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デ・ブルゴスのブラームスは圧巻

 6月29日、サントリーホールで、ラファエル・フリューベック・デ・ブルゴス指揮、読売日本交響楽団のブラームスの交響曲第3番と第1番を聴いてきた。素晴らしい演奏だった。

 第3番については、実はほんのちょっとだけ不満を感じた。第1楽章は素晴らしかった。が、第3楽章と第4楽章については、もうちょっとロマンティックにやっていいのではないかと思った。とりわけ、第4楽章の最後、もう少しねちっこくやってくれないと、さりげなく終わりすぎてしまう。が、もちろん、あまりしつこい味付けをしないのが、デ・ブルゴスの持ち味なのだろう。

 少しだけ不満だったとはいえ、もちろん、デ・ブルゴスの正統的でどっしりしたブラームスの世界を堪能できた。

 第1番は、最初から最後まで、大満足。音のうねり、弦の重なりなど、本当に素晴らしかった。デ・ブルゴスは特になにかをしているわけではないだろう。だが、本物のブラームスの音がした。読響、たいしたものだと思った。第4楽章は、ひたすら音の重なりに酔った。それにしても、改めてブラームスのロマンティックでありながらも、しっかりと構成された音楽の力に圧倒された。

 これまで、1階の中央や2階の前のほうで聴くことが多かった。久しぶりに、1階の前のほうで聴いた。チケットを申し込むのが遅くなって、ほかの席が手に入らなかったためだが、弦の音がよく聞こえて、とてもよかった。上手でないオケを前方の席で聞くと、アラが耳に入るものだが、今日はそれをまったく感じなかった。ヴィオラの音の見事さに、改めて感心した。

 ヴィオラの鈴木康浩さんの音と顔の表情がとてもおもしろかった。出そうとしている音が顔の表情にしっかりと表れている。そして、確かにそのような音が出ている! なるほど、オケのメンバーはこのような気持ちで演奏しているのかととてもよくわかる。顔の表情には表れなくても、ほかの人もきっと同じような気持ちで演奏しているのだろう。

 ラファエル・フリューベック・デ・ブルゴスは現代を代表する大指揮者の一人だと思った。

 

 テレビでサッカー、ワールドカップの日本の試合が始まった。しばらく見ることにしよう。

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日経新聞のこと、上海の『ニーベルングの指環』のこと、藤田まことのことなど

・日経新聞のこと

 624日付の日経新聞朝刊の「交遊抄」の欄を久恒啓一さん(多摩大学学長室長)が執筆。私のことをメインに書いてくれていた。

 久恒さんとは、小学校低学年のころ、大分県中津市上宮永4丁目で泥んこになって一緒に遊んだ仲だ。私は幼稚園の途中からその土地に暮らし、小学校4年生の終わりに大分市に移転した。その後、互いの消息を知らずにいた。そして、数年前、久恒さんの本の広告を見て、あのケイボちゃんではないかと私の両親が気づいた。私自身は、著者としての久恒さんの存在はもちろん知っていたが、まさか、それが幼なじみだとは思っていなかった。出版社の人に連絡先を聞いて、私のほうから連絡を取って、久しぶりに会ったのだった。そして、その後、いくつかの経緯があって、現在、同じ大学に勤務している。この出来事は私の人生の中でもかなり大きな存在を占めている。

 そのことを、久恒さんが短い文章の中に見事にまとめて書いてくれていた。コラムを読んだ知り合いから、私のところにも連絡があった。

 ところで、日経新聞といえば、71日から29日までの毎週木曜日の夕刊の「入門講座」に「交響曲の系譜」を掲載することになった。交響曲というジャンルがどのように成長していったのかを、それぞれの時代の対立軸を明確にしながら説明したいと思っている。第1回は、ハイドンとモーツァルト、第2回はベートーヴェンとベルリオーズ、第3回はブルックナー(ワーグナー派)とブラームス、第四回はマーラーとリヒャルト・シュトラウス、最終回はプロコフィエフとショスタコーヴィチを取り上げる。クラシック音楽初心者にも興味を持って読んでもらえるように、そして、かなり聴きこんだ人にもそれなりにおもしろく読めるように工夫したつもりだ。

・上海リングのこと

 9月に上海でワーグナーのケルン国立歌劇場による『ニーベルンクの指環』の公演がある。知人にそのことを聞いて、是非行きたくなって、インターネットをあちこち検索し、劇場のHPを探し当てて予約申し込みのメールを出した。ところが、現金をニューヨークのシティバンク経由で振り込むようにという返事が来た。クレジットカードは使えないという。さっそく銀行に振込みにいったら、そこに書かれている指示が通常とは異なる振り込み法だった。「もう一度確認してください」といわれた。

 知り合いにこのことを話すと、誰もが口をそろえて「中国だから気をつけたほうがいい。クレジットカードが使えないのもおかしい。詐欺かもしれない」と言う。わざわざ上海まで行って、実は詐欺だったとわかってすごすご帰ってくるとすると、こんな悲しいことはない。どうするべきか、頭をかかえていた。

 そのころ、かつての楽天トラベルの副社長・中村晃一さんからメールが届いた。中村さんとは仕事でご一緒したことがあって、親しくさせていただいている。私よりもずっと若い人だが、教えられることが多い。中国の検索サイトである百度と楽天を合弁して中国楽天ができたというニュースは知っていたが、なんと中村さんがその社長をなさっているという。

 大変申し訳ないと思いながら、中村さんにメールして、事情をお話して、上海リングのHPが信用できるのかどうか尋ねてみた。中国人スタッフに調査してもらったとのことで、返事をいただいた。信用できるということだった! 中村さんに感謝! 中国楽天の社長に実につまらないお願いをしてしまった!!

 ところがところが。そうこうしているうち、「中国でのクラシック音楽の演奏会はマナーがよくないために、演奏家もあまり真剣に演奏しないらしい。わざわざ上海に行く必要はないのではないか」という声が聞こえてきた。新たな悩みが出てきてしまった! ちょっと考えてみようと思っている。

・サッカーのこと

 サッカーのワールドカップ、そこそこの関心を持ってテレビを見ている。が、あのブブセラという笛の音に我慢ができない。きっと、多くの人がそうだと思う。テレビの音量をかすかに聞こえる程度にしている。必然的に、家族と一緒にはテレビを見ないで、サッカーになると、仕事部屋のテレビでこっそり見る。あの笛、誰かが規制してくれないだろうか。これが世界中に、そしてほかのスポーツにまで広がると、私としてはますます生きにくくなりそう。

・藤田まことのこと

 テレビで『鬼平犯科帳 劇場版』を見た。藤田まことが出ていると知って、録画しておいた。1995年の映画らしい。テレビシリーズは好きでときどき見ていた。映像も役者もストーリーも見事。それにしても、藤田まことの悪役が実にいい。もしかしたら、藤田まことが悪役を演じるのを見たのは初めてかもしれない。ほんの数シーンしか登場しないのが残念。飄々としながらも、憎たらしい大阪盗賊の恐ろしさが伝わってきた。

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音楽劇コンサート「カルテット」に刺激を受けた

 6月23日、ルーテル市谷センターで、音楽劇コンサート「カルテット」を見てきた。鬼塚忠原作の小説「カルテット!」に基づくコンサートだ。映画化も決定しているという。一言で言って、とても強い印象を受けた。このような企画を私のゼミでできたら、どんなにいいだろうと思った。

 小説は少し前にいただいて読んだが、一言でまとめると、崩壊した家族が、カルテットを組んで演奏することによって絆を回復する物語。あえてありきたりのストーリーにして、そこに様々な葛藤を描いていく。今回の音楽劇は、その最後の場面を中心に、家族が崩壊を乗り越える演奏会の場面という設定。フォーレの「シシリエンヌ」、ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」など親しみやすい曲が、ピアノ、ヴァイオリン、チェロ、フルートで演奏される。あえてありきたりのストーリーにしていたのは、このような狙いがあってのことだったか!と、今さらながらに気づいた。複雑なストーリーだと、このような音楽劇コンサートにしても観客に伝わらない。小説を読んだ人も読んでいない人も、ともにきちんと理解できる舞台になっていた。そのような仕掛けも実に見事。

 役者が全員自分で楽器を演奏する。オーディションで役者を選んだとのことで、23日に上演したのは、全員が音楽コンクール上位入賞者だったり、テレビの音楽番組などで活躍する人だったようだ。それにしても、楽器も弾けて、ビジュアル的にも役柄にぴったりの人間が、よくも存在したものだ!

