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ティーレマン、ミュンヘン・フィルのブルックナー8番に感動

 今日(3月28日)、横浜みなとみらいホールで、ティーレマン指揮、ミュンヘン・フィルのブルックナーの交響曲第8番(ハース版)を聴いてきた。

 一言でいって、素晴らしい演奏。

 チェリビダッケの伝説的な演奏を思い出すほど、かなり遅めのテンポ。丁寧で重厚で、楽器がよく鳴り、しっかりと整理されている。第一楽章は、ホルンがとちるなど少々粗いところを感じた。が、だんだんと盛り上がってきて、第四楽章は最初から最後まで素晴らしかった。

 しっかりとうねり、急がずあわてず、寄せては返しながら、ゆっくりゆっくり盛り上がってカタルシスに達する。音の強弱をしっかりとコントロールしている。

 第三楽章の盛り上がりの部分、もっと金管の咆哮がほしいと思ったが、きっと席(向かって左前)のせいで、金管が届きにくかったのだろう。

 実は私はティーレマンとは相性がよくない。最初の出会いは、1998年のベルリン・ドイツ・オペラの『さまよえるオランダ人』公演。大喝采だったが、私はひどい指揮だと思った。オランダ人を歌ったヴァイクルも絶不調だった。2007年のミュンヘン・フィルとのブルックナーの5番も、私は感心しなかった。私が始めて心の底から感動したのは、バイロイトでの『リング』だった。

 今回は、『リング』に次ぐ見事な演奏だと思った。間違いなく、現代を代表する大指揮者。

 しかし、・・・

 率直に言って、昨年聞いたブロムシュテット指揮チェコ・フィルの演奏のほうにもっと感動した。ブロムシュテットにはもっと躍動感があった。爆発があった。私は涙を流しながら聴いた。ティーレマンももちろん素晴らしいのだが、突き抜けたものを感じない。もう少し狂気のようなもの、全身を痺れさせるような毒気のようなもの、妖気のようなものがほしい。第2楽章も、もっとデモーニッシュなところがあってよかったのではないか。第3楽章ももっと爆発してよかったのではないか。深く感動はしたものの、恍惚に我を忘れて流するには至らなかった。

 ともあれ、昨日の『神々の黄昏』に続いて、とても充実した一日だった。

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新国立『神々の黄昏』のテオリンの歌とウォーナーの演出

 昨日(3月27日)、新国立劇場で6年ぶりのトーキョー・リングの『神々の黄昏』を見てきた。

 ジークフリートを歌ったクリスティアン・フランツ、グンターを歌ったアレクサンダー・マルコ=ブルメスターは申し分なし。世界最高の劇場に引けをとらないと思った。ハーゲンのダニエル・スメギとヴァルトラウテのカティア・リッティングにはほんの少し不満を覚えた。ハーゲンはもう少しド迫力がほしい。リッティングは歌の演技力が不足。が、もちろん、感動をそぐほどではない。十分に見事。

 グートルーネの横山恵子、アルベリヒの島村武男ら、平井香織、池田香織、大林智子、竹本節子、清水華澄、緑川まりらの日本の歌手陣が脇を占めているが、これが見事。まさしく世界レベルに匹敵すると思う。

 そして、何より素晴らしかったのが、ブリュンヒルデを歌ったイレーネ・テオリン。私は2008年のバイロイトでイゾルデを見て以来のファン。前回の新国立『ジークフリート』ではちょっと不調に思えたが、今回は圧倒的。第二幕あたりから全開になり、最後の「自己犠牲」はまさしく感動的。DVDになっているコペンハーゲン・リングに匹敵する出来だと思った。

 日本の新国立劇場は世界に自慢できるオペラハウスになっている。私は大変満足した。このレベルのワーグナーを聴ければ、文句なし。

 ただ、これまで繰り返し書いてきたが、私はダン・エッティンガーの指揮がどうにも気になる。もちろん、悪くない。東京フィルもしっかりとつけている。惚れ惚れうするところ、うっとりするところはたくさんあった。

 が、「神々の黄昏」特有のどす黒い情念、呪いと憎しみと復讐の表現に甘さを感じる。ほかの作曲家の指揮ならともかく、ワーグナーの指揮としては物足りない。そう思った人が私以外にもいたのだろう。終幕後の拍手の際、エッティンガーにブーイングを浴びせている人がいたようだ。私は、ブーイングするほどではないと思うが、「もうちょっとやってくれるとうれしいのになあ」と思ってしまう。が、もちろん、これがエッティンガーの音楽の作りなのだろう。

 キース・ウォーナーの演出について、あまり語りたくなかったのだが、これほど謎めいたところがたくさんあると、ひとこと言いたくなる。

 私は、演出を「読み解く」こと自体、好きではない。そもそも読み解かなければならない演出は邪道だと思う。自然に理解できる演出でなければ、演出家として才能がないと断定する。登場人物が不思議な行動をし、不思議なものが出現して、謎を解かなければならない演出が何と多いことか!

 が、今回は、ウォーナーの挑発に乗って、ちょっと読み解いてみることにする。

 ギービッヒ家の場面になると、必ず得体の知れない動物の写真が前面に出てくる。どうやら、あれは羊のドリーだという。ちょうど、6年前の最初のトーキョー・リングでのチクルスの際に話題になっていたクローン羊だ。

 これは、ギービッヒ家の人々がジークフリートをはじめとする表の登場人物のクローンであることを意味しているのではないか。

 ジークフリートとハーゲンはまさしく裏表の関係だ。第一幕でジークフリートとハーゲンが同じ姿勢をして重なり合う箇所があった。歌舞伎の手法にある「戸板返し」に似ている。これはまさしく、この二人が裏表の関係であること、つまりは、ハーゲンがジークフリートの裏のクローンであることが示しているだろう。

 また、第一幕の最後、ジークフリートがグンターに姿を変えてブリュンヒルデの元を訪れる場面で、ハーゲンがずっと舞台上に座っている。ジークフリートの行動がハーゲンに操られていることを示すのだろうが、そこでも、ジークフリートがハーゲンと向かい合って、左右対称になって座る場面があった。これも両者の対照性を象徴する。

