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私は音楽評論家ではない!

 先日、このブログに、かなり罵倒の言葉に満ちたコメントが寄せられた。初めから喧嘩腰だったので、私自身のブログポリシーにしたがって、すぐに削除した。このような場で泥仕合をしたくないためだ。

その方は名前を名乗っておられ、しかも、音楽学の領域でかなり地位のある方のようだった。地位のあるインテリにはあるまじき一方的な決め付けや感情的な表現がかなり見受けられたので、もしかすると、誰かが名前を騙っているだけかもしれないが、誤解を正すべく、その方の勤め先と思われるところに私信を出させていただいた。もし、ご本人が本当に書かれたのであれば、きっと私の立場をわかってくださると信じている。もし、それでも態度を変えないようであれば、何らかの対応策を考える必要があるかもしれないが、今はそのつもりはない。

その方のコメントを一言で言えば、「音楽評論家というのはそもそも金魚の糞のような存在だから、思い上がるな。それに、あなたの音楽評論など、ちょっと音楽が好きなら、誰でもできるレベルだ。もっと音楽学の勉強をしろ」という趣旨だった。

まるで音楽を専門的に勉強した人間以外は音楽について語る資格がないといった態度でおられることにも問題を感じないでもないが、それについては、そのうちもっと考えを深めてから書こう。今日は私自身のことに限定して書く。

私はこのコメントに大いに心外だった。その理由は二つ。ひとつはその方は私を「音楽評論家」だと思いこんでいること、もうひとつは、私がまるで高レベルの音楽評論を書こうとして書けずにいると思い込んでおられることだ。

このブログを少し読んでいただければ誰もがすぐにわかると思うが、私は音楽評論家ではない。「音楽評論家としても活動している」と自己紹介することはあるが、自分で音楽評論家と名乗ったことはない。雑誌のプロフィールなどで、稀にそのようになっていることもあるかもしれないが、それは雑誌の企画や字数の関係でそのようにされてしまった場合だ。

いうまでもなく、私は、「クラシック音楽が大好きな〈もの書き〉であり、小論文・作文指導者」だ。そのような立場で、クラシック音楽を少しでも多くの人に聴いてもらおうと、本を書いたり、雑誌の取材を受けたり、コンサートの進行をしたりしている。とりわけ、初心者に向けて、クラシック愛好者の先輩としてクラシックの楽しさをわかってもらおうとしている。クラシック愛好者は眉をひそめるだろうと思われるような安易な企画でも、何はともあれ、どんな形であれ、クラシックに触れる人が増えればいいと考えて、できるだけ引き受けている。

だから、私は専門的なことは敢えて書かないし、書く能力があるとも思っていない。和声学の基礎さえ知らない。それでかまわないと思っている。素人の立場から音楽のすばらしさを発信していくのが、私に与えられた役割だと思っている。

だから、私を音楽評論家の一人として非難されても困る。書くことが素人っぽいといわれても困る。わざわざ素人っぽく書いているのだから。私を三流の音楽評論家とみなされても困る。私は、ちょっと自負して言えば、一流の素人音楽愛好者だ。

 しかし、一人の方がそのようなコメントを寄せられたからには、多くの方が同じように思っているかもしれない。そうだとすると、私としては実に居心地が悪い。それに、確かに、私自身にも曖昧なところがあった。音楽評論家として扱われることを喜ぶ心もないではなかった。

 ここではっきりと、自分に対しても、ほかの方に対しても宣言する。私はこれからも音楽評論家めいた仕事もしたいとは思っているが、音楽評論家として生きていくつもりはないし、その能力はない。楽譜を読めないし、ドイツ語もできない。私はあくまでも音楽好きの著述家、文学を専門とした音楽愛好者として、音楽にかかわる。これまではクラシック初心者に向けて発信することが多かったが、これからはもう少し音楽について本格的に論じることはあるかもしれない。しかし、その場合も、音楽評論家としてではなく、文学の専門家として語ることを明確にする。

 これから、プロフィールなどにも「音楽評論家」という言葉を使わないようにする。別の言葉を考える。「一流の素人音楽愛好者」ではあまりにわかりにくいので、「ちょっと考えてみることにする。

いずれにせよ、罵倒されるのは気持ちのよいことではない。ここ数日、不快が残った。

というわけで、ここで少し楽しい話題を。

27日(金曜日)、多摩大近くのフランス料理店エル・ダンジュで多摩大関係者と会食。実においしかった。鯖の何とかという最初の皿と、ごぼうを使った料理に感嘆! 本当にうまい。 ちゃんと素材の味を出し、それをフランス料理にしてくれている。メインディッシュの鴨もうまかったが、鯖とごぼうは格別だった。料理評論家の山本益博さんとお会いしたとき、ぜひエル・ダンジュで食べてみるようにお勧めしておいた。

29日には、友人である東京シティフィルのフルート奏者の海治さんと、ミュゼット・アコーディオンのさと達三さんのライブを国立の「奏」という店で聴いた。フランスのシャンソンが中心だが、海治さんは数曲、クラシックも吹いてくれた。バッハは気合が入っていた。超一流の演奏とは異なるが、和気藹々とした雰囲気の中で音楽を楽しむのは実にいいい。これが本来の音楽のあり方だとつくづく思う。30人ほどの客に私の知り合いはいなかったが、十分に楽しめた。

30日の今日、朝、家を出て京都に行き、もう一つの贔屓の店、美濃吉・新阪急店でおいしい昼食を取って、京都産業大学で仕事をした。授業を終えてすぐに、京都駅から新幹線に飛び乗り、今、大分市内のホテルに泊まっている。駅からホテルに歩いていたら、小中学校時代の友人である曽根崎寿氏に会い、おいしい寿司屋に連れて行ってもらった。確か、すし善という名前の店だったと思う。

明日、大分の県立短期大学で講演をし、その後、両親のいる日田市に行く予定。

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ブロムシュテットはドヴォルザークも凄かった!

 昼間、多摩美術大学で、学生対象の「話し方講座」の講演をした。とてもよい学生さんたちだった。芸術オタクで文学青年で思想かぶれだった40年前の自分を思い出した。「芸術家ぶれのままだと、私みたいに苦労するから、少しはコミュニケーション力をつけなさい」という趣旨の話をし、人見知りの激しい人間でもすぐに身につけられる話し方のコツを説明してきた。不遇の中で私が少しずつ獲得したコツだ。たぶん、学生さんに役に立ったと思う。

 講演の後、上野に直行して、東京文化会館でブロムシュテット指揮、チェコ・フィルのドヴォルザークの8番と9番を聴いた。

 一昨日のブルックナーに劣らないすばらしい演奏だった。もしかしたら、一昨日とともに今年最高の演奏だったかも。

 私はブルックナーは、交響曲作曲家の中では、ベートーヴェン、ブラームスとともに大好きなので、めぼしい演奏家が来日するごとに聴きにいく。が、ドヴォルザークはもちろん好きな作曲家の一人だが、それほど思い入れがないので、実を言うと、それほど何度も実演を聴いているわけではない。私の乏しい経験からいうと、今日の8番と9番は、これまで聴いた最高の演奏だった!!

