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充実しつつも疲労困憊の一日

 昨日は疲れきって家に帰ってきた。

 朝の8時に家を出て、午前中は、学芸大学付属世田谷小学校で「子どもに対する親の話し方」についての講演。保護者の方が200人ほど集まって、話を聞いてくれた。役員の方の努力でとても話しやすい雰囲気を作っていただけた。質問もたくさん出た。とてもよい講演になったと思う。

 AO入試に合格したばかりだという高校生も来てくれて、質問してくれた。きちんと質問に答えられたかどうか、少々疑問。それより何より、質問にどう答えようかと悩んでいたために「合格おめでとう」と声をかけるのを忘れていた。

 その後、役員の方たちや校長先生とともに昼食をいただいた。その間も、質問されて、作文指導や子どもの教育について答えたが、私自身も答えが見つからずにいる質問が多かったので、役に立てたかどうかちょっと心配。

 午後、新宿に出て、週刊誌の取材を受け、その後、二つの出版社の編集者と、これから出す予定の著書についての打ち合わせを行った。

 すでにこの時点で疲れきったので、赤坂のマッサージ店に寄って、30分マッサージを受けて、その後、19時から飯田橋のアグネスホテルでの知研(NPO法人・知的生産の技術研究会)主催のパーティに出席。

 知研の出した『知の現場』(東洋経済新報社)の出版記念パーティだ。この本は24人の「賢者」の書斎での仕事の仕方についてインタビューをまとめたもの。24人の中には、寺島実郎多摩大学長や作家の小中陽太郎さんなどの大物が含まれ、その一人に私も名を連ねている。知研の理事長でもあり、この本の監修者でもあり、また24人の「賢人」の一人でもある久恒啓一多摩大学長室長や事務局長の秋田さんが中心になって会は進んだ。

 小中さんや山田真哉さんをはじめ、多くの著者の方、未来の著者の方と話をした。

 知研は、八木哲郎さんが1970年に作った会で、識者を呼んで講演をしてもらい、若い人々の知的な交流を広めるという形で発展してきた。その地道な活動の社会的意義について、改めて感銘を受けた。

 会の終了後、ホテル内のバーで217日に丸の内の丸善で行う「知の現場セミナー」つついての打ち合わせと打ち上げを行った。が、パーティでのアルコールが入っていたこともあって、その時点で、私はまさに疲労困憊。少し早めに帰らせていただいた。

 

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『ヴァーグナー 西洋近代の黄昏』発売!

931893  先日も少し紹介させていただいたが、拙著『ヴァーグナー 西洋近代の黄昏』(春秋社)が発売になった。私としては全力を注いだ著作だ。私はこの本の中で、ヴァーグナーについて、そして西洋近代の本質について、かなり思い切った「発見」を展開したつもりでいる。

 もしかしたら、批判される部分もあるかもしれないが、ともあれ私の「発見」を多くの人に知ってほしいと思う。しかも、これまで200冊近い本を書いてきたノウハウを応用して、ヴァーグナーやクラシック音楽について特に詳しくない人でも「おもしろい」と思ってもらえるように書いたつもりだ。そんなわけで、もう一度、宣伝させていただく。

 本書によって、私は「ひとつであること」という概念をテコにして、ヴァーグナー、そして、西洋近代の精神を捉えなおそうと試みた。「ひとつであること」とは「世界は統一の取れたひとつのものである」「人間はひとつの全体をなす存在である」という意識と考えていただいてかまわない。

 ここに、私の「発見」のいくつかを列挙することにする。これに興味を引かれて本書を読んでいただけると、本当に嬉しい。

・『リング』はマトリョーシカ人形のような入れ子細工的な構成になっている。また、作品の統一をとることに躍起になっている。このことに典型的に現れるように、ヴァーグナーは、あらゆる手段を用いて、「ひとつであること」「多を一にすること」をめざそうとした。

・ヴァーグナーが「ひとつであること」を希求する理由は、彼の時代、それが失われつつあったからである。

・実は、「ひとつであること」は西洋近代の中心理念とも言うべきものだった。信仰が薄れ、「ひとつであること」が危機に陥ったときに近代精神が生まれ、それが崩壊した時に、近代精神が崩壊した。そして、それがクラシック音楽の歩みと重なっている。

・絵画における遠近法と音楽におけるホモフォニーは同じような理念に基づくものであり、いずれもデカルトの二元論と関連がある。ともに、「ひとつであること」(一元論)が崩れたことを意味する。

・しかし、ドストエフスキーが書いたとおり、神の存在を否定し、神の世界の一体性を否定すると、人間も統一を失い、存在基盤を失う。「ひとつであること」も危うくなってくる。ヴァーグナーが描くのはそのような世界である。

・ヴァーグナーの前期の歌劇三作(『オランダ人』『タンホイザー』『ローエングリン』)は、いずれも、終わることのない呪いが女性の犠牲によって終わる、つまり、「ひとつのものとして完結する」という物語である。

・後期の楽劇群は、いずれも「ひとつであること」の希求が濃厚に現れる。とりわけ、『トリスタン』は男と女、生と死、愛と死、人間と宇宙が合体して「ひとつになる」ことを求める楽劇である。

・前期の三作はキリスト教の時間概念に基づいた「統一」を求めていたが、後期においては、「梵我一如」「円環的時間」が強調され、非キリスト教的な「統一」が求められる。

・『パルジファル』は、前期の歌劇三作すべてを内に含み、それらを統合したものである。言い換えれば、これらの三作を作り直して「ひとつにした」ものである。

・ボードレール、マラルメなどのフランス象徴主義の詩人たちもプルーストも、そしてヒトラーまでも、ヴァーグナーの影響の下、「ひとつであること」を求めた。

・リヒャルト・シュトラウスはヴァーグナーの呪縛から逃れ、真実の宿る統一体を作るのが幻想だと気づき、そのパロディとノスタルジーを描いた作曲家である。

 少し、近況を。

 サーシャ・ロジェストヴェンスキーの代役としてパヴェル・シュポルツルが京都でのラトヴィア国立交響楽団・西本智実のコンサートで演奏したというニュースを聞いた。聴きたかった! 東京での公演は予定されていないのだろうか。

 シュポルツルは青いヴァイオリンを弾くが、きわめて正統的な実力派ヴァイオリニストだ。私はナントと東京のラ・フォル・ジュルネで聴いて感激し、ナントでも東京でも少し話をした。内向的で生真面目な人柄を感じた。枠からはみ出す異端の鬼才ヴァイオリニストであるネマニャ・ラドゥロヴィチと好対照を成しながら、ともに圧倒的な存在だと私は思っている。ネマニャはこのところテレビで再放送されているが、またあの圧倒的な演奏を聴きたい! できれば、わが多摩大樋口ゼミで彼のリサイタルを催したい!!!

