ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンの大幅縮小と『エレクトラ』のDVD
昨日、東京国際フォーラムでのラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンが大幅縮小されるというショッキングなメルマガが届いた。私は、この音楽祭のアンバサダーを仰せつかっているので、以前からそのような噂も耳に入らないではなかったが、なんとか頑張ってほしいと思っていた。が、放射能事故のレベル7は痛かった。これでは、フランス、ドイツの演奏家の多くは来日しないだろう。少なくとも、東京で演奏する人はごく少数だろう。本人が来たがっても、マネージャーが止めるだろう。やむをえない。
かくなる上は、縮小された音楽祭で優れた演奏をしてほしいものだ。そして、できることなら、金沢、びわ湖、鳥栖のラ・フォル・ジュルネに多くのヨーロッパの演奏家が来てくれることを祈る。私も、びわ湖と鳥栖には足を運ぶつもりでいる。
ここ数年、毎年、GWのラ・フォル・ジュルネが何よりも楽しみだった。それを何よりも楽しみにして生活していた。私だけでなく、同じような人がたくさんおられるだろう。大幅縮小というのがどのようになるのかはわからないが、最大の楽しみが減って、大変残念。昨日から、このためにかなり落ち込んでいる。ラ・フォル・ジュルネのために企画した拙著『音楽で人は輝く』は、音楽祭開催中にベストセラーになることを夢見ていただけに、残念!
そんな中、『エレクトラ』のDVDを見た。2010年のザルツブルグの公演。指揮はダニエレ・ガッティ。演出はレーンホフ。エレクトラを歌うのはイレーヌ・テオリン、クリテムネストラがワルトラウト・マイヤー、クリソテミスがエヴァ・マリア・ウェストブロック。そのほか、オレストがルネ・パーぺ、エギストがロバート・ギャンビル。つまりは現在考えられるオールスターキャスト。
素晴らしかった! 先日もティーレマン指揮、ミュンヘン・フィルによる映像を見て、なかなか良かったが、それ以上かもしれない。レーンホフの演出も、簡素でありながら、最後の場面の暗雲の垂れこめるところなど凄まじい。
指揮のガッティがいい。私は、昨年だったか、ミラノ・スカラ座公演の『ドン・カルロ』を見て、ガッティに惹かれなかった。が、今度は違う。色彩的で強烈な音の渦を鮮烈に、豊穣に鳴らしている。シュトラウスはこんな音響が一番いい!
歌手も全員がいい。とりわけ、テオリンのこのところの充実ぶりには目を見張る。演技力も出てきて、凄味がある。マイヤーとの対決の場面は圧巻。マイヤーは今でもテオリンに少しも負けていない。鳥肌が立ちっぱなしだった。残酷でおぞましくしかも美しい。ウェストブロックも自信なげな女性をうまく演じていた。パーペも存在感たっぷり。ちょっとオレストとしては存在感がありすぎる気がしたが。字幕に日本語が入っているのもうれしい。
ちょっと元気が出てきた。
| 固定リンク
「音楽」カテゴリの記事
- エリアス弦楽四重奏団 ベートーヴェン・サイクル4日目 ワクワクして叫びだしたくなった!(2023.06.10)
- 葵トリオのスケールの大きなベートーヴェンのハ短調(2023.06.09)
- エリアス弦楽四重奏ベートーヴェン・サイクル3日目 感動に震えた!(2023.06.07)
- エリアス弦楽四重奏 ベートーヴェン・サイクル2日目も素晴らしかった!(2023.06.05)
- 新国立劇場「サロメ」 指揮に不満を覚えたが、ラーモアとトマソンはとても良かった(2023.06.04)
コメント
樋口さん
ご無沙汰しております。たくぽんです。
ラ・フォル・ジュルネの大幅縮小、私も非常にがっかりしました。個人的な事情を申し上げると、中高生にとってこの音楽祭ほど安価にナマが聴けるチャンスもありませんので・・・。
今回の惨事の規模と海外の報道ぶりを考えるに、これは今年は危ないのではないかと薄々思ってはいましたが、現実のこととなってしまい、大変肩を落としております。