 やはり図抜けていたのは、息子役の中学三年生、山根一仁君。全日本音楽コンクール中学生の部の第一位だという。モンティノ「チャルダーシュ」は十分に聞かせる音楽。チェロの諸岡由美子さんも、バッハの無伴奏組曲の第一番のプレリュードを演奏したが、一つの演奏として見事。父親役の谷真人さん、娘役のyumiさんも、しっかりと、魅力的に役を演じていた。

 ただ、音楽をリードする人がいなかったようで、数人のアンサンブルになると、合わせているだけになって、音楽のあり方があやふやになってしまう。演奏者の誰かがしっかりとリードして音楽を作るか、外部の誰かに指導を受けるかすると、もっと音楽が生きてくるはず。最高レベルの音楽を求めて演奏会通いする私としては、その点が残念。が、それができれば、もっと素晴らしい音楽劇コンサートになっただろうと思う。

 しかし、それにしても、この音楽劇があちこちで上演され、もっと多くの人がクラシックに親しむようになったら、どんなに素晴らしいだろう。小説と音楽劇コンサートという企画に脱帽。わがゼミで、この企画のお手伝いはできないか、本気に考えたくなった。今度、学生たちに相談してみよう。せめて、映画化の際には、エキストラとして出演させていただきたいものだ。ゼミ生も、そしてできれば私も!

 なお、鬼塚さんのご好意によって、このコンサートの配布物の中に、8月25日に行う私たちのゼミの企画による演奏会のチラシを加えてさせていただいた。朝になって急遽思いつき、車でチラシを運んだ。失礼な申し出を快く受け入れてくださった鬼塚さんに感謝!

 私たちのコンサートは、ピアノの新居由佳梨さん(伝説のヴァイオリニスト、イダ・ヘンデルのCDで伴奏者に抜擢された美貌のピアニスト!)、ヴァイオリンの江島有希子さん(若手の大注目演奏家)、ソプラノの三宅理恵さん(現在、注目を集めている歌手)という三人の美女の演奏で、ジブリの音楽と親しみやすくも芸術性高いクラシック音楽を、8月25日水曜日にHAKUJU HALLでお送りする。最高レベルの演奏によって多くの方を感動させられると信じている。是非、多くの方に来ていただきたいものだ。

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ipadのこと、そしてアルディッティ弦楽四重奏団のこと

 やっとipadに慣れてきた。メールも使えるようになり、新聞も読めるようになり、青空文庫も読めるようになった。めでたし、めでたし。

 一昨日には、midomiというアプリを入れた。音楽を聞かせると、曲名がたちどころに表示される。モーツァルト、ベートーヴェンの交響曲、協奏曲、ソナタ、弦楽四重奏曲などは、曲の途中でもはっきりしたメロディ部分であれば、すぐに曲名を当てる。ただ、オペラのアリアや歌曲は苦手のようだ。「菩提樹」さえも「不明」の表示が出た。また、ブルックナーのようなスケールの大きなメロディも識別しにくいようだ。バッハのあまり有名でない曲やバルトークの弦楽四重奏も試してみたが、正確に表示されなかった。

が、いずれにせよ、すぐに曲名が出るのは感動もの! 「この曲なんだっけ?」というストレスが減らせそう。

 6月22日、大学の帰りに車で武蔵野市民文化会館小ホールに出かけ、アルディッティ弦楽四重奏団のコンサートを聴いてきた。名前はしばしば耳にしていたが、実際に聴くのは初めて。曲目は、前半に、武満徹「ア・ウェイ・ア・ローン」、ラヴェルの弦楽四重奏曲。後半にベートーヴェンの「大フーガ」とラッヘンマンの弦楽四重奏曲第三番「グリド」。

 正直言って、あまりおもしろくなかった。もちろん、技術的にも内容的にも、とてもよい演奏だと思う。が、私自身は乗り切れなかった。

 武満のこの曲は初めて聴くし、ラヴェルの弦楽四重奏曲も実はあまり好きではないので、演奏に関して、なんともいえない。ただ、曲自体、あまりおもしろくないと思った。2曲とものっぺりしすぎている。

「大フーガ」もおとなしくて、迫力不足。この曲はもっと大胆にやってほしい、きっと精妙な音の重なりを聞かせたかったのだと思うが、それだとこの曲の魅力が伝わらないように思う。私としては欲求不満に陥った。ラッヘンマンの曲も、先日のカザル弦楽四重奏団によるアンマンの曲ほどの目の覚めるようなおもしろさはなかった。ただ、一体、弦楽器のどこを弾いてそんな音が出ているのかと不思議の思うような音、まるで恐竜の叫びのような音が聞こえてくるのには驚いた。

 久しぶりに、4曲すべてに対して、「この曲、早く終わってくれないかな」と思ってしまった。こうしてみると、先日のカザル弦楽四重奏団は本当に素晴らしかった!

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「京都太秦物語」と美濃吉の料理

 昨日から、私が塾長を務める白藍塾の仕事で、京都に滞在し、先ほど自宅にもどった。立命館宇治中学高校で小論文指導についての研修を行ってきた。研修前、岩崎教頭から、『京都太秦物語』という映画の話をうかがい、興味を覚えた。仕事が早めに終わったので、早速、MOVIX京都に見に行った。

 松竹、立命館大学、京都府の協力によって製作された映画。 立命館大学の映像学部客員教授である映画監督の山田洋次さんの指導により、立命館大学の学生がスタッフとしては働き、山田洋次さんが企画し、阿部勉監督が加わって映画化されたという。

 映画の舞台は立命館大学。立命館大学の図書館勤務のヒロイン(海老瀬はな)をめぐる立命館大学OBの売れないお笑い芸人(EXILEのUSA)と立命館大学客員研究員(田中壮太郎)の恋の物語。その背景に、いかにも山田洋次好みの京都の太秦の庶民生活が描かれる。立命館大学、京都市太秦の宣伝映画と言えなくもないが、そんな次元を超えている。

 とてもおもしろい映画だった。プロの役者は主役の数人で、ほかは実際の太秦の住人らしい。本物の太秦の人々に混じって役者が演じ、豆腐屋やクリーニング屋のあととり問題などについて本物の住人たちがインタビューされ、答える。虚実ない交ぜのおもしろさ。住人たちが実際の生活を営んで、芝居を演じていないところがいい。笑いあり、ちょっとした涙もある。笑わせよう笑わせようとして少しもウケないお笑い芸人と、本人は大真面目であるだけに傍からはいっそう滑稽な研究者の対比がおもしろい。

 ヒロインは結局は下町での生活を続けることを選ぶ。それが山田監督の世界観だろう。私自身は、そのような生活が大嫌いで、故郷を捨て、都会を選び、親と異なる生活をすることを選んだ人間だ。私自身は今の自分の生き方を肯定しているとはいえ、山田監督の映画を見ると、自分の選んだ方向がよかったのかどうかしばし振り返りたくなる。

