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本巣市民文化ホールまで足を運んだ!

 先日、ギターの荘村清志さん、フルートの山形由美さんと仕事をした。その際、岐阜県の本巣市でお二人がコンサートを開かれると知って、ぜひ聴きたいと思った。山形さんが快く招待してくれた。月曜日に京都に通っているので、そのついで土曜日に岐阜でコンサートを聴くのもいいだろうと思ったのだった。

 そんなわけで、今朝、家を出て本巣に向かった。軽く考えすぎていた! 京都に行く途中、ちょっと寄り道をすればいいのかと思っていたら、そんなことはない。岐阜駅で降りて、バスに乗って40分ほどかかった。前もって電話で降りる場所を聞いていたつもりだったが、聞き間違えたらしく、行き過ぎてしまった。リバーサイド・モールで降りて、タクシーを電話で呼んで後戻りした。遠路はるばるやってきながら、間に合わないのではないかと焦った。住んでおられる方には申し訳ないが、本巣市というのは、なんと辺鄙なところにあるんだろう!

 本番前に、お二人に挨拶してから、演奏を聞かせていただいた。前半がクラシックの名曲、後半が映画音楽。

 自分の仕事と関係なく、観客席で聞くのは実に気分がいい。堪能できた。荘村さんの「禁じられた遊び」は、これまで荘村さんと仕事をするたびに聞いてきた。だが、これまでは舞台袖から、自分の出番を気にしながら聴くばかりだった。観客席でじっくり聞くと、何とすばらしいことか! しみじみとした情感がにじみ出ている。通俗名曲だが、それが新鮮に響いた。涙が出そうになった。

 山形さんの「月の光」は実にエレガント。しかも、人生の機微がフルートに現れる。これまで、山形さんのフランスものはあまり聞かなかったように思う。が、実にすばらしい。今度お会いしたら、ぜひフランスものをたくさん演奏してくれるように頼んでみよう。

 私は「クラシック通」だ。だから、名曲集や映画音楽の混じるコンサートをバカにする傾向があった。が、今回来て見て、お客さんが心から喜んでいる様子がよくわかる。こんなコンサートは絶対に必要なのだ。そして、これらの曲は、バッハやベートーヴェンとは別の意味で、すばらしい。マラン・マレの「ラ・フォリア」のよさも初めて知った。ピアソラの「1900年ボルデル」という曲、なかなかの名曲だと思った。これも初めて知った。

 ただちょっとショックだったのは、荘村さんと山形さんのお二人がおしゃべりを交えて演奏をなさったこと。しかも、そのおしゃべりがうまい! 先日、藤沢でのコンサートでは、このお二人と天羽明惠さんの演奏を、私の進行によって聴いてもらったのだったが、「このオレのしゃべりがいなくても、いや、むしろないほうが、ずっと楽しいコンサートになっているではないか!」と思った。「いったい、オレの存在価値はなんだろう?」とまで考えていた。

 ただ、聞き進めるうち、少しだけ気を取り直すこともできた。私なりの存在価値もありそうなことに気づいた。次回、同じような仕事をするときには、もう少しその点を意識しようと思った。(どんな存在価値かは、ここでは明かさない。もう少しじっくり考えてから、本番で試そう!)

 帰りは、タクシーで穂積駅まで出て、米原経由で京都に出た。久しぶりの旅行気分だった。列車旅行は楽しい。列車で旅行をすると、ぼんやりした時間を過ごすことができる。何者でもない自分に戻れるとでも言うべきか。

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多摩大コンサート、大成功!

 多摩大の樋口ゼミ主催による新居由佳梨さん(ピアノ)と江島有希子さん(ヴァイオリン)のコンサート、名付けて「多摩大生のためのコンサート・あらえじカンタービレ」が大成功に終わった。多摩大学内の101教室での演奏に、学生、教職員のみなさんが聞きに来てくれた。

 第一部は、エルガーの「愛の挨拶」、ショパンの「別れの曲」、シューベルトの「アヴェ・マリア」、プッチーニの「誰も寝てはならぬ」など、親しみやすい曲。第二部は、リストの「ラ・カンパネッラ」とワックスマンの「カルメン幻想曲」という超絶技巧の曲を2曲。そして、第三部はベートーヴェンの「春」と「クロイツェル」のそれぞれ第一楽章。

 ところが、12時10分にチャイムが鳴るのを思い出して、「クロイツェル」の途中でチャイムに邪魔されるのを避けて、時間調整のためにショパンの「英雄ポロネーズ」を特別に新居さんに弾いてもらった。突然の指名だったのに、しっかりとした感動的なショパンになっていたのはさすが。

 いずれの曲も、みごとだった。「ラ・カンパネッラ」と「カルメン幻想曲」、そして、「クロイツェル」に特に感動の拍手が飛んでいるのを感じた。新居さんのノーブルで澄んだ音、江島さんの鋭く、しかも深い音。しかも、二人とも構成がしっかりしているので、音楽に対する深い感動を覚える。

 授業中のコンサートだったので、聴きに来た学生の数はそれほど多くなかったのは残念。が、学生たちは私語を交わすでもなく、退屈そうにするわけでもなく、真剣に聞いてくれた。感動して拍手している様子が手に取るようにわかった。

 そして、アンケート結果を見ると、ほとんどの人が感動を書き記していた! 「すごかった」「すごいとしかいえない」「素晴らしかった」という言葉を多くの人が書いている。「今日のコンサートはどうでしたか」という評価に対して、ほとんどに人が5点満点をつけている。4点などをつけた人も少数いたが、それも「外がうるさかった」などの要因を減点材料にしているものだった。

「進行役がすごくじゃまに感じた。次は別の人にしてほしい」という意見が書かれていた。進行役というのは私のことだ! ちょっとショック! が、演奏に感動してくれれば、それが一番。進行については、次回、どうするべきか考えよう。

 いずれにせよ、レベルの高いクラシック演奏をナマで聴いたら、若者の多くが深く感動するという確信を改めて強めた。もっとクラシックに触れる機会を作るのが、私たちの役目だと思う。

 これもすべて、二人の演奏家、そして、曲目選定をし、プログラムやポスターを作り、さまざまな手配をしたゼミの諸君のおかげだ。ゼミ生たちを誇りに感じた。

046  左の写真は、コンサートの後、ゼミの学生が新居さんと江島さんを囲んで撮影したもの。向って私の左にいるのが新居さん、私の右前にいるのがゼミ長の池田さん、その右隣が江島さん。

 5時限目は、ゼミの時間だった。反省会をした。同時に、今回のコンサートをもっと拡大して、多摩大企画の「あら・えじカンタービレ」を全国に売り出す方法について検討した。着々と実行に移すつもり。

 なお、4時限目には、特別講師の高畠真由美さんに来ていただいて、ブランディングコーチをやっていただいた。これも感動ものの講義だった。これについては、改めて書く。

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コンサートが続く!