 年齢とともに涙もろくなって、音楽を聞くと涙が出てくることがあるが、8番でも9番でも涙が出てきた。

 8番は最初から最後まで、引き込まれっぱなしだった。私は実はこの曲はあまり好きではなかった。第二楽章と第三楽章のまとまりが悪く、私はしばしば自分がどこにいるのか見失う。ところが、ブロムシュテットの演奏は、まったくそんなことはなかった。力感に溢れ、知的に構築され、しかも自然に流れる。だから、まとまりが悪いなど、まったく感じなかった。第四楽章はとりわけ圧巻。そうか、ブロムシュテットは実はかなり知的に構築する人なんだと、改めて思った。音楽が自然に流れるので、あまりそのような印象を受けないが、実は見えないところで知的にコントロールしているのだろう。

「新世界」は、第一楽章は少し物足りなかった。8番がすばらしかったので、9番はもっと凄いだろうと期待していたのだが、抑え気味の感じがした。が、第二楽章ごろから載ってきたように思えた。じんわりと、しんみりと郷愁がかきたてられた。イングリッシュホルンもいいし、フルートもいいが、弦の音もすばらしい。トレモロもとても美しかった。

 そして、第三楽章のスケルツォのリズムの素晴らしさ。こんなにいきいきとした曲だったのだと改めて思った。そういえば、以前、ブロムシュテットの『カルミナ・ブラーナ』を聴いて、そのリズムとエネルギーに圧倒されたことがあるのを思い出した。今回もそんな演奏だった。

 第四楽章は初めから全力を出し、じつにうまく山があり谷があって、最後、最高の盛り上がりを見せた。

 ブロムシュテットは大巨匠だ! 今月号の「レコ芸」の「現代の名指揮者上位48位」にも入っていないが、過小評価もはなはだしい。今回の来日に限っていえば、私はヤンソンスよりもはるかの強い感動を得た。

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ブロムシュテット指揮チェコ・フィルのブルックナー8番に涙を流した!

 今日(1123日)、サントリーホールで、ブロムシュテット指揮チェコ・フィルのブルックナーの交響曲第8番を聴いてきた。すばらしい演奏だった。先日聴いた、シャイー指揮のゲヴァントハウス管弦楽団の4番に匹敵する。いや、それ以上か。

 チェコ・フィルの音がすばらしい。ただし、たぶん、性能的には、最近聞いたゲヴァントハウスにも、バイエルンにも劣るのかもしれない。第一楽章のトレモロの音など、あまり美しいとは思わなかった。だが、シャイーの指揮するゲヴァントハウスよりもこちらのほうがドイツらしいといえそう。低弦の音、そして金管楽器が渋くていい。

 私は、大のヴァント・ファンなので、どうしても、ヴァントの録音と比べてしまう。最初のうちは、ヴァントに比べてオーケストラのコントロールが甘いのを少々不満に思っていた。シャイーと比べてもかなり甘い。ややアバウトな感じが付きまとう。とりわけ、弱音の部分で、決然としない。オケの団員に任せているのか。意図的に何かをしているようには見えない。見た目にも見えないし、音からもそれはあまり伝わらない。音楽の構成もよくわからない。多少、行き当たりばったりな気がしないでもない。が、自然なしっかりした音が出てくる。それこそ、間違いなくブルックナーの音だ。

 そして、そうこうするうち、だんだんと盛り上がってきた。第三楽章以降は、興奮してきた。音楽が自然なのがいい。ヴァントのようにコントロールしないのも、それはそれでいいものだと思った。いや、もっといえば、これを聴きながら、もしかすると、こちらのほうがヴァントのように完璧にコントロールするよりもブルックナーらしいのかもしれないと、ちらと思った。第四楽章は、ほとんど最初から最後まで、私は音に身を任すだけだった。最後のコラールは、文字通り、身体がしびれた! 曲のすばらしさもあって、シャイー+ゲヴァントハウスより、もっと感激した。

 ブロムシュテットは何度か聴いたことがあるが、こんなに感動したのは初めてだった。こんなに凄い指揮者だったとは! 不明を恥じる気持ちになった。

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二期会『カプリッチョ』を見た

 1121日、日生劇場で、東京二期会による『カプリッチョ』公演を見た。ダブルキャストだったが、私が見たのは、マドレーヌを釜洞祐子がヒロインを演じるものだった。

 私は、若杉弘指揮による日本初演を見ている。サヴァリッシュ指揮でシュヴァルツコップの歌うレコードは聴いていたが、映像を含めて初めて舞台を見て、かなり感激した。数年後には、ザルツブルク音楽祭でホルスト・シュタイン指揮、ウィーンフィル。アンナ・トモワ・シントウがヒロインの上演を見た。これはもっと凄かった。

 今回の上演は、ザルツブルグでの上演ほどではないが、かなりのレベル。指揮は沼尻竜典、オーケストラは東京シティ・フィルだが、見事だと思う。室内楽的な雰囲気、シュトラウス特有の甘美性を出している。フラマンの児玉和弘、オリヴィエの友清崇、クレロンの谷口睦美、ラ・ロシュの山下浩司は見事。釜洞祐子が特にいい。男声陣には、よく聞くと、ちょっと音程のあやしいところや声が伸びなかったところがあったが、全体的に、このくらい歌ってくれれば、何の文句もない。ロシュが演説をする前の7重唱や8重唱は、織りなされる声の襞が見事だった。

 ただ、これも演出にやや問題を感じた。

 本来は、フランス革命の時期のパリ郊外での貴族の館が舞台なのだが、1940年代のパリに移されている。つまり、リヒャルト・シュトラウスがこのオペラを作曲した当時に移したということだろう。序曲の間に、ナチスの軍服が見えるので、ちょっと驚くが、その後はしばらく何事もなくオペラは続く。

 驚くのは、第二幕の後半に入ってから。議論が終わって、客たちが家に戻ろうとする時、ナチスの軍服を着た人々がどかどかと入ってくる。そして、客の数人を乱暴に扱う。とりわけ、ロシュに何かを命じている様子。ロシュはこっそり、フラマンとオリヴィエを逃がす。そのような様子が歌と関係なく、黙劇で展開される。

 どうやら、リヒャルト・シュトラウスが、当時、ナチに協力せざるを得ない状況に置かれ、ひどい扱いを受けながら、芸術家たちを擁護した様子を、ロシュに託して描いているようだ。

 もっと驚いたのは、その後、召使たちがナチスに軍服で現れること、そして、マドレーヌの最後のアリアが、老いた姿で歌われること。召使の姿は軍服だが、歌の内容は明らかに召使のものなので、資格と聴覚にかなりのギャップがある。

 マドレーヌの老いた姿も歌の内容と合わない。どうやら、マドレーヌを、シュトラウス夫人のパウリーネに託しているようだ。つまり、作曲当時のシュトラウス夫妻の様子を、ここでロシュとマドレーヌに重ね合わせたということだろう。

 ちょっとこの演出にも唸ってしまった。

 私はシュトラウス・ファンなので、演出意図を推測できる。きっと、作曲家はこのような状況で作曲したのだろうと思う。だが、それを演出に加える必要があるのか。そのような状況がこのオペラのなかにあるのなら、もっと誰にもわかる形で提出するべきではないかと思う。それに、演出としてなされていることと台詞がこれほどかけ離れていてよいのか。

 今回に関しては、新国立の『ヴォツェック』のように怒りは覚えない。が、演出に対して、このような行きすぎが広まることを危惧したい気持ちになる。

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新国立『ヴォツェック』演出は、あまりに陳腐!