 第二幕、アルベリヒとラインの三人の乙女が左側、ハーゲンと三人のノルンが右側に並んで、左右対称になる場面があった。これもクローン性を示しているだろう。そして、いうまでもなく、グンターとグートルーネは、ジークムントとジークリンデの出来損ないのクローンにほかならない。だから、グンターとグートルーネはきわめて近親相姦的に行動する。

 ジークフリートが病んだアルベリヒを殺す場面があった。もちろん、これは原作にはない。これについても、ジークフリートの行動がヴォータンを死に追いやり、父親殺しの意味を持っている(ワーグナーには、このような主題がしばしば現れる)ことと関連している。ジークフリートがある意味で父を殺すのだから、ここでハーゲンはアルベリヒを殺すわけだ。

 私は舞台上に大きく掲げられた羊をこのようなクローン性を語るものだと思う。それがいびつなクローンであるときには、羊は二重、三重になったように思う。

 なお、『神々の黄昏』の登場人物の裏表の関係については、拙著『ヴァーグナー 西洋近代の黄昏』(春秋社)にもう少し詳しく書いている。また、『神々の黄昏』と言う楽劇の意味についても大きく取り上げている。興味のある方にはぜひ読んでいただきたい。

 ところで、ギービッヒ家の男たちが病院関係者らしい姿、女たちがミニスカート姿だったのは、ギービッヒ家で薬と色気が用いられることにヒントを得た演出家の遊びだろう。忘れ薬、思い出し薬が用いられるので、ギービッヒ家は医療に関係していたという設定にしたのだろう。また、グートルーネが色仕掛けを用いるので、女たちはキャバレーのホステスのようにピンクのミニスカートをはかせたのだろう。が、これは遊びであって、深く考える必要はないのではないか。現代の寓話にしたいという演出家の意志の現れにほかならないだろう。

 このように、演出を読み解こうとしてみたが、やはりこうした行為はかなり不毛だと思う。こんなことを考えて舞台を見ていたら、せっかくの音楽に浸ることができない。もっと意図が明瞭で、見た目も美しく、刺激的な演出はできないものだろうか。カタリーナ・ワーグナーの『マイスタージンガー』の演出は、まさしくこのような演出を実現していると思えるのだが。

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今年の12歳も恐るべし!

 今日(3月25日)、午後1時から小学館センタービル内で、12歳の文学賞の授賞式が行われた。私も、あさのあつこさん、石田衣良さん、西原理恵子さんとともに審査員のひとりでもあるので、出席した。特別審査員はベッキーさん。かなりの報道陣が押しかけていた。が、もちろん、報道陣の最大の目的はベッキーさん。

 大賞の宮井紅於さんの「もちた」という小説は素晴らしい。文学の香りが豊かで、なおかつ不気味。もしかしたら、数年前にこの賞を取った驚異の小学生・三船恭太郎君に負けない将来の大作家かもしれないと思った。

 優秀賞の「はけん小学生」(池田史・劉絹子)は物語の展開がおもしろかった。「ストップウォッチ物語」(渡邊道輝)も物語の展開が実におもしろかった。そして、残念ながら今日は欠席していたが、「樋口裕一賞」を取った本田美なつさんの「ミス・ホームズ 夏色のメモリー」もみごと! 小学生なのに、しっかりと辻褄があって、しかも探偵のキャラクターも鮮やかなミステリーを書いている!!

 授賞式に出て、受賞者がまるで子どもであることに改めて驚いた。こんな子どもがあんな文章を書いていたなんて! 初回から今に至るまで、毎回驚く。

 今年の12歳の文学賞の受賞作も、「12歳の文学賞 第四集」という単行本にまとめられている。是非多くの人に読んでいただいて、今の子どもたちの恐るべき力を認識してほしい。この中に、私も選評を載せている。

 実はかなりの疲労を覚えている。何しろ、ここ数日、かなりの大移動をしてきた。

 22日に福岡経由で私の実家のある大分県日田市に行き、80歳を越す両親の顔を見た。元気なので安心した。90歳になる伯母も来てくれた。杖を突いて歩くが、十分に元気そう。父は5人兄弟だが、全員が80歳を超えて健在。かなり長寿の家系だ。もしかしたら、私も長寿なのだろうか。ちょっと気が遠くなる・・・

 日田に一晩泊まって、翌日、大分市に移動。私が塾長を務める白藍塾は大分市にある岩田中学校・高等学校で小論文指導をサポートしているので、その関係でこのところ、私が少年時代をすごした大分市に行く機会が増えた。日田の実家に寄ったのも、この仕事のついでだった。

 無事、岩田学園での仕事を終えて、24日の夜、冷たい雨の中を東京に戻った。飛行機は、羽田に降ったあられのせいでかなり遅れた。もう春だし、九州行きなので暖かいだろうと思ってコートを着ていかなかった。九州でも、羽田でも、寒くてたまらなかった。

 ところで、大分空港内の寿司店「海甲」で出発前に寿司をつまんだ。実にうまかった!! 関あじも関さばも、ほかの魚も実にうまい。感動的なうまさ! ただ、大分なので、もう少し安いだろうと思ったのだったが、味に見合う値段ではあった。

 明日は、また白藍塾の仕事で、京都に行く。

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近況、そしてフェリーニとヴィスコンティの映画

 このところ、近日中に刊行予定の本の校正で忙しかった。それはやっと手を離れたが、学校の仕事などで、なかなか原稿が進まない。

 そんななか、先日は福岡のLoveFM放送の番組「ベストセラーズチャンネル」に出演して、パーソナリティの御代田悟氏に拙著『ヴァーグナー 西洋近代の黄昏』について話をさせていただいた。また、現在発売中の文藝春秋special春号『結婚という旅』の特集では、「我が家の理不尽」のエッセイを書いている。これらのついて、ブログに書くのを忘れていたので、ここで報告しておく。

 ところで、ここしばらくコンサートにも行っていない。これぞと言うものがないためだが、代わりに、家で昔のイタリア映画のDVDを見ている。その感想をまとめておく。

・フェリーニ『魂のジュリエッタ』

 フェリーニの最初のカラー作品。最初に見たとき、フェリーニのわりにはおもしろくないと思ったが、今回、二度目に見ても印象は変わらなかった。ただ、最初見たとき、主演のジュリエッタ・マシーナを「えらいバアさんだ」と思ったのだったが、今の私よりもずっと年下。今度見て、なかなかチャーミングな熟女だと思った。当たり前のことだが、映画の中の人物は歳をとらないことを改めて痛感する。

