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ファビオ・ルイジ・五嶋龍・ウィーン響

 5月29日、サントリーホールで、ファビオ・ルイジ指揮、ウィーン響の演奏で、まずはブラームスの「大学祝典序曲」を聴いた。これはよかった。ルイジの音は、明るくて開放的なこの曲に合っている。そのあと、五嶋龍のヴァイオリン独奏が加わって、ブラームスのヴァイオリン協奏曲。

「大学祝典序曲」が悪くなかったので、ちょっと期待したが、やはり、先日の印象は変わらなかった。見事な音、切れがよく、しかも潤いのある音楽の流れ、気品あふれる知的な構成。そうでありながら、私の心にはまったく響かない。五嶋龍のヴァイオリンも、もちろん達者だが、ブラームス特有の憂いや暗さや重みがない。少なくとも、私の好きなブラームスではなかった。

 五嶋龍については、2,3年前、ショスタコヴィッチ(?)のコンチェルトを聴いた覚えがある。あっけらかんとして開放的で怖いものしらずの音楽だった。それはそれで小気味よかった。ところが、ブラームスになると、かなり内面的に演奏しようと意識しているのか、五嶋龍のいいところがあまり出ていないように思った。

 アンコールに、ヴァイオリン独奏で「パガニーニアーナ」。これは、言葉をなくすものすごさ! 五嶋龍はこうでなくっちゃ! 流麗、華麗、しかも音がきれいで、細身で研ぎ澄まされている。鋭く切り込んでくる。爽快にして、わくわくする。よくもこのような難曲をまったく破綻なく、しかも音楽的にも見事に弾きこなせるものだ。まさに神業。堪能した。

 後半はベートーヴェンの交響曲第7番。ベートーヴェンになったとたんに、それまでブラームスではまったく反応しなかった私の心が反応し始めた。

 ウィーン響の音の美しさ。ルイジは、実に見事に音を組み立て、勢いをつけ、ダイナミックに、しかも知的に進めていく。あくまでも知的で、狂気に至らないのが物足りないが、しかし、実に見事な造形。第二楽章の繊細で細かい音作り、スケルツォの音のダイナミズム。最終楽章はただひたすらリズムと音の洪水。見事だった。

 アンコールは、先日とまったく同じ。曲順が異なるだけ。「ウィーン気質」と「電光と雷鳴」「ピチカート・ポルカ」。これは実に手馴れたもので、素晴らしい。

 終演後、途中、仕事の打ち合わせをし、その後、急いで国立の音楽茶屋「奏」に向かい、シティフィルのフルーティスト海冶陽一氏とヴァイオリニスト吉田巧氏によるデュオのライブを聞いた。前半はフォスターなどの親しみやすい曲。後半は、ドビュッシー、バッハ、モーツァルトを中心に。最後は「ピノキオ」の音楽。この「ピノキオ」の音楽については、曲の素性がよくわからなかった。

 ウィーン響の名人技を聞いた後だったが、これはこれで実によい演奏会だった。10数人の友人たちとともに、飲み食いしながら、おしゃべりしながら楽しむ音楽というのはいいものだ。

 ともあれ、充実した一日だった。

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『ローエングリン』の新しいDVDは素晴らしい!

747  昨日、大学の仕事やゼミ生との懇親会で疲れきったので、今日は、原稿を書くのはほどほどにして、DVDを見て、できるだけ休息を心がけた。ケント・ナガノ指揮、ミュンヘン州立劇場の『ローエングリン』のDVDを見た。

 ケント・ナガノの『ローエングリン』の映像といえば、レーンホフ演出、クラウス・フロリアン・フォークトのタイトルロールのバーデンバーデンのものがあったが、今回見たDVDは、音楽的にはそれ以上のレベルだと思う。これまでの映像の中で最も感動的かも。

 ローエングリンを歌うヨナス・カウフマンが圧倒的! 強靭で輝きのある美声。久しぶりにテノールの声に酔った。先日、テレビで放送された『カルメン』のドン・ホセも良かったが、それよりも格段に感動的。エルザを歌うアニア・ハルテロスも素晴らしい。強い声で堂々と歌って、カウフマンに引けをとらない。

 悪漢二人組もすごい迫力。オルトルートのミヒャエラ・シュスターは、先日のウルフ・シルマー指揮、N響の『パルジファル』でクンドリを歌った歌手だが、そのときの迫力を思い出した。不気味でふてぶてしい演技も見事。テルラムントを歌うヴォルフガング・コッホも狂気じみた迫力がある。正義の二人と悪漢二人がともにがっぷり四つに組んでいる。国王役のクリストフ・フィシェッサーも実に立派。

 そして、何といってもケント・ナガノの指揮が、鋭利でありながら官能的で、ドラマティック。申し分ないと思った。ぐいぐいとドラマを引っ張っていく。まったく飽きるところがなかった。

 ただ演出(リチャード・ジョーンズ)については、納得できないところだらけ。第一幕では民衆が家を建てており、それがローエングリンとエルザの家になり、ローエングリンはエルザとの別れを覚悟した後、その家に放火する。二人の幸せと不幸をいうだけのためにこんな設定をしているとすれば、あまりにつまらない。ほかに何か象徴的な意味でもあるのか。そして、なぜ、ローエングリンはジーンズにTシャツ姿なのか。レーンホフの演出もよくわからなかったが、これはそれ以上に意味不明。

 ただ、歌手たちがそれほど意味不明の行動をたくさんしないので、それほど気が散らない点ではありがたかった。

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拙著発売、そして、サイSAIに乗り出して安全運転になったこと!

 このところ、音楽のことばかりこのブログに書いてきた。週末以降もいくつかコンサートに行くので、また音楽について書くことになりそう。ここでちょっと、それ以外のことを書く。

 最近、拙著が2冊出た。

Photo  一冊は、SANNO仕事術シリーズとして出された『文章表現の技術』(産業能率大学出版部)。これまでの私の文章術のエッセンスを1冊にまとめた。ビジネスマンが文章の練習をして、不自由なく論理的文章を書き、楽しい文章も書けるようにし、ビジネス文書を上手にこなすことを目的にしている。役に立つ本になっていると思う。

51eyfgky0nl  もう一冊は、『子どもの頭がよくなる読書の習慣』(PHP文庫)だ。これは、以前、すばる舎から出ていた『本を読む子は必ず伸びる』を文庫化したものだ。タイトルが代わったので、間違って二重買いをなさらないように、くれぐれもご注意いただきたい。ただし、内容的に、古くなった内容を少し改めさせていただいた。

 小学生が本を読むのがいかに大事か、親はどのように本を読むように仕向ければよいのか、どのような本を読ませるべきかをまとめている。

456977783x  ところで、『自慢がうまい人ほど成功する』(PHP新書)があまり売れているという話を聞かない。自分でいうのはナンだが、これは、単に役に立つだけでなく、読んでおもしろいはずだ。日常に見られるうんざりするような自慢を集めているので、周囲の自慢好きの人を思い出して笑って読めるはずだ。しかも、下手な自慢をどうすれば感じよく聞いてもらえる上手な自慢にできるか、実は上手に自慢してこそ、うまくアピールできることを皮肉な視点から書いたものだ。お読みいただけると、うれしいのだが・・・

 ところで、近況をひとつ。

 トヨタのハイブリット車・サイに乗り始めて、一月ほどになる。学校の行き帰りに使うくらいで、まだ高速にも乗る機会がない。が、気づいたことがある。安全運転になるのだ!

 せっかくハイブリット車を買ったのだからと思って、ディスプレイ面に「今、どの動力が用いられているか」の表示を出して、ガソリンを使わないように気をつけ始めた。

 アクセルに足を添えるだけだと、タイヤの回転などから充電されていた電力が使用される。アクセルを踏み込むとガソリンが使用されることになる。アクセルを離すと、タイヤから蓄電池に充電される。だから、できるだけアクセルを踏み込まないように気をつける。そうすれば、限りなくガソリンを使わずに走れるわけだ。

 気をつけるようになってから、かなりガソリンを節約できるようになった。今のところ、リッターあたり14・7キロほど走っているようだ。気をつけて走るようになってまだ2週間ほどだから、まだまだ伸ばせそう。前の車の2倍ほど燃費がいいということになる。これまでどれほど無駄にアクセルを踏み込み、ガソリンの無駄遣いをしていたかを痛感する。

 後ろから車が来て、ドライバーをイライラさせているような場合を除いて、たとえ制限時速以下になっても電力だけで走るように努める。ガソリンを吹かしても、どうせ信号で待つのだから、到着時間に差はまったくない。おかげでずいぶんと安全運転をしている。

 あとしばらく、いかに燃費のよい走りをマスターするかを楽しもうと思う。

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『影のない女』についての新発見!

 新国立劇場で『影のない女』を見て、ついさっき帰ってきた。全体的にはかなり満足。かなり感動した! 忘れないうちに感想を書きとめておく。

 歌手については、全体的に文句なし。皇后のエミリー・マギーと乳母のジェーン・ヘンシェル、バラクの妻のステファニー・フリーデが素晴らしい。バラクのラルフ・ルーカスもかなりよかった。ただ皇帝のミヒャエル・バーバはかなり音程が苦しかった。高音の連続なので、かなり難しいのだとは思うが。鷹の大隅智佳子、バラクの兄弟の青戸知など、脇役に至るまで日本の最強メンバーを使った豪華キャスト。歌手に関してはまさしく世界レベルだと思う。

 指揮のエーリッヒ・ヴェヒターについては、第一幕はどう処理してよいかわからないようで曖昧な部分が多かったが、だんだんと明確になってきた。第二幕、第三幕は私はかなり感動した。とはいえ、やはり歌手たちに比べて見劣りしてしまう。新国立劇場はもっと世界レベルの指揮者を呼ぶべきではなかろうか。そのほうが全体のレベルも上がると思うのだが。東京交響楽団については、しっかり演奏していた。後半、かなり鳴らして、十分に堪能した。

 ドニ・クリエフの演出については、かなりありきたり。音楽をぶち壊されるのも困るが、もう少し独自の解釈があってよいと思った。ただ、視覚的にはきれいだった。

 私は大のシュトラウス・ファンなので、このオペラにはかなり以前から馴染んでいる。昔はベームのレコードで聴いていた。あまりにわかりにくいストーリーなので、ホフマンスタールの小説も読んでみた。その後、実演も二度ほどみた覚えがある。DVDも2種類持っている。それでも、ずっと「影がないということと、子どもが生まれないということにどんな関係があるのか」と不思議に思っていた。このオペラでは、影をなくすことと子どもを産むのをあきらめることが同一視されているが、そのあたりがどうも納得できなかった。

 今日、見ているうちに、気づいた。

 ひとつには、影も子供も「分身」であるということだろう。もちろん、影は身体の分身(double)であり、子供もいわば親の分身なのだから。だが、それ以上に、影も子供も、実は世界との関連性を象徴するのではないのか。

 影というのは、空間世界との関係性の象徴だろう。影をなくすということは、空間世界との関係を失うということ、つまり空間世界から孤立するということなのだ。空間上に位置し、明かりの中に存在するからには影がつきまとう。影は空間内に存在した証だといえる。

 また、子どもを産むということは、歴史世界との関係を失うということ、つまり歴史から孤立するということなのだ。子どもを作ることによって、人間は歴史上に存在した意義を確認することができる。

 要するに、影を失うことも、子どもを産まないことも、世界との関係を失うことで共通する。

 つまり、このオペラは、世界との関係を失った男女が、それを回復する物語なのだ。そして、その回復こそが「愛」にほかならないわけだ。

 実は、このオペラ、私はかなり好きなのだが、私のシュトラウス観の中でどう捉えてよいかわからず、これまであまり触れなかった。ちょっと糸口が見えてきた気がする。そのうち、もう少し真正面から考えてみたい。「カイコバート」にどのような意味があるのか、もう少し考えてみる必要がありそう。

 ところで、来年、ゲルギエフ指揮のマリインスキー・オペラが来日して『影のない女』を上演するという。今から楽しみだ。

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ファビオ・ルイジ+ウィーン響のブラームスは私好みではなかった!