 昨日、多摩大学の学生でもあるヴァイオリニスト、山口豊君が演奏会でベートーヴェンのヴァイオリンソナタ「春」を弾くというので、横浜みなとみらい小ホールに出かけたのだが、開始時間を間違っていたようで、すでに真っ暗だった。残念。彼の才能には驚嘆している。これも聴きたかった!

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「あと少しだと思うと、元気が出る」?

 今年度の大学の授業も明日までで終わる。この時期になると、大学のあちこちで「あと少しだと思うと、元気が出る」という声が聞こえる。大学だけではない。この言葉は、様々な状況の中で使われる。長距離を走っていても、一日の労働の終わりに差し掛かっていても、この言葉が使われる。あと少しだと思うと、最終点がはっきりして、元気が出るということなのだろう。

 が、私は、この言葉を聞くたびに不思議に思う。実は、私自身はそのように感じたことは一度もない。それどころかむしろ、私は、「あと少しだと思うと、元気がなくなる」という気持ちを強く抱く。あと一仕事すれば家に帰れると思うと、むしろその時点で仕事をやめて帰りたくなる。あと一周で長距離走が終わると思うと、とたんにやる気を失い、やめたくなってくる。そんな意識をこれまで何度も抱いてきた。

 これは私だけの感覚なのだろうか。私はずっとこれは私だけの特殊な感性なのかと思って、寂しく感じていた。かつて、私とそっくり同じように感じているという人に出会って、嬉しく思ったことがある。

 なぜ私はそう思うか。

 自己分析するに、どうも私は、「あと少しで終わる」と想像したとたんに、仕事が終わってほっとしている自分を思い浮かべているようだ。が、思い起こしてみると、まだ仕事が残っている。だから、うんざりしてやる気がなくなってくる。

 つまり、私は語った途端に、語られた未来の時点に自分を置いて考える癖があるようだ。それがこの感覚の原因だといえそうだ。

 そう思うと、思い当たることがある。

 私は、長距離走などで何周か走るとき、今自分が何週目を走っているのか、すぐに曖昧になってくる。なぜかと言うと、「あそこまで走ると、9週目になる」と考えて走っているうち、今9週目だったのか、あそこまで走った時点で9週目になるのか、自分でも曖昧になってくるのだ。

 父は昔からよく、「明日の今頃」という言葉を使っていた。「明日の今頃には、もう東京に着いているだろう」「明日の今頃には、もう検査の結果が出ているだろう」などという。「来年の今頃は、もう生きているかどうかわからん」などということもある。そのたぐいの表現を、私は子どものころからずいぶん聞かされてきた。

 この父の言葉を聞くごとに、未来のある時点を「今」と表現することに違和感を覚えていた。そして、なぜ未来のことをすぐに考えようとするのかと疑問に思っていた。

 が、考えてみると、私も同じような思考をしているのかもしれない。

 私は「最後の踏ん張り」がきかず、すぐに諦めてしまう人間なのだが、それは単に「根性なし」というわけではなく、以上のような理由があるのかもしれない。

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京都、そして武蔵野での『愛の妙薬』

 18日から19日にかけて、かなりあわただしく動いていた。とはいえ、あわただしかった理由の多くは楽しみのためだけど。

・18日は、朝から京都に行って、午後から京都産業大学で授業。今年度最後の授業だった。今年度は無理を言って、隔週に2コマ続けての授業という変則的な形にしてもらったが、思った以上に受講生が少なかった。秋学期は二人だけ。来年度は別の形にしてもらうことにした。

・授業を終えてからタクシーでノートルダム学院小学校に行って、白藍塾の塾長として、小学生の小論文指導についての研修を行った。実りある研修だったと信じている。

・その後、白藍塾責任者と二人で四条新町にある京料理の店「和ごころ泉」で夕食。ミシュランの星をもらった店。さすがにうまい。どれもうまかったが、オレンジで包んだ魚の白身がとりわけうまかった。繊細で、香りを大事にしている。容器もよいものだという。残念ながら、私はその方面にはきわめて疎いが。もてなしてくれた女将さん(といっても、かなり若くてきれいな女性)もとても感じがいい。また行きたくなった。

・その夜は京都に泊まり、19日は、朝から知人に薦められた方広寺と養源院を見ることにした。いずれも、京都の私の宿泊地からも近く、なじみの知積院からも近い。

 方広寺は京都国立博物館の裏にある。大坂の役の原因になった「国家安康」「君臣豊楽」の銘文のある鐘で有名な寺だ。もっと大きな銘文かと思っていたのだが、ぎっしり書かれた文字のほんの一部だった。これで「家康を冒涜」「豊臣を君主とみなす」というのは、「いちゃもん」でしかないというのが、よくわかる。

 客は私一人だったのに、受付にいた係りの方(かなり高齢の女性)が丁寧に案内してくれた。恥ずかしながら、私は日本史には疎く、ここにかつて奈良の東大寺の大仏よりも大きな大仏(木造のため、焼失)があることを知らなかった。かつての大仏の一部や大仏殿の縮図などを見せてもらった。

 その後、そこから5分ほどのところにある養源院に移動。関が原の戦いの少し前の伏見城の戦いで自害した鳥居元忠ら大勢の武将の血のしみこんだ廊下の板を天井にしたという「血天井」で有名。黙っていれば気づかないが、言われると不気味。

 ただ、私としては俵屋宗達作といわれる像や麒麟の絵のほうがおもしろかった。大胆な構図、今にも動き出しそうな表情。まるで漫画のようでいながら、リアリティがある。いわゆる「日本的」な構図ではないところがおもしろい。いや、むしろこれこそが日本的なのかもしれないと思った。

 知人に、客を怒鳴る不愉快な女性係員がいるので気をつけろといわれていたが、それどころか、たった一人の客である私に対して、むしろほかの観光地ではないほど丁寧で親切な対応をしてくれた。あまりに低姿勢なので、こちらが戸惑うほどだった。

・その後、いつもの通り新阪急ホテルの美濃吉で昼食をとろうと思っていたら、残念ながら、全館改修のために閉まっていた。伊勢丹の11階に行き、「松山閣」という湯葉の店で食べた。おいしかった。

・新幹線で移動。16時から、新宿でインタビューを受けた。ある出版社の出している会報に出るもの。作文・小論文指導のこと、音楽のことなど話した。

 写真も撮られたが、昼食時にビールを飲んで、新幹線でぐっすり眠っていたので、寝ぼけ顔だった。まあ、寝ぼけていてもいなくても、顔のレベルに大差はないと言えるが・・・。

