も見事。私の愛聴盤になった。

・カルロス・メナのカウンターテナー、フィリップ・ピエルロ指揮、リチェルカール・コンソートによるヴィヴァルディの「スターバト・マーテル」など(ミラール)。同じメンバーによるペルゴレージの「スターバト・マーテル」は最高の名盤だが、それに匹敵する。バロックを専門的に聴いてこなかった私は、恥ずかしながらヴィヴァルディが「スターバト・マーテル」を作曲していることさえ知らなかった。いかにもヴィヴァルディらしいメロディが聞こえるが、それでもしっとりした味わいがある。

007 ・「ポーランド女王陛下の墓」と題された、フィリップ・ピエルロ指揮、リチェルカール・コンソート、カルロス・メナやキャスリン・フグの歌によるバッハの宗教音楽集(ミラール)。この組み合わせによる演奏はいずれも圧倒的に素晴らしい。これを聴いたら、レオンハルトもアーノンクールも鈴木雅明もヘレヴェッヘも物足りなくなった。

(ピエルロ指揮のリチェルカール・コンソートの演奏はかなり聴いた。ブクステフーデのカンタータ集もおもしろかった。)

・パヴェル・シュポルツルのヴァイオリン、プラハ・フィルによるヴィヴァルディの「四季」(スプラフォン)。指揮者の記載がないので、シュポルツルの弾き振りか。青いヴァイオリンでラ・フォル・ジュルネを沸かせたチェコのヴァイオリニストの演奏だ。ラ・フォル・ジュルネではネマニャ・ラドゥロヴィチの「四季」ばかりが目立った。それはそれで素晴らしい演奏で私も心の底から震撼した。が、改めてシュポルツルを聴いてみると、これもまた素晴らしい。ネマニャと正反対。むしろ、かつてのイ・ムジチの演奏に近いかもしれない。澄み切った音。高貴でバランスの取れた音楽。鋭い音でありながら、音楽の楽しさに溢れ、心が洗われる。「ネマニャよりも、こっちのほうが、やっぱりほんとうのヴィヴァルディだよな」とひそかに思う。

(シュポルツルの演奏はかなりCDを聴いた。いずれもかなりの水準だったが、「四季」が一番よかった)

700 ・「生の喜び・死の芸術」と題されたトーマス・ヘンゲルブロック指揮、バルタザール=ノイマン=アンサンブルによるパーセルの「メアリ女王の葬送のための音楽」、バッハの「深き淵より」などのCD(ドイッチェ・ハルモニア・ムンディ)。まさしく生と死を思い浮かべる。これぞ音楽のエッセンス。心打たれる。

・ベルリン古楽アカデミーの管弦楽組曲全集。これは正真正銘素晴らしい。リヒターでもなく、もちろんカラヤンでもなく、これこそがバッハだと、最近私は思うようになった。

・ヤンソンス指揮、バイエルン放送管弦楽団 ハイドンの100,104など(ソニー)。若いころのようなダイナミズムはないが、しみじみとした美しさがある。大いに気に入った。

064 ・ケラスのチェロ、ビエロフラーヴェク指揮のプラハ・フィルによるドヴォルザークのチェロ協奏曲(ハルモディア・ムンディ)。深く内省的でありながらも、張りのあるとても良い演奏。ケラスは素晴らしい。「ドゥムキー」も入っているのでお得。

・期待はずれだったもの・・・テンシュテット指揮、ロンドン・フィルのブラームス1番とシューマンのピアノ協奏曲。なぜか燃えない。ファビオ・ルイジ指揮、ドレスデン・シュターツカペレのブルックナー9番。悪くはないが、もっと上を期待していた。

 

 チェロの練習を、今日、3日ぶりくらいにした。でも15分くらい。チェロを自分で弾くよりも、CDを聴いたり、DVDを見たりするほうがずっと楽しいというのが、困ったものだ。マルティヌーのミニチュア組曲の練習をしているが、CDを聴いたことがないし、ピアノの伴奏もないので、音楽を奏でている気がしない。早くCDを手に入れたい(注文したが、まだ届かない)。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

知積院の帰り、恩師・米川先生の幻影を見る!

 京都産業大学で教えるようになって3年目になる。存分に京都見物をしようと思っていたが、いつも原稿に追われて、ろくに観光ができない。2年間でやっと世界遺産になっているところを見終えた程度だ。せっかくの桜の時期だったり、紅葉の季節だったりするのに、授業が終わったらすぐに引き返したり、部屋にこもってカップうどんをすすりながら必死に原稿を書いていたりする。

 今朝は原稿に区切りができたので、知積院に行ってみることにした。私の宿泊しているところから近くなので、歩いて行ける。

 私は、これを「ちしゃくいん」と読むこともごく最近知ったような京都、そして日本史に疎い人間だ。真言宗智山派の総本山で、秀吉に何やらゆかりの寺院だと、ものの本に書いているが、ろくに頭に入らない。何やら利休好みの庭園があるというので、行ってみようという気になっただけのことだ。

 受付をすぎると、宝物殿があった。わけもわからず入ってみることにした。宝物殿と言うので、何部屋もあるのかと思ったら一部屋だけだった。周囲を襖絵で覆われている。客は私一人。ボタンを押すと、解説が聞こえてきた。解説にしたがって、絵を見て行った。見ていくうちに、その力に圧倒された。

 私は美術よりも音楽に惹かれる人間だ。そしてまた、日本の芸術よりも西洋の芸術のほうにむしろ親しみを覚える人間だ。フェルメールに深く感動した覚えはあるが、日本絵画にそのような経験はない。

 ところが、そんな私が、長谷川等伯とその息子、久蔵の絵に息を呑むような感動を覚えた。

 久蔵の桜の図の見事なこと! まるで生きた動物のような力強く動きのある幹。豪快な枝ぶり。そして、力いっぱいに咲き誇る満開の桜。生命、力、動きといった言葉を連想する。

 ところが、解説によれば、久蔵はこの絵を描いた翌年の26歳で夭折したという。そして、その絵の横に並べられているのが、父・等伯が、息子の死にむなしさを覚えて描いたとされる楓の図だ。これが、桜の図にも増して素晴らしい。

 動き出すかのような太い幹、色鮮やかな草花。豪華で派手だが、確かに桜の図と異なって、空しさ、悲しさが溢れているように思えるのは気のせいではなかろう。力をなくして息子の死を嘆くのではない。枯れ果てて人生を憂うのでもない。力に漲りながら、生そのものの空しさを絵の中に叩きつけている。

 しばらく絵を見ているうちに、客が増えてきた。私は宝物殿を出て、名勝として知られる庭園を見に行った。だが、すぐに宝物殿に戻った。このような庭園は、この2年間にすでに何度か見た気がした。長谷川父子の絵をもう一度、目に焼き付けておきたいと思った。

 智積院にいたのは、せいぜい1時間だっただろう。夕方までに東京に戻りたいので、さっさと出た。駅のほうに向おうとして、信号を待っていた。ふと、信号の向こうを見た。

 まさに息を呑んだ。

「米川先生だ!」と思った。小柄で物静かな雰囲気の男性が信号を待っていた。

 米川良夫(よねかわりょうふ)先生。私の恩師だ。東京に出てきてすぐ、心酔していたイタリアの詩人・映画監督であるパゾリーニを研究なさっている米川先生を知り、ご自宅に押しかけて、教えを請うた。それ以来、本当にお世話になった。月に一度ほど、先生のお宅を訪れるのが、何よりも楽しかった。先生には何から何まで教えていただいた。生意気盛りの私の話を、米川先生はじっと聞いてくれた。夜中まで居座る私に、早く帰れというどころか、泊まっていけと何度も引き止めてくれ、おいしいうなぎをご馳走してくれた。私に大学院に進むように勧めてくれたのも米川先生だった。私生活上のことで私が苦しんでいる時、親身になって面倒を見てくれたのも米川先生だった。まさに米川先生は、もったいないことに、私の「東京の親代わり」をしてくださった。