 ところで、売れないお笑い芸人を演じるのは、EXILEというグループのUSAという人らしいが、もちろん私はまったく知らなかった。冴えない役者なのかと思っていたら、突然踊りだし、それがあまりにうまいのにびっくり。そういえば、岩崎先生がなんとかいうグループの何とかいう人が主役格で出ているというようなことを言っておられた。

 こんな映画を、多摩大学でも作れないだろうか! そんなことを夢見た。

 昨日、久しぶりに京都駅前の新阪急ホテル地下にある美濃吉で「鴨川」を食べた。白味噌仕立てと、加茂茄子田楽、そして、夏野菜の炊き合わせが実にうまい。今年から、京産大には夏と冬の集中講義を行うことになったため、めったに京都に行かない。おいしいものが食べられないのが残念。

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これまで出会ったマナーの悪い客

 先日、コンサートでのマナーの悪い客のことを書いたら、何人もの方にコメントをいただいた。私だけが神経質なのでなく、悩まされている方がたくさんいるのだと再認識した。

 演奏中にいびきをかいて居眠りする、おしゃべりする、チラシやプログラムで音をたてる、かさかさ音をたててアメ玉を取り出す、指揮のまねをする、携帯電話を確認する、携帯電話を鳴らす、写真を撮る、遠慮することなく大声で咳やくしゃみを連発する、チラシやプログラムを団扇代わりにする、いちいち大きな音をたててオペラグラスを取り出したりしまったりする、フライング・ブラヴォーをするなどなど、たくさんのマナー違反に日常的に出会ってきた。

 その中で、いくつか珍しい経験を思い出した。書いてみよう。

●かなりどうかと思うマナー違反の人々

・同じようなタイプの人間を、これまで何人か見てきた。が、最もひどかった例を。

 ある長大な交響曲の演奏会だった。私の前に座っていた客は、始まってものの23分もしないうちに、こくりこくりと寝始めた。そして、演奏中、ずっといびきをかきながら、熟睡していた。それほど大きないびきではないので、よほど疲れているのだろうと思ってそのままにしておいた。間違いなく、その人は演奏を23分しか聴いていないはずだ。ところが、演奏が終わった途端、その男、さも感動したように熱烈な拍手を始め、立ち上がって大声で「ブラヴォー!」と叫び始めた。

・20年近く前のことだ。なにかのオペラの公演だった。隣にサラリーマンらしい男がいた。第一幕の途中まではふつうに聞いていた。ところが、途中で、どうやらその男は、あごひげをそり忘れていたことに気づいたらしい。ひげをいじりながら、聴き始めた。ひげの濃い男らしい。手で触るごとにじゃりじゃりと音がする。それほど大きな音ではないので、悩まされたのは私だけだったかもしれない。だが、かなり不快な音だった。最後まで、男はひげをいじりながら、つまりは、ジャリジャリという音をまきちらしながら聴いていた。当時、まだ気の弱かった私は何もいえなかった。

・バイロイト音楽祭でのこと。98年だったと思う。『さまよえるオランダ人』の上演の日だった。第一幕の始めのころから、左のほうで乾いたカサカサという音が規則的に聞こえるのに気づいた。自転車の車輪になにかが引っかかって、それがきしんでいるような音とでも形容しようか。音の先を見たら、同じ列の4、5席先に男がいた。両手の指をからませて、親指と親指をくるくると回転させていた。これまでそのような癖のある人を何人か見かけた覚えはある。だが、音がしているのに気づいたことはなかった。ところが、この男の指は乾いていて、しかも、タコのようになっているのか。ともあれ、親指どうしが擦れるときにかなり大きな音がする。

 本人は、自分が音を出していることにまったく気づいていないらしい。きちんとタクシードを着こなした紳士だった。終わったあとで、かなり離れた場所にいた日本人のツアー客も、その音に悩まされたといっていたので、もちろん、私だけが気になっていたのではない。音は最後まで途切れることなく規則正しく続いた。音響のよいバイロイト祝祭劇場なので、もしかしたら、劇場中に響いたかもしれない。実際に目にした人を除いて、その正体不明の音がまさか男の指から発せられているとは想像もつかなかっただろう。

 幕間があったら、きっと私はその男に何とかやめさせるように言っただろう。だが、『オランダ人』は休憩なしで最後まで上演される。だから、その機会はなかった。周囲の誰かが途中で注意してほしいと思ったが、だれもいわなかった。

 終演後に誰かが注意したのか、それとも、その人は『オランダ人』だけしか見なかったのか、それ以降はそのような音は聞こえなかった。

・小さなホールでのある歌手のアリアや歌曲を集めたリサイタルだった。途中でピアノの独奏が入った。親しみやすいアリアや歌曲中心のプログラムだったので、ピアノ曲も親しみやすい曲だった。すると、私の少し前にいた女性客がいきなりかなり大きな声でピアノに合わせてメロディをハミングし始めた。

●マナーは悪いけど、許してもいいと思った人たち

・ある日本人の団体が『ワルキューレ』を上演したときのこと、私の隣にかなり高齢の夫婦らしい男女が座っていた。第一幕、第二幕はほとんど寝ている状態だった。第三幕、8人のワルキューレたちが舞台に出てきた途端、夫妻は突然、身を乗り出して舞台を見始めた。そして、「あれだろ」「いえ、あっちですよ」などと口にし始めた。「○ちゃんは、あんなに太ってたかな」「向こうのほうじゃないか?」・・・。どうやら、話の様子から、ワルキューレの一人として出演している人の関係者らしい。話の様子から、舞台上にいるのは、夫婦の娘ではなく、姪のようだった。

 はじめは、うるさいのに閉口したが、気持ちはわかると思った。同じような体型をした歌手たちがワルキューレの扮装をして歌い、歩き回れると、たとえ親しい人でも、見分けがつかないだろう。それが身内なら、きっと目で追うだろう。わからなかったら、情報を交換し合うだろう。一族の美しい光景だと思うことにした。

・ブルックナーの交響曲の演奏会だったと記憶する。隣に私よりも年上の男性がいた。演奏中に、妙に身動きをする。しかも、唸り声のような不思議な声をしばしば出す。第三楽章、私は大いに感動し、魂を震わせているのに、隣でまた異様な声がする。さすがに我慢できなくなって、注意しようと思って男のほうを振り向いた。すると、男は、涙を流し、声を立てて泣いていた。「こいつは俺の同類ではないか!」と思ったら、腹が立たなくなった。第4楽章では、互いに見知らぬ中年男が二人、隣あわせで、感動の涙にむせびながら聞いていた。

・あるオーケストラのコンサートでのこと、かの井上道義さんが私の隣に座っていた。ところが、井上さんの行儀の悪いこと! 演奏の途中でまるで立ち上がるようなそぶりを見せる。一度や二度ではない。座席に激しく座ったり、からだを大きく動かしたり。

 それから一年ほどしてから井上さんと話をする機会があった。ある演奏会で隣り合わせになったことを伝えた。すると、井上さんは「行儀が悪いんでびっくりしたでしょう。実は、あのとき、楽譜にはそんなこと、書いてないじゃないか!と思って、何度も怒り狂ってたんですよ」といわれた。なるほど、そんなことだったのかと合点がいった。井上さんに対して「許してもいい気になった」などと言うのはあまりに畏れ多いが、とても印象に残っているので、ここに記させていただくことにする。

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二期会week 「ラヴェルの宝石箱」を楽しんだ

 ここ数日、iPadに悩まされている。まだまだ自由に使えるようにならない。

 多摩大学の先生方に尋ねて、青空文庫も産経新聞も読めるようになり、スケジュールを書きこみ、HPを覗くことはできるようになったのだが、肝心のメールの設定ができない。私は二つのアドレスを使っているのだが、一つはまずまず使えるようになった(ただし、不自由な部分は残っている)。もう一つは、エラーが出続ける。そのほか、わからないところだらけ。いちいち、先生方に尋ねるのも気が引ける・・・

