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続・「音楽は思想である」(いくつかの「疑問」に答えて)

「音楽は思想である」と書いたことに関して、何人もの方から疑問が寄せられた。私はむしろ、「そんなことは当たり前だ。何を今さら、そんなわかりきったことを言っているのか」という反応が寄せられるものと思っていたら、反論や疑問が寄せられたので、むしろ驚いたほどだった。

 が、考えてみると、今回、多くの人が疑問を抱いていることは、「音楽は思想である」という事柄にかかわることと言うよりも、むしろ私の考え方、私の生き方にからむことなのかもしれない。

 まず一般論から。

 コメントをくださった「とおりすがり」さんへの返事でも書いたとおり、私は、「自分の価値観をしっかり持て。同時に、自分とは別の価値観も許容せよ」ということを自分に言い聞かせている。これは、いわば私の信条だ。が、実はこれがかなり難しい。自分の価値観をしっかり持つことは、他の価値観を否定することにつながりやすい。他人の価値観を許容すると、自分の価値観があやふやになる。

 そこで、私は次のような態度を取るように心がけている。

 私は、自分の価値観をしっかりと持ち、それを何よりもはっきりと発信する。ほかの考えの人に考慮しすぎると、自分の考えを持てない。だから、まずはしっかりとした自分の考えを持つ。価値観をはっきりと持つということは、ほかの価値観を退けるということであり、いいかえれば、私には受け入れがたい価値観を敵に回すということにほかならない。だから、私には敵が存在することになる。私が何かを発信するということは、すなわち敵を作ることにつながる。ひとつの価値観を発信したからには、敵に攻撃されることを覚悟しなければならない。みんなから好かれようなどと期待してはいけない。一部の支持は受けても、多くの人から非難されるだろう。発信するとはそういうことだ。

 ただし、私の価値観が絶対ではなく、あくまでも私の考えでしかないことは自覚しておかなければならない。それゆえ、別の価値観の人が現れたら、真摯に耳を傾けなければならない。その人が本気で語ろうとしているのであれば、その人を頭から軽蔑したり、耳を貸さなかったりするべきではない。その人の立場を真摯に理解しようとしなければならない。それでも自分のほうが正しいと思ったら、相手を説得しようとするべきだが、それができなかったら、別の価値観が存在するということをしっかりと認識する必要がある。

 だが、だからといっても、別の考えの人に妥協する必要はまったくない。「私」という存在は、私の確信、私の価値観から成っている。もちろん、究極においては、すべての確信は思い込みでしかなく、すべての真実は虚構でしかない。しかし、そのように考えてしまうと、不毛な相対主義に陥ってしまい、自分という存在が成立しなくなる。自分の間違いに気づくまでは、あくまでも、自分の価値観は守る必要がある。

 私はずっとこういう覚悟で生きてきた。本を書く場合も、このような態度を貫いているつもりだ。私は実はかなり温厚で内向的で、自分に自信が持てない気の弱い人間なのだが、このように強く生きることを自分に言い聞かせている。

 以上述べたことを、このブログで問題になっていることにからめて具体的に言うと、こういうことだ。

 私は「音楽は思想である」と考えている。「音楽のすべてが好きだ」という人を信用しない。「音楽は癒しなどではない」「音楽を癒しとして聞くべきではない」「音楽は論理であって、感覚だけで聞くものではない」と確信している。そして、いうまでもなく、「音楽はすべて好きだ」と主張する人や「音楽は癒しであるべきだ」と語る人を批判する。もちろん個人攻撃はしないし、そのように語る人を軽蔑することはない。その考えに一理あることも認める場合もある。だが、それらの考えを否定する。

 そうした私の態度に対して、数人の方から投げかけられた疑問は、一言でいえば、「自分の考えこそが絶対と思って、ほかの音楽観は認めないのか」ということに尽きるだろう。

 それに対して正確に答えるとすれば、「私は自分の音楽観が普遍的に正しいと思っているわけではない。ほかの考えを持つ人がいることは十分に承知している。それに一理あることも承知している。しかし、その考えが間違っていると、私は主義として信じている。だから、私以外の考えを認めない」ということになる。

 もし、私の考えがわかりにくかったら、ほかの宗教に対しても融和的でありながらも、敬虔なキリスト教徒を思い浮かべていただきたい。きっとそのような人は世界中にたくさんおられるだろう。