 昨日(6月25日)、日下紗矢子とアレッシオ・バックスのデュオを東京文化会館賞ホールで聴いた。

 日下さんは、ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団のコンサートマスターに就任して話題になっている若手ヴァイオリニストだ。ピアノのバックスもエヴリー・フィッシャー賞を取って注目を浴びているらしい。音楽ジャーナリストの渡辺健太郎さんに誘われて聴いてみた。

 曲目は前半がブラームスのスケルツォ・ハ短調とヴァイオリン・ソナタ第一番「雨の歌」。丁寧な演奏。弓を全体に使ってスケール大きく弾く。ニュアンスもしっかりしているし、音程も決まっている。ただ、やや平板。ブラームスは渋い曲なので、どうしても単調になってしまう。もう少し多様な表現を身につけると、もっとすごくなるだろうと思った。とはいえ、かなりの水準の演奏であることは間違いない。私は十分に感動した。

 後半は、バルトークのルーマニア民俗舞曲。実は、私にはこれはあまりおもしろくなかった。民族の味わいが薄かった。民族的な曲はもう少し思い切ってメリハリをつける方が私の趣味に合う。最後にエネスコのヴァイオリン・ソナタ第三番。これはとてもよかった。とりわけ第三楽章は、エネスコ特有の切れのよい音をしっかりと出して、小気味がいい。テクニックも第一級。かなり高揚した。

 木曜日は多摩大学で、樋口ゼミ主催の、ピアノの新居由佳梨さんとヴァイオリンの江島有希子さんのデュオコンサート「あら・えじカンタービレ」を開く。昨日のコンサートよかったが、私たちのコンサートも、これに負けない出来になるはずだ。そうであることを祈りたい。明日のことを考えると、落ち着かない。

 しかも、私たちのコンサートの後、私の「日本語表現法」の時間に、特別講師として高畠真由美さんをお招きして、「ブランディングコーチ」を行う。それも楽しみだ。

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ボリショイオペラよ、お前もか!

 昨日(6月24日)、東京文化会館で、ボリショイオペラによる「エフゲニー・オネーギン」をみた。その感想を少々。

 ワーグナー好きの私らしくないということで、しばしば友人に驚かれるが、「エフゲニ・オネーギン」は中学生のころから大好きなオペラだ。最初に買ったオペラ全曲盤がフルトヴェングラー指揮の「フィデリオ」、その次がオスカー・ダノン指揮の「エフゲニ・オネーギン」だった。多感な少年だった私は涙を流しながら、レコードを聴いたものだ(ついでに言うと、次に買ったのがベーム指揮の「コシ・ファン・トウッテ」、その次がカラヤン指揮の「ばらの騎士」だった)。

 今日の上演については、全体的にはきわめて満足。

 まず歌手陣については、すべての歌手がかなりのレベル。タチアーナを歌ったタチアーナ・モノガローナは、容姿も美しく、声も芯があって、なかなかいい。第三幕などかなり感動的。ただ、手紙のアリアはやや迫力不足だったのが残念。オネーギン役のウラジスラフ・スリムスキーについても、レンスキー役のアンドレイ・ドゥナーエフについても同じことがいえる。かなりいい。音程もしっかりしているし、表現力もある。が、最終的な爆発力がやや不足。あと一歩の表現力をつければ、最高レベルだと思った。グレーミン公爵を歌ったミハイル・カザコフについては、私は大いに満足。ラーリナと乳母はまずまず。

 指揮のアレクサンドル・ヴェルデルニコフには大いに好感を持った。叙情的で、実に美しくオケを鳴らす。とりわけ弦が美しい。このオペラ特有のやるせなさ、甘美さ、ものうげな感傷、そして孤独な雰囲気をよく出している。ただ、この人についても歌手たちと同じように、もう少し爆発力があれば、もっと感動的なのだろうが、それは無い物ねだりと言うものだろう。オケはかなりいい。こんなに美しい音を出すオケだったのかと驚いた。

 今回の上演でもっとも気になったのは演出だ。ついに、ボリショイオペラも、バイロイトなどと同じように、革新的な演出、まさしく「読み替え」の演出が始まったようだ!

 大きな丸テーブルがすべての幕にでてくる。そして、それを象徴的に用いて、タチアーナやオネーギンの心象風景を描く。たとえば、第一幕では、近所の人たちの和に入れない内気なタチアナをテーブルに入れない様子によって描く。第三幕では、貴族の中で孤立し、なじめないオネーギンを同じようにテーブルによって描く。それについては見事! まるでワイエスの絵を思わせるような静謐で美しい光と陰の描写も素晴らしい。

 もう一つ、この演出で特徴的なのは、「人がたくさんいるがゆえに孤独」「明るくにぎやかであるからこそ、悲しい」というレトリックをふんだんに用いていることだ。タチアーナの孤独を描くために、たくさんの人物を出して、そこに入り込めない様子を語る。レンスキーの悲しみを描くのに、大勢のパーティ客を登場させる。

 なかなかいいアイデアなのだが、これについては、時にうるさく感じた。もう少し加減しても、十分に伝わると思った。

 とりわけ、私が不満を覚えたのは、次の3つの点だ。ただし、もちろん、これは私の主観的な感想でしかないが・・・

 第一は、農民がでてこないこと。第一幕は、なによりもロシアの田舎の風景が魅力なのだ。そして、第一幕第一場と第三場の民謡風の合唱は、農民が歌うからこそ魅力的なのだ。ところが、今回の演出では、館にやってきた身なりのよい客に歌わせていた。それでは、このオペラの大きな魅力の一つである「田舎と都市」「地主と農民」という対比がでてこない。

 第二は、決闘が行われないこと。決闘を申し込んでやる気満々のレンスキーに対して、オネーギンはそれを止めようとする。そこで銃が暴発するという設定になっている。だが、それではこのオペラの最大の魅力がなくなってしまうではないか。私は「オネーギン」をなによりも決闘のオペラだと思っている。決闘のない「オネーギン」なんて、踊りのない「サロメ」や、合唱のない「第九」に等しいと私は思う。

 雪の中で決闘しなくていい。銃以外のものを使ってもいい。が、何はともあれ、決闘はしてほしい。

 第三の不満、それは第二幕にトリケが登場しないこと。トリケのアリアをなんとレンスキーが歌う! こんな演出は初めて見た。もちろん、トリケは副次的人物であって、このアリアもほとんど意味がない。タチアーナの家庭教師であるフランス人の余興の歌でしかない。だが、これは、余興であるがゆえに彩りを添えているのだ。それをレンスキーが歌うのは余りに不自然だ。

 きっと、レンスキーにトリケの陽気な歌を歌わせることによって、レンスキーの悲しみや怒りを強調したかったのだろう。だが、登場人物を変更することが演出に許されるのだろうか!

 演出についてはかなり保守的な私としては、この演出についてはかなり疑問を抱いた。

 幕間に、世界的ピアニストの児玉桃さん(仕事でご一緒したことがあるので、時々話をする)や音楽評論家の岡本稔氏(いつ行っても、コンサートで顔を合わせる!)と会って、少し立ち話をした。お二人にヨーロッパのオペラ事情を聞いて大いに参考になった。お二人は、今回の演出にかなり好意的だった。どうやら、ヨーロッパにしばしば出かけて、向こうのオペラに慣れた人には、今回の演出にさして違和感を持たないようだ。

 とはいえ、多少、演出に疑問を持ちながらも、何はともあれ、しっかりと感動して家に帰ったのだった。

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プレトニョフ指揮の『スペードの女王』に違和感!

 20日、教授会のあと、車でNHKホールに出かけて、ボリショイ・オペラの『スペードの女王』を見た(NHKホール付近は、「NHKの偏向」に反対する保守系の人たちのデモのために警戒が厳重だった)。かなりよかった。実は、しばらく前に見たラザレフ指揮のボリショイ・オペラの『オルレアンの少女』の歌手たちがよくなかったので多少心配していたが、杞憂だった。ボリショイ・オペラはレベルが高い!