 618日、大学の授業終了後、雨の中、車でサントリーホールに向い、車は全日空ホテルの駐車場に入れて、二期会week5日目「ラヴェルの宝石箱」を聴いた。ナビにあと4キロと出てから30分ほどかかったので、焦った。ラヴェルの歌曲とチャーミングなオペラ「子供と魔法」を是非ききたかった。

 第一部は、田中麻理のソプラノによる「五つのギリシャ民謡」、相可佐代子のメゾソプラノによる「マダガスカル島の歌」、駒井ゆり子の「シェエラザード」。ピアノは長野美保。田中麻里の、ちょっと硬さは残るが、美しい声、相可佐代子の雰囲気のある、これまたしっかりした歌、駒井ゆり子の伸びやかで安定した歌唱。日本の歌手のレベルの高さを再認識。20年ほど前までには考えられなかったことだ。

 ただ、やはりラヴェルの歌曲、いやそもそもフランス歌曲は難しいとつくづく思う。発音がまだフランス人の域に達していないのか、フランス語の達人たちの歌うフランス歌曲特有の香りが立ち上がらない。かつてジェシー・ノーマンが歌ってさえ、違和感を覚えたのだったが、それと同じような、あと一歩フランス歌曲になりきれていないところが感じられる。ドイツリートやイタリアのアリアを歌うときのような、声の威力に頼った表現が多すぎるように思う。

 ピアノの長野美保は、フランスらしい音をしっかりと出していた。とても好感が持てた。ただちょっと遠慮しすぎている感じ。もっと自己主張していいと思う。もっとも、ドイツモノと違って、あまり主張しすぎても音楽が壊れてしまいそうだけど。

 第二部第一部で歌曲を歌った三人に数人の歌手や合唱が加わって、ピアノ伴奏によるオペラ「子供と魔法」。アニメ風のCGを使った演出。実はこのオペラ、かなり好きなのだが、実演を見たことがない。初めての経験だった。

 これはとても楽しかった。歌曲では違和感のあった三人だが、オペラではそれはまったく気にならない。テノールの岡本泰寛とバリトンの栗原剛もとても安定している。動物やモノたちが、魔法の中で子供と戦い、和解するという、「くるみ割り人形」などと同じような趣向の短いオペラ。ラヴェルとほぼ同時代のフランスの作家、ヴァレリー・ラルボーの短編小説に同じようなものがあったように記憶する。

 ピアノ伴奏なので、オーケストラの雰囲気が出ないのは残念だが、フランスの子供の家庭の雰囲気もしっかりと出ていた。CGもおもしろい。なるほど、こうすればそれほど大掛かりに出なく、おもしろい演出ができる。

 ただ、せっかくこのようなCGを作ったのなら、字幕を入れてもよかったように思う。ちょっと工夫すれば、それくらいできそうな気がするが。このオペラを映像で何度も楽しんでおり、フランス語はほかの言語よりは多少は理解できる私でも、しばしば何が行われているのかわからなかった。初めてこのオペラを見る人は戸惑っただろう。

 ともあれ、このオペラを見ることができてとてもよかった。

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カザル弦楽四重奏団のヤナーチェク『クロイツェル・ソナタ』に驚嘆!

 6月17日、武蔵野市民文化会館で飾る弦楽四重奏団の演奏を聴いた。ヴァイオリンの二人が女性、ヴィオラとチェロが男性(二人の男性は、顔が似ているし、苗字が同じなので兄弟だろう)の若手の団体だ。ヨーロッパではかなり評価が高いようだが、今回が日本で最初の演奏会だという。

 ヤナーチェクの『クロイツェル・ソナタ』が圧倒的に素晴らしかった。

 前半はハイドンのニ長調HobⅢ.34「太陽弦楽四重奏第4番」。あまりおもしろいと思わなかった。とんでもなくうまいのだが、ハイドンを現代曲のように演奏する最近の弦楽四重奏団の一つだと思った。ハイドンの古典派らしいしみじみとした味わいが現れない。疾風怒涛というわけでもない。なんだかわけのわからない曲だと思った。眠かった。

 次に、1962年生まれだというディーター・アンマンという作曲家の弦楽四重奏曲第一番「バースト・ムーヴメント」。これはおもしろかった。伝統にのっとりつつ、十分に新しい弦楽四重奏曲。演奏も申し分なし。目が覚めるような曲、目が覚めるような演奏だった。

 後半、まずはベートーヴェンの「セリオーソ」。思ったとおりの演奏。確かにものすごい。うまい。びしっと合っている。メロディよりも、アタックの強さ、アクセントの強さで聞かせようとする。まさしく現代曲風のベートーヴェン。それはそれですごいとしか言いようがないのだが、「ここまでやることはなかろう」と思ってしまう。第三楽章の冒頭で第一ヴァイオリンの弦が切れるというハプニングがあったが、ともあれ、最近の若い弦楽四重奏団にありがちな、あまりに達者で、あまりに快速であまりに爽快なベートーヴェンだった。

 この時点では、「うまい弦楽四重奏団だけど、好みではない」と思っていた。が、ヤナーチェクの弦楽四重奏曲第一番「クロイツェル・ソナタ」が始まって、そのすごさに圧倒された。

 このブログでも何度か書いたとおり、私は日本ヤナーチェク友の会の会員の一人であって、かなりヤナーチェクが好きだ。愛好会の主要メンバーほどの知識も熱意もないが、それなりのヤナーチェクへの思いを抱いている。

 今日の演奏は、私が思い描くとおりの演奏。疼くような第一楽章。心の奥から、押さえつけていた官能がせりだしてくる。苦しみにあふれた官能。それが楽章を追うごとに徐々に表に出てくる。第四楽章では、官能が勝利を得る。とはいえ、それは表沙汰にできるようなものではなく、あくまでも秘めたものだ。

 そのようなヤナーチェク特有の「うずき」がはっきりと聞き取れた。身体中が痺れるような感動を覚えた。

 これだから、武蔵野市民文化会館にまた通いたくなる。

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二期会week「オペラで乾杯! ワインな一夜」

 614日、二期会weekの第一日、「オペラで乾杯! ワインな一夜」を聴いてきた。料理評論家の山本益博さんが企画・プロデュースで、嘉目真木子(ソプラノ)、樋口達哉(テノール)、大沼徹(バリトン)、山田武彦のピアノで、アリアや二重唱。全体的には、かなりのレベルで、とても楽しめた。一人一人について感想を率直に書く。

 樋口達哉・・・実に声量が豊か。だが、頑張りすぎている感じ。そんなにすべてに大声を出す必要はないように思える。もう少しセーブするところがあってこそ、迫力が増すと思う。音程のしっかりとした美声なのだが、ずっと全力で歌おうとしてむしろ一本調子になっているのを感じた。が、三人の中では、最も完成されていると思った。あとちょっとで本当の大歌手になると思う。

 大沼徹・・・声の迫力はなかなかなのだが、細かい音の処理がちょっとザツだと思う。もう少し丁寧に歌って、もう少し音程の不安定が克服されたら、すごい歌手になると思った。

 嘉目真木子・・・素材としては最高だと思った。張りのある太い美声。存在感がある。ただ、丁寧に歌いすぎて音楽の流れやダイナミズムが失われて、むしろ平板になっている感じ。パミーナはあまりにいじりすぎて、重くなってしまっていた。とはいえ、これからが楽しみ。アンコールの「乾杯の歌」は、ほかの歌手に合わせて自然に歌ったためか、とてもよかった。今のところ、まだ荒削りだが、もしかすると日本を代表する大歌手になるかも。

 山田武彦・・・きれいで、流動性があって、見事なピアノ。粒立ちがきれい。しかも、しっかりとそれぞれの作曲家の世界を作って、歌手をサポートしている。

 山本益博・・・しゃべりはうまい。おもしろい。ただ、私はワインについてまったく思い入れがないし、歌をワインにたとえるなどと考えたことがなかったので、この企画自体、よくわからなかった。山本さん、ごめんなさい。また、おいしいところを紹介してもらおう!