 そのようなキリスト教徒は「イエス・キリストの考えが絶対である。イエスは復活した」という確信を持っているだろう。では、「自分の考えこそが絶対と思って、ほかの宗教は認めないのか。ほかの宗教を信じる人を劣った人、間違った人と思うのか」と問われたら、まったく私と同じように「私は自分の宗教が普遍的に正しいと思っているわけではない。ほかの考えをする人がいることは承知している。それに一理あることも承知している。しかし、ほかの宗教は間違っていると、私は主義として信じている。だから、ほかの宗教を私は認めない」答えるのではないか。

 もちろん、私の考えは宗教ではない。私はキリスト教とでもない。しかし、このアナロジーによって私の言いたいことはわかってもらえるのではないだろうか。そして、このことが、何人かの方の疑問に対する答えになると思うのだが、どうだろう。

 私が「音楽は思想である」と書いたとき、実は、私は反論を期待していた。「いや、音楽は思想ではない。○○なのだ」という、その人なりの音楽観を寄せてほしいと思っていた。私はそれを是非聞きたかった。私には、「すべての音楽が好きだ」と言うタイプの人が、音楽を、あるいは作曲家をどう捉えているのか知りたい。

 私が想像するに、もしかして、その人たちは、作曲家を学ぶべき聖なる存在と思っているのだろうか。不可侵の存在であり、学ぶべきことがたくさんあり、すべての人が尊敬するべき存在なのだろうか。あるいは、自己を投影するための母親のような対象と捉えているのだろうか。そのあたりのことが、実はよくわからない。

 もちろん、「音楽とは・・・である」と一義的に規定するのは乱暴な話だと思う。だが、私が「音楽とは思想である」と規定したのだから、それに対立する概念は出せるはずだ。少なくとも、人それぞれの考えを示すことはできるだろう。そのように物事を明確に捉えることが大事だと私は思う。

 私はそのようにして、価値観の異なる人間同士が自分の考えを明確にすることによって、新しい視点が見つかり、様々な領域をいっそう豊かなものにすると考えている。

 なお、一つ注意しておいていただきたいのは、私は「マーラーは最低の作曲家だ」「マーラーの曲は価値がない」などと一言も言っていないことだ。私はあくまでも、私個人の価値観に基づいて、「嫌いだ」という主観的な言葉を用いている。私は神の立場から判断しているのではなく、あくまでも私の価値観に基づいて書いている。

 ところで、Yさんから、「音楽の感動を多くの人に伝えたいと思っているのなら、特定の作曲家を嫌いなどと言うべきではない」というようなコメントをもらった。これについて、ひとこと言及しておきたい。

 私は、音楽の感動を多くの人に伝えたいと考えて、クラシック音楽の本を書き、それなりの活動をしている。だが、これまで書いたことでわかっていただける通り、私は作曲家や演奏家を嫌うのは、当然のことだと考えている。もっと言えば、クラシック音楽を楽しむひとつの方法として、作曲家を嫌うことがあるのだといってもいいだろう。

 私の感覚では、私にとってのマーラーは、相撲で言えば朝青龍のようなものだ。多くのファンは朝青龍をヒール扱いして相撲を楽しんでいる。それと同じで、私はマーラーを嫌って、音楽を楽しんでいる。多くの人に好きな作曲家と嫌いな作曲家がいるだろう。それを含めて、音楽の楽しみなのだ。

 好きな作曲家ばかりだったら、音楽の世界はどんなに退屈だろう! 大好きな作曲家がいて大嫌いな作曲家がいる。大好きな演奏家も大嫌いな演奏家もいる。大好きな作曲家の大好きな曲を、大嫌いな演奏家が演奏して、台無しにしてしまうこともある。そのときには激しい怒りを覚える。ところが、その演奏を素晴らしいと考えているクラシックファンがいる。そこで議論する。そして、だんだんと音楽に対する理解を深めていく。あるいは、大嫌いな曲を大好きな演奏家が演奏して、その作曲家の新しい側面を見せてくれて、突然、その作曲家が好きになることもある。

 これが私の音楽の楽しみ方だ。そして、それを多くの人に伝えたいと思っている。もちろん、いうまでもないことだが、これは私の価値観に基づいての断定であって、これに反対する人がいるだろうことは理解しているつもりだ。

 では、「音楽は思想である」と言うときの、「音楽の思想の形」はどのようなものか。それについて、「アリス」さんに質問された。

 私が「思想」と読んでいるのは、「プルーストの思想」「漱石の思想」などと言うときの「思想」であって、「主義(イズム)」ではない。「世界観の表明」と言い換えてもいい。

