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読売新聞の私の記事、そしてネマニャ本人参加のファンの集い決定!

 今朝の読売新聞朝刊の「著者来店」の欄に私が紹介されている。『音楽で人は輝く』について語ったものだ。松本記者がとてもよくまとめてくれている。感謝。

だが、一箇所、修正するところがある。私が誤解を招くことを言ってしまったようだ。「地元・大分市で往年の名ソプラノ、シュワルツコップの歌を聴いたことも」とあるが、正確には、「大分に住んでいたころ、福岡市まで出向いて往年の名ソプラノ、シュワルツコップの歌を聴いたことも」とするべきだった。もちろん、シュワルツコップは大分を訪れなかった。

 高校生のころ、当時の私にとってのアイドルだったシュワルツコップ(今では、シュヴァルツコップと表記するほうがふつうだろう)が初来日し、隣の県である福岡に来ると知って、親にねだって無理を言って連れて行ってもらったのだった。

それ以前から、レコードでシュワルツコップのオペラや歌曲を聴いていたが、生の迫力は圧倒的だった。アンコールで歌われたシュトラウスの「献呈」は今もはっきりと耳に残っている。シュトラウスの歌曲は今も大好きで、実演も録音もずいぶん聴いてきたが、あれほど心を揺さぶられたことはなかった。その後、二度、シュヴァルツコップを聴いたが、最初の感動が最も記憶に残っている。

 ところで、今日13時から、ネマニャ・ラドゥロヴィチのファンクラブの第一回総会を開いた。18時近くまで、これからの会の名称、役員(私が1年任期の会長ということになった)、これからの運営などについて突っ込んだ話をした。詳しいことは、近いうちに「ネマニャ ファンブログ」に詳しく告知するので、ご覧になっていただきたい。

 ただ特筆するべきは、3月1日、ネマニャ本人が参加するファンイベントの開催を決定し、それを発表したことだ。会員限定(ただし、入会自由)のイベントで、都内で開かれ、ネマニャにミニコンサートをしてもらうことになっている。

 多くの方にファンクラブの会員になっていただき、このイベントに参加していただきたい。そして、彼の圧倒的で驚異的な音楽性と技術にもかかわらず、日本ではあまり知名度がなく、コンサートもめったに行われないので、私たちファンクラブの力で、もっと日本での公演を増やしてもらえるように努力したい。そして、彼の凄まじいヴァイオリンを聴いてもっともっと感動したい。

 まずは、明日東京オペラシティで、東京シティフィルの演奏会にネマニャが出演する。演奏するのはプロコフィエフの協奏曲第二番。楽しみだ。

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音楽」カテゴリの記事

コメント

樋口先生、こんばんは。
初めての試み、Tweetというのをしてみたのですが、「0」のままのようですね。
なにか、テクニックが必要なのでしょうか?

投稿: sanae | 2011年2月13日 (日) 23時13分

訂正
失礼しました、タイムラグがあったのかもしれません、Tweet「1」になっていました!
「これだからオバサンは!」と、子どもに云われそうです…。

投稿: sanae | 2011年2月13日 (日) 23時15分

たびたびすみません。
Tweetをすると、わたしのツイートが、いきなり「読売新聞の私の記事…」と始まるので、まるでわたしが記事を書いたようになってしまうんですね。(もっとも、慣れた方は、ちゃんと読み方をわかっているのでしょうけれど。)
夫も、いったんTweetさせていただいたのですが、同じ理由で「まるでぼくが記事を書いたみたいになってしまうから」と、そのツイートを削除。そして、わたしのツイートにリツイートするという形にしていました。
どうも、Twitterのしくみがわかりません。
これを機会に、いろいろ研究してみたいと思います。
何回もおじゃまいたしました。

投稿: sanae | 2011年2月14日 (月) 08時47分

sanae様
すでにご存じの通り、私は機械オンチ、ITオンチです。実は、おっしゃっていることの意味がよくわからずにいます。0、1てなんだろう? ツイートって? ツイッターは知っているけれど・・・。申し訳ありません。

