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二期会の『サロメ』についての付記

 昨晩、二期会の「サロメ」についての感想をこのブログに書いたが、その続きを書く。

 実を言うと、私は演出家の語る「演出意図」というのをほとんど読まない。観客におのずとわかることでなければ、舞台上で語るべきではないと思っている。少なくとも、かなりオペラ好きで、シュトラウス好きの私に読みとれないことを舞台上でするべきではないと思っている。私にわからないことだったら、このオペラになじんでいない客も大勢いるのだから、多くの人がわからないだろう。それでは演出として意味をなさないと思う。

 そんなわけで、演出について何も予備知識なしに、昨日、このブログを書き終えたのだった。そして、今朝になってプログラムのなかのベッティーナ・バルツという人の書いた「コンヴィチュニーによる『サロメ』演出について」という文章を読んだ。ちょっと驚いた。

はじめて今回の舞台が「核シェルター」だということを知った。どこか、そうとわかるヒントがあったのだろうか。私はてっきり倒壊寸前のホテルで行われている「最後の晩餐」だろうと思っていた。

 この演出意図の説明文を読むと、コンヴィチュニーはこの舞台によって現代社会の閉塞状況、そして未来への希望(子役の登場、愛の成就)を描きかたかったらしい。

 が、それをなぜこのオペラで行う必要があるのだろう。シュトラウスの作曲した『サロメ』にそのようなメッセージが含まれているのだろうか。含まれていないだろう。含まれていないからこそ、コンヴィチュニーは、結末を変え、殺されるはずのヨカナーンは生き残って愛を成就するという変更を行うしかなかった。自分が「現代」について語りたい内容を語るために、原曲を変更する権利が演出家にあるのだろうか。

もしかしたら、シュトラウスという作曲家の生き方の中には、そういう要素があるかもしれない。シュトラウスはクラシック音楽という近代の崇高なるものが失われ、すべてが卑俗になってしまったことを強く意識していた(そのようなことを、私はこれまで何冊かのシュトラウスを扱った拙著で書いてきた)。つまりは、まさしく音楽の閉塞状況の中で生きていた。コンヴィチュニーはそれを描こうとしたのだろうか。

だが、シュトラウスという作曲家についての解釈をこのオペラの演出で行う必要はあるまい。シュトラウスが本当に閉塞感を強めるのは、『ナクソス島のアリアドネ』よりも後のことなので、もし描くとすれば、その後のオペラで行うべきことだろう。しかも、それを描いたとしても、そのようなシュトラウス観を理解し、それをおもしろいと思うのは、観客のうちのほんの一部でしかあるまい。何らかのシュトラウス観を見せられたところで、シュトラウス自身に特に関心を持っていない大半の人には、おもしろくもおかしくもないだろう。それとも、現代の演出は一部の「通」だけを相手にしていればよいというのだろうか。

いや、そもそも、なぜ音楽に含まれない様々の「意味」を歌手たちの態度や仕草で示す必要があるのだろう。シュトラウスの音楽はライトモティーフが多用され、音楽自体が豊かな「意味」を持っている。ライトモティーフが指し示すのとは全く異なる「意味」を歌手たちが小芝居で示すと、雑種の、しかも支離滅裂な「意味」が充満し、オペラ全体を意味不明のものにしてしまう。

「現代的演出」は過剰な「意味」をまきちらし、それを読みとれた人、あるいは自分で読みとれたと思った人が絶賛し、それ以外の人が酷評するという構図になっているように思う。これは、まさに「現代音楽」が力をなくし、聴き手をなくしていったのと同じ構図だ。自分たちで「エリート」と感じている一部の仲間同士での「楽屋オチ」を楽しんでいるのでしかなく、普遍性を持たない。こうして、だんだんとオペラが崩壊していくのを私は恐れる。

 『サロメ』というオペラを大胆に解釈し、その本質をこれまでと全く違う形で目に見えるようにし、その音楽に隠された意味をあらわにしてくるような演出が現れないものだろうか。そうしたら、私は喜んで絶賛するのだが。二期会にこそ、ぜひそれを期待したい。