 演出もおもしろかった。二階建ての舞台をうまく使っている。それが館にもなり、橋にもなる。光の使い方もセンスがいい。取り立てて独創的な解釈があるわけではないが、しっかりとチャイコフスキーの音楽に合っている。

 歌手陣もそろっている。エレツキー公爵を歌うアンドレイ・グリゴリエフが少し不安定だったが、ほかはレベルが高い。リーザ役のタチアーナ・エラストーワは、ヴィブラートの少ないきれいに伸びる声だった。私は大いに好感を持った。ゲルマンもしっかりと声を出している。伯爵夫人も文句を言うべきところはない(ただ、私の見た2日目は、ガルージン、オブラスツォワが出演しなかった!残念!。 このスターたちなら、もっとすごかったのかも)。

 オーケストラも美しい音だった。ロシア的な分厚い音ではなく、かなり繊細。 とはいえ、残念ながら、私は深い感動を覚えなかった。最後まで違和感が付きまとった。

 その原因は、プレトニョフの指揮にありそうだ。

 プレトニョフのチャイコフスキーと私の思っているチャイコフスキーは異なっているような気がしてならなかった。私とは違う虫眼鏡でチャイコフスキーを見ているような感じがずっとしていた。プレトニョフは、泣かせるべきところで泣かせてくれない。ところどころ鋭利な音になることもある。妙なところに力が入っている。チャイコフスキー特有の甘美でメランコリックな感傷に浸ることができなかった。ゲルマンの狂気の爆発も起こらなかった。醒めるべきでないところで醒め手いるように私には思えた。新鮮といえば新鮮なのだが、意外感のほうが大きかった。

 先ごろ発売されたベートーヴェンの交響曲全集も、かなり違和感を覚えたが、それと似た感覚だった。

 とはいえ、私は実は『スペードの女王』はそれほど好きなオペラではない。『エフゲニー・オネーギン』だけは大好きだが、ほかのチャイコフスキーのオペラはむしろ苦手だ。だから、あまり深くこのオペラを聴くことができない。もしかしたら、プレトニョフに何らかの考えがあるのかもしれない。もう少しこの指揮者を聴いてみないことにはなんともいえない。

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感銘を受けた最近の三つの講演、そして、わがストレス!

 実は私は講演を聞くのをあまり好まない。講演よりは本のほうがたくさんの情報を短時間で手に入れることができる。必要なところだけを飛ばし読みできる。同じ箇所を繰り返し読みできる。そんなわけで、これまで講演には積極的に参加しようとしなかったが、このところ、多摩大学関係の講演をいくつか聞いて、大いに感銘を受けるところがあった。

 まずは、6月10日の諸橋正幸・多摩大学経営学部長による「寺島実郎監修多摩大学リレー講座」の一つ。題目は「インターネット技術とウェブ世代の世論形成」。私にはかなり衝撃的な内容だった。私が衝撃を受けた内容をひとことでまとめると、以下のようになる。

SF小説などでよくある、「人工知能が世界を支配する」という筋立ては、実はすでに起こっていることだ。インターネットは世界に張り巡らされた知の集積にほかならない。そして、現在、グーグルなどの検索エンジンによって、その知を取り出しているが、グーグルのプログラムに歪みがあっても、世界の人々はそれに気づかずに、知を利用する。意図的であろうとなかろうと、プログラムに何らかの歪みが生じて、ある種の思想やある種の傾向のものが知として活用されないことはありうる。つまり、グーグルなどの検索エンジンによって世界の思想が支配される恐れがある。

 6月17日、グランドホテル赤坂で多摩大学フェアが行われ、多摩大学創立20周年記念の寺島実郎学長の特別講演、そして、その後、野田和夫初代学長、グレゴリー・クラーク2代目学長、寺島5代目学長によるシンポジウムが行われた。そのなかの、寺島学長の講演も相変わらず説得力のあるものだった。寺島学長の考えについては、すでに本や講演で知っているが、新たに以下のことには大いに感銘を受けた。

・太平洋戦争について、日本人は「アメリカに負けた」と考えているが、実際には米中に負けた。戦後、蒋介石が内戦に敗れて台湾に追われるという事態がなければ、戦後の日本史は変わっただろう。中国が分裂し、社会主義国ができたために、アメリカは日本を支援し、日本は発展した。「表日本、裏日本」という表現は、戦後のものであってアメリカ一辺倒であった戦後日本のあり方を象徴しているが、日本の貿易総額に占めるアメリカの比重が13・5パーセントに過ぎない(中国は20・1パーセント、シンガポール、香港、台湾を含めると、29・3パーセント)現在では、それは通用しない。2010年までに、GDPにおいて、日本は中国に追い越される。中国は世界第二の大国になる。

 そして、最後に6月17日の江川詔子さんの講演「新聞の読み方・テレビの見方」。これも、多摩大学のリレー講座の一環だ。(江川さんはよくコンサートでお見かけする。パーティなどですれ違ったことも多い。講演後、名刺だけお渡しした)

・週刊新潮の朝日新聞襲撃事件についての誤報が話題になっているが、大きな問題の一つに経費の節約と言う問題がある。経費をケチって、裏づけ取材をしなかったために誤報道をしてしまった。現代の人は容易に情報が手に入るために、報道までも金がかからないことに気づいていない。しっかりした報道には金がかかるということを意識するべきだ。また、スポンサーの圧力や視聴者のわかりやすさ志向のために、報道が安易なものになっているのも気がかりだ。

 私も実はメディアについて考えていることがある。そのうち、本にしたいと思っている。が、このブログの中には本にならないようなことを書くように心がけている。メディアについての考えは、そのうち、本の形で世に出したい。

 忙しくてチェロをいじれない! 原稿も捗らない! 数日前からDVDレコーダーの調子が悪く、昨日、新たに購入した! が、セッティングできない! いつまでたっても見えるようにならない! 結局、どうしようもなくて箱に戻した。プロに来てもらうしかなさそう・・・。 

 しかも、電気店で聞いたら、我が家にかなりあるDVD-RAMを使える機種はほとんどなくなるとのこと! ショック! ベータのテープと同じような目にまたあうのか!

 そんなわけで、少々ストレスがたまっている!!

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「となりの子育て」の録画をやっと見た!

 私の出演したNHK教育テレビの「となりの子育て」の6月13日放送「人前力」を録画していながら、見ていなかった。昨日、やっと見た。

 何はともあれ、とても良い番組だと思った。さすが優秀なNHKのスタッフ! 実際には放映されたものの倍以上の時間をかけて収録したはずだが、うまくカットしている。そして、違和感なくつながっている。説得力あるつくりになっている。ずっと番組に関わってくれたディレクターの中野信子さん、ありがとうございました!

 これからの社会では、人前で発言する必要がある。そのためには、小学生のころから、そのための力を養う必要がある。そのためには、積極性と論理性を身につけなければならない。そして、それは家庭でできることだ。というような趣旨で、家庭でどのようなことをすればよいのかをお話した。

 司会の藤井隆さん、高野優さん、ゲストの山崎邦正さんの雰囲気がよかったので、リラックスして話ができた。

 それにしても、それほど頻繁にテレビ出演をするわけではないので、自分の映像を見るのは照れる。下手さがよくわかる。もともと容姿には自信がないのだが、それをどうしても意識してしまう。が、今回、自分のデキとしても、ほぼ満足できた。いつもは、あまりのひどさを自分で感じて落ち込んでいただけに、ほとんど初めての経験。ともかく、思っていることを、それなりに自由に話せた。どもったり、噛んだりしたが、ともあれ、それなりに説得力のあることはいえた。それで満足。

 容姿は仕方がない。年齢も仕方がない。私が気になっていたのは、私は自分で思っているほど賢そうに見えないことだった。これまで、テレビに何度か出たが、どう見ても、あまり賢そうではない。せめて賢そうに見えないことには、私がこれまで出してきた本と矛盾してしまうのだが、実際よりも愚かに見えるような気がする(まあ、実際にもそれほど賢くないといえば、それまでだが・・・)。

 が、今回は、「俺って、けっこう賢そうに見える!」と思った。映像的にも、話し方も、多少おどおどしているし、いつものようにぼそぼそ語っているが、それでも、知的な話をする人間には見える。話す内容も、それなりに説得力がありそう。よかった!と思った。

 そして、このブログに「JUNKO」さんから、お褒めの言葉があった。素直にうれしい。ちょっと照れるけれど・・・

 19日の午前中に再放送が予定されていたが、事情があって延びたらしい。そのうち、再放送があると思う。よろしかったら、ごらんいただきたい。

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『チェネレントラ』は、シリアスとコミックの融合の物語だ!

