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京都の長谷川等伯展と、ラ・フォル・ジュルネのこと

 昨晩から、仕事で京都にいる。

 今朝、京都国立博物館の長谷川等伯展に行ってきて、先ほど戻ったところ。東京で見たが、あまりに混雑していて、鑑賞どころではなかったので、京都の朝一番に行けば、多少はゆっくり見られるかと思った。

 朝の9時半会場だというので、9時15分くらいまでにつけばゆっくり見られると思ってでかけたところ、駅付近から博物館のほうに、まるで遠足の行列のように人が歩いている。よもやと思ったが、みんなが博物館に入っていった。中高年の、ハイキング風の姿の人が多かった。連休の始まりなので、この後、山などに行く予定の人たちなのかもしれない。到着したのは、9時10分くらいだったが、もう私の前におそらく相当の人がいた。1000人くらいいたのではないか。30分くらい待って、やっと入れた。

 が、朝早く来ただけあって、東京よりは余裕を持って見られた。東京では頭越しでしか見られなかった松林図も、じっくり見られた。

 それにしても、等伯は本当に素晴らしい。前にも書いたとおり、植物の表現に圧倒的な美しさを感じる。とりわけ、等伯と号してからの柳やススキや楓や草花や松が最高。ただ、美術に疎い私としては、そのくらい今年か言えないのが残念。

 今度は、このような展覧会ではなく、所蔵している寺院に行って、一つ一つのものを周囲の風景とともに見たいと思った。

 東京国際フォーラムでのラ・フォル・ジュルネ(熱狂の日音楽祭)に気分が向かい始めている。今回は、ショパンがあまり得意でない私にとってはメンデルスゾーンとシューマン特集にほかならない。特にメンデルスゾーンをまとめて聴けるのがうれしい。東京に戻ったら、すぐにラ・フォル・ジュルネに向けて、心の準備をしなくては・・・

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新車サイSAIがやって来た!

 2月ころに注文したトヨタのハイブリット車サイが届いた。買うことを決めてすぐに、プリウスのリコールが大きく報道された。正式に注文した数日後に、プリウスだけでなく、サイにも欠陥があるらしいことが判明。一時はかなり心配したが、取り消さなかった。はじめの話では7月ころ納車ということだったが、4月中に届いた。もしかしたら、キャンセルが多くて、時間が早まったのかもしれない。

 1時間ほど乗り回した。きわめて快適。豪華な仕様で、乗り心地がよい。しかも、操作性も抜群で加速性も申し分ない。プリウスはブレーキの効き具合が悪いというので、サイも同じような問題があるのではないかと心配していたが、そんなことはない。高速で思いっきり飛ばしたい気になった。ただ、いろいろと操作がわからない。同じトヨタなのだが、これまで乗っていたカムリとギアのシステムもナビのシステムも異なる。もう少し乗り回そうかと思ったが、怖くなってやめた。

 実を言うと、私はあまり運転は上手ではない。縦列駐車など、これまでほとんどしたことがない。そんなことをするくらいなら、遠くに停める。しかも、自分の家の車庫に入れるのにも、ときどき失敗する。つい最近もカムリの側面をこすってしまった。そもそも、しょっちゅうこすったりぶつけたりしているので、高い車は買わないことにしている。空間把握能力が不足しているというべきか、いい加減な性格というべきか、「行ける!」と思って行くと、どうも車の幅が足りなかったようでこすってしまう。

 しかも、今回、すぐに新車が来るのに、まだ古い車の中にガソリンがたんまりあるので、ちょっとガソリンを使っておかなくては損だという貧乏意識を出して、特に必要がないのに乗っているうちにこすってしまった。情けない! この車を下取りに出すわけだが、一体いくらの損になることやら!

 ところで、ヴァレンシア・リングに関する評を見ていたら、ジークフリートを歌うランス・ライアンをほめている人がかなりいるので驚いた。あのひどい歌手をほめるのか?! それとも、私の耳がどうかしているのか。私はあの歌を我慢できないのだが・・・

 東京国際フォーラムで52日から開かれるラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン(「熱狂の日」音楽祭)が近づいてきた。アイスランドの火山噴火の影響を心配していたが、どうやら大丈夫らしい。

 51日の朝のNHKの番組「土曜楽市」に出演予定。ラ・フォル・ジュルネについて話すつもりだが、今年特集されるショパンについては私はかなり苦手なので、メンデルスゾーンやシューマンやベルリオーズについて語ることになりそう。コルボの指揮する『パウロ』など、今からわくわくしているコンサートがいくつもある。そんな話をしたい。

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8月25日、HAKUJU HALLで樋口ゼミ主催のコンサート、チケット売り出し!!

 多摩大学の私のゼミの主催で、8月25日、HAKUJU HALLでコンサートを開く。そのチケットが売り出しになった。

 Hakujyコンサートのタイトルは「音楽の宅急便 ジブリからクラシックへ」。

 私のゼミは、クラシック音楽を日本の若者に広めるための活動を行っている。今回の企画は、ふだんクラシック音楽を聞かない若者に、ジブリの映画で用いられた音楽を入り口にして、クラシックに親しんでもらおうという学生の発案による。それを、HAKUJU HALLの方々が受け止めてくれて、特別の配慮をいただき、今回、コンサートができることになった。皆さんに感謝!!

