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私はマーラーが大嫌いだ!!

 先日の私の記事に対して、「Mahlerファン」という方からコメントをいただいた。ラ・フォル・ジュルネのスレだけでなく、マーラーのスレでも私のことが書かれていることを知らせてくれた。そして、私が2度にわたってマーラーを批判したことを、やんわりとだが非難しておられる。コメントへの返事を差し上げようかと思ったが、長くなるので、ここに書かせてもらうことにする。

 2ちゃんねるのマーラーのスレでも私が取り上げられているとは知らなかった! きっとボロクソにけなされていると思うので、あえて読むつもりはない。先日は、まさか自分が出ているとは思わずに、ラ・フォル・ジュルネのスレを読んで、はなはだしい誤解に基づいて私が批判されているのを知って、このブログで自己弁護した。また、2ちゃんねるでラ・フォル・ジュルネの客やスタッフが不当に非難されていたので、スタッフも客もむしろ賞賛に値するのだと書いたのだった。だが、私が批判されているとわかっているものをあえて読むほど、私は暇をもてあましていないし、心も広くない。

 ただ、私のマーラー嫌いが多くの人に認識されたことはとても名誉なことで、むしろうれしく思う。

 私はマーラーが嫌いであることを機会あるごとに公言してきた。2度どころではない。拙著でも雑誌などでもしばしば書いてきた、ラジオなどに出演したときも、そしてある種のネタとして講演などでも語ったことがあるので、公言したのは100回を越すと思う。どこか出してくれる出版社があれば、『マーラー大嫌い!』というタイトルの本を出したいと常々思っているほどだ。もちろん、私だけでは説得力のあることは書けないので、マーラー嫌いを結集して、多方面の人々の知恵を拝借して本を出したいと思っている。私以上のマーラー嫌いがきっとたくさんいると思う。

 私がマーラー嫌いである理由はいくつかあるが、それについてはここでは書かない。『笑えるクラシック』(幻冬舎)や『ヴァーグナー 西洋近代の黄昏』(春秋社)を読んでいただければ、それがわかっていただけると思うし、好き嫌いは別として、私のマーラー観は、それほど間違っていないと思っている。

 私にとって、マーラー嫌いというのは、自民党の反小泉議員の小泉嫌いと同じで、私自身のアイデンティティのようなものだ。40年以上前の少年時代からマーラーが嫌いだということで、私の音楽観を組み立ててきた。

 だから、マーラー嫌いを撤回するつもりはないし、これからも機会あるごとに、マーラーの悪口を言っていこうと思っている。

 そもそも、なにかの音楽をとても好きになるということは、なにかの音楽を大嫌いになることだと、私は思う。そして、何かの音楽を好きだと語るのであれば、何かの音楽が大嫌いであることもまた、語るべきだと思っている。

 私は「音楽なら何でも好き」という人を信用しない。その人は真剣に音楽を聴いていないと思う。同時に、嫌いな音楽があってもそれを公言しない人も信用しない。それは自分の思想に対して責任を持たない人だ。

 芸術を好きになったり嫌いになったりするということは、芸術家の思想に触れることによって自分の思想を形成するということだ。ある芸術を愛したり、嫌ったりすることによって、自分の思想を作り出していく。そうであれば、ブログを書き、たまたま本などで発信の機会が与えられている私が、芸術に触発されて自分の思想を形成していることを発信するのは当然のことだろう。そして、その中にある芸術家が嫌いであることを書くのも当然のことだろう。

 ただ、私に理解できないのは、マーラー好きの人がマーラー嫌いの私を非難することだ。マーラーの音楽について議論するのはいい。平行線をたどるだろうが、それはそれで楽しい。音楽について語り合うのは、何であれ楽しいことだ。

 私が信頼を寄せている音楽仲間の中に、私の大好きなベートーヴェンやワーグナーを何よりも嫌っている人がいる。私の大嫌いなマーラーを何よりも愛している人もいる。だが、同じ音楽愛好者として仲良く話をし、意気投合するところでは統合し、意見が合わないところに関しては、時に議論し、時に無視しあっている。それでいいではないか。好みが合わないことを理由にして喧嘩をすることもないし、人間的に嫌い合うこともない。別の価値観を持ちながらも、ともに音楽を愛する者どうしとして信頼しあうのが、音楽を愛する者どうしの態度ではないのか。

 大作曲家は人類共有の財産だ。マーラーの悪口をいうのは、今生きている誰かの悪口を言うことと同じではない。今生きている誰かを罵倒すれば、その人に対して失礼だし、そもそも名誉毀損ということにもなるだろう。だが、歴史上の人物を非難するのは、それを享受する立場にある後世の人間にとって当然の権利だ。いや、むしろ、その人物を嫌いなのであれば、自分の思想を形成するためにも、それを嫌いだと公言するべきだ。

 私は、ベートーヴェンとワーグナーとリヒャルト・シュトラウスが大好きだが、それらの作曲家がどれほどけなされても、まったく気を悪くしない。その人の音楽観を尊重する。むしろ、その作曲家の持っている私の気づかない点に気づいていることに感服する。私は、大好きな作曲家を天上の人として崇拝するのでなく、その多様な面を認識し、理解したいと思っている。それを嫌う人による指摘にも耳にするべき点はたくさんある。それを知った上で、なお好きな作曲家を愛し、その理由を明確にしていくことが、私にとって音楽を聴くことだと思っている。

 ちょっと長く書きすぎた。このくらいにする。「Mahlerファン」さんからコメントをいただいたおかげで考えをまとめることができた。その点に関しては感謝する。

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音楽」カテゴリの記事

コメント

>私は「音楽なら何でも好き」という人を信用しない。その人は真剣に音楽を聴いていないと思う。

これが大学で教鞭を取っておられる方の発言かと、愕然といたしました。大学の教壇もずいぶんと低くなったものですね。

私は、クラシックの分野で、少なくともメジャーな作曲家の作品はほとんど好きか嫌いかと言えば「好き」で、楽しんで聴いております。クラシック以外はつまみ食い程度ですが、割と広範に聴いているほうだと思います。では、私は「真剣に音楽を聴いていない」のでしょうか。そんなことをあなたに断定される筋合いは無いと思うのですが?

では、あなたはどれほど「真剣」に音楽を聴かれているのでしょうか?少なくとも、ショパンに関するあなたの記述を読む限り、なんか笑っちゃうレベルで、「真剣」に聴かれていたら、あんな感想(笑)は出てこないと思うんですが・・・。


>私はこれまで、ナントのラ・フォル・ジュルネはもちろん、バイロイト音楽祭、ザルツブルグ音楽祭などにも行ったが、それらと比べても日本の客のマナーは見事。スタッフもきわめて機能的。


海外に比べて日本の聴衆のマナーがいいのは、別にバイロイトだのザルツブルクだのに行かなくても大抵のクラシックファンは知っていることですね。でも、このLFJの聴衆がその日本で行われるコンサートの中でもあえて言及するほどマナーに優れていたとは思えませんね。あなたの周りがたまたまマナーのいいお客さんだっただけでは?

