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カタリーナ・ワーグナー演出の『マイスタージンガー』に感動!

 NHKのハイビジョンで、カタリーナ・ワーグナー演出による2008年のバイロイト音楽祭での『ニュルンベルクのマイスタージンガー』を見た。これは、2008年にバイロイト音楽祭で実演を見て、それまで音楽にばかり関心を寄せてきた私が初めて演出に感動し、興奮した上演だった。ただ、一番後ろの席だったので、細かいところがよくわからなかったので、是非映像を見たいと思っていた。今回、テレビ画面で細かいところがやっと確認できた。

 私は、演出に関してはかなりの保守主義者であって、たとえば一昨日テレビで放映された新国立劇場の『ヴォツェック』の演出など、非常に不愉快に感じる。ベルクの音楽を使って演出家が自分の勝手な思い込みを語っただけのおふざけでしかないと思う。

 カタリーナ・ワーグナーはいわずと知れたワーグナーの曾孫に当たる演出家で、今やバイロイト音楽祭の最高責任者。『マイスタージンガー』は、前年に大ブーイングだったという。そんなわけで、私はバイロイト音楽祭のこの演目の当日、おそるおそる開始を待った。ところが、第三幕が終わるころには、この新演出を絶賛する人間の一人になっていたのだった。

 演奏については、全体的にまずまず。指揮のヴァイグレも悪くない。ザックスのフランツ・ハヴラタやベックメッサーのミヒャエル・フォレは、特に素晴らしいというわけではないが、十分に聞き応えがあった。ヴァルターを歌うクラウス・フローリアン・フォークトは、歌い方があまりに丁寧すぎて躍動感に欠けると思うが、きれいな声で、将来が楽しみといったところ。が、今回の上演については、演奏よりも演出にどうしても目が奪われてしまう。これをCDやFM放送できいても退屈だろう。

 第一幕。ヴァルターは革ジャンを着た現代の若者として現れる。音楽や絵画などの既成の文化のあらゆるものに白ペンキで落書きする若者だ。ダヴィットはせっせとワーグナーの著書をコピーしており、親方たち(スーツ姿できちんと決めている)はワーグナーの本を重ねて、その前で議論する。要するに、ワーグナーを後生大事に守ろうとする親方たちに、過去を軽蔑するヴァルターが立ち向かっている。ザックス(ラフなシャツを着ている)は、親方の中で唯一、ヴァルターの肩を持つ。ヴァルターが試験のための歌を歌う場面では、歌いながら、ニュルンベルクの都市を描いたジクソーパズルが組み立てる。が、ヴァルターの仕上げたニュルンベルクの町は形を成さず、ばらばらという設定だ。が、第一幕は、それほど驚くような箇所はない。

 第二幕。ザックスは靴屋ではなく、むしろ作家か評論家といったところらしい。タイプライターを前に文章を打ち、これからの芸術はどうあるべきか迷っているということだろう。ベックメッサーが現れ、珍妙な歌を披露する。ザックスは靴を叩く音でなく、タイプの音で採点するが、これは音が明確でないので、音響的には、やや物足りなかった。最後はお決まりの町中の大混乱。この部分の混乱の描き方が実に見事。フェリーニの映画を見ているようで、わくわくする。だが、演出上の大転換がその後で起こる。大混乱の後、ヴァルターまでもこれまで落書きしていたペンキを消し始める。ザックスもヴァルターも、これまでの過去に敬意を示さない態度を反省したということだろう。これまで革新的だったザックスとヴァルターが、世界の混乱を見て保守主義者に転換したわけだ。

 第三幕。ザックスは保守主義者になっている。ヴァルターも同じ。二人とも背広を着る。ヴァルターは歌合戦のための歌を歌いながら、紙を切って人形劇の舞台を作る。まさしく、「ヴァルターの歌う歌なんて、中世の慰みにしかならない」というカタリーナの主張だろう。ベックメッサーがTシャツ姿で登場するが、これは関係は逆転していることを示している。つまり、革新の側だったザックスとヴァルターが、今や保守になってしまっている。この後、四重唱の場面で、ヴァルター+エファの家庭と、ダヴィット+マッダレーネの家庭の未来像が舞台上に示されるが、ヴァルターの家庭は典型的な豊かなブルジョワ家庭として描かれる。ダヴィッドの家庭は典型的な中流家庭。

 聖ヨハネ祭の場面では、音楽家たち(?)の顔を模した大きな仮面をつけた人々が登場して、踊ったりふざけたりする。ワーグナーとモーツァルトとベートーヴェンは判別できたが、ほかの仮面が誰なのか、よくわからなかった。が、いずれにせよ、ヨーロッパの芸術家たちであることは間違いなかろう。

 カタリーナはこれらの人物を否定的に描いているのではなかろう。「過去の大芸術家たちだって、人間なんだよ。おなかをすかし、女を追っかける人物たちなんだ。それを神格化して、不可侵だなどと思ってはいけない」というメッセージだろう。ところが、今や保守主義の権化となったザックスは、指揮者や演出家を小さな箱に閉じ込め、自由を奪って、むしろ権威を作ろうとする。

 聖ヨハネ祭の歌合戦の観客たちは、きちんと正装し、手にバイロイト音楽祭のパンフレットを持っている。その人々は、ベックメッサーの歌をあざ笑う。ベックメッサーは今や反秩序になって、土を掘り起こしてそこから未来を生み出すアダムとイブを導きいれるが、観客はそれを受け入れない。中世のままごとのような恋愛物語を歌うヴァルターを讃える。そして、最後にザックスはドイツ文化の素晴らしさについて歌い、観客は大喝采する。が、その姿は、実に抑圧的。まさに圧倒的権威として、新しいものを抑圧している。

 要するに、カタリーナの演出は、バイロイト音楽祭を否定しているわけだ! ワーグナーを権威にしてしまい、ワーグナーを規範としてそれを守らせようとする人々を茶化している。「はじめは革新的に芸術を改革しようとした人々も、それをなし終えた段階で、逆に抑圧的になり、自分たちの価値観を押し付けている。バイロイト音楽祭は、過去を金科玉条のものとして崇め、過去のままごとにかまけている。だが、芸術というのは、もっと自由でもっと人間的なものだ。そのようなものを生み出すべきだ」というメッセージがここにある。しかも、それをわくわくするような動きと混乱の中で描き出す。

 繰り返す。私はオペラ演出については保守主義者だ。演出家がそのオペラと関係のない自分の思いを勝手に舞台に載せるのは許せない。が、カタリーナの演出については、そのようなものと本質的に異なると思った。

 カタリーナの演出は、ワーグナーの受け入れられた歴史に対する、そして現在のバイロイト音楽祭に対する、そしてまた、ワーグナーという芸術家に対する批判になっている。カタリーナは、原作にべったりの演出をするのでなく、原作を現代の目から批判する演出をしている。それこそが、ある意味でワーグナー自身がこの楽劇にこめた重いではなかったのか。そうすることによって、まさしく現代の『マイスタージンガー』を作り出している。これは、リヒャルト・ワーグナーに匹敵するような才能だと思った。これこそがワーグナー家のDNAなのかと納得した。

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