 

 Hakujyu2 演奏者は、これまで多摩大学で何度も名演奏を聞かせてくれたピアニストの新居由佳梨さん、そして、新居さんとコンビを組むヴァイオリンの江島有希子さん。お二人の演奏は、昨年、樋口ゼミが「あらえじカンタービレ」というコンサートを企画して大成功を収めた。感激の声が多くの人から寄せられた。

 新居さんは、伝説の大ヴァイオリニスト、イダ・ヘンデルの久々の録音に伴奏者として抜擢されたピアニスト。江島さんはお一人でも、新居さんとのデュオでも大活躍。おふたりとも日本の各地で活躍している注目の若手演奏家だ。お二人の演奏は何度も聴いているが、その度に感動する。昨年のバレンタインデーのベートーヴェンはとりわけ素晴らしかった。

 そして、今回は二期会に所属するソプラノ歌手である三宅理恵さんが、それに加わる。三宅さんはカーネギーホールでのデビューも果たした期待の大型歌手。オペラや歌曲に大活躍している。しかも、新居さん、江島さんに劣らない美人でもある!

 親しみやすい曲がたくさん演奏されるが、もちろん、それだけではない。ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ「春」や、シューベルトの「魔王」、サン・サーンスの「序奏とロンド・カプリチオーソ」、ショパンの「幻想即興曲」など、芸術的に高度な作品もたくさん含まれる。そして、その素晴らしい演奏が聴ける。会場全体が感動に包まれると確信している。

 私のゼミ生が関わってコンサートを開くのは今回が3回目。毎回、大成功を収めてきた。とはいえ、これまでは、多くのことを私が決めて、学生がそれを手伝う感じだった。が、今回は、企画をしたのもチラシを作ったのも学生。実にセンスのいいチラシだと思う。私はクラシックの曲目を選定するのに助言したくらいで、学生が主体的にやってくれている。学生が主体的に運営して一流のプロの演奏家によるクラシックのコンサートを開くのは、日本でも珍しいだろう。

 多くの方のご来場をお願いしたい。

★8月25日 開場18:30 開演19:00

HAKUJU HALL(小田急線代々木八幡、地下鉄代々木公園下車)

全自由席で、一般2000円、学生1500円(学生主催のため特別料金)

チケットぴあ(0570-02-9999) Pコード 105-582

演奏曲(演奏者の都合により、変更の可能性あり)

●ジブリの音楽

・「君をのせて」(「天空の城ラピュタ」)

・「もののけ姫」

・「いのちの名前」(「千と千尋の神隠し」)

・「人生のメリーゴーランド」(「ハウルの動く城」)

・「はにゅうの宿」(「火垂るの墓」)

●歌曲

・「鱒」(シューベルト)

・「糸を紡ぐグレートヒェン」(シューベルト)

・「魔王」(シューべルト)・「アメージンググレイス」

・「メモリー」(ロイド=ウェバー)

・「サマータイム」(ガーシュイン)

●ヴァイオリン曲

・「愛の挨拶」(エルガー)

・「序奏とロンド・カプリチオーソ」(サン・サーンス)

・ヴァイオリン・ソナタ第5番「春」(ベートーヴェン)

●ピアノ曲

・「幻想即興曲」(ショパン)

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ブロムシュテット+N響のブルックナー5番に魂を震わせる!

 4月21日、ヘルベルト・ブロムシュテット指揮、NHK交響楽団によるブルックナーの交響曲第5番(ノヴァーク版)をサントリーホールで聴いた。圧倒的名演だった。

 前にもこのブログで書いたが、実は、私はブルックナーの交響曲第5番が苦手だ。ブルックナーは大好きだ。交響曲の4・7・8・9は魂を震わせて聞く。が、5番と6番はよくわからない。とりわけ、5番は聴いているうちに迷路に入り込んだ気分になる。第1楽章と第4楽章が特にそうだ。私は、こう見えてかなり論理的な人間らしく、文章などに論理の破綻があるとすぐに気づき、それが気になって仕方がない。この交響曲はまさしく破綻しているように思える。

 ちょうどCDが売り出されたばかりのチェリビダッケ指揮、ミュンヘンフィルの来日公演での5番を20年ほど前に実演で聴いた時も、深い感動を覚えつつも、わからなさを噛みしめざるを得なかったのを覚えている。

 が、今日、ブロムシュテットで聴いて、やっとわかった気がした。「そうか。とりあえず、ブルックナーの音楽に身を委ね、だんだんとそれが一まとまりになって行くのを楽しめばいいんだ!」と思った。これまで、頭の中で音楽を整理しようとし、それができずに途方にくれていた。が、音楽に身を委ねていれば、自然に音楽に統一ができるではないか。

 私は専門家ではないので、ブルックナーの音楽の形式もよくわからない。ブロムシュテットがどのような工夫をしているのかもわからない。だが、ブロムシュテットの手にかかると、ブルックナーの音楽の中に、きわめて自然に統一が作られていく。しかも、壮大な祈りにあふれ、大宇宙の中で私たちの魂を躍動させてくれる。

 N響も素晴らしかった。まったく不満はない。ホルンがみごと。ほかのオケでは、どうしてもホルンを初めとした金管楽器に問題を感じるが、安心して聞いていられた。全体のバランスもとても良かった。

 最終楽章の後半はほとんど身体がしびれていた。最後には涙があふれてきた。ブロムシュテットは大巨匠だと改めて思った。

 ところで、28日には、フィラデルフィア管、ディトワ指揮、アルゲリチのピアノによるラヴェルのコンチェルトが予定され、最高の楽しみだと思っていたが、アルゲリチがキャンセルになったと知った。残念無念。ポゴレリチのショパンが代わりに演奏されるらしいが、私はショパンが好きではない。まったくもって残念!!