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音楽」カテゴリの記事

コメント

なんか批判する事で自分の知識を誇示している「一部の通の人」の文にしか読めませんが(失笑)

投稿: りえ | 2011年2月27日 (日) 11時42分

りえ様
コメント、ありがとうございます。
私の文章を読んでくださったのであれば、私が「一部の通のためでなく、だれにもわかる演出にするべきだ」と主張していることはおわかりいただけると思います。その主張のどこが、「一部の通の文」なのでしょうか。どうか、ご説明ください。
もちろん、私はコンヴィチュニーの演出を批判したのですから、その理由を説明したわけです。そのためには、自分の知識を用いざるをえません。そのような説明までも「自分の知識を誇示している」と言ってしまいますと、すべての説明、すべての批判、すべての文章が知識の誇示ということにならないでしょうか。すべての書物や新聞の記事までもが「知識の誇示」として否定され、何も批判できず、何の意見も語れないことになってしまいませんか。
自分の持っている知識を示すことなく、自分の考えを説明することが、どうすればできるのでしょう。どうか、教えてください。
そして、りえさんも、私を批判なさっているのですから、どうか、その理由をきちんと説明なさってください。そして、できましたら、知識を示すことなく私を説得するような文章を書いていただけたら、ぜひともそれを参考にして、これからは、知識を示すことなく自分の批判を相手に説明する文章の模範にさせていただきたいと思います。

投稿: 樋口裕一 | 2011年2月27日 (日) 22時01分

こんばんは。私のレビューと正反対のご評価で、かえって面白いと思います。多くの観客が両方を読んで、考えるといいのになと思います。それから、高田正人さんのブログも読んだほうがいい。これで歌い演じた人たちがやりたかったこと、それに対する肯定的な意見、否定的な意見がしっかり読めるからです。

樋口さんに言わせれば、さしあたって、私はどちらかというと、演出の意図を読みとれたと思っている知的エリートということになりそうです。

私の主張は自分のところで存分に書いている(未だ完結せず)ので繰り返しませんが、ひとつだけ言わせてもらうならば、今回の演出はあれだけいろんなことをやりながらも、まったくなにも付け加えていない舞台だと感じたことです。むしろ、無駄なものを除き、整理していった舞台だったと思います。その点で、樋口さんとはかなり意見が異なっています。

それに私は、今回の演出はとてもわかりやすいものだったと思います。一部のものだけにしか理解できないような、特殊なロジックは含まれていません。あっても、それは本質的なものではなく、中井英夫や後藤明生の小説のようなペダンティックな知的愉しみにすぎません。また、私はこの演出に対する批判者が、コンヴィチュニーに対する偏見からか、あまりに鋭く彼の知性を攻撃していることを心配しています。日本で接することのできたいくつかの舞台をみる限り、彼はもっと人間的な演出家だと思うからです。

投稿: アリス | 2011年2月28日 (月) 00時24分

だったら「一部の通のためでなく、だれにもわかる演出にするべきだ」
とだけ書いたほうが理解できます♪学の無い私には何が言いたいんだか...まさに現代演出のようですね。
シュトラウスの音楽は100人が聴いて100人がわかるのですか?
シュトラウスの音楽って難しい〜って思う人のほうが多い気が…私もふくめて...私のまわりだけでしょうかねー
誰もがわかる演出ってなんですか?
この役はこういう身分で、この人はその兄弟で、神話とか聖書に出て来る人で、って全部説明してくれるとか?

