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びわ湖ラ・フォル・ジュルネ始まる

 朝、東京の自宅を出て、京都経由で大津に着き、すぐにびわ湖ホールに出向いて、びわ湖のラ・フォル・ジュルネを見てきた。びわ湖の今年のテーマは「ウィーンのベートーヴェン」。

・シンフォニア・ヴァルソヴィア、チチナゼ指揮。アンヌ・ケフェレック(ピアノ)

 コンサートが始まる前に、アーティスティック・ディレクターのルネ・マルタン氏が登場して、東日本大震災の死者への追悼と、こんな中に来日してくれた演奏家への感謝の言葉を述べて、まずはバッハの「アリア」を演奏。

 その後、「コリオラン」序曲。チチナゼは実にしっかりとした指揮。大変好感を持った。いたずらに劇的にすることなく、しっかりとベートーヴェンの精神を示している。楽譜どおりにきちんと演奏すれば、おのずと劇的になると言いたげ。オケは実に柔らかい音で、美しい。私は「コリオラン」をもっと劇的な曲として知っていたが、これはこれでとてもよい演奏だと思った。

 次にアンヌ・ケフェレックのピアノが加わって、ピアノ協奏曲第4番。ちょっとこれは期待ほどではなかった。細かいニュアンスがちぐはぐな感じ。何か考えがあるのだろうが、何をしたいのは、私にはよくわからなかった。私の最も好きな第2楽章も、最も美しいリリシズムを感じるはずのところで、私は何も感じなかった。残念。これまで、ケフェレックのシューベルトやラヴェルには何度も感動させられてきたのだが、もしかしたら、ケフェレックはベートーヴェンに向かないのかも。少なくとも、私の好きなベートーヴェンには向かないのかもしれないと思った。

 ケフェレックがアンコールにヘンデルのメヌエットを弾いた。これは絶品!! 美しく、悲しく、心に染み入る。単純な音だが、そこのすべてが含まれる。ケフェレックはこうでなくっちゃ!

 なお、このコンサートが、私のラ・フォル・ジュルネの通算300回目の記念すべきコンサート(すべて有料コンサート)となった。2005年からフランスのナントと東京で、これだけのコンサートを聴いたと思うと、ちょっと感慨深い。

・ジェラール・プーレ(ヴァイオリン)、川島余里(ピアノ)で、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ7番と9番「クロイツェル」。

 昭和音大で教える教育者として有名な方だが、初めて演奏を聴いた。かなりのお歳だと思う。ウィキペディアで調べたら、1938年生まれとのこと。72、3歳ということになる。不思議な音色。年季の入ったいぶし銀とでも言うべき音。チェコの隠れた名指揮者として近年脚光を浴びているラドミル・エリュシカの指揮する音を思い出した。構成がしっかりして、しなやかで、深い心がこめられている。ただ、細かいところであまり美しくない音がしばしば聴こえた。もしかしたら、ちょっと技巧的に若いころほどではなくなったのかもしれない。が、アンコールにファリャのスペイン風舞曲を演奏したが、これは技巧も完璧で、メリハリも素晴らしかった。

・プラジャーク弦楽四重奏団、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第10番「ハープ」と第11番「セリオーソ」

 本日一番の演奏だと思った。どちらもプラジャーク弦楽四重奏団らしい演奏。完璧なアンサンブルなのだが、決して機械的な感じがしない。なんだか田園風景が見えてくるような音色。チェロ奏者を除いて、ほかの三人の容姿が似ていて、区別がつかない。兄弟かと思ったら、名前を見るとそうでもなさそう。そのためなのか、音色も似ていて、ごく自然に音が合っている感じ。

 これも誇張のない実にしっかりとして演奏。誇張がなくても、ずしんと魂に響き、心を高揚させる。ただ、ちょっとスケールの小ささを感じないでもなかった。もっと終楽章はスケール大きく演奏してくれるほうが、私としては好きなのだが。もちろん、これはないものねだりなんだけど。

 京都に戻って、いつもの美濃吉で夕食。「花懐石」を食べたが、牛の木の芽焼きとたけのこちりめん炊き込みご飯が絶品だった。「白味噌仕立て」も特別にお願いして、これも相変わらず絶品。いい音楽においしい夕食。つくづく生きていてよかったと思う。

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びわ湖と鳥栖のラ・フォル・ジュルネ

 先日も書いたとおり、びわ湖と鳥栖のラ・フォル・ジュルネにも行こうと考えている。びわ湖は42930日、鳥栖は、東京で開かれた後の56日と7日だ。ともに、「ウィーンのベートーヴェン」というテーマで、ベートーヴェンの曲が多く演奏される。ベートーヴェンは私にとって特別の作曲家なので、とても楽しみにしている。

 びわ湖では、プラジャーク弦楽四重奏団の演奏でベートーヴェン後期の弦楽四重奏曲が4曲聴ける。これは聴きものだ。プラジャークについては、ナントでこれまで何度か聴いて、精妙なバランスでありながらも良い意味での田舎臭さを残す音に強く惹かれてきた。

ケフェレックのベートーヴェンのピアノ協奏曲の4番やミシェル・ダルベルトのピアノ協奏曲第5番「皇帝」もどんな演奏を聴かせてくれるか、楽しみだ。二人については、これまで何度か聴いて、その実力はよく知っている。

シンフォニア・ヴァルソヴィアを指揮するのが、ゲオルグ・チチナゼ。昨年のラ・フォル・ジュルネでポゴレリチの演奏するピアノ協奏曲の伴奏をした人だ。あのとんでもないピアノにきちんとオケを合わせたからには、並大抵の才能ではない。事実、ナントでいくつかの演奏を聴いたが、どれもしっかりとオケを掌握したしっかりした演奏だった。