 新国立劇場6月14日のロッシーニ作曲のオペラ『チェネレントラ』(かつては『シンデレラ』と呼ばれることのほうが多かったと思うが、今は『チェネレントラ』と原題で呼ぶのがふつうになっている)を見てきた。

 イタリアオペラをほとんど聴かない私だが、実は中学生のころからずっとロッシーニだけは大好きだった。そもそも、最初にクラシックに触れたのが『ウィリアムテル』序曲だった。『セヴィリアの理髪師』の「私は町の何でも屋」が最初に好きになったオペラアリアだった。わくわくするようなクレシェンド、人生を知り尽くしながらも、楽天的に楽しんでいるかのような雰囲気がなんともいえない。ユーモアに溢れ、しかもさっぱりしている。ワンパターンで快楽的で楽天的なところもいい。

 オペラのほとんどがおもしろいが、14、5歳のころに作曲した弦楽ソナタも天才的だ。晩年の『スターバト・マーテル』や『小荘厳ミサ』もロッシーニの達した境地を示して素晴らしい。

 だから、十分に楽しめると思って足を運んだ。『チェネレントラ』の舞台は初めてだが、もちろん映像はいくつか見ている。どれも楽しかった。とはいえ、何しろシンデレラの話だ。他愛ないことこの上ない。しかも、指揮は無名のデイヴィッド・サイラス。それに、新演出ではなく、20年近く前に没したジャン・ピエール・ポネルの古典的な名演出そのまま使うらしい。だから、実は、それほど期待していたわけではない。

 ところが、序曲が終わり、オペラが進むにつれて、ぐいぐいと舞台に引き込まれる自分に気づいた。ドン・マニフィコを歌うデ・シモーネ、アリドーロを歌うクロイスベック、ダンディーニを歌うデ・カンディア、そしてチェネレントラの姉妹を歌う幸田浩子と清水華澄、いずれも実に芸達者。最高レベルで役柄を歌い、演じている(ただ、幸田さんは後半、ちょっと声がかすれてきたのが残念)。

 なんといってもチェネレントラを歌うカサロヴァとドン・ラミーロを歌うシラグーザが圧倒的。ずば抜けている。シラグーザのハイCの美声に酔い、カサロヴァの凄みさえある歌の力に陶酔した。

 私は、見ているうちに、これがシリアスとコミックの対立と融合の物語だと気づいた。このオペラは、チェネレントラとドン・カミーロというシリアスな二人に、ダンディーニやチェネレントラの義父や義理の姉妹など喜劇的な人々が介入してくるという構図になっている。二人の愛の歌に喜劇的な人物のコミカルなメロディが入り込んで邪魔をする箇所もいくつもある。つまり、シリアスと喜劇が対立し、からみあって話が進む。

 初めのうち、妙に重々しいカサロヴァのチェネレントラに違和感を覚えていたが、これはシリアスと喜劇の対立を明確にする演出だったのだろう。ずっとシリアスな世界を生きてきたチェネレントラは、最後、義父と義理の姉妹を許す。つまりは、シリアスと喜劇が融合する。最後のチェネレントラの壮大な歌は、まさしく両者の合体の歌だったのだ。カサロヴァの歌いっぷりも、まさしくシリアスと喜劇を織り交ぜにしたかのようだった! 

 シリアスとコミックの対立と融合。これこそがロッシーニの真骨頂といえるのではなかろうか。だからこそ、シリアスなドラマもコミックによって相対化され、恋にどっぷり浸かったメロドラマにはならない。私がロッシーニ好きなのも、そして、今日、私が最も感動したのも、その合体のゆえだった。

 ロッシーニ万歳と叫びたくなった。

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贅沢な2日間に『愛の妙薬』を見た

 一昨日の夜からこの上ない贅沢を続けている。幸せな気持ちでいる。

★一昨日の夜は、多摩大学のメンバー(諸橋正幸学部長、久恒啓一学長室長、菅野光公教授、そして私)に、諸橋夫人、久恒夫人、そして私の娘が加わって多摩大学近くのフランス料理店エル・ダンジュで会食。実においしかったし、楽しかった。

 実は先日、ミシュランの三ツ星レストランであるカンテサンスで食事をする機会があった。とてもおいしかった。感動するほどおいしかった。しかし、エル・ダンジュで改めて食べたが、それに決して引けをとらないほどおいしい。

 先日紹介した京都の美濃吉とともに、私の大の贔屓の店で、時々家族や友人と食事をしている。一昨日はパテが最高。魚料理もうまかった。ただ、残念ながら、みんなで談笑していたので、料理の説明を忘れてしまった! 

 諸橋氏の博学ぶり、久恒氏の愉快な話ぶり、菅野氏のひねくれているようで実に健全な意見、そして、奥様方の知性としっかりぶりが印象に残った。たった一人の若者である娘も、大人の雰囲気を味わいつつ、楽しんでいるようだったので、安心した。

★一晩寝て、昨日はミシュランの三ツ星のすし店であり、それどころか日本で最高のすし店とされる「すきやばし次郎」で昼食。料理評論家の山本益博氏の紹介で、エンジン01のメンバーであるジャーナリストの秋尾沙戸子さんや幼児教育家の小山泰生さんとともに。「本日のおまかせ」を食べた。かなりの高額だったが、それ以上の価値があった。

 最初はしゃりの酸っぱさに驚いた。酸っぱいものが苦手な人間としては、ついていけないかと思った。だが、すぐに気にならなくなった。こんなアワビもこんなアジもこんなカツオもこんなウニも、そして、あきれたことに、こんなかんぴょうも、これまで食べたことがなかった! 一体、どういう魔術がかかってこんな味になるのか! とりわけ、カツオには驚いた。口に入れたときに、「うまい!」と思い、一噛みすると別の味が広がってくる。そして、後数度味わううちに別の味が出てくる。まさしく味のハーモニー。満足した。

★1時間ほどで食べ終え、上野に向かって、文化会館で藤原歌劇団の『愛の妙薬』を見た。園田隆一郎指揮、マルコ・ガンディーニ演出。アディーナは川越塔子、ネモリーノは中鉢聡。

 バスク地方の小さな村が舞台のはずなのに、幕が上がると目の前に広がるのは、大勢の人が行きかう現代のデパート(ショッピングモールと言うのが正しいらしい)のブランド化粧品売り場! 主要な登場人物はデパートの売り子や客という設定。いろいろな人物がモールを訪れる。その様子が実にいきいきとしていて楽しい。制服姿の女子高生も現れる。色使いもすばらしい。最高におしゃれで、最高にセンスのいい舞台! 原作とはまったく異なるが、ここまでやられると、抵抗を感じるまでもなく、ただただ感心! しかもまったく違和感はない。群集劇を作り上げた演出の手腕に脱帽するしかない。