新国立劇場の「ばらの騎士」や在京オケの定期演奏会など、様々な場面で外国人演奏家のキャンセルが相次ぐ昨今の現状は、邦人演奏家の代役が力を発揮する機会だと好意的に捉えるしかないということは重々承知しておりますが、やはり海外演奏家も聴きたい!というのが本音です。
こんな状況下で来日してくれたメータ、ドミンゴ、カンブルランらには、音楽家というよりも人間として尊敬せざるを得ません。
強い余震がこれ以上起きませんように。樋口さんもどうかご自愛ください。
投稿: たくぽん | 2011年4月17日 (日) 17時56分
今回の件で、奇しくもこ音楽祭のもうひとつの売りである規模の大きさではなく、楽しさと企画力が試される局面となりましたね。ここからがマルタンとそのスタッフの真価が問われる、というより今まで日本で何を毎年我々に与えてくれていたかを、創る方も聴く方も確認できる機会となったという気がします。
この音楽祭は、一見ただ与えられたものを聴くだけというふうに傍目からはみえますが、そうではなくこちらから参加しにいくという姿勢がないと成立しない、大量に小分けされたコンサートを自分達で選択するいうシステムの音楽祭です。ですから新プロが発表されたら、今までと同じように、何が聴き所なのかということをめげずにあらためて発信し、それこそ災い転じてとするくらいの気持ちで、規模は縮小されても楽しみは縮小されないという自負をもてば、決して始まる前から終わったような気持ちにもなりませんし、だいいち参加してくれる演奏者の気持ちや姿勢、そしてそれにもかわらず来てくれる方々に申し訳がたたないという気がします。
自分は終わったことよりも、これからはじまることに期待をもちたいと思いますし、スタッフの方々もそちらに全力を尽くしてほしいと願っております。それに日本のアーティストの底力も再確認できたらこれまた楽しいことではないでしょうか。
まあスタッフの方はほんとたいへんでしょうが…。あと当日はスタッフに状況の確認を徹底しないとトラブルが続出するでしょうね。ここが一番の心配でしょうか。
投稿: かきのたね | 2011年4月17日 (日) 23時11分
たくぼん様
コメント、ありがとうございます。
そうですね、若い人にとって、ラ・フォル・ジュルネは低料金で素晴らしい演奏を聴く数少ないチャンスですよね。大幅縮小は実に残念です。とはいえ、縮小の程度にもよりますが、ぜひとも、日本人を中心とするメンバーで、来日演奏会場の演奏を聞かせてほしいですね。
メータの第九のコンサートの模様をテレビで見ましたが、感動的でしたね。メータは好きな指揮者の一人ですが、ますます好きになりました。
投稿: 樋口裕一 | 2011年4月18日 (月) 08時05分
かきのたね様
コメント、ありがとうございます。
なるほど。
今回の大幅縮小を、これまで日本がラ・フォル・ジュルネをどのように受け入れ、自分のものにしてきたかという真価を問われる場と考えるわけですね。まったくそのとおりですね。
ナントで聴いたいくつもの素晴らしいブラームスが聴けないのは残念ですが、きっと別の、もっと素晴らしいものが聴けるかもしれません。
ただ、内部の状況を多少は知っている人間からしますと、必死に努力してきたスタッフの脱力感、そして、いくつもの企業の損害の大きさが気になります。現場は大変なことになっているだろうと思います。かかわっているのは大企業だけではありませんので。
投稿: 樋口裕一 | 2011年4月18日 (月) 08時16分
何か事があると、音楽がその巻き添えになることもあるのですが、却って音楽の力が再認識されるのも、そういう機会であるのも事実のようです。
私のアマチュア仲間うちでも、音楽で被災地の力になりたいという声があり、その一方で、いや、下手な演奏(慰問演奏)は聞かせるべきではない、という別次元の話になったりしますが、そのなかでも、音楽を職業としているプロたちの仕事を、素人の(慰問)演奏で奪うべきではない、という一寸こんがらがったような議論も聞かれました。
そんななかで、メータの「第九」(N響ほか)の演奏は、チャリテイ演奏の枠を超えた素晴しいものでした。