演奏会の終盤になると、次の演奏会の開演時間が気になるのか、携帯電話を開いて時刻を確認するお客さんも相変わらず散見されますし。演奏中のお喋りも、今年も遭遇しました。

もちろん、この音楽祭において、その辺のことには目くじら立てずに・・・、というのは心得ているつもりですが、このレベルが許されると勘違いしたお客さんが、次は通常のクラシックのコンサートに流れてこなければいいな、という危惧は常に感じてしまいます。少なくとも、あなたが言うような、「見事なマナー」とは程遠いと感じますね。


スタッフの対応も、これまた多くを求めるのが間違いでしょうが、不快な思いをさせられることは毎年一度や二度はあります。今年で言えば、地下の展示スペース(チケットの半券を見せると入れる)へ行こうとしたときのこと。最終入場時刻を過ぎていたので(これは確認しなかった私のミスですが)、係りの人は、無言で両腕をこちらに突き出して制止すると、工事現場で車を誘導するかのように腕をぐるぐる回しました。こちらとしては、なにか追い払われたような気分になりましたね。

これだけ大規模な「お祭り」ですから、全てに完璧を求めることは無理なのは承知しておりますし、求めるつもりもありませんが、チケット発売前の先行抽選に申し込んでもほとんどは外れ、発売日にネット販売などでつながったときはすでに完売している、というほど入手困難なチケットを「特別に入手」出来るような立場におられる方であるならば、「世界に誇る音楽祭になった」と満足されるだけでなく、そのような問題点を感じる人間もいる、ということを少しは認識していただければ幸いです。

投稿: とおりすがり | 2010年5月11日 (火) 14時05分

とおりすがり様

コメントありがとうございます。
整理して書きます。
①私が大学教師にふさわしくないこと+「音楽なら何でも好き・・・」について
 私は、大学生が自分のしっかりした価値観を持つこと、同時に、多様な価値観を認めることの二つを教育の指針にしています。つまりは、音楽に関して言えば、好き嫌い、認める認めないをしっかりと持ち、その理由をしっかりと考えることです。同時に、どんなに別の価値観の人間がいても、その人に対して頭ごなしに侮蔑的な言葉を投げつけるのではなく、しっかりとその人の意見を尊重し、それを聞き、自分のこととして考えることです。私は、それをしっかりと守っているつもりです。
「音楽なら何でも好きと言う人間を信用しない」というのは、何でもいいと言うのではなく、自分の価値観をしっかり持つべきだという一つの表現です。もしかすると、表現が強すぎたかもしれません。しかし、あなた(日本語の「あなた」は、現在では侮蔑的な人称代名詞になっていますので、なるべく使いたくないのですが、この際、お名前がはっきりしませんので、やむを得ず使わせていただきます。ご勘弁ください)にも、好き嫌いはあるはずです。演歌もカントリーもロックもプッチーニもベートーヴェンもすべて好きと言えますか。そうでないとすれば、あなたは「音楽なら何でも好き」という人ではないはずです。しかも、あなたは「音楽なら何でも好き」とはいっていないと思います。よく読んでください。私が「信用できない」といっているのは、「大作曲家みんなを好んでいる人」ではなく、「音楽はすべて好き」と「いっている」人なのです。
 私は、「Mahlerファン」さんに、ある作曲家を嫌いだと公言するべきではないといわれましたので、「人間たるもの、音楽に対して好き嫌いがあって当然である。それがない人間は本当には音楽を聴いていない。音楽を聞くということは価値観と対峙することである。そうだとする、作曲家への非難を公言してしかるべきである」というような文脈の中で語ったのです。私は挑発的な表現を用いるのが好みなので、誤解を招くかもしれませんが、「とおりすがり」さんほどの知性の方でしたら、私の言いたいことははっきりとわかってくださると思います。
 一文だけを切り離して拡大解釈すると、意味がゆがめられてしまいます。文脈の中で読み取ってください。そうすれば、私がそれほどめちゃくちゃなことをいっていないことはわかってもらえると思います。
 それとも、「とおりすがり」さんは、「作曲家に対する非難を公言するべきでない。公言した人間はみんなに非難されてしかるべきである」と言われるのでしょうか。でしたら、そのことを説明してください。

②私のショパン理解について
 その通りです。私はショパンについては、まったくの初心者で、実は何も知りません。だから、幼稚な感想しかもてません。が、私はあえて幼稚な感想のまま書いているのです。私だって、その気になれば、もう少し鋭そうなことは書けます。が、作曲家を理解する第一歩は、このような感覚的なものだと思います。私はワーグナーについてはそこそこ鋭いことを考えているつもりでいますが、高校生のころ、最初にワーグナーについて思ったのは「きっとこいつは自分でも信じていないことを相手に信じさせようとする詐欺師だ」というようなものでした。それを手がかりにして、今の理解に達しました。
 これからショパンを聞くとすると、もっと深く理解できるでしょう。それでよいと私は思っています。
 それとも、そうした理解はよくないと言うのでしょうか。そうおっしゃるのでしたら、その理由を教えてください。相手に侮蔑的な言葉を投げつけたからには、しっかりと説明する必要があると考えます。

③ラ・フォル・ジュルネのマナーについて
 ラ・フォル・ジュルネのスタッフと客の態度は決して悪くありません。少なくとも、ナントの本場のラ・フォル・ジュルネに比べて、圧倒的に上質です。ナントなら、文句をいう人が多くても納得できます。会場をコントロールするスタッフが演奏中におしゃべりすることもあります。コンサートがスケジュールどおりに始まらず大混乱を起こすこともたびたびです。観客の私語もごくふつうのことです。学校単位で子どもたちが来ていますので、騒ぐ子もいます。それなのに、ナントでクレームが多いという話を聞いたことがありません。初心者もクラシックマニアも一緒に楽しんでいるのです。
 それに比べて、日本は信じられないほど上質です。それはスタッフのものすごい努力の成果なのです。それに、ほとんどの人が無報酬で必死の努力をしているのです。なぜ、それを認めようとせず、厳しい態度を取ろうとするのでしょう。それに、客のほとんどがクラシックを初めて聞く人たちなのです。そして、それがこの祭りの理念なのです。それなのに、これほど静かに聴いているのです。このことを讃えてよいのではないでしょうか。
 自己主張が強く、何かと言うとクレームをいうフランス人、何事にも寛容で思いやりを持つ日本人というかつての図式が逆転しているように思います。もう少し寛容になって、スタッフの努力、客の努力をどうか認めてください。そして、一緒に楽しんではどうでしょう。
 うるさい人がいたら、何人もで「シーッ」と注意しながら、みんなで楽しむフランスの観客のほうが、直接には注意しないで、目くじら立ててにらみつけながら、初心者を排除する日本人の客よりも、ずっと成熟していると私は思います。
 ただ、チケットが入手しにくい状況については、改善の余地はありそうです。これは私の関わるところではないのですが、知り合いに何とかならないのか、しっかりと頼んでみます。