 5月25日、サントリーホールで、ファビオ・ルイジ指揮、ウィーン交響楽団の演奏で、ブラームスの交響曲2番と1番を聴いて、先ほど帰ってきた。見事な演奏だった。しかし、私の心にはまったく届かなかった。

 柔らかくてしなやかな音。雰囲気豊かで香気が漂う。構成も実にしっかりしている。一つ一つの音も美しい。鳴らすところは鳴らし、歌わすところは歌わす。ルイジの指揮する姿の美しさ! 端正で礼儀正しく、しなやか。まさに育ちのいい音楽。

 一昨年だったか、ドレスデンのゼンパー・オパーを引き連れてルイジが『ばらの騎士』を上演した。素晴らしい演奏だった。シュターツカペレ・ドレスデンと録音したリヒャルト・シュトラウスのCDも何枚か出ているが、それらも素晴らしい。今日も、そのときと同じような音楽の作りだ。

 だが、これは私が考えているブラームスの音ではない。明るすぎる。空疎すぎる。むせび泣くような悲しみ、激しい懊悩、ぐっとそれに耐えて何とか生きようとする力、秘めた絶望感。そんなものが感じられない。低音が弱い。腰高のブラームス。しかも、かなり速い。都会的でもある。

 前半に2番の交響曲だった。たまたまこの曲の解釈がこのようなものなのかもしれないと思っていた。が、後半の1番も同じ調子だった。

 1番は、ベートーヴェンの影響を受けて、まさしく「苦悩を経て歓喜へ」を描いたものだったはず。ところが、ルイジの演奏から、そのような「物語」が聞き取れない。はじめの三つの楽章も少しも「苦悩」ではない。だから、第四楽章も険しい山を乗り越えて平原にたどり着いたような開放感がない。

 私はブラームスが大好きで、いたるところでビンビンと感動するはずなのだが、まったく感動の波がやってこなかった。私の好きなのは、重厚で田舎臭く、北ドイツ的でもっと内向的に鬱積したブラームスだ。

 もちろん、これはこれで名演奏だと思う。大喝采だった。しかし、私の琴線にまったく触れなかった。かすりもしなかった。立派な音楽が遠くを通り過ぎていった。

 アンコールはウィーンの楽団らしくヨハン・シュトラウス二世。「ピチカート・ポルカ」と「電光と雷鳴」「ウィーン気質」。これは素晴らしかった。音楽の作りは違うが、雰囲気は往年のクレメンス・クラウスを思わせる。スピーディでありながら気品にあふれ、実にしなやかで美しい。アンコールのほうに私は感動した。

 教訓。ルイジのブラームスは私好みではない。これから、ルイジのブラームスは避けて聞くことにしよう。

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新日フィル+アルミンクの『ペレアスとメリザンド』

 クリスティアン・アルミンク指揮、新日本フィルによるドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』(コンサート・オペラ形式)を見てきた(5月23日すみだトリフォニーホール)。かなりレベルの高い演奏だった。

 メリザンドの藤森実穂子がいい。清楚で芯の強い歌を聞かせてくれた。彼女の歌うフランスオペラを初めて聴いたが、イタリア風やドイツ風にがなりたてるのでなく、じっくりと歌い、堂に入っていた。ちょっと、「あれ?」と思う発音があったが、もしかしたら、私の耳のほうがおかしいのかもしれない。

 アルケル役のクリストフ・フェルとペレアスのジル・ラゴンもなかなか。ただ、ゴローを歌ったモルテン・フランク・ラルセンは、かなり有名な歌手らしいが、大声でがなりたてる感じで、私としては、このオペラにふさわしくないと思った。ジュヌヴィエーヴのデルフィーヌ・エダンもちょっと地味すぎた。とはいえ、歌手陣のレベルはかなり高い。

 アルミンクも良かった。前半は抑え気味だったが、後半、だんだんと盛り上げて、好感が持てた。新日フィルにはもう少し精妙さがほしいと思ったが、ウィーンフィルでもベルリンフィルでもないのだから、これくらいやってくれれば文句はない。

 映像を使った演出は田尾下哲による。それにしても実に良くできた映像。舞台になっている森や城が描き出される。CGなのだろうか。森は、長谷川等伯の墨絵による松林を思わせる。経済的な制約がある中、これは見事だと思った。

 ただ、そうでありながら、感動するまでには至らなかった。

 これは私の大好きなオペラだ。フランスオペラの中では最も好きで、機会があれば必ず見たり聞いたりしてきた。だからというわけではないが、思い入れがあり、自分なりの思いを強く持っている。

 もちろん、私の勝手な思い込みと言えば思い込みだが、私はこれを絶対にドラマティックに演奏してはいけないと思っている。何よりも静謐を重視し、淡々と歌うべきだと思っている。そうしてこそ、だんだんと抑制の中のドラマが盛り上がっていく。抑えようとしても抑えられない嫉妬心、抑えられない恋心、それは抑えるだけ抑えてこそ、浮かび上がってくるのだと思う。何しろ、これは、ワーグナーの大袈裟な音楽に対抗してドビュッシーが書いた音楽だ。大袈裟な音を使わずに、ワーグナー以上の内面のドラマを作り出そういう試みなのではないか。

 そして、謎だらけのストーリー。「一体、メリザンドの正体は?」「アルケルの王国とはどんな国?」「乞食にどんな意味がある?」「水や泉や海に、どんな象徴的な意味がある?」「指輪をなぜ、メリザンドはもてあそぶ?」「意味ありげな会話の意味は?」など、次々の疑問が浮かぶが、そのすべてが解決されないまま宙ぶらりんになる。そこに神秘な空間が立ち上ってくるのが、メーテルランクの戯曲だ。ドビュッシーの音楽も、そうした不思議な魅力をかきたてる。それがこのオペラの魅力だと私は思っている。

 そのような『ペレアスとメリザンド』特有の魅力が、今日の上演では立ち現れなかった。いつか、私の理想とする上演を見たいものだ。

 とはいえ、繰り返すが、とても良い演奏だった。十分満足して家に帰った。

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クリストフ・ポールの素晴らしい「水車小屋の娘」!

 素晴らしい歌曲を聴いた。クリストフ・ポールのバリトンによるシューベルト「美しき水車小屋の娘」だ。5月21日、武蔵野市民文化会館のコンサート。カタヤラというテノール歌手のつもりでチケットを買ったが、演奏家が変更になった。

 大学でゼミを終えた後、車を飛ばしてぎりぎりに着いた。このバリトン歌手、知らない名前だったので、きっと若くてこれからの人が出てくると思っていた。だが、第一声を聞いて、びっくり。これからの人どころか、最高のバリトンだった。

 柔らかくて美しい声。音程もしっかりしており、歌いまわしも素晴らしい。フィッシャー=ディスカウのように知的すぎない。ヘルマン・プライのように若々しすぎない。その中間と言うべきか。だが、十分に知的で、時にドラマティック、時に凄惨、時に甘美。そうでありながら、不自然ではない。実は私はフィッシャー=ディスカウが時に鼻につく。が、この歌手はそんなところがない。知的でありながら、それが表に出ない。私がこれまで聞いたリート歌手の中で最高レベル! 私はこれまでにホッター、プライ、ヘフリガー、シュライヤー、ベーア、クヴァストホフなどを聞いてきている(フィッシャー=ディスカウはずっと好きでなかったので聞いていない)が、それに匹敵する素晴らしさ!

 注目株どころか、すでに最高のレベルの歌手。こんな歌手にこれまで注目しなかったのを恥じる。きっと、このホールのプロデューサーである栗原一浩さんが呼んだのだと思うが、改めて脱帽。このホールは、無名でありながら世界最高レベルの歌手をよく聞かせてくれる。本当に感動した。武蔵野文化会館で聴いた素晴らしい歌曲としては、カミラ・ニールンド以来。今や、ニールンドは押しも押されもしない世界の大スターだが、このポールもそうなるだろう。いや、それ以上かも。

 ところで、聞いているうち、この歌曲集、実は私が初めて聴いたクラシックの演奏会の曲目だったことを思い出した。小学校5年生か6年生の時だった。1960年ごろだ。大分市に暮らしていた私は、クラシック音楽に目覚め、大分市のデパートであるトキハで行われたコンサートに母にねだって連れて行ってもらった。当時、デパートのホールでときどきこのようなコンサートが行われていた。

 何しろ、50年前の地方都市のデパートで行われた「しょぼい」コンサートなので、小学生の耳にも、それほどうまくないのがわかるような演奏だった。が、それでも、初めて聞くナマのバリトンの声に興奮したものだ。

 もうひとつ思い出した。かつて私は毎週、故・種村季宏先生と顔を合わせて、よく話をしていた。初めのころは、その人が種村先生だとは知らず、えらく物知りで話のおもしろいおじさんだと思っていた。「あれは種村さんだ」と教えてくれる人がいて驚いた。その種村先生が、「かつて、ヨーロッパでは水車小屋の主は被差別者だった」と話しておられた。私が、シューベルトの歌曲集もそのような背景の歌なのかと尋ねると、「その通りだ」と教えてくれた。種村先生の話はいつもおもしろかったが、雑談なので、いい加減な話も多かった。シューベルトのこの歌曲集を聴くごとに種村先生の話を思い出し、「今度、しっかりテクストを読んで、種村先生が言っていたのが本当かどうか確かめてみよう」と思うのだが、そのままになっている。

 ともあれ、素晴らしいコンサートだった。これが、何と1350円だった!! 信じられない!