 私としては、拙著『笑えるクラシック』(幻冬舎新書)と『ヴァーグナー 西洋近代の黄昏』(春秋社)でバッハ、ベートーヴェン、ワーグナー、ラヴェル、R・シュトラウスの思想について書いたつもりでいる。とりわけ後者は、そのデキはともかく、私自身はかなり気合を入れて書いた。

 ここに、『笑えるクラシック』の一部を引用する。私のシュトラウス観とマーラー観を少しまとめた部分だ。ごく短くまとめているので、この部分だけでは誤解を受けるかもしれないが、私が「思想」と言うときのイメージをわかっていただけると思う。

 なお、シュトラウスやマーラーについては、『ヴァーグナー 西洋近代の黄昏』にも、もう少し詳しく書いている。

1964年に生まれ、ニーチェによって神の死が宣言された時代に生きたシュトラウスは、ワーグナーの後の世代に属する。もはや崇高なものを信じることができない。神は存在しない。無前提の統一も存在しない。精神的な崇高さもすでに信じられない。ベートーヴェンのような偉大な世界を音楽によって現出することはできない。

先ほど、シュトラウスがさまざまな情景の描写を行ったことを説明した。なぜ、シュトラウスは標題音楽を作曲するのか。なぜ、細かい描写をするのか。ほかに何を描いてよいのかわからないからだ。崇高なものを描けなくなったからには、ものの描写をしたり、音のテクニックで聴くものを酔わせたりするしかない。時には、その技術の冴えを観客に見せ付けて、驚かせるしかない。

よく、シュトラウスは同時代のマーラーと比較される。深刻に世界を捉え、音楽の中に自分の悲観的な世界観を表現したマーラーに対して、快楽的なシュトラウスが語られる。日本では、圧倒的にマーラーのほうがレベルの高い音楽を残したとみなされている。

だが、私のようなシュトラウス好きからすると、マーラーは時代遅れの観念にこだわっている人間に見える。くよくよと自分にこだわって悩んでいる。すでにあるはずのない形而上学的な音楽世界に憧れ、それを再現させようとしている。だが、すでにベートーヴェン的なものがあるはずがないので卑小なものにしかならない。卑小さを隠すために、規模を大きくするしかない。私はマーラーの音楽を聴くとそのように感じてしまう。

それよりは、深刻に悩むのでなく、シュトラウスのように、すでに神のいない音楽を楽しく奏でるほうがよいのではないかと、私は思うのだ。

私が言いたいのは、シュトラウスはまさしく「音楽のドン・キホーテ」だということだ。

シュトラウスはドン・キホーテのように、モーツァルトやベートーヴェンやワーグナーなどの過去の英雄をまね、壮大な音楽を作る。すでに失われた神聖なる音楽の時代を真似ようとする。騎士のいない時代にドン・キホーテが騎士を演じたと同じように、神聖なる形而上学の世界がなくなった時代に、シュトラウスはかつての音楽の英雄たちを演じる。

だが、シュトラウスがドン・キホーテと異なる点がある。それは、シュトラウスが自分の姿に気づいていることだ。自分が時代遅れだと知っている。ドン・キホーテでしかないことを知っている。それは悲劇だといえるだろう。だが、同時に、だからこそ余計にこっけいなのだ。

『英雄の生涯』は、ベートーヴェンの英雄やワーグナーの英雄物語のような過去の偉大なる音楽のパロディだといっていいだろう。そして、私がシュトラウスをこよなく愛するのは、そうしたことをおそらく完璧に意識した上で、大真面目に自分を主人公としたパロディを演じていることだ。

それゆえ、私は『英雄の生涯』を聞くとき、何よりも英雄のドン・キホーテぶりを楽しむべきなのだと考えている。現代ではちっぽけな存在でしかなく、英雄にはなりきれないのに、自分を英雄と見立てて必死に現実に抗い、過去の偉大な英雄たちに匹敵しようと悪戦苦闘する様を笑ってみるべきなのだ。

 もちろん、ドン・キホーテを読みながら、いつまでも笑っているわけには行かない。読み勧めるうちに、ドン・キホーテの中に、単に滑稽なだけではない崇高さを覚える。『英雄の生涯』も同じだ。この滑稽さの中に、そしてドン・キホーテ的な大言壮語の中に、一つの悲劇を見るべきなのだ。だが、そこで泣いてしまってはいけないと、私は思う。あくまでも笑ってあげるべきなのだ。笑いながら、心の底で感動する。それがこの音楽の正しい聴き方だと、私は思う。