 米川先生は3年前の2006年4月に亡くなった。

 心残りなことがいくつかある。

 

 亡くなる少し前、私は先生が肺がんに冒されているなどとはまったく知らず、実につまらないことで電話をかけた。家を建てかえるのを機会に、回転式の書庫を購入しようとしたのだが、インターネットを調べても、どのくらいの値段なのか、どこに頼めばいいのか出てこない。米川先生のお宅に私のほしい型のものがあるのを思い出して、先生に伺おうと思った。

 先生は、激しく息を切らせながら、丁寧に教えてくれた。「ちょっと待って」といいながら、説明書をどこかの引き出しから出してきて、メーカーや値段を正確に言ってくれた。「ちょっと聞きたかっただけですから、わざわざ引き出しを捜すようでしたら、もういいです」といいたかったが、そのようなことを言わせないような雰囲気だった。しかも、「本棚と平行に蛍光灯をつけると、本が見えにくくなくなるので、直角につけるべきだよ」というアドバイスまでしてくれた。

 そして、そのとき、「息が切れているので、君も気がついたと思うが、実は肺がんの手術をしたところなんだよ。いやいや、もう完治したので心配は要らないんだけど、ちょっと大変だったんだよ」と話してくれたのだった。

 それが最後だった!

 何というつまらないことで、病身の米川先生を煩わしてしまったんだ! と、私は先生が亡くなったのを知ったとき、自分を呪った。いや、せめてお見舞いに行くべきだった。「もう大丈夫」という言葉を信じたく思い、連絡を取るのがこわくて、そのままにしてしまった。

 それだけではない。

 先生が亡くなる少し前、私は『頭がいい人、悪い人の話し方』という本を書いた。その本はあれよあれよという間に大ベストセラーになった。私は米川先生には拙著のほとんどを献本していたが、その本は自慢できるようなものではないと自分で判断して、誰にも送らなかった。

 後に奥様からうかがったが、先生は「いつも樋口君は本を送ってくれるのに、この本は送ってくれない。もしかしたら、私がこの本の中の頭の悪い話し方のモデルになっているんじゃないかな」と話されていたという!

 そしてなお悪いことに、先生の危惧は必ずしも考えすぎではなかった! あの本の中の「丁寧すぎて話がわからなくなる」という例を書くとき、私の頭の中にあったのは、米川先生だった。もちろん、愛情と尊敬をこめて書いたつもりだったが・・・

 お世話になりっぱなしで、少しもお返しもできず、最後まで迷惑をかけ、恩をあだで返すようなことまでしてしまった。そんな思いをずっと抱いていた。

 その米川先生が、目の前にいるではないか。本気にそう思った。

 目を凝らしてみた。信号が青になって、男はこちらに歩いてきた。私もその男のほうに近づいた。別人だった。近くから見ても、とてもよく似ていたが、まったくの別人だった。

 とても残念な気持ちになった。

 きっと智積院を見て、長谷川等伯父子の絵を見たせいだろう。死を思い、歴史を思ったせいだろう。しばし、私の魂は幻想の世界に遊んだようだった。

 その後、新幹線で東京に戻ったが、しばしば米川先生を思い出していた。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

他者から学ぶということ  「アマゾン☆1つのコメント」の後日譚

 先日、ブログ初心者向けに書いた拙著『読ませるブログ』がアマゾンで☆1つの評を受けたことを書いたところ、いくつかのコメントやトラックバックをもらった。これを機会に、拙著についてどのような感想がブログの中で書かれているか調べてみた。そして、予想外のことに気づいた。

 予想していないことだったが、考えてみれば、当たり前かもしれない。

 拙著を読んでくれた人の中に、「役に立つ」「おもしろい」「自分のブログを振り返るのに役立った」とほめてくれる人がいる。逆に、「そんなことはわかりきっている」「こんな初心者向けのものは読む必要はない」と切って捨てる人がいる。

 そのような感想を寄せてくれた人のブログのほかの部分も読んでみた。初心者向けの私の本を「役に立つ」といってくれる人のブログは、きっと拙いものであって、反対に「わかりきったことしか書いていないので、つまらない」といっている人のブログはさぞかし高レベルでおもしろいのだろうと思っていた。

 ところが、逆なのだ!

 ほめてくれる人のブログのほとんどは、私が拙著の中で、「かくあるべし」と書いたことをすでに実践されていた。これらのブログを書いたのは、初心者向けの私の本を今さら読む必要がないだろうと私には思える人たちだった。

 私のブログを「わかりきっている」と腐した人のブログの多くは、ブログの技術が十分に発揮されているとは思えず、しかも、少なくとも私には興味深いとも思えなかった。

 もちろん、拙著をほめてくれた人は私と波長の合う人であって、腐した人は波長の合わない人なのかもしれない。だから、そのブログを私がおもしろく思ったり、そうでなかったりするのかもしれない。そのような要素もなくはないだろう。だが、それだけではないと思った。

 人の生き方というのは、このようなものなのかもしれない。他人の意見やその生き方に興味を持ち、そこから自分の不足分を補ったり、そこに自分の考えを確認したりして、様々なところから学ぶ人がいる。そのような人は、たとえ自分よりも劣った人からも何かを学ぶだろう。そして、自分の意見を深め、表現を充実させていくだろう。つまり、周囲の様々なものに関心を持ち、そこから糧を吸収する。そして、そのような人が日々向上していくのだろう。

 逆に、他者の意見をはねつけ、初めから聞き入れようとしない人がいる。そのような人は、他者の意見を参考にすることを拒否し、他者から学ぶことを拒否する。自ら自分を狭め、せっかくの学ぶ機会を自分から奪っているのに、それに気づかずにいる。

 自らを振り返るに、私も必ずしも謙虚に他人の意見に耳を傾ける人間ではない。しばしば、「そんなわかりきったことを、今更いってくれるな」と思う。今回の件は、そのような自分の反省の機会にもなった。

| | コメント (8) | トラックバック (1)

音楽による世界紀行コンサート!

 藤沢市民会館で、「音楽による世界紀行」というテーマでコンサートを開いた。いちおう、私が監修ということになっている。私の司会で進行した。

 フルートの山形由美さん、ソプラノの天羽明惠さん、ギターの荘村清志さんが演奏。前半は、フルートとギターによるエルガー作曲の「愛の挨拶」に始まり、イギリス、ドイツ、ハンガリー、フランス、スペイン、ブラジル、アルゼンチン、日本の曲を紹介した。

 私のしゃべりはともかく、素晴らしいコンサートだったと思う。

 私が何よりも圧倒されたのは、天羽さんのソプラノだった。私はずっと前から天羽さんのファンで、これまでもいくつか聞いてきたが、そばで聴くと圧倒的。ものすごい迫力! しかも、フランス語の歌も、実にフランスっぽく歌ってくれる。日本語の歌も、実に言葉が聞き取りやすい。こんなにはっきりと聞き取れる日本語の歌は初めてだった。しかも、様々の表現のテクニックを持っている。色っぽかったり、迫力があったり、やさしかったり、美しかったり。とりわけ、ドリーブの「カジスの娘たち」のピアソラの「リベルタンゴ」、そしてアンコールの「キラキラ星変奏曲」は鳥肌が立った。