 ただ、イタリアオペラが中心だったが、私はやはりドイツものが好きだ。山本さんが選曲すると、どうしてもこうなるのだろう。3年ほど前、この二期会weekで、今年の山本さんと同じような役を、私も漫画家のさそうあきらさんとともに務めたことがある。そのときは、ほとんどがドイツオペラからのアリアだった。

 実は、私はイタリアオペラにはあまり感動しない。ドイツオペラが混じっていれば、もっと感動したのに!

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藤原歌劇団『タンクレディ』の見事な上演、そしてマナーの悪い客

 613日、東京文化会館で藤原歌劇団公演『タンクレディ』を見た。かなり楽しめた。

 私はそれほどイタリアオペラ・ファンではないが、ロッシーニは、子どものころからずっと好きだ。それに、オペラや文学に接すると、「タンクレディ」という名前にしばしばぶつかる。どうやらヨーロッパにはタンクレディの系譜がありそうだと気づき、ちょっと追いかけてみたい気持ちになっていた。そんなわけで、藤原歌劇団が上演すると知ったときも、あわててチケットを買ったのだった。

 全体的に、とてもよい上演だった。タンクレディ役(カストラートの伝統に基づいているのだろう。メゾ・ソプラノで歌われる)のマリアンナ・ピッツォラートとアメナイーデ役の高橋薫子が素晴らしい。日本人がまったく外国人歌手に負けていないところが頼もしい。イザウラの鳥木弥生も実にしっかりと歌っていた。ロッジェーロの松浦麗もよかった。男声陣よりも女性陣のほうがレベルが高いと思った。

 指揮のアルベルト・ゼッダに関しては、もちろん手馴れたもの。ただ、歌になるとぐっとテンポを落とすように思えたのだが、それでよいのかどうか、私には判断できない。読響も、しっかりとロッシーニの音を出していた。歌手に対しても、オケに対しても欲を言えばいいたいことはいろいろあるが、これくらいのレベルで上演してくれたら、何の文句もない。

 不満があるとすると、台本に関してだ。イタリアオペラについてしばしば感じるとおり、ストーリーがあまりに不自然。アメナイーデが不義を疑われるわけだが、私としては、「さっさと真実を言ってしまえば誤解は解けるだろうに」と、どうしても思ってしまって、リアリティを感じない。イタリアオペラをドイツオペラほどに好きになれない大きな理由がこれだ。

「オテロ」をはじめ、オペラや芝居には、お互いにもう少しだけコミュニケーションをとりさえすれば悲劇的結末を防げるような物語がたくさんある。喜劇ならそれでもいいのだが、悲劇だとすると、現代の目からすると、リアリティに欠ける。このような物語に昔の人はリアリティを感じていたとすると、かつては一体どのようなコミュニケーションをしていたのだろう。今のようなコミュニケーション手段がない時代、もしかすると、これらの芝居のように、互いの気持ちを口にする機会は少なく、他人の噂を真に受けたり、勝手に邪推していたのかもしれない。「昔は人々は密にコミュニケーションをしていた」などとよく言われるが、もしかしたら、まったく逆だったのかもしれない。そうとでも考えないと、こうした物語にリアリティを感じるはずがないと思った。

 ロッシーニのオペラなのだから、気楽に楽しめばいいと思う。だから、マナーについて、あまり堅いことは言いたくない。だが、通路を隔てた隣の女性と、その後ろの男性(ともにかなりの高齢)のマナーの悪さには大いに驚いた。

 男性のほうは、大きなカメラを堂々と出して、演奏中に舞台の写真を撮っていた。写真を撮ること自体は、私にしてみれば、特に実害はないが、シャッター音が気になる。しかも、そのご老人、演奏中もしばしばしゃべっていた。あまりに堂々としているので、もしかしたら、会場の許可を得ているのかもしれないと思ったが、幕間に、この男性のことは、係りの人に告げておいた。係員が老人に注意しているようだった。そのため、第二幕は、そのようなことはなくなった。

 もっとすごかったのは、その前にいた女性だ。何度か注意しようかと思ったが、私よりも近くにいる人が黙っているようなので、ぐっと我慢した。途中からは、イライラするのはやめて、むしろ、あまりのすごさを楽しんでちらちらと観察することにした。

 音をたてない時間のほうが短かったように思う。第一幕が始まった時には、手にチラシを持ち、背中にリュックを負ったまま席に座っていたが、演奏が始まってから、チラシをいじり、リュックを背中からおろし始めた。リュックをおろすとき、手にしていた懐中電灯をつけていたようだ。かなりの高齢なので、リュックをおろすのに時間がかかっていた。その間、ずっと音がやまない。

 それで一段落したかと思っていたら、今度はリュックのファスナーを開けたり閉めたり。しかも、中から携帯を取り出しはじめた。携帯には鈴がついているようで、いじるごとにちゃらちゃらと音がする。

 少しもじっとしていないで、絶えず、リュックを探り、携帯をいじり、チラシをいじる。まったく音を出すことに気をつかっていないので、そのたびにかなり大きな音が聞こえる。第二幕の後半では、時間が気になるのか、携帯をつけて中を覗き込んでいたようだ。

 そうしながら、本人は自分が音をたてていることに、おそらくまったく気づいていない様子だ。おそらく、家でテレビを見ているときとまったく同じように振舞っているのだろう。もちろん、風体の怪しい人間ではなく、十分に教養ある高齢女性に見える。

 演奏が終わったあと、私は老婦人につかつかと歩み寄って「あんたは、今日の客1500人くらいの中で最もマナーの悪い客ですよ。私はあんたのような非常識な人を初めて見ましたよ。いい年をして、恥を知りなさい! 次回からコンサートなどに来たら、こんなことは絶対しないでくださいよ」とよっぽどいってやろうかと思った。だが、その老婦人があまりに涼しい顔をして拍手していたので、やめた。しかも、杖を使っているようなので、「弱者」にきついことを言うのもためらわれた。

 それにしても、人間というもの、それほどまでに自分が見えないということなのだろう。恐ろしいことだと思った。

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iPadを手に入れたこと、そして『ポー川のひかり』

 多摩大学の同僚たちがさっそくiPadを見せびらかすので、つい私もほしくなって、一昨日、アップルストア渋谷店に出向いてiPadを予約した。3G、64ギガ。「いつ、入るかわからないが、入荷したら、知らせる。そのときには、当日か翌日に取りに来てもらえれば、お渡しできる。それをすぎたら、次の機会になる」と言うことだったので、かなり遅くなるだろうと思っていた。ところが、昨日、さっそく、入荷の連絡。今朝、出かけたのだった。

 が、予約していたのに、1時間以上、行列を作って、外で待たされた。「手続きに30分ほどかかるので、そのつもりで来てほしい」とは言われていたが、まさか、これほど待つとは思わなかった。しかも、外で待つなんて! 真夏ではないとはいえ、かなり暑い。私のような腰痛もちには、ことのほかつらい。予約していない人も並んでいた。どうやら、予約者以上に入荷できたようで、予約していなかった人も、午前中に並んだ人は、入手できたようだった。

 自分の意思で並ぶのなら仕方がないが、予約している人が購入にやってきて、なぜ暑い中で待たなければならないのか、かなり疑問を抱いた。まさしく殿様商売。売ってやるという態度に見えてしまう。店内に入ってからは、店員さんの感じはとてもよかったので、このシステムに問題がありそう。

 入手してから、自宅にもどって、さっそく起動してみようと思ったが、できなかった。薄っぺらなマニュアルを見ても、さっぱり。アップルストアのHPを見ても、基本的なことがわからない。どこに電源があるのかさえもわからない。サポート電話をかけてやっと起動できた。ここにも、殿様商売を感じる。もう少し親切なマニュアルがあっていいのではないか。私のようなITオンチだって、たくさんいるはずなのだから。そして、私などは、まだましなほうで、もっとITに弱い年寄りはたくさんいるに違いないのだから!