投稿: 樋口裕一 | 2011年2月14日 (月) 13時06分

気づいたら、先生のメッセージの最後、日付の下に「Tweet」というブルーの囲みがあったので、ネマニャの宣伝になると思い、夫婦でツイートしてみたのです。
いまは「3」になってますよね?
夫は取り消したので、つまり、わたし以外にも、お二方が、先生のコラムの「Tweet」をされているということだと思います。
つまり、ここで「Tweet」をすると、ツイッターに先生のメッセージが転送されるということなんです…。こちらこそ、すみません。

投稿: sanae | 2011年2月14日 (月) 13時18分

Sanaeさま

横からスミマセン。
このTweetボタンは、押した人(Sanaeさま)のフォロワーに対して、このブログのリンクを送信するツールです。

使い方として、自分のコメントを入れて送信する方法もありますが、
すでに慣例として、そのままTweetでOKです。
Sanaeさまのフォロワーは、リンクが貼ってあるのを見て、Sanaeさまが気になったページのTweetであることがわかります。
だれも盗作?だとは思いませんので、安心してご夫婦でTweet(共有)してください。

詳しくは下記がわかりやすいです。(英語)
http://www.youtube.com/watch?v=LB0hrJ_ZZzc&feature=player_embedded

投稿: Tamaki | 2011年2月15日 (火) 02時58分

Tamakiさま

ほんとうにありがとうございます。ひじょうによくわかりました。

「自分のコメントを入れて送信する方法」も習得してみますが、フォロワーには、そのツイートの中身は樋口先生が書いたものだということがわかっているなら、安心しました。夫にも説明してみます!理解してくれることを祈りつつ(w)

ということで、樋口先生のブログをどんどん自分のフォロワーにひろめていけるわけですね。
ネマニャファンクラブのブログにも、やはり「Tweet」を見つけました。

投稿: Sanae | 2011年2月15日 (火) 08時20分

樋口 裕一 様

 新刊「音楽で人は輝く」を拝読しております。対立軸を設けてそこから音楽の歴史を覗くという手法は、音楽に親しむための好ましい方法の一つだと思われます。
 ただ私はアマチュアとして仲間と下手な合奏を楽しむだけの身(Vc.)ですので、ブラームスであろうとワグナーであろうと、弾けるものでありさえすれば(僅かなものですが)見境無し、という節操を欠いた楽しみ方しか出来ず、またそれで充分なのです。実際問題としてはワグナー派の室内楽、それに声楽入りの曲は少ないですから、いきおいモーツアルトとかの、それも比較的易しい器楽曲が多いということになります。
 弦楽器については嬉しいことにオーケストラの作品にはこと欠かず、この分野ではブラームスもワグナーも、それからオペラ伴奏も射程内に入ります。但し、それらがうまく弾けるかどうかというのは残念ながら「不問」ということになりますが。ブラームスの「交響曲第4番」、ワグナーの「タンホイザー序序曲」などは、いくら好きだといっても、アマチュアには技術的に大きな壁があり、それ故に一層の魅力がかき立てられるという格好になっております。

 私はもう中高年ですが、オーケストラ/オペラや室内楽分野では今や小学生までも参入して楽しんでいる様子はまことに素晴しいものがあり、それこそ輝いております。

 音楽でアマチュアが進出した分野では、これらの活動、アマチュアによるオペラ自主制作、それから何にもまして「大人」が世に憚ることなく音楽学習を趣味として楽しめるようになったことは、欧米にも劣らない日本音楽界の素晴しさを示す一面だと考えられます。
 樋口先生はチェロも嗜まれるそうですが、是非これを突破口としてアマチュアたちの活動実態を世に知らしめて頂きたいものです。それは日本のクラシック人口を増やす所以でもありましょう。

 僭越ながら私もアマチュアの一員して先年拙い自著を世に出させて頂きましたが、まだまだ力が及びません。
(*)「アマチュアの領分---ヴァイオリン修得術」、「生涯学習 ヴァイオリンの楽しみ」。共に春秋社。

 さて、御著でシュワルツコップに触れられていますが、私にとって忘れがたいのは、戦後初来日したイタリアオペラ公演「アイーダ」の奴隷役のエキストラ(歌なし)となり、憧れのモナコやシミオナートと同じ舞台に立てたことです(僅かに30秒)。その後数十年して、幸運にも私はアマチュアオーケストラで市民オペラ「アイーダ」公演に参加することを得、アマチュアの進出を実感出来た次第でした。アマチュアはいまやソロ歌手を除いて、企画、オケ、合唱、演出、音響、照明、衣装等のすべてを取り仕切れるまでに成長しております。