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今、札幌にいる

 16日の夕方に札幌入り。私が塾長を勤める白藍塾は立命館慶祥中学・高校の小論文指導のサポートをしているので、そのための仕事だ。慶祥中学・高校の川崎校長先生をはじめとする先生方の計らいでとても気持ちよく仕事ができた。

 昨日は昼間研修をして、夜は懇親会。新札幌駅近くの「魚鮮(うおせん)」で魚料理を食べた。ここに来るのは3度目か4度目だが、じつにうまい。付け出しで出てきた数の子がまず絶品。私は実は数の子はそれほど好きではないのだが、これは見事。そのほか、生ウニもサメカレイの刺身もかに味噌シューマイも、そして最後に食べた冷麺も絶品。隠れた名店だと思った。これまでもおいしかったが、昨晩はとりわけうまさに感動した。

 到着した16日も昨日も、夜は気温が13度くらいで少し肌寒い。が、昼間は暑いほど。現地の人によると、やっとここ数日、暖かくなったとのこと。時期に恵まれた。

「時期はすぎたが、円山公園で桜が見ごろ」という話を聞いたので、ちょっと早起きして、朝の8時ころからタクシーを飛ばして、円山公園まで行ってきた。運転手さんに聞いてみたら、「もうあまり見られないのではないか」ということだったが、せっかく腹を決めたのだからと思っていったのだった。が、予想以上に桜はまばら。大きな公園の中で、桜の花が咲いているのを見かけたのは数本だけだった。

 が、それはともかく、円山公園自体はとてもよかった。私の生まれた九州や、今住んでいる関東と雰囲気が違う。私は子どものころから動植物が大の苦手なので詳しいことはわからないが、きっと木の種類が異なるのだろう。やはりヨーロッパの公園の雰囲気。どこがどう違うのか分析的に考えたいと思ったが、私にその力はなさそう。

 もう少しゆっくりしたかったが、飛行機の時間が迫っているので、あわててホテルにもどってきた。今、合間の時間を見つけて、これを書いている。これから荷物を整理して、すぐに新千歳空港に向かう。

 先日来の「マーラー嫌い」「音楽は思想だ」問題で数人の方から寄せられたコメントは読ませていただいた。とても力づけられ、考えさせられるコメントに感謝。「ブログにこんなことを書いて、集中砲火を浴びて、まずかったかな。こんな議論を始めなければよかったな」という思いがないでもなかったが、コメントを読ませていただいて、「これでいいのだ!」(「天才バカボン」は、リアルタイムで大好きな漫画であり、アニメだった!)と思った。

 おかげで考えを整理できた。自分の考えの弱点もわかった。

 東京に戻って、疲れが取れたら、返事を書きたいと思っている。

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続・「音楽は思想である」(いくつかの「疑問」に答えて)

「音楽は思想である」と書いたことに関して、何人もの方から疑問が寄せられた。私はむしろ、「そんなことは当たり前だ。何を今さら、そんなわかりきったことを言っているのか」という反応が寄せられるものと思っていたら、反論や疑問が寄せられたので、むしろ驚いたほどだった。

 が、考えてみると、今回、多くの人が疑問を抱いていることは、「音楽は思想である」という事柄にかかわることと言うよりも、むしろ私の考え方、私の生き方にからむことなのかもしれない。

 まず一般論から。

 コメントをくださった「とおりすがり」さんへの返事でも書いたとおり、私は、「自分の価値観をしっかり持て。同時に、自分とは別の価値観も許容せよ」ということを自分に言い聞かせている。これは、いわば私の信条だ。が、実はこれがかなり難しい。自分の価値観をしっかり持つことは、他の価値観を否定することにつながりやすい。他人の価値観を許容すると、自分の価値観があやふやになる。

 そこで、私は次のような態度を取るように心がけている。

 私は、自分の価値観をしっかりと持ち、それを何よりもはっきりと発信する。ほかの考えの人に考慮しすぎると、自分の考えを持てない。だから、まずはしっかりとした自分の考えを持つ。価値観をはっきりと持つということは、ほかの価値観を退けるということであり、いいかえれば、私には受け入れがたい価値観を敵に回すということにほかならない。だから、私には敵が存在することになる。私が何かを発信するということは、すなわち敵を作ることにつながる。ひとつの価値観を発信したからには、敵に攻撃されることを覚悟しなければならない。みんなから好かれようなどと期待してはいけない。一部の支持は受けても、多くの人から非難されるだろう。発信するとはそういうことだ。

 ただし、私の価値観が絶対ではなく、あくまでも私の考えでしかないことは自覚しておかなければならない。それゆえ、別の価値観の人が現れたら、真摯に耳を傾けなければならない。その人が本気で語ろうとしているのであれば、その人を頭から軽蔑したり、耳を貸さなかったりするべきではない。その人の立場を真摯に理解しようとしなければならない。それでも自分のほうが正しいと思ったら、相手を説得しようとするべきだが、それができなかったら、別の価値観が存在するということをしっかりと認識する必要がある。

 だが、だからといっても、別の考えの人に妥協する必要はまったくない。「私」という存在は、私の確信、私の価値観から成っている。もちろん、究極においては、すべての確信は思い込みでしかなく、すべての真実は虚構でしかない。しかし、そのように考えてしまうと、不毛な相対主義に陥ってしまい、自分という存在が成立しなくなる。自分の間違いに気づくまでは、あくまでも、自分の価値観は守る必要がある。

 私はずっとこういう覚悟で生きてきた。本を書く場合も、このような態度を貫いているつもりだ。私は実はかなり温厚で内向的で、自分に自信が持てない気の弱い人間なのだが、このように強く生きることを自分に言い聞かせている。

 以上述べたことを、このブログで問題になっていることにからめて具体的に言うと、こういうことだ。

 私は「音楽は思想である」と考えている。「音楽のすべてが好きだ」という人を信用しない。「音楽は癒しなどではない」「音楽を癒しとして聞くべきではない」「音楽は論理であって、感覚だけで聞くものではない」と確信している。そして、いうまでもなく、「音楽はすべて好きだ」と主張する人や「音楽は癒しであるべきだ」と語る人を批判する。もちろん個人攻撃はしないし、そのように語る人を軽蔑することはない。その考えに一理あることも認める場合もある。だが、それらの考えを否定する。

 そうした私の態度に対して、数人の方から投げかけられた疑問は、一言でいえば、「自分の考えこそが絶対と思って、ほかの音楽観は認めないのか」ということに尽きるだろう。

 それに対して正確に答えるとすれば、「私は自分の音楽観が普遍的に正しいと思っているわけではない。ほかの考えを持つ人がいることは十分に承知している。それに一理あることも承知している。しかし、その考えが間違っていると、私は主義として信じている。だから、私以外の考えを認めない」ということになる。

 もし、私の考えがわかりにくかったら、ほかの宗教に対しても融和的でありながらも、敬虔なキリスト教徒を思い浮かべていただきたい。きっとそのような人は世界中にたくさんおられるだろう。

 そのようなキリスト教徒は「イエス・キリストの考えが絶対である。イエスは復活した」という確信を持っているだろう。では、「自分の考えこそが絶対と思って、ほかの宗教は認めないのか。ほかの宗教を信じる人を劣った人、間違った人と思うのか」と問われたら、まったく私と同じように「私は自分の宗教が普遍的に正しいと思っているわけではない。ほかの考えをする人がいることは承知している。それに一理あることも承知している。しかし、ほかの宗教は間違っていると、私は主義として信じている。だから、ほかの宗教を私は認めない」答えるのではないか。

 もちろん、私の考えは宗教ではない。私はキリスト教とでもない。しかし、このアナロジーによって私の言いたいことはわかってもらえるのではないだろうか。そして、このことが、何人かの方の疑問に対する答えになると思うのだが、どうだろう。

 私が「音楽は思想である」と書いたとき、実は、私は反論を期待していた。「いや、音楽は思想ではない。○○なのだ」という、その人なりの音楽観を寄せてほしいと思っていた。私はそれを是非聞きたかった。私には、「すべての音楽が好きだ」と言うタイプの人が、音楽を、あるいは作曲家をどう捉えているのか知りたい。

 私が想像するに、もしかして、その人たちは、作曲家を学ぶべき聖なる存在と思っているのだろうか。不可侵の存在であり、学ぶべきことがたくさんあり、すべての人が尊敬するべき存在なのだろうか。あるいは、自己を投影するための母親のような対象と捉えているのだろうか。そのあたりのことが、実はよくわからない。

 もちろん、「音楽とは・・・である」と一義的に規定するのは乱暴な話だと思う。だが、私が「音楽とは思想である」と規定したのだから、それに対立する概念は出せるはずだ。少なくとも、人それぞれの考えを示すことはできるだろう。そのように物事を明確に捉えることが大事だと私は思う。

 私はそのようにして、価値観の異なる人間同士が自分の考えを明確にすることによって、新しい視点が見つかり、様々な領域をいっそう豊かなものにすると考えている。

 なお、一つ注意しておいていただきたいのは、私は「マーラーは最低の作曲家だ」「マーラーの曲は価値がない」などと一言も言っていないことだ。私はあくまでも、私個人の価値観に基づいて、「嫌いだ」という主観的な言葉を用いている。私は神の立場から判断しているのではなく、あくまでも私の価値観に基づいて書いている。

 ところで、Yさんから、「音楽の感動を多くの人に伝えたいと思っているのなら、特定の作曲家を嫌いなどと言うべきではない」というようなコメントをもらった。これについて、ひとこと言及しておきたい。

 私は、音楽の感動を多くの人に伝えたいと考えて、クラシック音楽の本を書き、それなりの活動をしている。だが、これまで書いたことでわかっていただける通り、私は作曲家や演奏家を嫌うのは、当然のことだと考えている。もっと言えば、クラシック音楽を楽しむひとつの方法として、作曲家を嫌うことがあるのだといってもいいだろう。

 私の感覚では、私にとってのマーラーは、相撲で言えば朝青龍のようなものだ。多くのファンは朝青龍をヒール扱いして相撲を楽しんでいる。それと同じで、私はマーラーを嫌って、音楽を楽しんでいる。多くの人に好きな作曲家と嫌いな作曲家がいるだろう。それを含めて、音楽の楽しみなのだ。

 好きな作曲家ばかりだったら、音楽の世界はどんなに退屈だろう! 大好きな作曲家がいて大嫌いな作曲家がいる。大好きな演奏家も大嫌いな演奏家もいる。大好きな作曲家の大好きな曲を、大嫌いな演奏家が演奏して、台無しにしてしまうこともある。そのときには激しい怒りを覚える。ところが、その演奏を素晴らしいと考えているクラシックファンがいる。そこで議論する。そして、だんだんと音楽に対する理解を深めていく。あるいは、大嫌いな曲を大好きな演奏家が演奏して、その作曲家の新しい側面を見せてくれて、突然、その作曲家が好きになることもある。

 これが私の音楽の楽しみ方だ。そして、それを多くの人に伝えたいと思っている。もちろん、いうまでもないことだが、これは私の価値観に基づいての断定であって、これに反対する人がいるだろうことは理解しているつもりだ。

 では、「音楽は思想である」と言うときの、「音楽の思想の形」はどのようなものか。それについて、「アリス」さんに質問された。

 私が「思想」と読んでいるのは、「プルーストの思想」「漱石の思想」などと言うときの「思想」であって、「主義(イズム)」ではない。「世界観の表明」と言い換えてもいい。

