« グリマルと矢野玲子のヴァイオリン・デュオ | トップページ | このごろ気になっていること ぎっくり腰とカンニングとネマニャ・カクテル »

現代のオペラ演出について

 改めて、現代のオペラ演出について少し考えをまとめてみた。まだはっきりとした解決を見たわけではないが、とりあえず、私がこれまで漠然と考えていたことを、少し意識的にまとめてみた。なお、いうまでもないことだが、これは「オペラ演出論」というほどのものではない。だから、特に鋭い内容が出てくるわけではない。それに、もちろん、こののち、ほかの方の意見によって考えを変えることも大いにありうる。

 私は早稲田大学第一文学部演劇科を卒業したにもかかわらず、実は演劇にはほとんど関心がない。専攻したのは映画だったし、オペラに関してはずっとレコードで聴いて、頭の中で舞台を想像するだけで十分に満足していたので、「芝居」はなければなくてもかまわないものだった。お気づきの方もおられるかもしれないが、このブログにオペラの公演やDVDについて書いても、演出についてはほんの少し触れる程度のことがほとんどだ。まったく触れないこともあっただろうと思う。だが、このごろ、激しく存在を主張する演出があるので、やむを得ず触れざるを得なくなっている。

 今回は、コンヴィチュニーの『サロメ』についてではなく、一般論として、最近の「読み替え」演出について考えてみることにする。次の機会に、『サロメ』について書くことにする。

これまで、私は何度か、演出について激しい怒りを覚えたことがあった。だが、私も最近の傾向の演出のすべてが嫌いだというわけではない。カタリーナ・ワーグナーの『マイスタージンガー』など、感動した演出もいくつかある。では、私はどのような基準で演出を考えているのか。まずはそれを探ってみることにした。

① 演出は、そのオペラ作品そのものの解釈でなければならない

考えてみるに、私の最大の原則はこのようにごく単純だ。そのオペラ作品そのものの解釈でなければならない、オペラそのものと無関係な演出家の考える物語や世界観を描くものであってはならないということだ。

 2008年にバイロイト音楽祭で見たステファン・ヘルハイム演出の『パルジファル』に、私は激しい怒りを覚えた。第一幕で子どもがドイツのある館で子どもが誕生するところから始まり、その子どもが成長し、ナチスドイツの世界に巻き込まれ、第二次世界大戦に敗北し、荒廃する中で希望が現れる・・・といったストーリーだった。音楽はまぎれもなくワーグナーの『パルジファル』。しかし、描かれるのは別の物語。

これは、演出家の越権行為以外の何ものでもない。なぜなら、演出家はオペラ作品の場を借りて、自分の考えを表明しているにほかならないからだ。まさに、オペラを「道具」として自分を語っているにすぎない。

もし、ワーグナーがナチスの時代を生きたのなら、もちろんこのような演出もありうる。もし、『パルジファル』のなかに隠喩的にであれ、そのような要素があるのなら、それを描くことも許される。だが、私の知る限り、そのような要素はない。その演出を見ても、『パルジファル』というオペラの本質について新しい発見はなかった。

② 演出は、言葉の助けなしに成り立つものでなければならない。

 言うまでもなく、演出というのは、舞台を見ている人に舞台上の出来事やその背景にある思想を理解させるための行為だ。言いかえれば、演出意図を読んだ人にしか理解できないような演出は、できそこないだと私は考える。もちろん、そこに演出家の主観的な解釈が混じるのは構わない。だが、舞台装置や登場人物の仕草や表情から、それをわからせなければ、演出とはいえないだろう。

 本来、演出家は自分の演出意図を言葉にして語るべきではない。メディアにせっつかれて仕方なしに語ったり、無理解な人から攻撃されて、それに対する反論として自分の演出について語るというようなことは、もちろんあると思うが、公演の際に前もって意図を説明して理解してもらおうと考えるべきではない。