 先生の文章に関連してもう少しコメントさせて下さい。
 ベートーヴェンの交響曲第1〜9番の連続演奏ですが、これもアマチュアの演奏家たちが臨時編成で、一日かけて完奏したという実績があります。その内容/レベルはともかく、その無謀さにかける熱意や企画力には瞠目すべきものがあります。

 ネマニヤというヴァイオリニストはまだ拝聴したことはありませんが、私の敬愛する女性の名手は、松田理奈と前橋汀子両氏です。前橋氏につては特に触れるまでもない実力派ですが、松田氏はまだ20代という若さで、既に大家の風格をもち、特に旋律の歌わせ方については当代随一の魅力をそなえています。
 その訳というのは、想像するに彼女の留学先が独逸の地方都市という点にあります。そこに元ウイーンフイルのコンマスが教師としているというのです。何かが分かるような気がします。彼女がニューヨークとかウイーンとかありふれた留学先を選ばない優れた選択眼が窺えるようです。

 なお若干の感想を少しばかり述べさせて下さい。
◇ 「第九」の統一感(p.28)。
 最初の三つの楽章には統一感があるが第四楽章とはミスマッチ。

 ----- 第四楽章でバリトン歌手が「おお友よ、こんな音ではない」と、前の三つの楽章(器楽)を否定し、それから合唱(言葉)に入ります。
 この意味では、ベートーヴェンは器楽による絶対音楽からワグナーの世界への道を開いたと言えるのではないでしょうか。
 すなわち、思想的にも様式的にも、第九は完全に統一が取れているとは言えないでしょうか。
◇ (p.35)。細かい話で恐縮ですが、シューベルト「死と乙女」第2楽章は、歌曲「死と乙女」のメロデイではなく、その伴奏部分を題材として作曲されています。
 シューベルトは、この部分から壮大な第2楽章の世界を造り出したわけで、その泉のような創造力には驚くほかはありません。
 私もチェロで演奏に参加した実感では、普通言われている構成力不足などは微塵も感じられなくて、厳密な構成と優れた展開の妙にはただただ感じ入るばかりでした。
 よく彼の音楽は纏まりがなくて長大だ、と言われますが、それは彼の溢れるばかりの創造力は、一定の様式に押し込めるには余に大き過ぎた、ということではないかと思われます。
 それに、他の追従を許さない彼の人肌を感じさせる情感---- 私はシューベルトこそは有史以来の天才ではないか、と思うところがあります。彼を連想させる才能は、後世のドヴォルザークということになりましょうか。

 事のついでにアマチュアの演奏仲間(室内楽)について申し上げますと、私はいろいろとある団体のなかでAPA(=エイパ。日本アマチュア演奏家協会)というものに入っております。
 千人ほどの全国組織で、各地に例会と称する合奏機関(月一度程度)があり、臨時に弦楽四重奏(等)を編成してくれます。
 ただメンバーが一定しないため、精密にハーモニー、表現等を仕上げるのは無理ですが、仲間やレパートリーを増やせるなどのメリットはあります。
 また例会によってそこでの音楽の接し方にも微妙な違いがあるようで、音楽も畢竟するところ「人による」という(当たり前の)ことを実感させられます。
(*)「日本アマチュア演奏家協会」で、HPの検索が出来ます。

