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音楽は思想である!

 私のブログを続けて読んでくれている方はご存知かと思うが、先ごろ、私の書いた「マーラー嫌い」について、二人の方から批判的なコメントが寄せられた。それらのコメントを読んでいて、それらの方と私の根本的な違いに気がついた。

 お二人の方は、まったく同じような表現を使っておられた。「Mahlerファン」さんは、「作曲家の悪口を公然と書くことは、その作曲家を好きな人達にとっては気分の良いものではありません」と書き、「とおりすがり」さんは、「ショパンの好きな人がショパンの悪口を聞かされたら・・・気を悪くするだけじゃないでしょうか」と書いている。好きな作曲家を仲の良い友人や家族のように考えておられるのだろうか。

 実は、このお二人の言葉は私にはとても意外なものだ。私はこれまで、おそらく一度もそんな感覚を抱いたことがない。音楽に対しても、私が専門としてきた文学に対しても。

 私の好きな作曲家を嫌いだという人がいたら、私はむしろうれしくなる。気を悪くするどころか、なぜそう考えるのか、どのような価値観でそのような感想を抱くのかに興味を持つ。そして、きっと私の好きな作曲家の素晴らしさをその人にわかってもらおうとするだろう。それができなかったらできなかったで、両者の考え方の違いを認識するだろう。気を悪くすることもないし、相手を非難することももちろんない。むしろ、この考え方の違いをとても面白く楽しいことだと思う。

 どこが違うのだろうかと考えてみた。思い当たったのは、私が音楽を思想と考えていることだ。私を批判したお二人は、きっとそう考えていないのだろう。

 私にとって音楽は間違いなく思想だ。ちょっと比喩的に言えば、音楽も政治思想や哲学と同じような思想だ。人によってはマルクス主義を許せないと思っている人もいるだろう。愛国主義を眼の仇にしている人もいるだろう。すべての思想を好む人はいないに違いない。なぜなら、それぞれの思想が対立し、別の価値観を語っているからだ。

 私は音楽を聴く時、その思想を聞き取ろうとする。宗教観、自己意識、世界に対する意識などを、メロディや和声、あるいはその人の人生や、その人の作ったオペラの筋書きなどから読み取る。それが音楽を聴くことだと思っている。拙著『ヴァーグナー 西洋近代の黄昏』など、まさしくワーグナーの音楽を思想の表明として捉えている。それがこの本の長所でもあり、読みようによっては最大の短所だろう。

 もちろん、その思想は言葉にはならない。音楽でしか表現できないものだ。もっと生理的で曖昧なものだ。だが、何らかの世界に対するメッセージには違いない。そうであれば、音楽においても、聞き手はすべての作曲家を好きになることはありえない。私はたとえば愛国主義や儒教が嫌いだが、それとまったく同じような感覚でマーラーの思想が嫌いなのだ(言うまでもないが、私はマーラーを右翼だといっているわけでも、愛国主義だといっているわけでもない。念のため!)。音楽は思想なのだから、当然、受け入れられない思想がある。許しがたい思想もある。

 

 私はマーラーとリヒャルト・シュトラウスは対極をなす人間だと捉えている。私の感覚では、マーラーに対して、「マーラーさん、私はあなたとリヒャルト・シュトラウスが大好きです」と言うほど失礼なことはないと思うのだ。それよりも、「マーラーさん、私はあなたが嫌いです。私の好きなのはシュトラウスです」と言うほうが、まだしもマーラーは納得するのではないか。マーラーは、二人とも好きだという人間を信用しないだろう。シュトラウス派の私としては、マーラーに対しては「嫌いです」とはっきりいうのが礼儀だと思うのだ。(もちろん、実際にマーラーに会ったら、そんなことはきっといえないと思うが)。

 そして、私にしてみれば、「好きな作曲家の悪口を言われると気を悪くする」という考えのほうに息苦しさを感じる。それは自分の愛するものへの自由な批判を封じ、他者にも自分と同じ感覚を強要しているに等しい。もっと言えば、他者も同じ思想を持つように強要しているに等しい。また、他人の意見には同意しなければいけないというような抑圧も感じる。それよりは、自由に批判し、別の価値観を認め合うほうがずっと自由で楽しいではないか。

 私が「すべての音楽が好きだという人は信用しない。その人は真剣に音楽を聴いていない」と書いたのは、そのような考えに基づいている。

 私は音楽の才能がまったくない。音感もなければ、リズム感もない。音楽を聴いていても、音楽学的なことは少しもわからない。楽器も演奏できず、楽譜もろくに読めない。そんな私は、少年期からずっと音楽を思想として聴いてきたような気がする。

 もしかしたら、私のような聴き方をするほうが少数派なのかもしれない。が、私は、やはり音楽は思想だと信じる。少なくとも、私は、作曲家の思想に触れて、それまでの自分の世界観を揺り動かされることによって最も感動するのだから。

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音楽」カテゴリの記事

コメント

もし音楽が思想であるとしても、思想家(音楽家ですが)に愛情を寄せるタイプの聴き手(音楽の場合、それは結構多いと思います)の気分を害したのならごめんなさい、じぶんの不勉強かも知れません、とお認めになるのが一般的ではないでしょうか。

投稿: Y | 2010年5月13日 (木) 20時08分

下手の考え休むに似たり

投稿: とおりすがり | 2010年5月14日 (金) 00時22分

樋口さん、お忙しい中、毎度ご丁寧なお返事、ありがとうございます。「反論」というよりは、ちょっと疑問点がいくつかあるので、その点について書かせていただきますが、例によって長くなってしまうかもしれません。お仕事の支障になってはいけませんし、もしまたご返事いただけるとしても、いつかお時間に余裕のあるときで全然かまいません。


取り急ぎ、二点。

>はじめのコメントで、「とおりすがり」さんは私のことを大学で教鞭をとるに値しない人間であると断定なさっておりましたが、それを撤回していただけますでしょうか。


もちろんです。謹んで撤回させていただきます。

もう一点、ちょっと前に
「下手の考え休むに似たり  投稿: とおりすがり | 2010年5月14日 (金) 00時22分」
という投稿がありましたが、これは私のものではありません・・・。故意か偶然かはわかりませんが、私と同じハンドルネームですが。


>「そんな人は真剣に音楽を聴いていない」という文に反発を感じたとおっしゃいますが、このような断定を傲慢と思われるのでしたら、人間の他者に対する評価判断(「あいつは頭がいい」「あの人はきれいだ」「彼女は醜い」など、すべてが傲慢な判断ということになると思います。


いやいや、もし誰か女性を「醜い」と公言したならば、場合によっては名誉毀損罪に問われるでしょうし、そうでなくても相手に不快な思いをさせ、傷つけるのは間違いないでしょう。それでも、それが自分の評価判断であれば、公言してなんの問題も無い、と仰るのでしょうか?今回の件に関して言えば、樋口さんの中でどのような判断基準で相手を「真剣に音楽を聴いていない」と判断しようと構わないと思いますが、それを公言した場合、相手の立場に立ってみて、特に音楽好きな人間が「お前は真剣に音楽を聴いていない」と言われたら、気分を害するのは十分想像のつくことだと思います。樋口さんはそれでも構わないとお考えですか?または、そんなことで気分を害する方が悪いとお考えですか?