 山形さんのフルートも容姿も実に美しい。フルートという楽器の性格上、ド迫力というわけにはいかないが、清潔で高貴で繊細。最初の、「愛の挨拶」は少し硬かったが、だんだんほぐれてきて、イベールの「間奏曲」は、しみじみとした情感と秘めた情熱を聞かせてくれた。山形さんは、天羽さんと違って、情熱やドラマを表に出さずに、内に秘めようとする。それが山形さんの魅力であり、またフルートという楽器の特質でもあるのだろう。

 荘村さんのギターは、無駄なものをそぎ取った深いものになっているように感じた。「アルハンブラの思い出」にちょっと驚いた。以前、聞いたときにはもう少し外面的だったように記憶している。とはいえ、音楽にのめりこむのでなく、知的にコントロールしている。もっと本格的に聞いてみたくなった。7月にビルバオ交響楽団との公演が日本であるという。是非、聴きたい。

 私のしゃべりは、まずまず。自分としてはうまくできたほう。が、あくまでも主役は三人だ。観客は、きっと三人の素晴らしさに圧倒されたようで、大喝采だった。私は、世界で最も偉いのは作曲家で、次は演奏家、その次が小説家と詩人・・・と考えている。

033

 公演後、みんなで写真を撮った。演奏家と一緒に写真をとることだけでも、私には夢のようだ。

 公演が終わってから、藤沢市民会館内のレストランで雑誌「SPA!」の取材を受け、車で自宅に帰った。高速道路1000円の影響なのか、猛烈な渋滞だった。政府のばらまき政策に改めて怒りを覚えながら、帰宅した。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

リハーサルは最高に楽しい!

 音楽が作られていく過程を聞くのは、本当に楽しい。わくわくする。

 多摩大学で授業を終わらせてから、池袋にある東京音大に車で駆けつけ、16日に藤沢市民会館で行うコンサートのリハーサルを行った。出演者は荘村清志さん(ギター)、天羽明惠さん(ソプラノ)、山形由美さん(フルート)という錚々たるメンバー。このコンサートを監修したのは私なので、私が司会のようなことをすることになっているので、リハーサルに立ち会ったわけだ。リハーサルを聞きながら、本番のコンサートと同じようにわくわくした。もちろん、わくわくしているのを、出演者たちには気取られないように平気な顔を装っていたが。

 最初に、荘村さんと天羽さんの二人でリハーサルをした。二人とも表現の幅が広い。自由自在という感じ。阿吽の呼吸と言うのか、ちょっと言えば、お互いに理解しあって、音楽が豊かになっていく。天羽さんの歌を私はこれまでかなり聴いてきた。大好きな歌手の一人だ。間近で聞くと、本当に素晴らしい。芯が強く、色気があり、迫力がある。低音から高音、ピアニシモからフォルテしもまで、まっすぐに音が伸びる。そして、豊かな表現力。いくら歌っても疲れを見せないのもすごい。荘村さんは、その歌をサポートし、見事に表情を作っていく。

 しばらくして、山形さんが現れて、三人で演奏する曲を合わせた。これまた見事。音楽家は、言葉でなく、音楽で対話をし、まさしく音楽を作っていく。荘村さんが、テンポやアクセントなどについてアドバイスし、二人がそれに応じて、表情ができていく。荘村さんの音楽観もすばらしい。

 天羽さんが一足早く帰って、その後は、荘村さんと山形さんの二人が合わせた。山形さんのフルートは実に美しい。山形さんは、もう結構なお齢だと思うが、本当に美しい。フルートの音も同じように美しい。

 リハーサルに立会い、音楽家たちと近づきになるだけで、しゃべらなくて済むのなら、こんな幸せなことはないだろう。コンサートで話をしなければならないというプレッシャーが心の奥に重くのしかかる。

 ともあれ、明後日16日には、なんとかお客さんに満足していただけるように、話をしなければ・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

NHK教育「となりの子育て」収録

 NHK教育の「となりの子育て」という番組を収録してきた。放送は、6月13日土曜日の21時30分~22時。再放送は、19日11時より。

 藤井隆さんと「我輩ハ母デアル」の漫画家の高野優さんの司会、ゲストは山崎邦正さん。テーマは「人前力」。私が「先生」として出演し、人前に出てプレゼンをする力をつけるための方法などを話した。

 

 テレビには、「世界一受けたい授業」や「平成教育委員会」「ビーバップ・ハイヒール」などに出演したことがある。良い思い出はほとんどない。いつも苦い思いを抱いて家路につく。が、今日は、私としてはかなりうまくいった。何はともあれ、楽しかった。言いたいことは話した。藤井さんの司会は本当に見事。高野さんの反応もきわめて知的。そして、山崎さんの見事なお父さんぶりに感服。

 それより何より、番組の中で紹介された小学校4年生の女の子の、「使用前」の自信なげな顔と、「使用後」の自信を持った顔の違いに感動した。私のアドバイスのおかげでそのように変貌できたわけなので、私自身、とてもうれしかった。同時に、子どもの様子を実に的確にテレビに収めた制作の人たちの能力にも感服!

 是非ご覧になっていただきたい。今回、初めて、私は自分の出演した番組を自信を持ってお勧めする。どうすれば、人前力がつくか、家庭でどのようなことをすればよいかを話した。司会者、ゲストの山崎さんの話もとてもおもしろい。

 NHKのテレビに出演したのは初めてだ。ラジオには、2、3度出演したことがある。NHKは、おもしろいことをいおうと考えなくて済むだけいい。民放の場合、このままではつまらないのではないかと考えて、おもしろいことの真似事をしようとして滑ってしまう。

 またまた猛烈に仕事をしている。今日は、テレビ出演以外は自宅でずっと原稿を書いていた。明日は京都で仕事。

 チェロを弾きたいが、10分くらいいじっただけだった。マルティヌーの作曲した「チェロとヴァイオリンのためのミニチュア組曲(?)」という、開放弦だけからなるチェロ曲を宿題に出されている。もちろん、知らない曲。CDを注文したが、届くのは2週間以上先の見通し。手探りで弾こうとしているが、難しい。情けないが、仕方がない。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

チェロを始めた!

020

 一念発起して、チェロを始めた。「50の手習い」というよりも「60の手習い」に近い。知人にチェロを譲ってもらい、しばらく前から準備を整えていた。そして、今日、初めて先生(といっても、息子とそれほど年齢に差がないだろう。いくつかのプロのオケで弾いている若者だ)に我が家に来てもらって、練習をした。

 子どものころ、ヴァイオリンを習わされていた。大分県中津市のヴァイオリン教室だったが、そんな昭和30年代の田舎の教室でも私は飛びっきりの下手くそだった。新たに入ってくる年下の子どもたちに次々と抜かれていった。ヴァイオリンの練習は大嫌いだった。当時は音楽そのものも大嫌いだった。小学校4年生で、指の骨を折ったのを機会に、きっぱりやめた。

 25歳を過ぎたころ、今度はバッハの無伴奏チェロ組曲に感動して、チェロをやろうと思い立った。大学オケに入っていた後輩にチェロを借りて独学でやった。初めからバッハは無理なので、フォーレの「エレジー」を練習した。が、まったくものにならなかった。3ヶ月ほどで諦めた。(ただし、チェロの先生には、このことは内緒だ。少しかじったことがあるわりに、まったく何も知らず、何もできないのだから・・・!)