 私としては、拙著『笑えるクラシック』(幻冬舎新書)と『ヴァーグナー 西洋近代の黄昏』(春秋社)でバッハ、ベートーヴェン、ワーグナー、ラヴェル、R・シュトラウスの思想について書いたつもりでいる。とりわけ後者は、そのデキはともかく、私自身はかなり気合を入れて書いた。

 ここに、『笑えるクラシック』の一部を引用する。私のシュトラウス観とマーラー観を少しまとめた部分だ。ごく短くまとめているので、この部分だけでは誤解を受けるかもしれないが、私が「思想」と言うときのイメージをわかっていただけると思う。

 なお、シュトラウスやマーラーについては、『ヴァーグナー 西洋近代の黄昏』にも、もう少し詳しく書いている。

1964年に生まれ、ニーチェによって神の死が宣言された時代に生きたシュトラウスは、ワーグナーの後の世代に属する。もはや崇高なものを信じることができない。神は存在しない。無前提の統一も存在しない。精神的な崇高さもすでに信じられない。ベートーヴェンのような偉大な世界を音楽によって現出することはできない。

先ほど、シュトラウスがさまざまな情景の描写を行ったことを説明した。なぜ、シュトラウスは標題音楽を作曲するのか。なぜ、細かい描写をするのか。ほかに何を描いてよいのかわからないからだ。崇高なものを描けなくなったからには、ものの描写をしたり、音のテクニックで聴くものを酔わせたりするしかない。時には、その技術の冴えを観客に見せ付けて、驚かせるしかない。

よく、シュトラウスは同時代のマーラーと比較される。深刻に世界を捉え、音楽の中に自分の悲観的な世界観を表現したマーラーに対して、快楽的なシュトラウスが語られる。日本では、圧倒的にマーラーのほうがレベルの高い音楽を残したとみなされている。

だが、私のようなシュトラウス好きからすると、マーラーは時代遅れの観念にこだわっている人間に見える。くよくよと自分にこだわって悩んでいる。すでにあるはずのない形而上学的な音楽世界に憧れ、それを再現させようとしている。だが、すでにベートーヴェン的なものがあるはずがないので卑小なものにしかならない。卑小さを隠すために、規模を大きくするしかない。私はマーラーの音楽を聴くとそのように感じてしまう。

それよりは、深刻に悩むのでなく、シュトラウスのように、すでに神のいない音楽を楽しく奏でるほうがよいのではないかと、私は思うのだ。

私が言いたいのは、シュトラウスはまさしく「音楽のドン・キホーテ」だということだ。

シュトラウスはドン・キホーテのように、モーツァルトやベートーヴェンやワーグナーなどの過去の英雄をまね、壮大な音楽を作る。すでに失われた神聖なる音楽の時代を真似ようとする。騎士のいない時代にドン・キホーテが騎士を演じたと同じように、神聖なる形而上学の世界がなくなった時代に、シュトラウスはかつての音楽の英雄たちを演じる。

だが、シュトラウスがドン・キホーテと異なる点がある。それは、シュトラウスが自分の姿に気づいていることだ。自分が時代遅れだと知っている。ドン・キホーテでしかないことを知っている。それは悲劇だといえるだろう。だが、同時に、だからこそ余計にこっけいなのだ。

『英雄の生涯』は、ベートーヴェンの英雄やワーグナーの英雄物語のような過去の偉大なる音楽のパロディだといっていいだろう。そして、私がシュトラウスをこよなく愛するのは、そうしたことをおそらく完璧に意識した上で、大真面目に自分を主人公としたパロディを演じていることだ。

それゆえ、私は『英雄の生涯』を聞くとき、何よりも英雄のドン・キホーテぶりを楽しむべきなのだと考えている。現代ではちっぽけな存在でしかなく、英雄にはなりきれないのに、自分を英雄と見立てて必死に現実に抗い、過去の偉大な英雄たちに匹敵しようと悪戦苦闘する様を笑ってみるべきなのだ。

 もちろん、ドン・キホーテを読みながら、いつまでも笑っているわけには行かない。読み勧めるうちに、ドン・キホーテの中に、単に滑稽なだけではない崇高さを覚える。『英雄の生涯』も同じだ。この滑稽さの中に、そしてドン・キホーテ的な大言壮語の中に、一つの悲劇を見るべきなのだ。だが、そこで泣いてしまってはいけないと、私は思う。あくまでも笑ってあげるべきなのだ。笑いながら、心の底で感動する。それがこの音楽の正しい聴き方だと、私は思う。

 ところで、私は原則としてコメントをいただいた方には、できるだけ真面目にお答えしたいと考えている。それが、ブログの意味だと思っているからだ。が、初めから喧嘩腰のものについては、不毛な応酬になりかねないので、返事をせずに削除させていただくつもりでいる。昨晩、残念ながら、一件、そのようなコメントが届いたので、削除させていただいたことを報告しておく。

 念のために付け加えておくが、以前にも書いたとおり、私は「音楽評論家」ではない。「クラシック音楽好き」「クラシック音楽愛好者」、せいぜい「クラシック音楽通」にすぎない。また、私がブログで書いているのは、「演奏会評」ではない。一愛好者による極めて主観的な「演奏会の感想」だ。評論家として演奏会評を書いているつもりはまったくないので、誤解しないでいただきたい。

 なお、この記事について疑問点、反論などたくさんあるかもと思う。ただ、コメントをいただいても、すぐにはお返事できないことを前もってお断りしておく。明日から3日間、北海道にいくことになっている。パソコンは持ち歩くが、ブログを書く余裕があるかどうかわからない。

 私に賛成してくださる必要はないが、ぜひとも私の考え方はわかっていただきたいと思っている。

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音楽は思想である!

 私のブログを続けて読んでくれている方はご存知かと思うが、先ごろ、私の書いた「マーラー嫌い」について、二人の方から批判的なコメントが寄せられた。それらのコメントを読んでいて、それらの方と私の根本的な違いに気がついた。

 お二人の方は、まったく同じような表現を使っておられた。「Mahlerファン」さんは、「作曲家の悪口を公然と書くことは、その作曲家を好きな人達にとっては気分の良いものではありません」と書き、「とおりすがり」さんは、「ショパンの好きな人がショパンの悪口を聞かされたら・・・気を悪くするだけじゃないでしょうか」と書いている。好きな作曲家を仲の良い友人や家族のように考えておられるのだろうか。

 実は、このお二人の言葉は私にはとても意外なものだ。私はこれまで、おそらく一度もそんな感覚を抱いたことがない。音楽に対しても、私が専門としてきた文学に対しても。

 私の好きな作曲家を嫌いだという人がいたら、私はむしろうれしくなる。気を悪くするどころか、なぜそう考えるのか、どのような価値観でそのような感想を抱くのかに興味を持つ。そして、きっと私の好きな作曲家の素晴らしさをその人にわかってもらおうとするだろう。それができなかったらできなかったで、両者の考え方の違いを認識するだろう。気を悪くすることもないし、相手を非難することももちろんない。むしろ、この考え方の違いをとても面白く楽しいことだと思う。

 どこが違うのだろうかと考えてみた。思い当たったのは、私が音楽を思想と考えていることだ。私を批判したお二人は、きっとそう考えていないのだろう。

 私にとって音楽は間違いなく思想だ。ちょっと比喩的に言えば、音楽も政治思想や哲学と同じような思想だ。人によってはマルクス主義を許せないと思っている人もいるだろう。愛国主義を眼の仇にしている人もいるだろう。すべての思想を好む人はいないに違いない。なぜなら、それぞれの思想が対立し、別の価値観を語っているからだ。

 私は音楽を聴く時、その思想を聞き取ろうとする。宗教観、自己意識、世界に対する意識などを、メロディや和声、あるいはその人の人生や、その人の作ったオペラの筋書きなどから読み取る。それが音楽を聴くことだと思っている。拙著『ヴァーグナー 西洋近代の黄昏』など、まさしくワーグナーの音楽を思想の表明として捉えている。それがこの本の長所でもあり、読みようによっては最大の短所だろう。

 もちろん、その思想は言葉にはならない。音楽でしか表現できないものだ。もっと生理的で曖昧なものだ。だが、何らかの世界に対するメッセージには違いない。そうであれば、音楽においても、聞き手はすべての作曲家を好きになることはありえない。私はたとえば愛国主義や儒教が嫌いだが、それとまったく同じような感覚でマーラーの思想が嫌いなのだ(言うまでもないが、私はマーラーを右翼だといっているわけでも、愛国主義だといっているわけでもない。念のため!)。音楽は思想なのだから、当然、受け入れられない思想がある。許しがたい思想もある。

 

 私はマーラーとリヒャルト・シュトラウスは対極をなす人間だと捉えている。私の感覚では、マーラーに対して、「マーラーさん、私はあなたとリヒャルト・シュトラウスが大好きです」と言うほど失礼なことはないと思うのだ。それよりも、「マーラーさん、私はあなたが嫌いです。私の好きなのはシュトラウスです」と言うほうが、まだしもマーラーは納得するのではないか。マーラーは、二人とも好きだという人間を信用しないだろう。シュトラウス派の私としては、マーラーに対しては「嫌いです」とはっきりいうのが礼儀だと思うのだ。(もちろん、実際にマーラーに会ったら、そんなことはきっといえないと思うが)。

 そして、私にしてみれば、「好きな作曲家の悪口を言われると気を悪くする」という考えのほうに息苦しさを感じる。それは自分の愛するものへの自由な批判を封じ、他者にも自分と同じ感覚を強要しているに等しい。もっと言えば、他者も同じ思想を持つように強要しているに等しい。また、他人の意見には同意しなければいけないというような抑圧も感じる。それよりは、自由に批判し、別の価値観を認め合うほうがずっと自由で楽しいではないか。

 私が「すべての音楽が好きだという人は信用しない。その人は真剣に音楽を聴いていない」と書いたのは、そのような考えに基づいている。

 私は音楽の才能がまったくない。音感もなければ、リズム感もない。音楽を聴いていても、音楽学的なことは少しもわからない。楽器も演奏できず、楽譜もろくに読めない。そんな私は、少年期からずっと音楽を思想として聴いてきたような気がする。

 もしかしたら、私のような聴き方をするほうが少数派なのかもしれない。が、私は、やはり音楽は思想だと信じる。少なくとも、私は、作曲家の思想に触れて、それまでの自分の世界観を揺り動かされることによって最も感動するのだから。

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私はマーラーが大嫌いだ!!