 それから5時間以上たつ現在、起動した時点からほとんど進歩がない。メールも通じるようにできないで困っているし、アプリケーションもどうやっていれればよいのかわからない。途方にくれている。

 月曜日に大学に行って、すでに使っている先生たちに尋ねるしかない。多摩大学経営情報学部は、さすがにITに強い先生が多い。こんな学部に所属しながら、めっぽうITに弱い私(自慢ではないが、エクセルもパワーポイントも使えない!)としては、これらの先生方は実にうれしい存在だ。

 それにしても、iPadの予約と引き取りに、2回渋谷に行ったが、騒音の凄まじさに辟易した!! ハチ公前の交差点では、大きな画面から大きな音が出ている。そこに、大音響の宣伝カー。ほとんどすべてのお店からも音楽が漏れている。みんなはこれに平気なのだろうか。私は、あまりの騒音に頭がおかしくなりそう。このような騒音に関しては法律で厳しく禁じていいと思うのだが。独裁が許されるのなら、私は真っ先に、公的な場における騒音を厳しく禁じる法律を作るだろう。

 ところで、昨日、エンマルノ・オルミ監督の『ポー川のひかり』のDVDをみた。その感想を忘れないうちに書いておく。

 『木靴の木』のオルミ監督の2006年の映画。原題は「百本の釘」。ボローニャ大学で、大量の古書が、まるで磔をするように釘付けされているのが発見される。犯人は、キリストに風貌の似た若き哲学教授だったことが判明する。哲学教授は、それまでの生活を捨て、ポー川の川辺の廃墟に住み着いて、まるでホームレスのように生活を始める。近隣の人たち、とりわけ法に反してポー川の川辺に住む老人たちやパン屋の女性が哲学教授を「キリストさん」と呼んで手助けする。哲学教授は、老人たちとの生活を楽しみ、彼らの生活に溶け込み、ポーの川辺でのどかに幸せいくらし、ときにイエス・キリストのように老人たちの前で説教をする。だが、ポー川の再開発にともなって、老人たちはポー川から追い出されようとし、それを手助けした哲学教授古書を釘付けした罪で逮捕される。そして、警察で、「本を読むよりもコーヒーを飲むほうがいい」「本を愛するのは、人を愛していないことだ」などと語る。そして、司祭に「最後の審判で神の前で釈明せよ」と迫られて、「神こそ、この世の苦痛について釈明するべきだ」と言い返す。

 雰囲気はとてもいい。『木靴の木』の映像を思い出す。自然とともに生きる人々を実に美しく描いている。だから、もちろんとてもいい映画だと思う。が、『木靴の木』に比べると、作品の弱さを感じざるをえない。

 もしかしたら、オルミはパゾリーニの『テオレマ』を意識しているのかもしれない。イエス・キリストを思わせる人物が現代に現れて、現代社会の「定理(テオレマ)」を図式的に示すのが、『テオレマ』だったが、それと同じように、きっと敢えて図式的にしたのだと思う。そして、オルミは70歳を越して、このような境地に達したのかもしれない。だが、やはり、「書を捨て、権威を忘れて、自然や人と交わろう」というメッセージはあまりに図式的で、あまりに安易に見える。

 ただ、「神こそ、この世の苦痛について釈明するべきだ」という一言は衝撃的だと思った。昔からいわれてきた、「なぜ、神は人類にこれほどの苦痛を与えるのか」という問いを言い換えたものかもしれないが、これほど直接的な言葉を、これまで本の中で読んだことはなかった。

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劇団四季の「ハムレット」のこと

 610日、浜松町の自由劇場で、わけあって、浅利慶太演出、劇団四季の「ハムレット」をみてきた。劇団四季というと今では誰もがミュージカルと思うようだが、これはいわゆる「新劇」。オフィーリアの歌やちょっとした舞台音楽はつくが、基本的には音楽はない。

 一言でいって、とてもおもしろかった。もちろん、「ハムレット」の戯曲は何度も読んだ。映画も、ローレンス・オリヴィエのものや、スモクトウノフスキーのソ連映画を、これも何度か見た記憶がある。が、舞台は初めてだった。

 こんなことをいうのは恥ずかしいが、改めてシェークスピアの言葉の見事さ、福田恒存の日本語の格調高さに圧倒された。俳優一人一人の声がはっきりと聞き取れることにも驚いた。簡素な装置ながら、しっかりとハムレットの時代を映し出していた。

 芝居を基本的に見ない私が、最後に見たシェークスピア劇は、四十年ほど前、それこそ劇団四季の「アントニーとクレオパトラ」だったと記憶する。忘れもしない、大分文化会館での公演だった。そのときも、日下武史さんが主要な役を演じていたように思う。日下さんは、テレビ創成期の「アンタッチャブル」のエリオット・ネスの吹き替えでも、あるいは味のある脇役でも、若かった私の憧れの存在だった。今回、墓守り役に日下さんが出てきたので、びっくり。さすがに昔のようなきれのよい演技ではなかったが、あいかわらずの軽妙な味がおもしろかった。

 そのほか、クローディアスの志村要、ホレイショーの深水隆司(ダブルキャストだったが、きっとこの人だったと思う)にとりわけ感銘を受けた。ハムレットの田邊真也もよかった。ちょっとオフィーリア(野村玲子)の「かまとと」っぽさには、やりすぎの思いを抱いた。が、もちろん、これらは芝居初心者の勝手な思いなので、それが芝居通と一致するかどうかは、かなり怪しい。

 そのほか、考えるところはたくさんあった。もしかしたら、あまりに初歩的な感想かもしれないが・・・

 私は、オペラの類の上演は、年間、20本くらいは見るだろう。映画も、これまで間違いなく数千本見ているだろう。私は文学部の演劇学科出身だ。専門は映画学だった。

 そんな私が芝居を見ないのは、そのあり方そのものに違和感を覚えるためだ。オペラは音楽がつき、登場人物が歌を歌うのだから、初めから「現実」ではない。映画は、基本的にはスクリーンの中の「現実」を覗き見るものだ。だから、ともにそれほどの違和感はない。

 ところが、舞台は、生身の人間が目の前にいて、しかも、現実ではありえないような発声で言葉を発する。しかも、シェークスピア劇などでは、台詞の中には、しばしば西洋人の名前や西洋的な考え方が続出する。そうなると、目の前の世界が「現実」なのかどうか、どのようなつもりでこれを見ればよいのか、私としてはわからなくなる。居心地が悪くなってしまう。今回も、このような違和感を拭いさることができなかった。

 そして、もう一つ強く感じたこと。それは日本語の問題だ。

 芝居においては、役者は観客に声が通るように大声で話をする必要がある。劇団四季の役者さんたちの発声の見事さにはまさしく驚嘆した。だが、日本語では、強弱のアクセントではなく、高低の抑揚によって言葉が成り立っている。そうなると、すべての登場人物がずっと同じ声の大きさ、同じ発声で話すことになる。