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ムターのブラームスを堪能

 4月19日、サントリーホールで、アンネ=ゾフィー・ムターのブラームスの3つのソナタのコンサートを聴いた。絶品。

 はじめの第2番はちょっと物足りなかった。自然で豊穣だが、あまりに自然に流れてしまう。素晴らしいと思いながら、大ホールにはちょっと向かないのではないかと思った。次に第1番「雨の歌」。だんだんと「歌」が流麗になり、味わいが深まっていった。

 そして、休憩後の第3番。私はこの曲を中学生のころ、ダヴィッド・オイストラフとリヒテルのレコードで覚えた。ダイナミックでロマンティックで激しい曲だとずっと思っていた。が、ムターで聴くと、激しさは抑え気味。だが、実に深い味わいがある。

 それにしても、実に自然に流れる。無理をせず、音楽の流れを大事にしている。だが、そうでありながら、実に深く心に刺さってくる。しかも、ほんの少しの音の変化でニュアンスを作り出す。まさしく、大人の味わい。

 第四楽章は魂が震えるくらい感動した。激しい感情が揺れ動く。ブラームスらしい抑制の中のロマンティズム。ピアノのオルキスもしっかりとつけていて素晴らしい。

 そして、ムターの美しさにも改めて驚いた。まさしくヴァイオリンの女王!

 アンコールも盛りだくさんだった。ハンガリー舞曲2番1番7番。それから「子守唄」。最後にマスネの「タイスの瞑想曲」。どれも素晴らしかったが、とりわけ「タイスの瞑想曲」が絶品。

 ムターの大人の色気にノックダウンされた。何と潤いのある、何と深い音色だろう。技術的には何の問題もないやさしいメロディだが、音色の変化が美しい。過去を悔いる遊女タイスの思い、そして色気が伝わってくる。この曲は、これまでアンコールに何度か聴いた記憶があるが、こんなにニュアンス豊かで美しく、心の染み入る演奏は初めてだった。

 ともあれ、満足の一夜だった。

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『自慢がうまい人ほど成功する』(PHP新書)発売と『ヴァーグナー』の産経新聞書評と!

456977783x  拙著『自慢がうまい人ほど成功する』(PHP新書)が発売になった。

 日本では自慢は悪いことと思われている。自慢をする人は嫌われたり、陰口を言われたりする。だが、考えてみると、成功している人の多くが自慢をするではないか。私の知人の有名人にも、話をすると半分以上は自慢だという人が少なくない。もしかすると、成功した人が自慢をしたくなるということ以上に、自慢をするタイプの人が成功するといえるのではないか。自慢が上手なために、上司に認められて仕事を与えられ、それをしっかりこなすことで本当に出世したのではないか。

 だとすると、悪いのは自慢ではなく、下手な自慢ではないか。悪いのは下手な自慢であって、自慢そのものが悪いわけではない。

 そのような理念に基づいて、自慢の効用、下手な自慢を上手な自慢にするテクニックなどを記したのが本書だ。「日本人よ、もう少し自慢しようではないか」というメッセージを伝え、そのための方法を書いた。

 実は、私はかなり謙虚な人間であって、あまり自慢をしない。だが、そのためにずいぶん損をしてきたような気がする。そこで、あるとき自慢の大事さに気づいて、それ以降、周囲の人の下手な自慢と上手な自慢を観察してきた。それをまとめたのが本書だ。

 私はこの本を数年前のベストセラー『頭がいい人、悪い人の話し方』と同じパターンで書いた。つまり、あちこちにいる下手な自慢をする人の滑稽な様子を具体的に描き、それに対してどのような対応をすればよいのか、その下手な自慢を上手にするには、どのようなテクニックを用いればよいのかを説明した。下手な自慢をする人を思い出しながら笑って読み、そうするうちに自慢のテクニックが身につくように工夫している。

 そして、またこれを私としては観察の書だとも考えている。『頭がいい人、悪い人の話し方』も、私としては、フランス文学史に残るラ・ブリィエールの『人さまざま(レ・キャラクテール)』やフローベールの『ブヴァールとペキシェ』のような人間観察の本を書きたいと思って書いたのだった。今回も、滑稽ながらも人間的な人々を描こうと思ったのだった。

 ただ、ちょっと後悔しているのは、まるで自己啓発書のようなタイトルになってしまったこと。実を言うと、そもそも私は「成功する」という言葉そのものが好きではない。「別に成功しなくてもいいじゃないか。人間、成功をめざして生きるべきではない」と思っている。私は、『自慢の下手な人、上手な人』というタイトルのつもりで書いた。編集者と相談して最終的にタイトルを決めるとき、『自慢がうまい人ほど成功する』ほうが売れるといわれて、その気になった。売れてくれればいいのだが・・・

 

931893  ところで、本日(4月18日)付けの産経新聞の書評欄に『ヴァーグナー 西洋近代の黄昏』が取り上げられている。「ワーグナー以前と以降のヨーロッパ精神、文化のあり方にも考察を広げ、クラシック音楽を通じての文化論としても読める」「クラシックファンならずとも、新しい示唆が得られる」として、かなり好意的に紹介していただいているので、大満足。これについても、もう少し売れてくれると、うれしいのだが。

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今年もラ・フォル・ジュルネが近付いた!

ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン(LFJ)が今年も近づいてきた。昨年はバッハが特集されたので、私は大喜びで活動したが、ショパンが特集される今年はちょっとなりを潜めている。

大きな声では言えないが、実はショパンが好きではない。特に嫌いというわけではない。マーラーやプッチーニのように、聞いてイライラするわけではない。実際に耳にすると、親しみやすいメロディ、音楽の展開の見事さに驚嘆する。が、感動はしない。そもそもピアノソロの曲をあまり聞かないこともあって、ショパンには親しめない。

私は、日本での初めてラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンが行われてきたときから、「アンバサダー」として活動してきた。先ごろ刊行された『クラシックの音楽祭がなぜ100万人を集めたか ラ・フォル・ジュルネの奇蹟』(片桐卓也 ぴあ)に、ラ・フォル・ジュルネが日本で定着するまでの軌跡=奇蹟が語られているが、その中に私の名前も何度か出てくる。数えてみたら、ナントで開かれた本場のラ・フォル・ジュルネを加えて、これまで合計238のコンサートを聴いている。もしかしたら、日本記録かもしれない。

