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イザベル・ファウストのバッハの無伴奏のリアルな音

 730日、王子ホールでイザベル・ファウストのバッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータを聴いた。ファウストは昼間と夜で全6曲を演奏したが、残念ながら、私は大学で教授会があったために昼間は抜けられず、夜の部のパルティータの3番とソナタの3番、そして最後にパルティータの2番だけを聴いた。

 一言で言って素晴らしい演奏!!

 初めは少しびっくりした。以前、このヴァイオリニストを聴いたイメージで、もっと気まじめに鋭く切れの良い音でびしびしと弾きまくるのではないかと思っていた。が、むしろ余裕をもった音。しかも、特にパルティータにはやや草書風のところがある。そのため、ほんの少し遊びのようなものが感じられて、実に心地よい。一つ一つの音の粒立ちが最高に美しく、完璧なリズムで刻まれるが、それが少しも堅苦しくない。

もちろん、これ見よがしにテクニックを示すわけではない。ドラマティックに盛り上げようともしない。こけおどしも一切なし。だが、リアルな音によって、そこにしっかりとバッハの世界が築かれていく。女性ヴァイオリニストにありがちな鬼気迫る余裕のない音楽でもない。もっと理性的でもっと客観的。まさしく本格的。

 ソナタの演奏はパルティータに比べると、やや気まじめで暗さを強調しているように思えたが、それでも強烈に弾きまくるのではなく、音の積み重ねを大事にする。3つの曲のすべての終楽章がとりわけリアルだった。「シャコンヌ」は言葉をなくすほど。

 大迫力で宇宙的なスケールの演奏ではない。無理やりスケールを大きくしようというのではなく、しっかりと組みたてている印象。だが、鳥肌が立つほどの音のリアルな現出が何箇所かあった。まるで、音そのものが生きているかのように感じられた。こんな感覚にとらわれることはめったにないが、久しぶりにそれを感じた。

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フィルハルモニア多摩の演奏、みごと

 723日、稲城市立iプラザホールで、フィルハルモニア多摩第9回定期演奏会を聴いた。すべてベートーヴェンのプログラム。指揮は音楽監督の今村能さん。

フィルハルモニア多摩は、昨年初めて聴いて以来、その実力に驚き、時間の合う限り聴くことにしている。私は多摩地区に暮らし、多摩地区で仕事をしているので、「多摩フィル」は私たちの誇る実力派のオケとして大事にしていきたいと思っている。私たちのゼミでも、この多摩フィルと協力していくつもりだ。

初めに、多摩フィルハルモニア合唱団が加わって、ベートーヴェンのカンタータ「海の静けさと幸福な航海」。この曲、実演は初めて聴いた。なかなか面白い曲。よく知っている曲ではないので、正確なことは言えないが、初めのころ、ちょっと合唱とオケの音が合わない感じだったが、あれでよかったのだろうか。途中から迫力が増してきた。ただ、これからもっと盛り上がっていくのかと思っていたら、意外と早く終わってしまって、ちょっと残念。

 次に、このオーケストラのコンサートミストレスである高原久実さんのソロでベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲。とても好感のもてる誠実な演奏。テクニックもしっかりしている。が、高原さんは遠慮しすぎて、まるでオーケストラの一員であるかのように弾いている。もっとめりはりをつけ、大きな身振りで、音楽をリードしてほしい。なにしろ、この曲の主役は高原さんなんだから!せっかくのテクニックと美しい容姿を持っているのだから、もっとそれをひけらかしてほしい。音楽が謙虚になりすぎていた。

 後半、交響曲第5番。これはまさしく名演だった。今村さんの指揮が実にいい。かなり速めのテンポでぐいぐいと推進していく。これまで今村さんがフルオーケストラを指揮したのを聴いたのは、ラヴェルやプーランクなどのフランス音楽や、プッチーニの「ラ・ボエーム」などだった。それらの音楽のある種の軽みや精妙さ、そしてわくわく感に私は感嘆したのだった。ドイツ正統派の音楽は今回が初めてだった。が、実はドイツものこそ、今村さんが得意とする領域なのだろう。やや重めの、古楽的な音がする。フランス音楽の時のように透明で精妙な音ではなく、もっと深みがある。構成ががっしりしていて、揺るぎがない。それなのに、リズムがよく、わくわく感がある。最後、どんどんと盛り上がっていく。