④お願いしたいこと
 ひとつお願いしたいことがあります。「とおりすがり」さんのおっしゃることには、耳を傾けるべき点がたくさんあると考えます。ですから、このように私なりに反論し、この文章をしたためています。が、コメントの中に喧嘩腰の要素があるのはとても残念です。「大学の教壇もずいぶんと低くなったものですね」「笑っちゃうレベルです」などといった侮蔑的な表現を使わないでください。私はかなり無作法で怒りっぽい人間ですが、文章を書く際には、相手をできる限り尊重することを心がけています。反論する場合も、個人攻撃はしないようにしています。それが最低限の礼儀だと思っています。

投稿: 樋口裕一 | 2010年5月11日 (火) 22時03分

まず、確かに言葉が過ぎた部分があったことをお詫びいたします。申し訳ありませんでした。


>音楽に関して言えば、好き嫌い、認める認めないをしっかりと持ち、その理由をしっかりと考えることです。

うーん、どうでしょうね。好きなものはともかく、「この作品・作曲家は嫌い」ということを意識してしまうと、苦手意識のようなものが自分の中で形成されてしまい、最初は苦手でも、なにかのきっかけで自分の中で宝物に変化するような機会まで遠ざけてしまうような気がしますが。いわゆる「食わず嫌い」を生んでしまうような気がします。嫌いというか、苦手・良さの判らないものを無理に聴きこんだり好きになろうとする必要も無いと思いますが・・・。


>「人間たるもの、音楽に対して好き嫌いがあって当然である。それがない人間は本当には音楽を聴いていない。音楽を聞くということは価値観と対峙することである。そうだとする、作曲家への非難を公言してしかるべきである」

いや、正直、「価値観と対峙する」なんて意識を持って音楽を聴いたことはありませんでしたので・・・。そのような意味では、「音楽を真剣に聞いていない」と言われても仕方ないのかもしれませんが。クラシックであれなんであれ、時にはBGM的に、時にはスコアと睨めっこしながら聴くというのが私のスタイルです。


>演歌もカントリーもロックもプッチーニもベートーヴェンもすべて好きと言えますか。


言えるか言えないかで言えば、間違いなく「言える」という答えになります。もちろん、その時々の自分の心理状態によって、「今はロックは勘弁してほしい」と思う時もありますが、それはクラシックの大好きな作品でも同じですし。演歌に関しては好き嫌いを言えるほど積極的には聴いていませんが、ふとした瞬間に耳に入ってくる演歌に聴き入ってしまうことはよくありますね。演歌に限らず、なにかのきっかけで耳にして、もっと聴いてみたいと思って調べてCDを入手することはよくある一方、「こんな音楽を聴かされるのは勘弁してほしい」と思うことは無いです。もちろん、たとえばベートーヴェンの9曲の交響曲と同じレベルで全ての音楽を好きか?と問われれば、答えはNOになりますが・・・。少なくとも、特定の作曲家・音楽ジャンルを「嫌いだ」と意識したことはないです。


私が反発を覚えたのは、どのような判断基準であれ、「その人は真剣に音楽を聴いていない」と断定される、その一点でした。


>「作曲家に対する非難を公言するべきでない。公言した人間はみんなに非難されてしかるべきである」と言われるのでしょうか。


別に非難を公言すべきじゃないとも、公言したら非難されるべきだとも思いませんが、それをすることになにか意義があるのかな?とは思います。たとえば、ショパンの好きな人がショパンの悪口を聞かされたら、良くて「好き嫌いは人それぞれだからね」とプラマイゼロ、悪くすると相手は気を悪くするだけじゃないでしょうかね。相手がショパンを聴いた事が無い人だった場合、「ショパンって聴くまでも無い作曲家なんだ」と思ってショパンの作品に接する機会を奪ってしまうかもしれません。プラスになることってあるのでしょうか?「自分のしっかりした価値観を持つこと」が大事だったとしても、それは自分の内部で済ますなり、気心の知れた仲間内の議論で済ますのが適当なのかなとは感じます。


>ラ・フォル・ジュルネのマナーについて

まず、ナントなどとの比較は、特に意味が無いのではないかと思います。なぜなら、ここは日本だからです。ナントにはナントなりのルールというか、マナーの基準があるのでしょうし、それは日本にもあてはまります。


私個人的には、日本のLFJのマナーも、まあこの音楽祭の趣旨を考えれば及第点だとは思いますし、「演奏中は物音ひとつ立てるな」などと言ってクラシック音楽の敷居を高くしてしまうことには反対ですが。ただ最低限、演奏中のお喋りや、携帯電話を操作するようなことは、マナー違反として(クラシックコンサート初心者の方にも)認識してほしいなと思います。外来の演奏家が、「日本の聴衆は集中して聴いてくれて素晴らしい」と言ってくれるのは、決してお世辞ではないと思っています。せっかく築いたそのレベルが、「東京のLFJで入門」組によって、「ナントのLFJ」レベルに下がってしまうのは、悲しいことです。


>それに、ほとんどの人が無報酬で必死の努力をしているのです。


スタッフの方々が有償か無償かは、チケット代を払って足を運んでいる聴衆には関係ないことです。無報酬だから、いい加減な(相手に不快感を与えるような)サービスでいい、ということにはならないと思います。これが、強制的に連行されて強制的に無報酬で働かされている、ということなら仕方ありませんが、「ボランティア」として自発的に参加するということは、例えばその間お給料がもらえるアルバイトなどをする以上に「得るもの」があると考えていらっしゃるのでしょうし。


>それとも、そうした理解はよくないと言うのでしょうか。そうおっしゃるのでしたら、その理由を教えてください。相手に侮蔑的な言葉を投げつけたからには、しっかりと説明する必要があると考えます。

侮辱的ととられるような言葉を使ったことに関して、改めて申し訳ないと思っています。また、ある作曲家・作品に関して、どのような理解をされようとも、それは個人の自由であり、他人が「正しい」「間違っている」と断じることができるものでもありません。そのことも含めて、私に非がありました。

投稿: とおりすがり | 2010年5月12日 (水) 01時41分

とおりすがり様

 コメント、ありがとうございます。
 侮蔑的な表現を反省してくださったこと、感謝いたします。
「とおりすがり」さんの文章を読ませていただいて、音楽について好き・嫌いを認めるかという問題について、少し考えたことがあります。
 が、それは長くなりそうですので、ブログの記事として次回に書こうかと思います。よろしかったら、そのとき、また反論してください。
 今回は、ラ・フォル・ジュルネのマナーの件についてのみ、反論します。
 
 ナントのLFJは、半分ほどが日本と同じ演奏家で、同じ理念で行われるのですから、最も比較の対象にするべきものだと思います。
 私が最初にナントに行って衝撃を受けたことのひとつは、観客の一体感でした。クラシック初心者もマニアも一緒になって盛り上がり、それに動かされて演奏家もものすごい演奏をする・・・そんな雰囲気でした。日本と最も違うのはその点のように思います。そして私が日本のLFJで不満に思っていることのひとつはそれなのです。もっと盛り上がってほしい。もっと一体になってほしい。それを邪魔しているのは、私から見ると、一部のクラシックオタクたちのように思えるのです。
 おしゃべりをしていた人も居眠りしていた人も携帯をいじっていた人も、演奏が進むにつれて音楽のすごさに目覚め、マニアに導かれて感動し、会場全体で大喝采になる・・・。それがラ・フォル・ジュルネの興奮であり、醍醐味であると思うのです。ナントではそれが起こっています。私は日本でもあれが実現したら、どんなに素晴らしいかと思っています。