 今日(1118日)、新国立劇場の『ヴォツェック』を見てきた。指揮はハルトムート・ヘンヒェン、演出はアンドレアス・クリーゲンブルク。東京フィルハーモニー交響楽団。私は、かなり怒っている!

 演奏に関しては、悪くないと思った。かなりのレベルでそろっていたと思う。ヴォツェックを歌うトーマス・ヨハネス・マイヤー、マリーのウルズラ・ヘッセ・フォン・デン・シュタイネン、鼓手長のエンドリック・ヴォトリッヒ、アンドレスの高野二郎、大尉のフォルカー・フォーゲル、医者の妻屋秀和ら、いずれもしっかりしている。ずば抜けてすばらしいということはないが、しっかりと歌い、しっかりと演じている。今回の公演では、歌手がもっとも充実していると思った。ただ、演出に目を奪われて、しっかりと歌に集中できなかったのが残念。

 指揮に関しては、私はもっと感動すると思っていたのだが、期待ほどではなかった。鋭利に切り込みたいのか、ロマンティックな要素を強調したいのか、それをどう調和させたいのかはっきりしない。私が期待していた魂を震撼させるような鋭利で強烈な音はまったく聞こえなかった。東京フィルも、取り立ててミスはなかったと思うが、聴衆を熱狂させるには至らなかった。が、これは、何度目かの上演ではもっと慣れてきて、もっと鋭い音が出てくるのかもしれない。

 問題は演出だ。

 カーテンコールに演出家たちが登場すると、一部から激しいブーイングが起こった。私は、ブーイングに値しないと思った。ブーイングというのは、斬新すぎる演出に対してするものだ。今回の演出については、失笑するしかないと思った。

 斬新な演出けっこう。原作の中にある要素を鋭く読み取ってそれを形象化するのであれば、是非してほしい。だが、自分では新しいと考えて、原作にないものを作り出すのは、陳腐としか言いようがないと私は思う。

 今回の演出では、最初から最後まで、ヴォツェックとマリーの子が舞台上にいて、ずっと小芝居をしている。もちろん、原作では、ほんの少し登場するだけの人物だ。壁に字を書いたり、母親に歯向かったり。どうやら、この子どもはお父さん子で、父親になつき、母親を嫌っているらしい。母親に向って、ドイツ語で「売女」と壁に落書きしたりする。

 そもそも、演出において登場人物に文字を書かせるというのは、演出家の能力不足を自ら示しているに過ぎないと私は思う。

 そもそも、子どもが母親を憎んでいるという要素はビュヒナーにも、ベルクにも現れないはずだ。しかも、このような設定にしたために、最後の、母親の死を知らされても幼すぎてそれがわからずに、お馬ごっこをしているシーンが意味不明になってしまっている。

 このような演出が許されるのであれば、たとえば、二人の間の子どもが虐待されているというストーリーも、あるいは逆に、貧しいにもかかわらず過保護に育てられているというストーリーも作れるだろう。何でもありになってしまい、演出家が勝手に自分のストーリーを作れることになってしまう。

 この種の演出が最近増えているようだ。一昨年のバイロイト音楽祭の『パルジファル』も同じ傾向だった。ワーグナーの音楽と歌に乗せて、原作とはまったく異なる物語をパントマイムでやっているような舞台だった。これが許されるのなら、たとえば、『パルジファル』の音楽を使って、たとえば『源氏物語』のストーリーを描くことだって可能だろう。

 

 子どもが出ずっぱりであることと、もうひとつ、最初から最後まで舞台に水が張られているのも、今回の演出の特徴だ。登場人物は、みんな水の上をチャポチャポいわせながら歩く。しかも、そこに黒服の貧しい男たちが集まっている。これにもどんな意味があるのか。

 大量の水を使い、設備に莫大な金を使い、登場人物に大変な思いをさせているわりには、ほとんど何の益もないように見える。

 こんな陳腐な思いつき演出ではなく、もっと本当に斬新な演出はできないものか。お金と労力をこれほどかけずに、もっと刺激的でもっと考えさせられる演出をする才能ある演出家は、ほかにもたくさんいると思うが。

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「之を楽しむ者に如かず」と『タイス』のDVDのこと

324014  先日、「週刊文春」誌に書評を依頼されて、吉田秀和著の『之を楽しむ者に如かず』を読んだ。『レコード芸術』に連載されているころ、ほぼ毎号読んでいたものだが、うっすらとしか覚えていないことに、まず我ながらあきれた。まとめて読んでみると、改めて吉田秀和の思いが強く伝わってきた。

 思ったままを「週刊文春」に書いた。そのうち、掲載されるだろう。この本で、何よりも圧倒されるのは、吉田秀和が「こうでなくてはならない」などと決め付けず、多様な演奏を受け入れ、心から楽しみ、しかも、それぞれの演奏家の意図を実に的確に捉え、それを絶妙の自由な文体で書き連ねていることだ。吉田秀和はもう96歳だという。これらの文章を書いていた時点ですでに90歳は超えていたはず。この瑞々しく、若く、そしてしなやかな知性には驚嘆するほかない。

 これを読むと、これまで「こんなものはワーグナーではない」などとこのブログに書いてきたことが恥ずかしくなる。これからは、反省して、自分と考えのあわない演奏家についても楽しみ、その意図をしっかりと踏まえようと思った。

 ところが、そうは思ったものの、昨日聴いた演奏にさっそく文句をつけたくなった。思うに、私は吉田秀和の境地にはまだまだなれない。聴いてきた音楽の絶対量が違いすぎるのかもしれない。それに、もしかすると、私はもともと吉田秀和のような心の広い人間ではないということかもしれない。

 昨日聴いたのは、ウィーンフィルのコンサートマスターだったウェルナー・ヒンクが中心のウィーン・フィルハーモニア・ピアノトリオによる演奏で、ハイドン「ジプシー・トリオ」、モーツァルトK502、ベートーヴェン「大公」。昭和女子大での公演をのぞかせていただいた。