>ナントはなぜあれほど盛り上がるのかを考えてみました。ひとつは、日本のようにクラシックオタクが初心者を軽蔑するような空気(私自身も特に感じたことはないのですが、2ちゃんねるを読んでそれを思いました)がないのかもしれません。


これもちょっと判らないのですが、現場では特に初心者が居心地の悪さを感じるような雰囲気は無かった、ということですよね。事後の2ちゃんねるの書き込みで、初めて、一部にそのような初心者を軽蔑するような聴衆(クラシックオタク)がいる、ということをお知りになったと。

なのになぜ、「もっと盛り上がってほしい。もっと一体になってほしい。それを邪魔しているのは、私から見ると、一部のクラシックオタクたちのように思えるのです。」

という判断が出てくるのでしょうか。もしかしたら、「初心者」の方が、あとから2ちゃんねるの書き込みを見て、気分を害したり、萎縮してしまったりということはあるかもしれません。ただ、そのコンサートの現場においては、そんなクラシックオタクの存在は意識すらしていないのではないでしょうか?なのに、クラシックオタクが盛り上がりを邪魔している、というのは、これいかに?


>「とおりすがり」さんは、「ショパンの好きな人がショパンの悪口を聞かされたら・・・気を悪くするだけじゃないでしょうか」と書いている。


いやいや、中略されてしまいましたが、

『ショパンの好きな人がショパンの悪口を聞かされたら、良くて「好き嫌いは人それぞれだからね」とプラマイゼロ、悪くすると相手は気を悪くするだけじゃないでしょうかね』

と書いたのです。自分の好きな作曲家の悪口を聞かされた場合、「中には」気分を害する人がいたとしても、楽しい気分になる人はいないだろう、だから、特定の作曲家の悪口を公言して、なにか良いことがあるのだろうか?という疑問があっただけです。


今回、樋口さんは「私の好きな作曲家を嫌いだという人がいたら、私はむしろうれしくなる」と書かれているので、その点(楽しい気分になる人はいないだろうという点)は、私の認識不足でした。


ただ、そうだったとしても、例えば十人中二人が「うれしくなる」、七人が「いい気持ちにもならないし、気分を害することもない」、一人が「気分を害する」という結果であったならば、やはりそのような発言をすることについては、慎重になるべきだろうと思います。「大部分の人間が問題ないと感じているのだから、少数派は嫌な思いをしても我慢しろ」、というのは、それこそ「価値観の押し付け」ではないでしょうか。そのような意味で、

『「自分のしっかりした価値観を持つこと」が大事だったとしても、それは自分の内部で済ますなり、気心の知れた仲間内の議論で済ますのが適当なのかなとは感じます。』


と書かせていただきました。あ、私自身は、自分の好きな作曲家の悪口を聞かされても、特に何も感じないタイプです。


>私にとって音楽は間違いなく思想だ


およびそれ以降の部分に関して、申し訳ないですが、私の知性では理解の及ぶところではありませんでした。ただ、

「そうであれば、音楽においても、聞き手はすべての作曲家を好きになることはありえない」

というのは、結局樋口さん個人の音楽に対する姿勢だけを前提条件に導き出される結論なのだろうとは感じました。


であれば、「音楽に対する姿勢」が十人十色である以上、導き出される結論も千差万別、「すべての音楽が好きだという人」がいたってなんら不思議は無いですよね。違うのでしょうか?


樋口さんは、ご自身の

「音楽は間違いなく思想だ」
「音楽を聴く時、その思想を聞き取ろうとする」
「作曲家の思想に触れて、それまでの自分の世界観を揺り動かされることによって最も感動するのだから」

という音楽に対する姿勢が、唯一絶対のものだ、とお考えなのでしょうか?もしそうだとすれば、私はこれ以上何も申し上げることはありません。それは、私にとって、「同じ思想を持つように強要されているに等しい」ことですので。その様な音楽に対する姿勢で望んだ結果、ショパンやマーラーの素晴らしさを感じ取れなくなるとしたら、それは人生における大きな損失ですので、真っ平ごめんですし。


逆にそうお考えでないのであれば(ご自身の音楽に対する姿勢が唯一絶対のものだとお考えでないのであれば)、

「すべての音楽が好きだという人は信用しない。その人は真剣に音楽を聴いていない」

という発言は撤回されるべきだと思います。

投稿: とおりすがり | 2010年5月14日 (金) 01時57分

もう一点だけ、一番疑問だってことをお尋ねし忘れました・・・。


>ナントのLFJの熱狂度は、おそらくアメリカなどとは比べ物にならないと思います。

この部分の判断材料はどこにあるのでしょう?私は、樋口さんが体験されたナントでの盛り上がりと、もしかしたら似ているのかな?という想像で自分の体験談を挙げさせていただきましたが、ではアメリカとナントとではどちらがより盛り上がっていたか、なんてことを比較して見ようなんてことは考えもしませんでした。なぜなら、その片方しか経験していない自分には、比較することなんてどうやったって不可能だからです。その不可能を可能にしてしまった樋口さんは、どのような能力をお持ちなのか・・・。樋口さんもアメリカでの演奏会を経験されているのかもしれませんが、私はアメリカのどの演奏会を聴いたということは一切明記しておりませんし・・・。やはり、大ベストセラーを書き上げ、「小論文の神様」と呼ばれるお方は、私のような凡人には想像すらつかない能力をお持ちなのでしょうか。

投稿: とおりすがり | 2010年5月14日 (金) 02時13分

Y様
 音楽と思想のアナロジーによってわかっていただけるものと思っていたのですが、説明不足だったようです。
 音楽は思想だということは、思想の傾向によって立場があるということなのです。ちょっと大袈裟にいえば敵・味方があるといってもいいかもしれません。たとえば国粋主義者はマルクス主義を敵視します。マルクスを罵倒しますし、質のいい愛国主義者でしたら理論的にマルクスを乗り越えようとします。まちがっても、マルクス主義者に対して、「勉強不足でごめんなさい」とは言いません。マルクス主義の価値観を認めることができず、マルクス主義の考え方自体が間違っていると判断しているからです。
 私が「音楽は思想だ」といったのは、そのような意味も含めてです。国粋主義者にとってマルクスが敵であるように、シュトラウス派の私にとって、マーラーは価値観を異にする相容れない存在なのです。ですから、マーラー好きに対して「ごめんなさい」と言う必要はまったくないわけです。

 それに、もし愛好者の気分を害するごとに「ごめんなさい」といっていたら、すべての批評や感想、すべての判断が成り立ちません。ある作曲家や演奏家、あるいは作家や画家に低い評価を与えるごとに、その人に対して、そしてそれを愛する人に対して「ごめんなさい」といわなければならなくなってしまいます。 評論でも音楽雑誌でもブログでも、「ごめんなさい」を羅列しなければならなくなります。まさか、そんなことは誰一人していないはずです。
 それどころか、歴史的研究も成り立たなくなってしまいます。研究をする際、どうしても歴史的人物の評価がからみます。ヘンデルを過小評価すると、その愛好者は気分を害するかもしれません。芸術に限りません。坂本龍馬の功績を低く評価する学者は、日本中の龍馬ファンにあやまる必要があるのでしょうか。それどころか、世の中には斉藤道三ファンもたくさんいます。なにかの研究をするごとにあやまらなければならないことになります。
 Yさんのおっしゃることは、あまりに非現実的だと思いますが、いかがでしょう。もちろん、私がブログで書いているのは研究でも批評でもありませんが、同じ原理が成り立つはずです。