 先日の私の記事に対して、「Mahlerファン」という方からコメントをいただいた。ラ・フォル・ジュルネのスレだけでなく、マーラーのスレでも私のことが書かれていることを知らせてくれた。そして、私が2度にわたってマーラーを批判したことを、やんわりとだが非難しておられる。コメントへの返事を差し上げようかと思ったが、長くなるので、ここに書かせてもらうことにする。

 2ちゃんねるのマーラーのスレでも私が取り上げられているとは知らなかった! きっとボロクソにけなされていると思うので、あえて読むつもりはない。先日は、まさか自分が出ているとは思わずに、ラ・フォル・ジュルネのスレを読んで、はなはだしい誤解に基づいて私が批判されているのを知って、このブログで自己弁護した。また、2ちゃんねるでラ・フォル・ジュルネの客やスタッフが不当に非難されていたので、スタッフも客もむしろ賞賛に値するのだと書いたのだった。だが、私が批判されているとわかっているものをあえて読むほど、私は暇をもてあましていないし、心も広くない。

 ただ、私のマーラー嫌いが多くの人に認識されたことはとても名誉なことで、むしろうれしく思う。

 私はマーラーが嫌いであることを機会あるごとに公言してきた。2度どころではない。拙著でも雑誌などでもしばしば書いてきた、ラジオなどに出演したときも、そしてある種のネタとして講演などでも語ったことがあるので、公言したのは100回を越すと思う。どこか出してくれる出版社があれば、『マーラー大嫌い!』というタイトルの本を出したいと常々思っているほどだ。もちろん、私だけでは説得力のあることは書けないので、マーラー嫌いを結集して、多方面の人々の知恵を拝借して本を出したいと思っている。私以上のマーラー嫌いがきっとたくさんいると思う。

 私がマーラー嫌いである理由はいくつかあるが、それについてはここでは書かない。『笑えるクラシック』(幻冬舎)や『ヴァーグナー 西洋近代の黄昏』(春秋社)を読んでいただければ、それがわかっていただけると思うし、好き嫌いは別として、私のマーラー観は、それほど間違っていないと思っている。

 私にとって、マーラー嫌いというのは、自民党の反小泉議員の小泉嫌いと同じで、私自身のアイデンティティのようなものだ。40年以上前の少年時代からマーラーが嫌いだということで、私の音楽観を組み立ててきた。

 だから、マーラー嫌いを撤回するつもりはないし、これからも機会あるごとに、マーラーの悪口を言っていこうと思っている。

 そもそも、なにかの音楽をとても好きになるということは、なにかの音楽を大嫌いになることだと、私は思う。そして、何かの音楽を好きだと語るのであれば、何かの音楽が大嫌いであることもまた、語るべきだと思っている。

 私は「音楽なら何でも好き」という人を信用しない。その人は真剣に音楽を聴いていないと思う。同時に、嫌いな音楽があってもそれを公言しない人も信用しない。それは自分の思想に対して責任を持たない人だ。

 芸術を好きになったり嫌いになったりするということは、芸術家の思想に触れることによって自分の思想を形成するということだ。ある芸術を愛したり、嫌ったりすることによって、自分の思想を作り出していく。そうであれば、ブログを書き、たまたま本などで発信の機会が与えられている私が、芸術に触発されて自分の思想を形成していることを発信するのは当然のことだろう。そして、その中にある芸術家が嫌いであることを書くのも当然のことだろう。

 ただ、私に理解できないのは、マーラー好きの人がマーラー嫌いの私を非難することだ。マーラーの音楽について議論するのはいい。平行線をたどるだろうが、それはそれで楽しい。音楽について語り合うのは、何であれ楽しいことだ。

 私が信頼を寄せている音楽仲間の中に、私の大好きなベートーヴェンやワーグナーを何よりも嫌っている人がいる。私の大嫌いなマーラーを何よりも愛している人もいる。だが、同じ音楽愛好者として仲良く話をし、意気投合するところでは統合し、意見が合わないところに関しては、時に議論し、時に無視しあっている。それでいいではないか。好みが合わないことを理由にして喧嘩をすることもないし、人間的に嫌い合うこともない。別の価値観を持ちながらも、ともに音楽を愛する者どうしとして信頼しあうのが、音楽を愛する者どうしの態度ではないのか。

 大作曲家は人類共有の財産だ。マーラーの悪口をいうのは、今生きている誰かの悪口を言うことと同じではない。今生きている誰かを罵倒すれば、その人に対して失礼だし、そもそも名誉毀損ということにもなるだろう。だが、歴史上の人物を非難するのは、それを享受する立場にある後世の人間にとって当然の権利だ。いや、むしろ、その人物を嫌いなのであれば、自分の思想を形成するためにも、それを嫌いだと公言するべきだ。

 私は、ベートーヴェンとワーグナーとリヒャルト・シュトラウスが大好きだが、それらの作曲家がどれほどけなされても、まったく気を悪くしない。その人の音楽観を尊重する。むしろ、その作曲家の持っている私の気づかない点に気づいていることに感服する。私は、大好きな作曲家を天上の人として崇拝するのでなく、その多様な面を認識し、理解したいと思っている。それを嫌う人による指摘にも耳にするべき点はたくさんある。それを知った上で、なお好きな作曲家を愛し、その理由を明確にしていくことが、私にとって音楽を聴くことだと思っている。

 ちょっと長く書きすぎた。このくらいにする。「Mahlerファン」さんからコメントをいただいたおかげで考えをまとめることができた。その点に関しては感謝する。

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祭(ラ・フォル・ジュルネ)の後

 6日から仕事を再開しているが、まだ、ラ・フォル・ジュルネから日常に復帰できていない。今日も、もっと聴きたいと思って、メンデルスゾーンとシューマンのCDをあわせて40枚買ってきた! 

 本当に素晴らしい音楽祭だった。私はこれまで、ナントのラ・フォル・ジュルネはもちろん、バイロイト音楽祭、ザルツブルグ音楽祭などにも行ったが、それらと比べても日本の客のマナーは見事。スタッフもきわめて機能的。

 それに日本でのふだんの演奏会よりも、むしろ、演奏の途中でチラシをめくる音や飴玉を開く音に悩まされることが少なかった。身動きしたり声を出したりする子どもはいたが、子どもとともに楽しむというのが、ラ・フォル・ジュルネの理念であり、うるさいことは言わずにおおらかに自分なりに音楽を最高に楽しむというのが、この祭りのあり方なのだ。

 ラ・フォル・ジュルネは、まさしく世界に誇る音楽祭になったと、正直に思う。

 ところで、驚いたことに、私がラ・フォル・ジュルネの客をばかにしているという書き込みが、2ちゃんねるにあった。このブログをお読みになった人は、誰一人誤解するはずがないと思う。もちろん、まったく、そんなことはない。ここでも書いたとおり、客もスタッフも実に素晴らしいと私は思っている。念のため、ここに確認しておく。

1012  そんな余韻をまだ残したまま、かつての「ベ平連」の小中陽太郎さんに誘われて、今日は、中目黒教会に行って、すずきじゅんいち監督の記録映画「東洋宮武が覗いた時代」を見てきた。

 東洋宮武というのは、第二次大戦中、アメリカ国内の日系人が収容所に強制的に収容される中、自らマンダナ収容所に入れられながら、はじめは自作のカメラで隠し撮りをし、その後、公認されて、所内の様子を写真に記録した写真家。

 収容所の様々の状況が映画の中で語られた。屈辱的な眼にあう日系人。しかし、中には、それまでの苦しい生活から逃れられて幸せに思う人もいる。子どもたちはけっこう生活を楽しんでいる。大人たちも、必死で日常生活を楽しもうとする。日系人に同情して手を貸してくれるアメリカ人も居る。悲惨なだけではないところがいい。それだけにいっそう、リアリティがある。多面性がある。

 アメリカから合衆国に忠誠を誓って米兵として徴兵に応じるかどうかを迫られ、日本人の中で対立が深まる様子などが、淡々と語られる。そして、そこでも、東洋宮武の写した写真が次々と映し出されていく。

 素晴らしい映画だった。

 日本文化の中で育ちながらも、そこから切り離されて別の国の中で生きることになった人々。国民国家という制度に翻弄された人々といってもいいだろう。国際関係のひずみを最も過酷に反映されるのがいつの時代も移民たちなのだ。その移民たちの姿を、悲惨さだけでなく、様々の面から描いて、まさしく、あれこれと考えさせられる映画だった。

 ナチスによるユダヤ人収容所とアメリカの日系人収容所との違い、アメリカ国内の西洋人と東洋人の扱いの違いなども、考えさせられた。

 収容所内では、経済生活、文化生活はどうなっていたのか。収容所ないでお金は使えたのか、朝鮮系の人々、アメリカ人とのハーフ(映画の中でそれらしい人々がかなり映し出された)はどのような扱いだったのか、若者の恋愛はどうだったのかなど、気になった。

 映画の後、関係者の話を聞き、その後、エビスガーデンプレイスで懇親会。同じように収容所にいた経験のあるペルー日本人移民の坪居壽美子さんもおられた。女優の榊原るみさん(すずき監督の奥様)、「棄民たちの戦場」を書かれた橋本明さん、東南アジアの人々の生活を描く映画監督である瀬川正仁さんとも話しをした。

 

315bnpb57vl  ところで、昨日、ジャン・リュック・ゴダールの『気狂いピエロ』のDVDを久しぶりに見た。ゴダールは、学生時代、パゾリーニとともに大好きな映画監督だった。しばらく前、これも久しぶりに『勝手にしやがれ』を見て感動した。当時、『気狂いピエロ』はもっと好きな映画だった。

 ところが、あまりおもしろいと思わなかった。確かに、色使いはすばらしい。美しいところ、気の効いたところはたくさんある。が、全体的に、わくわくしない。

 当時、あれほどわくわくしてみたのに、それがない。斬新な手法が今では当たり前になってしまったのか。それとも、私のほうが変わってしまったのか。

 あと少し、ゴダールの映画を見てみようと思う。

03260361  なお、拙著「1分で話をまとめる技術」(青春文庫)が発売になる。短く話をすることの大事さ、短くても知的に話す方法を解説している。

 実は私は話が短い。スピーチを頼まれても、ほかの人より短い。結婚式のスピーチなど、私の経歴の紹介よりも、私のスピーチのほうが短いことさえある。その方法をわかりやすく書いている。コンビにでもおかれるそうなので、是非手に取っていただきたい。

456977783x  同時に、先ごろ発売された『自慢がうまい人ほど成功する』(PHP新書)は、実は自信作だ。世の中にあふれる下手な自慢を示し、それをどうすれば上手な自慢になるか、以下に自慢をすることがこれからの社会で大事なのかを説明した。これも呼んでいただければ、きっと楽しむことができ、また役にも立つと思う。これについてもぜひとも手に取っていただきたい。

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2010年LFJ私のベストコンサート そしてLFJについて考えたいくつかのこと

●私のベストコンサート

 今年は合計26のコンサートを聴いた(前のコンサートが延びたために最初の曲の冒頭部分を聴けないコンサートもあったが、原則として、すべて聴いたコンサートだけを数に加えている)。

 何度も書いているとおり、私はピアノ曲をあまり聞かず、とりわけショパンは苦手なので、ショパンのピアノ曲は避けて聴いたことになる。だから、いうまでもないことだが、これは私のきわめて主観的な、ある意味でゆがんだベストではあるが、私の聴いたベストコンサートをあげてみる。

★ベスト5 (意識したわけではないが、ショパンは含まれない)