 我が家の子どもたちにも、小さいころ楽器を習わせたが、父親に似て途方もなく下手だった。私の父は、ヴァイオリン、ギター、尺八と様々の楽器を習っていたが、これまた信じられないくらい下手だった。父も私も子どもたちも、発表会に数人が出ていると、一人だけ誰の目にも飛びぬけて下手なのがわかるレベルだ。楽器に関しては最低レベルというのが、我が家のDNAだ。

 だから、いつまで続くか自信がない。が、夢がある。とりあえず、バッハの無伴奏組曲第一番の「プレリュード」だけでも弾けるようになりたい。そして、いつになるのかわからないが、娘の結婚式で、「結婚は人生のプレリュードなので、父親からこの曲をプレゼントする」といって弾きたい。この話をしたら、娘は「絶対やめてくれ」といっているが、もし、弾けるようになっていたら、どう反対されても弾きたい。

 私はかなりの筆無精だった。まさかブログをほとんど毎日のように書くなど、自分でも思っていなかった。ところが、律儀に書いている。だったら、私が「楽器ベタ」というのも、もしかすると私自身の誤解かもしれない。

 とはいえ、第一日にして、あまりの大変さに投げ出したい気持ちになっている。まず弦を押さえる指が痛い。強烈な痛さだ。そして、もともと凝りのために痛みの走る肩がますます痛くなる。慣れれば痛くなくなるのだろうか。

 ともあれ、少しずつ努力したいと思っている。

| | コメント (13) | トラックバック (0)

アマゾンで☆1つをつけられた!

 私は時々、自分の名前や拙著のタイトルを検索する。自分や自分の著書がどのように語られるかを確認する。ほめてもらえていることもあるが、批判されていることがある。ほめられて、生きがいを覚えることもあり、ぼろくそにけなされて憤慨することもある。だが、それを含めて、けっこう楽しんでいる。

 今朝、ふと気になって、先日刊行されたばかりの『読ませるブログ』のアマゾンの書評を見てみた。何と☆1つがつけられ、かなり手厳しくけなされていた!

Yomaseru_blog

 私の『読ませるブログ』は、確かに名著ではないかもしれない。あわてて書いた一冊といえるかもしれない。だが、☆1つの評価されるべき本だとは思わない。現に、いくつか検索してみて、ほめてくれているコメントにたくさん出会った。私のブログにも、拙著について好意的なコメントがいくつか寄せられた。私の著書にも、やっつけで書いたもの、出版社にせっつかれて気乗りしないまま書いたものもないではないが、この本は比較的よくできた本だと思っている。これをこれほどけなされるのは、かなり心外だ。

 もちろん、一般の人が匿名で書き込みすること自体を否定するわけではない。専門家ではない一般の人が、自分の批評を公表する権利は、もちろんある。匿名にするためのメリットもある。だが、現在の状況を見ていると、手放しで肯定できない。その一つの典型をこの拙著に対するコメントに感じた。

 私は、これまで200冊近くの本を出してきた。私の著書には250万部を超えたものもある。10万部を越したものは、学習参考書を含めて15冊ほどある。だから、☆1つをつけられたからといって痛くもかゆくもない。

 だが、もし、本を一冊だけしか出していない人が、☆1つの評価をされたら、どれほど傷つくことか。そして、そのような罵倒する書き込みだけしかなされなかったとしたら、そのコメントが的外れなものであったとしても、それが世間に定着してしまうかもしれない。そのような事態は出版文化にとって、好ましいことではない。

 かつて、批評というのは、著者と同程度、あるいはそれ以上の知識と見識を持っている人のみの特権だった。そのような人に拙著が批判されれば、著者もある程度は納得するしかなかった。だが、アマゾンの批評などの場合、見識のある人がコメントを寄せているとは限らない。著者と比べて、圧倒的に知識が不足し、見識に欠ける人が、著者を十分に理解できないまま一方的に罵倒し、頭ごなしにけなすこともある。一般の人が自分の立場からの感想を寄せるのではなく、高い位置から批評をし、星をつけてランク付けする。まさしく、絶対者として振舞おうとする。そのような批評が増えているように感じる。

 しかも、私が気になったのは、拙著に関するコメントは、私の本が初級者向きであるということで、☆1つをつけているらしいことだ。私は意識的に初級者向きの本を書いた。そのことは本を読めばわかるはずだ。だから、この本が初級者向きだということは評価を上げる理由になるにせよ、下げる理由にはならないはずだ。それなのに、コメントをした人間は、ただ単に、自分の求めに合わなかったというだけで、劣った本だという烙印を押そうとしている。

 きっと、人の本を頭ごなしにけなそうとする人は「万能感」を抱きたいのだろう。けなすことによって、その本の著者よりも偉くなったような気分になれるのだろう。☆1つをつけることで、自分が世界を取り仕切っているような気分になれるのだろう。ある種の絶対者になった気分を味わえるのだろう。とりわけ、他者の本を「初級者向きだ」と切って捨てることで、自分が上級者であることを自他に対して示したいのだろう。

 それは、まさしく「いじめ」の心理にも共通する。匿名という隠れ蓑を用いて、他者をけなし、ものごとをコントロールして自己満足を得る。

 何と現代人は「人でなし」になってしまったことだろう。

 インターネットの書き込みが、現代人の持つ残酷さを映し出しているだけなら、まだいい。だが、もし、インターネットの匿名性が、残酷性を助長し、現代人をいっそう残酷にし、自分を絶対者と思い込む人間を増やしているとすると、これは大変なことだ。

 私はこのブログでコンサートやCDを批評している。なるべく、拙著に対するアマゾンのコメントのようにならないように十分に気をつけなければならないと、改めて思った。

| | コメント (14) | トラックバック (1)

ラ・フォル・ジュルネ2009のベストテン

 2009年のラ・フォル・ジュルネのベストテンを選んでみた。

 もちろん、これは私が聴いた25のコンサートの中から選んだにすぎない。私は、バッハの音楽の中では宗教曲が最も好きだ。次にチェロやヴァイオリンなどの弦楽器と、フルートなどの管楽器。私は鍵盤楽器をあまり聴かない。だから多くの人が絶賛するピアノのシュ・シャオメイを聴いていない。バッハ以外の作曲家は敬遠したので、これまた大評判のラ・ヴェクシアーナも聴いていない。すでにナントで聴きまくったので、東京では、無伴奏チェロはあまり聴かなかった。また、青いヴァイオリンのシュポルツルのシャコンヌも、ナントで聴いて最高に素晴らしいと思いながら、今回はほかの演目と重なって聴けなかった。

 そうした中で選んだベストテンだ。

①コルボ指揮、ローザンヌ声楽・器楽アンサンブル。『マタイ受難曲』。

 人類の宝である『マタイ』をこのレベルで演奏されると、私としては感動の極致に達するしかない。

②オーヴェンニュ室内管弦楽団、ベーク指揮。ネマニャ・ラドゥロヴィチのヴァイオリン協奏曲2番ホ長調と1番イ短調。

 ネマニャの圧倒的なヴァイオリン!

③リチェルカール・コンソート、フィリップ・ピエルロの指揮で、ミサ曲ト短調とマニフィカート。

 この団体、そしてピエルロの親密で柔らかで祈りにあふれた宗教曲は最高!

④カントロフ指揮、シンフォニア・ヴァルソヴィア、ネマニャ・ラドゥロヴィチでヴィヴァルディの『四季』

 ネマニャ大得意の『四季』。驚きと感動のヴァイオリン!

⑤オーヴェンニュ室内管弦楽団、ベーク指揮。シュポルツルのヴァイオリンでヴァイオリン協奏曲ホ長調。

 シュポルツルの正統派ヴァイオリンは素晴らしい。ネマニャと対極! 