 もちろん、一人一人は見事なテクニックの持ち主。だから、トリオの能力を問題にしているのではない。しかし、モーツァルトが私の好きなモーツァルトにならない。とりわけこの曲はわくわくするような推進力に富んだ曲だと思うのだが、そうならない。私の大好きな「大公」もベートーヴェンのダイナミズムがない。若々しい力感がない。盛り上がらないまま、ずっとおとなしく終わってしまった。「これはモーツァルトではない」「これはベートーヴェンではない」という自分に禁じた言葉を私はつぶやいていた。私にはハイドンが一番おもしろかった。

 ずっとかかりきりだったワーグナー論がほぼ書き終えた。今月中は、次の本の執筆には移らずに、久しぶりに少しゆっくりしたい。

222  そんなわけで、久しぶりにオペラのDVDを見た。ジャナンドレア・ノセダ指揮、トリノ放送管弦楽団の『タイス』2008年ライブ。だいぶ前に見つけて購入したまま、見る時間が取れずにいた。

 タイスを演じるのは、バルバラ・フリットリ。これは見事。少し前、エヴァ・メイの歌うタイスのDVDを見て、それもすばらしかったが、もしかしたらそれ以上かもしれない。声の伸びがすばらしい。容姿も申し分ない。ただ、ほかの役がもう一つ。アタナエルを歌うラド・アタネリは役柄にぴったりの容姿だが、歌がついていかない。伸びがなく、音程が不安定になる。指揮については、よく知らない曲なので、なんともいえない。

 演出はとてもおもしろい。幻想的で官能的。ただ、局部を隠しただけのほとんど全裸の男たちと、上半身をはだけた女たちが次々と出てくるが、気が散って仕方がない。そんなことをしなくてもエロスを表現する方法はいくらでもあるだろうにと思ってしまう。

 先日、大野和士指揮のリヨン・オペラの『ウェルテル』を見て、マスネのオペラのすばらしさを再認識したが、これをみてもそう思う。私は、『マノン』も『ウェルテル』も『タイス』も『ドン・キショット』もDVDなどの映像で数回見た程度だが、常に心引かれる。『タイス』にしても、「タイスの瞑想曲」だけしか知られていないのでは、あまりに惜しい。そのうち、マスネのオペラをもっと繰り返し聴いてみたいと思った。

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五嶋みどりとヤンソンス

 1116日、サントリーホールで、マリス・ヤンソンス指揮、バイエルン放送交響楽団で、五嶋みどりの加わるベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲、後半はチャイコフスキーの交響曲第五番を聴いた。一言でいえば、ベートーヴェンは「凄すぎる」演奏。チャイコフスキーは文句なく素晴らしい演奏。

 五嶋みどりについては、まさしく巫女のような神がかった演奏。孤高の世界に入り、信じられないほどの集中力で独自の世界を語る。聴衆を引き込む力たるや、尋常ではない。私は息をするのも忘れて、ヴァイオリンの音に集中した。ヤンソンスも楽団員も、あまりに独自のベートーヴェンに必死についていこうとしているように見えた。

 五嶋みどりは、良い意味でも悪い意味でも「妖怪」の域に達したと思った。俗なところでは、美空ひばりや美輪明宏など、クラシック音楽の世界では、パヴァロッティやジェシー・ノーマンなどがその域にあった。何をやってもほかとまったく違った独自の世界を作り出す。ものすごいカリスマ性を持っている。ある種の信仰を醸し出す。楽器の演奏家よりも、声楽家にこのタイプは多い。

 ただ、私が五嶋みどりのベートーヴェンを好むかと言うと、そうとは言い切れない。息苦しくって仕方がない。ベートーヴェンの第九ではないが、「こんな音楽ではない、もっと楽しい音楽を奏でようではないか」といいたくなる。ヴァイオリンの音が中断して、オーケストラになると、ほっとして解放感を覚えている自分を発見する。

 もう一つ思ったのは、五嶋みどりの音楽は妙に曲線が多いということだ。比喩的な言い方だが、ある種の歪みを覚えてしまう。アンコールのバッハの無伴奏ソナタでもそれを感じた。バッハもベートーヴェンも、五嶋みどりの手にかかると、直線を中心にした大伽藍ではなく、ガウディのサグラダ・ファミリアのようなものが構築される。私が好んで聞いてきた直線を中心とした音楽とあまりに違うので、かなり驚いた。

 結論としては、「五嶋みどりは凄すぎる! もう少し凄くない演奏で、私はベートーヴェンを聴きたい」と言うに尽きる。

 後半のチャイコフスキーについては、文句なしにすばらしかった!

 品の悪い感情過多のねちっこいチャイコフスキーではない。格調高すぎる純音楽的なチャイコフスキーでもない。その両者のバランスを見事に取った、しっかりと楽器を鳴らし、構造をはっきりさせ、美しくも悲しく歌い上げた見事なチャイコフスキー。まさしくチャイコフスキーの「運命」とでもいうべき曲が、ドラマティックに迫ってきた。

 弦楽器の音が実にドイツ的。だが、それがしっかりとチャイコフスキーを歌い上げる。管楽器も見事。第二楽章のホルンの美しさに息を呑んだ。最高レベルのオケだと思った。

 アンコールの「悲しきワルツ」は私の好きな小曲だが、実に雰囲気があっていい。まるで北欧のオケのような音だった。最後はヨーゼフ・シュトラウスの「憂いもなく」。楽団員が一斉に声を出す。これは「ニューイヤーコンサート」か何かで見たことのある曲。楽しかった。

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多摩大20周年コンサート後日談

 先日、このブログにも書いたとおり多摩大学創立20周年記念コンサートとしてパルテノン多摩で行った佐藤俊介・菊池洋子のデュオコンサートは大成功に終わった。

 私のもとにも口々に感激の声が寄せられた。多くの人が、「最高のコンサートだった」「若手二人がすばらしいとは聞いていたが、こんなにすばらしい演奏をするとは思わなかった」といってくれた。

 このコンサートを企画し、少しでも多くの人に聴いてもらおうと必死に奔走したスタッフの一人である私は大いに気をよくした。多摩大の職員の皆さんとともに私のゼミが総力を挙げて、運営にあたったのだから、最高の気分だった。

 できれば、もう少し多くの客を集めたかった。相当数の中学・高校の団体客を見込んでいたのだが、新型インフルエンザのために、先生が引率して来るのをためらい、結局、中学・高校の団体客はゼロだった。それについては、残念だったが、やむをえない。

 そのアンケートを見ることができた。もちろん、大好評だ。

 アンケートも308枚が回収され、コンサート全体についての印象について答えてくれた267人中「大満足」と答えた人が156人、「満足」と答えた人が108人、「普通」12人、「やや不満」3人だった。これは大変な数字だと思う。コメントにも、口々に感激が書き綴られている。

 ただ、私がかなりショックだったのは、私のプレトークやインタビューを批判するコメントが10通ほどあったことだ。私のしゃべりをほめてくれるコメントもあったが、批判的なもののほうが多かったような気がする。

 

「プレトークは必要ない」「進行は不要」というようなコメントがあった。「こんな初心者向けのトークをするなんて、バカにしているのか」などと怒っている人もいた。

 だが、観客の中にクラシック初心者の多摩大生がたくさんいたのだ。そんな学生が退屈してうるさくしないように、周囲の観客の迷惑にならないように、演奏者の気分を損ねないように、私は必死に初心者向けにしゃべったのだ。そして、その効果があったので、みんな熱心に聞いてくれたと思う。私を非難する人にそんな事情もわかってほしい!