・18時半から、ベルガモ・ドニゼッティ劇場の武蔵野市民文化会館での『愛の妙薬』の公演を見た。

 ステファノ・モンタナーリ指揮(配布された配役表にはスティファノ・モンタナーリとあった)。演出はフランチェスコ・ベロット。

 アディーナを歌うのはリンダ・カンパネッラ、ネモリーノはロベルト・イウリアーノ、ベルコーレはレオナルド・ガレアッツィ、ドゥルカマーレはマッテオ・ペイローネ。残念ながら、武蔵野の公演では、今回のツアーの目玉であるデジレ・カントーレは出演しなかった。

 若手中心のキャストだ。オケも一流ではない。難をいえば、きりがない。が、十分に楽しめた。はじめのうちは、聞きなれた超一流に比べてアラが多いのが気になったが、最後には「これでいいのだ!」と思った。

 歌手では、アディーナを歌ったカンパネッラがよかった。デジレ・カントーレには及ばないにしても、この公演では唯一の一流歌手といえるかも。声が透明。ほかの歌手は、がんばってはいるし、悪くないのだが、声が十分に伸びなかったり、音程が怪しくなったりする。が、みんなが芸達者で観客を楽しませるコツを知っている。だんだん盛り上がって、最後には劇場全体が一体感を持ってわきたった。

 演出については、かなりオーソドックス。指揮については、私は大いに感心した。

 メリハリをつけ、きびきびした指揮。ただ、最後の和音の前にタメを作るのは、ちょっとやりすぎ。風貌といい、音楽の作り方といい、井上道義さんを思い出した。かなり若い指揮者だと思うが、今後、注目したい。

 ともあれ、楽しい音楽がいつまでも耳に残って、気分よく家に帰った。何も超一流である必要はない。このくらいの公演であれば、心の底から楽しめる。ドニゼッティはまさしく気軽に聴くオペラとして最適。

 DVDなどで超一流の演奏ばかりを追いかけるのも、オペラを楽しむ方法としては間違いかもしれないと改めて思った。

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アントニオーニの映画

 今日は、センター試験2日目。私は多摩大学のアドミッション委員の一人なので、センター試験の監督要員として多摩大に行った。ただし、なにかがあったときの予備要員として、待機していた。特に何かをしたわけではなかったが、かなり疲れた。

 ところで、ここ数日、アントニオーニの映画DVDを見ていた。まとめて感想を記す。

51cs3u6oekl 『さすらい』 

 女性に捨てられ、仕事もやめた男が、娘を連れてさすらいの旅に出て、最後、元に戻るが、塔の上から転落死するというストーリー。自殺しようと思って塔に上ったが、かつての女性に声をかけられて、思いとどまろうとしたが、めまいがして落ちたということだろうか? この部分のストーリーはやや曖昧だった。

 寒々とした北イタリアの風景が、アントニオーニらしい空虚で物悲しい雰囲気を作り出す。実に美しくも、心に迫る映像。男を捨てるアリダ・ヴァリ、捨てられる男を演じるスティーヴ・コクランも、子役も実にいい。ほかの俳優たちも見事。

 ただ、女に捨てられた男の設定なのに、ほかの女たちにモテすぎるのには、あまりリアリティを感じない。せっかく可哀想な男に同情してみていたのに、こんなにモテると、むしろ羨ましくなってしまう。それに、私自身の美意識によると、アリダ・ヴァリよりも、ほかの4人の女のほうがずっと美しくて魅力的に思える。とてもよい映画だが、その点、不満を覚える。

 はじめて見るのだと思っていたが、比較的最近(つまり、10年前後前)に、たぶんVHSで見たのを思い出した。

510xzz6y1kl 『夜』

 マルチェロ・マストロヤンニ、ジャンヌ・モロー、モニカ・ヴィッティという豪華な俳優たちが演じる。アントニオーニ特有の世界。なぜ、アントニオーニが町を描くと、がらんとしてうつろで空しくなるのだろうか。人々がたくさんいても、雑踏であっても、人々が騒いでいても、いや、そうであればあるだけ、いっそううつろに感じる。

 愛し合おうとしながらも愛し合えなくなった夫婦を描く。いや、愛し合おうとしながらも愛し合えなくなった人間同士を描いているといってもいいかもしれない。ストーリー的に意味があると思えない町の状況、どうと言うことのないパーティの場面が長々と描かれるが、それが実に心にしみる。

 友人の死という「不在」が物語の中心に存在していることも、映画全体の「不在感」とでも言うべきものを高めている。最後の愛し合えない男女が抱き合う場面は実に感動的。まさしく、愛の不在を強く印象付ける。

 映画の中で、飛行機やヘリコプターなどの騒音が何度も響く。おそらく、人と人の心の通い合いを妨げる断絶として使われているのだろう。

 私はアントニオーニの映画は大好きだが、この映画は傑作のひとつだと思う。

 これも初めてのつもりで見始めたが、モニカ・ヴィッティが登場するところで、かすかに見たことがあるのではないかと思い始めた。

511hpl0terl 『情事』

 発表当時、大きな話題になったという有名な映画。封切後、10年以上たってから一度だけ見た。とてもおもしろかった記憶がある。

 シチリアの無人島にヨットで出かけた仲間たちのうち、外交官令嬢アンナが行方不明になり、その婚約者サンドロとアンナの女友達クラウディアが行方を追い求めるうち、恋が芽生える・・・。そんな話。見ているものは、「誰かが殺したのでは?」「そのうち、令嬢が現れるのでは?」と思ってしまうのだが、もちろん、これはそんな俗っぽい映画ではない。

「不在」がサンドロとクラウディアの心の中を支配し、素直に愛し合うことができない。クラウディアはサンドロに愛を感じながらも、アンナに遠慮する。そのあとは、アンナが現れてサンドロを奪われるのではないかと恐れる。サンドロはそのようなクラウディアに満足できず、娼婦を相手にするが、それをクラウディアに見られてしまう。最後は、何とか心を交し合おうとするところで終わる。

 これは正真正銘の名画だと思う。私は、アントニオーニの映画では『太陽はひとりぼっち』が最も好きだが、それに匹敵する。クラウディアを演じるモニカ・ヴィッティが実にいい。けだるく、うつろな雰囲気がぴったり。けだるい顔を鏡に映して自分で見る場面など、アントニオーニ映画の白眉のひとつだと思う。

 この映画でも、がらんとした街、うつろな部屋、人のいない教会など、空虚な風景がしばしば映し出される。その度に私は心を奪われる。わが心象風景という思いがしてしまう。

51fyrobudbl 『赤い砂漠』

 はじめてみたときには、かなり衝撃を覚えた記憶がある。が、再び見て、あまりおもしろいとは思わなかった。

 殺伐とした工場。赤や黄色の煙が煙突から吐き出され、あちこちに汚染が見られる。環境汚染が問題にされつつあった時期の映画だ。

 モニカ・ヴィッティ演じる技師の妻は、交通事故の後遺症で精神を病んでいる。工業社会に馴染めず、様々なものに怯え、深い孤独に苦しんでいる。そこに、夫の仕事仲間である男(リチャード・ハリス)に紹介される。どうも、妻と男はもとからの知り合いだったようだが、そのあたりは詳しく描かれない。二人は近づき、互いに理解しあおうとするが、そうなりきれない。