 夫の浮気に気づいたジュリエッタが、孤独に苦しみ、スピリチュアルな世界(霊、宗教、性的な願望)に入り込み、幻想を見る。フェリーニ特有の虚実入り混じる映像、退廃的で猥雑なパーティの場面など、素晴らしいところはたくさんある。

 が、どうしても底の浅さを感じてしまう。子どものころのキリスト教による罪の意識が関係ありそうだが、そうはいっても、夫の浮気によって不安になったというだけでしかない。スピリチュアルな面について、もう少し深く突っ込んでいればいいのだが、そうでもなさそう。映像の美しさ、エロティックな空想などを楽しむための、気軽に撮られた映画と考えるほうがよさそうだ。

・ヴィスコンティ『揺れる大地』

 しばらくフェリーニを見てきたので、次はやはりヴィスコンティということになる。その後の評価はフェリーニと並んで高いが、実は私にとっては、パゾリーニ、アントニオーニ、フェリーニの次の4番目に位置する監督だった。今回、改めて見てみようと思った。

『揺れる大地』を見るのは二度目か三度目。当時、なかなかいい映画だと思ったが、感動するというほどではなかったのを覚えている。

 シチリアの漁師一家の転落の物語。若い漁師が船元や仲買人に搾取されるのに気づいて、家を抵当に入れて舟や網を買って自分で魚を売ろうとする。はじめはうまく行くが、嵐の日に舟を出してしまったために、何もかも失い、村人からものけ者にされて転落していく。最後には、意地を捨ててもとの仲買人に屈して働くことを決心したところで終わる。

 かつてみたとき、ヴィスコンティという大貴族出身者が共産主義思想(マルクス主義かどうかは判然としない)を本気に訴えていることがかなり印象に残った。が、今見ると、むしろ、協力し合って権力に立ち向かわずに、むしろ権力に楯突く者をのけ者にするイタリア社会(あるいはシチリア社会)の状況、その中でたくましく生きていく人々の生き様を描いているように思えた。

 が、やはり、そのようなストーリーにも増して、自然に立ち向かう人々を真正面からどっしりと描く映像、貧しい人々の生きる姿に目を引かれる。

 ネオレアリスムの映画作家として登場し、群衆を描いていながら、「どっしり、がっしり」というところが、ロッセリーニやデ・シーカやピエトロ・ジェルミとは明らかに異なる。いうまでもなく、アントニオーニともフェリーニとも異なる。

・ヴィスコンティ『夏の嵐』

 もしかしたら、ヴィスコンティの最初のカラー作品かも。

 ヴェネツィアがオーストリア帝国の支配されていた時代、年齢差のある夫に満足できない夫伯爵夫人が愛国者である従兄弟を支援しながら、敵であるオーストリアへの将校に恋に溺れていく。将校を戦争から逃れさせようとして、仮病で戦列から離れさせるが、伯爵夫人は裏切られたことに気づいて、事実をオーストリア軍に知らせる。その結果、将校は銃殺される。

 後年のヴィスコンティを思わせる重厚な歴史絵巻。イタリア独立戦争の状況がリアルに展開される。伯爵夫人のアリダ・ヴァリ、オーストリア将校のファリー・グレンジャー、従兄弟のマッシモ・ジロッティは、まるで貴族の時代から抜け出したよう。貴族の館も戦場も将校たちの溜り場も、存在感にあふれている。

 オペラの演出をしていただけあって、ヴィスコンティの音楽に対する理解の深さに驚く。 映画はフェニーチェ劇場での『トロヴァトーレ』が上演されているところから始まる。『トロヴァトーレ』はいうまでもなく、イタリアの代表的作曲家ヴェルディのオペラ。そして、オーストリアの将校が現れると、ブルックナーの交響曲の第7番の第2楽章がかかる。もちろんブルックナーはオーストリアの作曲家だ。ヴェルディとブルックナーで、イタリアとオーストリアを象徴している。

 そして、伯爵夫人の心の中を将校が占めるとブルックナーが鳴り始める。まるで、オーストリア将校への官能を表現する「ライトモティーフ」のよう。それにしても、無骨なはずのブルックナーのメロディが実に官能的。魂の奥底からこみ上げてくる官能の叫びをブルックナーの音楽が雄弁に語る。ブルックナーの一面を実に的確に捉えている!

 もう一つ感じたのは、ドストエフスキー的な要素だ。激しいエネルギーで破滅に向う伯爵夫人もドストエフスキー的だが、自ら女性を騙して軍隊から逃げ出しながら、脱走に等しい行動をしてしまった自分を蔑み、屈折した怒りを女性に向ける将校は、まさにドストエフスキーの登場人物を髣髴とさせる。『白夜』(これもなかなかいい映画だった! 昨年だったかBS放送で見たばかりなので、今回は見ないことにする)などの映画を作っているので、ヴィスコンティはかなりドストエフスキーの影響を受けたのだろう。

 名画であることは間違いない。が、あまりにしつこい伯爵夫人の「深情け」や、女性の妄執をオペラ的に描く大袈裟さには少し閉口した。すべてを捨てて恋にのめる込む人間にどっぷりと感情移入するのは難しい。歳をとってしまったせいか・・・

519ev29nhfl_2  ・ヴィスコンティ『若者のすべて』

 以前見たときもかなり感動した記憶があるが、改めて見て、正真正銘の大傑作だと思った。

 これもドストエフスキーの強い影響を感じる。純真でやさしく聖人のようなロッコは明らかに『カラマーゾフの兄弟』アリョーシャや『白痴』のムイシュキンの系譜の人物。イタリア南部の田舎からミラノに出てきた母親と5人の兄弟の物語。

 身を持ち崩して破滅し、ついには殺人を犯すシモーネは『カラマーゾフ』のミーチャにあたる。堅実に生きようとする冷静なチーノは、カラマーゾフの兄弟の中ではイヴァンにあたるかも。アニー・ジラルド演じる娼婦ナディアも、クラウディア・カルディナーレの演じるジネットもドストエフスキーに出てきそうな人物。いってみれば、ドストエフスキー的人物を20世紀後半のイタリアに配置して、田舎から出てきた家族の強い絆で結ばれながらも、都会に翻弄され、試練の中で生きていく様子を描き上げている。兄弟たちの価値観や思想の対比が鋭い。すべての役者の演技が素晴らしい。つまりは、ヴィスコンティの演出力が素晴らしいということだろう。