「司会者である樋口が演奏者にインタビューをして、相手の話を遮って自分のことを話すのが不快だった」「樋口のMCがよくない」といったコメントもあった。

 だが、実は、私は司会やMCをやったつもりはなかった。私は、このコンサートを企画し、二人の演奏家を呼んだ人間、しかも作家として音楽評論家として多少は知られている人間として、つまりは二人の演奏家と同等の人間として、二人と気さくな話をしたつもりだった。佐藤さんとも相談して、そのほうが、初心者には親しみやすいと判断したのだった。それに、確かに二人は未来の大演奏家だが、今の時点では、私のほうがもしかしたら知名度があるかもしれない。少なくとも、私のほうが人生の先輩だ。だから、二人の演奏家がしゃべっているときも、それをさえぎって話をした。それがどうやら、私のことを知らない人に傲慢に見えたらしい。単なるMCのくせに無礼と思われたようだ。

 もっと謙虚にして、あくまでも無名の司会者に徹するか、あるいは逆にもっと偉そうにして、観客に、私が只者ではないことを示すような態度を取ればよかった。中途半端な態度を取ったために、むしろ傲慢に見えてしまった。

 今回のコンサートの観客には、クラシック体験として様々なレベルの人がいた。何をしても、満足してもらえなかっただろう。が、もう少し、考えて行動するべきだったと反省!

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ヤンソンスのワーグナーは私の好きなワーグナーではなかった!

 11日、マリス・ヤンソンス指揮、バイエルン放送交響楽団のサントリーホールのコンサートに行った。前半は、ヨー・ヨー・マを独奏に迎えてのドヴォルザークのチェロ・コンチェルト。

 近年のヤンソンスらしいしなやかでありながらも、鳴らすべきところはしっかり鳴らし、しかも形が崩れずに品格のある演奏。オケはとりわけ木管と弦が見事だと思った。私は、ドヴォコンを聞くと、切ない気持ちになり、ノスタルジーに似た気分に襲われる。バイエルンの音にしびれた。これもドイツの音がする。ちょっと明るめの南ドイツではあるが。

 私は実は、長い間、ヨー・ヨー・マのチェロが好きではなかったた。あっけらかんとした演奏だと思っていた。遅ればせながら、最近になってやっとドイツ的な重みとは違う魅力を理解できるようになった。傍からは脱力系に見えながら、実は奥深い軽みをもっていると思うようになった。アンコールのバッハなど、まさしくそのような演奏。指揮もオケも独奏もすばらしかった。

 後半はワーグナー。『タンホイザー』序曲と「ジークフリートのラインの旅」と「ジークフリートの葬送」と「ワルキューレに騎行」。

 はっきり言って、まったくおもしろくなかった! 先ごろ販売されたヤンソンス+バイエルンのワーグナー管弦楽曲集のCDもあまりおもしろくなかったが、実演も、私にはおもしろくなかった。私はヤンソンスが大好きで、来日のたびに追いかけてきたが、これは私の経験したヤンソンスのワースト1。

『タンホイザー』のなかにエロスと宗教のせめぎあいがない。『ワルキューレ』にもワーグナーの毒がない。倒錯がない。狂気がない。うねりがない。ドラマがない。あまりに健康的で、ただでかい音でいくつもの楽器が鳴っているだけ。

 昔、オーディオ製品を買うと、音の威力を聞かせるサンプルレコードが付録についてきた。ホルストの『惑星』やら、『ツァラトゥストラ』の冒頭などの、音響的に聴きばえのする音楽が抜粋されていたものだ。そして、それらは演奏の質としてはたいしたものではなかった。今日のヤンソンスのワーグナーはそれに似た演奏だった。

 ヤンソンスが不調というわけではない。これがヤンソンスの考えるワーグナーなのだろう。それが私の好きなワーグナーではないというだけのことだ。だが、育ちのよいヤンソンスには、私の好きなワーグナー、つまりは、あらゆる要素が入り混じり、きれいごとでは対処できないワーグナーを演奏するのは無理なのではないかと思った。

 アンコールの1曲目は、ハイドンのメヌエットといわれていたものだったと思う。確か、ボッケリーニ作曲ということになったのでなかったか。アンコール曲の掲示を見ないまま出てしまったので、もしかしたら不正確かもしれない。これはよかった。が、2曲目は『ローエングリン』の第三幕への前奏。これも私にはダメだった。

 次回のヤンソンスとバイエルンの公演は、五嶋みどりのヴァイオリンによるベートーヴェンのコンチェルトとチャイコフスキーの交響曲第五番だ。それはきっとすばらしいはず。それに期待しよう。

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多摩大20周年コンサート大成功!

 昨晩、パルテノン多摩で開かれた佐藤俊介・菊池洋子のデュオ・コンサート(多摩大学20周年記念コンサート)は、まさしく大成功だった! すばらしい演奏、すばらしい聴衆、そして、手前味噌ながら、多摩大の職員と樋口ゼミの学生スタッフもすばらしかった(私の喋りについては、少なくともすばらしくはなかったと思う)。

 クライスラーの「愛の喜び」ではじまり、プログラムを変更して、次にファリャの「スペイン民謡組曲」より「ホタ」。ヨハン・シュトラウスの「トリッチ・トラッチ・ポルカ」はアンコールに回した。ゲネプロで演奏者と相談して、そう決めたのだった。この変更は、大成功だったと思う。

 その時点で、すでに佐藤さんのヴァイオリンの軽く弓を降ろしながらも、豊穣で鋭い音が出て、実にダイナミックなことに驚嘆。菊池さんのピアノはダイナミックでありながらも繊細で呼吸もぴったり。ただ、実は私はそれらの曲の間は、舞台裏で雑用をしていたので、しっかりと聞いていない。

「カプリース」から、客席で聞いた。2番と11番。テクニックだけでなく、一人でこの曲を組み立てていく力量にも驚嘆。無伴奏曲はベテランでも組み立てがあやふやになって崩壊することがあるのに、まったくそんなことはない。しかも、テクニックをひけらかして華麗に弾くのではない。魂に響く。すばらしいカプリース!