 長々と脈絡のない駄文で失礼いたしました。
 今後の御発展を祈念申し上げます。

辻栄二
pdd03511@nifty.ne.jp
http://d.hatena.ne.jp/e-tsuji/

投稿: 辻栄二 | 2011年2月15日 (火) 20時46分

辻栄二 様
コメントありがとうございます。また、拙著についてのご感想、ご意見についても、ありがとうございます。
「第九」の第四楽章につきましては、拙著「笑えるクラシック」(幻冬舎新書)に私の「説」を書いております。ご異存もおありかと思いますが、よろしかったら、目をお通しいただけると、ありがたいと思います。
失礼ながら、辻さんについて調べさせていただき、定評ある本をお書きになった方と知りました。ただ、私のチェロは、そのレベルにまではるかに達しておりません。もう少し覚悟ができたら、購入して、読ませていただこうかと思っています。
なお、誤解なさっておられそうですので、一つ付け加えておきます。ネマニャ・ラドゥロヴィチというヴァイオリニストは男性です。現在24歳で、セルビアの生まれ。現在フランス在住。
近いうちに、往年のハイフェッツやオイストラフに並び称せられることになると多くの人が確信している圧倒的なヴァイオリニストです。すでにパールマンに劣らないテクニック、クレメルに劣らない音楽性を身につけています。しかも、もっとずっと個性的な音楽を作ります。女性に人気が高いのは、その容姿のためです。是非、お聴きになってください。

投稿: 樋口裕一 | 2011年2月17日 (木) 09時50分

樋口 様

 先日はこなれないコメントを長々と申し上げ、失礼いたしました。
 お話の「笑えるクラシック」の「第九」の項を拝見いたしました。さすがよく研究されたものと感心いたしましたが、ただ少し異なった感動を持ちました。
(1) ベートーヴェンは「統一感」を維持するために、1〜4楽章を通じていろいろな工夫を凝らした、というよりは、初めから一定の統一感を持って些かの迷いもなく作曲した、というのが私の実感です。「おお友よ」とバリトンが歌い出すのも必然性があります。
 私はアマチュアのチェロですが、「第九」公演には何回か参加しました。
 第4楽章に至って、1〜3楽章の楽想のフレーズをいちいち想起しては、いちいち低弦で丁寧に否定していく道筋は何の説明も要せずにごく自然のものとして実感され、器楽ではなく声楽によらなければ、というベートーヴェンの歓喜への道程にも自然に従えます。
 これは特に解説を付けなくても、多少音楽に馴染んだ人には受け入れられるものでしょう。
 初めての予備知識がない人には無理かもしれません。しかし、後年の標題音楽や現代音楽の題名----- 解説を付けてもなお難解な曲想と比べれば、どれほど分かり易いか分かりません。
(2)第4楽章にはいろいろな思いをさせられますが「どんちゃん騒ぎ」とは如何なものでしょうか。
 この語感には「乱痴気騒ぎ」、「酒乱」、「無礼講」といった感じが伴い、「第九」の齎す雰囲気とはやや違った違和感が感じられます。「第九」の齎す一種の興奮状態には、「高揚」「感激」「エキサイト」「エクスタシー」「法悦」「熱気」等の言葉がまだしも当て嵌まるのではないでしょうか。合唱団員にその実感を聞いてみたいものです。
 合唱に付き合うオーケストラ団員としては、「熱気」は感じても「乱痴気」というような感じでは、まともに演奏には立ち向かえないような気がいたします。
(3)「第九」を笑える曲と見なすのは実感として少し無理があるのではないでしょうか。
 ニュアンスは違いますが、「ボレロ」で用いられた同じようなモチーフの繰り返しが、笑いを誘うことはあるかもしれません。しかし、それを拡大して曲全体の印象を「笑い」で括ることには少し無理があるのではないでしょうか。ボレロには笑えないほどの大きな魅力があります。
 ベートーヴェンの「運命」第1楽章ですが、ここでは短い同形のモチーフが数百回も出て来て壮大な楽章を形成します。これは「笑い」の題材になりましょうか。笑ううちに、曲の迫力に圧倒されてしまい、笑うことが恥ずかしくなるというのが実情ではないでしょうか。
 「運命」にしろ「ボレロ」にしろ、後世の人が、こうした断片的なモチーフを使って、歴史に残る名曲を作れ、と命じられたとしたらどうでしょうか。どう考えてみても「笑う」どころではなく、偉大な両作曲家の天才に改めて感じ入る結果となると思われるのですが。
 こういうことではないでしょうか----- 見方によっては笑いを誘う要素もあるが、名作とされるものには、いろいろな側面があるものだ。いろいろな側面を見てこそ、本当の鑑賞が可能になる。