そんな事情で、今年も取材の申し込みを受けるが、残念ながらお断りしている。ベートーヴェンやモーツァルトやバッハなら、これまで数千枚のレコードやCDを聴き、数十回、数百回のコンサートに足を運んでいるが、ショパンのCDは10枚程度を必要があって買ったにすぎず、その後、ほとんど聴いていない。ショパンを目的にコンサートに行ったことは一度もない。つまり、ショパンについては人様に伝えるようなことは何も知らない。ショパンについて言いたいことをまったく持っていない。

そんなわけで、今年は、外から応援するだけにしている。もちろん、チケットは手配した。ショパンで唯一好きなチェロ・ソナタは何度か聞くつもりだし、さすがにポゴレリチの弾く協奏曲は聞こうと思っているが、それ以外はもっぱらショパンを避けて、メンデルスゾーン、シューマン、ベルリオーズを狙っている。とりわけメンデルスゾーンは大好きな作曲家だ。メンデルスゾーンを「お金持ちのボンボン」とみなす人が多いが、断じて、それは違う。

なにしろ、メンデルスゾーンはあの時代にあって、ユダヤの血をひく人間だった。祖父のモーゼス・メンデルスゾーンは解放ユダヤ人として知られた人物だ。伝記を読むと、いわれのない差別や嫌がらせに苦しんだことがよくわかる。ヴァイオリン協奏曲や『スコットランド』をはじめとする珠玉の名作は、差別の中で生まれたものだった。差別された存在であるからこそ、あのように流麗で育ちの良いメロディが生まれ、高貴な精神を保つことができたといってよいだろう。

ともあれ、今年もまた、私は東京国際フォーラム近くのホテルに泊まりこんで、朝から夜中までコンサートを聴き続けることになる。だんだんとわくわくしてきた。

 来年のラ・フォル・ジュルネはマーラー特集だということで、一時は大いに落胆した。このブログにも何度か書いたとおり、私は筋金入りのマーラー嫌いなので、こんなつらいことはない。が、のちに聞いたところによると、マーラーだけでなく、ワーグナー、ブルックナー、ブラームス、リヒャルト・シュトラウスなどの作曲家が特集されそうだという。そうだとすれば、まさしく私の大好きな作曲家たちだ。拙著『ヴァーグナー 西洋近代の黄昏』で扱ったのも、これらの作曲家たちだった。来年が今から楽しみだ。

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ヴァレンシア・リングのBDはジークフリート歌手がよくない!

 ヴァレンシア歌劇場で行われたワーグナーの『リング』四部作上演のうち、『ラインの黄金』と『ワルキューレ』は素晴らしかった。その次の作品である『ジークフリート』はいつまでたってもブルーレイしか店頭にないので、わざわざブルーレイレコーダを買って、続きを見た。

 ところが・・・

619 『ラインの黄金』と『ワルキューレ』に比べて、『ジークフリート』と『神々の黄昏』の完成度が圧倒的に低い。その理由ははっきりしている。肝心のジークフリート役のランス・ライアンがかなりひどい。『トリスタンとイゾルデ』の水夫か『パルジファル』の小姓を歌うのならこのくらいで十分だろう。だが、『さまよえるオランダ人』のエリックでも苦しい。ジークフリートを歌うには、圧倒的に力不足だ。音程も不安定、声が伸びず、細部の処理があまりに雑。一人だけずば抜けて、レベルが低い。

 いくらほかの歌手がよくても、ここまでレベルが低いとさすがに聞いていられない。容姿で選んでしまったのだろう。残念。

『神々の黄昏』でジークフリートが死んで「ジークフリートの葬送」が始まった時、これでやっとジークフリートが出てこなくなると思ってほっとした。こんなにジークフリートの死がうれしかったのは初めてだ。

 620 このジークフリート役の歌手に引きずられてしまったのだろうか。それとも、この歌手のせいで聴いているこちらが音楽に乗れなくなってしまったのだろうか。ほかの歌手たちも「ワルキューレ」までに比べてかなり出来がよくないような気がした。

 さすらい人のユハ・ウーシタロも声が十分に出ていない。ブリュンヒルデ役のジェニファー・ウィルソンはかなり頑張っているが、出番のすべてでジークフリートと絡んでいるので、感動のしようがない。グンターのラルフ・ルーカスも本調子ではない。マッティ・サルミネンはさすがだが、ものすごかったころの力はない。

 しかし、カルルス・パドリッサの演出については、『ラインの黄金』と『ワルキューレ』と同じくらい冴えまくっている。ギービッヒ家の人々がフェイスペインティングをしており、それが円マークやユーロマークで、しかも漢字が描かれているのがおもしろい。要するに、ニーベルング族は資本主義化した新興の存在というわけだろう。そして、バーチャル映像を駆使した映像美は圧倒的。

 メータの指揮も悪くない。細かいところに雑さは感じるが、盛り上がるところは盛り上がる。これはこれでなかなかワーグナーらしい演奏だ。しかし、繰り返すが、私はジークフリートが登場するごとに、心が萎えてしまって、どうしようもなかった。

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ムーティ指揮の『カルミナ・ブラーナ』はムーティ以外はとても良かった!

 4月9日は、パルテノン多摩で多摩大学の入学式が行われた。寺島学長と田村常務理事の話、そして、新入生ふたりのことば。とてもよい入学式だった。ニュースでも報道されていたが、多摩大学の入学式も多くの保護者が出席する。時代の移り変わりを痛感する。

 

 10日、東京文化会館で、東京・春・音楽祭の『ハフナー』交響曲と『カルミナ・ブラーナ』を聴いた。指揮はリッカルド・ムーティ、東京春祭特別オーケストラの演奏。一言でいって、ムーティがよくなかった!