1 メンデルスゾーン オラトリオ「パウロ」 ミシェル・コルボ指揮、ローザンヌ声楽アンサンブルなど

 本当に素晴らしかった。この曲の真価を多くの人が再認識したと思う。

2 ヘンデル・アリア集 マリア・ケオハネ(ソプラノ)、リチェルカール・コンソート フィリップ・ピエルロ指揮 

 リチェルカール・コンソートも最高だし、ケオハネのソプラノも申し分なし。ヘンデルの世界に感動した。

3 ポロネーズを集めたコンサート リチェルカール・コンソート 

 実に楽しいコンサートだった。リチェルカール・コンソートは素晴らしい! ついでに書くと、ペルゴレージの「スターバト・マーテル」のCDは、この団体のものが圧倒的に素晴らしい。これを聞くと、アバドの有名なものもそれほどと思えなくなる。

4 メンデルスゾーン・弦楽四重奏曲第6番、シューマン・ピアノ五重奏曲 ライプツィヒ弦楽四重奏団  ベルトラン・シャマユ(ピアノ)

 この二つの曲がベートーヴェンにも匹敵する名曲だということを教えてくれた。最初から最後まで緊密で豊か。

5 メンデルスゾーン「フィンガルの洞窟」 ヴァイオリン協奏曲 イェウン・チェ(ヴァイオリン)、ウラル・フィル、リス指揮 

 この女性ヴァイオリニストの求心力に感服。メンデルスゾーンの世界に酔った。

★そのほか特に素晴らしかったコンサート

・小菅優(ピアノ)、メンデルスゾーン「無言歌集」より6曲。「前奏曲とフーガ ホ短調」「厳格な変奏曲 ニ短調」

 美しい音、豊かな音楽性。

・ルイス・フェルナンド・ペレス(ピアノ)、パリ室内管弦楽団、ウィルソン・ヘルマント指揮 メンデルスゾーン「フィンガルの洞窟」ピアノ協奏曲第2番

 オケもピアノも指揮もとてもよかった。メンデルスゾーンの素晴らしさを堪能できた。

・トリオ・ショーソンによるショパン「ワルツ変イ長調 作品42 序奏と華麗なるポロネーズ。ファイト・ヘルテンシュタインのヴィオラが加わって、シューマンのピアノ四重奏曲

 シューマンが見事。私はときどきシューマンが嫌いになるが、これを聴いてまた好きになった。

・趙静(チェロ) クレール・デゼール(ピアノ) ショパン「ノクターン 27-1」 チェロ・ソナタ 序奏と華麗なるポロネーズ ポッパー「妖精の踊り」

 趙静の女の情念の世界!

・ピーター・ウィスペルウェイ(チェロ) パリ室内管弦楽団 ジョセフ・スウェンセン指揮 シューマン「序曲、スケルツォとフィナーレ」 チェロ協奏曲

 ウィスペルウェイの力量!

・飯田みち代(ソプラノ) 山口佳代(ピアノ) ショパン「17のポーランドの歌より」、シューマン「女の愛と生涯」

 飯田のアクの強い表現力。

・梁美沙(ヴァイオリン)、松本望(ピアノ) シューマン ヴァイオリンソナタ第1番・2番

 二人の女性のダイナミックに流動する音楽。

・ショパンの葬送 コルボ指揮  モーツァルト「レクイエム」など

 コルボの描くモツレクの世界!

●ショパンについて考えたこと

 私はずっとショパンが苦手だった。私の恩師である故・米川良夫先生はショパンを好んでおられたが、いつか言われた「ショパンの激情的な部分は女のヒステリーのようなもの、ショパンのロマンティックなところは女の感傷のようなもの。だけど、僕はとても好きなんだ」という言葉を思い出す。が、私はまさにそのせいで、ショパンが苦手だった。

 よく、「ショパンを女性的という人がいるが、そんなことはない。男性的な音楽なんだ」という人がいる。が、その人の演奏したショパンを聴いても、大きく印象は変わらない。バッハやベートーヴェンやブラームスに比べたら、かなりなよなよしていて薄っぺらだ。そう思ってきた。

 とりわけ、ピアノの高音部のちゃらちゃらしたところが我慢できない。少女マンガに出てくるかわいい少女の大きな眼の中のお星様を思い浮かべてしまう。しかも、構成が甘く、飾りの部分があまりに多い。

 が、今回、ショパンをけっこう聴いた。ショパンを避けて聴いたつもりだが、さすがにショパンが特集された音楽祭で26のコンサートを聴くと、いやでもショパンが耳に入る。とりわけ、飯田みち代さんの歌う少年期に作曲したポーランド語の歌を聴いて、思い当たった。

 それが正しいかどうかはわからないが、私なりにショパン像がはっきりしてきた。ショパンが好きになったとまではいえないが、多少わかったような気がした。

 以下は私の想像。

 ショパンは田舎者だった! ポーランドからパリに出て、かなりの田舎者意識を持っていた。が、才能のおかげで都会の寵児になった。都会的センスも身につけた。サロンの女性に好まれる音楽が求められるので、注文に応じてそんな音楽もたくさん作った。が、根っこのところでは、相変わらず多感で内省的で地味なタイプの人間だった。そして、いかにも田舎臭いポーランドの大地に深い愛着を持っていた。抽象的な祖国愛というよりも、まさしく農地としての大地、そこで生きる農民を知っていたし、それを愛していた。

 そう考えると、ポゴレリッチの演奏した協奏曲も、それほどショパンからかけ離れたわけではなかったかもしれない。

 ポゴレリッチは、外面的な部分をピアニシモで弾いていた。こうすると、外面的なきらびやかさでなく、内面に秘める疼きのように聞こえる。そして左手の低音部を強調すると、ショパンの心の奥にある煩悶や苦悩や絶望が表に現れる。注文に応じて都会の子女の喜びそうな外面的な曲をたくさん作りながらも、実はポゴレリッチが表に出したような思いを、ショパンは強く持っていたのかもしれない。ポゴレリッチは、ショパンのこのような面を鋭く読み取って聞かせてくれたのかもしれない。

 単なる想像だが、こう考えると、ショパンを身近に感じるのは間違いない。

 これからはショパンを特に避けるのではなく、以上書いたようなことを考えながら聴いてみようと思った。

●2ちゃんねるの書き込みについて

 ラ・フォル・ジュルネについて、どんな意見が寄せられているかと思って、2ちゃんねるをのぞいてみて、びっくり。私が名指しでけなされていた!!

 人様にけなされるようなことをしているとは、夢にも思っていなかった。

 必要もないような気がするし、2チャンネルに書き込みをしている人が私のブログを読むとは思えないが、気分が悪いので、自己満足のためにここで弁明しておく。2チャンネルに直接書き込みをしようかとも思ったが、それをやると応酬に際限がなくなりそうなので、この場で自分の意見を語るだけにする。

 たまたま私の本が250万部のベストセラーになっているころにラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンが始まったこともあって、私はいちおうラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンの第1回目からの「アンバサダー」ということになっている。とりわけ、第一回目には、この音楽祭を日本に定着させるためにかなり働いたつもりでいる。

 今年は苦手なショパンが中心ということで、あまり活動しなかったが、それでもラジオに2回出演して、ラ・フォル・ジュルネの紹介をした。昨年までは、もっとあちこちに出向いて、様々な紹介をしていた。少々のギャラが出ることもあるが、まったく出ないこともある。そのためもあって、ラ・フォル・ジュルネのチケットは特別に入手させていただいている。そして、そのおかげで一般の人よりもたくさんのコンサートをきくことができている。とてもありがたいと思っているし、苦労して入手されている方には申し訳ない。だが、権力やコネを使って無理やりチケットを入手しているわけではない。相応の働きをして、できるだけの貢献はしているつもりだ。

 また、確かに最終日のあるコンサートの後、私は一般の人が立ち入ることのできないドアを開けた。が、それは前もって出演者(しばらく前からの友人でもある!)と話をして、コンサートの後に訪れる約束をしていたからだ。無断で押しかけたわけではない。それに、あそこは通路であって、楽屋ではない。女性が着替えているかもしれない楽屋を無断で空けるようなことは、もちろん私は絶対にしない。そして、係りの人の了解を得て、出演者にお会いした。非難されるいわれはないように思うのだが、どうだろう。

 そんな私が、好きな音楽を聴くためにコンサートに足を運んでいるのに、人様に不愉快に思われては悲しい。それに私は居眠りしたこともなく、無礼なことをしたこともないはずだ。音楽を何よりも愛する人間の一人として、静かにおとなしく、熱心に音楽に耳を傾けているつもりでいる。足を組むなどちょっと行儀は悪いかもしれないが、周囲には迷惑はかけていない自信はある。音楽を好む人間同士として、一緒に楽しもうという気持ちになってもらえないものだろうか。

 私自身のことはともかく、2チャンネルの書き込みを読んで、ラ・フォル・ジュルネについての様々の意見を知った。人様の意見についてとやかく言う気はないが、多少内情を知る私としては、ラ・フォル・ジュルネのスタッフはみんなが必死に努力して、やっとあれだけのことを成し遂げていることにむしろ感動している。

 チケットがすべて売れても、かかったお金の半分も回収できない中、多くの人が資金集めに奔走し、名演奏家たちが信じられないような安いギャラで演奏し、スタッフは数日前から徹夜に近い状況で働き、ボランティアは必死に客を案内している。

 みんな限られた資金と制限の中で、素晴らしい音楽を多くの人の提供しようとしている。誰一人暴利をむさぼっている人や組織はいないと断言できる。もちろん、素人集団であったり、慣れないことをしているために不手際があったりする。客の中にも、クラシックを聞くマナーを知らない人もいる。だが、これだけのことをやれているのは、すごいことだと思う。

 ところで、来年のラ・フォル・ジュルネは、マーラーが中心と言うことで、マーラー嫌いの私としては困ったことだと思っていたが、シュトラウスもブルックナーもブラームスもたくさん演奏されるという。日本ではブラームスの室内楽がたくさん演奏されるらしい。ブラームスの室内楽はすべてが傑作だ。クラリネット五重奏曲やピアノ五重奏曲、ヴァイオリン・ソナタ、ホルン三重奏曲、弦楽六重奏曲など、大好きな曲が山のようにある。交響曲も協奏曲も圧倒的名曲もたくさんある。今年はショパン中心で少し寂しかったが、来年は、マーラーを除けば、最高のプログラムになりそう。

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ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン最終日感想

 5月4日のラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンの最終日には、8つのコンサートを聴いた。そのまま家に帰り、先ほど目を覚ました。さすがに疲れた。が、こうしてハシゴすると、いろいろなことを考える。ショパンについてもかなりわかった気がした(明日にでも、少し考えをまとめてみよう)。

 ともあれ、昨日(5月4日)のコンサートについての簡単な感想をまとめる。

・竹澤恭子(ヴァイオリン)、江口玲(ピアノ)、メンデルスゾーン ヴァイオリンソナタ ヘ長調、ショパン「ノクターン」など

 ヴァイオリンソナタはすばらしかった。弓一杯を使ったダイナミックな動き。伸びやかで豊か。溌剌として、息もつかせない迫力。ピアノもよかった。ただ、ショパンの小曲は編曲が余りに情緒的。ちょっと辟易した。