 屁理屈を並べましたが、実際に演奏する身になってみると、「第九」はどうも好きになれません。第4楽章で「感激」する前に、演奏のあまりの困難さに泣かされてしまうからです。
 年末に何回でも「第九」にお付き合いする(させられる)プロの方々には、本当に御苦労様と申し上げたい気持ちです。
 意地悪な人は、第4楽章で歓喜どころか、苦闘(死闘)している弦の人たちの姿を客席から望遠鏡で見たいものだ、などとケシカラヌことを言います。---- つまり、自分も苦しめられ、その姿を客に晒す辛さを味わったからにほかなりません。(以上の数行は、すぐ消去して下さい)。

 それから、演奏者の実感からすると、曲は「統一感」のあるなしは問題ではなく、弾いていて面白いかどうかだけが問題なのです。あまり統一感があると、決まったレールに載せられているようで、却って退屈することがあります。
 オペラでは、なるべく曲全体を予習して演奏に臨むように心がけはしますが、オケピットにいると、歌手の声はよく聞こえず、まして外国語では劇の展開に付いていくことは無理で、頼るのは指揮棒だけということになります。
 それで曲が終ってみると、記憶に残るのは、オペラの歌部分ではなく、面白くもない伴奏の一部分だけだったりして、自分の記憶力に自信を失なうことになります。
 ウイーンフイルの人は、新米指揮者は相手にせず、歌手の声だけを聞きながら伴奏をする、と聞きますが、ただ恐れ入るばかりです。

 別件ですが、噂のネマーニヤ。「メンデルスゾーン」のCDを求めました。これから聞いてみます。
 先日、私の勘違いで女性ヴァイオリニストのみに言及したかのように思われたのでしょうが、実はそうではなく、松田、前橋両人を取り上げたのは、私が敬愛するヴァイオリニストはこのお二人になってしまったということです。とりわけ松田氏の「歌」はネマニヤに匹敵出来るものかどうか。
 ----- あまりこういう比較は意味のないことなのでしょうけど。
                                辻栄二

投稿: 辻栄二 | 2011年2月23日 (水) 22時39分

辻栄二様
 おっしゃることはよくわかります。辻さんの聴き方はきわめて正統的であり、私自身、ずっとそのように聴いておりました。が、私が拙著で言いたかったのは、クラシック音楽をもっと自由でもっとおおらかなものと考えるべきではないかということでした。そして、同時に、一つの解釈で聴く必要はなく、さまざまな聴き方があってよいのではないかということです。もちろん、演奏する人の聴き方だけが正しいわけではなく、聴く人の数だけ正しい聴き方があると考えるべきだと思うのです。その一つの聴き方として、あの本で私は「笑い」を重視した聴き方を提示したのでした。
 そして、「第九」で書いた「どんちゃん騒ぎ」は、「デュオニュソス的祝祭」という意味を含ませているつもりです。周知のとおり、ニーチェの言う「デュオニュソス的なもの」というのは、酒による酩酊、酒を飲んでのバカ騒ぎが含まれています。何しろ、ディオニュソスというのはローマ神話で言えばバッカスなのですから、酒と切っても切り離せません。ですから、拙著で語ったことを別の言葉で言い表せば、「第九の第四楽章は、それまでアポロ的だったものが、突如ディオニュソス的になる」ということでもあるのです。そして、バカ騒ぎであるからこそ、心の奥から祝祭的で神聖(キリスト教とは異なった意味で)になるということなのです。「バカ騒ぎ」という言葉を低いレベルでのみ捉えないでいただきたいと思います。いえ、私があの本で書いた「笑い」そのものもレベルの低いものと思わないでいただきたいと思います。笑いというのは、漫才などの笑いを含めて、きわめてレベルの高いものであり、とりわけ第九やボレロの笑いは崇高でさえあると思います。笑いはキリスト教的では重視されないために低く見られがちですが、それは極めて高尚な精神的な営為だと思います。
 ただし、拙著では「笑い」を強調しようとしたため、少し誇張があったかもしれません。それに、あの本ではあまり突っ込んだことはかけませんでした。が、それは本を作るときにはやむをえないことだと思っています。私は、どんな形であれ、多くの人々、とりわけ多くの若い人にクラシック音楽になじんでほしいと思っています。その一つのあり方として「笑い」を入口にして音楽に親しんでもらおうとして、あの本を企画しました。残念ながらあまり売れませんでしたが、その意味で私はこの本の意味はあったと自負しております。なお、「笑い」「ヤバイ」というようなある面を強調するのでなく、私が自分の音楽観を思いきり書いたのは『ヴァーグナー 西洋近代の黄昏』(春秋社)でした。
 ネマニャの件ですが、辻さんが女性奏者を挙げられておられるので、もしかしてネマニャを女性と勘違いしているかと思ったのでした。失礼いたしました。なお、メンデルスゾーンの協奏曲は、ネマニャの個性があまり強く出ていない録音だと思います。もしよろしかったら、以下のyou tubeをご覧になってください。クラシック音楽といえないような凄まじいコンサートが見られます。もし関心がおありでしたら、のぞいてみてください。