 もともと私はムーティが好きではない。20年以上前、CDを何枚か聴いてひどい指揮者だと思った。だから、実は、ムーティのナマを聴くのは今日が初めてだ。最近、ヴェルディのオペラをいくつか聴くうちに、ムーティにもよいところもあることに気づいて、最近はあまり嫌いでなくなっていた。そこで、一度聴いてみようという気を起こして、今日、でかけたのだったが、今度聴いて、改めて相性がよくないことを痛感した。

 まず、『ハフナー』がつまらなかった。音が生きていないと、私は感じる。わくわく感がまったくない。『カルミナ・ブラーナ』の前に『ハフナー』を演奏したということは、「躍動」を強調したかったのだと思うが、まったく躍動しない。いろいろと工夫しているのはわかるが、私にはどれも「すべっている」ように感じられる。第四楽章は最大の躍動になってほしいのだが、鈍いままだった。オケの性能はいい。だが、ムーティがそれをいかしきっていない。

 そして、『カルミナ・ブラーナ』。私の大好きな曲のひとつだ。

 歌手たちは素晴らしかった。ソプラノのデジレ・ランカトーレの美声は特に見事。堪能した。カウンター・テナーのマックス・エマヌエル・ツェンチッチもいいし、バリトンのリュドヴィク・テジエも素晴らしい美声。東京オペラシンガーズも東京少年少女合唱隊も、そしてオケも文句なし。ただ、私はムーティに、『ハフナー』以上の強い違和感を覚えた。

 ムーティが物量で攻めてくるところが気に入らない。とてつもなくでかい音がする。だが、それが生き生きとしていない。私にはどでかい死んだ音に聞こえる。まるで、迫力を出すには音をでかくすればいいとでも思っているかのようだ。

 しかも、ムーティは生真面目にこの音楽を演奏する。だが、『カルミナ・ブラーナ』というのは、おどけた曲なのだ。人を食ったようなところのある曲で、聴くものをニヤリとさせる曲なのだ。ところが、ムーティの演奏にはまったくそんなところがない。笑わせるべきところも、大真面目に、そしてドラマティックに演奏される。そうすればするほど、音楽が生きてこない。

 そして、『カルミナ・ブラーナ』の最大の魅力は、前近代精神に基づく躍動感あふれる単純なリズムの繰り返しなのだが、そこにニュアンスをつけて盛り上げようとするものだから、魅力がまったくなくなる。むしろ、近代精神に基づくニュアンスをなくして、単純さを強調するほうがずっとリアルな音になると思うのだが。

 終わった途端、大喝采だった。まさか、この演奏にこれほどの喝采が起こるとは思っていなかった。むしろブーイングが起こるのではないかと思っていたのだった。これをひどい指揮だと思ったのはどうやら少数派だったらしい。

 ちょっと寂しい気持ちで家に帰った。

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ブレッソンの映画『抵抗』と、ブルーレイ・レコーダのこと

 岩波ホールで、ロベール・ブレッソン監督の映画『抵抗 死刑囚の手記より』を見てきた。1957年のモノクロ映画。ブレッソンの初期の映画だ。

 実を言うと、私はブレッソンが苦手だ。映画学を専攻している学生のころ、玄人好みとして知られるブレッソンの映画を大きな声でつまらないと口にするのは憚られた。が、どうにも辛かった。『スリ』『田舎司祭の日記』『バルタザールどこへ行く』『少女ムシェット』『白夜』『ラルジャン』などを見たが、マーラーを聴く時と同じように、不快感が募り、退屈で仕方がなかった。

 登場人物たちの生真面目さ、不思議な倫理観、しなやかさのないぎくしゃくした肢体の動きが不快なのだ。みんな真面目な顔をして、真面目に行動し、私にしてみれば実につまらないことで本気に悩んでおり、おもしろくもないことが起こり続け、何事もなく終わってしまう。

 そんなわけで、ごく初期の作品はどうだったのか確かめたくて、岩波ホールに足を運んだ。

 レジスタンス時代のフランス。ナチスに捉えられたフランスの中尉が車から脱出しようとするところから始まるが、捕らえられて監獄に入れられ、その後、ずっとそこから脱獄しようと工夫する場面が続く。1時間半ほどの間、中尉が脱獄計画を立て、そのための器具を作るところに付き合わされる。

 ナチスの目を盗んでの行為なので、息詰まるようなサスペンスではある。しかも、ずっと生真面目で、遊びが一切なく、娯楽的要素もない。囚人仲間と連絡を取る様子は語られるが、ただひたすら、生真面目。そして、脱獄までが事細かに語られるだけ。

 はっきり言って、やはり好きな映画監督ではない。人生の深みを映画の中に感じない。思想も感じない。脱獄の詳細に付き合わされるのはかなわんと思った。

 私は、子どものころから工作が大の苦手で、現在も安売り店で買った家具の組み立てに苦労するほど。緻密な手作業を自分でしないだけでなく、それをしている人を見るだけでもイライラしてくる。

 私がブレッソンが嫌いな理由はそれだと思い当たった。主人公の緻密で几帳面なこと! そして、それを撮るブレッソンの几帳面なこと! やはり、この人の映画は生理的に受け付けない。

 ところで、別の話だが、昨日、ブルーレイ・レコーダを買った。特に画面の美しさにはこだわらないので、DVDで十分だと思っていたのだが、事情が変わった。

 というのは、前にも書いたとおり、ヴァレンシア歌劇場で行われたワーグナーの『リング』4部作上演の最初の2作『ラインの黄金』と『ワルキューレ』の映像に感動したのだった。その続きの『ジークフリート』のDVDを買おうとしていたのだが、いつまで待っても、タワーレコードにDVDが並ばない。『神々の黄昏』のDVDは売られているのだが、『ジークフリート』はブルーレイしかない。『ジークフリート』を抜かして先に『神々の黄昏』を見てもいいのだが、やはり順番に見ていきたい。

 もしかしたら、ブルーレイを買わせようという陰謀ではないかと疑ったが、これを機会に買うのもいいだろうと思った。

「性能はともかく、誰でも使える一番簡単なのをくれ」と店員さんにきいたところ、シャープのBD-HDS43を奨められた。さすがに簡単にセットできた。東芝のDVDで苦労しまくったのがウソのよう。使いやすいの一番だ! 