 それまで、モノクロの映画を撮ってきたアントニオーニの初めてのカラー映画。それまでモノトーンの映像で空虚感やけだるさを描いてきたアントニオーニが、ここでは、かなり派手な色彩を用いて、同じようなものを描こうとしているように思える。赤や青の彩が印象的。

 とりわけ、壁を背景にしてモニカ・ヴィッティがぽつんと立つ場面がしばしば現れるが、どの場面も実に素晴らしい。精神を病んだ様子を見事に演じている。

 ただ、精神を病み、工場に馴染めずに孤独をかかえる女性という設定自体が、あまりに図式的で、あまりにわかりやすい。『夜』のパーティ、『情事』のヨットと同じように、仲間たちの取りとめのない、しかしかなり卑猥なやり取りが長々と交わされるが、私は、『夜』や『情事』ほど、その雰囲気に共感できなかった。

 もちろん、とてもよい映画だ。が、『太陽はひとりぼっち』や『情事』のほうがずっといい。モノクロの映像のほうが、アントニオーニの世界がひしひしと伝わる。

41seexlow3l 『欲望』

 40年ほど前に見て、かなり感動した映画だった。改めて見たが、やはり大変な名作だと思った。それにしても、これを「欲望」と名づける商業主義にはあきれる。デュラス原作、アラン・レネの監督による『ヒロシマ、わが愛』を『24時間の情事』というタイトルにしたのと同じくらいのセンスの欠如。この原題はBLOW-UP「引き伸ばし」だ。このような商業主義をこそ、この映画は皮肉っているのに・・・

 主人公(デヴィット・ヘミングス)は、売れっ子の写真家で、商業主義に乗って勝手気ままな生活を送っている。あるとき、わけありらしい男女を公園で見つけて、おもしろがって写真に撮る。撮られていると気づいた女(バネッサ・レッドグレーブ)にネガを渡すように迫られるが、不倫だろうと思った写真家は断る。ところが、公園で撮った写真を引き伸ばしてみると、そこに何者かを狙う銃が写っており、死体も写っていた。つまり、女は男を色仕掛けで公園に誘って殺したのではという疑惑にかられる。そして、夜の公園にいってみると、実際に死体があった。ところが、再び、翌日、もう一度確かめに行ってみると、あったはずの死体がない・・。

 これまで、主人公は日常の中で見えるものに絶対的な信頼を置き、それを信じて俗物として生きてきた。が、これを契機に自信を失う。見えるものと見えないものの境界が怪しくなり、自信たっぷりだった日常生活にぽっかりと不安がのぞく・・・。そう解釈するべきだろう。

 おもしろいのは、映画の中で度々出てくる白塗りの不思議な集団。日常生活の中の異界とでもいうか。最後、彼らがパントマイムで目に見えないボールを打ち合うテニスをする。主人公も、見えないテニスボールを追いかける。つまり、主人公は見える世界だけで満足していたそれまでの俗物としての人間に疑問を持ち始める。

 

51twmvwu6l 『砂丘』

 私は大分市の高校生でいたころから、アントニオーニの名前は知っていたが、実際の映画を見たことはなかった。東京に出てきたのが、1970年。最初に見たアントニオーニの映画が、当時封切られたこの映画だった。それ以前のアントニオーニの映画は、名画座などで後になってみたものだ。

 はじめてみたときもそう思ったが、やはり、今回見ても、あまりおもしろくなかった。

 アントニオーニがアメリカで撮った映画。まあ要するに、資本主義的な俗物に怒りを覚え、学生扮装に関わっている男子学生とアルバイト女性がたまたま出会い、砂丘で愛を交わし、男子学生は学生運動で銃を発砲し(警官が死ぬが、それが男子学生の撃った銃によるかどうかは不明)、飛行機を盗んでいたために殺されてしまうという話。他愛のない話で、しかも、いかにもアメリカらしい音楽(ピンクフロイドの音楽だというので、当時話題になった)がかかり、無駄の多さを感じる。同じころはやった『イージーライダー』と似た雰囲気がある。

『赤い砂漠』ほどの映像美も感じない。砂丘で、二人のはずの男女が増殖していくイメージも、最後の爆破のイメージも、陳腐としか思えない。アメリカということを意識しすぎたのではないか。これではアントニオーニの魅力は出ない。

 ちょっとがっかり。アントニオーニとしては駄作の部類だと思う。

51mc2bfbyczl 『さすらいの二人』

 かつて見たことがあるつもりだったが、見覚えがなかった。もしかしたら、初めてかも。

 アントニオーニが、アメリカのジャック・ニコルソンと、有名になり始めていたマリア・シュナイダーを使って撮ったというので話題になった映画だ。

 自分と似た男が心臓発作で死んだことを利用して、その男にすりかわって、自分の名声や妻や過去の自分を捨てようとする男の話。自分の過去などすべてから逃れようとする。そして、偶然知り合った女性と行動を共にする。が、すりかわった男がアフリカのある独裁国のテロを支援する武器商人であるために追われていたり、妻が不審に思って探したりするため、そこから逃げ出す。が、アフリカの敵側の人物によって、心臓発作の男と同じような状況で殺される。

 過去の自分を捨てようとしても捨てられない。新しい自分として、知り合った女性と愛し合おうとするが、それができない。逃げようとすればするほど、過去に追われる。そんな状況を描いている。「自分」と言う存在の下にぽっかりと穴が開いている・・・そんなことを感じさせてしまう映画。すばらしい映画だと思う。

 

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稲城市立iプラザホールで、戸田弥生さん、野原みどりさんとコンサート!