ヴァイオリンのジェラール・プーレは教育者として名前を聞いたことがあるが、CDさえもまだ聴いたことがない。この人の「クロイチェル」をぜひ聴いてみたい。ドマルケットと児玉桃のチェロソナタもおもしろそう。この二人もこれまでのラ・フォル・ジュルネで何度も感動させていただいた。それから、しばらく前から話題になっている三ツ橋敬子という若い女流指揮者も、ぜひ聴いてみたい。それに、実は私は日本センチュリー交響楽団の実演を聴いたことがない。これを聴くのも楽しみの一つだ。

 そして、それにも増して楽しみなのが、今年から始まる鳥栖のラ・フォル・ジュルネだ。

 ここには、これからぐんぐんと知名度を延ばしてくるに違いない将来の大巨匠が次々と登場する。

ナントで聴いてとても感心したヴァイオリンのパパヴラミが登場して、ベートーヴェンの協奏曲やソナタを演奏する。熱い演奏をする人なので、とりわけ楽しみだ。また、トリオ・ショーソンの「大公」も聴けそう。きっととんでもなく凄い演奏になるだろう。

また、ピアノのシャニ・ディリュカもフル回転。実は、この人の演奏を生では聴いたことがない。CDで聴いてとてもおもしろかったし、ナントでは彼女が数人の中で話をしていた時、私もその輪の中にいた(ただし、彼女の演奏を聴いていなかったので、話すべき内容を持たず、私は黙ったままだった!)。東京でも彼女の演奏をいくつか聴く予定だが、鳥栖では最近CDを出したばかりのベートーヴェンの協奏曲の第一番を聴けるのがうれしい。

何度か仕事でご一緒したことのある野原みどりさんのノーブルなピアノを聴けるのもうれしいし、大御所ダルベルトの協奏曲も楽しみ。そして、ここでも指揮者のチチナゼが大活躍する。

ナントで聴いて圧倒されたモディリアニ弦楽四重奏団が来日しなくなったのは残念だが、それを補って余りあるプログラムだと思う。

明後日からいよいよ9日間ほどの私のラ・フォル・ジュルネが始まる!

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ヴィルピ・ライサネンのテレージエンシュタットの歌

 昨日(4月23日)、武蔵野市民文化会館でメゾ・ソプラノのヴィルピ・ライサネンとアコーディオンのヤンネ・ラットゥアのリサイタルを聴いた。テレージエンシュタットの歌が主として演奏された。外来演奏家の公演中止が続いたので、久しぶりの武蔵野だった。

テレージエンシュタット(チェコ語での名称はテレジーン)はナチスの強制収容所のあった場所。ここは音楽隊があったことで知られており、ガス室で殺される運命にあるユダヤ人たちがオーケストラを作るなどして活動したという。その行為は、ナチスが自分たちの残虐行為を隠蔽するためにも使われたが、一方で死を前にしたユダヤ人たちに生きがいや喜びを与えることにもなった。

私はこのことをプログラム・ノートで初めて知った。そういえば、30年以上前、バネッサ・レッドグレーヴ主演のテレビ番組が日本でも放送されたことがあった。なんという題名だったか覚えがない。レッドグレーヴがユダヤ人のオペラ歌手を演じた。強制収容所に送られながらも、名歌手であるためにナチスの将校に愛され、音楽隊の歌手として活動する物語だった。それ以上のことは覚えていない。

ただ、バネッサ・レッドグレーヴが将校の前で初めて歌を披露する場面(「蝶々夫人」の「ある晴れた日に」だったような気がする)があり、あまりにひどい歌なのできっと「こんなひどい歌を歌うなんて音楽への冒涜だ。すぐにガス室に行け」といわれると思ってひやひやしていたら、「素晴らしい」という反応だったので驚いた記憶がある。バネッサ・レッドグレイヴが吹き替えをしないで自分で歌ったので、そんなことになったのだった。申し訳ないが、その場面だけが強く印象に残っている。

もしかしたら、あのテレビドラマは、テレージエンシュタット、あるいはそれに似た別の収容所を題材にしたものかもしれない。

昨日は、そのテレージエンシュタットで活動した女性イルゼ・ウェーバーの作曲した曲(そのうちの一曲は自らがガス室に送られているときにも子どもたちとともに歌っていたといわれる子守唄)のほかマルティン・ロマン、ヴィクトル・ウルマンらの曲が、バッハのカンタータなどとともに演奏された。

以前からこのプログラムが予定されていたのかどうかは知らないが、実に今の日本にぴったりだった。死者を悼み、再出発を誓うのにふさわしいプログラム。演奏もすばらしかった。

メゾ・ソプラノのヴィルピ・ライサネンは清々しく美しい声で音楽的にも最高。近代のオペラよりもバロックや宗教曲を歌うタイプの歌手だ。エマ・カークビーなどの歌手の系列に属するだろう。容姿も素晴らしく、細身で清楚で美しい。大袈裟に歌うのでなく、さりげなく美しい声で歌うからこそ、悲しみや信仰が心に響く。声は小さめだが、音程もよく、音楽が生き生きとしている。アコーディオンのヤンネ・ラットゥアもしっかりと表情の難しい音楽を伴奏していた。息もぴったり合っている。

ただ、日本語字幕もなく、説明もなく、ユダヤ人たちの作った曲とバッハの曲が交互に淡々と演奏されるので、どこからどこまでが何の曲なのかもよくわからず、聴いているものとしては拍手のタイミングにも困った。しかも、前半と後半を合わせて正味50分も演奏されなかったのではなかろうか。もう少しパフォーマンスを工夫すれば、もっと感動も深かっただろう。せっかくの素晴らしい演奏が十分に生かされていないと思った。それにしても、もっとあちこちで演奏してほしいプログラムだ。

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ラ・フォル・ジュルネの新たなプログラム発表

 昨日、夕方、東京のラ・フォル・ジュルネの新たなプログラムが発表された。5つのホールで全部で90ほどの公演だという。「大幅縮小」という発表だったが、昨年の半分ほどの規模。よくもここまでの規模を維持できたと思う。