 ときどき、登場人物が舞台上で文字を書くことがある。文字の垂れ幕が下りてくることもある。もちろん、それがポスターであったり、何かの社会的モットー(「ナチス万歳」「欲しがりません勝つまでは」など)はやむを得ないだろう。だが、登場人物が自分の心情を舞台に落書きしたりするべきではない。私は、演出意図を目に見えるようにできなかったという点で、言葉に頼ることは才能の欠如だと思う。

③ ストーリーを改変してはならない

 台本上のト書きについてはそのまま実現するのは難しい。むしろ、ト書きについては、ひとつの隠喩として捉えるべきだと考える。

たとえば、登場人物が涙を流して泣くという行為がト書きに書かれているとする。「泣く」というその行為を隠喩として示して、むしろ笑ったり、歩き回ったり、何かの道具を振り回したりするのでもいいだろう。だが、それはあくまでも、台本の背後にあるものを示すものであるべきだ。

が、ともあれ、ト書については、隠喩であれば、文字通りにト書きを守らなくてもよいと思う。だが、中心的なストーリーを変えてはならない。ここで「中心的」というのは、いってみれば、ストーリーを100字ほどに要約した場合にも語られるような骨子としてのストーリーだ。

「実はローエングリンは英雄ではなく卑怯者だった」「トリスタンとイゾルデは実は愛し合っていなかった」「台本では主人公が死ぬことになっているが、実は死んでいなかった」などの演出をこれまで見たことがあるが、これらはまさしくストーリーの改変にほかならない。

もちろん、それが隠喩として成り立つレベルの改変であれば、許される。だが、それを超すものであれば(もちろん、その基準は明確ではないが)、許されない。こんなことが許されるのなら、指揮者が自分でモーツァルトやワーグナーの音楽を書きかえることができることになってしまう。

 ストーリーを改変してはならない理由の一つに音楽との矛盾が広がるという点がある。舞台上ではトリスタンとイゾルデが愛し合いもせずそっぽを向いているのに音楽は陶酔的な愛を描き、激しい愛をうたっているとすると、それは「異化効果」などで済まされる問題ではない。

④ オペラは、演出の読み取りを目的とするものではない

 演出家が様々な意味を舞台上に示し、観客は、まるで演出家の仕掛けた謎に挑むかのように意味を解き明かす。今の演出はそのようになっているように見える。

 もちろん、舞台を見るということは何らかの形で意味の解読という面を持つ。映画を見るのも絵画を見るのも、何らかの形で意味を読み解く行為だ。だが、それが目的になって、演出が謎の提出、オペラを見るのが謎解きという行為になってしまったのでは、本末転倒でしかない。

 オペラは音楽が主役だ。音楽の中に十分な意味がある。とりわけワーグナーやシュトラウスは音楽に複雑な意味を持たせている。それと合致した意味を演出によって表現しているのなら、もちろん全く問題がない。だが、音楽と異なる意味を演出によって舞台上に充満させては、それは音楽を邪魔していることにしかならない。

 音楽的な最高の聞かせ場で、登場人物があまりに突飛な行動をとるために、それに驚き、その行動の意味を考え、演出の意味を読み解くことに気を取られて、音楽に注意が向かなかったという経験がよくある。

 もし、演出家がその音楽性を否定し、まさに異化効果としてそれを行い、それによってその作品の本質、その行為の本質をえぐりだすのであれば、それも最終的手段としてありうると思う。だが、そうでもないのに、それをするべきではない。

⑤ オペラ演出は一部の知的エリートだけのものであってはならない

 演出によって意味を充満させるべきではないというのは、オペラ演出の意味を読みとることを得意とする知的エリートのみを対象とした演出にするべきではないということでもある。どうしても、演出を読みとるには、作曲家について、時代背景についての知識が必要であり、なおかつ、ときには演出家のそれまでの演出理念などについての知識も必要だろう。だが、そうした観客はごく一部だろう。