 ロッコとナディアが愛し合うようになったのを嫉妬して、シモーネがロッコを友人たちに押さえつけさせ、その目の前でナディアを犯す場面はあまりに凄絶。すべての人物の生きる悲しみがひしひしと伝わる。ロッコを演じるアラン・ドロンも実に初々しくていい。すべての人物の感情、価値観をリアルに描ききっているので、見ている人間としてはどの登場人物にも共感できる。

 故郷への思いを抱き続け、いつか故郷に戻りたいと考えるロッコの考えこそ、資本主義に翻弄される現代人が失ってはならない価値観だというのが、この映画にこめたヴィスコンティのメッセージなのだろう。末っ子を子どもに設定したのは、未来への希望を残しておきたかったということだろうか。

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ツイッター危惧論

 ツイッターが盛んになっている。オバマ大統領、鳩山総理も参加している。多摩大学の学長室長である久恒啓一氏もその一人。久恒氏と顔を合わせて、ツイッターの話を聞くことも多い。

 が、私は、少なくとも今のところはツイッターを始めるつもりはない。それどころか、ツイッターの流行には大いに危惧を覚える。その有用性はわかる。楽しさもわからないではない。だが、それ以上に危険ではないのか。

 私の危惧をここに書いてみようと思う。誤解があったら、指摘していただき、私の誤解を解いていただけるとありがたい。

 私が最も危険だと思うのは、居所が他者に知られてしまうことだ。人間たるもの、家族や友人や会社の人間に知られたくない場所に行くことがある。何かをツイッターに記したために、ある場所にいることがばれてしまったり、逆に、書くべきことを書いていないために、いるべき場所にいなかったことが、ばれてしまいはしないか。別に悪いことをするわけではない。人間にとって誰にも知られない時空間が必要だと思うのだ。少なくとも、常に人に居場所がわかってしまうような状況を自分で作るべきではないと思うのだ。

 また、不用意なことを言ってしまう危険も感じる。とりわけ、大統領や総理大臣が、じっくり考えもしないで、ツイッターに差別的なこと、言ってはならない本音を書いてしまうこともあるだろう。ニセ情報や誤解に基づいて断定的に何かをいってしまったら、どうなるのだろう。もちろん、後に訂正するだろうが、誤解を広めることにならないだろうか。

 政治家に限らない。一般人でも、同じようなことが起こりはしないか。ブログであっても、不用意なことを書いてしまう恐れがある。が、ブログの場合は、一日の行動を反省した上で書くことが多い。ツイッターは、その場の思いつきで書く。じっくり考えた上の思索を記すわけではない。どうしても、配慮の足りない文になってしまう。

 私は、人間というものを、瞬時に反応できるものとは思わない。透明な存在とも思わない。暗い部分があり、秘密の部分があり、屈折したものがあり、情報がそのようなこの部分を通り過ぎて徐々に知識となり、自分の思想になっていく。情報に対して即座に自分の感情や意見が生まれるのではなく、そのような経過の後に、自分の判断が醸成するものだと思う。ツイッターは、そのような時間をかけて暗い部分を通り過ぎての意見の形成、そして自己の形成が邪魔されるのではないかと思う。

 しかも、ツイッターに時間を割かれていては、じっくりとものを味わったり考えたりすることができなくなってしまいはしないか。もちろん、長い時間を費やしての思索も行い、それに加えてツイッターを行う力があるのであれば、それでいいだろう。だが、私にはそれはできそうもない。

 ブログについては、はじめのうちは危機感を抱いていながら、久恒氏に誘われるうちにその気になってはじめた。そして、このようにブログに文章を書いている。が、ツイッターについては、少なくともしばらくの間は、参加するのはよそうと思っている。

 ところで、ちょっと昨日の行動を記しておく。

 昨日は、六本木にある国際文化会館に行った。実に素晴らしい施設。それもそのはず、ここはかつての岩崎小彌太邸。美しい庭、東京のど真ん中と思えない緑と静けさ。研修施設があり、宿泊もできるとのこと。会員になりたくなった!

 ここで開かれた日本ブックパーソナリティ協会の集まりに参加。日本ブックパーソナリティは、立川亜美さんが理事長をなさっている会で、ラジオパーソナリティなど、日本語の達人たちを前に、本の読後感の書き方、文章術などについて話をし、しかも、その方たちに文章を書いてもらって添削した! そのなかには、先日私が出演したベストセラーチャンネルのDJである立石聖子さんもいらっしゃる。

 こんな方たちを生徒扱いして大変申し訳ないと思ったが、さすがに社会で活躍なさっている方々なので、私の話もきちんと聞いてくださり、そのなかから役に立つ点を取り出して自分のものにしてくださったようだ。感謝。

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NHKのラトル指揮『神々の黄昏』とシュヴァルツコップのCD

 NHKハイビジョンでラトル指揮、ベルリン・フィルによる『神々の黄昏』、エクサンプロヴァンス音楽祭公演を見た。

 ステファヌ・ブロンシュウェグの演出には、ほとんど見るべきところはない。音楽を邪魔しないのはありがたいが、それにしても、何も起こらないのは物足りない。それに、最後の場面にヴォータンが現れて、ゆっくりと座ってブリュンヒルデがジークフリートの遺体とともに水に飲み込まれていくところをのんびり見物している。これでは、神々の没落がまったく伝わらない。どういう意図なのか、きわめて疑問。

 演奏は見事! 何はともあれ、ベルリン・フィルの威力には圧倒させられる。何と豊穣で雄弁で奥深い音であることか! 「ジークフリートの葬送」から最後まで、息もつかせない。ラトルは実に切れがよく、音が生きている。流動的で厚みもある。ただ、『神々の黄昏』にはもう少しどす黒さや狂気にいたるまでの悪魔的要素がほしい気がするが、ラトルにはそれがやや欠ける。それはやむをえないところだろうが。

 歌手はやや小粒だと思うが、よくそろっている。ジークフリートを歌うベン・ヘップナーは最後にちょっと乱れたように思ったが、全体的には素晴らしい。強靭な声でありながら、十分にリリック。それにしても、この人、こんなに太っていたっけ? マンガのような顔をした人のよさそうな肥満したおじさんにしか見えない。少し前までの映像では、もう少し鋭角的なところがあったような気がする。

