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メトロポリタンの「ドン・カルロ」はルイジに少し不満を抱いた

 6月15日、NHKホールでメトロポリタンオペラ日本公演「ドン・カルロ」を見た。もちろん、とてもよい公演だった。最近ではあまり見られない5幕版だったので、うれしかった。だが、多少不満は残った。

 そもそも、これはカウフマン+フリットリ+ボロディナが歌うということで最大の期待をしていたのだったが、この三人がキャンセルやらほかの役に回されるやらで、多少小粒な代役になってしまった。

 正直言って、第一幕はあまりよくなかった。ファビオ・ルイジの指揮も歌手と息が合っていない印象を受けた。エリザベッタを歌うマリーナ・ポプラフスカヤはまずまずだが、ドン・カルロを演じる韓国人歌手のヨンフン・リーへの声が出ていなかった。

 が、第二幕以降、徐々に良くなった。ヨンフン・リーは最後の場面では声も出るようになり、ほかの大歌手たちに一歩も引けを取っていないという印象を受けた。韓国パワーたるやおそるべしだと思った。

 ロドリーゴを歌うディミトリ・ホロストフスキーとフィリッポ2世のルネ・パーペはさすが。聴かせどころでは感動させてくれる。とりわけ、パーペの声の美しさと声量には圧倒される。ちょっと不満だったのが、エボリ公女を歌うエカテリーナ・グバノヴァ。もう少し迫力ある悪女であってほしい。宗教裁判長のステファン・コーツァンにももっと強いものがほしかった。

 だが、歌手はしっかりと役割を果たし、水準を超えた演奏だった。ジョン・デクスターの演出も、豪華絢爛で、まるで絵画の場面のよう。もちろん、極めてオーソドックスで安心して見ていられる。

 私が最も強く不満を抱いたのは、指揮だった。以前、ウィーン交響楽団をルイジが指揮したブラームスの1番を聴いて、ロマンティックな盛り上がりの不足に不満を抱いたことがあったが、その時のことを思い出した。ルイジには、このようなオペラは向いていないのではないか、少なくともルイジが指揮をすると、この種のオペラは私の好きなものにならないのではないかと思った。

 ルイジが指揮すると、育ちの良い精緻で室内楽的な音が鳴り響く。もちろん、それはそれで美しい。ドラマティックな部分ももちろん、透明で絶妙のバランスの取れた音になる。このような音楽を好む人がたくさんいるだろうことは承知している。第一幕は息が合わない気がしたが、徐々に合うようになって、最後は見事なバランスだと思った。オーケストラの性能も素晴らしい。

だが、それだと、第3幕の公開処刑のおぞましい場面でも、おぞましさが伝わってこない。ここでは、吐き気がしてくるようなおぞましさが舞台を充満してほしいのに、少しもそうならない。美しい音が鳴り響いている。

そして、私の大好きな第4幕。パーペの歌は立派なのだが、その絶望的な孤独感が伝わってこない。フィリップ2世と宗教裁判長の重くて低い声での残虐なやり取り、エボリ公女の自分の悪を激しく悔いる思い、そのような激情も伝わらない。一言で言って、どす黒い悪の世界がない。私がヴェルディのオペラのなかでもっとも「ドン・カルロ」に魅力を覚えるのは、フィリップ2世、宗教裁判長、エボリ公女という悪のトリオがいて、それなりの論理と情熱で世界を成り立たせているためなのだが、それが薄い。

 カウフマンやフリットリ、ボロディナが歌っていたら、もっと違った印象を受けたかもしれない。が、打ちのめされるような感動は覚えないまま、NHKホールをあとにした。

  これで、今回のメトロポリタンオペラの公演3本をすべて見たことになる。キャンセルが相次ぎ、どうなる事かと思った今回の公演も十分に優れたものだったと思う。日本公演を敢行してくれたゲルブ総裁、そしてジャパンアーツに感謝する。こんな時だからこそ、このような公演が必要だったと思う。もちろん、ネトレプコとカウフマンという最大の目当ての歌手が来日しなかったのは残念だったが、事情が事情だけに仕方がない。そんな中でも改めて、メトロポリタンのレベルの高さを見せつけてくれた。私の人生の中で最も印象に残るオペラ来日公演になったことは間違いない。