 今日(116日)、稲城市立iプラザホールで、「クラシック×頭のトレーニング」と言うタイトルで、戸田弥生さんと野原みどりさんのコンサートを開いた。私が話を担当した。

 前半は、「クラシックを聴くと論理的な頭になる」というテーマで、音楽の形式を中心にした話と曲目。変奏形式の「キラキラ星変奏曲」と、楽章ごとにソナタ形式、三部形式、ロンド形式など、様々の形式が用いられているベートーヴェンの「春」。

 後半は、超絶技巧の曲を集めた。バルトークの無伴奏ヴァイオリンソナタ、リストの「マゼッパ」、ラヴェルの「ツィガーヌ」など。

 戸田さん、野原さんとは二度目のコンサート。同じテーマで昨年だったか、兵庫県立芸術文化センターで開き、大成功だった。今回もそれに負けない名演奏だった。ただ、舞台裏から聞いたので、集中して聞けなかったのが残念。

 お二人の演奏のタイプはまったく異なる。戸田さんは鬼気迫るような集中力で曲の本質に迫っていく。野原さんは気品に溢れていながらも芯の強い音で明晰な音楽を作り出す。バルトークのソナタは、まさしく、鬼気迫るものだった。「マゼッパ」は、華麗でありながら、気品に溢れていた。「ツィガーヌ」は、両者の美質ががっぷり四つになって現れていた。

 いずれも素晴らしかったが、私は、「ツィガーヌ」が好きだ。この曲自体が好きだということもあるが。

 思いのこもった、ちょっと歪な戸田さんのヴァイオリンに粒立ちのきれいで気品のある野原さんのピアノが加わって、ほかでは味わえない不思議な「ツィガーヌ」になる。野原さんは流麗だが、戸田さんは、流されていくのを拒否するかのよう。それが絶妙の音楽になっていく。

 私のしゃべりについては、まずまずといったところかな。私は雰囲気を盛り上げるタイプのしゃべりではない。お客さんがあまり多くなかったので、本当は盛り上げるべきなのだろうが、それが出来なかったのが残念。

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『ヴァーグナー 西洋近代の黄昏』の見本が届いた!

931893  昨年の夏以降、かなり力を入れて書いていた私のヴァーグナー論である『ヴァーグナー 近代の黄昏』(春秋社)が本になった。さきほど見本が届いた。

 数年前から、私は音楽の入門書を何冊か書いてきた。そのなかで、バッハ、ベートーヴェン、ワーグナー、リヒャルト・シュトラウスについて、ポツリポツリと私の持論を示してきた。もっと本格的な本を書きたいと思っていたのだが、その機会を与えられ、ワーグナーを中心に考えをまとめた。

 これまで、入門書の中では、私は「ワーグナー」という表記を用いてきた。一般にはそのほうがわかりやすいと思っているからだ。が、今回は、入門書ではなく本格的な評論と位置づけているので、「ヴァーグナー」と記している。また、私は、ほとんどの本で「である」という文末を用いず、「だ」を用いるのだが、今回は同じ理由により「である」を用いている。

 本書は、10代のころからヴァーグナーに心酔し、ヴァーグナーのCDDVDだけで1000枚以上所有し、フランス文学を学びながらも、関心の中心にヴァーグナーをおいてきた私の集大成のつもりでいる。

 私は、ヴァーグナーが楽劇によって追い求めていたものを「ひとつであること」だと考えている。彼のすべての楽劇に「ひとつであること」への異常なまでの執念が見られる。作品の統一をとろうとしあれこれ工夫をしている。『リング』では、作品と作品、幕と幕が入れ子細工のように構成されている。ライトモティーフの手法も重層的な世界に統一を与える工夫でもある。『トリスタンとイゾルデ』は、まさしく二人の主人公が「ひとつ」となり、最後にはイゾルデが宇宙とひとつにある様子が描かれる。『マイスタージンガー』では、ドイツ世界の「統一」が歌われる。ここにあるのは、「多を一にする」という思想にほかならない。

 では、なぜヴァーグナーはこれほど、「ひとつであること」にこだわるのか。そして、「ひとつであること」は、ヴァーグナー以前から、ヴァーグナーを経て20世紀に至るまで、どのように推移したのか、そのなかで、ヴァーグナーはどのような役割を果たしたのか。

 私はそうしたことを、思想としての音楽という側面から本書で描こうとした。

 そうして明らかにしたのが、「ひとつであること」というのは、西洋近代のエッセンスをなす概念にほかならず、完璧な「ひとつ」が崩れ、人間の手によって「ひとつである」ことが作られるようになり、ついには、「ひとつであること」が成り立たなくなっていくのが、西洋近代の精神史ではなかったのかということだ。このことは、デカルトの二元論、ニーチェの「神の死」、20世紀のシュールレアリスムをはじめとする芸術運動など、西洋思想の大きな問題と関わっている。

 私としては、本書によって、西洋近代の様々の問題を解き明かしたつもりだ。とりわけ、デカルトの二元論と遠近法・ホモフォニーの関係、ベートーヴェンの「ひとつ」に関する認識、そしてとりわけ、ヴァーグナーの前期の歌劇から後期の楽劇への「ひとつ」についての変化、その後のリヒャルト・シュトラウスの試みについて、かなり独創的な、しかしかなり的確な解釈をしたつもりでいる。

 そして、そうでありながら、わかりやすく平明で、専門知識がなくても理解できるように工夫をしたつもりでいる。本書を読むことによって、若者が、西洋近代文化史の流れを頭に入れることができるようにも意識した。

 いずれにせよ、多くの人に本書を読んでいただきたいものだ。そして、「樋口は、入門書だけでなく、実は本格的な思想としての音楽についての論を書くことのできる人間だったんだ」と思ってもらえると、個人的にはとても嬉しい。

 逆に、もし、そう思ってもらえないと、とても悲しいことになりそう・・・

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パゾリーニ「生の三部作」と『テオレマ』を見た

 このところ、ずっとDVDになった古い映画を見ている。オペラDVDも見たいものがたまっているのだが、ワイダの『カティンの森』に引きずられて、今度はパゾリーニを見始めた。しばらくイタリア映画を見直そうと思っている。

 私はかなり凝り性なので、一人の作曲家や一人の作家を追いかけだしたら、つまみ食いでやめるのでなく、入手できる限りすべてを味わおうとする傾向がある。ただ、凝り始めると、作品を見るだけで済まずに、評論書を読んだり、自分で書いたりしたくなるので、あまり深入りしすぎないように注意しなければ。

 そんなわけで、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督の「生の三部作」あるいは「艶笑三部作」と呼ばれる三本の映画を見た。封切時にはもちろん見たが、それ以来、30年ぶりくらいで見たことになる。

513e0cm0bl 『デカメロン』 

 それ以前のパゾリーニ映画の荒々しく、暴力性に溢れたタッチとは打って変わって、楽しさに溢れている。ボッカチオの『デカメロン』からいくつかのエピソードを集めた「オムニバス映画」。おおらかなセックス賛歌とでもいうべきもの。

 封切時に見たときも思ったが、今見ても、やはりそれ以前のパゾリーニに圧倒された人間としては、物足りない。毒がなさすぎるし、「哄笑の映画」としては、笑いが不足する。それに、エピソードとエピソードのつなぎが、不自然。まだ続くのか、次のエピソードが始まったのかよくわからない。わからなさを狙っているのかもしれないが、「これで終わりだとすると、話として面白みに欠けるので、もっと何か続きがあるのではないか・・・」と思いつつ裏切られる形になる。