 裏話を少し聞いたが、一時は中止やむなしという決定がされかかっていたらしい。その後、3日間で合計10公演くらいにとどめるという判断もなされていたようだ。だが、多くの人の熱意、そして、アーティスティック・ディレクターであるルネ・マルタン氏の熱心な説得、それに応じた多くの海外の演奏家のおかげで、昨日発表されたレベルにまで回復できたということだ。

 事務局からの発表や態度が次々と変わり、いつまでも決定がなされないので、はたから見ると、まさしく東電と同じような朝令暮改やら迷走やらに見えただろう。実は私自身、少し前のこと、ラ・フォル・ジュルネを紹介するつもりでラジオ番組の収録に出かけたのだったが、何一つ決まっていない状態だったため、別の話をするしかなくなって大いに困ったのだった。

 だが、そんなことで嘆いている場合ではない。その間も、内部では必死の努力が続けられ、今回の発表に至ったようだ。私は、プロデューサー生命をかけて説得をしてくれたマルタン氏、そして、それに応じて、汚染国として報道されている日本に来てくれる演奏家たちに、最大限の感謝の気持ちを抱く。また、このような混乱の中、切羽詰まった中で煩雑な仕事をしてくださったスタッフの方々には頭が下がる。

 今回発表のプログラムには、予想通り、日本人演奏家が多い。だが、言うまでもなく世界で大活躍をしている演奏家たちだ。間違いなく素晴らしい演奏をしてくれるだろう。今回のラ・フォル・ジュルネが成功すれば、日本の演奏家のレベルが世界的であること、ラ・フォル・ジュルネが日本に本当の意味で定着したことを示すことができると思う。成功を祈りたい。そして、本番までの間、原発の新たな汚染や大きな余震がないことを祈りたい。

 ところで、娘の通う大学では5月から授業が開始されるらしいが、私の勤める多摩大学では、4月から通常通りに授業が始まった。春休みに書かなければならない原稿や書きたい原稿がたくさんあったのだが、震災などの影響で捗らなかった。音楽をじっくり聞く気分になれないのと同じように、どうも落ち着いて原稿を書く気分になれない。そのまま授業が始まり、ちょっと焦っている。

 昨日は、授業の後、ゼミの飲み会だった。若い人々と飲むのは楽しいが、実は私は居酒屋が大の苦手。あの音のうるささには閉口する。うるさいと疲れて仕方がない。もっとも、昨日はゼミ生35人ほどが参加したので、大きな騒音をまき散らしたのは、私のゼミ生当人たちだったが。へとへとに疲れて家に帰った。

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ラ・フォル・ジュルネ大幅縮小追記、そして黒澤映画。

 東京のラ・フォル・ジュルネが大幅縮小になることを知って、失望したことを昨日書いた。そして、その後、いろいろと思い返した。とりわけ、「かきのたね」さんからのコメントに考えさせられた。

 今回の出来事を前向きに捉えるべきだと、私も思う。今回の出来事を、これまで6年間、私たちがラ・フォル・ジュルネをどう消化し、どれほど自分たちのものにしたのかをためす機会と捉えるべきなのだ。フランスの音楽祭をまねるだけでなく、それを自分たちの文化の中に取り入れ、主催者側も観客の側も含めて、どれだけ独力で優れたものを作り出せるようになったか、それが今回、問われている。きっと、主催者側も、それを考えて、力の限りのものを出してくるだろう。それをしっかりと受け止めて、自分たちの文化として新たなものにしていくのが、私たち観客の役割だと思う。

 もうひとつ反省した。昨日、私は大幅縮小にがっかりするばかりで、客として音楽を聴けなくなることしか考えが及ばなかった。だが、考えてみると、ラ・フォル・ジュルネのために必死の思いで働いてきたスタッフがたくさんいる。今回の決定による、その人たちの脱力感はどれほど大きいか。今、関連企業はどれほど大混乱していることか。

いや、それでも大企業の社員なら、会社が倒産する心配はないだろうが、個人で働いてきた人、零細企業の人は、十分な支払がなされないと大変なことになるだろう。ラ・フォル・ジュルネが縮小されると、関連している企業のほとんどが大きな赤字を抱え、それを痛み分けすることになってしまうのだろうか。

私は、当てが外れて自分の本が売れなくなることを心配していたが、そんなレベルでなく困る人がたくさんいるのかもしれない。保険などがきちんと機能して、赤字をうまく吸収できればいいのだが・・・。ともあれ、倒産企業が出るようなことがないように祈りたい。

 と言いつつ、この間も黒澤映画は、時間を作って見てきた。いくつかの感想を記す。

「どん底」

 ゴーリキーの原作を江戸時代にうつしたもの。1957年の映画だ。昔々、ジャン・ルノワール監督によるフランス映画「どん底」を見て感動した覚えがある。ジャン・ギャバンとルイ・ジュヴェが印象に残っている。それに匹敵する大傑作だと思う。

 どん底に生きる人々の貧しさ、絶望、希望が実にリアルに描いている。主人公が誰ということもない集団劇だが、散漫になりがちなところを実にうまく処理し、見ていて飽きない。それどころか、ぐいぐいと引き込まれていく。登場人物一人ひとりの心の奥の苦しみがよくわかり、感情移入できる。

 殺人事件が一区切り付き、再び絶望に戻った人々による酒を飲んでの口三味線や鳴りものによる歌と囃子が素晴らしい。そして、最後の、どん底に住む住人の一人の首吊りを知った時の登場人物の一人が口にする「せっかくの踊りをぶち壊しやがって」というセリフが実に効いている。

 どん底の人々の絶望感を描いているにもかかわらず、見ているほうはそれほどやりきれない気持ちにならないのが不思議だ。映像にエネルギーがあふれているためだろうか。登場人物一人ひとりへの愛情が感じられるためだろうか。

 役者がみんないい。私の世代の人間からすると、昔よく映画やテレビで見かけていた顔なので、懐かしい。みんな素晴らしい役者だったんだと改めて思う。黒澤監督の演技付けが厳しかったということもあるのだろうが。