投稿: 樋口裕一 | 2010年5月14日 (金) 07時35分

とおりすがり様
お言葉に甘えて、少し後で答えさせていただきます。仕事がたまってしまっていますので。
「下手な考え・・・」とコメントしてきた人は、きっと「なりすまし」なんでしょうね。気をつけます。
私は「とおりすがり」さんとの対話を十分に楽しんでいます。別の価値観の人ときちんと考えを出し合うのは楽しいことです。自分の考えを明確にしたり、誤りを修正するのに役立ちます。
私が大学で教鞭をとるに値することを認めてくださったこと、安心しました。

投稿: 樋口裕一 | 2010年5月14日 (金) 07時45分

樋口様、はじめまして。コメント欄に長文を示すのは、一種の嫌がらせと感じますので、ご丁寧な回答にあたまが下がります。言いたいことがあれば、自分のところで書いて、TBすればいいはずです。

私が面白いと思ったのは、音楽は思想だという考えですね。でも、この思想ということについて、重ねてご説明もなさっていますが、よくわかりません。マルクス主義云々のたとえ話ではなく、音楽の問題で、その思想というもののカタチを教えてほしいと思います。例えば、ひたすら神様に捧げる音楽を書いたバッハの思想とは何でしょうか。よりプライヴェートなショパンの思想とは。また、そうしたものと、クラシック音楽の正体である形式との関係性は?

私は、音楽は思想を越えるものと思っています。無節操かもしれませんが、私はスラヴ主義者じゃなくとも、ドヴォルザークやスメタナの愛国心には感じ入るし、優れた宗教曲を聴けば、クリスチャンでもないのにアーメンと言いたくもなります。そのこと自体を批判してもいいですが、例えば、メンデルスゾーンなどはそうした効果を、自分の複雑な宗教的背景を克服するために使った(パウロやエリヤ)と思います。

音楽は何でも好きだという人は、例えば私です。だから、気分を害しているわけではありません。そのことを論じる前に、仰ることに書き落とされている含意があると思い、仰るところの思想というものの正体を質したいと思った次第です。それ以後は、自分のブログでやる予定です。その節は、ご意見などお寄せくだされば幸いです。

投稿: アリス | 2010年5月14日 (金) 12時26分

樋口さんが「音楽を思想として聴く」のは承知しました。ただ、だからといってそのように聴くのが正しく、そのように聴かない者はまちがっている、だからそのように聴かない者から「気分を害した」という申し立てがあってもそれは不当であり、配慮する必要はない、とまでは言えないでしょう。
いや、そこまで言ってもご自由ですが、そのような態度は「音楽の感動を多くの人に伝える」お仕事にはマイナスのように思います。
樋口さんは「批評ではない」「自分には音楽の才能がない云々」と批評家との役割の違いとご自分の限界の余地を認めておられます。
だったら、批評家の権利(けなしても許される)も多少譲ったほうがいいのではないでしょうか。
「自分はこうなんだ。違ってるかも知れないけど」という余地も少し残す、
自分の限界を超えている可能性のある音楽家については当たり障りなく書いておく(そのかわり裏でもっと研究する)、
それでも人の気分を害してしまったら、ごめんなさいねと謝っておく(たとえ本心では納得していなくても)、
という態度のほうがより好ましく、十分現実的で、より「音楽の感動を多くの人に伝える」仕事に臨むのにふさわしいのではないかと思ったしだいです。

投稿: Y | 2010年5月14日 (金) 20時46分

とおりすがり様

 身から出た錆とはいえ、3人の方からコメントをもらって、返事を書く時間がまったくとれなくなってしまいました。「音楽は思想である」「嫌いだということを公言する」にかかわることにつきましては、次回のブログに書かせていただこうと思います。3人の方の疑問点として共通しているようですので、お一人ずつに返事を差し上げるよりも、そのほうが効率的に思われるからです。
「とおりすがり」さんには、ラ・フォル・ジュルネについてのみ、直接変じさせていただきます。ご容赦ください。

・LFJでの初心者とマニアの関係について
 日本ではなぜ、ナントのようにホール全体が一体になって盛り上がらないのだろうかと常々疑問に思っていました。おとなしい過ぎる日本人のせいだろうとずっと思っていました。が、2ちゃんねるを読んで、「クラオタ」が初心者のマナーの悪さに怒っているのを知りました。ナントでは、そのような様子は見えず、むしろマニアらしい人たちが、うるさくしている人にその場でやんわりと注意をし、よその子どもが騒いだら、みんなで子どもをあやしたりする様子を見たことが何度もありました。そこで、もしかしたら、ナントで一体感が生まれるのは、初心者とマニアがともに盛り上げようとしているためではないか、逆に東京では両者の間に亀裂があるのではないかと推測したわけです。
 もちろん、データが少なすぎるので、その推測が正しいかどうかはわかりませんが、少ないデータからそのような仮説を導き出すのはきわめて理にかなっていると思いますが、いかがでしょう。


・ナントのLFJがアメリカとは比べ物のならない点について
 私はアメリカでのコンサートは一度しか聴いたことがありません。ですから、アメリカ人のノリの良さなどについては、噂でしか知りません。が、ナントのほうがアメリカよりも熱狂しているのは間違いないと思います。
 アメリカはどれほどノリがよく、熱狂するにしても、ひとつのコンサートホールでのことだと思います。ひとつのホールだけでしたら、アメリカとも変わりがないかもしれません。それどころか、アメリカのほうがナントよりも熱狂的かもしれません。ところが、ナントは、LFJですから、一度にいくつものホールで、しかも日本以上に朝から晩まで、5日間にわたってコンサートが行われているのです。しかも、ホールの外の通路でもイベントをやっています。そして、そのいくつものホールで熱狂が起こって、それが次のホールにも伝染します。熱狂した観客が次のホールに行って、また熱狂します。ですから会場全体がサッカー場のような興奮にあふれているのです。これは、少なくともこれまで、クラシックのコンサートでは、ラ・フォル・ジュルネ以外ではこのようなことは起っていないのではないかと思います。もちろん、アメリカでラ・フォル・ジュルネを行えば、ナント以上の熱狂が繰り広げられるかもしれません。
 これは、言うまでもなく、「凡人には想像のつかない能力」によって判断しているのではなく、ごく当たり前の推測によって判断しています。この推測、間違っているでしょうか。