 おそらく私は、実際の上演とテレビ放送やDVD(あるいはそれ以前のビデオやLD)を含めて、1000本以上のオペラを見ているだろう。だから、かなり演出意図を読みとることはできる部類に属すると思う。シュトラウスやワーグナーも大好きなので、かなりの知識がある。フランス文学を勉強していたので、世界史についてもそこそこ知っている。演劇に関心がないとはいえ、演劇科にいたので、かつて演劇理論などはそれなりには勉強させられた。その私が理解できず、読みとれない演出も少なくない。傲慢で言うのではない。オペラをこれだけ見てきた私が読みとれないのであれば、そのオペラを初めて見る人やこれまで数回しか見たことのない人(日本人の客の過半数がそのような人だと思う)は、それを読みとることのできない人が多くても当然だろう。意味の読み取りを重視すると、どうしてもそうなる。

 それゆえ、オペラ演出は意味で充満させるのでなく、それを見た人のほとんどがストーリーと演出意図を理解できるような演出であるべきだ。少なくとも、それをめざさなければならない。一部のエリートだけを相手にし、読みとれなかった人間をレベルの低い人として軽視するような演出であれば、遅かれ早かれ自ら客を減らすことになってしまうだろう。

 

 以上が、現代のオペラ演出についてのとりあえずの私の考えだ。

現代演出について疑問を持っている人のほとんどが、大体においてこのような考えを持っているのではなかろうか。少し先回りして言うなら、サロメのコンヴィチュニー演出は、まさしく、ここで挙げた原則の多くに違反していると、私は考えている。が、それについては、だいぶ後になると思うが、考えるところを示そうと思う。

 ふだん、一つのブログの記事を書くのに30分以内という制限を設けて、大慌てで書いている(だから、文体も練っていないし、変換ミスなども多い! 面目ありません!)。猛烈に忙しいので、そうしないと、仕事の時間や音楽を聴く時間が取れない。が、今回、ちょっとだけ気合を入れて書いたので、数時間を要してしまった。

このようにたびたび書くのはかなり負担が大きい。よって、今後も、気合を入れて書くのはごくまれということになると思う。ご容赦願いたい。

|

« グリマルと矢野玲子のヴァイオリン・デュオ | トップページ | このごろ気になっていること ぎっくり腰とカンニングとネマニャ・カクテル »

音楽」カテゴリの記事

コメント

こんにちは。
以前の記事にコメントさせて頂きました、はじめまして改めKSと申します。

今回の記事には多いに賛同いたしました。
歌手の時代、指揮者の時代を経て演出家の時代と言われるようになって久しいですが、
昨今の演出の迷走振りにはやはり目に余るものがあります。

①演出が過激で、スキャンダルである
②観客の激しい反応や非難を巻き起こし、祭りのようにジャーナリズムに取り上げられ、演出家やその舞台が有名になる
③名をあげた事により結果的に(演出の出来がどうあれ)全てが許容される。むしろ悪趣味な程激しい反応を起こすので正当化される。

という、なにもオペラ界に限ったものではない、有名になったもの勝ちな世間の風潮も大いに関係がありますが。


しかし、コンヴィチュニーの迷走ぶりや、
オペラというよりオペラの「パロディ」と化している舞台(彼が知的な、計算された、人間的な作風なのは確かですが、彼の演出は結果としてそうとしか言えません)

に見てとれるような、
そもそもオペラを成り立せている、音楽的必然性を阻害してまでの上演に、
また演出家の功名心ゆえに、作品やそれに込められたメッセージを犠牲にする事は許されるようなものではありません。

活気つけるためには仕方ないかもしれませんが、こんなものばかりが増えてしまったら、綿々と続いてきたオペラという芸術の生命は、遠からず果ててしまうと思います。
最後に、以前(数年前)の「音楽の友」誌にて、「読み替え演出」についての激論・特集がありましたので、
興味ある方は一読をお勧めいたします。