 明日以降、気合を入れて、『ジークフリート』を見ることにしよう。

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ヴィスコンティの3本の映画

 今、明日の仕事のために、京都に来ている。夕食は、新阪急ホテルの美濃吉で済ませた。筍ご飯が絶品。いつものようにしろ味噌仕立ても実にうまかった。

 もし、明日、時間が取れたら、花見でもしたい。とはいえ、タクシーでどこかに行って、ざっと見て、すぐに戻るだけの時間しかなさそう。

 

 ここしばらくの間、時間を見つけて、ヴィスコンティの映画を数本見ていた。3本の感想をここに書く。

B0007piola09 『地獄に堕ちた勇者ども』

 1970年に東京に出てきて初めて見たヴィスコンティの映画だった。かなり感激したのを覚えている。改めて、見たが、やはりすごい。

 フリードリヒ(ダーク・ボガード)は、ナチスの後ろ盾によって、大企業の実力者の息子の未亡人(イングリット・チューリン)と結びついて企業の実権を握ろうとし、殺人まで犯すが、ナチスの都合によって挫折。ナチスが未亡人の息子であるマーティン(ヘルムート・バーガー)を次の実力者にすえようとしたために、服毒自殺させられる。

 そんな物語だが、退廃、倒錯、権力が入り混じる。ナチスの実際の歴史と重なり合うのだと思うが、確かに当時の時代精神には、このような倒錯があったのだろうと納得させられる。時代の狂気を、政治とは異なる部分で描いているといえようか。

 これより前のヴィスコンティの映画にはドストエフスキーの影響が強く感じられるが、この後は、むしろワーグナーの影響を感じる。この映画は、まるで『ニーベルングの指環』のナチス時代版!

 ヴィスコンティの映画には、しばしばオペラのさわりを調子っぱずれに歌う場面が出てくる。ナチスによる突撃隊襲撃(血の粛清事件)の前、突撃退院であるコンスタンチンが『トリスタンとイゾルデ』の本来ソプラノで歌うべき「愛の死」をバスの声で、しかも酔っぱらって音程を狂わせながら歌う。まさしく、倒錯、狂気、退廃!

 役者がみんな素晴らしい。おそらくヴィスコンティの演出が素晴らしいということだろう。倒錯者であるヘルムート・バーガーの演技がとりわけ目を引く。私は、この映画でこの不思議な役者の存在を知った。

N_616dlr11060ps 『ベニスに死す』

 封切時に見たとき、大いに感激した。私はそのころからすでにマーラーが大嫌いだった。高校生のころ、マーラーのレコードを何枚か買って、理解するべく努力した。が、できなかった。激しい違和感をマーラーに対して持っていた。そんな時、この映画を見た。

 作曲家のアッシェンバッハ(ダーク・ボガード)は療養のためにベニスにやってくる。これはマーラーをモデルにした人物で、トーマス・マンの小説では作家になっているが、映画ではマンの最初のアイデアである作曲家に戻されている。娘を亡くして苦しみ、音楽作りに悩んでいる。アッシェンバッハはベニスで過ごすうち、ホテルの客の一人であるポーランドの少年に引かれ始める。うっとりとして見つめ、後を追う。そして、自分の老いを痛感し、髪を染め、顔に化粧をする。そのような醜悪な姿で少年を追いかける。そんなとき、ベニスでコレラが流行する。アッシェンバッハは少年の姿を追い求めながら、コレラにかかって、化粧を施した醜悪な姿のまま海辺で死ぬ。

 ここには同性愛、少年愛が強く描かれる。が、この映画が普遍性を持つのは、この少年が純粋な美を象徴しているところだろう。アッシェンバッハは純粋な美を追い求めている。自分は老いながらも、完璧な美を求める。そして、それに憧れるがゆえに醜悪な姿になりながら死んでいく。

 初めて見たときも、ヴィスコンティの音楽に対する造詣の深さに驚いた。私がマーラーが嫌いな理由こそ、まさにこれだった。マーラーは過去の音楽の純粋なものを取り戻そうとする。だが、そのようなものはすでにない。それなのに過去の純粋な音楽にあこがれる。そうであればあるほど醜悪になる。だから、私はマーラーが我慢ならない。ヴィスコンティは、だからこそマーラーに共感するのだろう。

 実は、今回見て、かつてほどの感動は覚えなかった。ヴィスコンティの演出力には驚く。音楽の使い方のうまさにも驚嘆する。醜悪な姿を見せ付けられるリアリティを強く感じる。もちろん、とてもよい映画だと思う。だが、かつて以上に、アッシェンバッハに感情移入できない。感情移入を促すマーラーの交響曲第5番に入り込めない。私も老人の部類に入るようになったので、もう少しアッシェンバッハに共感するかと思っていたが、そうでもなかった。

 どうも私は、年齢とともに、感情移入するタイプの映画にあまり感動しなくなっているようだ。以前見たとき、マーラーを嫌いながら、ダーク・ボガード扮する主人公に感情移入した。だが、今では、感情移入させようとする音楽や場面に息苦しさを覚える。共感するにしても、もう少し距離を置いて対象を見たいと思う。

 ただし、マーラーの音楽のほとんどに対して拒否反応を起こし、レコード店でちょっと耳にするだけで激しい違和感と苛立ちを感じる私なのだが、この交響曲第5番の第4楽章に対してだけは、それを感じない。きっとこの映画のおかげなのだろう。