 あまりにケレン味がありすぎるのも困るが、あまりに気まじめなのも面白くない。ところが、今村さんの指揮は、絶妙な具合にケレン味がある。少なくとも、ぴったりと私の趣味に合う。必然性のある芝居っ気があるために、音楽が必然的にドラマティックになる。しかも、その芝居っ気に気品がある。ユーモアのあるお人柄のせいか。

 オーケストラについては、ところどころで小さなミスは感じたが、コンサートマスターの小森谷巧さんがリードして、実に見事。在京の名のあるオーケストラにひけをとらない。

 実は、数日前から、わきの下に湿疹ができて、痒くて仕方がない。病院で診てもらったが、今のところ原因不明。数年前にも同じような痒みに襲われ、それが半年ほど続いたことがある。湿疹があちこちに広がり、それが股間に至ったときには叫び声をあげたいくらいの痒さだった覚えがある。今年の夏、ザルツブルク音楽祭に行く予定なので、それまでには直しておきたい。あの時のような股間の痒みに悩まされながら、音楽祭に行くような目にはあいたくない。

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新日フィルの「トリスタンとイゾルデ」に不満を覚えた

718日、朝起きて、なでしこジャパンの世界一を知った。私は特にサッカー好きというわけではないが、なにはともあれ、久しぶりのめでたい話だ。イチローが不振で、大好きな落合監督率いる中日も負け続け、長年のファンである横浜ベイスターズも最下位を低迷しているなか、まさしく快挙! いちおう試合をビデオに録画していたので、出かける前にざっと見た。すごい試合だった!

午後、すみだトリフォニーホールに出かけて、クリスティアン・アルミンクの指揮、田尾下哲の演出、新日本フィルによる「トリスタンとイゾルデ」、コンサート形式の公演をみた。

   一言でいえば、主役格についてかなり不満。それ以外ではかなり良かったと思うのだが、やはり主役がよくないと、オペラは成り立たない。

  まず、イゾルデ役のエヴァ・ヨハンソンがよくない。一昨日、イゾルデを歌ったばかりだからきっと疲れているのだろう。絶叫風の歌い回しで、声の処理がかなりザツ。音程も不安定。しかも、声が濁っている。声が大きいのはよいことだが、このような不安定な声では意味がない。「愛の死」の部分は特に辛かった。

 トリスタン役のリチャード・デッカーは、声はきれいで、歌い回しは丁寧なのだが、声が通らない。しばしばオーケストラにかき消される。だから、第二幕の二重唱はまったく二人の声が溶け合わない。二人が一つになることがテーマとなっているこの幕がこれではまったく感動できない。

 もう一人、かなり不満を抱いたのが、指揮のアルミンク。かなり速めのテンポで、陶酔もドラマも感じられない。少なくとも、私のようなオールドファンとしては、「こんなものはワーグナーではない」といいたくなる。もう少し余裕があれば、不調の主役二人を上手にフォローできたと思うが、そのような様子もなかった。とはいえ、初めてのワーグナー全曲体験ということなので、やむを得ないだろう。今後を期待したい。

   そんななか、ブランゲーネを歌う藤村実穂子は圧倒的。強靭な声で、ビシッと決まっている。一人でワーグナーの世界を作り出している。世界最高のブランゲーネ歌いだと思う。ブランゲーネが主役二人を完全に食ってしまっていた! トリスタンとイゾルデが侍女に食われてはいけない! ただ、不定形で不安定なこのオペラが、このようにがっしりと安定しているのも、ちょっと違和感を覚えた。

そのほか、マルケ王のビャーニ・トール・クリスティンはとてもよかった。ちょっと不思議な声の持ち主だが、いかにも王様の貫録がある。クルヴェナルの石野繁生、メロートの桝貴志も主役以上の活躍だった。

  オーケストラも微妙な音をしっかり出して不満はない。新日フィルの実力を見せてもらった。弦も実に美しく、管楽器も気になるところはまったくなかった。

 CGを用いた動画を背後に映し出す演出も面白かった。第一幕は船であることを強調し、揺れを感じさせた。私の考える「トリスタンとイゾルデ」にピッタリ。第三幕は、月から見た地球が現れる。世界の一体性を暗示していると思う。演出意図については全面的に賛成する(拙著「ヴァーグナー 西洋近代の黄昏」を読んでいただければ、私の「トリスタン」解釈をご理解いただけると思う)。