 しかし、改めてみて、やはりパゾリーニの美意識には圧倒される。画面の一つ一つが、まるで美術作品。建物、調度品、衣服がリアルで存在感に溢れている。おそらくボッカチオの時代はきっと項だったのだろうと思わせるだけの説得力がある。パゾリーニの造形の見事さに脱帽。話としてのおもしろさよりも、映像美のほうに心惹かれた。ジョットーの役でパゾリーニが出演している。見事な役者ぶり。

61vekvzxwjl 『カンタベリー物語』

 『デカメロン』よりも、かなりパゾリーニらしい毒を含んでいる。チョーサーの作品からのオムニバスだが、チョーサー自身に扮するパゾリーニがしばしば登場して、まさしく狂言回しの役を演じる。

『デカメロン』がイタリアを舞台にしたのに対し、こちらはイギリス。スコットランドの風景も見られるようだ。風景がかなり異なる。歌われる音楽も異なる。これも実に素晴らしい映像。建物もさることながら、寒々とした草原や木々が素晴らしい。ただこれも、笑いとしては物足りない。チャップリンへのオマージュとして、ニネット・ダヴォリがチャップリンのマネをするところはなかなかおもしろいが、でも、もちろん本家にはかなわない。

 ここには同性愛が描かれ、スカトロジーがかなり色濃く現れる。「悪趣味」といえるような場面もかなり出てくる。おおらかなセックスと言うよりも、悪魔が登場し、火刑が描かれ、最後には、地獄世界が描かれる。しかも、大きな悪魔の尻の穴から、まるで大便のように小さな悪魔たちが飛び出してくる。まさしく、醜悪で不気味な世界。

 私は大のパゾリーニ好きだし、この映画もかなりおもしろく見たが、絶賛したい気にはならない。

51j4nghacel 『アラビアン・ナイト』

 これまた、かなり悪趣味なところもあるが、これは名作だと思った。封切時に見たときにはあまりよい映画ではないと思ったが、そうではない。『デカメロン』のイタリア、『カンタベリー物語』のイギリスと異なったアラビアの世界が描かれる。これも同じくらいに美しい。絵葉書のような美しさではなく、まさしく美術作品の美しさ。

 エピソードは重層的に構成されている。登場人物の読む本の中や、人物の語りの中に別のエピソードが語られる。基軸になっているのは、ヌレディンとその女奴隷ズルムートの物語。

 どのエピソードも、人知を超えた運命に導かれていく人間たちを描いている。よい目にあったり、ひどい目にあったり。そのなかにセックスが描かれるが、近代小説のような葛藤や人間心理が描かれないところが、おもしろい。運命に翻弄される人間たちを、対象と距離をとりながらも美しく描き出している。個性的な人間を中心に物語をヒロイックに物語を進めていくハリウッド映画の対極にある。反人間主義とでも言おうか。セックスが、まさに動物たちの自然な営みであるかのように描かれる。

 女奴隷ズルムートの登場になると、モーツァルトの弦楽四重奏曲第15番ニ短調の第2楽章がたびたび流れる。運命の不思議さを感じさせる音楽として用いられているようだ。『アポロンの地獄』でも、モーツァルトの弦楽四重奏曲第19番「不協和音」の冒頭が、まさしく人間の宿命の表現として用いられていたが、同じような使い方だ。

514j663mc2l  ついでに、『テオレマ』も見直した。『ラ・リコッタ』、『愛の集会』『大きな鳥と小さな鳥』『マンマ・ローマ』『豚小屋』などは、数年前にVHSDVDを買って見たので、今回は見直さないが、『テオレマ』だけはもう一度見てみようと思った。この映画は、私が卒論でパゾリーニを選んだ時、かなりしつこく分析したものだ。

 テレンス・スタンプ演じる謎の男は、パゾリーニ自身を表していたのだろうと、今回、初めて思った。少なくとも、パゾリーニはこのテレンス・スタンプのような存在になりたかったのではないか。

 ある日、突然、社会を起爆させる存在(テレンス・スタンプが演じる青年)がやってくる。その人物は、本来、人間社会が持っていたはずの聖性を持っている。ブルジョワ社会はそれに接して、これまで自分たちがいかに空虚で無意味な生活をしていたのかに気づき、それを取り戻す。ところが、その人物はすぐに去っていく。ブルジョワ社会に生きていたものは、失われた聖性を渇望して、過去にしがみついたり(アンヌ・ヴィアゼムスキーの演じる娘)、芸術の中に聖性を作り出そうと喘いだり(息子)、男漁りをしたり(シルヴァーナ・マンガーノの演じる妻)、裸になって荒野を駆ける(マッシモ・ジロッティの演じる夫)が、聖性は現れない。ただ、農家の出身だった非ブルジョワ階級の女(ラウラ・ベッティの演じる女中)だけが、男から受け継いだ聖性を持つようになり、社会の再生のために自ら生贄になる。

 これがこの映画に示される「定理(テオレマ)」なのだろう。後半、かなりの時間、モーツァルトの『レクイエム』が鳴り続けるが、これはまさしくブルジョワ社会へのレクイエムだったのだろう。

 ただ、今はもっと資本主義が進んでしまって、いよいよ社会は聖性を失っている。そして、聖性を重視するイスラム原理主義者たちがテロを起こしている。パゾリーニが今の状況を見たら、どう語っていただろう・・・!

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ロシア映画 『戦争と平和』、パゾリーニ『奇跡の丘』を見た

 ワイダの『カティンの森』を見て以来、妙に映画づいている。しばらく、オペラのDVDは見ないで、古い映画のDVDを見ている。

21yp8qf96al  セルゲイ・ボンダルチュク監督のロシア映画『戦争と平和』をDVDで見た。4作から成り、全部で6時間を超す大作。

 私が中学生から高校生のころ、日本で封切された。トルストイの原作をちょうど読んだばかりだった私は、この映画に衝撃を受けた。原作から抜け出したような登場人物たち。当時の映画の新しい手法。中学生だった私は、ナターシャを演じた清楚で美しいリュドミラ・サベーリエワに夢中になった。どういう経緯だったか覚えていないが、この映画の評を書いて、それが中学の学校新聞に載った記憶がある。

 自慢するわけではないが、私は当時、大分の田舎にいるわりには、めっぽうインテリの中学生だった。つまりは、浮いた存在だった!