 このあと、ショパンのピアノ曲全曲演奏の部屋で数曲聞いた。ジャン・フレデリック・ヌーブルジェのノクターン 作品37-2、アブデル・ラーマン・エル=バシャの「3つの新しい練習曲」、イド・バル=シャイのソナタ第2番「葬送」など。やはり、どうも私はショパンのピアノ曲は苦手だ。(なお、このコンサートは半分ほどしか聴いていないので、私の「制覇」したコンサートの数には含まない)

・イェウン・チェ(ヴァイオリン)、ウラル・フィル、リス指揮 メンデルスゾーン「フィンガルの洞窟」 ヴァイオリン協奏曲

 韓国の若い女性ヴァイオリニスト。見事な演奏だった。芯が強く、凛とした演奏。ぐいぐいと観客をひきつける。リスのダイナミックな指揮とまったく異質なのだが、それが妙に補い合って面白かった。メンデルスゾーンの音楽は甘ったるくなく、厳しくて多様な感情を含んだものであることをしっかりと感じさせる。私はこのヴァイオリニスト、大いに気に入った。

・ピーター・ウィスペルウェイ(チェロ) パリ室内管弦楽団 ジョセフ・スウェンセン指揮 シューマン「序曲、スケルツォとフィナーレ」 チェロ協奏曲

 「序曲、スケルツォとフィナーレ」はシューマンの駄作だと思う。同じメロディを強迫観念的に繰り返し、発展がない。よくないときのシューマンの特徴だ。が、ウェスペルウェイが加わっての協奏曲はすばらしい。ウェスペルウェイは実に自由闊達。力がこもり、時には力を抜き、すばらしい。この曲はチェリストには不評だとよく聞く。弾きにくく、難しいわりに演奏効果がないと言う。が、今回の演奏にはそんな感じは微塵もなかった。

 指揮のスウェンセンは日系アメリカ人らしい。身振りが大きいが、「序曲、スケルツォとフィナーレ」の曲が駄作のせいか、よい印象は持たなかった。

・飯田みち代(ソプラノ) 守屋亜樹(ピアノ) ショパン「17のポーランドの歌より」、シューマン「女の愛と生涯」

 飯田さんよりも声のきれいな人はたくさんいる。声の処理をきれいにできる人もたくさんいる。が、飯田さんほど人を感動させる人は少ない。マリア・カラスにも似た歌の演技力とでもいうか。

 ショパンの歌曲を初めて聴いたが、素朴なメロディで、しかも歌詞は田園を歌うものばかり・ショパンがポーランドの田舎者であること、彼の母語がもごもごいう感じ(東北訛りに似た感じがする)のポーランド語であることを再認識。なんだか、ショパンの正体がわかった気がした。シューマンでは涙が出てきた。ピアノ伴奏も実にきれいで的確。若いピアニストなのに、しっかりと飯田さんをサポートしている。

・「ルネ・マルタンのク・ド・クール(ハート直撃コンサート)」と題されたコンサート。 オルガ・ベレチャツコ(ソプラノ)、レジス・パスキエ(ヴァイオリン)、ボリス・ベレゾフスキー(ピアノ)、アダム・ラルーム(ピアノ)、ヤン・ルヴィノワ(チェロ)

 名人たちが次々と出てきて、名演奏を披露してくれた。パスキエは昔から有名な名人だが、ベレゾフスキーはまだ若く、それ以外は「駆け出し」。それなのに、みんな素晴らしい。ソプラノのベレチャツコはあまりにすごい。美しい声、完璧なテクニック。すごいメンバー。20歳そこそこのアダム・ラルームと10代のヤン・ルヴィノワにも驚いた。

・梁美沙(ヴァイオリン)、松本望(ピアノ) シューマン ヴァイオリンソナタ第1番・2番

 力感溢れる演奏。小柄な女性二人なのに、その力の強さと動きに圧倒された。客をぐいぐいと弾きつけ、シューマンの世界に引き込んでいく。ただ、ちょっと落ち着きがない。ずっと動き続け、流動し続ける。もっとじっくりと音楽を聴きたいと思わないでもないが、これはこれで素晴らしい。ただ、2番のソナタ、実は私はやや苦手な曲だ。第1楽章と第4楽章、シューマンの良くない癖(精神が病んだ時の癖なのか?)で、同じことをしつこく繰り返す。全力演奏なだけに、シューマンのおかしな部分に私は付き合いきれない気分になった。

・ラルーム(ピアノ)、ルヴィノワ(チェロ) ショパン 序奏と華麗なるポロネーズ、チェロ・ソナタ 

 「ルネ・マルタンのク・ド・クール」でショパンのチェロ・ソナタの第3楽章を聴かせてくれて、とても良かったので期待した。が、期待はずれだった。若い二人に任せてデュオをさせてはいけない。一人一人の力量は素晴らしい。が、こんな20歳前後の若い二人が一緒に演奏すると、頑張りあい、必死に力を出し合う形になる。音楽性がなくなり、ただただ頑張っているだけ。ベテランと共演して、もう少し音楽性を高めてから、二人のデュオに取り組んでほしい。

・ショパンの葬送 ミュラー=ペリエ(ソプラノ)、ボナール(アルト)、アインホルン(テノール)、ハーヴェイ(バリトン) モーツァルト「レクイエム」など

 鈴木優人のオルガンでオルガンに編曲された前奏曲を2曲と、オーケストラ編曲のショパンのピアノ・ソナタより「葬送行進曲」。そして、最後に、「パウロ」と同じメンバーによるモーツァルトの「レクイエム」

 聞いている私の精神状態(さすがに疲れた!)や席(5000人以上入るAホールの最も右の列)に原因があるのかもしれないが、前半、ちょっと雑な印象を受けた。コルボにしては珍しく、オケと合唱がかみ合わず、びしっと決まらない。柔らかくてしっかりとした音が聞こえてこない。が、後半よくなった。独唱陣も充実、最終的にはレクイエムの世界を堪能させてくれた。

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ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンの二日目

今日(5月3日)も昨日に続いて9つのコンサートを聴いた。今日は実に充実していた。すばらしい演奏がいくつもあった。寝る前に感想をまとめておく。

・ピエール・アンタイ(チェンバロ) バッハ 平均律クラヴィーア より前奏曲とフーガ

 私はバッハは好きだが、実は鍵盤楽器のソロはあまり聴かない。だから、あまりなじみのない曲。とはいえ、ぐっと来るところが多々あった。アンタイは速い音の積み重ねによって魂の高揚を鋭く作り出す。

・竹澤恭子(ヴァイオリン) シンフォニア・ヴァルソヴィア ヤツェク・カスプシク指揮  モーツァルト ヴァイオリン協奏曲第5番

小菅優がメンデルスゾーンのピアノ協奏曲第1番を演奏する予定だったが、急病ということで、急遽、曲目変更。ロッシーニの序曲(あれ、何だっけ? 12時間以上たったので忘れてしまった。確か「アルジェのイタリア人」だったと思う)と、小曽根真さんのショパンのアレンジ。竹澤さんのヴァイオリンはとてもいいのだが、初めて聴くカデンツァ。あまりに現代音楽的で、モーツァルト若書きの溌剌とした曲の感興が壊れる。このカデンツァにどのような意味があるのだろう。疑問。指揮のカスプシクもしっかりとオケをコントロールしている。なかなかいい指揮者。それにしても、小菅さんの病気が何でもなければいいが。

・マリア・ケオハネ(ソプラノ)、リチェルカール・コンソート フィリップ・ピエルロ指揮 ヘンデルのアリア集。「ファラモンド」や「メサイア」「ジュリオ・チェザーレ」「リナルド」などより。

本当にすばらしい。ケオハネは、昨年ナントで聴いて圧倒され、このブログに報告した覚えがある。芯のつまった美声で、迫力があり、しかも澄んでいる。音程も確かで歌いまわしも見事。ピエルロの指揮も、リチェルカール・コンソートも相変わらずすばらしい。最高だと思った!

・イーヴォ・ポゴレリッチ(ピアノ)、シンフォニア・ヴァルソヴィア ゲオルク・チチナゼ指揮 エルスネル交響曲ハ長調 ショパンのピアノ協奏曲第2番。

エルスネルというのは、ベートーヴェンと同世代のポーランドの作曲家らしい。初めて知った。曲は面白くなかった。ポゴレリッチは、なんとも凄い。よい悪いはともかく、すさまじい。これはショパンではない。ショパンらしいところはまったくない。華やかできらびやかな部分はすべてほとんど聞えない。超スローテンポで、ただひたすら絶望的で暗く、喘いでいる。ショパンの協奏曲が、ポゴレリッチの手にかかると、このような救いのない音楽になるのが不思議だ。予定の曲目が終わったところで、すでに終演予定時間を10分ほどオーバーしているのに、アンコール(第二楽章を再び演奏)を、これまたスローで、しかも以前とかなり違う雰囲気で演奏して、30分オーバー。いやはやなんとわがままな生き方!

 確かにポゴレリッチで聴くと、ショパンが私の嫌いなショパンでなくなり、少なくとも私にとっては好みになる。が、やはりこれはやりすぎではないか。観客の一人がポゴレリチに向かって怒鳴っていた。「このどアホ」と聞えた。気持ちはよくわかる。ショパン好きには耐え難い演奏だっただろう。

・タチアナ・ヴァシリエヴァ(チェロ) バッハ 無伴奏チェロ組曲1・5

 ポゴレリッチが時間超過したので、プレリュードは聴けなかった。昨年聴いたとおりの流麗で踊るようなバッハの無伴奏。前回5番を聴いて、まだ十分消化しきれていない部分があると思ったが、今回はかなりよかった。が、これは難しい曲。まだ、不十分に感じるところもあった。もう少し、絶望的な感情を出そうとするのか、そうでないのか、どんな音楽にするのか明確にしてほしいと思った。

・トリオ・ショーソンによるショパン「ワルツ変イ長調 作品42 序奏と華麗なるポロネーズ。ファイト・ヘルテンシュタインのヴィオラが加わって、シューマンのピアノ四重奏曲

 シューマンはとてもよかった。溌剌として音楽が生きている。シューマンの第四楽章がすばらしい音楽だと再認識。

・ライプツィヒ弦楽四重奏団 メンデルスゾーン 弦楽四重奏曲第6番 ベルトラン・シャマユ(ピアノ)が加わってシューマンのピアノ五重奏曲

 すばらしい演奏だった。メンデルスゾーンのこの曲は知られざる名曲。第2楽章は泣ける。メンデルスゾーンがベートーヴェンの後期の弦楽四重奏の影響を受けて書いた曲だが、苦悩がにじみ出る。しかし、メンデルスゾーンらしく、怒りをぶつけることはない。そうした心のうねりが十分に表現された演奏だった。