投稿: | 2011年2月28日 (月) 00時34分

りえ様
ご返事、ありがとうございます。
つまり、裏付けとしての説明は必要ないということでしょうか。しかし、説明するということは、反対意見を想定して、その人に対してもできれば説得できるように書くということのはずです。断定だけして裏付けをしなかったら、全く説明にならないのではないでしょうか。
たとえば、「マルクス主義は間違っている」とだけ言って、何の説明もしなければ、マルクス主義者はまったく納得しないでしょう。そして、裏付けしなくてよい、説明は必要ない、論理的に自分の考えを説明しなくてよいということになると、これまで自分の意見を表明し、それを裏付けてきた人類の知の営為をすべて否定することになりませんか。
そうならないというのでしたら、その説明をお願いします。
また、私のブログの文脈から、「だれでもわかる」というのが、シュトラウスの音楽について語ったものでも、その台本の細かい内容について語ったものでもないことはおわかりいただけるはずです。また、「小学生でもクラシックにまったく関心のない人でも、上演の何もかもを理解する」という意味ではないこともおわかりいただけるはずです。
私が言っているのはもちろん、大枚はたいて『サロメ』の舞台を見るような人であれば、舞台を見ることで、その台本に書かれていること、それについての演出者の意図がほぼ理解できるべきだという意味です。
それを求めるのがなぜ「一部の通の文」なのでしょう。それについても、私が納得できるように説明をお願いできますでしょうか。
もうひとつ。「シュトラウスは難しい」と書かれていますが、シュトラウスは時代に反してわかりやすすぎる音楽を書き続けたことで低く見られている作曲家です。もし、そのシュトラウスまでもが難しいということになりますと、「モーツァルトとヨハン・シュトラウス以外のクラシック音楽はすべて難しい」ということになりませんか。いえ、モーツァルトもヨハン・シュトラウスも、よくわからないところがたくさんありますので、すべてのクラシック音楽は難しいということになると思うのです。それなのに、シュトラウスを特に示して「シュトラウスは難しい」とおっしゃるのは、どのような根拠があるのでしょうか。シュトラウスのどのような面が難しいのでしょうか。それについても、私の理解できるように説明をお願いできますでしょうか。
私のブログを読む方には、今回コメントをくださったアリスさんのような方がたくさんおられます。そのような人にも理解してもらうため、そして時に批判してもらうため、それなりに自分の知識を示して説明をする必要があると考えています。それまでも、りえさんは否定なさるのでしょうか。
もし、断言だけして、その説明をしなかったら、それこそ多くの音楽ファンの方に冷笑されるでしょう。
それなのに、そのような説明が必要ないとおっしゃるのでしたら、それについても説明をお願いします。

投稿: 樋口裕一 | 2011年2月28日 (月) 09時27分

アリス様
ご批判、ありがとうございます。批判していただいたこと、とてもうれしく思っています。
私は二期会オペラの大ファンです。これをけなすと、まるで日本人によるオペラを批判している形になってしまいます。私は「音楽紹介者」「クラシック音楽盛りたて役」を自任しておりますので、それはとても困ったことなのです。アリスさんのような方に批判していただいて、議論することによって、少しでも二期会オペラ、そして日本のオペラが盛り上がってくれれば、こんなうれしいことはありません。
が、残念ながら、猛烈に忙しく、今、しっかりと反論する時間がありません。アリスさんのブログは読ませていただき、とても説得力のあるご意見であることは納得しましたが、もちろん賛成できません。
申し訳ありませんが、日を改めて反論させていただきます。
ともあれ、本当にありがとうございました。このように、たとえ意見が分かれようと議論することは、本当に楽しいことです。

投稿: 樋口裕一 | 2011年2月28日 (月) 09時34分

今回の「サロメ」の記事とコメントを拝見させて頂きました者です。
私はこの公演を見ておりません。そのため、今回の演出については語る事は出来ないのですが、
以前からコンヴィチュニー(と読み替えの強い演出家の舞台)について疑問や違和感を覚えておりました。

私が彼の演出を見たのは、以前の大いに盛り上がった「皇帝ティートの慈悲」や、コーミッシェ・オペラでの「コジ・ファン・トゥッテ」等数回に留まりますが、正直に申し上げて、この演出家の舞台はもう二度と見たくありません。