投稿: KS | 2011年3月 8日 (火) 11時48分

こんにちは。初めてコメントさせていただきます。

クラシックを聴きはじめてまだまだ5年程度の者です。
まだ、オペラは敷居が高く、新日本フィルのホール・オペラを1回行っただけで、素人同然ですがご容赦ください。

コンヴィチュニー氏は、すごい演出家なのですね。
真の実力者なのか、または破壊王なのか。。。
名画のパロディをどんどん描いたピカソみたいに、こちらを罠にかけようとしているのでしょうか。

初心者には向いてないかもですが、音楽がないがしろにされては、???ですね。

私見ですが、演出家たちは偉大な音楽家に戦いを挑み、乗り越えたいのかなとも思いました。

投稿: 美大生 | 2011年3月 8日 (火) 14時09分

ロムするといっときながらすみません。
反論というほどではないのですが・・・。

前回も書きましたが、演出による作品の改変というのは普通の演劇の世界ではごく一般的なアプローチとして普通にやられていますね。
18世紀のイギリスでは演劇はハッピーエンドであるべきだという事で恋人達が死なない「ロミオとジュリエット」とかハムレットが死なない「ハムレット」とかやられてたらしいです。
そういうのは現代の感覚からすると馬鹿馬鹿しい改変だと思いますが、それではそれらの舞台はシェイクスピアとは言えないのでしょうか。
20世紀においてもプロコフィエフのバレエ「ロミオとジュリエット」も初演では死なないハッピーエンド版だったそうです。
現代では演劇の世界ではもっと過激な演出もやられてますし、「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」とか「ハムレット・マシーン」のようなパロディというか改作もあります。

演劇の世界ではその上演が賞賛されるかどうかは別として、そういう改変や現代化は普通の観客にも受け入れられています。
原作から逸脱したパロディ的な作品でも観客も楽しんで観ています。

ところがオペラとなると・・・「ト書きどおりにやれ」とか「ストーリーの改変はまかりならん」とかいう極端な議論になってしまうわけです。
オペラの場合は演劇と違って時間の尺が歌や音楽によって規定されていますから、変更が不自由なのはわかるのですが、変更そのものがいけないとなるとどうかな?と思うのです。
それにオペラの観客だけがそれほど知的レベルが劣るという事はないはずです。
そう言うものだと思って観ていれば、舞台が読み替えたりストーリーやセリフから逸脱するからといってそんなに混乱するとは思えないんです。
もちろん極端にデタラメな舞台になると理解出来ない人は増えるでしょうが、現代演出でもちゃんと筋が通っていれば理解するのはそう難しくないのではないでしょうか。

もちろん自分も酷い現代演出をみると心底腹も立つし、「こんなガラクタを舞台に乗せたければオリジナル作品でやりやがれ!」と思うのですが、でもぐっと堪えるんです。
「スタージョンの法則」によると世の中の90%はゴミだそうです。
つまりそれを逆にいうと90%の駄作が許容される世界だからこそ優れた冒険的な舞台は作られるんじゃないでしょうか?
旧ソ連のスターリンは映画が大好きで試写会でつまらない映画を見ると「何で駄作を作るんだ?!映画は傑作以外作ってはならん!」とわめいたらしいですが、そういう傑作しか許されない世界では傑作を作る人すらいなくなりますね。生まれながらの名監督なんて一部の天才だけでしょうから。
実際スターリン時代のソ連はエイゼンシュタインとか限られた名監督を除けば優れた映画は少ないですね。

オペラの演出も一緒で、現代的な舞台でも音楽やストーリーに忠実なのはいい、それ以上の改変は許されない!と規定するとなるとそういう窮屈な環境では演出家が萎縮してしまい伝統的な演出でだって意欲的なアプローチは少なくなってしまう気がします。