投稿: 樋口裕一 | 2010年5月14日 (金) 22時36分

アリス様
「音楽は思想である」という点についての疑問をお寄せいただき、ありがとうございます。
「音楽は思想である」と言ってみたものの、まだ十分に理論化しているわけではありません。私にコメントを寄せてくれた人との違いを考えてみて、どうやら私が音楽を思想として捉え、ほかの人はそうではなさそうだと気づいたにすぎません。
 友人と無駄話をするとき、「音楽って思想だよな」などとは話していましたが、しっかりと考えるのはこれからです。いえ、それどころか、もしコメントが寄せられるとすると、きっと「音楽が思想だなんて当たり前ではないか。今さら何を言っているんだ」といったものではないかと予想していました。むしろ反発や疑問が寄せられて、驚いています。
 ほかの方からも疑問が寄せられていますので、明日か明後日にでも少しまとめて考えてみようと思います。
 ただ少しだけ言っておきますと、私が「思想」と読んでいるのは、「プルーストの思想」「漱石の思想」と言うのと同じようなもので、「主義(イズム)」と同義ではありません。「世界観の表明」に近いものです。ただし、ここにはもちろん政治的な考え、音楽理論上のエコールも含まれます。
 なお、本のデキはともかくとして、拙著『笑えるクラシック』と『ヴァーグナー 西洋近代の黄昏』でワーグナーとシュトラウスの思想について描き出したつもりです。次回、それについても少し触れようと思います。
 いずれにせよ、そのうち、もう少し詳しく書こうと思っています。それを読んで疑問点がありましたら、またコメントをいただけたらと思います。私のほうもアリスさんのブログを拝見することにします。

投稿: 樋口裕一 | 2010年5月14日 (金) 22時37分

Y様
コメントありがとうございます。
疑問に思われている点、了解いたしました。「とおりすがり」さんが言われていることと重なるように思いますので、次回のブログの記事で答えさせていただきます。
3人の方からコメントをいただきましたので、お一人お一人に返事を書く時間が取れません。ご容赦ください。

投稿: 樋口裕一 | 2010年5月14日 (金) 22時38分

こんばんは。
いろんなご意見があるものですね。

ちょっと考えがまとまらないのですが、少なくとも私自身はあまり「思想」と言うものを意識して音楽を聴いたことはありません。
「音楽は思想だ」とおっしゃっていますが、もしかして、音楽ばかりではなく、絵画・彫刻等、芸術一般、全て思想だ、とお考えでしょうか?
芸術に思想的なものがある、と言うことは否定しませんが、あまり深く考えず、ただ音色やハーモニー、色彩やフォルムの美しさを楽しんでおります。

思想云々言い出すと、ショスタコーヴィッチの悲劇(と言うか苦しみ)を連想してしまいます。ショスタコーヴィッチを苦しめた思想(社会主義リアリズムとか………)と、樋口さんのおっしゃる思想とは、同じレベルで考えていいものなのでしょうか。それとも全く別の次元のものでしょうか?

思想的に正反対とおっしゃる、R・シュトラウスとマーラー、いずれの作品とも、素晴らしい演奏を聴かせる演奏家もいると思います。古いところではB・ワルターとか、L・バーンスタインなど。彼らは自分に嘘をついている、と言うことになるのでしょうか。それとも、肌に合わない曲でも素晴らしい演奏をするのが、一流の演奏家、と言うことなのでしょうか?

質問ばかりで済みません。
いろいろお聞きしたいことはありますが、お忙しそうなので、時間のある時にお答え頂ければ結構です。

<それができなかったらできなかったで、両者の考え方の違いを認識するだろう。
<気を悪くすることもないし、相手を非難することももちろんない。むしろ、この考え方の違いをとても面白く楽しいことだと思う。
考え方の違いばかりでなく、聴く姿勢の違い(思想として聴くか、癒しとして、或は気晴らしとして、慰めとして、勇気付けとして…………etc.)があることも、面白く楽しいと思っていただけると、嬉しいと思います。

括弧の中に「癒し」と書きましたが、これはいわゆる「癒し系」の音楽(静かなゆったりした曲が多いですね)と言う意味ではありません。時によっては激しい音楽も癒しになることがありますし、その時の気分によってはいわゆる「癒し系」の曲にいらつくことだってあると思います。あくまでもその時の心の糧となる、と言う意味での癒しです。

なにはともあれ、来年のラ・フォル・ジュルネ、楽しみにしています。

投稿: ムーミンパパ | 2010年5月14日 (金) 23時16分

すみません。
ああだこうだ、考えながら書いていたら、コメントの返事が3つも付いていました。

次の記事、楽しみにしています。

投稿: ムーミンパパ | 2010年5月14日 (金) 23時21分

>私は「とおりすがり」さんとの対話を十分に楽しんでいます。別の価値観の人ときちんと考えを出し合うのは楽しいことです。自分の考えを明確にしたり、誤りを修正するのに役立ちます。

そう言っていただいて、ちょっと安心しました。こちらがうまく樋口さんの言わんとすることを理解できていなくて、余計なお手間をかけさせてしまっているのではないかな?とちょっと心配しておりました。


>私が大学で教鞭をとるに値することを認めてくださったこと、安心しました。


いえいえ、そもそも、私がそのようなこと(値するかどうか)を評価など出来るものではないですから。最初、樋口さんの言わんとすることをよく理解しないまま、ちょっと感情的な言葉遣いをしてしまいましたが・・・。樋口さんを教授として採用する大学があり、樋口さんの授業を聞きに集まってくる学生がいる、そのことこそが「大学で教鞭をとるに値する」と証明しているのだと思います。


またコメント欄も多くの方が意見を寄せてくれるようになり、樋口さんも対応する時間がなかなかないと思いますが、ほんとにご無理をなさらないで下さい。


ナントとアメリカの比較の件、納得いたしました。

投稿: とおりすがり | 2010年5月15日 (土) 00時43分

ムーミンパパ様
「参戦」?ありがとうございます。
私のいう「思想」は、広い意味で捉えてください。「世界観の表出」というような意味に考えていただけると助かります。「音楽は癒しだ」ということについては否定しますが、「癒し」的な思想を持つ作曲家はいると思います。
なお、シュトラウスとマーラーは正反対・・というのは私の解釈です。そう解釈しない演奏家もいると思いますし、その両方の要素を持っている演奏家もいると思います。が、カラヤン、ショルティ、クレンペラー、ベーム、テンシュテットなど、思いつく巨匠のほとんどがどちらか一方を得意としているのではないでしょうか。
なお、先ほど、次の記事を載せました。このところ、急にコメントがふえてかなり疲れていますが、よろしかったら、そのうち、ご意見をお聞かせください。

投稿: 樋口裕一 | 2010年5月15日 (土) 21時56分

とおりすがり様
先ほど、新しい記事をアップしました。ご覧になってください。
ただ、コメントに答えたり、ブログの記事を書いたりするのにちょっと疲れてきたのは事実です。仕事の原稿がたまっています・・・
次に反論、質問をしていただきましても、返事が遅れるかもしれません。ご容赦ください。

投稿: 樋口裕一 | 2010年5月15日 (土) 21時59分

どうもマーラーとR.シュトラウスのくだりが意味不明です。歴史的事実としてマーラーとR.シュトラウスは互いの作品を頻繁に演奏しあっていましたし、マーラーは「サロメ」のウィーン初演を市当局に禁止された際には、辞表片手に宮廷歌劇場監督の職を賭けてまで抗議しました。そんなマーラーがふたりとも好きだと言われて怒るとは、到底わたしには考えられません。