 そんな思い出があったので、かなり前、DVDが出ているのを知って購入した。そのまま見る時間が取れずにいたが、正月を機会に見てみた。まず、かなりの部分を記憶しているのに驚いた。もしかしたら、大学生のころ二度か三度見たのかもしれない。

 しかし、それにしてもよくできた映画だ。貴族の館の豪華さ、舞踏会の華麗さ、そして戦場のスケールの大きさに驚く。まさしくホンモノ! ソ連が国家をあげて制作に協力しているので、スクリーン上に数百、数千の兵士が戦い、馬に乗って走り、倒れ、もんどりうち、爆破される様子がリアルに描かれる。人物たちの演技も、ボンダルチュク監督自身の演じるピエールを中心に実に見事。きめ細かく心の襞が描かれ、画面も工夫を凝らしているので、見ていて飽きない。このような大作にありがちな、大味なところがまったくない。

 しかも、生と死をめぐるトルストイの思想がうかびあがってくる。人間がドストエフスキー好きとトルストイ好きの二種類に分かれるとすると、私は間違いなくドストエフスキー好きだ。トルストイはかなり読んだが、実はあまり夢中にはなれなかった。そんなわけで、トルストイについてはまったく詳しくない。だが、人間の生と死を自然の中に捉えようという映画の中に現れる思想は、きっとトルストイのものなのだろう。しばしば映し出される空や雲や樫の木は、そうした思想を語っている。

 ともあれ、見終わったあと、深い充実感にひたった。

9f05a1909fa0736dbdc3f110l  パゾリーニの『奇跡の丘』のDVDを見た。これは、かつて何度か見て、とても好きな映画だった。『マタイによる福音書』の映画化で、聖母マリアの受胎からイエス・キリストの受難までを描く。

 聖書にかなり忠実な映画化だ。いや「かなり」というのは間違いかもしれない。映像に関しては「完璧に」忠実と言うべきだろう。妙にドラマ化せず、余計なものは付け加えず、若きイエスを描いていく。生に溢れ、戦闘的な宗教家としてのイエス。イエスを演じる男性が、実に凛々しく、まさしくイエスそのもの。弟子たちも、美男でなく、いかにも当時の人物らしいリアリティを持っている。

 何よりも、まるで当時そのままと思わせるような背景が素晴らしい。どこで撮影されたのか、かつて本で読んだ記憶があるが、忘れてしまった。それにしても、これほどリアルに迫ってくる場所があったとは。パリサイ人などの帽子も、実にリアル。

 ネオ・レアリスモによって描かれたイエス・キリストというべきか。そこが、ハリウッド製のイエスと異なる。成人したイエスが初めて洗礼者ヨハネの前に現れる場面と、磔の場面は身が震えるような感動を覚えた。

 老いたマリアを演じるパゾリーニの母スザンナ・パゾリーニの演技のうまさにも改めて驚いた。素人とは思えない。顔もパゾリーニによく似ている。

 忠実でないのは音楽だ。バッハの『マタイ受難曲』を中心に様々な音楽が鳴る。モーツァルトの曲(何の曲かわからなかった)や、民族音楽も聞こえた。だが、実に映像に合っている!

 私は、『奇跡の丘』『アポロンの地獄』『王女メディア』の三本がパゾリーニ映画の中で圧倒的に好きだった。次が『テオレマ』『アッカトーネ』。明日あたりから、かつてロードショーで見て少し失望した「生の三部作」を見ることにしよう。今、見ると、おもしろいと思うかもしれない・・・

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フェリーニ、ワイダ、パゾリーニの映画DVDを見た

 正月をはさんで、このところずっと原稿を書いている。一日に400字詰め原稿用紙にして30枚ずつほど書き、夜、疲れてきたら、古い映画のDVDを毎日1本ずつ見る。そんな毎日だ。

 ここ数日のうちに見た映画について、簡単な感想を記しておく。

51jdd41rqll ●フェリーニ「8 1/2」

 この映画を最初に見たのは、40年以上前の高校生の時。たまたま見たのだが、まったく理解できなかった。なんとつまらない映画だと思った。

 2度目に見たのは、大学生のころ。すでに演劇科で映画を専攻していた。大好きな監督というわけではなかったが、フェリーニがどれほど偉大な監督か知っていたし、すでに「道」や「サテリコン」など、フェリーニの映画を何本か見ていた。そのときは大傑作だと思った。が、心の片隅に、ちょっと見栄を張ってわかったふりをしている自分が居た。

 そして、今、私は、フェリーニがこの映画を作った年齢よりもずっと年上になっている。人生体験も積んだ。芸術にもたくさん触れてきた。今見ると、これをどう思うか、かなり関心があった。そこで、DVDを購入して見た。

 まずまずだな・・・と思いながら見ていた。現実と夢想が交錯するというのは、よくあるパターンなので今となっては特に驚かないが、構図や人物の動きのうまさには圧倒される。ただ、あまりおもしろいわけではなかった。なんだ、たいしたことはないではないかと思っていた。

 ところが、最後の20分ほどになったら、なぜか深く感動している自分に気づいた。それどころか、ニーノ・ロータの明るい音楽にうきうきしながらも、涙が出てきた。まさしく映像の魔術師フェリーニ!

「語りたいが、語るものがない」。映画の中でも語られる台詞だが、まったくその通りの映画だと思う。サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』や『モロイ』などと同じ境地というべきか。『道』や『カビリアの夜』や『崖』などの起承転結のある名作を作ってきたあと、その欺瞞に気づき、映画で真実を描こうとしたところ、映画では真実を作れないことに気づいた、いや、そもそも映画でも小説でも詩でも音楽でも、真実を語ることなどできないことに気づいた。そして、捨て鉢になって、「人生はお祭りだ」という映画を作った。それがこの映画だと思う。

 私は『笑えるクラシック』(幻冬舎新書)で、「ベートーヴェンの第九はお笑いの音楽だ、捨て鉢になってドンちゃん騒ぎを始めた音楽だ」と書いた。この映画はそれに通じる。

 好きな映画ではない。が、これは途方もない名作だと思った。

●ワイダ 『世代』 

 以前、NHKで放送されたものを録画しておいたもの。とてもおもしろかった。たぶんこれを見たのは初めて。不良少年が自警団に入り、ドイツ軍と戦うレジスタンスになり、友人や恋人を失いながら成長していく様を戦争の残虐性とともに鋭く、そして美しく描いている。映像の美しさにも圧倒された。登場人物の一人が後の大監督のポランスキーだというのも驚いた。

●ワイダ 『地下水道』 

 これまでに何度も見ている。久しぶりに見たが、とてもよくできた映画。残酷でありながら、人類に対する愛情も感じられる。以前見たときにも、狂気に陥る音楽家(フランスの往年の名優ルイ・ジュヴェによく似た俳優が演じている)にもっとも感情移入してみたのを思い出した。かつて見た記憶だと、全編、地下の中だったような気がしていたが、実際には地下にもぐったのは映画の中ほどだったのに驚いた。