最後のセリフを言う三井弘次という役者、昔よく見た顔だった。癖のあるやくざのような役をしていた人だが、本当にいい味を出している。山田五十鈴、香川京子、根岸明美、清川虹子といった女優陣も実に魅力的。

「悪い奴ほどよく眠る」

 とてもおもしろかった! 汚職事件にからんで父親を自殺に追い込まれた男(三船敏郎)が、巨悪に復讐をしようとして、その首謀者である公団副総裁の娘(香川京子)の夫になって次々と関係者を苦しめるが、最後には殺されてしまう・・・という社会派サスペンス。かなり突飛なストーリーなのだが、展開が巧妙で、人物像も明確なので、不自然さは感じない。人物のだれもが骨太で、存在感がある。小心な役人を演じる西村晃が実にいい。小心者を演じながらも、骨太であるところがおもしろい。戦争を潜り抜けた社会の人間だということがよくわかる。

 昭和35年の映画で、ほとんどの光景が、戦後たかだか15年とは思えない繁栄ぶりだし、少なくとも汚職を担う人物たちにとって戦争ははるか遠くのことのように描かれている。ところが、公団に復讐しようとする二人(三船と加藤武)は、戦災で廃墟になった工場を隠れ家にし、戦時中を話題にしている。この映画の背景に、戦争の苦しみを忘れてしまって私腹を肥やして権力を得ようとする人々への怒りがありそうだ。

「用心棒」

 これを見るのは二度目か三度目だが、前に見たのは25年以上前。改めて見て、とてもおもしろかった。まちがいなく、黒澤映画の傑作のひとつだと思う。これをリメイクした「荒野の用心棒」も何度か見て、それも見事だったが、やはりそれ以上。

 ストーリーの緊密性、映像の迫力は言うまでもないが、今度改めてみて、リアリティの凄さに驚いた。三船敏郎演じる浪人の着物が汚れきっていたり、女郎たちがいかにも田舎くさかったり、やくざたちの斬り合いがへっぴり腰だったり。それらが存在感を増している。そして、加東大介演じる、頭の足りないヤクザなどのコミカルな場面がいくつかあり、そこにとぼけた音楽が鳴るが、それがまたリアル。コミカルな場面というのは、大体においてリアルでないものだが、シリアスな斬り合いの中にそのような場面が加わると、むしろリアルになる。

 三船敏郎が実にいい。後年の三船の自信たっぷりではなく、ちょっと自信なげな表情が特にいい。用心棒の人物造形が見事。剣の達人でありながら、素浪人で、しかもやくざ同士の争いから村を救うというと、あまりに突飛だが、このような表情のこのような風貌の人物なら、それもあるかもしれないと思わせる。そのような計算をした黒澤監督と、それを実現した三船敏郎に驚嘆する。

 すべてのキャストが実にいい。その中でも、悪役の仲代達也や山田五十鈴がきわだっていると思った。

「椿三十郎」

 「用心棒」の続編。大目付の悪行に気付いた若侍たちを、謎の浪人(三船敏郎)が手助けして、悪漢どもを懲らしめる時代劇。昔見て、「用心棒」よりもおもしろいと思った記憶がある。が、今回見直してみて、「用心棒」のほうがよかった。「椿三十郎」は、主人公の人物像が類型的になっているように思う。それに、いくらなんでもそれほど話がうまく進むはずがない、と思える部分が多々ある。とはいえ、一級の娯楽映画であることは間違いない。

 以前見たとき、カルガモの子どもたちのように浪人について回る9人の若侍の集団的な演出が気になった。「学芸会のようで、あまりに不自然」と思ったのを覚えている。が、良くも悪くも、このような遊びの存在が、この映画の特徴だと思った。「用心棒」ほど息苦しくないのはそのせいだろう。小林桂樹や入江たか子のとぼけた演技もその延長線上にある。

 そして、そのような映画の最後に緊迫感を引き戻すのが、三船演じる浪人と仲代達也が演じる件の達人との決闘場面だ。これは映画史に残る名場面だと思う。この一瞬の緊迫感は比類がない。

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ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンの大幅縮小と『エレクトラ』のDVD

 昨日、東京国際フォーラムでのラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンが大幅縮小されるというショッキングなメルマガが届いた。私は、この音楽祭のアンバサダーを仰せつかっているので、以前からそのような噂も耳に入らないではなかったが、なんとか頑張ってほしいと思っていた。が、放射能事故のレベル7は痛かった。これでは、フランス、ドイツの演奏家の多くは来日しないだろう。少なくとも、東京で演奏する人はごく少数だろう。本人が来たがっても、マネージャーが止めるだろう。やむをえない。

 かくなる上は、縮小された音楽祭で優れた演奏をしてほしいものだ。そして、できることなら、金沢、びわ湖、鳥栖のラ・フォル・ジュルネに多くのヨーロッパの演奏家が来てくれることを祈る。私も、びわ湖と鳥栖には足を運ぶつもりでいる。

 ここ数年、毎年、GWのラ・フォル・ジュルネが何よりも楽しみだった。それを何よりも楽しみにして生活していた。私だけでなく、同じような人がたくさんおられるだろう。大幅縮小というのがどのようになるのかはわからないが、最大の楽しみが減って、大変残念。昨日から、このためにかなり落ち込んでいる。ラ・フォル・ジュルネのために企画した拙著『音楽で人は輝く』は、音楽祭開催中にベストセラーになることを夢見ていただけに、残念!