それとオペラというのはあくまで音楽面の条件に舞台が束縛されるわけですね。
普通の舞台ではありえないですが、その役を歌える声がある事が前提であり、その役に似つかわしくないルックスの歌手が配役されるというのは至極普通です。
イゾルデや蝶々夫人やサロメは十代の少女ですが、見た目が相応しい歌手がそういうドラマティックな役柄を歌える可能性はほとんどないです。
それにオペラ歌手というのは演技については酷い場合が多いですね。
ヨナス・カウフマンとかネトレプコとかナタリー・デッセイみたいに歌も見た目も良くて演技力もある歌手なんてほんとにごくごく一握りです。
ほとんどの歌手は歌についてはプロですが、演技に関しては素人といってもいい。
そういう見た目や演技と役柄のギャップを埋める点である種の現代演出は有効な場合もあると思います。
伝統的なリアリスティックな舞台でデブのおばさんの蝶々夫人や椿姫をやられると白けますが、抽象化された舞台でなら成立しますね。

というわけで僕もオペラの音楽面で改変するのは絶対に許されないと思うのですが、それ以外の演出面での改変や読み替えは基本的に自由にあるべきではないかと思っています(もちろん舞台を批判するのも自由です)。

コンヴィチュニーの「サロメ」については僕は見ておりませんので何もいえないのですが、ネット上の評判をみると毀誉褒貶非常に極端ですね(笑)。
難解と捉える人もいるし酷い演出と批難する人も居ますし、反面判りやすい舞台と語っているブログもあり傑作という人も居ます。
指揮者の井上道義のサイトを読みますと「演出家は指揮者の息子だけあって音楽が良くわかってる」と絶賛されていますし、指揮者が誉める位だから音楽面からみてそれほど荒唐無稽な舞台ではない気がするのですね・・・。
ただそれだけ貶す人も誉める人多い舞台ならアル意味大成功といえるでしょうし、少なくとも存在するだけの価値はあるんじゃないしょうか?
・・・まあ僕も実際にその舞台を観たら樋口先生以上に腹を立てるかもしれませんが(笑)。

投稿: k | 2011年3月 9日 (水) 03時06分

KS様
コメントありがとうございます。
現代の演出をめぐる外的な状況としては、まったくもって、おっしゃる通りだと思います。もっといえば、「芸術の商品化」という問題が根底にあるのでしょう。が、今回につきましては、私は「演出はどうあるべきか」という点を考えてみようと思って書いたのでした。

投稿: 樋口裕一 | 2011年3月 9日 (水) 23時41分

美大生様
コメント、ありがとうございます。
なるほど、考えてみたことがありませんでしたが、確かに演出家は、偉大な作曲家に挑んでいるのかもしれません。まさしく、今の演出は、オペラのパロディですので。
おもしろい視点だと思いました。

投稿: 樋口裕一 | 2011年3月 9日 (水) 23時44分

k様
コメント、ありがとうございます。そうそう、コンヴィチュニーの『神々の黄昏』、一度は見たのですが、少しも感心しなかった記憶があります。kさんに言われて、もう一度見ようと思いましたが、何しろ、時間がとれません。
オペラの演出の改変を、他ジャンルへの翻案と同一視することはできないと思います。オペラの演出は、他ジャンルに翻案しているわけではないのですから。それに、オペラには音楽が付いており、そこには言葉があります。私が改変と言っているものは、音楽と舞台上で行われていることの間に明らかな矛盾が生じているものを指しています。それゆえ、その点についてのご指摘は納得できませんでした。
が「90パーセントはごみ」というご指摘、なるほどと思いました。いわゆる読み替え演出もほとんどがひどいものであるにせよ、時々優れたものがあるのであって、それで十分だということですね。その通りかもしれません。
ただ、きっとkさんも、今回の『サロメ』を見ていたら、決して絶賛はしないと思うのですが・・・

投稿: 樋口裕一 | 2011年3月 9日 (水) 23時52分

樋口先生

待ってました、と思うばかりのテーマです。
ぜひいつか樋口先生のお考えをまとめてうかがいたいと思っていました。

④オペラは、演出の読み取りを目的とするものではない

私は専門的な知識はないイチ音楽ファンなので最近ハヤリ?の演出意図が読み取れず、肝心のオペラそのものに集中できなくて少々うんざりしています。
最近びっくりした演出を2つ申し上げます。