 ところで、私は原則としてコメントをいただいた方には、できるだけ真面目にお答えしたいと考えている。それが、ブログの意味だと思っているからだ。が、初めから喧嘩腰のものについては、不毛な応酬になりかねないので、返事をせずに削除させていただくつもりでいる。昨晩、残念ながら、一件、そのようなコメントが届いたので、削除させていただいたことを報告しておく。

 念のために付け加えておくが、以前にも書いたとおり、私は「音楽評論家」ではない。「クラシック音楽好き」「クラシック音楽愛好者」、せいぜい「クラシック音楽通」にすぎない。また、私がブログで書いているのは、「演奏会評」ではない。一愛好者による極めて主観的な「演奏会の感想」だ。評論家として演奏会評を書いているつもりはまったくないので、誤解しないでいただきたい。

 なお、この記事について疑問点、反論などたくさんあるかもと思う。ただ、コメントをいただいても、すぐにはお返事できないことを前もってお断りしておく。明日から3日間、北海道にいくことになっている。パソコンは持ち歩くが、ブログを書く余裕があるかどうかわからない。

 私に賛成してくださる必要はないが、ぜひとも私の考え方はわかっていただきたいと思っている。

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コメント

はじめまして。いろいろと楽しく読ませていただきました。樋口さんが自分の意見と立ち位置をはっきりとさせたことで、これだけの意見がついている、なるほどたしかにそれによっていろいろと言われることはあるものの、そこからこれだけ音楽というものから話が広げられるのかと興味深く、そして楽しく読ませていただかせものでした。今回の樋口さんの文で面白かったのは「音楽は論理であって、感覚だけで聞くものではない」というところでしょうか。「音楽は論理であって、感覚だけで聞くものではない」。たしかにそうかもしれません。ただ論理というのはどうしても言葉や文字、数字という目に見えるものに頼り「だと思う」みたいなものを極力排除し明確な答えを出す傾向があるのに対し、音楽というのはその肝心の言葉や文字の外にある場合が多く、唯一楽譜における音符が存在してはいるものの、それとてあまりいい例えではありませんが、登山における地図のようなものでしかありません。そうなるとどこまで論理的につきつめられるのかとてもむつかしく、それこそ音楽の尻尾くらいはそれでとらえられ証明できても、それ以外の音楽の領域のみに存在している部分はどうなるのだろうとなってしまうところがあります(そこの部分が音楽の存在する意義でもあるのですが)。しかもそのどうなのだろうという部分を多くの人は対象にし、聴きそして感動し、ある人は癒しにしているわけですから、そういう意味で音楽ってある意味誰にでも手を出せるけど、誰にもそのすべてをわかることのできない、とても手強い「お化け」みたいなものと自分は思っています。(もっとも演奏家はそれをつきつめなければいけないわけですし、その音楽を「聴き」そこから「聞く」ことのできるものを、また「聴く」ものへと再転化していくのですから、ほんとにたいへんだと思います。まあアンセルメのように音楽を説明するのに数学を用いるのが便利という方は別なのかもしれません。)ご意見には賛成ですが、それが自分の場合はまだ感覚的なものであるというところに自分の限界を感じてしまいました。このあたの樋口様の考えとそれに対する皆様のやりとりはそういう意味でもとても興味深いものがありました。

最後に音楽を聴いていて、自分の嫌いな演奏や音楽というものはどうしてもでてきます。それはそれで仕方ないという気がしますが、ただどうして嫌いなのだろうということを自問自答するのはとてもいいことですし楽しいことだと思います。といいますのも、その「嫌い」と感じた部分こそが自分の意見であって、その演奏や音楽を聴いて生じた影のような部分に、じつに自分自身をはっきりとみてとれる、自分の趣味、感性、そして価値観、さらには哲学というものを再確認できるという気がしますし、新しい自分の発見というものもときにはあるからです。そういう意味で樋口さんの今回のこのブログでの皆様とのやりとりって、ある意味それらと同じの自分再確認であり、再発見の場にもなったのでは?と思ったりもしています。

とても面白いお話でした。これからもときおり読ませていただきます。ありがとうございました。因みに自分はかなりのマーラー好きです。m(. ̄  ̄.)mス・スイマセーン