521  そんな中、『エレクトラ』のDVDを見た。2010年のザルツブルグの公演。指揮はダニエレ・ガッティ。演出はレーンホフ。エレクトラを歌うのはイレーヌ・テオリン、クリテムネストラがワルトラウト・マイヤー、クリソテミスがエヴァ・マリア・ウェストブロック。そのほか、オレストがルネ・パーぺ、エギストがロバート・ギャンビル。つまりは現在考えられるオールスターキャスト。

 素晴らしかった! 先日もティーレマン指揮、ミュンヘン・フィルによる映像を見て、なかなか良かったが、それ以上かもしれない。レーンホフの演出も、簡素でありながら、最後の場面の暗雲の垂れこめるところなど凄まじい。

 指揮のガッティがいい。私は、昨年だったか、ミラノ・スカラ座公演の『ドン・カルロ』を見て、ガッティに惹かれなかった。が、今度は違う。色彩的で強烈な音の渦を鮮烈に、豊穣に鳴らしている。シュトラウスはこんな音響が一番いい!

 歌手も全員がいい。とりわけ、テオリンのこのところの充実ぶりには目を見張る。演技力も出てきて、凄味がある。マイヤーとの対決の場面は圧巻。マイヤーは今でもテオリンに少しも負けていない。鳥肌が立ちっぱなしだった。残酷でおぞましくしかも美しい。ウェストブロックも自信なげな女性をうまく演じていた。パーペも存在感たっぷり。ちょっとオレストとしては存在感がありすぎる気がしたが。字幕に日本語が入っているのもうれしい。

 ちょっと元気が出てきた。

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「ばらの騎士」に生まれて初めて退屈した!

 今日(4月10日)、新国立劇場で、「ばらの騎士」を見た。アルミンクの指揮とニールンドの歌うマルシャリンを楽しみにしていたのだが、放射能騒ぎで配役が大幅に変わった。前回の新国立劇場でのニールンドのマルシャリンは、ちょうど忙しい時期で見られなかったのだった!!

 とはいえ、歌手については、かなりのレベルだと思った。とりわけ、フランツ・ハヴラタが素晴らしい。この人は、08年のバイロイトでザックスを歌ったのを聴いて名前を記憶した。その後、DVDなどでも見てきたが、今日もさすが。文句なし。マルシャリン役のアンナ=カタリーナ・ベーンケも十分に聴きごたえがあった。もう少し声の強靭さと気品がほしいと思ったが、これだけ歌ってくれれば十分。よくぞ、この二人は放射能騒ぎの中、日本に来てくれた!

 ほかの歌手陣はほとんどが日本人。オクタヴィアンの井坂恵、ゾフィーの安井陽子も頑張っている。世界の超一流には負けるかもしれないが、十分、世界に通用すると思った。高橋淳のヴァルツァッキも実によかった。決してノーブルな声ではないが、この人が演じると、すべての役が生きてくる。日本人歌手の近年のレベルアップは注目に値する。

 最後の三重唱も見事。これぞ、シュトラウス・オペラの白眉!

 だが、それでも私は実は退屈でしかたがなかった。その理由は簡単。私は、マンフレッド・マイヤーホーファーの指揮が気に入らなかった。こんな状況下に日本に来てくれた指揮者を悪く言いたくないが、リズム感がよくなく、のっぺりしていて、まったく音楽を推進しない指揮だった。オーケストラの音楽がセリフのBGMのように思えた。音をきれいに合わせるので、これといった失敗はないのだが、これでは音楽が生きてこない。官能がにおい立つこともなく、精妙なアンサンブルに身が震えることもなかった。オーケストラそのものには特に不満はないが、指揮がよくないので、音の精妙さも出てこない。

 45年前から愛してやまない「ばらの騎士」で、生まれて初めて退屈した! アルミンクだったら、もっと精妙な演奏をしてくれただろう。だが、指揮者に大喝采している人もかなりいたので、誰もがこの指揮を平板と思ったわけではないのかもしれない。

 ジョナサン・ミラーの演出は、かなり穏健だった。「読み替え」演出よりはずっといいが、もう少し独自な踏み込みがあってもいいと思った。

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わがゼミ主催のコンサート、大成功!

 昨日(48日)、パルテノン多摩小ホールにおいて、多摩大学樋口ゼミ主催で、多摩音楽祭前夜祭、フィルハルモニア多摩、室内楽第一回定期演奏会を開いた。多摩フィルと私たちのゼミの協力によって来年にも多摩音楽祭を開くために、室内楽演奏会を続けていこうという第一回目のコンサートだ。余震があり、原発が相変わらず放射能漏れを起こしており、自粛ムードも続いている中、多くの人においでいただいた。一時は中止を検討したうえ、活動が十分にできなかったので、もしかして空席ばかりが目立つのではないかと危惧していただけに、ほっとした。

 私は、多摩大学で授業を行った後、15時ころにパルテノン多摩に到着。すでに到着していた数人のゼミ生に合流。17時からは、今回のコンサートの運営にかかわる残りの10名ほどのゼミ生がやって来てスタッフとして裏方の仕事をした。1830分開演。私自身もゼミ生も、もちろん難をいえばきりがないが、ともあれそれなりには働いて、コンサートを成功に導くことができた。もちろん、この成功は演奏家によるものだが、それを支えたゼミ生にも間違いなく功績がある。もちろん、多摩フィルの方々、そして、ステージマネージャーの穂刈さんの適切な指導があってのことだが、私たちの裏方仕事は、まずは合格だと思う。今後、コンサートの企画、運営のすべてをゼミ生が独力でやれるように成長していきたいものだ。

 かくして本番。

 わがゼミ代表の萩原誠子さんの挨拶に始まり、震災の犠牲者を思い描きながら、バッハの管弦楽組曲の「アリア」。そして、ヨハン・シュトラウスの「ウィーンの森の物語」へと入っていった。指揮は今村能(いまむら・ちから)さん。演奏は、高原久実さんを中心とした若い女性の多い多摩フィルのメンバー。今村さんと相談して、ウィーン、イタリア、ウクライナ地方を中心とした春をイメージした曲目を選んだ。