 次の「ツィガーヌ」も凄まじかった。曲自体もすばらしいが、演奏のダイナミズムが見事。途中で弦が切れるというハプニングがあった。が、佐藤さんは動じることなく、ひっこんで弦を張替え、少し前から繰り返した。

 全曲通して聴きたかった! が、ソリストの弦が切れるという、私も初めての経験をしたので、それはそれで大変おもしろかった。それに、同じ部分を二度聴けてもうけたとも思った。観客もむしろこのハプニングを好意的に見ていたようだ。

 前半、本当にすばらしかった。が、それは後半への幕開けにすぎなかった・・・というと、まるで安手の決まり文句のようだが、まったくそうだった。

 フランクのソナタのすばらしさよ!!

 ロマンティックに思い入れをこめるのではない。かなり丹精に弾いている。が、じわじわとフランクの熱い思いが伝わってくる。ロマンティックにうねり、ドラマティックに激動し、魂を熱くする。音楽の組み立ても、私のわかる限り完璧。ヴァイオリンの音色、ピアノのうねり、ともに言うことなし。

 第四楽章では、これが私自身が企画に関わったコンサートだということも忘れ、ただただ音楽に感動し、涙が出そうになった。

 フランクのソナタは、これまで何度も聴いてきた。CDは30枚近く持っているはずだ。が、こんなに完成度が高く、こんなに感動したのは初めてだった。

 フランクのソナタの終了後、樋口ゼミを代表して、池田さんと新城君から花束贈呈。その後にアンコール曲として、粋で元気で活発な「トリッチ・トラッチ・ポルカ」。大喝采だった。

 残念ながら、超満員ではなかった。中学・高校の団体客が入るはずだったのが、新型インフルエンザの影響で自粛され、集客が思ったほど伸びなかった。が、多摩大生をはじめとしてクラシック音楽にはじめて触れる人も多かったと思うが、実にしっかりと聴いてくれた。感動している様子が伝わってきた。

 終演後、友人・知人から口々に感激の声を聞いた。音楽関係の知人からも、同じように絶賛をいただいた。この企画に関わって本当によかったと思った。人生最良の日の一つだと思った。

 ところで、このような雰囲気を作るのは、実は関係しているスタッフだということがあまり認識されていない。

 たとえば、私はしばしば講演にいって話をする。話しやすいときもあるが、そうでないときもある。感じよく話せるのは、様々な要因で観客の側に私の話を真面目に聞きたいという心の準備ができているときだ。それを行うのが、主催者の責任だ。

 今回、おそらく、演奏者たちも、そのような心地よさを感じ取ってくれたと思う。

 なお、私がプレトークをし、本番でもちょっとだけ挨拶し、佐藤さんと菊池さんのインタビューをした。知り合いの多くは、私の話についても「おもしろかった」「軽妙でよかった」といってくれたが、いつも率直に感想を言ってくれる知人から「しらけるところがあった」という耳の痛いお言葉もいただいた。が、まあ二人の演奏家の話を聞いたことでお許し願いたい。

 至らぬところもあったかもしれない。が、とりあえず、私としては全力を尽くした。おそらく、多摩大スタッフも全力を尽くしたと思う。そして、何よりも最高の演奏だった。これを大成功と呼んでいいだろう。

169 コンサートに足を運んでくださった皆様、私が無理やりチケット売りつけた方々、本当にありがとうございました。

 佐藤さん、菊池さんを囲んで樋口ゼミ全員で撮った記念写真を公開しておく。

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岩崎淑シリーズ、そして、モーツァルト劇場。

 昨日(11月7日)は実に音楽的に充実していた。心から満足して、帰ってきた。

 昼間は、多摩大に在籍する才能豊かなヴァイオリニスト山口豊君(そのうち、彼のリサイタルを企画したい!)に誘われて、岩崎淑シリーズを聴いた。チェリストのヴィットリオ・チェカンティと岩崎淑のデュオで、ベートーヴェンのソナタ全曲と、岩住励の新曲 Eccentric Loops

 前半のベートーヴェンの2・4・5番のソナタ。安全運転の演奏で、やや一本調子の感があった。誇張のない誠実な演奏で、好感は持てたが、もう少し味付けを濃くしてもよいと思った。

 ところが、岩住励の新曲に始まった後半は、二人の息がぴったり合ってきて、前半と違って、かなり表現の幅が大きくなり、チェロに思い切った表現が増えてきた。だんだんと素晴らしくなって、3番は感動的だった。正攻法でじっくりと聞かせてくれる。自己主張を表に出すのではなく、あくまでもベートーヴェンを聴かせようとしてくれるところがいい。無理をせずに徐々に盛り上げていく。チェロはちょっとイタリア風の明快なベートーヴェン。だが、構成のしっかりとした、きわめて知的なベートーヴェン。

 後半の最初の岩住氏の曲もおもしろかった。私は現代曲はあまり聴かないが、これはそんな人間にも十分に楽しめた。

 コンサートのあと、AFS友の会(海外との交歓留学生を世話する会)の人々のパーティに加わって、軽く食事。岩崎淑さん、チェカンティさん、岩住さんにも紹介していただいた。山口君のご母堂とも、AFS友の会の方たちとも話ができて、とても楽しかった。実に魅力的な人たちだと思った。

 パーティを途中で抜けて、タクシーで次の会場、浜離宮朝日ホールに向かい、ぎりぎりに到着して、6時からはモーツァルト劇場(モーツァルトのオペラの公演をする目的で結成された団体だが、現在ではモーツァルト以外の珍しいオペラを高いレベルの演奏で紹介している)の公演を見た。

 プーランクのモノオペラ『人間の声』とオッフェンバックのオペレッタ『チュリパタン島』。昼の部と夜の部の2回の公演だが、私が見たのは夜の部。日本語訳詞だが、ともにすばらしかった。

『人間の声』は、演出が上村聡史、ヒロインは高橋さやか、ピアノ伴奏は徳田敏子。何よりも驚いたのは、モーツァルト劇場の主宰者でもある高橋英郎の日本語訳の素晴らしさ! まったく違和感なく日本語のオペラになっている! 高橋さやかは、芸大の博士課程在学中だというが、素晴らしい才能だと思った。歌も演技も見事。日本語もはっきりと聞き取れる。

 オペラは原語に限るとずっと思っていたが、これほど自然であれば、日本語で聴くのも悪くないと思った。

 次に、オッフェンバックの『チュリパタン島』の日本初演。これはもっとおもしろかった。奇跡的だと思った。笑える! 音楽的にもおもしろい。日本語も違和感なし。ユーモアのセンスも抜群! 私はオッフェンバックが大好きだ。自殺を考えている人にオッフェンバックを聞かせると、絶対に考えを変えると思う。欝の人を躁状態に変える力をオッフェンバックの音楽は持っている。

 カカトワ公爵の吉田伸明、アレクシスの砂田恵美、ロンボイダールの栗原剛、デオリーヌの遠藤亜紀子、エルモーザの布施雅也、そして合唱団、すべてがこなれている。演技も歌も見事。時任康文指揮のモーツァルト劇場管弦楽団(全部で5人!)もいい。上村の演出も実に楽しい。日本人が欧米人を演じ、しかもオペラを歌って笑わせるというのは、実は大変難しい。一つ間違うと、失笑を買ってしまう。が、すべて計算どおりに笑わせている。見事!