http://www.youtube.com/watch?v=dprCROty1TQ

四季
http://www.youtube.com/watch?v=2Dnvm5lt1sk&feature=related
「フランス2」で放送されたネマニャの番組。
http://www.youtube.com/watch?v=Flyxv7xwWy4&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=Ia94Lf_WhM4&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=PZcWBTrld44&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=sgUXE46ZtTw&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=b_05BaBr1eA&feature=related

投稿: 樋口裕一 | 2011年2月25日 (金) 12時20分

樋口 様

 ネマーニヤのメンデルスゾーンを聞きました。クレーメルに磨きをかけたような逸材ですね。音にも艶があります。
 私は下手ながらヴァイオリンもいじるので、メンデルスゾーンにも手を出して、すぐ挫折した経験があるのですが、ヴァイオリン特有の、楽器構造上、ここはどうしても人の手では弾きづらい、というところがあります。
 それを(自然に、無理矢理に、あるいは厳しい修練の当然の帰結として)克服出来るのが名人というものなのですが、ネマーニヤの場合、些かの困難も感じさせず、見事に弾き切っているところは流石だと感服いたしました。その上、どんなに早いパッセージでも音の粒が揃っていて、およそ手抜きとか息切とかを感じさせません。ヴァイオリンを弾くためにこの世に生まれてきたような人です。
 まだ若いので、やや突出するようなところが見られますが、40代になった頃の円熟した彼の演奏を是非聞きたいものだと思いました。
辻栄二
(*)コメント 有難うございました。勉強になります。

投稿: 辻栄二 | 2011年2月25日 (金) 12時32分

樋口 様
 コメントを拝読し、笑える音楽をどう発掘し、理解し、エンジョイするか---- その考え方を理解出来るように努めています。
 私は演奏系の人間で、頭よりも身体で音楽を感じ、そこで納得出来るものだけを信じる、という癖に馴らされています。
 幸いに手近に楽器と音があるので、実際に音に接し、笑えるものかどうかは身体で実感し、それだけが自分を裏切らないものだ、と思っています。頭での理解は後から付いてくる、という感じになります。

 ネマニヤはパガニ ニとか超絶技巧の分野で本領を発揮する才人のようで、私にとっては少し重過ぎるような気がしてきました。
 ヴァイオリンには情緒に訴える演奏分野があり、私はこの面で静かに過させて貰いたいという気分です。松田とかグリュミオーの世界ということになりましょうか。辻栄二

投稿: 辻栄二 | 2011年2月25日 (金) 21時20分

辻栄二様
コメントありがとうございます。
私の考えていることを理解してくださろうとしていただけること、感謝いたします。
私は、ほんの少しチェロをいじりますが、基本的には音楽を思想とみなして聴くタイプの人間です。辻さんとは、音楽に対する接し方に少々違いがあるかもしれません。が、たがいに両方の聴き方を理解してこそ、きっと音楽の楽しみが広がるのでしょうね。私も、演奏する人間の聴き方をいくらかできるようにはしたいと思っているのですが・・・
ところで、ネマニャですが、技巧派あるいは情熱系というわけではなく、ベートーヴェンなども鮮烈です。もし関心がおありでしたら、最近デッカから出ましたベートーヴェンのソナタなど、すばらしいと思います。お聴きになってみてください。

投稿: 樋口裕一 | 2011年2月26日 (土) 22時33分

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