最初のうちこそ、少し演奏が硬かったが、コロラトゥーラ・ソプラノの森美代子さんが登場して「春の声」を歌ったころから、器楽メンバーもだんだんとほぐれてきて、しっかりとした演奏になってきた。森さんは、音程も正確で、かわいらしい容姿からは想像もできないような強い声の持ち主で会場を圧倒するのがよくわかった。

 後半は、アイネ・クライネ・ナハトムジークに始まり、管楽器も入って「魔笛」から夜の女王の第一幕と第二幕の二つのアリア。いずれも日本人離れした声量と技術。会場内にビンビンと響き渡った。初めてこのアリアをこのレベルの演奏で聴いた人は、このアリアの凄さに圧倒されたのではないか。

 こののち、チャイコフスキーの「アンダンテ・カンタービレ」、そして、リヒャルト・シュトラウスの「カプリッチョ」の導入の六重奏曲。この2曲は絶妙のアンサンブルだった。高原さんのヴァイオリンが素晴らしい。こういう曲では、第一ヴァイオリンが大活躍するので、どうしてもその音の美しさが全体の印象を決定する。もちろん、ほかのメンバーもしっかりと合わせている。有名オケのメンバーと比べてまったく遜色なし。今村さんの指揮も見事。今村さんが指揮をすると、音が生きて、細かいニュアンスが素晴らしくなる。全体の構成感もすばらしい。今村さんを音楽監督としたフィルハルモニア多摩、もっともっと知られていい存在だ

帰りに多くの方が演奏会の素晴らしさを口にしてくれた。多摩大学学長室長の久恒啓一教授夫妻にもおいでいただいたが、満足してくださった様子だった。もちろん、演奏家たちも大満足。

2011_0408_211809img_0744 世界的な有名演奏家による歴史的名演だけがコンサートではない。このような地元の人が一流の演奏をし、それを気軽に楽しむコンサートが大事だ。こうしたコンサートをたくさん開いてこそ、文化が豊かになり、人生が豊かになり、地域が活性化し、地域の人々の生活が楽しくなる。

 演奏家やゼミ生とともに記念写真を撮るなどして、21時半ころにすべて終わって、完全撤収。家に帰って、猛烈に疲れきっている自分に気付いた。

 次回は、520日に第二回の多摩フィルとの協力によるコンサートを行う。これからは、それに向けて活動をする必要がある。

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コンサートのお知らせ、そして近況など

 以前にも書いたが、再び、明日のコンサートについて書かせていただく。

明日、4月8日19時より、多摩大学樋口ゼミ主催のコンサートをパルテノン多摩小ホールで行う。このコンサートは、来年以降開催を予定している多摩音楽祭の前夜祭として位置付けているもの。クラシック音楽を通して、多摩地域の文化を向上させ、お年寄りと若者、子供のコミュニケーションを活発化させ、子供から大人までが楽しむことをめざす。

そして、今回は、大震災への追悼の意味を込め、日本を元気づける演奏にしたいと考えている。

 演奏は、地域の誇るプロフェッショナルのオーケストラ、多摩フィルハーモニーのメンバー。また、ゲストとして二期会の有望なソプラノ歌手である森美代子さんが出演。

 実は、コンサートを企画し運営することを目的とした多摩大樋口ゼミの学生がこのコンサートに向けてチケット販売に本腰を入れようとした矢先に、震災が起こり、大学の決定でゼミ活動ができなくなった。余震や原発問題で心落ち着かない中であり、かなり空席が目立つことになりそうだが、絶対に楽しめると思う。こんな時にこそ、明るい音楽を聴いて、元気を出し、その元気を被災地に向けて発信したい。ぜひとも、明日の夜、お近くの方はパルテノン多摩においでいただきたい。当日券あり。

詳細は以下を。

 http://homepage3.nifty.com/tama-fil/

201148日(金)19時開演

会場 パルテノン多摩 小ホール (小田急多摩センター、京王多摩センター、多摩都市モノレール・多摩センター駅下車)

入場料 一般2000円、学生・児童 1000円 (当日券あります)

演奏 音楽監督・指揮:今村 能 ソプラノ独唱:森 美代子 室内楽:フィルハルモニア多摩(Vn. 高原久実、関口梨紗 Vla. 武井麻里子、飯田 香 Vc. 永瀬 惟、村上咲依子 Cb.廣永 瞬)

協賛:小田急電鉄株式会社

入場券:パルテノン多摩チケットセンター Tel.042-376-8181
インターネットでの入場券申込: e+イープラス = 受取:お近くのセブンイレブン
入場券・申込+受取=お近くのファミリーマート=FAMIマート


曲目

バッハ  アリア

J.シュトラウス 「春の声」「ウィーンの森の物語」

モーツァルト 「夜の女王のアリア」「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」

ロッシーニ 「弦楽のためのソナタ第1番」、

チャイコフスキー 「アンダンテ・カンタービレ」

R.シュトラウス 「カプリチョ」の導入の六重奏曲

など

 そのほか、少し、私の近況など。

●『週刊朝日』の今週号の80ページに、私の書いた文章が出ている。40年ほど前、特急寝台富士号の中で古典落語の本を読んだ話を書いた。立ち読みでもしていただけると、うれしい。

●CDショップのサイトをのぞいていたら、ヤコフ・クライツベルクが3月15日に死去していたことを知った! 一度、チェコフィルを指揮した『新世界』を聴いてとても感動したので、注目している指揮者だった。51歳というから、まだ指揮の世界では若手だ。ビシュコフの弟だということも、死亡記事で初めて知った。あれほどの才能の持ち主なのに、このごろ名前を聞かないと思ったら、病気療養中だったらしい。クラシック音楽界の大きな損失の一つだと思う。

410日、東京・春・音楽祭の被災者支援チャリティ・コンサートの案内が来た。ズビン・メータ指揮の第九。以前、メータの第九を聞いたが、第四楽章はまさしく圧巻だった。が、この日は、新国立で『ばらの騎士』を見る予定。残念。