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コメント

以前コメントさせていただいた崎田です。
6/18、メトの『カルロ』最終公演を聴きました。外来オペラの公演は、短期間の内に同じ曲を、いくつかの演目を交代しながら集中的に行いますから、ソリストは最終日に向けて無意識に声をセーブする傾向があります。これは手抜きとかいった悪意からではなく、最初からエネルギーを全開すると、中日辺りからスタミナ切れをおこすかも知れないからと言えるでしょう(もちろん初日を聴いても満足出来るものもありますが)。ですから、この様な公演で一曲につき一回だけ聴く場合は、事情が許す限り最終日に行く様にした方が良いでしょう。そこで今回の代役トリオですが、もし出来が悪かったら容赦ないブーイングを浴びせるつもりでいましたが、最終日という事でみんな思い切り歌ったのか僕には予想外に素晴らしいものに思え、カーテンコールの際は惜しみなくブラボーと激しい拍手を送りました。
最初から予定されていたソリスト達の内、確かにパーペは、例えば1998年にNHKホールでフィリッポを歌った故ニコライ・ギャウロフ(当時既に69歳の高齢でしたが、日本で歌うに際して勉強し直してくれたといい、フィリッポを当たり役とするギャウロフの名に恥じない超名演を聴かせてくれました)に比べるともの足りないかも知れません。しかし元々ワーグナーを得意とする歌手ですからイタリア・オペラはまだ研鑽の余地がありますが、少なくとも2009年のスカラ座来日時の同役よりも出来栄えは素晴らしいと思いました。やはり昨日が最終日だからでしょうか。彼のフィリッポは、これから磨きをかければ先輩の名バスに負けないものになるでしょう。
一方ホロストフスキーのロドリーゴは、これはもう文句なしでしょう。ポーザ候の高潔な人物像を表現するに相応しい声の持ち主で、最期の「ロドリーゴの死」は大変感動しました。ついでですが、宗教裁判長役のコーツァンはまだ若いにかかわらず、不気味なキャラクターを一応は出していた様に思いました。『ドン・カルロ』の主要人物で、スペイン国王の一家は孤独な苦しみを抱える人ばかりですが、自分の極悪非道を正義と信じて疑わないこの宗教裁判長と、はっきりした目的に向かってひたすら進み、ついには自らを犠牲にする事も厭わないロドリーゴは対極的ですね。
さてルイジの指揮ですが、樋口先生のおっしゃる通り、確かに『カルロ』ならではのスケールの大きさには欠けており、こぢんまりとまとまったものだった思います。この指揮者がヴェルディのオペラを振るなら、現時点では『仮面舞踏会』以前が良さそうですね。しかしながらヴェルディの音楽に必要なヒューマニズムは一応表現しており、丁寧な音の処理も良く、この『カルロ』よりずっと前には『リゴレット』を作り、後には『アイーダ』という大作を世に送った作曲家である事を実感しました。ルイジのイタリア・オペラにはこれからを期待したいと思います。
『カルロ』の中でも特に重要な見せ場であるアウト・ダ・フェ(異端者火あぶりの場)ですが、原作者シラーもヴェルディも知る筈がないとはいえナチのホロコーストに匹敵する残虐行為を教会が実際に行っていたという事実からすれば、この場の音楽はグロテスクなものにした方が相応しいでしょう。しかしヴェルディは、この場ではそのおどろおどろしい雰囲気よりも、最終的には天の声が歌う「かわいそうな人達」である死刑囚の魂の救済を表現したかったのではないでしょうか。そしてそれが、カルロが聖堂の奥に消えるという唐突な結末をも暗示している様にも考えられます。強いて挙げれば天の声と、この場の初めで坊主どもが歌う「彼らがいまわの際に改心すれば魂は救われるだろう」が同じメロディーという事実が控えめなおぞましさを示してはいますが、坊主からはぞっとさせられ、天の声には生きている者も救いを感じる点が違います。ですので、この場は吐き気を催す様な音楽として表現する事自体が無理と思います。生意気申してすみません。次いでながら更に書きますが、オペラのキャラクターでぞっとするのはプッチーニの方に多く、『マノン・レスコー』でのジェロンテ・ド・ラヴォワール、そして何といっても『トスカ』のスカルピア男爵でしょう。プッチーニについてはメトの『ボエーム』を聴いたら、そちらにコメントさせていただきます。