 ブリュンヒルデを歌うカタリーナ・ダライマンもなかなかいい。知らない名前だと思っていたが、レヴァイン指揮、メトロポリタンの『トリスタンとイゾルデ』でブランゲーネを歌っていた人らしい。次々と優れたソプラノが誕生しているのは頼もしい。「自己犠牲」の部分は感動的だった。

 ハーゲンのミハイル・ペトレンコは、確かに憎たらしい「悪い奴」には見えるが、小人族の子どもにしてはちょっと迫力不足。ワルトラウテをアンネ・ソフィー・フォン・オッターが歌っているが、これは文句なく素晴らしい。演技力、容姿、声の演技を含めて、圧倒的だった。

 まとめると、ラトルのワーグナーは、バレンボイムなどとはかなり異なって、やや軽めで流麗で何よりも豊穣。悪魔的要素が弱いのがやや不満。とはいえ、十分に感動した。

 ところで、先日、CDショップで、シュヴァルツコップの1972年の日本リサイタルのCDを見つけて、あわてて買った。

 大学生だった私は、このCDに収録されている1月27日のリサイタルを東京文化会館で感動の極致で聴いた記憶がある。一番前の席だった。シュヴァルツコップの唾がバーッと広がり、私にまでかかりそうになった。ものすごい表現力だった。魔物に取り込まれそうになった。CDを聴いているうち、当時の様子が蘇ってきた。シュヴァルツコップ亡き後、これを平静に聴くことはできない。アンコール曲のヴォルフの曲の興奮も思い出した。

 あのとき、すでに衰えを隠せなくなったシュヴァルツコップの音程が怪しくなるのを感じながら、彼女の信奉者だった私は自分の耳を否定しようとした。が、CDを聴くと、音程はしっかりしている。CDには、エフエム東京でこのリサイタルの放送に関わった東条碩夫さんの思い出の記が付されているが、シュヴァルツコップ自身が録音の半分近くをNGにしたことが書かれている。きっと音程の怪しいものは自身がカットしたのだろう。

 私は、シュヴァルツコップの初回の日本公演も聴いている。大分市に住む高校生だったが、福岡まで聴きに行った。あの時の感動は今も忘れない! シュヴァルツコップは私の青春そのものだった!!

 ところで、EMIから過去の録音を集めたヴォルフの8枚組CDの歌曲集も、先日見つけて買った。シュヴァルツコップのほか、フィッシャー=ディスカウ、アラフ・ベア、アンネ・ソフィ・フォン・オッター、トーマス・アレンらが歌っている。いずれも絶品! ヴォルフは実にいい。

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映画『海の沈黙』と長谷川等伯展、エル・ダンジュ

 今日は実に充実していた。

 まずは岩波ホールで『海の沈黙』を見た。ジャン・ピエール・メルヴィル監督の1947年の作品。私は学生時代、映画学を専攻していたので、もちろん題名は知っていた。ずっと前から見たいと思っていたが、やっと日本で上映された。ヴェルコールの原作も、かつて読んで、とてもおもしろかったのを覚えている。

 が、映画は小説以上におもしろい。舞台になるのは、ドイツに占領されている1941年のフランスの片田舎。そんな田舎町にもナチスが侵攻して、老人と姪が暮らす家にナチスの将校が寝泊りするようになる。将校は作曲家で、礼儀正しい理想主義者であり、フランス文化を愛し、フランス語を話す。だが、フランス人の老人と姪は抵抗のために一切口をきこうとしない。まるで将校など存在しないかのように行動する。将校のほうは、ナチスドイツが世界をよくすると信じており、フランスとドイツが宥和できるとも考え、それを語り続ける。そして、フランス人が祖国に誇りを持って抵抗することについても理解を示す。ところが、あるとき、将校はナチスドイツが虐殺を行っていること、フランス文化を破壊しようとしていることを知って絶望し、自ら戦地に赴こうとして、フランス人たちと別れる。

 たったこれだけの物語。しかも、ほとんどが室内で展開される。が、口をきかないままなのに、だんだんと心を通わせるようになる様子、互いに尊敬しあいながらも、やはりどうしても理解しあうわけにはいかない有様がひしひしと伝わってくる。心の中の手を差し伸べあうが、それが届くことはない。虐殺もなく、銃撃戦も描かれないが、一人一人の人間の心の奥の残した戦争の残虐さをはっきりと描いている。

 相手が答えてくれないとわかっていながらも、将校が毎晩繰り返す「おやすみ Je vous souhaite une bonne nuit」という言葉、そして、将校のためらいがちのノックに対して老人が一度だけ声に出して答える「入りなさい Entrez」という言葉、姪が、戦地に行く決心をして別れを告げる将校に言う「さようなら Adieu」という言葉、この三つの言葉がとりわけ心を打つ。

 素晴らしい映画だと思った。メルヴィルの映画は『恐るべき子供たち』『いぬ』『サムライ』『影の軍隊』『仁義』『リスボン特急』を見ている。悪い監督ではないが、これらの作品は、今回ほどの感動は呼ばなかった。

 その後、上野に移動して、東京国立博物館で長谷川等伯展を見た。

 ものすごい人出! 絵の全体像は多くの客の頭越しにしか見られなかった。平日の昼間ならすいているだろうと思ったら、大間違いだった。私がこれまで訪れた美術展で最高の込み具合だったかもしれない。また、すいている時にいきたいものだ。

 それにしても、京都に出て「等伯」と名乗るようになってからの絵は、どれも本当に圧倒的だ。能登で「信春」と名乗っていた時期の絵は、後年の作品を知ってしまうと、やや物足りない。しかも、若いころの作品には、仏や鬼子母神の絵が多い。私は、等伯の絵の中では、植物を描いたものが好きなので、人物像にはあまり惹かれない。

 襖の模様が雪のように見える「山水図襖」の静かで奥深い情景、橋と柳を描いた不思議な構図の「柳橋水車図屏風」、風になびく萩とススキが凛とした風情を見せる「萩芒図屏風」、幽玄としか言いようのない「松林図屏風」など、精神のありようの高貴ささえも感じる。

 が、やはり私は知積院でこれまで何度も見てきた金碧画が最も好きだ。「楓図」も「松に秋風」も息を呑む。フェルメールのような高貴な静けさ。だが、それだけでなく、松の葉などの激しい表現があり、強い悲しみを抑制する力がある。

 ただ、あの人ごみでは感動に浸りようがない。これほど等伯が注目されるのはうれしいことだが、「一人でゆっくり見たい」というエゴイズムを抑えることができなかった。

 夜は多摩市のフランス料理店エル・ダンジュで家族と夕食。ひいきの店なので、よく来ているが、今日はこれまで食べたことのない新しいメニュを体験。とてもおいしかった。つけだしからして、感動的なうまさ。息子や娘は別の料理を食べたが、いつもどおり、みんな大満足だった。

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カタリーナ・ワーグナー演出の『マイスタージンガー』に感動!