 数十年間、舞台といえばオペラばかりを見てきた人間には、これがどうしても気になる。ピアニシモでつぶやくところがない。すべてがフォルテで語られる。一つ一つの台詞ものっぺりしてしまう。すべての人物が同じ口調で同じフォルテで語る。人物によって言葉の雰囲気の違いがない。オペラであれば、登場人物によって持っている音楽が異なるのだが、それが一様だ。

 

 そのせいもあるのかもしれないが、ハムレットとホレイショーとレイアーティーズが、ほとんど同じ台詞を同じ調子で語っているように思われてしまう。「一人一人もっと異なった音楽がほしい」と思ってしまう。とりわけ、ポローニアスはもっと道化じみた音楽が必要なのではないか。そんな思いをずっと抱いていた。

 もちろん、これは劇団四季の問題ではなく、日本語で「新劇」を上演する場合の、一つの宿命なのかもしれない。

 が、もちろん、いうまでもなく、これは、ふだんオペラしか見ない人間の勝手な違和感でしかない。むしろオペラに激しい違和感を覚える人のほうが多いのだろう。そして、芝居を見るうちに、慣れてきて、そのような違和感を覚えなくなるのだろう。私自身、オペラを見始めたころ、しばしば歌で台詞を語ることの違和感、日本人が西洋人を演じることの違和感を覚えたものだった。み続けているうち、それがほとんどなくなった(今でも、たまにそれを感じる上演はあるが)。それと同じことだと思う。

 そうしたことを承知の上で、私の感じたままを書いてみた。

 

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クリント・イーストウッドの映画たち

 NHK-BSでクリント・イーストウッドの出演映画、監督映画が特集されていた。私は学生のころから現在に至るまでヨーロッパ映画好きなので、実はあまりアメリカ映画には詳しくない。テレビ放送は録画しておいて、時間ができたときに見るが、映画館に行くのは稀だ。DVDを買うことも少ない。

 が、何を隠そう、クリント・イーストウッドは、「マカロニ・ウェスタン」や「ダーティハリー」のころから、いやもっと言えば50年近く前に放映されていたテレビドラマ「ローハイド」のころからのファンだ。イーストウッドのかっこよさにシビれてきた。

 監督作品も、これまでテレビで「マディソン郡の橋」「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」「ミリオンダラー・ベイビー」を見て、いずれにも大いに感銘を受けた。凄まじい演出力と映像美、しみじみとした哀歓に心引かれてきた。

 そして、改めてBSの放送を見た。仕事で忙しいので、ちょっとだけにしようと思いながら、つい「ダーティハリー」は全部見てしまった。「荒野の用心棒」も「夕陽のガンマン」も実におもしろい。私はかなり凝り性なので、イーストウッドの監督作品のDVDも何本か買ってきて見た。

 見た順に、ごく短く感想をまとめてみる。

・「許されざるもの」

 娯楽西部劇だが、老いて改心したならず者の描き方が実にリアル。イーストウッドに感情移入してしまう。娼婦たちも、娼婦たちをひどい目にあわせる男たちも、保安官も、賞金を稼ごうとする三人も、憎めない存在として描かれている。強いメッセージがあるわけではないが、人間の命の重み、生きるつらさがひしひしと伝わる。しかも、一級の娯楽作品になっているところがさすが。

・「チェンジリング」

 1920年代から30年代にかけての時代の描き方も素晴らしい。行方不明になった息子がもどってきたが、実は、それは別人だった、母親は別人だと訴え続けるが、警察はそれを信じないで、母親を狂人扱いする・・・という物語。実話だというから恐ろしい。それをまさしくリアルに描いていく。主演のアンジェリーナ・ジョリーが、これまで見たほかの映画とうって変わった演技力を見せている。ただ、理不尽な目にあい続けるヒロインの姿があまりに痛ましくて、見るのがつらくなった。それも、リアルな映像のなせる業だとは言えるだろうが。

・「グラン・トリノ」

 これは大傑作。これまで見たイーストウッド監督映画の中で、一番好きだ。イーストウッド演じる保守的で頑固な老人が実に魅力的。笑えるところがたくさんあるのがいい。隣の家に移ってきたモン族の人々とだんだん打ち解けていく様子も実に自然。これも間違いなく娯楽映画でありながら、生と死、そして男の誇りという大きな問題を取り上げている。朝鮮戦争で人の死を見つめて、懐疑的になり、宗教を信じなくなり、人を信じられなくなった老人の人物造形に説得力がある。さりげない生活を描いても、そこに人生の深みを感じさせるだけのリアリティがある。

 最後、悪い奴らを皆殺しにするのかと思ったら、そうではなかった。その解決も見事。そして、イーストウッドの演技力! 

・「スペース・カウボーイ」

 以前、テレビで見た記憶があるが、字幕で見ると、これが実にいい。なかなかの傑作だと思った。老人たちが、一度諦めていた宇宙飛行をする物語だが、4人の老人を演じるイーストウッド、トミー・リー・ジョーンズ、ドナルド・サザーランド、ジェームズ・ガーナーが、いずれも見事。ありがちなヒーロードラマなのだが、演出がしっかりしているので、一人一人の人生の重みが伝わってくる。

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ウィーン・シェーンブルン宮殿歌劇場の「こうもり」を十分に楽しんだ

 67日、武蔵野市民文化会館でウィーン・シェーンブルン宮殿歌劇場公演「こうもり」を見た。それなりにおもしろかった。

 難をいえばきりがない。まず、オーケストラがよくない。貧弱な音がする。6拍のはずなのに7拍に聞こえたところもあった。指揮のトーマス・ベッチャーもうまくない。歌手たちと音がずれるところが、何度もあった。びしっとあっているところのほうが少なかった。プログラムを買ったが、そこにこの指揮者の名前がない。もしかすると、本来の指揮者ではないのかも。演出も、かなりありきたり。

 だが、歌手たちは、かなりのレベルだった。アイゼンシュタインのペーター・エーデルマン、ロザリンデのエリザベート・フレッテル、オルロフスキーのエリザベート・ラング、アデーレのアハイディ・ヴォルフがかなりいい。このくらい歌ってくれれば文句はない。十分にヨハン・シュトラウスの歌に酔うことができる。

 いやはや、やはり「こうもり」は楽しい。大傑作だと思う。私の大好きなオペレッタだ。中学生のころから、カラヤン指揮、フィルハーモニア管弦楽団のレコードを楽しんでいた。とりわけ、ロザリンデを歌うシュヴァルツコップに感動したものだ。

 ところで、ペーター・エーデルマンは往年の名歌手オットー・エーデルマンの息子だと、どこかで読んだ記憶がある。私は、オットー・エーデルマンが大好きだった。フルトヴェングラーのバイロイトの第九、レポレッロ、ドン・ピツァロ、カラヤン指揮のオックス男爵などを歌っている。私は特にドン・ピツァロとオックスが好きだった。その息子さんが今歌っていることに、ある種の感慨を覚える。

 

 ただ、日本語をたくさんいれて客の笑いを取ろうとするのはいかがなものか。オペレッタだから、硬いことを言わずに楽しめばいいといえば、その通りだが、ちょっと安易すぎる。むしろ、若者言葉でいわれる「痛い」という感覚を覚えてしまう。もう少し、音楽そのもの、歌手たちの芸そのもので勝負してほしかった。

 そのような雰囲気のためかもしれないが、演奏中におしゃべりしたり、バッグのファスナーを開け閉めしたり、携帯をつけたりする客が多かった。

 とはいえ、ヨーロッパのオペラハウスの日常的な上演というのは、きっとこのようなレベルなのだろう。超一流ではないにせよ、十分に満足して帰れた。

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ヒラリー・ハーンのヴァイオリンに魂が震えた!