まず昨年10月にバルセロナのリセウ劇場で観た「カルメン」
有名な、カルメンがホセに花を投げつけるはずのシーンで、カルメンは履いていたハイヒールを投げつけた後なんとパンツを脱いでホセに投げつける!
私が大好きな第3幕への前奏曲、フルートの静かな美しいメロディーですが、ここでオールヌードの男性ダンサーがソロで踊りだす。
リセウ劇場のオーディエンスは、男性ヌードダンサーでは大ブーイング、パンツを脱ぐシーンではピーピー口笛まで出る始末。
ちなみにホセはアラーニャ、カルメンはアントナッチ、エスカミーリョはシュロットという夢の配役です....

そして、今年の元旦にミュンヘンのバイエルン州立で観た「フィデリオ」
大好きなカウフマン目当てで行ったのですが、カウフマンはキャンセルでアンダースタディのフロレスタンだったのですが….それはおいといて。
第1幕、第2幕とも舞台はジャングルジム(工事現場の足場のような)が張り巡らされ、歌手がその中を昇ったり降りたり、ぶらさがったり…あと最悪なのはそのジャングルジムのきしむ音、歌手の歩く音がどうしてもうるさすぎてしまい、歌手が危なくてヒヤヒヤして、気が散ってオペラに集中できませんでした。
演奏はとてもよかったのですが、ジャングルジム演出にオーディエンスは大ブーイング、歌手にはブラボー、あまりのうるささにシー!という声。
指揮のガッティは第1幕が降りた後、客席に向かって両手を広げ首をかしげてマンマミーアのポーズ。
そして最後はフロレスタンとレオノーレの再会を祝った囚人たちの大合唱で終わる…と思っていたのですが、なぜかその後ヴァイオリンとチェロの二重奏が始まり、あろうことかそのアンサンブルは檻に入った状態でゆらゆらと天井からぶらさがってきたのです。
客席はお正月で着飾ったオーディエンスが、みな口を開けて天井を見上げている図。

これをベートーヴェンが観たらどう思うのでしょうか…

演出は(プログラムを見て後で知ったのですがなんとこの2つは同じ演出家でした)物議を醸し出すことで有名なcalixto bieito
http://www.calixtobieito.com/
パルジファルやアイーダなども大変なことになっているらしいです。
申し訳ないですが個人的には、今後この演出家だけは絶対に避けようと思っています。
(といいながら大好きなカウフマンだったらやっぱり観ます…)

今年これから観る予定があるオペラも、相当斬新な演出であることがわかっています。5月のMetのワルキューレは「スターウォーズ」だと覚悟しています。昨年夏、生中継されたバイロイトのトリスタンも正直ちょっと…いただけませんでした。

一番の理由は実際には、予算の問題だと聞いています。
低予算でなんとかしなければならない、であれば舞台は簡素なものとなり、絢爛豪華なはずの衣装がスーツやTシャツになってしまい、そうなると、本当は中世ヨーロッパの王国だったはずが、70年代のアメリカになってしまったり。ヘタをするとストーリーそのものもアレンジ?する必要が出てきます。
正直、それならムリに舞台を作らなくても、すばらしい演奏と指揮者、歌手がそろったコンサート形式でもいいような気がします。

ただ、予算の問題だから…、演出家の挑戦だから…という理由を考える前に、100歩ゆずって原作の骨子を変えても作品としてすばらしいか?がそもそも疑問なきょうこのごろです。

長くなり、申し訳ありません。T.