オケの演奏といっても、来日中のある外国オケは、震災と同時に風評に怯えて慌てて帰国してしまい、その国の大使館の人は、もうそのオケの面倒はみない、と言って怒ったという話があります。
風評といっても、外国通信員の報道に頼るほかはない外国人(やオケ)は、判断の拠り所がないわけですが、何故東京での演奏までもが忌避されてしまうのでしょうか。
過剰報道を嘆く前に、例えば、外務省を通じて、正確は情報発信を心掛けるのが筋、ということになるのでしょう。
しかし、いくら正しい報道があっても、それを聴く耳持たないというのが風評の実体でしょうから、やはり時間の経過を待つしかないのかもしれません。
今度の災害では、日本人の冷静さ、忍耐心、相互扶助精神などが、外国から高く評価されている一方で、同じ日本人が風評被害等を増幅しあっているという矛盾した姿が明らかになっております。
一人音楽界だけが、その埒外で安穏と過すことが出来ないのも仕方のないことなのかもしれません。フォル・ジュルネ・オ・ジャポンの大幅縮小もその一環です。
しかし、何かことがあると、特にクラシックの人たちは、すぐ国や公共の援助があってしかるべき、という訴えをしがちですが、では邦楽、ポピュラー、そして絵画、演劇、お笑い、工芸等の方面ではどうなのでしょうか。
芸術/芸能活動は、その収益の一部が義援金に回る、という形でなら認められるという風潮ですが、芸術/芸能活動それ自体だけでも人々の心の支えになる、という形もあっておかしくないとも思われます。
クラシック音楽活動をややコミック的に描く「のだめカンタービレ」という劇画やテレビ作品がありますが、これとても漫画的な描写の反面、芸道の厳しさが却ってリアルに表現されている面があって感動させられることがあります。金銭だけでは評価されにくい世界のようです。
この劇画という身近な世界にも感動がある、ということから考えさせられるのですが、クラシックが何か高尚で、その感動もややお高いと見られがちなところに、少し問題がありそうです。クラシックはもっと身近なものではなかったのか。
例えば、芸術活動への助成金が減らされそうだという時に、東京の芸術劇場界隈で聞かれた話。----- 芸術劇場へ向かう音楽愛好家たちは、途中道すがら、商店街等はただ通り過ぎるだけで何も地域に貢献してくれない、芸術劇場が潰れて更地になってくれたほうが、まだしも地域の為になる。
こういう声をどう受けとめたらよいのでしょうか。
上野の東京文化会館界隈には動物園、美術館/博物館、レストラン、商店街、芸大、西郷さんの銅像、等があって、音楽はそうした人間臭い世界の一員とし生存しています。
聞いた話では、パリには、そうしたコンセプトを持つ地域開発を行った例があるそうだし、近くは、目黒区では都立大学移転後の跡地に、そうした総合的地域作りを目指した計画があるとか。
芸術支援もこうした大きな地域計画の一環として考えられてこそ初めて庶民生活と繋がった実体を持つもの、という考えがあっていいと思われます。
ある都市では、地域振興を考えた都市計画として、まず大きな物産提示場を作って周囲に住宅地等を配したということです。
それで、その物産提示場自体は赤字だそうですが、その集客効果によって、周辺地域は繁栄する結果が得られたそうです。
最初から局地的な損益ばかりに目を奪われていては、大きな獲物を逃がしてしまうことになるという教訓でしょう。
禍い転じて福となすーーー 今回のフォル・ジュルネ・オ・ジャポンのことも、こうした文脈のなかで考えてみれば、また新しい展望や感慨が得られるいい機会なのかもしれません。
投稿: 権兵衛 | 2011年4月19日 (火) 14時20分
権兵衛様
コメントありがとうございます。
ナントのラ・フォル・ジュルネは、まさしく地域で暮らす庶民に生活に基づいた音楽の楽しみを提供し、それによって文化を広めていくという雰囲気があります。そのような点が日本では希薄な気がします。日本のラ・フォル・ジュルネのほうが優れている面も多いのですが、その点はこれから日本が身につけていくべきものではないかと思っています。今回の件が、そうしたことを考えるきっかけになるといいと思います。
投稿: 樋口裕一 | 2011年4月21日 (木) 00時02分