 オッフェンバックのオペレッタを次々と日本初演しているモーツァルト劇場に感謝! もっともっとオッフェンバックのおもしろさを日本の人たちに紹介してほしい。

 それにしても、客はまばらだった。100人そこそこしかいなかったのではないか。こんな高レベルの公演が、100人そこそこにしか見られないのは、とても残念! 同時に、高橋英郎氏のご苦労はいかばかりかと思った。何度か高橋氏の横を通り過ぎたので、激励の声をかけたかったが、私は実はかなりシャイな人間なので、未知の方に声をかけることはできなかった。

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佐藤俊介・菊池洋子デュオコンサート近づく!! 

 11月10日19時からパルテノン多摩で開かれる佐藤俊介・菊池洋子デュオコンサー(多摩大学20周年記念コンサート)が近づいている。まだ、残りの席がかなりある。当日券も販売される。そこで、最後の宣伝をさせていただく。

 演奏者は今をときめく日本を代表する若手のヴァイオリニスト佐藤俊介とピアニスト菊池洋子。これからの日本のクラシック音楽界を担う二人といって間違いない。佐藤はパガニーニの「カプリース」のCDが世界で話題になっている。菊池は日本人初のモーツァルト音楽祭の優勝者。

 これは、多摩大学創立20周年記念事業の一環として開かれるものだが、私も、私のゼミも企画運営に関わっている。クラシック初心者でも楽しめる曲から、本格的な曲まで演奏される。きっと会場は感動の坩堝になると確信している。

 この素晴らしいコンサートを、なんと特別価格1000円で提供する。今回を逃すと、3000円か4000円は出さないと、この二人の演奏は聴けない。それどころか、あと数年すると、二人は超有名になって、なかなか日本では聴けなくなるかもしれない。

 是非、もっと多くの方にお聞きいただきたい。間違いなく、感動すると思う。

演奏曲目

クライスラー 「愛の喜び」

ヨハン・シュトラウス 「トリッチ・トラッチ・ポルカ」

モーツァルト 「きらきら星変奏曲」

ショパン 「小犬のワルツ」「華麗なる大ワルツ」

パガニーニ「カプリース」より

ラヴェル 「ツィガーヌ」

フランク ヴァイオリン・ソナタ イ長調

開演 19

開場 18時 (1830分より、樋口裕一プレトーク)

会場 パルテノン多摩(京王線・小田急線・多摩モノレール 多摩センター駅徒歩5分)

チケットについての問い合わせ先 042-337-7185(多摩大学20周年記念コンサート係)

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新国立の『魔笛』は楽しかった

 11月3日、新国立劇場の『魔笛』を見た。指揮はアルフレート・エシェヴェ、演出はミヒャエル・ハンペ。全体的には、大変楽しかった。通常のオペラ公演でこのくらいやってもらえれば、十分に楽しめる。

 何より思ったのは、日本人歌手のレベルの高さ。夜の女王の安井陽子は、外国勢にまったく引けを取らない。世界最高レベルとはいえないが、十分に世界に通用すると思う。また、モノスタトスの高橋淳も見事。そのほか、ザラストロの松位浩も三人の侍女も三人の童子もいい。成田勝美と長谷川顕が武士を演じているのもなかなか豪華。

 外国勢では、パミーナを歌ったカミラ・ティリングが素晴らしい。澄んだ美しい声、しなやかな歌いまわし。容姿もいい。ただ、きれいな声で歌おうとすることにばかり気を配って、芝居の中の歌になっていないところを感じないでもない。パパゲーノを歌ったマルクス・ブッターもよかった。演技力もあり、声もしっかりしている。ただ、タミーノを歌ったステファノ・フェラーリについては、容姿はよいものの、音程が不安定になったり、声が出なくなったり。もっと実力のある日本人歌手が大勢いるだろうと思った。

 一番問題を感じたのは、指揮だった。凡庸さを感じてしまう。音楽に躍動感がなく、わくわくしない。歌手とタイミングが合わないところもあった。東京フィルは、十分について行っていると思った。演出に関しては、これまで見た覚えのある演出のつぎはぎにしか思えなかった。

 それにしても、『魔笛』をみるごとに、ストーリーの矛盾が気になって仕方がない。善玉と悪玉が途中から逆転するのはもちろんのこと、「たったこのくらいのことで、そろいもそろってなぜパミーナもパパゲーノも自殺しようとするんだろう」「どういう必然性があって、パパゲーナはお婆さんの格好で登場するんだろう」などといった疑問がわいてくる。

 今日、善玉と悪玉の逆転について、一つの仮説を思いついた。これまで、私はオペラ入門書などで何度か『魔笛』を取り上げてきたが、その度に「善玉と悪玉が逆転するわけではなく、初めからモーツァルトの意図だと主張する人がいるが、それはおかしい。どう考えても、このストーリーは矛盾している、矛盾していないという主張の根拠はすべて納得できない」と書いていたが、「矛盾していない」という納得できる根拠を思いついた。

 が、時間がないので今日は書かない。そのうち、気がむいたら、書くことにする。

 新国立劇場でしばしば思うことがある。ここでは幕が上がる前、「身を乗り出してみると、迷惑になるので、身を乗り出さないでください」というアナウンスがある。だが、私は、誰かが身を乗り出しているために迷惑を覚えたことはない。席によってはそういうところもあるのかもしれないが。

 私が新国立劇場で気になるのは、それよりは、演奏中の靴音だ。

 きっと靴音なのだろうと思う。床が木なので、靴が床に当たるとかなり響く。今日も、私の左のほうから、音楽が鳴っている間も絶え間なく靴の音らしいものが響いていた。一人なのか、数人なのかわからないが、ずっと音が響く。そのため、いつまでもざわついた雰囲気で、落ち着いて聴けなかった。

 もしかしたら、私が音に対して神経質すぎるのかもしれない。私は様々なことにズボラで無神経でいい加減なのだが、音に関してはかなり神経質らしい。演奏会でも、プログラムのページをめくる音、バッグを開く音、飴玉を出す音、オペラグラスを出し入れする音などが気になる。外を歩いていても、町に溢れる騒音や音楽に辟易する。新宿駅南口で歌っている若者に対しても、お願いだから静かにしてくれと懇願したくなる。どこか静かなところにいきたいと常々思っている。

 わかってはいるのだが、どうしても気になる。

 私としては、「床が木でできているために、靴の音が大きく反響することがあります。周りの方のご迷惑にならないように、ご自分の出される音にご注意ください」といったアナウンスをしてほしいと思う。

 音ついでに、もう一つ。新国立劇場に行くのに、私は京王新線を使うが、新宿駅も初台駅もホームで笛のような音が絶えず聞こえている。トクに新宿駅は木になる。私は不快で仕方がないのだが、あれは一体何なのだろう。これが気になるのは少数派なのだろうか。

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シャイー指揮、ゲヴァントハウス管弦楽団に感激!

