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「之を楽しむ者に如かず」と『タイス』のDVDのこと

324014  先日、「週刊文春」誌に書評を依頼されて、吉田秀和著の『之を楽しむ者に如かず』を読んだ。『レコード芸術』に連載されているころ、ほぼ毎号読んでいたものだが、うっすらとしか覚えていないことに、まず我ながらあきれた。まとめて読んでみると、改めて吉田秀和の思いが強く伝わってきた。

 思ったままを「週刊文春」に書いた。そのうち、掲載されるだろう。この本で、何よりも圧倒されるのは、吉田秀和が「こうでなくてはならない」などと決め付けず、多様な演奏を受け入れ、心から楽しみ、しかも、それぞれの演奏家の意図を実に的確に捉え、それを絶妙の自由な文体で書き連ねていることだ。吉田秀和はもう96歳だという。これらの文章を書いていた時点ですでに90歳は超えていたはず。この瑞々しく、若く、そしてしなやかな知性には驚嘆するほかない。

 これを読むと、これまで「こんなものはワーグナーではない」などとこのブログに書いてきたことが恥ずかしくなる。これからは、反省して、自分と考えのあわない演奏家についても楽しみ、その意図をしっかりと踏まえようと思った。

 ところが、そうは思ったものの、昨日聴いた演奏にさっそく文句をつけたくなった。思うに、私は吉田秀和の境地にはまだまだなれない。聴いてきた音楽の絶対量が違いすぎるのかもしれない。それに、もしかすると、私はもともと吉田秀和のような心の広い人間ではないということかもしれない。

 昨日聴いたのは、ウィーンフィルのコンサートマスターだったウェルナー・ヒンクが中心のウィーン・フィルハーモニア・ピアノトリオによる演奏で、ハイドン「ジプシー・トリオ」、モーツァルトK502、ベートーヴェン「大公」。昭和女子大での公演をのぞかせていただいた。

 もちろん、一人一人は見事なテクニックの持ち主。だから、トリオの能力を問題にしているのではない。しかし、モーツァルトが私の好きなモーツァルトにならない。とりわけこの曲はわくわくするような推進力に富んだ曲だと思うのだが、そうならない。私の大好きな「大公」もベートーヴェンのダイナミズムがない。若々しい力感がない。盛り上がらないまま、ずっとおとなしく終わってしまった。「これはモーツァルトではない」「これはベートーヴェンではない」という自分に禁じた言葉を私はつぶやいていた。私にはハイドンが一番おもしろかった。

 ずっとかかりきりだったワーグナー論がほぼ書き終えた。今月中は、次の本の執筆には移らずに、久しぶりに少しゆっくりしたい。

222  そんなわけで、久しぶりにオペラのDVDを見た。ジャナンドレア・ノセダ指揮、トリノ放送管弦楽団の『タイス』2008年ライブ。だいぶ前に見つけて購入したまま、見る時間が取れずにいた。

 タイスを演じるのは、バルバラ・フリットリ。これは見事。少し前、エヴァ・メイの歌うタイスのDVDを見て、それもすばらしかったが、もしかしたらそれ以上かもしれない。声の伸びがすばらしい。容姿も申し分ない。ただ、ほかの役がもう一つ。アタナエルを歌うラド・アタネリは役柄にぴったりの容姿だが、歌がついていかない。伸びがなく、音程が不安定になる。指揮については、よく知らない曲なので、なんともいえない。

 演出はとてもおもしろい。幻想的で官能的。ただ、局部を隠しただけのほとんど全裸の男たちと、上半身をはだけた女たちが次々と出てくるが、気が散って仕方がない。そんなことをしなくてもエロスを表現する方法はいくらでもあるだろうにと思ってしまう。

 先日、大野和士指揮のリヨン・オペラの『ウェルテル』を見て、マスネのオペラのすばらしさを再認識したが、これをみてもそう思う。私は、『マノン』も『ウェルテル』も『タイス』も『ドン・キショット』もDVDなどの映像で数回見た程度だが、常に心引かれる。『タイス』にしても、「タイスの瞑想曲」だけしか知られていないのでは、あまりに惜しい。そのうち、マスネのオペラをもっと繰り返し聴いてみたいと思った。

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日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

 拝察させて頂きました。
 誠に失礼ながら、ちょっと気になったので、一言。
 「これはモーツァルトではない」と思うことがいけないのではなく、大事なのは「では、私が思うにモーツァルトとはどんなものなのか?」ということをきちんと表現しようとすること、ではないのでしょうか?心の広い狭いとかではなく、「これはダメだ」とただ言うのではなく、「こうであるべきだ」と思うことを意を尽くして表現しょうとすることが大事なのではないでしょうか。
 吉田秀和氏は、それをされる方であると思います。勿論、氏が述べられる所が、共感出来る部分が多い、というのは個人的にもあるのではありますが。

投稿: Verdi | 2009年11月24日 (火) 02時21分

Verdi様
コメントありがとうございます。ブログも拝見しました。とても勉強になりました。
ところで、吉田秀和氏の本についてですが、少なくとも今回の本に関しては、「心を広く」という点が強く押し出されているように感じられます。「レコ芸」の連載を読んでいる時にはそれほど強く感じていなかったのですが、まとめて読んでみると、決め付けて断罪することに対して遠まわしに警告を発しているように思えます。
今週号の「週刊文春」に私の書評が出ます。そこにはもう少し正確にこの本についての私の考えを書いていますので、もしよろしかったら立ち読みなさってください。
また、私の場合、自分にとっての作曲家像をかなり強く持ち、それに合わない演奏を激しく断罪する傾向があります。それを自戒する意味で、今回の文章を書いたのでした。ご理解いただけると、嬉しく思います。

投稿: 樋口裕一 | 2009年11月24日 (火) 10時24分

 こんにちは。お返事恐縮です。
 「之を楽しむ者に如かず」は勿体無くてまだ全部読んではいないのですが(一気に読んでしまうのは勿体無い!)、確かに以前の氏に較べても、一層心を広くというか、間口を広くとろうとしておられるのでしょうね。(アンドレア・ルケシーニの件の際は失礼ながら「この人にして尚これありか...」と思ったものでした(笑))
 やはり「斯くあれかし」と思う気持ちは誰しもあると思うし、それは逃れられないと思います。さればこそ、「何故斯くあらねばならないのか?」ということを書くのが、こういうことに関するコミュニケーションなのだろうな、といつも思っています。実践しようとするのさえ誠に難しいのではありますが...... 実は、だから、本当は、私は以前の吉田秀和氏の文章 - そのようであろうとする文章だと思うのですが - が好きだったりはするのです。が、年々歳々人同じからず、今の吉田氏も嫌いではありません。
 とまれ、失礼を致しました。書評の方、楽しみに致しております。

投稿: Verdi | 2009年11月25日 (水) 22時53分

Verdi様
コメントありがとうございます。
吉田秀和氏のこと、おっしゃるとおりだと思います。私も、なぜそうでなければならないかについて、自分なりにつねに考えているつもりです。が、どうしても独りよがりになります。吉田秀和氏の文章を読んで、自分の偏った思い込みに気づかされます。
私の書いた「書評」はたいしたものではありませんので、そのおつもりで・・・

投稿: 樋口裕一 | 2009年11月26日 (木) 00時12分

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