彼が鋭い知性を持った演出家というのも、他の方が仰っているように彼の演出が人間的だというのも、
全くその通りだと思います。が、しかし、オペラを成り立せる最も重要で根本的なもの、音楽への(言ってみれば)敬意が見えません。
彼の知的で挑発、極端な演出がその時、その時でどんなに観客を湧かせたとしても、それでオペラが未来へと繋がっていくとは思えず、根本の生命である音楽、そこに込められた本来の意味や表象をないがしろにされたオペラはかえって終わりを早めてしまうのではないか。
オペラは音楽を普段聴かない人にも楽しめるように、スキャンダラスで派手、更に言えば安易な見せ物趣味に流れる事、
音楽以外の部分で過度な意味付けに走る事で、自分の首を締めているのではないか。そうした懸念を抱いております。
(少し話は逸れますが、以前ベルリンで騒ぎになった、ノイエンフェルスの「イドメネオ」の演出を見た際に、それまでの積み上げてきたものを全てひっくり返すような、(音楽とも何も関係のない)最後の場面を見て、世も末といった印象を強く受けました。)


かなり長文となってしまいましたが、今回の樋口さまの記事を読んで、
自分が今までこの演出家に抱いていた疑問や違和感がはっきりと分かったように思いますし、また勇気づけられました。

投稿: はじめまして | 2011年2月28日 (月) 11時00分

「はじめまして」様
コメントありがとうございます。
コンヴィチュニー、そして読み替えの強い演出家についてのご意見、まったくもって同意いたします。私も常日頃、そのように考えています。
最近の多くの演出は、「読み替え」ですらないように思います。むしろ、自分の勝手な物語を、過去のオペラを利用して語っているだけのようです。
パルジファルの音楽を使って、パルジファルとはまったく異なる第二次世界大戦前後の物語が語られる2008年のステファン・ヘルハイム演出のバイロイト音楽祭の『パルジファル』を見て、これが可能なのであれば、例えば、『リング』の音楽を使って『カラマーゾフの兄弟』や『源氏物語』を語ることさえも可能だろう、そして、それをやれば喝采されるのが、現在の演出の世界なのだろうと思ったのでした。
そろそろこのような演出の在り方をやめ、音楽と台本に奉仕する演出に戻すべきだと私は思います。

投稿: 樋口裕一 | 2011年2月28日 (月) 23時56分

樋口先生は現代演出についてスノッブだけが評価して大衆の嗜好から遊離するいわば「裸の王様」的な状況になる事を憂いておられるのだと思います。
確かに現代演出には演出家の自己満足で終わっている上演が多いですし、観客をなおざりにした過激な現代演出が増えればそっぽを向かれる危険性がないとは言い切れないでしょう。
ただコンヴィチュニーという人はそれだけでは終わらない非常に才気のある演出家であるように思います。
自分は二期会の「サロメ」は見てないのでこの演出については良くわからないのですが、例えばシュトゥットガルト歌劇場の「神々のたそがれ」等はオペラ演出としてもまれに見る傑作だと思いました。
これにも奇をてらったり観客をあえて挑発していると思しき部分はいっぱいあるのですが、反面非常に音楽とブレットを深く読み込んだ演出でした。
もし先生がご覧になってなかったら「神々のたそがれ」のDVDを見る事をお勧めしたいです。

話はちょっとズレるのですが前回の記事でバイロイトのカタリナ・ワーグナーの「マイスタージンガー」について肩っておれてまして改めで過去の絶賛する記事を読ませていただきまして非常に嬉しかったです。
http://yuichi-higuchi.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-a803.html