「スタッフの方々が有償か無償かは、チケット代を払って足を運んでいる聴衆には関係ない」とおっしゃいますが、それは間違いだと思います。あれだけのレベルの演奏家をあの人数、日本に呼んでいながらあの料金に抑えるためには、企業に頼み込み、スタッフのかなりをボランティアに頼るしかないのです。演奏家に通常のギャラを払い、専門のスタッフによって運営すると、数倍の料金になってしまい、クラシックオタク以外は足を運ばなくなってしまいます。

投稿: 樋口裕一 | 2010年5月12日 (水) 09時36分

樋口さん、お久しぶりです。

ネットの罵詈雑言は相手にしないほうが良いですよ!「炎上」してしまいます。彼らは日ごろの鬱憤を晴らしているだけのスノッブです。

>私は「音楽なら何でも好き」という人を信用しない。その人は真剣に音楽を聴いていないと思う。

その通りです!「ベートーヴェンはいい」「マーラーもいい」「シェ―ンベルクもいい」「ブルックナーもいい」「リゲティもいい」「武満もいい」「それぞれにいい」・・・こんな人はタダの知的スノッブではありませんか!?

投稿: ねこたろう | 2010年5月12日 (水) 22時53分

お忙しい中、丁寧なご返信ありがとうございます。

>もっと盛り上がってほしい。もっと一体になってほしい。それを邪魔しているのは、私から見ると、一部のクラシックオタクたちのように思えるのです。


うーん、何を持って「盛り上がっている、一体となっている」とするかですが・・・。しかし、それを邪魔しているのが「一部のクラシックオタク」だというのは、ちょっとピンと来ません。例えば、クラシックオタクが「静かに行儀よくマナーを遵守して」聴けと強要しているということでしょうか?私の経験では、例えば演奏中に携帯電話を開いたり、お喋りをしたようなお客さんに、終演後ほかのお客さん(クラシックオタク?)が注意している、なんてシーンは見たこと無いです。無言のうちにそのような(物音ひとつ立てられないというような緊張感のある)雰囲気をかもし出している、というようにも、私自身は感じたことはありません。


今回の主催者発表のアンケート結果では、「また来たい」という感想が90%を超えていたように記憶しています。これは驚くべき数字ではないかと思いました。樋口さんは、日本のLFJは客席の「盛り上がり・一体感」に欠けるとお感じになっているようですが、個々の聴衆は深い満足感を得ている、それでいいのではないかと思います。ナントの聴衆の盛り上がりっていうのがどのようなものなのか、私は知る由もありませんが、おそらく日本との雰囲気の違いは、「一部のクラシックオタクが邪魔をしている」というより、単に国民性の違いじゃないかな?と思います。例えば、コンサートでなく、映画館でも、海外ではかなり積極的な反応というか、どよめきが起こったり、時には口笛が乱れ飛ぶなんてこともあるようですが、日本では、せいぜいたまに笑いが起きるくらいですよね。小学校時代の教育からして、どんどん積極的な発言を促す欧米に対し、日本では、まずは静かに先生の話を聴くという姿勢が最重視される(最近は変わってきているのかもしれませんが)、その辺から根があるのかなとも思います。


例えば、今年で言えば、最終日最終公演のコルボのモツレクの終演後、何人かは立ち上がって拍手を送っていました。僕も、演奏に深い感動を覚え、毎年はるばる日本までやってきてくれるコルボさんやオーケストラに、スタンディングオベイションどころか、飛び上がってでも感謝を伝えたいような気持ちでした。

しかし・・・。立ち上がることすら躊躇ってしまい、結局最後まで腰を下ろしたままでした。なぜかというと、「ここで自分が立ち上がったら、後ろの席の人の視界を妨げてしまうのでは」という思いがよぎるからです。ふと振り返ってみても、やはり皆さん着席しておられる・・・。


大部分の方々が、どうして着席したままであったのかは、想像するしかありません。もちろん、中には、「立ち上がるほどの演奏じゃなかった」という思いだった人もいるかもしれません。しかし、あくまで私の想像ですが、「大部分の人たちは着席しているのに、自分だけ立ち上がるのは恥ずかしい」という思いだったのではないかと思います。なにか、自分の周りのお客さんたちは、「立ちたいけど、立っていいものかどうなのか戸惑っている」という雰囲気を、私は感じました。これは、オタクだとか初心者だからとかいうことではなく、日本人特有のシャイさなのではないでしょうか。また、それは無理して「本場ナントに倣って矯正すべき」ものだとは思いません。終演23時という、皆さんそろそろ終電が気になる時間であっただろうにも関わらず、オーケストラが引き上げていくまで席に残って惜しみない拍手を送っていた、それで十分ではないかと思います。もちろんこれはひとつのコンサートの例でしかありませんが。


樋口さんが、ナントで経験され、日本でもと望んでおられる「盛り上がり」がどのようなものなのかはわかりませんが、私自身は、現状でも、十分「日本人なり」に盛り上がっていると思っています。


>それがラ・フォル・ジュルネの興奮であり、醍醐味であると思うのです。


フランスでの演奏会は経験したこと無いですが、アメリカでも大抵、演奏中でも出入りする人も多く、携帯もしょっちゅう鳴り、ガサゴソ物音もひっきりなし、とても集中して聴いているとは思えなかったんですが、演奏後はヤンヤヤンヤの大喝采・満場のスタンディングオベイション、ちょっとあっけに取られてしまった記憶があります。もしかしたら、樋口さんが経験されたのと似たような雰囲気だったのかなと思いました。ということは、特に「熱狂の日」のような形態のコンサートでなくても、演奏が良くて、ノリが良い聴衆だったら、このような状況は生まれるのかも知れませんね。


スタッフに関して、その後ちょっと考えてみたのですが、「自発的にボランティアとして」参加されてるスタッフさんでしたら、私がたまに遭遇するような、投げやりというか、相手に不快感を与えるような対応はしないのかな、と思いました。その様な対応をするのは、むしろ仕事としてやっているスタッフなのかなと。スタッフの、どの程度がボランティアで、どの程度が仕事として賃金を得ているスタッフなのかは存じ上げませんが・・・。


私は、ちょっと気持ちの悪い対応をされた時にも、それをその場で咎めたりしたことはないですし、100%来客者を満足させるようなサービスを目指せ、などと言うつもりも毛頭ありません。あのような、ある意味カオスな状況ですしね。ただ、一番最初にも書かせていただいたように、この音楽祭のお客というだけでなく、「関係者」的な部分もお持ちである樋口さんであれば、ごく一部であるにせよ、お客に残念な思いをさせる対応も見られる、ということを頭の片隅に置いておいていただけたらな、という思いで言及させていただきました。