 6月2日、サントリーホールで、エサ=ペッカ・サロネン指揮、フィルハーモニア管弦楽団の演奏を聴いてきた。前半は、サロネン作曲の「へリックス」と、ヒラリー・ハーンが加わってのチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲。

「へリックス」については、何とも言えない。私は現代音楽をあまり聴かなくなって30年ほどたつので、現代音楽の語法に習熟していない。「さっさと終わって、早くチャイコフスキーが始まらないかなあ」と思っていたことを告白しておこう。

 ヒラリー・ハーンのチャイコンについて、予想していた通りの演奏。チャイコフスキーらしい濃厚で哀愁にあふれた情緒は皆無。クリスタルのように透明で、冷ややかで凛とした演奏。透徹した美しさにあふれている。が、そこに気品にあふれる情熱がある。チャイコフスキーの演奏にありがちな下卑たところがまったくない。

 そうでありながら、十分に盛り上がる。本当のことを言うと、もっと盛り上がってほしかった。シベリウスのCDはもっともっと盛り上がる。が、チャイコフスキーの協奏曲は、シベリウスほどハーンのヴァイオリンを盛り上げるようにはできていないと思った。

 オケはしばしばどのように伴奏してよいのかわからないような様子が見えた。やはり、オケはときどきチェイコフスキー的な「浪花節」になってしまう。楽譜にそう書いてあるのだから、仕方がないだろう。ヴァイオリンソロとの違和感があった。

 ハーンのソロのアンコールが見事。イザイの「メランコリア」とバッハのパルティータ3番の「ジーグ」。バッハの凄まじさ! 透明な音で、鋭く美しく、ゆったりと弾く。それだけで音楽の神が舞い降りる!!

 後半はシベリウスの交響曲第二番。これも素晴らしかった。一昨日の「幻想」ほど疾風怒濤ではなく、まとまりがよく、求心的。が、十分にエネルギッシュで力感にあふれ、音が緊密で、大きくうねる。早いパッセージもオケはカンペキについてくる。サロネンは全体を完璧に把握しつつ、味の濃い、緊密な音の空間を作り上げていく。終楽章の盛り上がりは素晴らしかった。

 私はこの曲をナマで聴いたのは、もしかしたら20年ぶりくらいかもしれない。学生のころ、何度か聴いた記憶があるが、その後、この曲を目当てにコンサートに足を運んだことはなかった。今回、たまたまヒラリー・ハーンを目当てにチケットを買ったのだった。だが、改めて聞くと、なんと不思議な曲だと思った。切れ切れの楽想が少しずつまとまっていく、それがだんだんと形を成していく。聴いているものはだんだんと興奮していく。

 アンコールは、「ペレアスとメリザンド」と「カレリア」の「行進曲ふうに」。いずれも見事。とりわけ、「行進曲ふうに」の盛り上がりは素晴らしい。

 ともあれ、満足。

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エイビットスクエア開所式、そして八王子教会

 昨日(6月1日)、午後から、八王子市のエイビットスクエアの開所式のパーティに出席。エイビット(ABIT)というのは、八王子市のIT系のベンチャー企業で、携帯電話などの高度な情報機材を作っているという。その会社が、八王子市に、人材育成や市民の交流の場になる建物を作ったわけだ。多摩大学もこの企業や施設と連携して活動したいと考えているため、諸橋学部長、久恒学長室長ら、多摩大学の教授陣とともに、私も多摩大学に勤める一人としてパーティに出席。

 清潔で機能的で、まさに人材育成に大きな貢献をしそうな建物。多くの地域の政財界人が出席され、まさに大盛況。このような建物が誕生し、そこで人的交流が行われ、新しい文化や企業が生まれるのだろう。市民に開放される施設を企業が作り、官と民が一体になって人材が育成されるというのが理想だろう。その理想に、この建物がなってくれることを望む。私たちも、及ばずながらその力になれるとうれしい。

 エイビット社長の檜山竹生さんのお話(17歳で起業したというのに驚いた。おだやかに見える人だが、凄まじいエネルギーを持っておられるのだろう!)、八王子市長・黒須隆一氏のお話(自然豊かで子育てに最適の八王子という点に、なるほどと思った)のあと、特別記念講演として寺島実郎多摩大学学長の「世界を知る力、多摩を知る力」と題した講演が行われた。スタジオに入りきれずに別室でモニターで講演を聞く人もたくさんいた。

 寺島学長の講演はこれまでに何度も聞いているが、時間の経緯とともに新しい要素が加わり、それ以前の内容の必然的経緯を知ることができて、興味深い。多摩地区の歴史的役割についても示唆を得た。

 その後、立食パーティ。おいしい料理をつまんで、少し早めに帰らせていただいた。

 ところで、エイビットスクエアを訪れる前、一人でカトリック八王子教会にお邪魔した。

 少し前から、近代化におけるキリスト教の影響に関心を持っている。明治から昭和の戦争直前まで八王子教会の司祭を務め、1949年に83歳で亡くなったフランス人神父、メイラン神父の生涯と内面を何らかの形で知ることはできないかと考えている。

 受付におられた親切な女性に教えていただき、資料もいただいた。もう少し勉強してから、また訪れたい。

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エサ=ペッカ・サロネン指揮、フィルハーモニア管弦楽団に興奮した!

 5月31日、エサ=ペッカ・サロネン指揮、フィルハーモニア管弦楽団の演奏で、ムソルグスキー『はげ山の一夜』(原典版)とバルトーク『中国の不思議な役人』、そして、ベルリオーズ『幻想交響曲』を聴いた。一言でいって、きわめて刺激的でスリリングな演奏に興奮した。

 まずフィルハーモニア管弦楽団の機能性に驚いた。こんなにすごいオケだったっけと思った。一昔前まで、かなり下手なオケだった記憶があるが・・・。前半の2曲はまさしくオケの性能のよさを見せ付けるような演奏だった。『はげ山の一夜』の原典版は初めて聴いた。聴きなれたものとは、まったく違う曲想だった。

 指揮もみごと。オケは速いパッセージを完璧にこなし、音を畳み掛けていく。劇的で激しい演奏。弦の音が実によくそろっていて、しかも音に強靭さがあって深い。

『幻想』は、前半の曲に輪をかけてドラマティック。

 サロネンは、一部の楽器をあおって、強いアクセントをつけていく。そのために、音楽に勢いがつき、鋭くエネルギッシュになる。一つ間違うとバランスを崩してしまいそうになるが、実にうまくコントロールしているために、むしろエクセントリックな味わいが生まれ、スリリングで求心力にあふれる音楽になっている。

 ふだん聞こえてこない楽器が聞こえ、これまで聴いたことのないような豊穣でリアルな世界になった。一昨日聴いたファビオ・ルイジとウィーン響による育ちのよい均整の取れた演奏とは正反対。

 第四楽章でバランスが崩して失敗したのかと思ったが、繰り返しでもそっくり同じだったので、意図的だったのだろう。まるで曲芸! しかも、まったく下品ではない。美しい音。しっかりしたリズム。

 後半は、音の大洪水に興奮。次から次の音が押し寄せ、会場いっぱいのとてつもなく異常なベルリオーズの世界が広がった。大いに感動した。

 今日の曲目であれば、これでいい。とりわけベルリオーズはもともと殺人と地獄落ちを描くいびつな曲なのだから、このようなバランスを欠く演奏でかまわない。だが、モーツァルトやベートーヴェンやブラームスをどう演奏するのか、ちょっと心配になった。

 アンコールは、シベリウスの『悲しきワルツ』(だと思う。確認を忘れた)と、『ローエングリン』から第三幕への前奏曲。『ローエングリン』では、少しバランスが壊れた。

 しかし、何はともあれ、とても楽しめた。フィルハーモニア管弦楽団の実力に脱帽。っサロネンにも今後注目したいと思った。

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