●パゾリーニ 『アッカトーネ』 

 学生のころ、何かの特別上映で一度、見て、かなりおもしろいと思った覚えがある。前もって、恩師である米川良夫先生の訳されたシナリオを読んでいた。が、実際に映画を見て、ローマの下層の人々の猥雑で暴力的な生活を描きながら、そこにバッハの『マタイ受難曲』が流れるのに非常に驚いた。今回、改めて、この曲の使い方に感心した。明らかな素人役者のヘタさ加減がはじめのうちは気になるが、後半になると、自然に思えてくるのも面白かった。

9f05a1909fa0736dbdc3f110l ●パゾリーニ 『アポロンの地獄』

 ソフォクレスの『オイディプス王』の映画化。前にもこのブログに書いたが、私の人生を変えた映画だ。改めて感動した。本当に素晴らしい! これまで5回以上見ているので、ほとんどはっきりと覚えていた。そして、当時の私がこの映像に対してどのような疑問を抱き、それについてどう解決し、そのように卒論に書いたのかも、かなり思い出した。

 しかし、それにしても、この驚くべき映像美! それまでの常識を破壊するギリシャの王たちの服、帽子、館、そして、説明の少ない映像。エネルギーに溢れ、独特の美学にはちきれんばかりだ。同じパゾリーニにお『王女メディア』と並んで、これまで私の見た映画の中でベスト1を争うと確信した。

 40年以上前に見た映画に、当時とまったく同じくらいに感動している自分がいた。そして、思うに、当時と同じように感動しているような気がする。自分でもちょっと驚いた。これがめでたいことなのか、悲しむべきことなのか、わからないが・・・。

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今年のベートーヴェン全交響曲演奏は、歴史的名演だった!!

 大晦日(つまり、もはや昨年と言うことになる)、小林研一郎指揮ベートーヴェン全交響曲連続演奏を聴き終えて、11日の深夜に自宅に帰った。興奮してなかなか寝つけなかった。そして、これまた興奮して早めに目がさめてしまった。まさしく歴史的名演!! 

 一昨年も素晴らしかった。だが、コバケン特有の熱い演奏が前面に出ていた。信じられないようなテンションで最後まで振り切り、熱く燃える音楽だった。N響を中心とした日本全国から集まった選りすぐりのメンバーによるオケは、よくそれについていっていた。だが、やや粗さのようなものも残っていた。

 だが、今年は正真正銘の名演だった。

 もちろん第1番からして見事な演奏。だが、第2番の第1楽章はその比でなく凄まじかった。そこから火がついた感じがした。第5番の第1楽章、第7番の4楽章、第9番の第1・4楽章がことのほか圧倒的。緩徐楽章よりも、速くてドラマティックな楽章がとりわけ素晴らしい。

 特に何かをいじった指揮ではない。きわめてオーソドックスな解釈だろう。だが、すべての楽器が全力でコバケン特有の白熱感についていく。速めのテンポで強弱を強調したドラマティックな展開が圧倒的な効果をもたらす。ともかく、オーケストラが素晴らしい!! もしかしたら、ウィーンフィル、ベルリンフィルのレベルではないかと思った。

 これまで、ベートーヴェンの交響曲はかなりの演奏を聴いていた。だが、これほど圧倒されたことはなかった。とりわけ、第九の凄まじさ!! 観客のほとんどが総立ちに近かった。合唱を担当した武蔵野合唱団、真夏に第九を歌う会もすばらしい。菅英三子、相田麻純、高橋淳、青戸知のソロもきわめて高レベル。青戸さんのバリトンのソロが、まるでオペラ風の歌いまわしなのにちょっと驚いた。フリッチャイ指揮の録音でフィッシャー=ディスカウがまるでリートのように歌っているが、それを思い出した。

 

 第8番が演奏された後に音楽評論家の岡本稔さん、歴史学者の樺山紘一さん、音楽ライターの鈴木淳史さんとともに、トークをした。第八番の第四楽章あたりから、緊張してきて、音楽を聴きながらもトークが心配になって、手に汗をかき始めた。

 ほかの方の話もとてもためになった。岡本さんの「第九の第四楽章の歌詞の、人類みな兄弟という考え当時は危険思想」という指摘、樺山さんの歴史的な解説、鈴木さんの「ベートーヴェンはウザい」という発言はおもしろかった。私も自説を含めて語った。つまらないことや説明不足のことも言ったが、ひとつだけ自分でなかなかいいことを言ったと思った。

 それを少しわかりやすく補足しながらいうと、こんなことだった。「この連続演奏をずっと聴いていると、観客同士、観客と演奏家の間に連帯感のようなものが生まれる。連帯感というのは友愛だ。友愛と言うと、どこぞの総理大臣を思い出すかもしれないが、これは自由・平等と並ぶフランス革命の精神を表す言葉だった。しかも、この精神が第九でも歌われる。つまり、ここにいる我々は、交響曲全曲を聴くことによって、友愛を作り出し、みんなでベートーヴェンの革命精神を作り出していることになる」。

 ただ、私としてはこのようなことを言ったつもりだったのだが、言葉足らずだったり、ぼそぼそ言ったりで、もしかしたら十分に伝わっていないかもしれない。が、まあよしとしよう。

 終演後、関係者で行われたパーティに参加。マエストロにサインをもらった。私はテノールの高橋さんのファンなので、少し話をした。

 と言うわけで、一昨日に示した今年のベストテンのコンサートを訂正する。それに、ひとつ大事なコンサート(ネマニャのコンサート)をベストテンに加えるのを忘れていた!

・パヴェル・シュポルツル バッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータ2番など。(ナントのラ・フォル・ジュルネ)

・ネマニャ・ラドゥロヴィチ ヴィヴァルディ「四季」など カントロフ指揮、シンフォニア・ヴァルソヴィア(東京のラ・フォル・ジュルネ)

・ミシェル・コルボ指揮、ローザンヌ声楽・器楽アンサンブル。『マタイ受難曲』。 (東京のラ・フォル・ジュルネ)

・新国立劇場『ムツェンスク郡のマクベス夫人』

・バンベルク交響楽団 ジョナサン・ノット指揮 ブラームス交響曲1・4

・ゲヴァントハウス管弦楽団 リッカルド・シャイー指揮 メンデルスゾーン5、ブルックナー4.

・チェコフィル ブロムシュテット指揮 ブルックナー8

・チェコフィル ブロムシュテット指揮 ドヴォルザーク8・9

・東京交響楽団 飯森範親 『ブロウチェク氏の旅行』

・小林研一郎指揮 大晦日 全交響曲連続演奏会

次点

・佐藤俊介・菊池洋子デュオコンサート (多摩大学20周年記念コンサート)

・ペーター・ノイマン指揮、コレギウム・カルテゥシアヌム 『ヨハネ受難曲』 (ナントのラ・フォル・ジュルネ)

 今年もこのブログは音楽中心になりそうな予感・・・

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