というのも僕も(NHKBSの放送でですが)カタリナ演出を見てこれは凄い!と唸らされたのですが、ネット上でも雑誌等でもあの演出は毀誉褒貶どころかほぼ批判・批難が圧倒的多数でありまして(笑)・・・酷いのになるとカタリナ演出はお嬢さんのお遊びと一蹴される始末。
あまりに叩きが多いので「もしかして僕のセンスがおかしいのかな?」とちょっと不安だったのですが、先生のカタリナ演出の賛辞を読んで大いに気を強くした次第です。
あのカタリナ演出は「マイスタージンガー」という作品やザックスについて非常に辛らつですが、あれは作品を貶めてるわけではなく、今まで観客が気づかなかった(というよりあえて目を背けていた)作品に内在する澱みや毒を引き出している気がします。
一番批判されている3幕でのハンス・ザックスやワルターの保守反動化や独善ぶり、それを称える民衆という構図は、実は「マイスタージンガー」という作品そのものですよね。
ハ長調の大仰な前奏曲に代表される判りやすい音楽と通俗的な恋愛喜劇という題材はとてもあの「トリスタン」の前衛音楽の作曲家とは思えない。現代音楽作曲家としてのワーグナーはあそこで足踏みどころか後退しいていると見えなくもない。
話の筋としてもドイツ精神や民衆芸術や若い恋人達の小市民的幸福の全面肯定は、「トリスタン」までの社会のアウトサイダーな主人公達の激しい悲劇と比べると表面的には全くぬるいです。
(もちろんワーグナーの場合は「マイスタージンガー」の後ライフワークの「指環」を完成させ更に「パルジファル」で未知の領域に突き進む訳ですが。)
カタリナ演出はそういうこの作品のあり方と内在するドラマを二重写しに舞台に反映させているのでしょう。

同じくコン氏もしばしば登場人物を戯画化した露悪的な笑いを取ったりしますが、その実彼の演出の根本精神は論理的でありきわめて真面目だと思っています。
作品をほとんどパロディ化するほど解体していますがそれは偶像破壊というより、現代人にオペラを単なる古典的歌芝居ではなくアクチュアルな劇として面白がらせ、共感にせよ反発にせよ観客に積極的に考えて欲しいという意図ではないかという気がするのです。

投稿: k | 2011年3月 1日 (火) 15時19分

演奏家はスコア通りの音、指揮者はスコア通りのアンサンブル、演出家はスコアのト書きに沿った演出をする義務があると思います。ショパンをプリペイドピアノで好き勝手に崩して弾いて、現代的な意味を読み取ったら噴飯ものでしょうが、同じことを演出家がやると喝采する人もおられる、実に不思議です。

投稿: isatt | 2011年3月 1日 (火) 22時15分

K様
コメント、ありがとうございます。
私は、カタリーナの演出については最高だと思っています。あんなすばらしい演出は見たことがありませんでした。が、コンヴィチュニーについては、実はこれまでの私の見た演出については、「好きでない」程度だったのですが、『サロメ』については、はっきり言って「許せない」と感じるほどでした。
そんなわけで、私自身にも迷いがありますので、これを機会に現代演出に対しての自分の考えをはっきりさせてみようと思っています。
が、私がファンクラブの会長を務めるネマニャ・ラドゥロヴィチが来日していたり、ラ・フォル・ジュルネ関係の仕事が重なったり、大学関係の仕事があったりで、しばらく考える時間も、書く時間もありません。申し訳ありませんが、もう少しお待ちいただけますでしょうか。

投稿: 樋口裕一 | 2011年3月 3日 (木) 22時53分

isatt 様
コメント、ありがとうございます。
実は私も少し前までisattさんのように考えていたのですが、そのようなことを言い出すと、すべての演出に対して常に怒っていなければなりませんので、最近、少し、寛大になっています。が、それでも、今回の『サロメ』にはかなりの疑問を感じたのでした。
と言いつつ、私自身、演出について考えが揺れ動いています。Kさんのコメントへの返事にも書いたとおり、今、猛烈に忙しくて時間がありませんので、もう少しして、自分の考えをまとめてみたいと思っています。

投稿: 樋口裕一 | 2011年3月 3日 (木) 22時58分

>が、私がファンクラブの会長を務めるネマニャ・ラドゥロヴィチが来日していたり、ラ・フォル・ジュルネ関係の仕事が重なったり、大学関係の仕事があったりで、しばらく考える時間も、書く時間もありません。申し訳ありませんが、もう少しお待ちいただけますでしょうか。