『ルートヴィヒ』

 いわずと知れたバイエルン国王ルートヴィヒ2世の物語。私が学生のころ、製作されたのは知っていたが、ずっと日本で封切られなかった。1977年、ヨーロッパに行った時、ウィーンで看板を見つけ、あわててみた。ドイツ語版だったので、まったく言葉はわからなかった。が、私は当時から大のワーグナー・ファンで、ルートヴィヒ2世についてはかなり知っていたので、ほとんど理解して見た覚えがある。

 改めて見てみると、やはり見事な映画だ。壮大な歴史絵巻物というだけでなく、多感で芸術至上主義で傷つきやすいルートヴィヒの心を美しく描いている。ルートヴィヒ役のヘルムート・バーガーは、地なのか演技なのかわからないが、まさしくエクセントリックなルートヴィヒそのもの。トレヴァー・ハワードのワーグナーも、シルヴァーナ・マンガーノのコジマも実にいい。そして、エリーザベト役のロミー・シュナイダーのなんという美しさ! ハリウッド製の歴史映画と違って、まさしくリアル。

 純粋で、エリーザベトへの愛をいつまでも忘れられず、芸術を愛し、現世を厭う。エリーザベトの場面になると愛と死を歌う『トリスタンとイゾルデ』の断片がかかる。

 ただ、実を言うと、やや不満を覚えた。歴史をリアルに描き、人物を的確に描き出し、驚くべき演出力を示している。が、私に訴えかける新しい思想があるか。どうも、それが感じられない。

 もちろんヴィスコンティは大好きな映画監督だ。だが、そのような面で、パゾリーニやアントニオーニやフェリーニのほうに、私は強い共感を覚える。

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BCJ(バッハ・コレギウム・ジャパン)の『マタイ受難曲』

 今日、4月3日、彩の国さいたま芸術劇場 音楽ホールでバッハ・コレギウム・ジャパンの『マタイ受難曲』を聴いた。指揮は鈴木雅明。エヴァンゲリストはクリストフ・ゲンツ。

 期待通りの、BCJの実力のほどを示す演奏だった。世界有数のバッハ演奏だと思う。

 ただ、私はいつもオケと合唱には満足なのだが、独唱陣にやや不満を覚える。ソプラノのレイチェル・ニコルズや松井亜希、アルトのアリアンネ・ベアーテ・キーラントは安定しているが、感動的な歌唱には至っていない。バスのドミニク・ヴェルナーは、ちょっと不安定。意味なくがなりたてる傾向があるのが気になる。日本人歌手陣は、音程が怪しかったり、声が伸びなったり。

 そのなかで、エヴァンゲリストのゲンツはさすが。フォーマルでなく、カジュアルな歌いまわし。はじめは抵抗を感じたが、聞いているうちに違和感はなくなった。

 何はともあれ、独唱に不満は残っても、全体のレベルはかなり高い。『マタイ』に感動するにはまったく不足はない。日本で日常的にこのレベルのバッハが聴けるようになったというのは、20年前からは考えられない!

 500人以下の規模のホールで『マタイ』を聴くのは実に贅沢。残念ながら、私はドイツ語はまったくわからないが、テキストを見ながら聞くと、言葉がはっきり聞き取れる! 古楽器なので音が小さいのに、楽器の音色もはっきりと伝わる。

 それにしても、改めて『マタイ』の素晴らしさに驚嘆。何と素晴らしい曲だ! 前半もいいが、第二部のすべてのアリアに感動!

 ところで、数日前に、中国におけるキリスト教宣教について研究している知的生産の技術研究会の八木哲郎会長と話をして、ふと、幕末から明治にかけて、キリスト教会が日本の近代化に果たした役割は非常に大きかったのではないかと思い始めた。それについて調べてみたい気になって、今、本を集めている。

 私自身のことを思い出してみる。私は子どものころから、かなり西洋かぶれだった。小学生のころから、ルパンやホームズの本を大好きで、小学校5年生でクラシック音楽に目覚めた。現在、かなり日本回帰しているが、それでも好む芸術といえば、ほとんどが西洋のものだ。

 なぜ、そうなったのか。思い当たるのは、大分県日田市のカトリック系の幼稚園に行ったことだ。たしか聖母幼稚園という名称だったと思う。自宅のすぐ近くにあり、年上の従姉妹たちも通ったという理由で私もそこに通ったのだった。

 賛美歌らしいものを歌ったり、お祈りをした記憶がある。礼拝堂があって、キリスト像も聖母像もあった。神父さんのイエス様についての話も日常的に聞かされていた。そんな中で西洋的な考えを当然と思い、クラシック音楽にも抵抗がなかった。九州の田舎に住みながら、西洋文化を受容していった。

 そのようなことが明治以降、日本中で起こったのではなかったか。そのわりには、そのような歴史について、あまり語られていないような気がする。私自身の人生を振り返るためにも、ちょっと真剣にこのことを調べてみたい。そもそも、日本中に一体いくつのキリスト教の幼稚園があるのか。幼稚園と教会はどのような関係になっているのか。それも含めて少し調べてみたい。

 昨日は、『パルジファル』、今日は『マタイ』。二日連続で宗教的な音楽を聞いて、ついキリスト教に思いを馳せてしまったようだ。

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東京・春・音楽祭『パルジファル』に大満足

 4月2日、東京文化会館でウルフ・シルマー指揮、NHK交響楽団の『パルジファル』のコンサート形式を聴いた。音楽を邪魔する演出がないだけいいといえるかもしれない。素晴らしい演奏だった。