投稿: メテオ | 2010年5月23日 (日) 18時44分

メテオ様
 コメントありがとうございます。そして、鋭いご指摘、ありがとうございます。
 確かに、いわれるとおり、マーラーとシュトラウスは互いの相手の曲を演奏していますね。前回、私が文章を書いたとき、そのような事情をつい忘れておりました。誇張表現を使いすぎたと思います。また、私が文章を書いたとき、勝手に、すでに大家になった後のマーラーとシュトラウスを頭に置いており、「サロメ」の時代の若き二人について考えていませんでしたし、そのことを説明しておりませんでした。大いに不備があったと思います。
 が、私は前に書いたことを撤回する必要はないと思っています。
 おそらく、きっとマーラーもシュトラウスも、互いに尊敬しあっていたでしょう。そして、上演禁止などという事態になれば、音楽界全体に対する脅威なのですから、力を合わせて抵抗したでしょう。もちろん、私も二人が日常的に嫌いあっていたとか、いがみ合っていたなどと思っているわけではありません。しかし、二人が互いに尊敬していたというエピソード以上に、お互いの作曲した曲を苦々しく思っていたことを示すエピソードがたくさんあることは、もちろんメテオさんはご存知のことと思います。
 それぞれの世界観の違いを誰よりも意識していたのは、彼ら自身でしょう。誰かが「二人とも大好き」と話すということは、世界観の異なる両者を同じように扱うことであって、それは、いかに尊敬しあっているにせよ、自分こそは誰よりも真実を描いていると信じて自らの道を歩んでいる創作者にとっては、我慢のならないことだと私は思います。それは、互いに演奏しあうこととは別次元のことだと私は思うのです。

 大変少ない経験による主観的な印象だけですので、客観的な事実として断定するつもりはないのですが、私自身としては確信していることがあります。それについて、少し説明させてください。
 最近、何人かの演奏家たちと付き合いがあるのですが、彼らの間に強い仲間意識があることに驚かされます。私たちがライバルと思っている指揮者同士、チェリスト同士が、とても仲よしで、相手をほめようとします。他の演奏者と比べられるのを嫌がる様子を感じません。「自分はこのようなところは彼よりも得意だが、別の面では彼のほうが優れている」などと率直に話してくれます。
 演奏家たちは自分を孤立した表現者とは思っていないようです。音楽作品を音楽界共通の財産とみなし、自分たちをそれに奉仕する仲間と認識しているようです。一緒に学んだことがあったり、一緒に演奏したことがあるためなのかもしれません。それにそもそも演奏というのは、ほとんどの場合、共同作業ですので、そのような意識を持つのでしょう。
 ところが、小説家たちと話していますと、彼らもほかの小説家をほめることはあるのですが、まったく仲間意識を持っていない様子です。もちろん、小説家同士で友だちである場合もあります。が、「あの人はあの人。私の世界は私の世界」という意識を強く感じます。自分の作品を自分の内的なものの秘めた表現と考えていますので、誰かと比べられたりするのを嫌っている様子なのです。いえ、そもそも比べられるものではないと考えているようです。彼らは孤立した創作者であり、ほかの誰とも異なる内面の思想の表現者、一つの世界の創造主なのです。
 そして、作曲家というのは、一つの世界を作る存在です(「思想世界」といいたいところですが、話が面倒になりますので、「思想」という言葉はここでは使いません)ので、演奏家よりも小説家に近い意識を持っているのではないかと私は思っています。私が親しくさせていただいている作曲家は三枝成彰さんだけなのですが、三枝さんはとても寛大でとても気さくで、とても友達の多い方なのですが、作曲家の話をしている時、私は何度、「僕は、その作曲家は大嫌いなんだよ」と答えられたかわからないほどです。現代作曲家に対しても、過去の大作曲家に対しても、そのように断言されます。三枝さんに私が感じるのも、一つの比類ない世界を自分で作っている方の強い自負心です。もちろん、三枝さんは現代の稀有な作曲家ですので、お一人だけで断定するのは危険ですが、私は創作者とはそんなものだと思っています。
 つまり、マーラーもシュトラウスも演奏家としては、ともに演奏しあい、仲間意識を持っていたでしょう。演奏家であれば、当然のことなのです。しかし、演奏家としての活動をそのまま作曲家としての意識とみなすことはできないと思うのです。二人はもちろん、同じ流派として活動していたわけではありません。互いにまったく資質の異なる作曲家だと認識していました。作曲家は、ほかの誰とも違う自分の世界を作り出すことを考え、それを理解されることを何よりも求め、他者と同類、あるいは比較されうる存在とみなされるのを嫌うのではないかと私は思います。マーラーもシュトラウスも、演奏家でありながらも、本質的には作曲家であったことはいうまでもないでしょう。
 繰り返しますが、確かに私はちょっと決め付けすぎだったかもしれませんし、歴史的事実を忘れて、誇張表現をとりすぎたかもしれません。が、私の確信は揺らぎません。

 なお、メテオさんは私の文を「意味不明」と表現なさいましたが、それもかなり誇張された表現だと思います。メテオさんが指摘なさったような状態を示すには「事実誤認」、あるいは「誤解」といった言葉のほうが適切でしょう。ともあれメテオさんは私の書いた文の意味を間違いなく理解なさっているのですから、少なくとも「意味不明」ではなかったはずです。

投稿: 樋口裕一 | 2010年5月24日 (月) 09時10分

むかし作曲家の伊福部昭氏が「ストラヴィンスキーとバルトークを両方好きということはありえない」と語っているのを目にして、その発言の背後には日本国民楽派の祖たる氏の方法論の根幹が存在するに違いないと直感したものです。しかしながらストラヴィンスキーもバルトークもわたしの心からは遠い作曲家たちであったために、それ以上掘り下げることなく今日まで来てしまいました。同時に、当の本人たちは互いをどう思っていたのだろうかという疑問も胸をかすめましたが、同様に通り過ぎてしまいました。

芸術家は須らく模倣を超えて自分の言葉を見つけ、自分の方法論を構築し、自分の問題意識を形にすることに生涯を費やすわけでして、作家や作曲家のようなを一次創造者にとってはその作品がいわば自分の可能性と同時に弱さや限界をも映し出す鏡となりえます。そして芸術家本人の性格によって、他の同業者に対して攻撃的になったり、自己嫌悪的になったりといったことがあるようです。
それに対して演奏家のような二次創造者は、芸術家として自分なりの言葉で語るという本質は同じであっても、作品というフィルターを通して他者の言葉を代弁しているという意識が強いように感じます。その分だけ自己の本質がさらけ出されているという意識が巧妙に隠蔽されているのかもしれません。(模倣の域を出ない演奏家については言うまでもありません)
自分の方法論について極度に意識的な演奏家、たとえばチェリビダッケのような人は同業者に対して容赦ないですね。同時にチェリビダッケは「マーラーの音楽が理解できない」と語っている。自分の方法論では解明できないというわけで、逆にここからひもとけばおそらくチェリビダッケの方法論の一端が垣間見えるのではあるまいかなどと想像したりします。

アルマによれば、マーラーは「エレクトラ」と「サロメ」を高く評価する一方「薔薇の騎士」はそれほど評価していなかったとのことですし、シュトラウスの人間性についても嫌悪の情を抱いていたといいます。しかし、実際はシュトラウスを嫌っていたのはアルマのほうだったという人もいます。今は絶版となっているマーラーとシュトラウスの往復書簡集をわたしは読んでいませんので、ふたりが互いをどう思っていたのかについては想像することしかできません。
世界観の違いからふたりの関係を読み解く貴兄の論考も、結局は貴兄ご自身の内面(世界観?)の反映にすぎず、当のご本人たちのあずかり知らぬことなのではあるまいか、と思わないでもありません。