⑥ベルリン古楽アカデミーで管弦楽組曲2番4番

 スウィングするバッハ。本当に楽しかった。

⑦ウェスペルウェイのチェロで無伴奏組曲3番4番

 ナントでよくなかったウェスペルウェイに感動した。

⑧リチェルカール・コンソート、ピエルロの指揮でライケン、ブクステフーデ、ゴルトベルクの作品。

 ピエルロの弾くバッハのヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタが特に良かった。

⑨鈴木雅明指揮、バッハ・コレギウム・ジャパンで「ヨハネ受難曲」。

 日本のバッハ演奏の水準の高さを示した。

⑩ビオンディ指揮、エウローパ・ガランテでヴィヴァルディの『四季』。

 勢いのある『四季』。

 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

『マクベス夫人』は新国立の歴史上で最高!

 新国立劇場の『ムツェンスク郡のマクベス夫人』は、疲れが吹き飛ぶような鮮烈な舞台だった。昨年だったか、ヤンソンス指揮、マルティン・クシェイ演出の、エヴァ=マリア・ウェストブロックがカテリーナを歌ったアムステルダム音楽劇場のDVDを見て、そのすごさに圧倒されたが、それにも劣らない。

 96年、ゲルギエフが来日して、この『ムツェンスク郡のマクベス夫人』とその改訂版である『カテリーナ・イズマイロヴァ』(ソ連当局に激しく非難されて、ショスタコーヴィチは改訂した)の両方を上演し、私はその両方を見たが、それをしのぐ迫力の演奏だった。

 指揮のミハイル・シンケヴィチがいい。この指揮者については、これまでまったく知らなかった。鋭いながらも、力感があり、ぐいぐいと観客を引き込む。リチャード・ジョーンズの演出も素晴らしい。1960年代(ショスタコーヴィチが生きた時代)に移しての演出だが、違和感はない。ちゃんと服を着たままだが、エロス爆発。監視する他者の冷たい視線を象徴するかのような群集の使い方もおもしろい。人間同士の濃密な関係と、それに反するような無機質な存在(テレビ、ごみ)のコントラストも鋭い。

 歌手も脇役にいたるまで素晴らしいと思った。カテリーナを歌うステファニー・フリーデ、セルゲイを歌うヴィクトール・ルトシュク、そしてボリスを歌うワレリー・アレクセイエフの3人の外国人勢ももちろんさすが。内山信吾、高橋淳、出来田三智子、妻屋秀和、初鹿野剛、二階家洋介、森山京子がめだった。

 こんなに充実した上演は、めったにないのではないか。先日の『ワルキューレ』も良かったが、その比ではない。私は新国立劇場の熱心なファンではない(イタリアオペラはあまり見ないので)が、これは新国立市場に残る名演ではないか。私はずっとわくわくし、どきどきして、興奮しっぱなしだった。

 実は、このオペラ、私はかなり好きだ。73年の『カテリーナ・イズマイロヴァ』の二期会による日本初演も見ている。CDも何種類か持っている。こんな優れた上演が日本で見られるとは思っていなかった。

 それにしても、ほかのロシアオペラも上演してほしいものだ。ショスタコーヴィチの『鼻』も素晴らしいオペラだ。プロコフィエフも『戦争と平和』や『三つのオレンジへの恋』はもちろん、『炎の天使』や『賭博者』もおもしろい。これらを、今回のレベルで見られたら、どんなに幸せだろう。

 ラ・フォル・ジュルネといい、今回の『マクベス夫人』といい、この5月は音楽的に最高に充実している。

 落ち着いたら、お遊びで「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」のベストテン・コンサートを決めたいと思っている。

| | コメント (4) | トラックバック (1)

三越本店のミニコンサートに出演

 都内ホテルに4泊して、ラ・フォル・ジュルネの後に、興奮が醒めないまま、三越でのミニコンサートの仕事をして、先ほど帰ってきた。

008

 

ミニコンサートというのは、母の人にちなんだ「樋口裕一の母子で聴く知性を高めるオペラコンサート」というもの。私がしゃべって、日本声楽界の若手ホープであるバリトンの枡貴志(ます たかし)さんと、ソプラノの國光ともこさん、ピアノの石野真穂さんに演奏してもらった。

 曲目は、『フィガロの結婚』から「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」「恋とはどんなものかしら」。そして、『フィデリオ』からピツァロのアリア「今こそチャンスだ」。そして、アンコールに『メリー・ウィドウ』のワルツ。

 「知性を高める」というタイトルであるからには、シュトラウスかワーグナーかベルクあたりにしたかったが、それでは母子が楽しめるものにはならない。そこで、「同じような圧制と戦う革命精神を扱っていても、モーツァルトとベートーヴェンはこんなに違う。それを楽しみながら理解して、物事を考えることが、歴史の理解にもつながり、知性を高めることになる」という、ちょっと苦しいこじつけで話をした。

 とはいえ、私が知性を身につけたのは、実にそのようにしてだったので、もちろん、これはウソではない。

 が、何はともあれ、歌の素晴らしさに多くの人が圧倒されたことと思う。私としては、何らかの口実を作って、多くの人にクラシックを聞いてほしいのだ。

 枡さんとは、かなり話をした。1980年生まれというが、なかなか研究熱心で、たくさんのCDを聞いている様子。声も素晴らしいので、きっとすぐに日本を代表する歌手になるだろう。國光さんも、容姿もいいし、声も美しい。この方もすぐに広く知られる存在になるだろう。本当に楽しみだ。

Cnst

 このようなコンサートを時々している。5月16日には藤沢市民会館で、私の監修で、ギターの荘村清志さん、フルートの山形由美さん、ソプラノの天羽明惠さんに演奏してもらう「音楽による世界紀行」と題したコンサートを行う。そこでも話をする予定だ。

 このようなコンサートをしながらいつも思うのは、「もし、オレが客だったら、おっさんの話なんか要らないから、さっさと音楽を聞かせろと思うだろう」ということだ。そう思うと、私が上手でもない話をするのを大変申し訳なく思う。が、私の話を喜んでくれる人もいるらしい。時々、そういってくれる人がいる。それを支えに、話をすることにしている。

 そのうち、ラ・フォル・ジュルネの総まとめをしようと思っている。明日から、大学の授業が始まる。音楽三昧の天国のような日が終わって、現世に戻らなくてはならない。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

ラ・フォル・ジュルネ最終日報告

 感動と疲労でいっぱいになって、ホテルに戻ってきた。今日は8つのコンサートを聴いた。実に充実していた。3日で25のコンサートを聴いたことになる。

最終日のコンサートの報告をメモする。同時に、多くの人が疑問に思っているであろうネマニャが4台のヴァイオリンに加わらなかった真相についても、私の知っている限り、報告する。

・ビオンディ指揮、エウローパ・ガランテでヴィヴァルディの『四季』。

 かつてイ・ムジチの人畜無害的な「四季」が全盛期だったころ、アーノンクール(当時、ハーノンコートと呼ばれていた)の演奏を聴いて度肝を抜かれた記憶がある。あれから30年近くたつ。もはや、疾風怒濤の「四季」のほうが当たり前になったようだ。

 見事な演奏。色が濃いとでも形容するか。音に、そして音楽に厚みがある。ただ、ビオンディを含めて、ガランティ(優雅)どころか、むさいおじさんたちだと思った。

・リチェルカール・コンソート、ピエルロの指揮でライケン、ブクステフーデ、ゴルトベルクの作品。バッハのヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタなど。これは文句なく凄い! ピエルロノヴィオラ・ダ・ガンバの力量たるや恐るべし。ライケン、ブクステフーデ、ゴルトベルクの曲も楽しめた。これまで、私はバッハ以降の音楽ばかり聴いてきたが、バロック音楽の世界に踏み出しそう・・・