 歌手陣で川越と中鉢がみごと。容姿も演技も声も歌の表現力も申し分ない。中鉢はところどころで力みすぎを感じた(最大の聴かせどころ「人知れぬ涙」もちょっと力んでいるように感じた)が、それを除けば声も美しく、演技も容姿もいい。実に適役だと思った。川越は自然な発声、よく通る美声に聞きほれた。この人のことは、実はまったく知らなかったが、とてもいい歌手だと思う。今後、ちょっと追いかけたい。

 ベルコーレの森口賢二もドゥルカマーラの党主税もジェンネッタの宮元彩音も十分に役をこなしていた。レベルの高さに改めて驚いた。指揮の園田隆一郎という人についても、私はまったく知らなかったが、リズム感がよく、流麗だった。

 ただ、イタリアオペラをあまり聴かない私としては、やはりオーケストレーションの単純さ、ストーリーの他愛なさが物足りない。それに、私の後ろの席に座っていた高齢の女性の三人組が、演奏中にも、「わあ、きれい」「すごいわねえ」などと感想を言い合う。かさかさいう音もしばしばたてる。私の後ろだけでなく、あちこちでそんな雰囲気。しかも、音楽が終わる前から拍手が起こる。イタリアオペラというのは、このようなことを許容して楽しむのかもしれないが、ドイツオペラばかり見てきた私にはどうにも馴染めない。

 ともあれ、とても楽しい時間をすごすことができた。

 

★オペラが終わってからは、一休みして、静かな場所で仕事をした。そして、昨日、最後の場所に。これが、贅沢な一日の最後を締める最大の贅沢だった。

 何と作曲家の三枝成彰さんとご一緒したのだ! とても料理のおいしい感じの良い店だったが、三枝さんの行きつけの店らしいので、店の名前は明かさないことにする。

 何が贅沢といって、三枝さんとご一緒できるほどの贅沢はない。何しろ、三枝さんは日本の音楽史に間違いなく残る大作曲家だ。いや、日本どころではない。世界のオペラ史に残ると私は確信している。オペラ『忠臣蔵』やモノオペラ『悲嘆』は不朽の傑作だ。そんな三枝さんとまるで対等のように話をさせてもらうのは、それだけで幸せな気持ちになる。

 仕事の話でお会いしたのだったが、満ち足りて家に帰った。

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和紙のスピーカー?? (3日間を実録風に)

68日月曜日。

 隔週で京都に行っているが、京都に行かなくてよい月曜日はチェロのレッスンと決めている。今日はチェロを始めてから3回目のレッスン日。

 正直言って、かなり情けなかった。相変わらず、マルティヌーのミニチュア組曲の練習。開放弦だけのチェロ曲なので、めっぽうやさしいはずなのに、なかなかできない。ボウイングがよくない。そして、休止のリズムが取れない。この曲を聴いたことがないのでイメージできない。

 悪いことに、私は音楽に関しては耳が肥えている。自分の出している音がいかにひどいかよくわかる。しかも楽器がチェロなので、音がよく聞こえる。錯覚のしようがない。その上、私はかなり冷静で自己相対化できる人間なので、自分を贔屓目に見ることもあまりない。「我ながら、ひでえなあ!」と思いながら弾くことの辛さよ!

 次回から教則本に楽譜の載っている弘田龍太郎作曲の「浜千鳥」を練習することになった。ほんとうをいうと、こんな大正ロマンっぽい曲ではなく、フォーレかサンサーンスでもやりたいのだが、そうはいかない。

 ちょっと弾いてみたが、左手の押さえ方もヴァイオリンの癖が残っていて、チェロらしくないことを指摘された。チェロらしくすると、指が痛い! 先は長そうだ。

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 久恒啓一氏との共著の対談のために、昼間、出版社に出かけて話をした。久恒氏と話すと常にそうだが、知的刺激を受ける。おもしろい本になりそうだ。

 その後、場所を変えて、多摩大学前学長代行の野田一夫先生に感謝する会に出席。多摩大学の教職員30人ほどが出席していた。私はこのような場ではいつもおとなしくしている。野田先生ら、いろいろな人の話を聞いていた。野田先生の話のうまさに改めて驚嘆。笑わせ、はらはらさせ、変なところに入り込んでおきながら、最後にはうまくまとめる。笑わせる前に、ちょっと間をおく。和芸と言うにふさわしい。

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317swdvyxjl  先日、日本フィルで聴いたラザレフ指揮のラヴェルが気になったので、かつて一度見ただけだったラザレフ指揮、ボリショイオペラによるチャイコフスキーの『オルレアンの少女』のDVDを見直してみた。

 正直言って、音楽も台本(チャイコフスキー自身の台本らしい)もあまりおもしろいとはいえない。とんとん拍子に話が進んで葛藤が伝わらない。先日亡くなったかつての鬼才ポクロフスキーの演出もなぜか動きがなくて退屈。それより何より、歌手たちがよくない。音程の不確かな歌手が多い。ジャンヌ役のニーナ・ラウチオは、歌は悪くないが、演技がうまくない。ラザレフの指揮が印象に残らなかったわけだ。今回も、ほかのところの欠点に気をとられて、ラザレフに耳が行かなかった。ともあれ、あまり感銘を受けるDVDではなかった。

 午後、知的生産の技術研究会・事務局長の秋田英澪子、会員の田村修一さん、幅健一さんに自宅に来いていただいた、私の知的生産の仕方について取材を受けた。といっても、私は情報収集もろくにしているわけでもなく、知的生産と言うほどのことをしているわけでもなく、ただ日々、音楽を聴き、ものを書いているにすぎない。知的向上を意識して何かをしたという思いはほとんどない。2時間半ほど楽しく話をしたが、果たして、何かの役に立ったかどうかかなり怪しい。

 何よりもうれしかったのは、今日来られた幅さんは、美濃紙を応用したコーン紙スピーカーを開発したヤマタミ音楽技研の方。2週間ほど、話題のスピーカーのデモ機を聴けることになった。少しだけ聴いたが、間違いなく、かなりの名機。もう少しゆっくりと時間をかけて、さまざまのCDで試してみたい。

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シュヴァルツコップはモノラル時代が最高!

026  往年の大ソプラノ歌手シュヴァルツコップの10枚組みCD(DOCUMENTS)を見つけた。何と1790円! 一枚、179円! もしかしたら、非正規盤なのかもしれない。1940年代から50年代のモノラル時代の録音を集めたものだ。さっそく聴いてみたが、まさしく宝の山! 消費者としてはありがたいが、こんなに安くていいのだろうかと心配になってくる。

 私は、中学生のころからシュヴァルツコップのファンだった。周囲のみんながアイドル歌手に夢中になっているころ、私は母よりも年上のシュヴァルツコップに憧れ、ほとんど恋をしていた。写真を持ち歩き、レコードを見つけてはお金をためて買ったものだ。私はシュヴァルツコップの出演したレコードを求めるうちに、モーツァルトのオペラの世界を知り、リヒャルト・シュトラウスやバッハの森に入り込んだのだった。福岡と東京で2度聴いた彼女のリサイタルは私の記憶の中の宝物だ。

 そんなわけで、今回の10枚組みには、すでに聴いたことの録音も多い。カラヤン、フィルハーモニアと録音した『ばらの騎士』や『ナクソス島のアリアドネ』『こうもり』、アッカーマンと録音した『四つの最後の歌』などの圧倒的な名演も含まれる。「私の名はミミ」や「ある晴れた日に」は中学生のころ、17センチ盤のレコードで聴いた。彼女のレハールも絶品。が、初めて聴くものも多かった。