投稿: メテオ | 2010年5月24日 (月) 15時21分

メテオ様
ご返事ありがとうございます。
全面的ではないにせよ、私の考えを理解いただけたようでうれしく思っています。
チェリビダッケは大好きな指揮者で、一時、追いかけて聴いていました。ある日本公演のDVDにも観客の中にかつての私が映っているようです。彼のマーラー罵倒の言葉に胸のすく思いがしたのを覚えています。チェリビダッケに裏づけされて、私はマーラー嫌いに自信を持ったのかもしれません。
演奏家について、作曲家についてのメテオさんのご指摘、まったく異存がありません。その通りだと思います。
そして、私の描くマーラー対シュトラウスの思想対立は、おっしゃるとおり、私自身の内面の問題です。二人に仮託して私は自分自身の問題を考えているといえるかもしれませんし、二人を考えることによって自分自身の問題を見つけ出したのかもしれません。が、芸術に触れ、それを愛し、それを考えるというのは、そのような行為だろうと思っています。
おかげで考えを少し深めることができたように思っています。

投稿: 樋口裕一 | 2010年5月26日 (水) 07時51分

 こんにちは。このところ色々あって半月ばかりネットを渉猟していなかったのですが、いつのまにやら盛り上がって終わっておられたのですね(笑)

 今更ですが.....
 音楽は思想である、というのは、一つの比喩としてなら理解可能だと思います。世界観に裏付けられて作り上げられたもの、という考え方は、確かに理解可能だと思います。
 ただ、一方で、音楽というものが個人の世界観を表現する手段として確立されたのは19世紀以降だとして、では19世紀以降の音楽が全て「世界観の表出」として捉えられるものか、と言われると、それはどうかな、と思うのです。
 それともう一つ、音楽というものが持っているどうしようもない性質、即ち、感覚に訴えかける要素というものがある以上、音楽を「思想」や「世界観」の表出として捉える見方には限界があると思うのです。むしろ、音楽というのは、感覚に訴えかける効果によって、「思想」や「世界観」の側にいいように使われることすらあります。無論、使われ方は色々ですが。
 その意味で、個人的には、「思想」や「世界観」というものに立脚するきき方はあまりしていない気がします。

 音楽をきくきき方には、幾つかの方法論(そんな大層なもんじゃないですが)があるのだろうなと思うのです。音楽の中に「思想」や「世界観」を見る、というのも、一つの方法論ではあると思います。ただ、そうしたきき方だけで行ってしまうと、最後はその音楽の良し悪しを語っているのか、それとも「思想」や「世界観」の是非を語っているのか、分からなくなってしまうのではないでしょうか。否、そもそもその音楽からどんな「思想」や「世界観」を聞き取ったのかを巡っての議論、みたいなことになるのでは。

 ぶっちゃけた話、私は割合「どんな音楽でも聞ける」人に近いと思います。演奏の良し悪しとかは知ったかぶりしてうるさいですが(苦笑)ただ、少なくとも、その中では、私は幾つかのきき方の「抽き出し」を持っているのだろうと自惚れていて、「思想」とか「世界観」を見るきき方もその内の一つではあるけれど、唯一の基準ではないだろうな、と思っています。その抽き出しも、歳経る毎に変わりもするし、増えもするし、失われもする。それがまた楽しいと思っています。
 恐らくは歳下の分際で不遜ながら、以前「改めて聞いてみては如何ですか?」というコメントを差し上げたのには、そうした思いがあります。失礼とは存じますが....

投稿: Verdi | 2010年5月30日 (日) 23時12分

Verdi様
コメント、ありがとうございます。
先日、次々とコメントが寄せられていたころ、Verdiさんの参戦がありはしないかとひやひやしていました(笑)。
その後、考えていることがありますので、近日中にもう少しまとめてブログに書こうと思っています。安易に書いて、また先日のようなことになると大変ですので、多少私の中にエネルギーがたまるのを待っているところです。
ただ、一つだけ釈明しておきたいのは、私が「音楽は思想である」と言うとき、いえ、そのことに限らず私が何かを主張する時、「ほかのだれにとってもそうでなければならない」と語っているのではなく、あくまでも「私にとって」だということです。私は常にそのような言い方をしてきました。もしかすると、これが私の生きるスタイルであり、私の著書のスタイルなのかもしれません。
それ以外のことにつきましては、返事をもう少しお待ちください。

投稿: 樋口裕一 | 2010年6月 1日 (火) 08時18分

音楽は思想だと思います。和声、メロディ、アーティキュレーションなど、さまざまなものに形を変えて、その人の生き様が現れると思っています。

ぐっとくるメロディとか、何となくいい感じとか言いますが、これが作曲家の本質であり、思想ではないでしょうか?

例としてベートーベンの熱情ソナタ。私独自の感じ方ですが・・・慟哭と平安、挫折と復活などを音になぞらえて、人生の光と影を表したかったのでは?と思います。余談ですが、ベートーベンの楽曲は美しいです。

素人が指一本でピアノを叩いても、さまになるし、癒されます。これも彼の思想に触れていることになると思います。

投稿: 鈴 | 2012年10月28日 (日) 02時22分

鈴 様
コメントありがとうございます。
同じような認識を持ってくださっている人がいてくれて、とてもうれしく思います。私としましては、大嫌いな作曲家、大嫌いな演奏家がいて当然だと思うのと同じように、「音楽は思想だ」というのもごく当たり前のことだと思ってきましたので、そう思っておられない人がいることに、大変驚いたのでした。もちろん、様々な音楽の捉え方があってよいと思いますが、これからも私は思想の表明として音楽をきいていくだろうと思います。

投稿: 樋口裕一 | 2012年10月29日 (月) 08時10分

はじめまして(^∇^)!
かねてからご高著を拝読し、樋口先生のユニークな音楽論を楽しませていただいております。
是非とも樋口先生のお考えを伺いたく、思わず初コメントいたしました(笑)

「音楽は思想である」とのことですが、先生は、ジョン・ケージやストラヴィンスキー等の音楽についても、同様にお考えでしょうか?

ケージは(ソースは失念しましたが)、「意味などなくともよいものが二つある。笑いと音楽である。」というカントの言葉を引き合いに出し、「私にとって音楽は何物も意味しない。ただただ『音』であってくれればそれでいい。」と語っています。
また、ストラヴィンスキーは「音楽は何も表現しない」という趣旨の言葉を残しています。

私は、「音をこんな風に組み合わせたら面白いことになったよ」という類の音楽はあると思いますし、そういった生理的な刺激・面白さを求めた音楽には思想だとか世界観というのは無縁ではないかと考えています。
また、故郷で聴く虫や蛙の声、川のせせらぎ等も、思想を表現しない立派な音楽だと思っています。

先生はどう思われますか?

