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ツイッター危惧論

 ツイッターが盛んになっている。オバマ大統領、鳩山総理も参加している。多摩大学の学長室長である久恒啓一氏もその一人。久恒氏と顔を合わせて、ツイッターの話を聞くことも多い。

 が、私は、少なくとも今のところはツイッターを始めるつもりはない。それどころか、ツイッターの流行には大いに危惧を覚える。その有用性はわかる。楽しさもわからないではない。だが、それ以上に危険ではないのか。

 私の危惧をここに書いてみようと思う。誤解があったら、指摘していただき、私の誤解を解いていただけるとありがたい。

 私が最も危険だと思うのは、居所が他者に知られてしまうことだ。人間たるもの、家族や友人や会社の人間に知られたくない場所に行くことがある。何かをツイッターに記したために、ある場所にいることがばれてしまったり、逆に、書くべきことを書いていないために、いるべき場所にいなかったことが、ばれてしまいはしないか。別に悪いことをするわけではない。人間にとって誰にも知られない時空間が必要だと思うのだ。少なくとも、常に人に居場所がわかってしまうような状況を自分で作るべきではないと思うのだ。

 また、不用意なことを言ってしまう危険も感じる。とりわけ、大統領や総理大臣が、じっくり考えもしないで、ツイッターに差別的なこと、言ってはならない本音を書いてしまうこともあるだろう。ニセ情報や誤解に基づいて断定的に何かをいってしまったら、どうなるのだろう。もちろん、後に訂正するだろうが、誤解を広めることにならないだろうか。

 政治家に限らない。一般人でも、同じようなことが起こりはしないか。ブログであっても、不用意なことを書いてしまう恐れがある。が、ブログの場合は、一日の行動を反省した上で書くことが多い。ツイッターは、その場の思いつきで書く。じっくり考えた上の思索を記すわけではない。どうしても、配慮の足りない文になってしまう。

 私は、人間というものを、瞬時に反応できるものとは思わない。透明な存在とも思わない。暗い部分があり、秘密の部分があり、屈折したものがあり、情報がそのようなこの部分を通り過ぎて徐々に知識となり、自分の思想になっていく。情報に対して即座に自分の感情や意見が生まれるのではなく、そのような経過の後に、自分の判断が醸成するものだと思う。ツイッターは、そのような時間をかけて暗い部分を通り過ぎての意見の形成、そして自己の形成が邪魔されるのではないかと思う。

 しかも、ツイッターに時間を割かれていては、じっくりとものを味わったり考えたりすることができなくなってしまいはしないか。もちろん、長い時間を費やしての思索も行い、それに加えてツイッターを行う力があるのであれば、それでいいだろう。だが、私にはそれはできそうもない。

 ブログについては、はじめのうちは危機感を抱いていながら、久恒氏に誘われるうちにその気になってはじめた。そして、このようにブログに文章を書いている。が、ツイッターについては、少なくともしばらくの間は、参加するのはよそうと思っている。

 ところで、ちょっと昨日の行動を記しておく。

 昨日は、六本木にある国際文化会館に行った。実に素晴らしい施設。それもそのはず、ここはかつての岩崎小彌太邸。美しい庭、東京のど真ん中と思えない緑と静けさ。研修施設があり、宿泊もできるとのこと。会員になりたくなった!

 ここで開かれた日本ブックパーソナリティ協会の集まりに参加。日本ブックパーソナリティは、立川亜美さんが理事長をなさっている会で、ラジオパーソナリティなど、日本語の達人たちを前に、本の読後感の書き方、文章術などについて話をし、しかも、その方たちに文章を書いてもらって添削した! そのなかには、先日私が出演したベストセラーチャンネルのDJである立石聖子さんもいらっしゃる。

 こんな方たちを生徒扱いして大変申し訳ないと思ったが、さすがに社会で活躍なさっている方々なので、私の話もきちんと聞いてくださり、そのなかから役に立つ点を取り出して自分のものにしてくださったようだ。感謝。

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コメント

 こんにちは。
 私もやらないし、んーそーだなーと思いながら敢えて書くんですけどね。

 要は、情報の質をどのような基準で見るか、だと思うんです。
 情報の質は正確性、精度で決まる、と考えるか、鮮度で決まる、と考えるか。
 今はもうそうでもないけど、20年前にCNNは光り輝かんばかりのインパクトのある存在だったと思っていて、あれは高いレベルでの正確性と鮮度の両立の成果と考えられていたからだと思うのです。が、今はマスコミニュケーション媒体の情報スクリーニング機能は重視されていなくて、むしろ不信感の源泉にすらなってしまう始末。そこまで言わずとも、今は情報の精度の価値より、精度を高める為の時間によって失われる鮮度の価値の方が重い、と考える人が多いのではないでしょうか。
 ひょっとすると不正確かも知れないけれど、極めて高い鮮度であることによってその価値は報われる、とまぁこんなところでは。

 という考えで言えば、自分はツィッター、付き合う気はないんですが......少なくとも今の所は...........


投稿: Verdi | 2010年3月22日 (月) 22時37分

Verdi様
コメントありがとうございます。
私も、「情報」であれば、鮮度も大事な要素だと思います。が、ツイッターで語られるのは、「情報」だけでなく、「意見」であったり、「思想」であったり、「知識」であったりします。それらにとって、鮮度はそれほどの意味を持たないのではないでしょうか。
つまり、ツイッターというのは、意見や思想や知識までも交換可能で鮮度が重視される情報にしてしまう点で私はツイッターに危惧を覚えるのです。もちろん、情報も大事です。が、人が発信するのは、情報だけではないだろいうのが私の意見です。

投稿: 樋口裕一 | 2010年3月24日 (水) 23時24分

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