 同じ『フィガロの結婚』でもケルビーノを歌ったり、伯爵夫人を歌ったり、『ドン・ジョヴァンニ』では、ツェリーナを歌っている。ライヴ録音のヴォルフやシュトラウスやシューベルト、モーツァルトの歌曲も含まれる。マックス・レーガー、カール・レーヴェ、リヒャルト・トルンクなどの珍しい作曲家の歌曲も含まれる。そして、そのどれもが実にすばらしい。

 よく、「シュヴァルツコップは、発声法が古くて、現代では違和感がある」という人がいる。そして、確かに、現在耳にするシュヴァルツコップの歌には、発声に違和感を覚えるものが多い。とりわけ、クレンペラー指揮の『マタイ受難曲』の彼女は悲惨だと思う。

 だが、「発声法が古い」というのは間違いだと、私は断言する。彼女は、実はステレオ録音が始まるのとほぼ同時期に声を失ってしまったのだ。野球で言えば、肩を壊して技巧派投手になったわけだ。「発声が古い」と思われるのは、実は、失った声を補うための歌唱法、つまりは野球で言う不規則投法のせいなのだと私は思っている。

 シュヴァルツコップの真価を味わえるのは、実はモノラル録音の時代、つまり1950年代までだ。このころの発声法にはそれほどの違和感はない。音程が不安定で、音が揺れることが時々あるが、それは愛嬌ということで許してもらおう。歌の迫力、チャーミングさ、そして濃厚な味わいは、そのような欠点を補って余りある。そして、そうしたシュヴァルツコップの魅力をこの10枚組CDで存分に味わえる。

 仕事で忙しいので、1枚だけにしようと思って聴き始めた。私はめったにしないのだが、今回ばかりは仕事をしながらCDをかけた。が、つい10枚を聴いてしまった。そして、深い感動を覚えた。アリアドネの凄さ! モーツァルトの歌曲の美しさ! いや、すべてが素晴らしい!

 

418xaqqby5l  マリア・カラスのCDはたくさん発売されている。私も改めて聴いているが、確かに言葉を失うほどの感動を味わえる。とりわけ、『夢遊病の女』『清教徒』『ランメルモールのルチア』の凄絶でリアルでなまなましく、しかも高貴な歌に圧倒された。

 が、シュヴァルツコップも決してそれに劣らない。カラスほどなまなましくもリアルでもないが、それにも増して気品と知性に溢れている。

 シュヴァルツコップのCD全集をEMIは出してくれないだろうか! 何しろ彼女のご主人はかつてのEMIの大重役だったのだから、そのくらいの企画があってもよさそうな気がする。が、たぶん、そのためにはもっと多くの人がシュヴァルツコップを再評価する必要があるだろうけれど。

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ラザレフ指揮の日フィルのラヴェルは「笑える音楽」だった!

 日本フィルの主席指揮者になったラザレフの評判がいいので、サントリーホールに聴きにいった。曲目は、ラヴェルの『海上の小舟』『道化師の朝の歌』、ピアノ協奏曲ト長調、そして、後半にムソルグスキー作曲、ラヴェル編曲の『展覧会の絵』。私がこれまで聴いたことのあるラザレフの演奏は、『オルレアンの少女』と『ボリス・ゴドゥノフ』のDVDだけだ。フランス音楽とは無縁な感じがしたので、どんなラヴェルになるか楽しみだった。

 2曲目が始まった時点では、「こりゃダメだ!」と考えていた。フランス的な繊細さ、ラヴェル特有の典雅さ、高貴さがない。音はよく鳴り、ダイナミックだが、古典的な均整美がない。野暮ったく、熱情が空回りしている。まるでロシア音楽のようなラヴェル・・・。 だが、途中から、「これこそ、私の求めていたラヴェルではないか!」と思い始めた。

31l6ek1rjl  拙著『笑えるクラシック』(幻冬舎新書)の中で、ラヴェルは生真面目な作曲家ではなく、「人を食ったような作曲家」であり、代表作『ボレロ』はお笑いの曲だという私の持論を展開した。ラヴェルにユーモラスな曲はたくさんある。とりわけ、『ボレロ』は同じメロディ、同じリズムをずっと繰り返し、最後に最高潮に達してずっこける。まさしく笑い以外の何ものでもない(ついでにいうと、この本の中で、私はベートーヴェンの「第九」も実は笑える曲なのではないかという「新説」を展開している。そのほか、吹き出しそうになったり、にんまりしたりする曲を紹介している)。

 本を書いたとき、私は自説を裏付ける演奏があるはずだと思って『ボレロ』のCDを聴きまくった。ところが、残念ながら、私が耳にしたすべてのCDの演奏は、生真面目に演奏していた。精妙で高貴で、楽器のニュアンスを出そうとする演奏ばかりだった。

 ところが、今日聞いたラザレフ指揮の『道化師の朝の歌』は、まさしく笑える演奏だった! がに股っぽい恰好(ビートたけしや、かつて横浜ベイスターズにいた種田選手を思い起こさせる)で、時々観客席に顔を向け、まさしくコミカルな動きをする。(アンコールで演奏された『亡き王女のためのパヴァーヌ』の最後、音が鳴り止んだ後もずっと指を振動させていたが、あれも笑いのパフォーマンスを含んでいたのではないか!)

 音楽も実はかなり滑稽だ。戯画化された音楽といっていいかもしれない。大きな音で鳴り響くが、よく聞くと、決して思い入れたっぷりに歌っているのではない。どこか醒めたところがある。そして、『道化師の朝の歌』の最後、まさしく『ボレロ』の最後と同じような、ずっこけた音で終わった。

 後半の『展覧会の絵』も、同じ調子だった。大袈裟に、マンガっぽく絵画を描写していく。まさしくマンガを見るようで飽きない。だが、そうでありながら、「キエフの門」のあたりでは、戯画化されているがゆえの感動が高まってくる。

 日フィルのメンバーは、しっかりとラザレフの求める音を再現していたと思う。ただ、ピアノの小川典子さんについては、私は、細身で格調高く強靭なピアノの音が、ラザレフと音楽が合わないように感じた。小川さんは少なくとも人を食ったようなユーモアの音楽を作るつもりはないだろう。

 ラザレフはきっとラヴェルのユーモア精神を理解している人だと私は思う。事実、アンコールの後の動きもサービス精神に溢れている。

 この指揮者でほかの曲、たとえばユーモアのかけらもない曲も聴いてみたい。が、その前に、是非『ボレロ』を聴いてみたい。

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『頭がいい人、悪い人の話し方』に対するアマゾンの酷評について考えた!

 先日も書いたとおり、アマゾンで拙著『読ませるブログ』が酷評され、☆1つがつけられた。ついでに、私のほかの著書がどう扱われているのか確かめてみた。そして、驚いたことに、250万部を越したベストセラー『頭がいい人、悪い人の話し方』が猛烈に酷評され、レビューの約半数の100人以上に☆1つをつけられていた!