投稿: タイラス | 2012年12月27日 (木) 21時01分

タイラス様
コメント、ありがとうございます。
ジョン・ケージにつきましては、実はほとんど知りませんので正確なことは言えませんが、彼こそまさしく音楽の思想家だと私は思っています。引用なさったことばも、言うまでもなく彼の思想を語っているわけですし、「4分33秒」など、まさしく「芸術とは何か」という問いに対する答えであり、それこそが私の言う思想だと思います。私が思想と呼んでいるのは、「世界観」と言い換えてもよいものですが、ケージの場合、ある種のアンガジュマンでさえあると思います。それまでの偏狭な芸術観、人生観に対して異議申し立てを行って、芸術のあり方について新しい理念を掲げたのですから。そして、それは生き方そのものに結び付いていたわけですから。
ストラヴィンスキーについても同じことが言えます。たとえば、「春の祭典」は、それまでの象徴主義的なヨーロッパの音楽美学や芸術精神への異議申し立てだったはずです。ご存じだと思いますが、パリで初演された当時、ジャック・リヴィエールは、ストラヴィンスキーの到来を東方からのバルバリスムとして、あるいはそれまでの象徴主義の閉鎖的な観念を打ちのめす打撃として捉えましたが、まさに、それは当時の知識人に共通の思いだったでしょう。そして、もちろん、ストラヴィンスキー自身、そのような思想の鉄槌を当時のパリに打ち込んだのだと思います。その後、ストラヴィンスキーは新古典派などさまざまな様式に向かうわけですが、そのような変遷も、音楽を世界観の表明として捉え、社会に対してアンガジェしようという意思の表れでしょう。もし、その過程の中で「音楽は思想ではない」といったとしても(コンテクストがわかりませんので断定はできませんが)、そのような思想を表明すること自体が、音楽が思想であることを示しています。もしかすると、その言葉はある時期の自分自身を重ね合わせて、思想的でありすぎた自分自身の音楽のあり方を自己批判しているのかもしれません。

投稿: 樋口裕一 | 2012年12月29日 (土) 09時09分

お返事ありがとうございます!
なるほど。先生は、ケージ等の作品創造の背後にあった発想・コンセプト自体を捉えて、「音楽は思想である」と考えておられるようですね。そのように考えれば、たとえケージが「私は自分の作品にメッセージや思想を込めていない」と言ったとしても、ケージの作品には「音楽はメッセージや思想ではない」という思想が込められていることになりますね。

では、私達が常日頃から耳にする生活音等も思想といえるのでしょうか?
ケージ作品としての「4分33秒」も、私達が普段過ごしている「4分33秒」も、聴覚上の体験としては同等なはずです。
前者について「音楽はメッセージではない、『音』でしかない」というケージの思想表明であると捉えることはできても、後者について同様に捉えることはできないはずです。
聴覚上の体験としては同等であるにも関わらず、「前者は音楽(思想)であって、後者は音楽(思想)ではない」と区別することはできないように思われます。それならば、「前者も後者も同じ音楽(音)であって、思想ではない」と捉える方が整合的ではないでしょうか。
(「前者も後者も音楽(思想)ではない」と捉えることも可能ですが、樋口先生はそのような捉え方をしていないはずです。)。

私は、「音楽は思想である」というテーゼ自体は概ねその通りであると思いますが、全ての音楽を思想の表明と位置付けることはできないと考えます。
年の瀬でお忙しいことかと思いますので、ご都合のあう時にでも先生のご意見を伺えればと思います。

投稿: タイラス | 2012年12月29日 (土) 16時32分

たびたびすみません(>_<)
投稿コメントを見返していたところ、手違いとはいえ、礼を失したコメントを投稿していることに気がつきました。申し訳ありません。
以下のように一部訂正いたします。

>「前者も後者も音楽(思想)ではない」と捉えることも可能ですが、樋口先生はそのような捉え方をしていないはずです

⇒「前者も後者も音楽(思想)ではない」と捉えることも可能ですが、樋口先生はそのような捉え方をしておられないはずです

投稿: タイラス | 2012年12月29日 (土) 23時24分

タイラス様

ご返事、ありがとうございます。
私の書き方が悪かったかもしれません。あるいは、私の考えが十分にまとまっていないのかもしれません。が、私は単に作品の発想が思想的だということのみを捉えて、音楽は思想だと言ったのではありません。そのような発想と思想の表現として音楽があること、そして音楽を聴いた人間が、そのような思想を読みとってしまうという点で、音楽は思想であると語っているつもりでした。
もちろん、生活音は思想ではありません。しかし、生活音に題名をつけて発表すると、その生活音は作曲者の思想の表明になります。なぜなら、生活音の一部のみを切り取り、それ以外のものを排除したわけですから、当然、そこに思想が入ります。聴き手は、そこに思想を読みとろうとします。ケージはもちろん、そのような聴き手の反応を考えて、作品を作っているはずです。
なお、私は「思想」という言葉を「世界観」と同じようなかなり広い意味で捉えています。積極的に「メッセージ」として伝えようとするものとは限りません(私が「アンガジュマン」と語ったのは「メッセージ」に近いものです)。シューベルトは何かを訴えたくて作曲したわけではないでしょう(私がシューベルトを例に挙げたのは、最も思想からかけ離れた作曲家と思われそうなためにほかなりません)。しかし、シューベルトの作品には、音楽はいかにあるべきかという認識、世界や人々に対する姿勢、そしておそらくは当時の政治状況についての意見までも含まれています。もちろん聴き手によって、その解釈は異なるかもしれません。しかし、言葉ではないものによって構成された思想が音楽の中に描かれていることは間違いないでしょう。シューベルトの音楽を聴く人は、音の中からそれらの思想を読みとり、それに共感したり、人によっては反発したりするのだと思います。
私が「音楽は思想だ」といったのは、そのようなごく当たり前のことだと思っているのですが。

投稿: 樋口裕一 | 2012年12月31日 (月) 09時15分

お返事ありがとうございます!
私がケージの「4分33秒」を引き合いにして問題提起したかったのは「『音楽は思想である』と考えると、鳴り響いている音は全く同じものなのに、一方は音楽であり、他方はただの音であると区別してしまう場合がある。それはおかしいのではないか。」というものです。
「音楽は思想である」という前提に立てば、ケージの「4分33秒」は音楽であり、私達がケージのことなど考えずに過ごす「4分33秒」は音楽ではないということになります。
しかし、いずれもそこで鳴り響いている音(自分の鼓動音、呼吸音、周囲の雑音等)に何も違いはないはずです。そうである以上、前者は音楽であり後者は音楽でないと断ずることはできないと思うのです。
これに対し、先生は、前者が音楽であり後者は音楽ではないとお考えかと思います。それは、前者が作曲者によって作品として何らかの意味付けがされているからだということが根拠だと思います。
私の立場と先生のお立場の違いは、音の背後の意味を重視するか否かという点に帰するように思われますね。私は、耳に入ってくる音が全く同じものであれば、「一方は音楽、他方はただの音」と捉えることに違和感を覚えますので、「音楽とただの音を区別することはできず、作品として発表されていない生活音も音楽である。音楽に思想・世界観が反映されない場合もある。音楽をただの音だと考えて鑑賞することもできる。」と考えます。対するに、先生は、背後に意味付けがある場合にのみ、そこで鳴っている音を音楽とお考えではないかと思います。こればかりは、まさに私と先生の思想・世界観の違いなのでしょうね。

私の提起した問題に真剣に応えてくださり、ありがとうございました。今後も、ご高著・ブログでの先生の音楽論を楽しませていただきます!
それでは、良いお年を(^O^)!