投稿: Tamaki | 2011年3月13日 (日) 00時49分

ちなみに、フィデリオの演出はこのようなものでした。
(しつこいですが、カウフマンの"Gott!"さえ聴ければ文句は言わないミーハーな私です)
http://opera-cake.blogspot.com/2010/12/waiting-for-bieitos-fidelio-pics.html

投稿: Tamaki | 2011年3月13日 (日) 01時33分

Tamaki様
コメント、そして「フィデリオ」の新演出の写真、ありがとうございました。
「カルメン」も「フィデリオ」もかなりすさまじそうですね。低予算が原因・・・というのは考えたことはありませんでしたが、なるほど、ゼフィレッリのような演出では莫大な経費がかかるでしょうからね。
が、それでも、コンヴィチュニーの「サロメ」よりはずっと節度を守っているように思います。
この演出の流れを何とか食い止めないと、オペラは末期症状を迎えるような気がします。

投稿: 樋口裕一 | 2011年3月15日 (火) 07時46分

はじめまして。遅ればせのコメントお許し下さい。
私は丁度コンヴィチュニー氏が東京でサロメをしていた時期に、ライプツィヒ歌劇場で約2年間オペラ演出の稽古をお手伝いをしていました。
ドイツに渡って、劇場で数々のオペラ作品の制作に関わりながら、私も現代演出について色々悩み、考えました。
それで、いきついたのですが、ドイツでは最近オペラのことをムジークテアターとも呼ばれることがあります。
私の中では、音楽や元々楽譜の持つ意を損なわない正統的なオペラと、ムジークテアターを似て非なるもの、と分けて考えると非常にスッキリいたしました。
元々、ドイツオペラが作曲されてきた経緯と、イタリアオペラが作曲された経緯は根本的に違いがありますし、歩んできた歴史も違います。
オペラを様々な演出家の趣向で公演していくことも、作品によっては面白いですし、試みとしても興味深いと思います。
ただ、それを”オペラ”かと言われると困ってしまうところがありますよね・・・。
だから、オペラとムジークテアターという具合に、ジャンルを分けて考えればどちらもすんなり受け入れられると思います。

とはいえ、そこに音符がある限り、あまりにも音楽・楽譜無視の演出は私もやはり抵抗がありますが。

コンヴィチュニー氏は演出する時に必ず総譜を見ながら演出しています。また、数人のドラマトゥルギーたちとオペラ作品そのものについてのゼミを頻繁に行い、作品理解についての作業も並大抵ではなくこなしています。

もちろん、彼の演出にも良いもの、評判の悪いもの、様々ありますが、良い作品も沢山ありますし、歌手の演技力の育成、新しい演出の試みなど、ドイツにおける彼の功績は素晴らしいものがあります。
もし、機会があれば、彼のラ・ボエームを観てみてください。


投稿: Ayami | 2012年11月30日 (金) 01時09分

Ayami様
コメントありがとうございます。
ムジークテアターという表現、なるほどと思います。そう言われれば、ある程度納得できます。が、おっしゃる通り、音楽があり、歌詞があるにもかかわらず、それとまったく違うことをすることが許されるかというと、そうも言えないのではないかと思うのです。
とはいえ、実は私自身、演出についてどう考えるべきか迷っているところです。
私は、コンヴィチュニー、ノイエルフェルス、マルターラー、ヘルハイムは許しがたいと思うのですが、カタリーナ・ワーグナー、グートは素晴らしいと思うのです。基本的には、作曲者が本心ではしたかったことを再現する、あるいは作曲者が現代に生きていたらこうするだろうという推測のもとに行われる演出であれば、私は許容できるように思います。私が嫌いな演出家は、少なくとも私の眼には、そのような視点がなく、自己主張のみをオペラに託して語っていると見えるものです。
が、もっといくつもの演出に触れて、もう少し考えてみる必要があると思っています。

投稿: 樋口裕一 | 2012年12月 2日 (日) 01時16分

まったくそのとおりです。
安心して見られるのはウイーン国立歌劇場だけではないでしょうか。
私はドイツの歌劇場にワーグナーを見に行こうとしましたが断念しました。
ロバート・カーセン、ステファン・ヘルハイムなど何とかならないでしょうか。腹は立つし、いきどうりさえかんじます。
何処に行ったらまともなワーグナーを見られるか教えてください。