投稿: 崎田幸一 | 2011年6月19日 (日) 10時58分

崎田幸一様
コメントありがとうございます。
1回だけなら最終日というのは賢い選択だとは思うのですが、例えば、今回の「ルチア」では、初日だけがヴィラゾンでした。このようなことがあると、やはり初日を狙うべきかなと思うのです。
火刑の場、やはり私はおぞましさがあってこそ、ドン・カルロ+ロドリーゴ+エリザベッタの純真性がいっそう際立ち、天への祈りが真摯なものになると思っています。実は私は、イタリアオペラはあまり聴きませんので、あまり偉そうなことは言えないのですが、これまで聴いた幾つかのCDで、そうしたものを聞きとってきた記憶があるのですが。そして、第四幕、もっと絶望と怒りと狂信的なキリスト教の暗黒の世界が渦巻く音楽なのだと思っています。
ただし、誤解のないように繰り返しますが、ルイジは今でも好きな指揮者です。おっしゃる通り、ヴェルディは「仮面舞踏会」以前のほうがよさそうですね。

投稿: 樋口裕一 | 2011年6月20日 (月) 00時18分

前回のコメントについて補足させていただきます。聴きたい歌手の日にチケットを買うという選択肢は、前回触れ忘れましたが、僕もその通りには違いありませんでした。今回のメトの来日公演の内『ルチア』は諸事情により残念ながら行きませんでしたが、エドガルドが初日に限りヴィラゾンになったという話を知って、その日行けるなら行きたいとは思いました。古い例を挙げれば、メトの前々回の来日公演で『サムソンとデリラ』が上演された時は、サムソンは全公演ドミンゴが歌い、デリラは最初の2回はボロディナだったので、2回め、つまりボロディナが歌う最終日を買いました。その後、この曲自体の最終公演チケットを買っていた知人の都合が悪くなり代わりに行きました。デリラは誰だったかは忘れましたが、やはりボロディナの日に聴いて正解でした。ドミンゴは2回めも最終日も、どちらとも悪くありませんでしたから、前回書いた事が絶対正しい訳ではありませんね。
『ドン・カルロ』についてですが、確かに宗教裁判長とフィリッポの二重唱は本当に不気味さを感じさせる演奏でなければ、それだけでこのオペラを聴く意味はなくなるでしょう。バス同士のデュエットという異様性はもちろん、オーケストレイションの効果も素晴らしいですね。最初はオーケストラも低音楽器だけ(チェロよりもコントラバスを強調した方が、よりぞっとしますね)を鳴らし、裁判長の感情が高まるに従って楽器が増え、ついにフィリッポを罵倒するところで最強音に達するという管弦楽処理は、ヴェルディの天才性が見事に表れています。
アウト・ダ・フェについても、やはり演奏次第では恐ろしい印象がより強くなるのもあるかも知れませんね。例えば、今となっては叶わない事ですがシノーポリの指揮で聴く事が出来れば、スコアを読む時は眼光紙背に徹し、作品の背景にあるものは徹底して咀嚼した人でしたので、この火刑の場と、次の幕における裁判長とフィリッポのデュエットは特に素晴らしいものになったであろうと勝手に想像します。

投稿: 崎田幸一 | 2011年6月20日 (月) 19時32分

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