投稿: タイラス | 2012年12月31日 (月) 11時49分

タイラス様
ご返事、ありがとうございました。
私自身、考えがまとまっていない部分がたくさんありましたが、おかげさまで少しだけ、自分なりに考えることができました。お礼を申し上げます。

投稿: 樋口裕一 | 2013年1月 3日 (木) 18時36分

「音楽は思想である」

うっ、深い。パクッ、アイデアいただきます。

もちろんこれが音楽に思想(ことば)が込められているか、音楽が言葉の暗喩になっているかという意味なら、月並みです。あえて取り上げる価値もありません。音楽の価値は込められた言葉の価値と一応は関係ないと、多くの場合は断言できます。(そうじゃないと革命京劇みたいになっちゃうよ。)

考えるべきは鳴っている音楽そのものが思想だといえるかどうかということ。これは常識的な意味ならナンセンスです。しかし次の言葉があります。

どんなものにも思想がある。例えばこの剃刀にだって(フィッツジェラルド)
モーツアルトの思想とは音楽だった(というようなことを小林秀雄は言っていた)

思想(というか世界を対象としてとらえそれに何かを言う)ということの構造から考え直さないと、思想と音楽の関係をコトアゲはできませんね。アイデアもらいましたので考えてみます。うまくいったら小林秀雄氏みたいな評論が書けるかも(冗談)

投稿: gkrsnama | 2013年7月16日 (火) 00時39分

gkrsnama様
コメント、ありがとうございます。
ショパンが「音楽は言葉のない思想である」というようなことを語っていると、最近、知りました。実は、ショパンはあまり好きではないのですが、とても興味深く思っています。
私はずっと「音楽は思想だ」ということを当然のことと思ってきましたので、むしろ、そうでないと考えている人がいることに驚いています。音楽こそ、その人が人間・世界・社会をどうとらえているか、最も直接的に表現するものだと思います。

投稿: 樋口裕一 | 2013年7月18日 (木) 00時39分

思想が、もっぱら外部の存在について客観的に語」ろうとするものであるとすれば、音楽とは何の関係もありません。客観的なコトバ、たとえば科学がそうなのですが、音楽には検証可能なものは何もないのです。

さて、客観性的なコトバにはもう一つ、公理に基づく論理的推論というのもあります。これが音楽に関係ないというと、おそらくピタゴラスから強力な反対意見が提出されるでしょう。音楽こそは、世界の最も奥深い秩序の反映である、と。この考えは、古典欧州世界を支配しており、そのために初期の大学では音楽こそが七自由学芸の主、学問の王であったわけです。(共振周波数のオクターブと五度の関係から生み出されたこの主張の矛盾が、やがて平均率を生むことになります。)この意見は現代でも、重要な詩的意義をもっているということができるでしょう。

しかしながら、思想とは、「外部の存在について客観的に語」ろうとするものなのでしょうか。実証科学として確立されたものは確かにそうです。私には理論的に語る能力はありませんが、経験的に言ってそうではないと思います。世にある「思想」と呼ばれるものは、「外部の存在を客観的に語」ろうとしながら実は自らを語るのではないのでしょうか。思想の内の「外部の存在を客観的に語」る部分は、やがて科学として確立され思想から切りり出されることになります。
……このような私の考えは、実証科学が確立した現代でこそ発想できるのかもしれませんが。

では、思想のコトバによって語られる象とはどんなものなのでしょうか。科学としてくっきり確立される前の、相対的に未熟な、逆にそれゆえに豊饒なアイデアを含んだ、混沌を含む像であるということができるでしょう。優れた思想は、検証された確かさではなく、その豊かさゆえに、時代を超えた古典としての輝きを放つことになります。

コトバを紡ぐとき、(私の場合は)頭の中で一瞬にして全体が見え、はじめから終りまで鳴り響いているわけではありません。はじめはぼんやりしたイメージがあり、それをコトバで言いあて、さらに筋を立て、他人に理解できるものにする。コトバを使うと言うことは、作業の結果なのです。では、最後に思想のコトバに昇華するはずの諸アイデアの最も原初的な姿とはどういうものなのでしょうか。それは他の感情やイメージをまじりあった、気分としか言えないもの、そう感じられます。

ここまで降りてくれば、コトバとして打ち立てられた思想と、音楽の違いは、原初体験の切り取り方の違いということができるのではないでしょうか。

コトバはコトバにあった仕方で、経験を整え体系として提出する(そうでないと他人がわからない)。音楽は別の仕方でそうする。

ジャズのビルエバンスが面白いことを言っています。「私が演奏するのは、音楽がないと表せない人間の本質的な感受性をくっきりと掬いとるためだ」と。

投稿: gkrsnama | 2013年8月 3日 (土) 07時51分

gkrsnama様
コメントありがとうございます。おっしゃる通りだと思います。
私は、人間は言葉で思考すると考えています。が、同時に、真実を言葉で語ることはできないとも思っています。なぜなら、真実は「全体」であるからであり、言葉は分節化によってなるものであるからです。言葉が語れるのはあくまでも近似値でしかなく、真実はその向こうにあります。そして、音楽だけが真実に達することができると思っています。
私がバッハやベートーヴェンの音楽に魂が震えるのは、そこに真実を読み取ったからにほかなりません。
ただ、このようなことを書くとどうしても青臭くなり、しかも、それをだれもが納得できるように論理的に書く力が私にはありませんので、最近ではあえてそのようなことは書かないのですが、10代のころから、私はずっとそのように考えています。

投稿: 樋口裕一 | 2013年8月 5日 (月) 07時38分

>私がバッハやベートーヴェンの音楽に魂が震えるのは、そこに真実を読み取ったからにほかなりません。ただ、このようなことを書くとどうしても青臭くなり、しかも、それをだれもが納得できるように論理的に書く力が私にはありませんので……

まさに「語りえぬもの」ですね。これは現代哲学の扇のかなめというか車輪の軸というか、そういう位置にあります。どの思想も、語りえぬもののこちらがわか、向こう側かを扱おうとしていると思えます。不安だ、存在だ、脱構築だ、スキゾ(統合失調症)だ、理念型とモデライジングだ、と。もういっぱい。最近、ポストモダン論を読んでまして、今度は少しはわかるようになりました。

でもね、本当は沢山の単語を並べて理屈なんか言わずに、音楽を聞けば判る・座れば(座禅)判る、気が狂えば判るってことでしょうがね。

語りえぬもの・言語の限界は存在するのは判るのですが、他方で正義や真理という理念(その極点には数学的形式的真理や検証可能性がある)はなお機能していますし、それがなしにはアイデンティティも保てませんし思考も討論も不可能なわけです。

だからそういった理念を軸に相争う諸思想の相互関係を分析してみよう、私はそういうところに立脚点を持っています。

投稿: gkrsnama | 2013年9月10日 (火) 00時51分

gkrsnama様
コメントありがとうございます。
どのようにご返事してよいのか分からず、そのままになってしまいました。
おっしゃること、大変よくわかります。私も同じような関心から、一時期、ポストモダンや仏教、ヴィトゲンシュタインなどに関心を持っていたのですが、迷路に入り込んで、とりあえず今は音楽で遊ぶことを選択しているところです。しかし、本質的な問題はそこだということは、ずっと考えているのです。

投稿: 樋口裕一 | 2013年9月17日 (火) 08時24分

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