投稿: かきのたね | 2010年5月16日 (日) 17時04分

こんばんは。久しぶりにコメントさせていただきます。

一連の「音楽は思想だ」記事とコメント興味深く読ませていただきました。ちなみに自分はクラシックは多少聴きますが、こんなハイレベルな議論にはとても参戦できません。色々な熱い意見、激論を拝見し、先生の主張を読み、何だか凄い覚悟の様なものを感じました。趣味に過ぎない音楽でも、ここまで真剣になれるということは、人生を豊かにするでしょうね。見習わなくてはと思い、コメントさせていただきました。

私はマーラーは「大地の歌」しか知りません。良い悪いより、何となく「難しい」としか感じませんでしたねえ。もう一度真剣に聴いてみます。好きになるか、嫌いになるかわかりませんですけどね(^.^)

投稿: 小径 | 2010年5月16日 (日) 20時29分

今みたらずいぶん誤字脱字が多く読みずらいですね。すみません。

投稿: かきのたね | 2010年5月16日 (日) 22時59分

樋口さん、ありがとうございました。完全に満足なご回答ではないけれども、できる限り誠実にお答えくださったと思います。率直に申し上げて、ここに書かれている貴兄の音楽とのつき合い方は、どうしても恣意的なものに見えてしまいますね。

自分を持たねばということもわかりますし、立場を決めて真剣に音楽と向きあう姿勢の大事さもわかるのですが、では、それがマーラーやショパンといった「嫌いな存在」に対しても、同じように誠実な向き合い方になっているのか。自分の好きなものを持ち上げるために、嫌いなものが笑いものになされているのではないかという見方が、要らぬ反論を呼んでいるように思います。

私の経験や感覚では、クラシックの愛好家は貴兄のような考え方をする人のほうが主流ですし、そこにかえって問題があるという見方をしています。個人の好き嫌いなんて、私にとったらどうでもいいことです。私はもっと作曲家たちの、あるいは、作品たちの投げかけるメッセージに誠実でありたいと思います。私の音楽観などちっぽけなもので、過去に遺された偉大なメッセージの積み重ねのうえには意味をもちません。

私にとって価値あることは、そうしたメッセージを音楽家たちの活動から読み取って、常に、より正しいイメージで捉えなおしていくことです。幸か不幸か、この分野の仕事はかなり積み残されており、30代に入ったばかりの私からみても、逆に激しい忘却の過程に入っているのではないかという危機意識があります。そこをしっかり見つめなおすためには、自分の一生は短すぎるぐらいでしょう。

一般に知られているような、つまり、雑誌などで読めるような日本における音楽批評のトレンドは、こうした方向からいって有害以外の何ものでもないと思っています。その点で、私は樋口さんのお考えには対立する部分があることを告白しておきます。あとは、自分のところで書くつもりですが、難しい問題だと思います。

投稿: アリス | 2010年5月18日 (火) 02時06分

かきのたね様
コメント、ありがとうございます。
おっしゃるとおりだと思っています。音楽は思想だとはいえ、その思想は言語化できない部分が多く、しかも、どうしても聴き手の主観によらざるを得ない性格のものだと思います。
実を言いますと、音楽を聴きながら直感的にその人の思想を「感じる」ことはよくありますが、それを明確にし、ほかの方にもわかるようにするのがきわめて困難です。私に楽譜を分析することによって作曲家の思想を取り出すという作業(これこそ、本当に難しいことだと思いますが)ができればいいのですが、それができませんので、オペラ台本や作曲態度などから類推するしかありません。
私のマーラー嫌いについてですが、かつて友人に「それは同族嫌悪だ」といわれたことがありました。その人にいわせると、「お前がマーラーについて語っている悪口は、おれがお前に感じていることにそっくりだ」ということでした。私は、それ以来、なぜ自分がマーラーを嫌うかについて、かなり考えてきたつもりです。
せっかくこのようなことを考え始めましたので、もう少し精緻にできましたら、またこのブログに書こうと思っています。

投稿: 樋口裕一 | 2010年5月19日 (水) 09時02分

小径様
コメントありがとうございます。
私の「覚悟」は小論文指導の中で培ったものでした。あちこちから反発を受け、インターネットの予備校サイトでも、(おそらくは、ライバル講師たちから)激しく非難されながら、覚悟が決まっていったものです。現在では、音楽について語ってもほかのことを語っても、そのような姿勢で臨むようになりました。逆に言うと、あまりうかつなことは言えなくなりました。
機会がありましたら、またコメントをお願いします。