 やはり5人の外国人歌手が圧倒的。

 そのなかでも、凄まじい声の力と歌の演技力を感じたのが、クンドリを歌うミヒャエラ・シュスターだった。はじめてこの名前を知った。きれいな容姿なのだが、かなり不気味さが漂う。ホラー映画で最初に殺されるホテル客といった雰囲気を漂わせている。クンドリを歌うために、意識的にそのような表情にしていたのかもしれないが。歌については、「こんなすごい歌手が、これまでどこに隠れていたんだ!!」と思うほど、ものすごい。第2幕は、息を呑むほどの迫力だった。これからあちこちで引っ張りだこになるだろう。

 そのほか、やはりアムフォルタスを歌ったフランツ・グルントヘーバーが激しい苦悩をじっくりと聞かせてくれた。ぐいぐいと引き込まれる。さすがというほかない。パルジファル役のブルクハルト・フリッツはDVDになっている『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の主役が良かったので、期待していたが、まさしく期待通り。きれいで強い声だった。ただ、終盤、ちょっと疲れが出ているように思えた。グルネマンツのペーター・ローズも実に安定したいい歌。歌が自在で自然。クリングゾルのシム・インスンは、韓国人の若い歌手。まだ声にまかせて歌っている感じで、少々粗さを感じるが、これまたこれからが楽しみなすごい歌手。

 日本人の歌手については、外国勢との差を感じざるを得なかった。ただ、魔法の乙女たちを歌った6人は、きれいで音程もしっかりして、声がぴったりと合っていた。見事。

 合唱や日本人歌手たちの重唱の部分で、ほんの数回だが、アンサンブルの崩れるところがあった。やや練習不足なのかもしれない。

 クンドリを歌うシュスターとともに特筆すべきは、指揮のウルフ・シルマー。新国立での『エレクトラ』もすばらしかったが、それ以上に力量発揮と言うべきか。コンサート形式なので、楽器がしっかり聞こえる。昔ながらの重厚なワーグナーではなく、透明で崇高な音楽作り。第二幕は官能性にもどす黒さにも不足がない。N響はさすが。実にバランスがいい。一つ一つの楽器もしっかりと鳴っている。それをシルマーが見事にコントロールしている。4時間を超す難曲をだれることなく聞かせてくれた。

 長大な『パルジファル』のコンサート形式なので、退屈するのではないかと心配していたが、まったくそんなことはなかった。動きが少なく、ストーリー的に単調なこの楽劇は、むしろコンサート形式に向いているのかもしれない。そういえば、10年以上前、ベルリン・シュターツ・オパーの来日公演ですばらしい『パルジファル』が演奏されたのもコンサート形式だった(体調不良のエルミングに代わって、急遽代役が立った上演だった。その代役が今や大活躍のスティー・アンセンだったという)。

 前日とレーピンと打って変わって、感動を抱いたまま帰宅した。

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ワディム・レーピンって、こんな煮え切らない演奏をする人だっけ?

「こんなはずはない」とずっと思っていた。だが、最後まで少しもおもしろいと思わず、少しも音楽に感動しなかった。一言でいって、つまらなかった!

 4月1日のワディム・レーピンのヴァイオリン・リサイタルのことだ。ピアノはイタマール・ゴラン。ミュンヘンフィル、ティーレマンとの共演を聴きたかったが、所用でいけなかった。その代わりと言うこともないが、このリサイタルには期待していたのだが。私は素人だから、具体的にはどこに原因があるのか、よくわからない。もしかしたら、私の体調のせいなのかもしれない。

 まず、ヤナーチェクのソナタがおもしろくなかった。ヤナーチェク特有の身もだえするような鋭い音も、全身が浮き立つような喜びの表現もない。淡々と音楽が進んでいく。確かに実に美しい音。だが、それだけではないか。そうなると、ヤナーチェクの音楽は西洋音楽の整合性からかけ離れたところにあるので、むしろ唐突さばかりを感じてしまう。

 私は日本ヤナーチェク友の会の会員なので、この曲にはおおいに期待していた。が、私の中では何も起こらなかった。心をこめて美しく演奏しても、この曲の凄みは伝わらない。

 ブラームスの3番のソナタも同じだった。ブラームス特有の鬱屈した思いがない。ロマンティックな感情も感じられない。第四楽章では、抑圧してきた魂が爆発してほしいのだが、そこも盛り上がらない。かといって、ブラームスをどのように捉えているのかも、よくわからない。これは、ずっと前から私の大好きな曲なのだが、音楽に乗ることができなかった。

 休憩後に、リヒャルト・シュトラウスのソナタ。私は40年以上前からのシュトラウスファンなので、これにも期待していた。だが、若きシュトラウスの初々しくも、派手でダイナミックな感情が伝わらない。単に技巧を聞かせるだけのものになっている。しかも、せっかくの技巧なのに、あまり栄えない。この曲の場合、もう少しメリハリをつけて、技巧をひけらかしてほしいのだが、それをしない。真面目で衒いなしに音楽に向っているといえるかもしれないが、もう少し魂を揺り動かす暴力的なものがほしい。

 アンコールのバルトークの「ルーマニア民俗舞曲」もまた、民族の香りを感じない。技巧だけの音楽に感じた。チャイコフスキーの「感傷的なワルツ」も、それほど感傷が伝わらない。

 かなり大きな拍手が起こっていたが、結局、私はどの曲にも反応しなかった。レーピンって、このようなか細くて煮え切らない演奏をする人だったっけ? 昔、リサイタルで何かを聴いた記憶があるが、そのときは、こんなことはなかった。ただし、昨日からずっと思い出そうとしていながら、どこで何を聞いたのか、まったく思い出せないところをみると、そのときも強く感動したわけではなかっただろう。

 ともかく、ヤナーチェク、ブラームス3番、シュトラウスという見事な選曲でありながら、私には、レーピンのヴァイオリンに音楽の魔物を感じることはできなかった。欲求不満のまま、家に帰った。

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