・コルボ指揮、ローザンヌ声楽・器楽アンサンブルで、ミサ曲ト短調など。ヴェルメイユのソプラノ、その他。

 大変見事な演奏。ただ個人的には、リチェルカール・コンソートのほうが好きだ。

・ウェスペルウェイのチェロで無伴奏組曲3番4番

 ウェスペルウェイは、ナントでも評判だったので、聴いてみたが、ナントの演奏についてはまったくよくなかった。無理やりいじくり回している印象を受けた。自然な流れがなく、恣意的だった。が、CDはすばらしい。東京で聞きなおしてみようと思った。

 ナントがウソのようにすばらしい演奏だった。確かに、「草書体」のチェロだ。だが、ニュアンスがしっかりと示され、遊び心とメリハリの中に、まじめな精神がのぞく。自由に戯れているように見えて、要所要所でまじめになる。すばらしい演奏だった。昨日聴いた堤剛と正反対の演奏。これはこれですばらしい。

 ナントでひどく聞えたのは、遠くの席だったせいかもしれない。このニュアンスは、音質のよくないところで伝わらないと思った。

・ベルリン古楽アカデミーで管弦楽組曲2番4番

 スウィングするバッハ。まるで大学教授のようなまじめな顔をしたドイツ人たちが、身体を揺らしながら、実に勢いのある楽しい音楽を演奏してくれる。心の奥底から楽しくなる。ナントでも聴いたが、また味わいたくなった。バッハって、こんなだったかもしれない!と思う。本当に楽しい音楽だ。

・工藤重典のフルート、中野振一郎のチェンバロでフルートとオブリガート・チェンバロのためのソナタ1番・2番(偽作とされているもの)、フルートと通奏低音のためのソナタ第2番。

 ちょっと期待はずれ。工藤さんについては1970年代の聴いている錯覚を覚えた。センチメンタルで流麗なバッハ。中野さんは、妙に力が入って素直の音楽が流れないように、私には思える。ロマンティックに捉えすぎているのではないか。

 

・発表では、シュポルツル、ネマニャ・ラドゥロヴィチ、クラマジラン、南紫音のヴァイオリンでヴィヴァルディの4つのヴァイオリンのための協奏曲。次に、デゼールとケフェレク、ビジャーク姉妹で、それをバッハがチェンバロ用に編曲したものをピアノ版で演奏されることになっていた。伴奏は、カントロフ指揮のシンフォニア・ヴァルソヴィア。

ところが、オケとともにネマニャが現れて「四季」の中の「春」を演奏し始めたので、びっくり。もちろん、すでに何度か聞いたとおり、すさまじい演奏!

そして、4台のヴァイオリンに現れたのは、シュポルツルとクラマジランと南紫音と、シンフォニア・ヴァルソヴィアのコンサートマスター。見事な演奏だった。とりわけ、シュポルツルの音がすばらしい!

ピアノ版もおもしろかった。ただ、ピアノが4台で演奏されると、ピアノの音が多すぎてうるさい感じがする。何度も聴きたいとは思わなかった。

しかし、それにしても、何があったのか。なぜ、ネマニャは4台のヴァイオリンに加わらなかったのか。早速、関係者に探ってみた。

 私が耳にしたところによると、「ネマニャが間違えて、ほかのパートの練習をしてきていた。間に合わなかったので、弾きなれている『四季』を弾いてもらった」ということだった。

 もちろん、これをそのまま鵜呑みにできない。ネマニャほどのヴァイオリニストであれば、初見でヴィヴァルディくらい弾けるだろう。1時間か2時間もあれば完璧だろう。ヴァルソヴィアのコンサートマスターができたのだから、ネマニャにできないはずがない。これはネマニャの口実であって、ほかの3人とあわせられないと思ったのだろう。

 そりゃそうだと思う。ネマニャがあの感じで弾くと、ほかの人は困ってしまう。まず音が合わない。ネマニャの賢い選択だと思う。もしかしたら。マネージャーか誰かの入れ知恵かもしれないが。

・コルボ指揮、ローザンヌ声楽・器楽アンサンブルで、マタイ受難曲。

 最高の演奏だった。最高の音楽だった。まず『マタイ』という曲がすばらしい。3時間があっという間だった。コルボの指揮の、なんとやさしくやわらかいこと。祈りの心にあふれている。

 ナントのマタイは、独唱者がよくなくて、感動できなかった。コルボのマタイのCDも、私がベストの演奏に入れないのは、独唱陣があまりに弱いからだ。だが、日本でも公園はほとんど入れ替わっている。とりわけ、エヴァンゲリストとソプラノがすばらしい。ソプラノのアリア「愛のために」では涙が出てきた。

 よく調べていないが、アルトはナントと同じ歌手かもしれない。ナントでは、アルト歌手はほかの歌手に比べてよいほうだったが、今日は一番劣っていた。私は、「マタイ」で最も好きなのはアルトのいくつかのアリアなので、その点は残念。だが、それをのぞけば、本当に満足できた。

『マタイ受難曲』という、人類の宝を心行くまで味わうことができた。

 ともあれ、今年のラ・フォル・ジュルネは終わった。

 来年は、『ショパンとその周辺』というテーマだという。

 困った! 私はショパンはかなり苦手だ。嫌いということはないが、少しもおもしろいと思わない。20分も聞くと飽きてしまう。来年は、お休みということにするか。それとも、これを機会にショパンの勉強をするか・・・

| | コメント (8) | トラックバック (0)

5月4日(2日目)ラ・フォル・ジュルネ報告

 今日は8つのコンサートを聴いた。昨日とあわせて、17ということになる。メモ代わりに感想を書いておく。

・カントロフ指揮、シンフォニア・ヴァルソヴィアでブランデンブルク3番。村冶佳織のギターが加わって、チェンバロ協奏曲2番と5番(そういえば、曲目変更があったような?)。

 実は私は鍵盤楽器をほとんど聴かないので、チェンバロ協奏曲も詳しくない。コープマンのCD4枚組みをかつて何度か聴いたくらい。ギターで演奏されると、別の曲に思える。速い楽章では物足りないが、第二楽章などの緩徐楽章は実にいい味が出る。が、そのくらいしかわからない。が、ともあれ、とても満足した。

・リチェルカール・コンソート、フィリップ・ピエルロの指揮で、ミサ曲ト短調とマニフィカート。本当にすばらしい! ナントでも聴いたが、改めて聴きたくなった。祈りの心にあふれている。柔らかい音、心の奥に染み入る音楽。歌手もみんないい。とりわけ、ソプラノのマリア・ジェオハネ、バスのステファン・マクラウドがすばらしい。最高の演奏だと思った! ピエルロは、さえないおじさんに見えるが、どうしてどうして、凄い人だ!しばらく感動に浸っていた。

・鈴木雅明指揮、バッハ・コレギウム・ジャパンで、カンタータ78「イエスよ、わが魂を」、30「喜べ、救われし群れよ」。ソプラノはミールズ。バスは前の回と同じマクラウド。これも大変よかった。バッハ・コレギウム・ジャパンの演奏は、コルボの演奏と同じで、オケと合唱はすばらしいが、しばしば独唱が弱い。が、今回の演奏は、独唱陣がしっかりしているので、安心して聴ける。歌手さえよければ、世界最高レベルの演奏をする団体だ。