投稿: 樋口裕一 | 2010年5月19日 (水) 09時08分

アリス様
きわめて重要な問題を示してくださったと思います。確かに、しっかりと考えなければならない問題です。もしかしたら、音楽、あるいは芸術に対する際の最重要の問題のひとつかもしれません。
先日、吉田秀和の「之を楽しむものに如かず」を読み、まさしくアリスさんが言われるような考えが示されていることに感銘を受けました。私も見習わなければと思いつつ、やはりできずにいます。きっと私の音楽観(あるいは、私の人格?)は吉田先生と異なるのでしょう。そして、私は、どうやら精神的に宇野功芳先生に近いようです(宇野先生の文章には私もしばしば反発を覚えるのですが)。
私ももう少し考えてみます。まとまりましたら、このブログに書かせていただきます。アリスさんのブログものぞかせていただきます。

投稿: 樋口裕一 | 2010年5月19日 (水) 09時17分

こんばんは。

私は日常的にクラシック音楽を聴いている者ではありません。
しかし、マーラーは好きです。

マーラーを聴いていると神を感じるからです。

私は芸術は神の具体化だと考えていますので神を否定するようなものは芸術に有らずです。

ニーチェは「神は死んだ」という思想のおかげで今現在も地獄の無意識界というところに居ると言われているのですから…。

投稿: なべ | 2010年5月19日 (水) 21時19分

樋口さま。

たいへん読みづらい自分の書き込みコメントをいただき感謝しております。最初樋口様のブログをみていたら「この人、ご飯を食べるときに『いただきます』と言わない人なのかな?」と思ったりしたのですが、読み進めるうちにそういう方ではないということがわかり、思い切ってコメントを書かせていただいた次第です。

あと横から入るようで申し訳ないのですが、アリス様のコメントは、自分も普段から強く感じ、そして常に気をつけている部分でもあります。「相手を認めてからでないとすべてははじまらない。」ということがそのベースにあると思いますが、それ以上に上にも書きましたが「いただきます」の意味を考えて一度でも食事をとれば、そういうことは少しでも是正されるような気がします。音楽は日常的なものかもしれませんが、そのつくられてきた過程を思えば、音楽を聴く時は食事を食べる時と同様に、感謝がまずあって然るべきではないのかな、ということです。そしてそれは誠実というものがあってこその行為だと思います。それがあれば楽天的かつ単純にすぎるかもしれませんが、アリス様のおっしゃられるような悲しい物言いは少しでも減るのではという気もしています。

たいへん長々と失礼いたしました。後は自分のサイトとブログでこの問題についておりにふれ書いていきたいと思います。気候が変わりやすい時期ですので樋口様も健康には充分ご注意ください。

余談ですが「元祖天才バカボン」は自分にとってもリアルタイムなアニメです。(;´Д`A ``` それにしてもマーラーと同族ですか。なんか凄いですね。

投稿: かきのたね | 2010年5月20日 (木) 02時20分

なべ様
コメントありがとうございます。
マーラーに「神」を感じられるということですが、私は、むしろ、マーラーには神の喪失、そのゆえの自我の分裂を感じます。マーラーがユダヤ人であったことも含めて、そのような要素が強いのではないかと思います。もちろん、様々な捉え方があると思いますが、マーラーを自我の分裂として捉えるほうが音楽史的にも常識となっていることではないでしょうか。
もちろん、すでにお聞きになっていると思いますが、誰もが神を感じるとすれば、ロマン派の作曲家ではブルックナーではないでしょうか。とりわけ、8番と9番は神の存在、神の威光、信仰の深さに心の底から感動します。

投稿: 樋口裕一 | 2010年5月20日 (木) 08時36分

かきのたね様
おっしゃること、よくわかります。それについては、近日中にまた記事として書きたいと思っています。ただ、私が音楽全般に対しての感謝の気持ちは人一倍持っているつもりでいることはご理解ください。もしかしたら、「オレ流」すぎるのかもしれませんが。
なお、「マーラーと同族嫌悪」に関してですが、いうまでもなく、才能、思想の深さなどではなく、私の持つうっとうしさ、過去の芸術への崇拝、我の強さ、きっぱりしない内向性について言われたものでした。

投稿: 樋口裕一 | 2010年5月20日 (木) 08時44分

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