31389929   考えてみれば、これは当然かもしれない。

 私自身、この本を名著と思っていない。私はもっとよい本を何冊も書いている。これが250万部売れるのなら、300万部や400万部を超える拙著が30冊くらいあっていいような気がする。できることなら、この本ではなく、別の本の著者として名前を知られたかったというのが本音だ。

 それに、ベストセラーに対しては誰しもけなしたくなるものだ。私自身、過去のベストセラーに対して、「こんなものが売れるなんて情けない」と語ってきた覚えがある。そもそもベストセラーをけなすことは、自分が一般大衆よりもレベルが高いことの証のような気がするものだ。

 が、それにしても、あまりに評価が低い。そして、そのなかには、本質をまったく理解していないと思われるものがある。ちょっと言い返したくなった。

 初めに、私がどのようなつもりでこの本を書いたか、はっきりといっておきたいと思う。このことは取材された雑誌などで何度も語ったのだが、十分に伝わっていないようだ。

 ラ・フリュイエール(17世紀のフランスのモラリスト)に『レ・キャラクテール』という作品がある。邦題は『人さまざま』。また、フローベールに『紋切り型辞典』や『ブヴァールとペキシェ』という作品がある。もちろん自分をラ・ブリュイエールやフローベールなどの文豪になぞらえるつもりはないが、私が書きたかったのも、その種のものだ。世の中のさまざまな人、マンガのようにおかしな人、そして、紋切り型の話をする愚かな人々、そんな人間模様を書きたかった。私が書きたかったものをずばりといえば『バカ百態』とでも言うべき本だ。

 ただし、こう書くと、またまた誤解されそうなので、誤解のないように付け加えておく。高みから偉そうにバカな人間を描くのではなく、私自身や私の妻、そして周囲の尊敬するべき人々を含むバカを描きたかった。つまり、生まれついての性(さが)として愚かでしかいられない人間たちの愚かな行動の数々を面白おかしく描きたかったわけだ。

 そして読んでいるうちに、「こんな人いるいる。うちの課長がこんな人間だ」「私ももしかしたら、こんなふうに思われているのかも」と思ってほしかった。おもしろがって読んでいるうちに、結果的に人生について考え、自分を振り返ることができる。言ってみれば、現実を映し出す鏡、ちょっと大袈裟にデフォルメされて映し出す鏡。そんな本だ。

 私としては、多くの読者が読み進めるうちに、この本がそのようなものであることがわかってくれるだろうと思っていた。もちろん、全員に私の意図をわかってもらおうとは思わない。わかってくれる人がわかってくれればいい。そして、わかってくれる人がたくさんいたので、ベストセラーになったのだと私は思っている。

 そして、私の本を酷評しているのは、このことを理解できなかった人なのだと私は思う。

 ☆を1つつけたレビューの中で最も多かったのが、「役に立たない」というものだった。「この本を読んでも、頭の悪い話し方の例が出るばかりで、どうすれば頭のよい話し方ができるのか書いていない。だから役に立たない」という。

 しかし、私としては、そのようなことを言われても困ってしまう。そもそも私は、はじめから役に立たせようと思って書いていない。「どうすれば頭のよい話し方になるか」についてここには書かなかった。なぜ書かなかったかというと、すでにそのようなものは私自身何冊も書いてきたからだ。だから、この本では敢えてそれは書かずに、先ほど述べたとおり、おもしろがって読んでもらうことを心がけた。そして、私の意図を理解してくれる人が多かったから、ベストセラーになったのだと私は思っている。

 酷評の中でそのほかに多かったのは、「著者は偉そうにして、高い視線でバカをせせら笑っていて、不愉快」というものだった。実は、これは私もこのように思われるのではないかと危惧していた。私は敢えて斜に構えてひねくれて書くスタイルをとった。かつてのビートたけしの漫才と同じようなスタイルだ(もちろん「芸風」はまったく異なるが)。私が愛情を持って「バカ」を描いていることがわかってもらえるかどうかが心配だった。これについても、私の真意をわかってくれた人(私にいわせれば、健全な読解力をもった人)が多かったので、私の本は好評を得たのだと思う。

 現に、私を講演などに呼んでくれた人の中には、「皮肉な書き方の中にやさしさを感じた」といってくれる人が何人もいた。ついでにいうと、私はかなり謙虚な人間であって、偉そうにすることはない。もし、偉そうに見えるとすれば、人見知りしてどう振舞ってよいかわからずにぼんやりしているのが、傍若無人に見えるだけのことだ。

 もう一つの酷評として、「ここに描かれているような極端な人はいない」というものがあった。しかし、私としてはそもそもオーバーに漫画的にして書いているのだ。そのままの人はいないだろう。だが、それと似たタイプの人がたくさんいる。もし読者がそのような人に出会っていないとしたら、その読者はとても世間の狭い人か、あるいはよほど観察力のない人だと私は思う。少し注意して周囲を見ていれば、このような人にあふれている。そして、ここに描いたような人がたくさんいるからこそ、この本が売れ、テレビにも取り上げられ、「こんな人がいるいる」と話題になったのだ。「ここに描かれているような極端な人はいない」というレビューを寄せた人は、自分の世間の狭さ、観察力の不足を恥じるべきだと私は思う。

 ほかに、「これがバカだとすると、人間みんなバカということになってしまう」という批判もたくさんあった。が、これについては「おっしゃるとおりです」というしかない。そもそも私は「人間はみんなバカだ」という前提でこの本を書いている。それを批判されても困ってしまう。

 もう一つ、「当たり前のことしか書かれていない」という評も多かった。これについても、「その通り」と答えるしかない。先にも述べたとおり、巷にいる人々の様子をおもしろがって描いたのがこの本だ。これは人間観察の本であって、何か新しいことを提言している本ではない。当たり前のこと以外を書きようがないではないか。「そんなことはわかりきっている」と思う人は、私と同程度、あるいはそれ以上に観察力のある人であって、私の本を必要としない人だ。だったら、「私には必要のない本だった」とみなして、わざわざ他人の本を酷評することもなかろうと私は思ってしまう。

 ところで、酷評の決まり文句として、「なぜこの本が売れたのかわからない」というのがあった。ひょいと友達に漏らすような私的な感想としては、それでいいだろう。それに、このフレーズは、「つまらない」という意味の言い換え(コノテーション)なのだろう。だが、それにしても、なんと無責任な評者なのだろうと、私は思ってしまう。

 人の本を批評するのであれば、「なぜこの本が売れたのかわからない」などと言うべきではない。それは、自分がいかに現状を分析する力がないか、つまりはいかに自分がレビューを書く能力がないかを告白しているにすぎない。公的に批評しようとするのなら、それが売れた原因を自分なりに考え、どのようなところが社会に受けいれられているのか、どのような利点があるのかを考えなければならない。そして、それができる人間であれば、頭ごなしに酷評するだけでなく、もう少しほかの角度から私の本を見ることもでき、もう少し的確な評もできるだろうと思う。

 私を酷評するレビューをみて思ったことをまとめると、「余裕のない読み方をする人が多いんだなあ」ということだった。

 私は、余裕を持って笑いながらこの本を読んでほしかった。本書の中のバカの姿に自分と重なるところがあっても、それを笑って読んでほしかった。ところが、多くの人が、役に立つことを求め、自分がバカ扱いされていると思って怒り、著者(つまり私)を傲慢な人間だと思って不愉快になったのだろうと思う。

 もちろん、余裕を持って読んでくれた上で、私の本をおもしろくない、笑えない、つまらないと批評するのなら、まったくかまわない。あえてここには書かないが、私を酷評しているレビューの中にも、私の弱点を的確に突いているものもあった。私はそのような評者にむしろ敬意を抱く。

 また、他人の本を「こうあるべし」と決め付けて、硬直した読み方をする人があまりに多いのにも驚いた。本によって読み方も異なる。少し読み進めるうちに、どのような態度で読むべきかを理解しなければいけない。それなのに、私の本を酷評する人、いや、私の本に限らず、何らかの著書を酷評する人は、そうした態度が欠けているように思う。その人たちは、一律の読み方をし、それにあてはまらない本を断罪する。