 NHKのハイビジョンで、カタリーナ・ワーグナー演出による2008年のバイロイト音楽祭での『ニュルンベルクのマイスタージンガー』を見た。これは、2008年にバイロイト音楽祭で実演を見て、それまで音楽にばかり関心を寄せてきた私が初めて演出に感動し、興奮した上演だった。ただ、一番後ろの席だったので、細かいところがよくわからなかったので、是非映像を見たいと思っていた。今回、テレビ画面で細かいところがやっと確認できた。

 私は、演出に関してはかなりの保守主義者であって、たとえば一昨日テレビで放映された新国立劇場の『ヴォツェック』の演出など、非常に不愉快に感じる。ベルクの音楽を使って演出家が自分の勝手な思い込みを語っただけのおふざけでしかないと思う。

 カタリーナ・ワーグナーはいわずと知れたワーグナーの曾孫に当たる演出家で、今やバイロイト音楽祭の最高責任者。『マイスタージンガー』は、前年に大ブーイングだったという。そんなわけで、私はバイロイト音楽祭のこの演目の当日、おそるおそる開始を待った。ところが、第三幕が終わるころには、この新演出を絶賛する人間の一人になっていたのだった。

 演奏については、全体的にまずまず。指揮のヴァイグレも悪くない。ザックスのフランツ・ハヴラタやベックメッサーのミヒャエル・フォレは、特に素晴らしいというわけではないが、十分に聞き応えがあった。ヴァルターを歌うクラウス・フローリアン・フォークトは、歌い方があまりに丁寧すぎて躍動感に欠けると思うが、きれいな声で、将来が楽しみといったところ。が、今回の上演については、演奏よりも演出にどうしても目が奪われてしまう。これをCDやFM放送できいても退屈だろう。

 第一幕。ヴァルターは革ジャンを着た現代の若者として現れる。音楽や絵画などの既成の文化のあらゆるものに白ペンキで落書きする若者だ。ダヴィットはせっせとワーグナーの著書をコピーしており、親方たち(スーツ姿できちんと決めている)はワーグナーの本を重ねて、その前で議論する。要するに、ワーグナーを後生大事に守ろうとする親方たちに、過去を軽蔑するヴァルターが立ち向かっている。ザックス(ラフなシャツを着ている)は、親方の中で唯一、ヴァルターの肩を持つ。ヴァルターが試験のための歌を歌う場面では、歌いながら、ニュルンベルクの都市を描いたジクソーパズルが組み立てる。が、ヴァルターの仕上げたニュルンベルクの町は形を成さず、ばらばらという設定だ。が、第一幕は、それほど驚くような箇所はない。

 第二幕。ザックスは靴屋ではなく、むしろ作家か評論家といったところらしい。タイプライターを前に文章を打ち、これからの芸術はどうあるべきか迷っているということだろう。ベックメッサーが現れ、珍妙な歌を披露する。ザックスは靴を叩く音でなく、タイプの音で採点するが、これは音が明確でないので、音響的には、やや物足りなかった。最後はお決まりの町中の大混乱。この部分の混乱の描き方が実に見事。フェリーニの映画を見ているようで、わくわくする。だが、演出上の大転換がその後で起こる。大混乱の後、ヴァルターまでもこれまで落書きしていたペンキを消し始める。ザックスもヴァルターも、これまでの過去に敬意を示さない態度を反省したということだろう。これまで革新的だったザックスとヴァルターが、世界の混乱を見て保守主義者に転換したわけだ。

 第三幕。ザックスは保守主義者になっている。ヴァルターも同じ。二人とも背広を着る。ヴァルターは歌合戦のための歌を歌いながら、紙を切って人形劇の舞台を作る。まさしく、「ヴァルターの歌う歌なんて、中世の慰みにしかならない」というカタリーナの主張だろう。ベックメッサーがTシャツ姿で登場するが、これは関係は逆転していることを示している。つまり、革新の側だったザックスとヴァルターが、今や保守になってしまっている。この後、四重唱の場面で、ヴァルター+エファの家庭と、ダヴィット+マッダレーネの家庭の未来像が舞台上に示されるが、ヴァルターの家庭は典型的な豊かなブルジョワ家庭として描かれる。ダヴィッドの家庭は典型的な中流家庭。

 聖ヨハネ祭の場面では、音楽家たち(?)の顔を模した大きな仮面をつけた人々が登場して、踊ったりふざけたりする。ワーグナーとモーツァルトとベートーヴェンは判別できたが、ほかの仮面が誰なのか、よくわからなかった。が、いずれにせよ、ヨーロッパの芸術家たちであることは間違いなかろう。

 カタリーナはこれらの人物を否定的に描いているのではなかろう。「過去の大芸術家たちだって、人間なんだよ。おなかをすかし、女を追っかける人物たちなんだ。それを神格化して、不可侵だなどと思ってはいけない」というメッセージだろう。ところが、今や保守主義の権化となったザックスは、指揮者や演出家を小さな箱に閉じ込め、自由を奪って、むしろ権威を作ろうとする。

 聖ヨハネ祭の歌合戦の観客たちは、きちんと正装し、手にバイロイト音楽祭のパンフレットを持っている。その人々は、ベックメッサーの歌をあざ笑う。ベックメッサーは今や反秩序になって、土を掘り起こしてそこから未来を生み出すアダムとイブを導きいれるが、観客はそれを受け入れない。中世のままごとのような恋愛物語を歌うヴァルターを讃える。そして、最後にザックスはドイツ文化の素晴らしさについて歌い、観客は大喝采する。が、その姿は、実に抑圧的。まさに圧倒的権威として、新しいものを抑圧している。