・ピエール・アンタイの指揮、ル・コンセール・フランセでカンタータ33番「ただ汝一人に、主イエス・キリストよ」と93番「ただ愛する神の摂理に任せ」。キャサリン・フーグをはじめとする歌手も見事。全体的にとてもよい演奏。ただ、私の感銘度は高くない。音楽的には見事だが、祈りの心がない。カンタータは、もっと祈りの心がほしい。その点、リチェルカール・コンソートのほうがずっと感動する。

 ところで、ル・コンセール・フランセとリチェルカール・コンソートのメンバーがダブっているのは、なぜだろう。東京公演のみの特別なことなのか? 非常に気になって、事情通の数人に聞いてみたが、わからないとの答えだった。

・ヘンドリックスのソプラノ。テンスタムのメゾソプラノ、ドロットニングホルム・バロック・アンサンブル。ペルゴレージの「スターバト・マーテル」。

 大喝采を浴びていたが、私はやや疑問符をつける。やはりこれも、リチェルカール・コンソートのCDなどと比べると、祈りの心に欠けている。それに、ヴィブラートの強いヘンドリクスの声に、私はかなり違和感を覚える。黒人霊歌にふさわしい声だ(もちろん、これは人種差別ではない)! ヘンドリクスはかなり前に声を失った。その後、「語り」調の歌唱法を身につけて乗り切ろうとしているように見える。シューベルトなどでは時々成功するが、ペルゴレージには無理があるように思える。 悪くはないが、心の底からは感動できなかった。オケも、もう少しペルゴレージの深いところを表現してほしいと思った。

・イド・バル=シャイのパルティータ1番と、フランス風序曲ロ短調。私の好きな演目がなく、ぶらぶらする場所もないので、大変失礼ながら、時間つぶしに聴いた。なかなかよかった。かなり自由に弾いている。こんなバッハもあっていい。あまり知らない曲なので(鍵盤曲は、実はほとんど知らない!)、むしろ自由に楽しめた。

・堤剛の無伴奏チェロ組曲1・4番。

 実は、先日出たCDを聴いて退屈だった。だから、本番でも退屈なのではないかと心配していた。が、ナマで聴くと、まったくそんなことはない。地味で、観客を唸らせるような工夫のまったくないチェロだが、それが実にいい。本当に魂の奥底から演奏している素直な音楽だということがよくわかる。まったく誇張がない。しかし、音楽に人生が反映しているのを感じる。聴いているうち、「ああ、この人は、若いころから脚光を浴びて順風満帆の人生に見えるけれど、それなりに苦しいことがあったんだなあ」と思った。人生の苦渋のようなものが聞えてきた。これもバッハの音楽に特有の現象だ。アンコールに無伴奏組曲6番のガヴォット。あまりに地味なコンサートにしたことを反省したのか、外面的な音楽をあえて作ってくれた。これもおもしろかった。

・鈴木雅明指揮、バッハ・コレギウム・ジャパンで「ヨハネ受難曲」。ひとことでいって、とてもよかった。オケと合唱がすばらしい。独唱は、ソプラノのドロテー・ミールズとバスの枕独活がすばらしいが、あとはちょっと弱い。が、これだけ歌ってくれれば、十分に感動する。昨日同様、満足してホテルに戻った。

| | コメント (11) | トラックバック (0)

5月3日ラ・フォル・ジュルネ報告

今、夜中の12時。23時15分までのコンサートを終えてホテルに戻り、風呂を浴びたところ。忘れないうちに、5月3日のラ・フォル・ジュルネのコンサートについて、メモ書きを示しておく。

今日は9つのコンサートを聴いた。

・指揮はイヴ・ウィンシー。香港シンフォニエッタ。渡辺玲子、ネマニャ・ラドゥロヴィチのヴァイオリンでバッハのダブル・コンチェルト。高木綾子のフルート、中野振一郎のチェンバロが加わって、ブランデンブルク5.管弦楽組曲3。

 ネマニャが圧倒的。渡辺さんもしっかり弾いているのだが、ネマニャに持っていかれてしまう。びしっと決まった音程。完璧な技巧。そして、メリハリのついた激しくも美しい音楽。申し分ない。ただひたすら心をえぐられる。

・オーヴェンニュ室内管弦楽団、ベーク指揮。シュポルツルのヴァイオリンで、ブランデンブルク6番とヴァイオリン協奏曲ホ長調。

 プレコンサートでのシュポルツルの出来があまりよくなかったので、気になっていたが、B7レベルのホールではびっしり決まって、見事な演奏。ネマニャとは違った、きわめて正統的でしっかりした音。誇張のない音楽。しかし、実に自由で自然。天空を書ける思いがする。

 コンサートの後、音楽ジャーナリストの渡邊謙太郎氏にくっついて、シュポルツルのインタビューに顔を出した。「プレコンサートではあまり気乗りしないように思えたが、さっきはすばらしい演奏だった。どう違いがあるのか」と意地悪な質問をしてみた。「ホールも指揮者も違う。今日のほうが自分の音楽を作れた」と答えてくれた。ネマニャについてもたずねてみた。ヨーロッパでバッハのダブルコンチェルトを共演したことがあるとのこと。「とてもよいヴァイオリニストだと思う」という答えが返ってきた。

・カントロフ指揮、シンフォニア・ヴァルソヴィア、ネマニャ・ラドゥロヴィチでヴィヴァルディの『四季』

 いやはや、ネマニャのすごいこと!プレコンサートのとき以上に、ものすごい。四季が四季に聞えない。もっともっと深く鋭く現代的な音楽に聞える。言葉をなくす。

・ピエール・アンタイ指揮、ル・コンセール・フランセの演奏で、管弦楽組曲の1番と2番。2番は兄さんのマルク・アンタイが加わった。これも見事な演奏。ナントでは、マナーの悪い聴衆にいらだったアンタイを聴いて、一本調子な印象を持ったが、今日はそんなことはない。しっかりと本質を捉え、じっくりと聞かせてくれた。ただ、ベルリン古楽アカデミーを聞くと、ちょっと物足りなく感じるのも事実だ。

・徳永二男のヴァイオリンで無伴奏ソナタ2番とパルティータ3番。私には練習不足に思えた。それともシゲティを模範としているのだろうか。私の趣味からすると、もっときれいな音で、余裕のあるテクニックで弾きこなしてほしい。

・有田正広のフラウト・トラヴェルソ、グラットンという20歳そこそこの若い女性のチェンバロでフルートとチェンバロのためのソナタ3番と1番、そして私の知らないチェンバロの曲。フラウト・トラヴェルソは音が小さいので、聴くのもくたびれる。もう少しチェンバロも音を加減するべきったのではないか。

・寺神戸亮のヴィオロンチェロ・ダ・スパッラで無伴奏チェロ組曲1番と3番。何はともあれ、初めてナマのヴィオロンチェロ・ダ・スパッラ(いってみれば、肩掛けチェロ)を聴いた。不思議な音。懐かしい音といっていいかもしれない。雰囲気がある。寺神戸産の技術もしっかりしている。おもしろく聞いた。が、終わりになると、「やはり、チェロのほうがいいな」と思ってしまった。

・ヴァシリエヴァのチェロ、勅使川原三郎のダンスで、無伴奏チェロ組曲2番と5番。短調の曲の組み合わせ。若い女性であるヴァシリエヴァには、この2曲が続くのは重すぎたように思う。とりわけ5番は難しい曲だ。少し、もてあまし気味に思えた。勅使川原のダンスについては、はじめの10分くらいはおもしろいと思ってみていたが、それを過ぎたころから、「音楽だけのほうがいいな」と、万事に保守的な私は思い始めた。

・オーヴェンニュ室内管弦楽団、ベーク指揮。ヴィラ=ロボスのブラジル風バッハ9番とネマニャ・ラドゥロヴィチが加わって、ヴァイオリン協奏曲2番ホ長調と、最後に1番イ短調。

 あまりのすばらしさに言葉をなくした。凄いときのネマニャ! 息を呑むようなスリリングな展開。美しい音、激しい音。観客の心をひきつけて離さない。

 私がネマニャを「発見」したのは、一昨年のナントだった。まだ、日本人で彼について騒いでいる人はいなかった。多くの日本人にとってネマニャは未知の存在だった・

そんなとき、知り合いになったフランス人の女性ジャーナリストが、「さっき、凄いヴァイオリニストを聴いてきた。観客がみんな魅入られたように、虜になった。デモーニッシュな音楽だった。ぜひ、聴いてみてほしい」と教えてくれた。ナントのラ・フォル・ジュルネを取材していた日本人のグループにそれを話して、何人かで次のコンサートを聴きに行った。日本人全員がノックアウトされた! そこから、日本におけるラ・フォル・ジュルネにおけるネマニャ旋風が始まった! 私はネマニャの真価を日本に伝えた一人だと自負している!