 11月2日、サントリーホールでリッカルド・シャイー指揮、ゲヴァントハウス管弦楽団のメンデルスゾーンの交響曲第5番「宗教改革」と、ブルックナーの交響曲第4番を聴いた。素晴らしい演奏!! いやはや、本当に昔ながらのドイツの音がする。アメリカや日本のオケでは味わえない感覚だと思った。

 

 メンデルスゾーンも素晴らしかった。

 このブログでも書いたと思うが、メンデルスゾーンを「お金持ちのぼんぼん」と考えるのは大きな誤解だ。ユダヤ人としていじめ抜かれながらも育ちのよさを保った若き苦労人と考えてこそ、彼の音楽が理解できる。そして、シャイーの演奏は、自然で颯爽としていながら、渋く、奥深く、そして内面に肉薄するものだった。

 ただ、やはり曲として「スコットランド」や「イタリア」に比べるとかなり劣ると思った。初版による演奏だということで、ところどころ、私の聴きなれたのとは異なるメロディが出てきた。先日は、同じシャイー+ゲヴァントハウスのメンデルスゾーンの「スコットランド」の1842年版のCDを聴いた(これもなかなかの演奏だった!)が、これも知らないメロディがいくつも出てきて驚いたが、同じような経験だった。

 後半はブルックナーの交響曲第4番。これは凄かった! 久しぶりにブルックナーに魂を震わせた。

 弦のトレモロが実に美しく深い! ホルンの音も素晴らしい。そして、シャイーの力感溢れる指揮。ヴァントほどではないにしても、かなり厳しくオケをコントロールしているようだ。シャイーの颯爽とした明快さと、ゲヴァントハウスのドイツの渋さがあいまって、輪郭のはっきりしたブルックナーになっていた。

 ヨッフムやクナッパーツブッシュが好きな人には、これは許しがたい演奏かもしれない。茫洋としたところがなく、メリハリの効いた、音楽の構造のよくわかる知的な演奏。しかも、細かくオケをいじっている。だが、鳴らすべきところで猛烈に鳴らし、それが実に的確なので、私の心はびんびんと反応した。

 ただ、第二楽章で、私は少しだれた。演奏に緊張感が失われたように思った。が、もしかしたら、私の体調や気分のせいだった(なにしろ、書かなければならない原稿、しなければならない仕事をほっぽりだして演奏会に通っているので、気になることが多い! 休憩時間も、ずっと携帯電話を使って仕事上のメールのやり取りをしていた!)かもしれない。

 第三楽章からは、ホルンの咆哮に引っ張られて、ぐいぐいと音楽に吸い込まれた。終楽章はブルックナー特有の法悦を覚えた。 

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大野和士・リヨン歌劇場の『ウェルテル』、素晴らしい!!

 時間がないので、少しだけ書く。が、だからといって、つまらなかったわけではない。それどころか、稀に見る名演だと思った。11月1日、オーチャードでの大野和士指揮、フランス国立リヨン歌劇場管弦楽団の演奏会形式によるマスネーの『ウェルテル』全曲。 大野の指揮を実演で聴くのは初めてだった。

 最初の一音が出てきたときに、「オッ!」と思った。フランスのオケによるフランスの作曲家のオペラらしいもっと軽い音を予想していたら、芯の強い深い音が聞こえてきた。

 歌手は見事。だが、それ以上に、オーケストラ、そして指揮に圧倒された。大野和士の指揮はテレビでのワーグナーのオペラ放映で凄さを知っていたが、本当に凄いとしかいいようがない。情念のうねりが厚みのある音で表現される。しかし、安っぽくなく、実に知的に、そして立体的に構成されている。「立体的」といったのは、平板でなく、彫りが深く、表現が多彩だということ。

 大野に関しては、聞きしに勝る凄さだと思った。来年、『トリスタン』を新国立で指揮するというニュースを知った。これは楽しみだ。

 歌手では、シャルロットを歌ったケイト・オールドリッチが素晴らしい。こんな名前の容姿と声の両方が見事な歌手に舌を巻いた記憶があったので調べてみたら、彼女がアムネリスを歌った『アイーダ』のDVDを持っていた。フランス語の歌いまわしも、私にわかる限りでは見事。ウェルテルのジェイムズ・ヴァレンティもどこかで見た記憶がある。これも文句なし。ほかに、アルベールを歌ったリオネル・ロートも、大法官のアラン・ヴェルヌもよかった。ソフィー役のアンヌ=カトリーヌ・ジレにちょっと弱さを感じたが、役柄からすれば十分だろう。

 ただ、座った席のせいか、周囲の人のマナーに少しいらいらした。

 本人たちは間違いなく、十分にマナーを守ったつもりでいる。が、私は気になる。右隣の女性は演奏が始まるまでずっとしゃべっていて、演奏が始まるとプログラムを取り出して、あらすじを読み始める。ページの音が気になる。あらすじを知らないのなら、演奏が始まる前に読んでおいてほしい。

 左隣の女性は、膝の上にハンドバックを載せ、その上に手を押し付けてみている。本人は気にならないようだが、手を動かすごとにバッグがきしむ。ギュー、ギューという低音なのだが、連続的なので、どうしても気になる。

 その隣の男性は、第一幕の間、ずっと寝ていたが、目を醒ましてから、突然、腕に痒みを覚えたらしく、腕をこすり始めた。寒い時に羽田をさするように、ずっとさすっている。これも本人は気にならないのだろうが、シャーシャーという音が聴こえて、連続的に聞こえて、気になる。

 かつてどこかのオペラハウスの来日公演で隣の男性が髭を剃っていないのに突然気づいたらしく、ずっと髭をじゃりじゃりいわせ始めてまいったことがある。当時、私はまだ世慣れない大学院生だったので、何もいえなかった。98年にバイロイトに行ったとき、『オランダ人』のさいちゅう、観客の一人に親指と親指をぐるぐる回転させる癖のある男がいた。一体どんな指をしているのか、二つの指がこすれる時に、とんでもない大きな音が出る。私からは3メートルほど離れたところに座っていたが、自転車がきしむような大きな音がまわりじゅうに響いて閉口した。2時間半ほどの間、ずっと続いた!

 隣の客があまりにうるさいときには、私は注意することにしている(これまで、何度も注意し、何度かは険悪な状況になったこともある!)、我慢できる時や、相手が遠くにいるときには我慢している。

 何とかマナーを徹底してほしい。同時に、自分で気づかずに周囲に迷惑をかけていることに恐ろしくなる。私もそんなことをしているのではないか・・・

 原稿に追われて時間がないのに、つい夢中で書いてしまった。

 何はともあれ、大野の指揮は素晴らしかったと書きたかったのだった!!

 

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