それは、聴衆のマナーの件も同じで、自分の中では、ある程度のマナー違反は気にしないでおこうという意識でこの音楽祭には臨んでいます。ただ、携帯操作や私語をしていた人が、樋口さんのこのブログを読んで、そのような行為にお墨付きを得たと勘違いされたらかなわないなぁという危惧がありました。


長くなってしまい、申し訳ありません。

投稿: とおりすがり | 2010年5月12日 (水) 23時51分

ねこたろう様
応援ありがとうございます。
一般的にはおっしゃるとおりだと思います。
ただ、今回コメントをくれている方は、きちんと話をすると、理解しあえないにしても、少なくとも了解しあえる方だと思っています。
たぶん、ねこたろうさんや私は同じタイプの音楽の聞き方をしているのだと思います。が、別のタイプの聞き方をしている人もいるということなのでしょう。
また、どうかよろしくお願いします。

投稿: 樋口裕一 | 2010年5月13日 (木) 07時53分

とおりすがり様

 真摯な対応、ありがとうございます。
 おっしゃるとおり、実は大変忙しい状況にありますので、返事を書く時間をとるのに苦労しています。前回のコメントについての反論も含めてかいつまんで書きます。

・私が、「音楽はすべて好きという人は信用できない。そんな人は真剣に音楽を聴いていない」と書いたとき、頭に思い浮かべていたのは、テレビなどで出てきて、そのようなことを発言する人でした。私の周囲には、そのようにいう人は一人もいません。

・「そんな人は真剣に音楽を聴いていない」という文に反発を感じたとおっしゃいますが、このような断定を傲慢と思われるのでしたら、人間の他者に対する評価判断(「あいつは頭がいい」「あの人はきれいだ」「彼女は醜い」など、すべてが傲慢な判断ということになると思います。人間は何かを判断する時、高みに立たざるを得ません。高みに立つからこそ、他者を判断するのです。時にそれは傲慢に見えますが、自分の価値観で判断する時には、それは当然のことだと思います。ただし、ほかの価値観の方からそれを批判されたら、それを真摯に受け止め、自分の考えを反省するべきではあります。ついでに言いますと、その態度を私は守っているつもりです。

・ナントのLFJの熱狂度は、おそらくアメリカなどとは比べ物にならないと思います。だからこそ、「熱狂の日」(ご存知だと思いますが、ラ・フォル・ジュルネというのは、「狂った一日」というような意味です。英語でそのまま訳せば、ザ・フール・デーとなるでしょう)と名づけているのです。そして、しばしばまさに熱狂が会場を覆いつくします。それを味わうと、病み付きになってしまいます。

・「とおりすがり」さんが、今のラ・フォル・ジュルネで十分に盛り上がっており、客もスタッフも合格点だと思っておられるのでしたら、私としては、まったく異存ありません。ただ、コメントをくださった流れから、そして文面から、「とおりすがり」さんが2ちゃんねるの多くの書き込みにあるように、スタッフやクラシック初心者のマナーに怒っておられるのかと思っておりました。

・日本のラ・フォル・ジュルネに不足があることは承知しています。それは主催者も十分にわかっていると思いますので、少しずつ改善されていくでしょう。

・ただ、ちょっと考えることがあります。ナントはなぜあれほど盛り上がるのかを考えてみました。ひとつは、日本のようにクラシックオタクが初心者を軽蔑するような空気(私自身も特に感じたことはないのですが、2ちゃんねるを読んでそれを思いました)がないのかもしれません。が、もうひとつは、手作り感ではないのかと思います。
 日本はボランティアも専門のスタッフと見分けがつかないほどしっかりと働きます。機能的にことが進みます。混乱はほとんどありません。ところが、ナントでは混乱だらけです。ボランティアは日本よりもずっといい加減で、何も知らず、案内もできません。演奏時間になって、時には演奏が始まっているのに、大ホールのチケットを切る人が一人か二人しかいないために、入場しきれない客の大行列ができていたりします。客もそんなものだと思っている様子です。「おれたちの小さな町で、おれたち自身がやっている音楽祭」「うちの娘も昨年ボランティアで参加したので、仕方がない。私たちの町の音楽祭なんだもの」と感じているのだと思います。
 もちろん東京は、歴史的経緯も規模も異なりますので、そのまま真似るわけにはいきませんが、もう少し手作り感があるほうが、客の間に一体感が生まれるのではないかと思うのです。が、きっと日本人の気質から考えて、それは無理でしょうね。毎年、サービスのレベルは向上していると思いますし、マナーを知らないお客さんをどうするかは議題に上がっているようですので、徐々に改善されていくと思います。

・ところで、最後にひとつだけ、気になっていることがあります。はじめのコメントで、「とおりすがり」さんは私のことを大学で教鞭をとるに値しない人間であると断定なさっておりましたが、それを撤回していただけますでしょうか。少なくとも現在教えている大学の学生を指導するには、十分な資格を持っていると自分では思っているのですが。

投稿: 樋口裕一 | 2010年5月13日 (木) 08時27分

僕自身は結構マーラーが好きなんですが・・・嫌いという人間の気持も良く分かるんですよね。
第9みたいな好きな曲でも鼻につく部分がある。
マーラーってある意味すごく幼稚な作曲家じゃないですか?
自意識過剰っていうか誇大妄想狂的っていうか(笑)。
オーケストレーションとか音楽の組み立てはプロフェッショナルだけど中味はあっちゃこっちゃとりとめがなくだらだら続いて結局「俺が!俺が!」の私小説ならぬ私交響曲作曲家ですよね。
だからあの人の感性に着いていけない人、嫌いな人は実はかなり多いと思いすよ。
音楽ファンだけじゃなくプロの音楽家でも(反ユダヤと思われるから公言しないだけで)マーラー嫌いは多いんじゃないですかね?
チェリビダッケなんかもインタビューでマーラーは二流の作曲家だ!って貶してましたね。
昔のドイツ・オーストリア系の巨匠はマーラーを振る人の方が少なかったですよね。
戦後でもベーム、サヴァリッシュ、ヨッフムなんかも演奏したのは「大地の歌」位で、他の曲はやってないんじゃないでしょうか?
カラヤンも年取ってから振るようになりましたけど、取り上げたのは素オケで古典的な4、5、6、9と歌曲集もどきの「大地の歌」だけですね。
今の指揮者でもティーレマンなんかもブルックナー、ブラームス、Rシュトラウスは盛んにやってますけどマーラーは全然手を付けてないですね(もしかしてずっと若い頃はやった事あるかもしれませんが)。
そういや音楽家じゃないですがクラシック好きで有名なドナルド・キーン先生の音楽エッセイを読んでたら、マーラーの第二について「この曲は安っぽい音楽効果だけのこけおどしの愚作だ」とか言い切ってましたよ(笑)。