 シューマンもすばらしかった。「詩人の恋」に次ぐシューマンの最高傑作ではないかと思った。音がうねり、重なり、ロマンティックで多感でドラマティックな感情を描いていく。見事!! ライプツィヒ弦楽四重奏団はすばらしい団体だと思った。シャマユとも息がぴったり。

 

・趙静(チェロ) クレール・デゼール(ピアノ) ショパン「ノクターン 27-1」 チェロ・ソナタ 序奏と華麗なるポロネーズ ポッパー「妖精の踊り」

 ソナタが凄かった。ウェスペルウェイの演奏と比べてこちらのほうがずっと感銘を受けた。ウェスペルウェイは男性なので、どうしても客観的で論理的。趙静は、ほとんど女性演歌の世界。音楽にのめりこみ、楽器と一体になって女の情念を語ろうとする。音楽にべったりと感情移入し、まるで音楽の巫女。その迫力たるや凄い。ソナタ以外の曲も同じ感じ。クレール・デゼールはもっとずっと抑制的で、趙静を上手にサポート。

・ウラル・フィル ドミトリー・リス指揮 ベルリオーズ「幻想交響曲」

 これまた凄い演奏。ひたすら大袈裟でドラマティックで、音が大きく、ど迫力。悪く言えば下品。知的な工夫があるわけではない。曲を的確に捉えているとも思えない。私の好きなタイプの音楽ではない。が、ここまで大袈裟にやられると、やはり納得せざるを得ない。終わったときには、感動を覚えていた。

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ラ・フォル・ジュルネ1日目

 東京国際フォーラム付近のホテルに泊まって、ラ・フォル・ジュルネを聞きまくっている。11時ころまで聞いて、先ほど帰ってきた。忘れないために、寝る前に感想を書いておく。

 今日は9つのコンサートを聴いた。私はショパンは好きでなく、特にピアノ曲はあまり聞かないので、メンデルスゾーンが中心だ。

・レジス・パスキエのヴァイオリンでパガニーニの「24のカプリース」より13曲。

1曲目はめろめろ。音程は狂うし、指は動かないし。どうしたことかと思ったら、だんだんよくなって、3曲目あたりからは見事な演奏になった。朝の10時から超絶技巧の曲はつらいだろう。それに、目の前に、身動きし、声を出す3歳くらいの子どもがいたら、やりにくくて仕方がないだろう。惑わされずにしっかりと音楽を作ったレジス・パスキエにあっぱれ! 技巧をひけらかすのでなく、じっくり深い音楽を聴かせようとするタイプ。論理性がはっきりして知的なつくり。ただ、やはりちょっと音楽のつくりが古い感じ。今の若い人はもっと颯爽とやるだろう。

・オーケストラ・アンサンブル金沢 井上道義指揮 「フィンガルの洞窟」、交響曲第3番「スコットランド」

 井上道義はメロディを浮き立たせて歌わせるタイプ。メンデルスゾーンを多感でロマンティックに歌い上げる。私としてはもっと直裁的にして、むしろ論理を表に出すほうが趣味なのだが、これはこれで説得力がある。かなり劇的に盛り上げ、感動的! メンデルスゾーンの苦悩と激情が浮かび上がった。

・トリオ・ヴァンダラー モーツァルト ピアノ三重奏曲K542、ショパン ピアノ三重奏曲op8。

 元気のいい演奏。もう少し潤いがあっていいかなと思った。ショパンのこの曲は初めて聞いた。ピアノが大活躍するが、ヴァイオリンとチェロが目立たない。というか、ヴァイオリンとチェロの必要はないのではないか、一台でいいのではないかとずっと思って聴いていた。やっぱり、ショパンの室内楽はちょっと音楽的に問題があると思った。

・小菅優(ピアノ)、メンデルスゾーン「無言歌集」より6曲。「前奏曲とフーガ ホ短調」「厳格な変奏曲 ニ短調」

 すばらしい!! 私はピアノはあまり聴かないのだが、小菅さんのピアノについては、うっとりしてしまう。柔らかいタッチなのに、芯がある。音もリズムもきれい。無言かもすばらしかったが、その後の2曲がよかった。バッハやベートーヴェンを思わせる曲。メンデルスゾーンは一般には甘ったるい作曲家と思われているが、決してそうではない。知的で論理的で、ぐっとロマンティックな感情を押し殺して論理的に処理している。そして、苦悩や怒りを面に出さず、あくまでも高潔で高貴にとどめる。そこに限界があるといえば言えるが、ユダヤ人として生きるにはそうするしかなかったのだろう。そんなメンデルスゾーンの一面がとてもよく現れた曲であり、演奏だった。

・村治佳織(ギター)、パスキエ(ヴァイオリン) ショパン「華麗なる円舞曲」ノクターン9-2 マズルカ33-4 パガニーニ 大ソナタ

 ピアノ曲がギターで演奏されると華美なところがなくなり、内面的になる。じっと心の中を見つめている感じ。村治さんの演奏がそうなのかもしれない。ただ、やはり私はギターだけだと、音が途切れているのが気になって仕方がない。ヴァイオリンと合奏して、しっくりする。

・ペーター・ウェスペルウェイ(チェロ)、パオロ・ジャコメッティ(ピアノ)、ショパン 序奏と華麗なるポロネーズ、チェロ・ソナタ、マイヤーベア「悪魔のロベール」の主題による協奏的大二重奏曲 

 とてもよい演奏だった。このチェリストはロマンティックなものが合う。ピアノも見事。ヴィヴィッドで音がきれい。ロマンティックにうねり、しみじみと情感を盛り上げる。ただ、もう少し遊びがあっていいと思った。生真面目すぎる。このピアニストはもっと遊びが多かったはず。もっと自由にやるほうが面白い。

・ルイス・フェルナンド・ペレス(ピアノ)、パリ室内管弦楽団、ウィルソン・ヘルマント指揮 メンデルスゾーン「フィンガルの洞窟」ピアノ協奏曲第2番

 私はピアノよりも指揮に感心した。東洋人の顔をしているので、プログラムを確認してみたら、ジャカルタ生まれだという。小柄だが、音楽のつくりは大きい。大きく捉えて、大きなうねりを作っていく。パリ室内管弦楽団のしなやかで柔らかい音に驚いた。ピアノも見事。溌剌として音楽が生きている。が、もっと暗い情感があっていいのではないかと思った。何しろ、何度も言っているようにメンデルスゾーンは生涯にわたって繰り返し差別を受けてきたユダヤ人なのだから。そうした暗いものを昇華して高貴なメロディにしているのがメンデルスゾーンなのだ!

・ミシェル・コルボ指揮、ローザンヌ声楽アンサンブル ソフィー・グラフ(ソプラノ)、ヴァレリー・ボナール(アルト)、クリストフ・アインホルン(テナー)、ペーター・ハーヴェイ(バリトン) メンデルスゾーン オラトリオ「パウロ」

 すばらしい演奏。祈りにあふれ、天国的なメロディにあふれている。コルボの指揮も情感豊かで、誇張がなく、しみじみといい。声楽人も充実している。とりわけソプラノのソフィー・グラフの美しい声に感動。それにしても、プロテスタントに改宗したものの、ユダヤ人であることに誇りを抱いていたメンデルスゾーンは、この曲をどのような気持ちで作ったのか。分裂した思いがあったに違いない。そうした思いがこの天国的なメロディになっているのだろう。

・リチェルカール・コンソート ポロネーズを集めたコンサート

 最高だった!! ファリーナ、ヒューム、シュメルツァー、マレといったバッハ以前の作曲家たちに始まり、バッハ、ハイドン、パガニーニなどのポロネーズが演奏された。バッハもすばらしいが、ほかもいい。フィリップ・ピエルロのヴィオラ・ダ・ガンバやバリトンが中心。フィリップ・ピエルロを中心とするリチェルカール・コンソートが演奏すると、木のぬくもりが伝わってくる。バロック時代の信仰にあふれ、暖かい人間の営みのあった家庭が見えるような気がする。アンサンブルもいい視、なによりも、楽しい。祈りの心がある。これを聴くと、これからバロック音楽を聴き続けたくなる!

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NHK「どよう楽市」、そしてラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン

 

 昨日は、NHKラジオの朝の生放送番組「どよう楽市」に出演した。残間里江子さんと、アナウンサーの宮本愛子さんとともに楽しい時間を過ごした。

 残間さんとは一度どこかでお会いしたことがある。宮本さんとは初めてお会いしたが、テレビのニュースで何度かお見かけしたことがあったので、昔からの知り合いのように話すことができた。とりわけラジオに出て感じるのは、顔を合わせて数分しかたっていないのに、友人のような感覚で話ができること。そのような雰囲気を作れる人がパーソナリティを務めるということだろう。

 残間さんも宮本さんも、テレビで見る以上に魅力的で、本当にきれい! (もちろん、これはお二人にこのブログを見られるかもしれないことを配慮してのお世辞ではない)

 「忘れられない1品」を持ってきて、それについて話してほしいということで、バンコクで出会った詐欺師の写真を持っていった。その男にバンコクで声をかけられ、仲良くなり、バンコクを案内してもらったが、最後に大金を騙し取られた。自分では高校教師と名乗っていた。このことは、これまで二度ほど本に書いたので、ここでは書かない(書きたい気になったが、もう少ししたら、ラ・フォル・ジュルネに向けて出かけなければならないので、時間がない)。

 そのほか、子どものころからクラシック音楽が大好きだという話をし、初めて感動したクラシックである「ウィリアムテル序曲」の一部をかけてもらった。また、私のベストセラー「頭がいい人悪い人の話し方」や、近著「自慢がうまい人ほど成功する」が話題になった。最後に、ラ・フォル・ジュルネのアンバサダーをしていることを話し、東京国際フォーラムで演奏されるメンデルスゾーンの「パウロ」のすばらしさ、ベルリオーズの「幻想」のドミトリー・リスの演奏のドラマティズムなどを語った。

 リスナーの反応もすぐにあって、うれしかった。私の参考書で合格したという知らせも本当にうれしかった。私のブログにも書き込みをしてくださった方がおられた。

 ただ、時間がなかったし、二人の女性パワーに押されっぱなしだったので、音楽について思ったことを話せなかったのが残念。もっと言いたいこと、ラ・フォル・ジュルネに関して言うべきことがたくさんあったのに!!

 ともあれ、あと数時間でラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン(「熱狂の日」音楽祭)が始まる。そして、今晩、「パウロ」が演奏される。もちろん、ほかにも楽しみなコンサートがたくさんあるが、この「パウロ」がもっとも楽しみだ。私はずっと昔からラファエル・フリューベック・デ・ブルゴスの指揮するCDを聴いてきた。フィッシャー=ディスカウらの声楽陣のそろった名演だった。飯守泰次郎指揮の東京シティフィルの演奏で実演を聴いた時も感動した。

 パウロが信仰に目覚める場面、「目からうろこ」(目からうろこということわざは、ここから来ている)の場面など感動的なところがたくさんある。劇的効果という点ではバッハにかなり劣るが、しみじみとした美しい旋律、天使的な声に関しては、バッハに匹敵する。

 ともあれ、楽しみな三日間が始まる!!

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