●また、420日のエンジン01文化戦略会議主催の東北巻頭大震災支援チャリティバザーの案内も来た。これもそうそうたるメンバーが集まっての魅力的なコンサートが催されるようだ。ところが、これも大事な仕事と重なる。

425日、私が応援している新居由佳梨さんのリサイタルが東京文化会館小ホールで開かれる。素晴らしいピアニストなので、ぜひ聴きたいが、これまた大事な仕事が重なってしまって、抜けられない!! ぜひ、多くの方に聞いていただきたい。詳細は以下を。

http://ameblo.jp/piano-yukari

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フォルテ サロン コンサート

 4月4日、多摩大学経営情報学部の諸橋学部長に誘われて、築地のスカイレストラン・ルークで第94回フォルテ サロン コンサートを聴いた。柳川一政氏のプロデュースするコンサート。日フィルコンサートマスターで、ソロ活動もしている木野雅之氏を中心とした演奏家によるディナー・ショーだ。東日本震災救援募金も兼ねている。木野さんの最近の活躍を耳にしているので、一度、ナマを聴きたかった。

 木野さんとピアノの平沢匡郎さんのデュオは、予想通り聞きごたえがあった。ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ「春」は、初めのうちこそちょっと粗さがあったが、第四楽章は見事に盛り上がって感動的。「リベルタンゴ」などのピアソラの3曲もよかった。最後はラヴェルの「ツィガーヌ」。私の大好きな曲だ。しっかりとしたメリハリをつけて、この難曲を見事に演奏してくれた。

 ただ、私としては、この曲はもう少し遊びがあってもいいのではないかと思った。それはそれで迫力があるのだが、ちょっと、真面目すぎる気がした。もう少し、人を食ったようなしゃれっ気があるほうが、この曲は生きると思う。もちろん、これは解釈の問題だけど。それと、ピアノの調律が甘かったようで、音が濁っていたのが残念。

 そのほか、テノールの小山陽二郎さんと、ソプラノの見角悠代さんが演奏した。この二人も実に見事。小山さんは朗々たる声で堂々たるもの。音程もいいし、押し出しも立派。トスティの「四月」も、チレアの「アルルの女」からのアリアも素晴らしかった。また、見角さんもしっかりした発声、しっかりした音程によって、きれいな声で楽しい歌を聴かせてくれた。「春の声」のコロラトゥーラもすばらしかった。

 というわけで、大満足して帰った。

 ところで、東京渋谷区の素晴らしいホールであるHakuju Hallから、東日本大震災チャリティロビーコンサートの知らせが届いた。4月6・7・8日の昼12時から、数回にわたって、1階ロビーで無料のチャリティコンサートを開くとのこと。チェロの長谷川洋子さん、ソプラノの林美智子さんなどそうそうたるメンバー。私もおりを見て聴きたいと思っている。多くの方に聴いていただきたいものだ。詳しいことは以下をご覧いただきたい。

http://www.hakujuhall.jp/top/news/index.html

 今日で春休みは終わり。明日多摩大学の入学式が行われ、新学年が始まる。

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葉加瀬太郎クラシックシアター

 4月3日、兵庫芸術文化センターで、葉加瀬太郎クラシックシアターを聴いた。震災以来、初めてのコンサートだった。葉加瀬さんのラジオ番組に出させていただいて、このコンサートのことを知り、ぜひ聴きたくなったのだった。できれば東京で聴きたかったのだが、東京での公演日はほかの予定が重なっていたので、京都での仕事のついでに、一日滞在を延ばして兵庫に出かけた。その甲斐があった。

 前半はブラームス中心の、まさしくクラシックのコンサート。スケルツォF.A.Eソナタより。そしてソナタの1番。

 私は、これまで葉加瀬さんをクラシック畑ではない人だと思っていた。ピアソラ風の曲を作曲している人、ポピュラーなヴァイオリン曲を演奏している人。ところが、ラジオで話をして、実は大変なブラームス好きだと知った。そこで聴いてみたいと思ったのだったが、予想以上に実に繊細なブラームス!! ピアノ伴奏も、繊細で音が美しい。

 ああ見えて、実は本当に心やさしく、本当に繊細で、本当に内省的な人だったんだ! と思った。しみじみと一つ一つの音をかみしめて弾く。外面的な効果をできる限り排除して、丁寧に音を再現しようとしている。もうちょっとドラマティックにやってもいいのではないかと思えるところも、実に丁寧に優しく演奏する。あえてそうしているのだろう。その結果、おずおずとした、心やさしく、ぐっと情熱を秘めたブラームスが浮かび上がった。それはそれで見事。

 後半は、楽しいトークを交えながら、葉加瀬さんご自身の曲や、クライスラーの「前奏曲とアレグロ」、マスネーの「タイスの瞑想曲」。ガーデの「ジェラシー」、ディニクの「ひばり」、モンティの「チャルダシュ」など。ピアノのほか、弦楽五重奏が加わった。観客は、前半はおとなしかったが、後半、大喝采。最後にはほぼ全員が立ち上がってのスタンディング・オーベーション。

 エンターテイナーとして最高だと思った。盛り上げ方が見事。大人気は当然。最後のアンコール曲はNHKの『てっぱん』のテーマ曲だったが、こうして聴くと実に感動的。

 それにクラシックの曲もよかった。とりわけクライスラーがいい。この曲は、先日、ネマニャ・ラドゥロヴィによる演奏を聴いたばかり。リハーサルも加えると、4回くらい聴いた。ネマニャの演奏は実に切れがよく、ダイナミックでちょっと悪魔的だったのだが、葉加瀬さんは正反対。繊細で優しく美しい。

 才能がありすぎるばかりにクラシック以外でも大活躍だが、私のようなクラシック一辺倒に人間にしてみれば、ぜひとも葉加瀬さんにはもっともっとクラシックを演奏してほしい。ここは一つこれまでのサービスは一切やめて、ブラームスの3つのソナタなど、完璧なクラシックの演奏会をやってもいいのではないかと思った。それだと、きっと従来のファンは大不満なのだろうが・・・

