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『ヴァーグナー 西洋近代の黄昏』の見本が届いた!

931893  昨年の夏以降、かなり力を入れて書いていた私のヴァーグナー論である『ヴァーグナー 近代の黄昏』(春秋社)が本になった。さきほど見本が届いた。

 数年前から、私は音楽の入門書を何冊か書いてきた。そのなかで、バッハ、ベートーヴェン、ワーグナー、リヒャルト・シュトラウスについて、ポツリポツリと私の持論を示してきた。もっと本格的な本を書きたいと思っていたのだが、その機会を与えられ、ワーグナーを中心に考えをまとめた。

 これまで、入門書の中では、私は「ワーグナー」という表記を用いてきた。一般にはそのほうがわかりやすいと思っているからだ。が、今回は、入門書ではなく本格的な評論と位置づけているので、「ヴァーグナー」と記している。また、私は、ほとんどの本で「である」という文末を用いず、「だ」を用いるのだが、今回は同じ理由により「である」を用いている。

 本書は、10代のころからヴァーグナーに心酔し、ヴァーグナーのCDDVDだけで1000枚以上所有し、フランス文学を学びながらも、関心の中心にヴァーグナーをおいてきた私の集大成のつもりでいる。

 私は、ヴァーグナーが楽劇によって追い求めていたものを「ひとつであること」だと考えている。彼のすべての楽劇に「ひとつであること」への異常なまでの執念が見られる。作品の統一をとろうとしあれこれ工夫をしている。『リング』では、作品と作品、幕と幕が入れ子細工のように構成されている。ライトモティーフの手法も重層的な世界に統一を与える工夫でもある。『トリスタンとイゾルデ』は、まさしく二人の主人公が「ひとつ」となり、最後にはイゾルデが宇宙とひとつにある様子が描かれる。『マイスタージンガー』では、ドイツ世界の「統一」が歌われる。ここにあるのは、「多を一にする」という思想にほかならない。

 では、なぜヴァーグナーはこれほど、「ひとつであること」にこだわるのか。そして、「ひとつであること」は、ヴァーグナー以前から、ヴァーグナーを経て20世紀に至るまで、どのように推移したのか、そのなかで、ヴァーグナーはどのような役割を果たしたのか。

 私はそうしたことを、思想としての音楽という側面から本書で描こうとした。

 そうして明らかにしたのが、「ひとつであること」というのは、西洋近代のエッセンスをなす概念にほかならず、完璧な「ひとつ」が崩れ、人間の手によって「ひとつである」ことが作られるようになり、ついには、「ひとつであること」が成り立たなくなっていくのが、西洋近代の精神史ではなかったのかということだ。このことは、デカルトの二元論、ニーチェの「神の死」、20世紀のシュールレアリスムをはじめとする芸術運動など、西洋思想の大きな問題と関わっている。

 私としては、本書によって、西洋近代の様々の問題を解き明かしたつもりだ。とりわけ、デカルトの二元論と遠近法・ホモフォニーの関係、ベートーヴェンの「ひとつ」に関する認識、そしてとりわけ、ヴァーグナーの前期の歌劇から後期の楽劇への「ひとつ」についての変化、その後のリヒャルト・シュトラウスの試みについて、かなり独創的な、しかしかなり的確な解釈をしたつもりでいる。

 そして、そうでありながら、わかりやすく平明で、専門知識がなくても理解できるように工夫をしたつもりでいる。本書を読むことによって、若者が、西洋近代文化史の流れを頭に入れることができるようにも意識した。

 いずれにせよ、多くの人に本書を読んでいただきたいものだ。そして、「樋口は、入門書だけでなく、実は本格的な思想としての音楽についての論を書くことのできる人間だったんだ」と思ってもらえると、個人的にはとても嬉しい。

 逆に、もし、そう思ってもらえないと、とても悲しいことになりそう・・・

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