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京都の花見、そして黒澤映画「白痴」「生きものの記録」

 仕事で京都にいる。昨日、合間を見て花見に行った。最初、京都御苑に行ってみたが、咲いているのはほとんど梅や桃で桜はちらほら。これはこれで楽しめたが、やはりせっかくだから桜を見ようと思い、八坂神社に急いだ。人でごった返し、テント張りの出店が軒を連ねている。かなり先まで目に入るのは店ばかり。そのわりには桜は3部咲き程度。桜そのものはいいが、モツ煮やたこ焼きやイカ焼きの匂いが充満しているなかでの花見は興ざめ。夜になると宴会が始まる雰囲気。早々に退散した。静かに、花を見るのは京都では難しいのだろうか。

 例によって、必死になって時間を作って、黒澤映画を見続けている。いくつか感想を記す。

「白痴」

 これは黒澤明にしては珍しい失敗作だと思う。

 やはり、ドストエフスキーの原作を日本映画で描ききるのは難しい。ロシア映画であったとしても、これを2時間や3時間で描くことはできないと思う。小説を読んでいてさえ、複雑で心理の振幅の大きい人物を理解するのは難しい。しかも、そのような人物をドストエフスキーは「ロシア的」としばしば呼んでいる。2時間半ほどの、日本人が日本を舞台にして演じる映画では、テーマも薄っぺらになり、人物は不自然になる。とりわけ久我美子が演じるアグラーヤに当たる人物が、単にヒステリックなだけになっている。原節子もナスターシャ・フィリッポヴナの不思議な魅力を出せずにいる。ロゴージンに当たる三船の人物像も不自然。ただ、ムイシュキンに当たる森雅之はぴったり。森雅之という役者が素晴らしいこともあるだろうが、この人物は日本人でも描きやすいということでもあるだろう。ただ、それぞれの人物の雰囲気は、ロシア人と日本人という違いはあるものの、さすがにしっかりと出している。

 舞台を北海道にして実に的確に「白痴」の世界を日本に移しているのもさすが黒澤監督。細かいところははしょっているようだが、全体的なストーリーはかなり原作に忠実だと思う。なるほど、この小説の大枠はこんなものだったのかと改めて気づいた。

 だが、意欲はわかるが、あまりに無謀な試みだったと思う。

「生きものの記録」

 「白痴」の前後に、あの「羅生門」や「生きる」や「七人の侍」などの傑作群が作られるが、これらは何度も見て、大いに感動したので、今回は見ないで済ます。以前、一度だけ見て、納得のいかなかった「生きものの記録」を見ることにした。

 水爆実験などにニュースを見るうちに、放射能への激しい恐怖に取り付かれて、大家族や数人の妾、その子どもなど、すべての関係者の猛反対にもかかわらずブラジル移住を計画した工場主の老人(三船)が、ついには、みんなを日本にしがみつかせている原因である工場に放火して、狂気に陥るまでを描く。

 言うまでもなく、テーマは「よく考えてみると世界は原爆・水爆の恐怖にさらされ、だれもが狂気に陥ってもしかるべきだ。それを平気でいる人々のほうが狂気ではないか」というもの。ある意味で、放射能漏れが毎日にニュースになっている現在、改めてみるのは、絶好のタイミングではある。

 かつて見たとき、テーマがあまりに単純で、しかも、突飛な放射能恐怖にとりつかれる老人に共感できず、三船の老け役にも不自然さを感じて、おもしろいと思わなかった。というか、なぜ黒澤ともあろうものがこんな映画を作ったのだろうかと不思議に思っていた。

 今回見て、わかった気がしたのは、「これは喜劇のつもりだったのだ!」ということ。黒澤は戯画化して滑稽に、そして大袈裟に恐怖に取り付かれた人を描き、みんなが笑ってみているうちに、だんだんと「いや、もしかしたら、この老人のほうが正しいのかも」と気づくように仕向けたかったのだろう。だからこそ、当時、まだ若くて元気いっぱいの三船を老け役にし、突飛な行動をとらせ、大家族や妾たちのどたばたを描き、志村喬という客観的にそれを見る存在を作る必要があったのだ。ところが、残念ながら、黒澤はシリアスなものや人道的なもの、大迫力のものは得意だったが、お笑いの喜劇は得意ではなかった。観客は、画面の中の出来事との距離をつかめず、笑いは不発に終わり、テーマだけが浮き彫りにされてしまったわけだ。

 今回見ても、やはり傑作とは思えない。とはいえ、最後までおもしろく見ることはできた。同じテーマによるベルイマン監督の「冬の光」は、私はあまりのつまらなさとあまりの生真面目さにうんざりした覚えがあるが、それよりはずっとよかった。

 それにしても、これは昭和30年の映画だったが、戦後10年でこれほどまでに復興しているのに改めて驚いた。ほんの数年前の「酔いどれ天使」「静かなる決闘」「野良犬」などと映し出される光景がまったく異なる。

 ここでも、千石規子が実にいい。どんな映画でも殿山泰司(この映画には出ていない)や千石規子が出ると、さりげない行動をとるだけで画面が重層的になる。千秋実、上田吉二郎、根岸明美、青山京子も魅力的だった。

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コメント

黒澤明の「白痴」に関して、肝心な事が言及されていませんね。
此の映画は元々は、4時間半の前後編二部の大作でした。それでは興行上、都合悪いと松竹の首脳が判断し、現在の2時間40分に圧縮されました。黒澤明が公開当時に「これ以上フィルムを切るなら縦に切れ」といったのは余りにも有名な話しです。細かいところが「端折られている」のは当たり前で、駄作になったのは黒澤の責任ではありません。
因みに、最近になって完全版が某所に秘匿されているのが、熊井啓監督の調査で明らかになりましたが、何故か未だに公開されません。
http://www.nihon-eiga.com/kurosawa/keywords/keyword_5.html

投稿: 阿久 礼之助 | 2012年1月12日 (木) 21時58分

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