●補足

 以上のように書いていたら、下にあるような「ムーミンパパ」さんからのコメントをいただいた。私の書き方がよくなかったようだ。誤解を招く書き方をしてしまった。私は、葉加瀬さんに「これから、すべての演奏会でこれまでのサービスをやめてほしい」と言っているわけではない。「これからは、これまでのポピュラーなものばかりではなく、時にはクラシックのみのコンサートを開いてほしい。そのコンサートでは、これまでのようなサービスを一切しないで、クラシック音楽だけをひいてほしい」と言いたかったのだ。つまり、これまでのようなコンサートのほかに、クラシックだけのコンサートをしてほしいと思っているのだ。誤解のないようにお願いしたい。

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京都の花見、そして黒澤映画「白痴」「生きものの記録」

 仕事で京都にいる。昨日、合間を見て花見に行った。最初、京都御苑に行ってみたが、咲いているのはほとんど梅や桃で桜はちらほら。これはこれで楽しめたが、やはりせっかくだから桜を見ようと思い、八坂神社に急いだ。人でごった返し、テント張りの出店が軒を連ねている。かなり先まで目に入るのは店ばかり。そのわりには桜は3部咲き程度。桜そのものはいいが、モツ煮やたこ焼きやイカ焼きの匂いが充満しているなかでの花見は興ざめ。夜になると宴会が始まる雰囲気。早々に退散した。静かに、花を見るのは京都では難しいのだろうか。

 例によって、必死になって時間を作って、黒澤映画を見続けている。いくつか感想を記す。

「白痴」

 これは黒澤明にしては珍しい失敗作だと思う。

 やはり、ドストエフスキーの原作を日本映画で描ききるのは難しい。ロシア映画であったとしても、これを2時間や3時間で描くことはできないと思う。小説を読んでいてさえ、複雑で心理の振幅の大きい人物を理解するのは難しい。しかも、そのような人物をドストエフスキーは「ロシア的」としばしば呼んでいる。2時間半ほどの、日本人が日本を舞台にして演じる映画では、テーマも薄っぺらになり、人物は不自然になる。とりわけ久我美子が演じるアグラーヤに当たる人物が、単にヒステリックなだけになっている。原節子もナスターシャ・フィリッポヴナの不思議な魅力を出せずにいる。ロゴージンに当たる三船の人物像も不自然。ただ、ムイシュキンに当たる森雅之はぴったり。森雅之という役者が素晴らしいこともあるだろうが、この人物は日本人でも描きやすいということでもあるだろう。ただ、それぞれの人物の雰囲気は、ロシア人と日本人という違いはあるものの、さすがにしっかりと出している。

 舞台を北海道にして実に的確に「白痴」の世界を日本に移しているのもさすが黒澤監督。細かいところははしょっているようだが、全体的なストーリーはかなり原作に忠実だと思う。なるほど、この小説の大枠はこんなものだったのかと改めて気づいた。

 だが、意欲はわかるが、あまりに無謀な試みだったと思う。

「生きものの記録」

 「白痴」の前後に、あの「羅生門」や「生きる」や「七人の侍」などの傑作群が作られるが、これらは何度も見て、大いに感動したので、今回は見ないで済ます。以前、一度だけ見て、納得のいかなかった「生きものの記録」を見ることにした。

 水爆実験などにニュースを見るうちに、放射能への激しい恐怖に取り付かれて、大家族や数人の妾、その子どもなど、すべての関係者の猛反対にもかかわらずブラジル移住を計画した工場主の老人(三船)が、ついには、みんなを日本にしがみつかせている原因である工場に放火して、狂気に陥るまでを描く。

 言うまでもなく、テーマは「よく考えてみると世界は原爆・水爆の恐怖にさらされ、だれもが狂気に陥ってもしかるべきだ。それを平気でいる人々のほうが狂気ではないか」というもの。ある意味で、放射能漏れが毎日にニュースになっている現在、改めてみるのは、絶好のタイミングではある。

 かつて見たとき、テーマがあまりに単純で、しかも、突飛な放射能恐怖にとりつかれる老人に共感できず、三船の老け役にも不自然さを感じて、おもしろいと思わなかった。というか、なぜ黒澤ともあろうものがこんな映画を作ったのだろうかと不思議に思っていた。

 今回見て、わかった気がしたのは、「これは喜劇のつもりだったのだ!」ということ。黒澤は戯画化して滑稽に、そして大袈裟に恐怖に取り付かれた人を描き、みんなが笑ってみているうちに、だんだんと「いや、もしかしたら、この老人のほうが正しいのかも」と気づくように仕向けたかったのだろう。だからこそ、当時、まだ若くて元気いっぱいの三船を老け役にし、突飛な行動をとらせ、大家族や妾たちのどたばたを描き、志村喬という客観的にそれを見る存在を作る必要があったのだ。ところが、残念ながら、黒澤はシリアスなものや人道的なもの、大迫力のものは得意だったが、お笑いの喜劇は得意ではなかった。観客は、画面の中の出来事との距離をつかめず、笑いは不発に終わり、テーマだけが浮き彫りにされてしまったわけだ。

 今回見ても、やはり傑作とは思えない。とはいえ、最後までおもしろく見ることはできた。同じテーマによるベルイマン監督の「冬の光」は、私はあまりのつまらなさとあまりの生真面目さにうんざりした覚えがあるが、それよりはずっとよかった。

 それにしても、これは昭和30年の映画だったが、戦後10年でこれほどまでに復興しているのに改めて驚いた。ほんの数年前の「酔いどれ天使」「静かなる決闘」「野良犬」などと映し出される光景がまったく異なる。

 ここでも、千石規子が実にいい。どんな映画でも殿山泰司(この映画には出ていない)や千石規子が出ると、さりげない行動をとるだけで画面が重層的になる。千秋実、上田吉二郎、根岸明美、青山京子も魅力的だった。

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