 教員の端くれとしては、まだまだ読解力不足の人が多いのを感じ、もっと若者の読解力をつけるべく、教員としては努力しなければいけないと強く思った。

 なお、私はこの文章の中に、他者に対する批判を交えた。傲慢で皮肉な言葉も加えた。私を酷評する人を読解力のない人と断じた。それを不快に思われる方もいるかもしれない。だが、あれほどまでに拙著を酷評された人間として、この程度の言葉を用いて言い返すくらいのことは許されると私は思う。

 といいつつ、そのうちまた、☆1つを100人以上につけられ、多くの人に「役に立たない」「傲慢だ」「なぜ売れたのかわからない」と酷評されるような、読者の神経を逆なでする本を書きたいと思っている。そうしたら、今度はもう少し高級な車を買えるだろうから。

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ポッドキャストで『読ませるブログ』について語っている

 一月ほど前だったか、ポッドキャストコンサルタントの早川洋平氏から連絡をいただき、氏がキャスターを勤めるサイトで、『読ませるブログ』についてインタビューを受けた。ポッドキャストというのが何なのか、どうやったら、それを聞けるのかもわからず出演させていただいた。

 先日、私の出演が配信されたというので、聞こうとしたが、実はかなり苦労した。これを聞くにはiTunesが必要で、その後、少し面倒だった。

 が、私のインタビューを含めて、話題の本の「著者インタビュー」が無料で聞ける。私も時間をみつけて何人かの話を聞いてみたいと思っている。

http://itunes.apple.com/WebObjects/MZStore.woa/wa/viewPodcast?id=314569342

 私自身のインタビューについては、自分としては早川さんのおかげでまあうまく話せたと思っている。これ以上うまく話すことはできない。

 ところで、最近、気になったCDについて一言。

83534995  久しぶりのオペラの新譜を聴いてみた。ビシュコフ指揮、ケルンWDR放送管弦楽団。ヨハン・ボータのローエングリンなど。ビシュコフは『エレクトラ』全曲CDの爆発的で官能的な音響が素晴らしかった。昨年だったかパリ・オペラの来日によって上演された『トリスタンとイゾルデ』も最高の指揮だった。だから、大いに期待していた。

 が、期待はずれだった。一体、どうしたことか。まったく盛り上がらない。それどころか、「盛り下がる」と表現するほうが正しいような気がする。淡々と進み、ドラマ性も官能性もどす黒い迫力もない。ただ、フリードリヒを歌うシュトルックマンの異様なほどのうまさだけが耳をひく(ただし、いつものようにかなり癖が強いので、これをほめるべきかどうか、ややためらう)。盛り上げようという意図がないとしか思えない。

 どういう意図なのか、少しビシュコフ本人に聞いてみたい気がする。が、これが私の好む『ローエングリン』でないことだけは確かだ。

Toce56232  もう一つは荘村清志さんのギター、ファンホ・メナ指揮、ビルバオ交響楽団によるロドリーゴの『アランフェス協奏曲』『ある貴紳のための幻想曲』など。なんと、『アランフェス』は初めての録音だという。満を持しての録音ということなのだろう。

 これは堪能した。ギターを聞き慣れない私は初めのうちこそ、「スラー」の出ない楽器の特性が気になっていたが、すぐに気にならなくなった。

 先日、仕事をご一緒して感じたとおりだった。なんと内省的な音楽だろう。私はギターをもっと外面的な楽器だとばかり思っていた。が、荘村さんの弾くギターを聴いて、心の襞を静かに語るための楽器なのだと思った。仕事をして感じた荘村さんの穏やかでやさしく、しかも高潔な人柄が伝わってくる。が、それ以上に人生の悲しみ、苦しみ、喜びがじんわりと伝わってくる。やさしい心の奥に隠れた多感さ、悲しさのようなものも伝わってくる。

 昨晩は、藤林道夫氏らと渋谷でおいしいワインと食事を味わった。かつての仕事仲間であると同時に、3年前に亡くなった親友・北川正氏の共通の友人だった。我がままを通して周囲をいつも困らせながら、多くの人に愛されていた北川氏の思い出話を二人でした。藤林氏は愉快な人物で楽しい時間を過ごせた。が、北川氏を思い出してしんみりして帰った。

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「鴨川」がなくなった! (京都雑感)

 昨日は京都で授業をして、今朝、近くの観光をした。先ほど、東京に戻った。

 2週間前の京都は新型インフルエンザ騒ぎの真っ只中で、歩く人の5人に一人くらいがマスク姿だった。修学旅行生は全員がマスクをしていた。ところが、2週間ぶりに来て見ると、マスクをしている人は皆無に等しい。ただ、修学旅行らしい生徒の姿は見えない。がらんとした感じ。外国人が妙に目立つ。

 渉成園に行ってみた。枳殻邸(きこくてい)と呼ぶほうが通りがいいようだ。私の宿泊地から見えるのだが、初めて足を運んだ。東本願寺の別邸で、徳川家光の時代に作られたらしいが、現在のようになったのは明治になってかららしい。

 が、歴史はともかく、庭園として実に美しい。こじんまりとしながら、池もあり、灯篭もあり、庵もある。京都駅からすぐのところなのに、別の時間が流れている。別世界の箱庭といった風情がある。

 30~40分ほどぶらぶらしている間、この場所を訪れていた観光客は10人程度。そのうち7人ほどが西洋人だった。もしかしたら、ミシュランガイドにここが載っているのか?

 そのまま東京に戻ろうかとも思ったが、もう一度、智積院にいって長谷川等伯の絵を見たくなった。2週間前にも見た(そのときのことは、5月20日のブログに書いた)が、何度でも見たい絵だ。絵に感動してもう一度見たいと強く思ったのは、ゴヤの「暗い絵」とフェルメールの数作に続いて生まれて三度目かもしれない。心の底からゆすぶられる体験は、音楽ではしゅっ中だが、絵画では、私にはめったに起こらない。

 二度目見ても、同じほど感動した。桜の図といい、楓の図といい、宝物館の四方を飾るすべての襖絵が圧倒的な迫力で迫ってくる。金屏風を背景に描かれ、豪華絢爛で勢いがある。が、実に繊細。幹や花の存在感といい風にそよぐ草のたおやかさといい、全体が一つの世界をなしている。「静と動」とでも言うのだろうか。

 音楽についてであれば、ある程度、言葉でその様子を表現できる。が、美術、とりわけ日本絵画となると、私にはどう伝えてよいのかわからない。

 桜の図と楓の図は国宝らしいが、これまで私が知らなかったのだから、それほど誰もが知っている絵というわけではないのだろう。こんなものすごい絵があまり有名ではないとはどういうことなのだろう。目が肥えたら、もっともっとよい絵にめぐり合えるのだろうか。

 智積院からの帰り、2週間前と同じように、また米川先生の幻影に会えるのではないかとひそかに期待していた。が、そんなことは起こらなかった。やはり、前に起こったことは、単に他人の空似でしかなかったのだと、改めて納得した。

 東京に戻る前に、私のひいきの新阪急ホテル地下の美濃吉に寄って昼食をとった。ここの「鴨川」が絶品であることは、前にこのブログに書いたとおりだ。

 だが、その「鴨川」はメニューから消えていた。しばらく前からなかったが、一時的かと思っていた。が、永遠に消えたらしい。「はも御膳」がそれに代わるものとしてあった。これも感動的なほどおいしかった。白味噌仕立てと夏野菜が絶品。

 が、やはり「鴨川」を残してほしい。今度、お店に人に直談判しようか・・・

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