 ネマニャとは何度かインタビューで顔を合わせた。「あなたの音楽は、対話だ。作曲家と対話し、観客と対話している。出来合いの音楽を演奏するのでなく、直接的に、私たちの心に訴えかけてくる」と彼に言ったら、とても喜んでくれた。が、その後、「あなたの音楽は、ロマン派や民族主義の音楽にはぴったりだろう。だが、ベートーヴェンやブラームスでも同じようにすばらしいのか疑問が残る」といったら、むっとした顔をされた。「だったら、来月にカーネギーホールでベートーヴェンを演奏するので、聴きにきてくれ」といわれた。

 ネマニャは凄い。シュポルツルも正統派ですばらしいが、やはりネマニャは凄い。

 そう思いつつ、寝ることにする。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

デッサウの『トリスタン』は、デッカーに感心!

 明日からラ・フォル・ジュルネでバッハ漬けになる。その前に、タワーレコードで見つけて買ってきた『トリスタンとイゾルデ』のDVDを見た。

 ゴロー・ベルクの指揮、ヨハネス・フェルゼンシュタインの演出(かの大演出家ヴァルター・フェルゼンシュタインの息子さんだという)によるデッサウ・アンハルト劇場の上演。

 デッサウ・アンハルト劇場といえば、ラッパライネンの歌ったサロメを見て、音楽的によりは、あまりに見事な姿態に圧倒された記憶があるが、東ドイツの場末のオペラ劇場でしかないはず。だから、大して期待せずに見始めたが、どうしてどうして。

 トリスタンを歌うリチャード・デッカーがいい。丁寧な歌いぶり。ちょっと迫力不足で、視覚的にちょっと太りすぎているが、声は美しく、表現力も豊か。そのうち、ぢ表的なワーグナー歌手になるだろう。

イゾルデを歌うイオルダンカ・デリロヴァは、オペラ歌手としては十分に「美人」で通用する。声で大きさも見事。最後まで大声で歌いきる。小柄に見えるが、たいしたバイタリティだ。ただ、大声で歌うことばかり考えている。小さな声の表現力がまだまだ。どうしても一本調子になってしまう。課題は多いが、次代のイゾルデとして大きな期待を持てる。

 マルケ王を歌ったマレク・ウォジェコウスキの音程が怪しい以外は、クルヴェナールのウルフ・パウルセンもブランゲーネのアレクサンダー・ペテルザマーもなかなかのもの。

指揮もところどころで一本調子になる。デリロヴァと同じように、がなりたてようとする傾向を感じる。が、最後にはきちんとまとめて、十分に感動させる。

演出はどうということのないオーソドックスなもの。あのフェルゼンシュタインの息子にしては、かなりおとなしい。第二幕に、ドルメンのような石の柱があり、そこでトリスタンとイゾルデが逢引きをし、セックスを思わせる動きをするのが、少し目を見張らせるくらい。石の柱は墓のようなものだろうから、エロスとタナトスの合体を連想させる。

もちろん、バイロイトやベルリンに比べれば、やや劣る上演だろう。だが、デッサウでこのようなレベルの上演が行われているなんて! レコード芸術をまねてこのDVDを評価すると、「準推薦」ということになるだろう。

明日の朝からのラ・フォル・ジュルネに備えて、今、銀座のホテルに泊まっている。今からわくわくしている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ネマニャ・ラドゥロヴィチの「対話する」ヴァイオリンが圧倒的!

 いよいよ、明日からフォル・ジュルネ・オ・ジャポンが始まる。子どものようにわくわくしている。今晩ホテルに入って、泊り込んで、朝から夜中まで音楽三昧ということになる。今のところ、24のコンサートを予定している。

 私はこの音楽祭の「アンバサダー」ということになっているので、昨晩は前夜祭に出席。レセプションで、この音楽祭のおかげで知り合いになった音楽関係の方々と話をし、かなりおいしい食事をつついた後、スペシャルコンサートを聴いた。

 プログラムの前半は、これまでのラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンを振り返るということで、ベートーヴェンの「運命」の第一楽章、モーツァルトの協奏交響曲の第一楽章、ドヴォルザークの「新世界」の第四楽章、シューベルトの「未完成」の第二楽章を、すべて小泉和裕指揮の東京都交響楽団で。

 楽章ごとに少しずつというのは、演奏家にとっても気合が入らないだろう。残念ながら、名演奏といえるものではなかった。とりわけ、協奏交響曲はリハーサル不足がありあり。

 後半はカントロフの指揮するシンフォニア・ヴァルソヴィアの演奏で、今年の演目から2曲演奏された。前半と打って変わって、ぴしりとしまった演奏。指揮者としてのカントロフもなかなかのものだ。ネマニャやシュポルツルといった若手ヴァイオリニストと共演すると、ヴァイオリニストとして対抗心が生まれるのではないかと思うのだが、そうでもないのだろうか。

 まず、ネマニャ・ラドゥロヴィチのヴァイオリンによるヴァヴァルディの「四季」のなかの「春」と「夏」。圧倒的! 相変わらずの、ものすごい演奏! 感情の起伏の激しい、メリハリの激しい音楽なのだが、そのような演奏をするほかの演奏家たちと違って音楽の本質をぐさりと刺してくる。まさしく、観客と対話し、音楽と対話し、共演者と対話しながら、音楽を作っていくのがよくわかる。彼の場合、小ホールでも細かいニュアンスが伝わるが、大ホールでも大きな身振りの音楽が十分に伝わる。

 最後に、ヴァイオリストがシュポルツルに交代して、バッハのヴァイオリン協奏曲ホ長調。これも見事な演奏。ただ、彼は小ホール向きなのではないかと思った。ナントで聴いた時のような鋭くて細かいニュアンスが、5000人以上入る東京国際フォーラムのAホールでは伝わらない。大ホールで聴くと、当たり前の名演奏に聴こえる。3日からの本番では、小ホールでの演奏を聴きたい。

 ともあれ、後半の演奏は素晴らしいものだった。

 明日からの本番が楽しみだ。ナントで聴いて感動した演奏ももう一度聴きたい、ナントではコンサートが重なったために聴けなかった演奏も聴きたい、日本でしかやらないコンサートも聴きたい。マタイやヨハネやロ短調ミサなどの長大なものも聞き逃せないし、同じ時間帯に行われる小ホールのものにも気が引かれる。そう思うと、またまた今年も苦渋の選択の連続になってしまった。

| | コメント (7) | トラックバック (0)

« 2009年4月 | トップページ | 2009年6月 »