 要するに、カタリーナの演出は、バイロイト音楽祭を否定しているわけだ! ワーグナーを権威にしてしまい、ワーグナーを規範としてそれを守らせようとする人々を茶化している。「はじめは革新的に芸術を改革しようとした人々も、それをなし終えた段階で、逆に抑圧的になり、自分たちの価値観を押し付けている。バイロイト音楽祭は、過去を金科玉条のものとして崇め、過去のままごとにかまけている。だが、芸術というのは、もっと自由でもっと人間的なものだ。そのようなものを生み出すべきだ」というメッセージがここにある。しかも、それをわくわくするような動きと混乱の中で描き出す。

 繰り返す。私はオペラ演出については保守主義者だ。演出家がそのオペラと関係のない自分の思いを勝手に舞台に載せるのは許せない。が、カタリーナの演出については、そのようなものと本質的に異なると思った。

 カタリーナの演出は、ワーグナーの受け入れられた歴史に対する、そして現在のバイロイト音楽祭に対する、そしてまた、ワーグナーという芸術家に対する批判になっている。カタリーナは、原作にべったりの演出をするのでなく、原作を現代の目から批判する演出をしている。それこそが、ある意味でワーグナー自身がこの楽劇にこめた重いではなかったのか。そうすることによって、まさしく現代の『マイスタージンガー』を作り出している。これは、リヒャルト・ワーグナーに匹敵するような才能だと思った。これこそがワーグナー家のDNAなのかと納得した。

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NHK放送のメトの『ルチア』と『夢遊病の女』

 3日ほど前からNHK-BShiで放映されている「華麗なるメトロポリタン歌劇場」のシリーズをいくつか見た。前回のシリーズも素晴らしかった。このブログにも、『サロメ』と『ドクター・アトミック』について書いた。ここには書かなかったが、『ファウストの劫罰』もルネ・フレミングの歌う『タイス』も最高レベルだと思った。

 そして、『ルチア』『夢遊病の女』を見る限り、今回のシリーズもそれに劣らない。実は私はアメリカで上演されるオペラにはこれまで偏見をもっていた。オペラはヨーロッパに限ると思っていた。だから、メトロポリタン歌劇場に行ったことがなかった。だが、これほどのレベルの上演をしているとあれば、そのうち、行かないわけにはいかないだろう。

 私はイタリアオペラはあまり聴かないのだが、ネトレプコの歌う『ルチア』は堪能した。ストーリーは荒唐無稽だが、イタリアオペラでそんなことを言っても仕方があるまい。ほかの歌手もすばらしいが、ネトレプコがとりわけいい。彼女については、名前が出始めたころから追いかけてきた。はじめは容姿による人気先行だったが、今や大歌手。ここまで大歌手になったのかと、改めて驚く。最初のアリアもさることながら、血だらけで歌う狂乱の場のアリアは圧巻。ちょっとミスがあったが、ライブではやむをえないだろう。

 その翌日に放映された『蝶々夫人』については、実はちょっと見るのが辛いと思った。まず、プッチーニの音楽も好きではないのだが、いつものことながら、それ以上に日本人の一人として、西洋人の珍妙な着物姿に辟易する。とりわけゴローのまるで聖徳太子のような格好は何なのだろう!! 日本人がスタッフに加わって、「いくらなんでも、これはひどいですよ」と進言できないのだろうか? 翻って考えるに、私たちも、ほかの国のオペラについて珍妙な状況を平気で見ているのかもしれないが。

『夢遊病の女』もまた、荒唐無稽としかいえないストーリーと、かなり下手なオーケストレーションだが、何はともあれベッリーニの作曲する歌の気高さは欠点を補って余りある。

 何よりもナタリー・デセイが素晴らしい。高音の音程の確かさ、声の美しさ、輝きもさることながら、それ以上に声の演技力に圧倒される。第一幕の最初のアリアから圧倒的。最後のアリアもものすごい!!

 ただ、エルヴィーノを歌うファン・ディエゴ・フローレスについては、私は納得できない。デビュー当時から、ずっと「高い声を出せる下手なテノール」だと思っていた。大人気だと知って驚いた。私はフローレスの声を美声とは思えない。細かいところで音程が怪しくなると思うのだが、私の耳がおかしいのだろうか。今回、聴いてみて、以前よりもだいぶうまくなっていると思ったが、少なくとも、私の好きな歌手ではない。会場の熱狂が信じられない。

 メトロポリタンでは珍しい現代に時代を映しても演出。それなりに楽しめた。

 7日の未明に、カタリーナ・ワーグナー演出の『ニュルンベルクのマイスタージンガー』(08年のバイロイト音楽祭)がNHKで放映される。私がバイロイトで見たときの上演だ。これを見て、私は初めて演出のすごさに衝撃を受けたのだった。次の週の、ラトル指揮の『神々の黄昏』とともに、放送予定を知ったときから、楽しみにしてきた。

 ただ一つ心配なのは、津波や地震が起こって、画面に字幕やらチラチラする日本列島の地図やらがでること。NHK総合ならともかく、BSの深夜の放送で、はるかかなたの震度3の地震くらいで、何度も字幕を出す必要はなかろうと思うのだが! 先日の津波警報のようなものが画面に出たら、すべてがぶち壊しになってしまう。

 どうか、ここしばらく日本列島に大事が起こりませんように・・・

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フェリーニの映画4本

 大学の仕事でけっこう忙しい。実は、この時期、家族旅行をする予定でいたが、息子の都合で中止にした。その間、ゆっくりとオペラや映画のDVDを見ようと思っていたが、入試の監督や会議など、学校の仕事が忙しくて、時間が取れない。とはいえ、数日かけて、70年代から80年代にかけてのフェリーニの映画を何本か見た。簡単な感想を記すことにする。

『フェリーニのローマ』

 正直言って、あまりおもしろいと思わなかった。もちろん、映像にぐいぐいとひきつけられた。劇場の場面、地下鉄工事中のフレスコ画の発見と消失の場面、売春宿の場面、僧侶たちのファッションショーの場面など、驚くべき映像が度々現れる。『サテリコン』に劣らない退廃とグロテスクと虚無を、喧騒と躁状態の中に描き出すテクニックには圧倒される。もし、フェリーニの作品を初めてみるのであれば、驚嘆するかもしれない。