投稿: 豊島健次 | 2013年4月 9日 (火) 00時06分

まったくそのとおりです。
安心して見られるのはウイーン国立歌劇場だけではないでしょうか。
私はドイツの歌劇場にワーグナーを見に行こうとしましたが断念しました。
ロバート・カーセン、ステファン・ヘルハイムなど何とかならないでしょうか。腹は立つし、いきどうりさえかんじます。
何処に行ったらまともなワーグナーを見られるか教えてください。

投稿: 豊島健次 | 2013年4月 9日 (火) 00時08分

豊島健次 様
コメント、ありがとうございます。
ブログにも書きましたが、一昨日、METライブビューイングの「パルシファル」を見ました。演出は、「レッド・ヴァイオリン」などの映画監督をしているフランソワ・ジラール。これは理想的な演出だと思いました。少し前までのメトロポリタン・オペラの古色蒼然として舞台ではなく、かなり大胆ですが、意味不明のパントマイムなどはなく、感覚的に理解できる解釈が中心でした。そして、何よりも視覚的に美しい舞台でした。
残念ながら私はニューヨークのメトロポリタンオペラはまだ見たことがないのですが、ぜひ、近いうちに行ってみたいと思っています。

投稿: | 2013年4月10日 (水) 07時21分

樋口様
もう一言、衣装と舞台です。その時代にタイムスリップして非日常に浸りたいのです。卑近な言い方ですが、オペラがロンドンのウェストエンド、ニューヨークのブロードウェイに見られる「出来のいい学芸会たるミュージカル」に近づきすぎていると思うのです。歌舞伎や能のように様式美があってもいいのではないでしょうか。ならば日本でロバート・カーセンを鬼才と言ってもてはやすのは理解出来ません。
豊島健次

投稿: 豊島健次 | 2013年4月12日 (金) 15時04分

豊島健次 様
コメント、ありがとうございます。
きっと、読み替え好きの演出家たちは、「非日常に浸る」ということ自体を否定しているんでしょうね。観客に挑戦しようとしているのだと思います。しかし、ときとして、それは音楽そのものと矛盾してきてしまうわけです。カーセンについては、私は特に敵意は感じないのですが(私が苦手なのは、コンヴィチュニーとヘルハイムとマルターラーとノイエルフェルスです!)、おっしゃることはとてもよくわかります。

投稿: | 2013年4月14日 (日) 20時23分

メトロポリタンは良いですね。何というのでしょうか、バックに動画を使ったり、LED照明を大胆に使ったり、斬新な技術を採り入れながら、本質的な部分はしっかり守ってる。王道と言うのでしょうか。
それに比べて残念だったのは、イギリスのロイヤルオペラの『ノルマ』。読み替え演出と言っても、古代ローマの時代に、反乱軍が迷彩服着て自動小銃を持ってるし、隠し子が家庭遊具に囲まれてDVDを見てるし、あちらの人たちには理解されているのでしょうか。

投稿: 安藤徳一 | 2017年6月23日 (金) 18時39分

安藤徳一 様
コメント、ありがとうございます。
私はワーグナー好きですので、バイロイトにも何度かいきました。バイロイトの演出は、現代の扮装をしているというレベルでなく、ストーリーそのものがオペラとまったく違っていたり、強いはずの英雄が弱虫だったりひどい人間だったりといったことがしばしばです。それを見慣れてしまって、今では私は舞台を現代に移すことについては十分に許容しています。が、それにしても、音楽を邪魔するひどい演出がたくさんあることは本当に困ったことです。

投稿: 樋口裕一 | 2017年6月26日 (月) 09時29分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/532807/51064674

この記事へのトラックバック一覧です: 現代のオペラ演出について:

« グリマルと矢野玲子のヴァイオリン・デュオ | トップページ | このごろ気になっていること ぎっくり腰とカンニングとネマニャ・カクテル »