投稿: m | 2010年5月17日 (月) 20時35分

m様
コメント、ありがとうございます。
気持ちをご理解いただき、ありがとうございます。
ドナルド・キーンがそういっていましたか。知りませんでした。
私も実は学生のころ、「マーラーは張子の虎だ」「こけおどしだ」「歌手とピアノの2人で3分もあればいい曲を千人使って90分かける」などと悪口を言っていました。今もその気持ちは変わっていません。さすがに素人がそんなことをいうのは怖いので、このごろは「嫌いだ」で済ませているのです。
きっと、mさんの挙げられた演奏家たちも同じように感じていると思います。
私はワーグナーとリヒャルト・シュトラウスが大好きなのですが、この二人に関して大嫌いという人の気持ちも大変よくわかります。もしかしたら、これらの作曲家に触れ始めたときのちょっとした偶然で、今とまったく逆の立場になっていたかもしれないとはときどき思います。

投稿: 樋口裕一 | 2010年5月19日 (水) 09時29分

「マーラー嫌い」という検索でたどり着きました。仰りたいことは十分理解できます。私はRシュトラウス、ワーグナーが大好きで、カントリーもジャズも、メタルロックも大好きですが、くだらない武満と、ヨッフムの全集を聴き倒した上でブルックナーだけは大っ嫌いです。若かりしときは、「マーラー好き=分裂気質」「ブルックナー好き=粘着気質」なる理論が実しやかにささやかれており、何となく納得しておりました。同じオケの仲間もたいていこの2群に分かれたように記憶しております。どんな音楽好きでも嫌いな作曲家が一人以上いて当然だと理解しております。ただ、地方で唯一ラ・フォル・ジュルネを開催されている所の住人としては、今年何故シューベルト?今年はやっぱりマーラーじゃないと!!!と思っており、これに賛同する人間はかなり多く存在すると思います。まあ聴衆のマナーは、奏者の方々が「まあ、いいじゃない」と微笑んでおられる程度ですけどね、当地では。

投稿: へたくそなcello弾き | 2011年2月 9日 (水) 13時45分

へたくそなcello弾き様
コメント、ありがとうございます。
そして、ご理解、ありがとうございます。
私もまったく同じように考えています。大好きな作曲家がいるということは、大嫌いな作曲家がいるということにほかならず、そのような人たち同士がたがいに議論し、嫌いな作曲家をけなしあうのが、音楽について楽しく語るということだと思うのです。そう考えていない人が多いのに驚いてしまいました。
金沢にお住まいですか?
聞くところによると、OEKの強い要望で、金沢のみシューベルト特集になったようです。びわ湖、新潟などは、今年はベートーヴェンになるようです。


投稿: 樋口裕一 | 2011年2月11日 (金) 11時58分

はじめまして。私もマーラーが嫌いです。嫌いなので、同じ趣向の方がおられないかと、検索してきました。

いちお、音楽を飯のねたにしておりますが、どうも、マーラーだけは聴きたくないといいましょうか・・・手が伸びません。シンフォニーの巨人もいったいどこがいいのかわかりません。

良いという方は、私とは別の面を楽しんでおられるのでしょうね。

なんか、コメント欄の上のほうで、「音楽をわけへだてなく聴くのがえらい。あんたはそれでも大学のせんせーか」的なことを書いている怖い人がいましたが、怖い文字をまきちらしているあなたのほうが、わかってないと思いました。

音楽をよーくよく聴くだけの耳があれば、全ての音楽をわけへだてなく聴くことはできません。聴いてたら、疲れます。聴いてないからわけへだてなく聴けるんです。

立ち読みみたいな聴き方と、聴きこむのとでは違います。しかし、そういったことは、わからない人にどれだけいってもわからないと思いますね。

ついでにわたし、モーツアルトもあんまり好きじゃないけど、レクイエムとか後期のシンフォニーは素敵です。

投稿: 鈴 | 2012年10月 5日 (金) 21時23分

鈴様
コメント、ありがとうございます。
まったくもって、おっしゃる通りだと思います。私が最初に聴いて嫌いになったのも、「巨人」でした。あれが「名曲」とみなされていること自体、私には信じられないことです。
私のゼミでコンサートを企画し、そのたびにアンケートをとっているのですが、一度、「私はモーツァルトが大嫌いで、モーツァルトを聴くと虫唾が走る。今回はモーツァルトが曲目に入っていなかったのでありがたかった」という回答を見たことがあります。なるほど、そんな人もいるのだと驚きました。が、もちろん、それも立派な音楽の聴き方だと思います。
それこそが音楽の聴き方であり、それは自明のことだと思っていたのでしたが、私のブログへの反応を見て、そう思っていないことが多いのに、大変驚いたのでした。
ともあれ、同じような感覚を持ってくださる人にコメントをいただき、とてもうれしく思います。

投稿: 樋口裕一 | 2012年10月 7日 (日) 09時45分

「音」を「楽」しみましょう 
  マーラーが好きにしても嫌いにしても、人の好き嫌いは「理屈」ではありませんから、そもそも論争や喧嘩には馴染みません、それに時間が惜しい、人生は短いのだら、------ と感じます。
 「嫌いだ」と言われれば、それでもなお聴いてみようか、という気にはなりませんが、「好きだ」という人がいたら、じゃあ、その音楽を聴いてみようかな、とう気にはなりますね。
 これですと、ひょっとしたら「嫌い」とされる音楽を聴かないで人生を過すのは勿体ないことになるのかもしれない----- ということかもしれませんので、「嫌い」ならその理由を少しでも説明して貰えると、あるいは拾い物が出来る幸運に恵まれるかもしれません。
 だいたいが、人それぞれ、好きな音楽を黙って聞き、嫌いな音楽は黙ってやり過せばいいと思いますが、一つだけ気になったことがあります。
 それは、ある音楽雑誌に、この作曲家の音楽は大嫌いだ、とする人がいて、嫌いな理由を示さずに、その意見を繰り返すことでした。
 私は、その雑誌の編集長に、音楽雑誌というのは、音楽愛好家を増やすのが公刊目的の一つだ、と思っているのなら、「嫌い」だとする文章は控えたほうがよくはないか、と言ってみたことがあります。
 しかし、「言論は自由だ」という」編集方針で、読者もそれを迎え入れる用意があるなたば、それもよし、何も言うことはなない----- というほどの意味です。

 私はと言うと、勿論、音楽に好き嫌いはあります。
 音楽というのは、音を楽しむものですから、美しい旋律があり、それを支える豊かなハーモニーと節度あるリズムがあれば、歓迎出来ますし、そるでないものは聴きたくない-----当たり前のことで論争の余地はありませんね。音楽評論が仕事の人は、自由にやって頂いてもいいのですが、私は楽しい評論が好みです。