 が、フェリーニの名作をいくつも見てきた人間からすると、これはあまり感動しない。いや、それ以前に、率直に言ってしまうと、「いくらなんでも、これはやりすぎだろう」と思ってしまう。

『サテリコン』はローマ時代が舞台だったので、やり放題でも、「まあ、古代ローマなんてのは、こんなものかもしれない」という意識があった。だから、フェリーニの世界に素直に入り込めた。だが、フェリーニ個人の私的な思い出のローマ、フィリー二の主観によってゆがめられたローマを映像としてみることに、違和感を覚えてしまう。「なぜ、日本人のオレが、フェリーニという一人の男の思い出の中のローマに付き合ってやる必要があるんだろう」というプリミティブな反発を感じてしまう。ローマという都市に対してもう少し思い入れがあれば、少し違うのだろうが。

 そんなわけで、フェリーニ映画の中で、これは私の好きな映画ではなかった。

『そして船は行く』

 かつて見たつもりでいた。が、今回見て、まったく覚えがなかった。きっと初めてだったのだろう。1983年の映画だというから、私が最も不遇の中にいた時代だ。映画に行く気力も経済的余裕もなかったのだろう。

 全体的にはおもしろかった。1914年。第一次大戦勃発時。多くの音楽関係者や社交界の名士が豪華船に乗って、亡き世紀の大ソプラノ歌手の遺骨を海に流すために、ある島に向っている。ところが、第一次大戦のきっかけになるオーストリア皇太子暗殺事件が起こり、セルビア人の難民が船に救出される。そこに、オーストリア・ハンガリー帝国の軍艦がやってきてセルビア人の引渡しを要求。島に行くことは許されるが、帰りにひと悶着起こって、船は撃沈。ただし、大半の人は助かる。

 突然、オペラになったり、セルビア人(ロマの人々も混じっている)の音楽の中にオペラの面々が加わってドンちゃん騒ぎになったり。猥雑で騒々しくも、どこかもの悲しく、しかも崇高・・・。いつものフェリーニの世界が展開される。人工的な映像美(海や煙が、舞台の装置のようだ!)など、漫画的だが、そこがまたおもしろい。従来のリアリズムを崩し、独特の世界を作り出している。見ていて飽きないし、わくわくする部分も多い。

 が、『ローマ』と同じように、どうも、このフェリーニの世界に私は必然性を感じない。『サテリコン』までのフェリーニの試みは、よくわかる。ハリウッド的な起承転結世界を崩し、もっと自由でもっと真実の世界を描こうとしているように思える。が、『ローマ』以降は、主観的なフェリーニの遊びの世界になってしまって、世界を変えようという迫力を感じない。なかなかおもしろい映画だった・・・で終わってしまう。

『ジンジャーとフレッド』

 ハリウッドスターであるジンジャー・ロジャースとフレッド・アステアのコンビを真似て一時期人気を誇ったイタリアの「ジンジャーとフレッド」をジュリエッタ・マシーナとマルチェロ・マストロヤンニが演じる。かつて恋人同士であった二人が、きわもののテレビ番組に出るために30年ぶりに出会い、番組の中で見事な踊りを披露して、別れて行く。

 それだけの話だが、フェリーニ特有のテレビ局の猥雑さの表現が見事。本筋とは関係のない様々な登場人物が実におもしろい。わくわくするようであり、人生の深みを除く用でもある。そしてまた、ジュリエッタ・マシーナとマルチェロ・マストロヤンニの演技が神業とでもいうべきもの! 惨めでけなげで誇り高い様子を実に深く表現し、しかも軽妙さを失わない。二人のタップダンスの場面では、涙が出てきた。

 同じような話をハリウッドで作ると、年老い、惨めさを経験してきた男女が再び見事なダンスを披露するというサクセスストーリーになるところだろうが、フェリーニの手にかかると、ダンスの場面は生きる悲しみや喜びなどあらゆる感情の凝縮した場面になる。

 昭和40年前後、土曜日か日曜日だったと思うが、NHK総合テレビで劇映画が放送されていた。ジンジャー・ロジャースとフレッド・アステアの出演する映画もしばしば放送されていた。私は映画は好きでよく見ていたが、歌を歌ったり、タップダンスを踊ったりするミュージカル映画は好きではなかった。ただ、二人の踊りの颯爽たる見事さには舌を巻いたものだ。

 老いたジュリエッタ・マシーナとマルチェロ・マストロヤンニの踊りは、もちろん、それほど颯爽とはしていない。時に足がもつれ、顔をゆがめる。そこに二人の人生が集約されている。

『道』に劣らない傑作だと思った。晩年のフェリーニの作品の中では、私はこれが一番好きだ。

 

『インテルビスタ』

 今回初めて見た。フェリーニが監督した映画(カフカ原作の『アメリカ』という設定のようだ)を作ろうとしているところに、日本人の取材班がインタビューにやってくる。現在作ろうとしている映画の撮影風景と、フェリーニが初めてチネチッタ(直訳すれば映画都市。イタリアのハリウッドのような町)を訪れた時の思い出話が映像として描かれる。虚実ない交ぜになりながら、混乱の中で話しが展開することになる。

 フェリーニ自身をはじめ、チネチッタでCMを撮影しているマルチェロ・マストロヤンニを見つけ、一緒にアニタ・エクバーグの家に行って、『甘い生活』の一部分を上演するシーンがある。

 これも含めて、どこまでがドキュメンタリー風に事実を追っているのか、それとも仕掛けをした虚構なのか判然としなくなる。最後には、撮影しているところで突然、インディアンがおそってくる場面さえある。もちろん、虚実を分からなくさせてしまうことがこの映画のねらいだろう。

 これはまさしくチネチッタ賛歌、映画賛歌とでもいうべきものだ。虚実がない交ぜになって進む映画の世界。フェリーニは、サーカスや大道芸など、猥雑でうきうきしながらも悲しい世界を描いてきたフェリーニが、ついには最もフェリーニらしい映画の世界を舞台にしたと言うべきだろう。

 フェリーニ自身と思われる映画監督が映画製作に迷い幻想の世界に迷い込む「81/2 」に似ている。この映画も、あちこちに驚くべき場面がある。あきずに最後まで見る。が、私は過去の名作のような興奮を味わうことはできなかった。かつての必死の中での泣き笑いといった思いがなく、単なる遊びになってしまっているように思える。

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