先生が忙しいのは承知していますのでどうぞ無理をなさらないで下さい。
ただ誤解があってはいけませんので、ちょと補足させてください。

僕がコン氏の演出を誉めているのは彼の演出が優れていると思うからであって、現代演出だからではないのです。
僕に限らずおそらく現代演出受容派はみんなそうではないでしょうか?
むしろ僕も現代的演出の多くは嫌いです。
シュトゥットガルトの四人の演出家を使った「指環」にしてもコン氏の「神々のたそがれ」は傑作ですしヴィーラー&モラビトの「ジークフリート」はなかなか優れてると思いますが、シュレーマーの「ラインの黄金」やネルの「ワルキューレ」はつまらないですし全く評価しておりません。
ザルツブルクでデッカー演出のネトレプコが主演した「椿姫」等も酷いと思いました(歌手の素晴らしさのお陰で音楽的には素晴らしいものでしたが)。
モネでやったロバート・ウィルソン演出の非エジプトな「アイーダ」も全くもって退屈な代物でした。

一方オーソドックスな演出でも大好きな舞台は多いですね。
ゼフィレッリの「ボエーム」とかコヴェントガーデンのリチャード・エア演出の「椿姫」はとても良いと思います。(ついでにいえば最近BSで放送したメトのエア演出の「カルメン」も素晴らしかった!)

というわけで当たり前ですが現代演出でもオーソドックスな演出でも傑作もあれば駄作もあります。
それだけの事なんです。

>演奏家はスコア通りの音、指揮者はスコア通りのアンサンブル、演出家はスコアのト書きに沿った演出をする義務があると思います。

isattさんのいう事は願望としては自分も同意しますが、ただ演出についてはト書きどおりに演出するというのある意味では実際上は不可能だし・・・仮にやっても無意味だと思います。
いわゆるオーソドックスな演出の代表のようなゼフィレッリにしたって全然ト書きに忠実ではないです。
彼の「トゥーランドット」は豪華で美しい舞台はありますが全く中国風ではないですし、「アイーダ」にしてもリアルなエジプトの風俗とは丸っきり違います。
メトのシェンクの「指環」はト書きに忠実という評判でしたが、実際には全然そうではないです。
例えば有名な「ワルキューレ」第三幕のワルキューレの騎行でワーグナーがどんなト書きを書いていてるか?というと、

>――雲の中で稲妻がきらめく。その光の中に馬に乗ったひとりのワルキューレが見える。彼女の鞍には戦士が横たわっている。その姿は次第に近づきながら左手から右手へ通り過ぎる。

こういうト書きを舞台上で再現するのは現代のテクノロジーでも実現するのはほとんど不可能だと思いますし、仮に大金をかけて実現して見せてどうなるでしょう?
実物の馬にまたがった歌手を宙吊りにして舞台を横切らせたら観客は感動するでしょうか?おそらく観客の多くははあっけに取られ馬鹿馬鹿しさに失笑するだけでしょう。
そもそも「指環」ではブリュンヒルデの愛馬グラーネはしばしば歌の歌詞に出てくるのですが僕の見た限り実物の馬を舞台に出した「指環」の演出は皆無です。ト書きに忠実というのならグラーネはブリュンヒルデと一緒に炎につつまれて死ななければならないのに・・・・。
ただしコン氏の「神々のたそがれ」ではグラーネは意外な姿で出てきます。アルベリヒは本当に小人ですしジークフリートに追われる熊さえ出てきます。とくに幕切れの部分はワーグナーのト書き通り一言一句寸分違わない「演出」です。
そういう意味ではコン氏の演出の方がシェンクより遥かにト書きに忠実です(笑)。

付け加えますと演劇というのはシェイクスピアの時代から読み替え演出はふつうに行われていますよね。
シェイクスピアが生きていた頃は古代ローマの「ジュリアス・シーザー」でもエリザベス朝のその頃の衣装で演じていました。
現代でも演劇で古典劇を現代の衣装で演じるのは常套的なやりかたですし使い古された手法といってもいいでしょう。
そういうわけで読み替え演出というのは別段オペラだけでやってる事ではなく演劇で普通にやられておりオペラも演劇の一形態であるからには(少なくとも演出という役割が存在する以上は)良し悪しはともかく読み替え演出があるのは当たり前の事だと思っています。

以上前回にもまして長くなってすみません!
ちょっとでなくなりましたが以上で言いたい事は言い尽くしましたのでロムに戻ります。

投稿: k | 2011年3月 4日 (金) 07時57分

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