 マーラーは、交響曲のなかの美しい「アダジエット」は聴きますが、ほかは存じません。
 私は、アマチュアのオーケストラや室内楽の演奏を、下手なりにを楽しませて貰っていますが、演奏面の困難さをクリアしなければならない立場から申しますと、やたら訳の分らぬ音符や迷子のなりそうな旋律の渦のなかで立往生させられることの多いマーラー作品とはあまり顔を合わせたくない、というのが本音です。
 たとえ、好きなベートーヴェンやブラームスであっても、難しい、クタビレ儲けだけに終り、客から拍手されても一向に嬉しくない作品からは次第に足が遠のきますね。難しくてもどうしてもやりたい、というのは、飛び切りの名曲、例えば「運命」とか第4番(ブラームス)ということになります。
 同じ伝で、私は好きなのは、「未完成」「悲愴」「新世界」「胡桃割り人形」など、ミーハー好み(失礼)で、評論家からはどうかすると「初心者向き」と格付けされてしまうものになります。
 私はミーハーですからそれで一向に恥じませんし、それが好きな客なら、どうぞお出で下さい、という立場です。演奏する側からすると、どうせ苦労するのなら、自分が好きで熱中出来る作品を演奏したいものだし、またそうでなければ客に喜んで貰えないのではないかと思ったりします。
 アマチュアオーケストラにもいろいろありますが、技術が向上するのはいいとしても、とかくお客の存在を忘れた選曲をして------ つまり、マーラー、ブルックナー、ショスタコヴチなどの大曲を並べたがる傾向があるように見えることがあります。なかには「春の祭典」をレパートリーにしていることが自慢のオーケストラもあります。
 私がいま世話になっているオーケストラは、
地味なものですが、青少年育成をポリシーの一つとしており、団員のなかに、楽器修行中の中学生たちを同席させております。
 普通、オーケストラというとアマチュアでも、楽器演奏という壁がありますから、どうしても初心者には敷居が高いものになりがちなのですが、オーケストラで生の音楽に直接に触れた子供たちは、その後の厳しい稽古にも耐えて、将来の頼もしい音楽愛好家に育ってくれることでしょう。その子供たりがマーラーが好きです、と言うのなら、それは掛け値なしの本物でしょう。
 このオーケストラのプログラム作りは、よくあるような大曲好みではなく、ミーハー好み(失礼、しかし、大事なことです)の交響曲を1曲、例えば「新世界」と、それに、いずれも名作の誉れの高い中小の名曲を加える、という陣容です。名作というのは、当たり前のことですが、名旋律、暖かい和声、快いリズムを取り揃えた名曲ということになります。
 お客のありようについて論評出来るほどの資格はありませんが、ナントと日本のお客の良いところを足して二で割ったくらいのところが丁度良いのではないでしょうか。
 なんか頼りない話になってしまいましたが、限られた時間内で、音を楽しみましょう----- これに尽きますね。

投稿: 権兵衛 | 2012年10月 8日 (月) 15時52分

権兵衛様
コメント、ありがとうございます。
ある作曲家を嫌いになることもまた、自分なりにその作曲家を理解することだと思っています。様々な芸術と出会い、それを愛したり嫌ったりして徐々に自分の思想を形成していくことが、私は芸術体験だと思いますし、私はそうやって音楽を楽しんでいます。
ただし、これは、楽器を演奏する人間ではなく、あくまでも趣味として音楽を聞いているだけの人間の発想なのだろうとは思います。良くも悪くも、私は音楽を世界観の表明の一つの手段と考えています。楽器を演奏する方はまた私とは異なった音楽のアプローチをなさっていることでしょう。

投稿: 樋口裕一 | 2012年10月10日 (水) 20時58分

タイトルに釣られて読んでしまいました。すごく興味深い話題ですね。

マーラーと離れた一般論ですが、私は「嫌い」と言われると聴きたくなります。万人が誉めるものよりも「ある人は熱烈に誉めるが、ある人は拒否反応を示す」存在に嵌ることが多いです。万人が誉める状態だと、いいんだけど物足りない、別にこれでなくてもいいな、という感想になる傾向があります。好きと嫌いは紙一重というか、好きか嫌いかを迫ってくるような存在が好きで、うまく嵌るとものすごい快楽がある一面で、ちょっとずれると過剰になったり気色悪くなったり、違う!と叫び出したい気持ちになったり、そうでなくてもなにかムズムズしたり、恥ずかしくて居たたまれない気持ちになったり、楽しむとは程遠い状態です。でも、うまく嵌ったときの快楽がすごいので止められません。こういう聴き方をしてると「なんでも楽しめます」と言われると、それは聴き方が表面的なのでは?本当の快楽を知らないのでは?と思う面もあります。ただ、他人の感覚は分からないし、向こうにもこっちの感覚は分からないだろうから、こういう種類の豊かさとはまた別の豊かさみたいなものがあるのかなあ、と想像したります。
下手とか稚拙とか勘違いというのではなく「嫌い」という感情を呼び起こすのは、それだけ迫ってくるものがある、そういうレベルに達している(それがその人にとって好ましいか否かは別問題として)であろうと予感するので、私にとっては注目シグナルです。

上で書いたことは殆ど演奏のイメージで、曲又は作曲家ということだといつも保留中です。ずっとゼロ~マイナス評価だった曲が、あるとき「そういうことだったのか!」「これが○○○?今まで聴いていたものは何だったんだ?!」と思う瞬間があるからです。もしかしたら、それ以前の印象の方が作曲家の意図通りで、あるとき見た/出会った後者の方が、全く別の、一種の二次創作みたいな存在かもしれませんが、私はそういうことも含めた人間の営みとしての音楽や芸術が好きです。

ちょっと気になるのは、嫌いという意見を見たくないとか、(見たくないので)言う側が自粛するべきという風潮ですね。日本社会はすごく口当たりが良く、摩擦が起こる前に自粛を求める範囲や程度が異様に細かく、そういうことをしていると、そうでない状態にどんどん耐性が無くなって些細なことが気に障るようになるので不健全だと思っています。もっと他人の嫌いに触れて、嫌いとの付き合い方を獲得したらいいと思います。その人が何が嫌いかを聞くと、他のことを聞くよりもその人が理解出来たりします。

投稿: starboard | 2012年10月16日 (火) 00時21分

starboard様
コメント、ありがとうございます。
まったくもってご意見に賛成です。「嫌う」というのは、一つの理解のしかたであり、関わり方であって、建設的な要素を持っていると思うのです。現代人(あるいは、現代の日本人)は、嫌いになるということを否定的に捉えているがゆえに、こんな閉塞的な社会にしてしまっているのではないかとさえ思います。
ところで、「右舷日記」、時々読ませていただいています。昨年、デンマーク行きの計画を立てたのですが、仕事が入って諦めました。新国立でのアンセンの出演は楽しみにしています。

投稿: 樋口裕一 | 2012年10月17日 (水) 09時39分

マーラーがわかりません。ぜんぜん。モーツアルトもわかりません。アイネクライネナハトムジークのあの月並みの音をきいていると、耳がかゆくなるんですよ。もちろん、レクイエムの表現性や、ジュピターの構造性や、音楽の冗談の前衛性には感嘆しますがね。(マーラーはというと、例えばブルックナーやバルトークやメシアンやバッハやへヴィメタと違ってヌミノーゼ(の不気味さ)に無縁だからでしょう。モーツアルトはというと、西洋の和声法は私の耳に合わないとしか言いようがありませんね。旋法は、多調・複調はそうじゃないんですが。)

音楽は感覚的なことですから、パッと聞いてわかるか否かということなんですよ。判らんもんは判らん。そもそも、人間がある視野や思想を持つということは、その中心部はくっきり照明されるわけですが、逆にスポットが当たっていない部分は隠蔽されるわけです。嗜好だって思想だってなにかを言挙げすることだって同じ。いや、単に見ることだって、この両義性を持っている。ここから逃れるすべはありません。一番大事なのは、こういうものだと分かった上で、自分でないものとうまく交流していけるかということだと思うんですが。(音楽なんかまあどうでもいいと言えばそうなんですが、例えばイスラムと西欧の文化衝突というとそういうわけにはいきません。いまそこを勉強しています。)

ラフォルネージュですが、当方遠方なのでいったことはありません。当地のコンサートは行くのですが、正直つまらん。いつも寝てしまいます。ロビーでは誰はどうやったとか、楽譜はどうだとか、そういう話ばかりしている。当方が感動しても、楽譜とは違うとか音程が悪いとかばっか……。

一度、NYPの定期に行ったことがあります。どでかい会場で満員、ショスタコのVn協と新世界やったんですがね(ツィンメルマンとアラン岳ギルバート)。協奏曲の第1楽章が終わると大拍手、スタンディングオベーション。あの曲ひどく難しいですから、感動を表すのにフィナーレまで待てなかったんでしょうね。あっちのひとは音楽を論評しに来てるんじゃなくて楽しみに来てると言うのが良くわかりました。

NYPはよく悪口を言われてますけど、すごくきれいな音ですごくでかい音で、一音一音にくっきり意味がこめられていて、こっちで聞くコンサートと同じオケとはおもえなかったです。たしかに席代は倍でしたけど、大変に満足でした。

投稿: gkrsnama | 2013年7月16日 (火) 00時12分

gkrsnama様
コメント、ありがとうございます。
モーツァルトが嫌いだといわれる人がときどきいますね。とても興味深く思います。私はかなり好きですが。が、もちろん、それぞれの好み(というか、私は思想、あるいは世界観という言葉を使います)によって感じ方は違って当然だと思います。
ニューヨークフィルを現地で聴くとすごいでしょうね。一度、聴いてみたいものです。

投稿: | 2013年7月18日 (木) 00時33分

モーツアルトが理解できない。こないだ久しぶりに四重奏を聞きまして、もちろん
正統和声法を外しているわけじゃないんですけど、いろんな音が万華鏡
のように飛び交ってましてね、正直あのものすごい才能に舌を巻きました
。ハイドンセットでしたっけ。

しかしそれでもやっぱりネイティブのモーツアルト、セレナードなんかに
ある音感覚は、つまりもっと気楽な同時代人にも感じられる音なんですが
、耳がかゆくなるんです。それは童謡とか唱歌とかフランクシナトラにも
そうなんですよ。短調はそうでもないけど、たぶん長音階とその和声が苦
手なんです。(旋法やら多調はそうではありません。スパイス的使用なら
ともあれ、無調ばかりもやだなあ。)

つまり言い換えると、私の耳は(ポップスも含め)本質的には欧米音楽の
大半を理解できないってことなんでしょうね。グリニの旋法部分は大好き
ですが、調性になるともうだめ。バッハだって、半音階や不協和音やまれ
に複調が出てくるとうれしくなるんですが、出てこないとちょっと……。
マーラーが理解できないと言うのも多分かなりそれなんです。

どうやら多くの人特に西洋人は長調が好きなようで、長い間それが理解
できませんでした。

音楽は感覚の上に立ってますから、こういうのは仕方ないと思います。

マーラーですが、巨人は好きです。ええと福島彰さんでしたっけ、病蹟学
論文で「冒頭がまるで世界没落感」なんだそうです。マーラーは若いころ
一瞬統合失調症になりそうだったって文脈なんですが。こういう空虚和音
はベートーベンやブルックナーも使いましたが「不気味さ」をねらってま
すよね。弦チェレに帰結するような。

しかし巨人はそうではありません。なんだか親密で温かい、しかしすべて
が溶けてしまうスープみたいな感じ。世界没落感から不気味さを抜いた原
型は、こういう感じなんでしょうかね。(そういうものに直面すると、多
くの場合は強烈な不安を感じるわけで、切り離せないでしょうけど)

世界没落感は(統合失調症の確定診断がでている)ムンクやトラークルや
カフカでおなじみのものです。彼らのは不気味な場合もそうでない場合も
ありますが。


ショパンですか。音どうこうより、人格が出てるようで苦手です。なんだ
かスタイリッシュな正面人格の裏で別人格が冷たく見てるような感じでね。

投稿: gkrsnama | 2013年7月30日 (火) 04時28分

>大学の先生が好き嫌いを公開するなんて言語道断

海外はどうかわかりませんが、日本人のネット使用は「似た者」からの賛成意見の調達を主目的にしているようにすら見えます。それにより疑似的な共同体感覚を感じているんでしょうか。逆に、「似ていない者」「反対意見を持つもの」は敵と認知され、徹底的に攻撃される場合すらあります。

言うまでもなく現実はそうではありません。いろんな正当な意見がある。親しいもの似たものだって意見が完全に合致するはずはありません。学問だってそうでしょ。甲論乙駁で結論が出たためしがない。(それぞれが正しさを主張する、相矛盾する多様な意見の相互関係を調べるのが私の目的でありますが)

世界には自分と違った意見を持つものがいる、心地よかろうと悪かろうと、それが真実です。それだからこそ、世界は豊かなのです。判らないかなあ。

投稿: gkrsnama | 2013年7月30日 (火) 04時48分

gkrsname様
コメント、ありがとうございます。
おっしゃる通り、私も同じ価値観の人で集まり、別の価値観の人を排除するのが、今の日本社会の大きな問題点だと思います。人間である以上、たくさんのものを嫌い、人それぞれ嫌いなものが異なるはずです。それを理解できない人が多いのが残念です。

投稿: 樋口裕一 | 2013年7月30日 (火) 23時48分

突然のコメント失礼します。マーラー理解できない、で検索していたら、こちらのブログに。私はマーラーは嫌いではないんですが、どうしてもわからない転調や終止があったり、精神分裂気味の部分が続いたり、と「変な曲聴きたさ」の要素も確かにあるんです。そして、音楽なら何でも好き、なんて人は、多分音楽のジャンルで分ければいるのかもしれないです。どの曲も好き、なんて人はほんと信用できませんけどね。

投稿: 屋根の上の馬 | 2017年6月22日 (木) 13時19分

屋根の上の馬 様
コメント、ありがとうございます。
私がマーラーを嫌っている以上に、モーツァルトに対して激しい嫌悪を覚えている人(専門家ではない方です)の書かれた文章を読んだことがあります。私には納得できないことだらけでしたが、その方が本当に必死に音楽に何かを求めている、そして、その求める音楽からすると、モーツァルトの音楽の中に許せない要素があるということはよくわかりました。私もまた、音楽を聴くというのは何かを必死に求めて聴く行為であると思いますので、大好きな作曲家、我慢ならない作曲がいるのは当然のことだと思うのです。私は別に、その作曲家を愛している人を侮辱しているつもりはまったくないのですが、それを理解しない人が多いのに私は驚いています。

投稿: 樋口裕一 | 2017年6月26日 (月) 09時21分

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