「トリスタンとイゾルデ」は私の最も好きなオペラだ。だから、前日から体調を整えて、大いに期待して出かけたのだった。それだけに残念な気持ちで帰宅した。

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加納悦子リサイタル、脱原発のことなど

7月16日、津田ホールで加納悦子のメゾソプラノ・リサイタルを聴いた。二期会ゴールデンコンサートin津田ホールの第33回のコンサートにあたる。ピアノ伴奏は長尾洋史。曲目は、ベートーヴェンの「アデライーデ」に始まり、ハイドン、メンデルスゾーン、ベルク、シェーンベルクに至るドイツ歌曲が中心。

一言でいって、素晴らしかった。

「アデライーデ」の最初の一声を発した途端、会場の空気が一変したのを感じた。しっかりとした強い声。音程もいい。歌い回しも見事で、細かい処理にも神経が行き届いている。そして何よりも、声による演技力が素晴らしい。第二部では、「ヴォツェック」のマリーの歌が演奏されたが、品が悪く、人生に不満を持った女マリーが声の力で現れた。キャバレーソングでは、色気にあふれた女性が現れ、メンデルスゾーン(「新しい恋」と、アンコール「歌の翼に」)では、格調高く気品にあふれた姿が現れる。大向こうをうならせるというよりは、しっかりとした歌でしみじみと味わいを聴かせてくれる。まさに、ドイツリートにふさわしい歌唱。

私は、とりわけベルクの初期の歌曲に惹かれた。ずっと昔、レコード(誰の演奏だったのかよく思い出せない)で聴いていた曲だったが、初々しい抒情と鮮烈な音に酔った。長尾洋史のピアノも美しい。後半の初めにベルクのピアノソナタ作品1が演奏されたが、これも素晴らしかった。情緒を排して音の世界をダイナミックに構築しているように見えて、その音の積み重ねの中に抒情が見えてくる。これがベルクの醍醐味だと思った。

それにしても、日本人にこれほどリートを歌える人がいるというのは、驚異だと思った。加納さんのリートは初めて聴いたが、もっと演奏してほしいものだ。NHKテレビが録画していたので、そのうち放送されるのだろう。

 

 今週を少し振り返っておく。13日には新潟東高校に行って、小論文の書き方について講演。冷房のない体育館で900人の全校生徒を前に話した。暑いし、全校生徒が体育館の床に座り込んでの講演なので、きっと会場がざわつくだろうと思ったが、とても真剣に聞いてくれた。話しやすかった。

 ところで、13日、自宅に戻って、管総理の「脱原発」会見を知った。

 私はこの発言には賛成できない。もちろん、私は段階的に原発を廃炉にしていくことに賛成だ。そして、それはできるだけ早く実現してほしいと思っている。だが、これは、首相が自分の延命のために宣言するたぐいのことであってはならない。

 原発を続けるか、それとも脱原発をめざすかは、原発問題に限らず、これからの日本のライフスタイル、社会構造の在り方、まさしく時代のパラダイムを変えるものだ。脱原発を選択するということは、これまでの経済的成長重視、効率重視の社会からの脱却を意味することになるだろう。つまり、低成長社会になり、不便を忍ばなければならないことになりかねないのだ。一つ間違えば、先進国からの転落につながりかねない。総理はそれだけの覚悟を持って語っているのか。国民はそうしたことをイメージできたうえで賛成・反対を考えているのか。ムードでなく、本当に自分の選択ははっきりしているのか。どのくらいしっかりと将来像をイメージしているのか。

 それを明確にしたうえでなければ、あわてて決めるべきではない。ある程度の強引さは必要であるにしても、今の状況で唐突にこの問題を取り上げるのは、混乱に乗じていると言われても仕方がないだろう。日本の復興、被災地の復興は一刻を急ぐ問題だが、原発を存続させるかどうかは、時間をかけるべきものだ。少なくとも、閣僚の合意を取り付けてから、しっかりとした一歩を進むべきだ。

 事実、今日になって、管総理は「脱原発は私的な意見」だという一歩後退した発言をしたという。拙速のゆえに、脱原発そのものの方向が否定されなければいいが・・・

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オリーマンスの「冬の旅」のこと、ニコロ・アマティのこと

 今日(7月12日)、武蔵野市民文化会館小ホールで、トーマス・オリーマンスのバリトン、斎藤雅広のピアノで「冬の旅」全曲を聴いた。1977年生まれというから、まだ30代の若い歌手だ。きれいな声、声量も音程も申し分なし。表現力もありそう。ピアノの斎藤さんもいつも通り見事な伴奏。とてもよい演奏だったが、圧倒的な感銘を受けるほどではなかった。

 前半、ピアノと微妙に合わない感じだった。「菩提樹」が特にしっくりこなかった。そのため、ちょっと雑な感じがした。斎藤さんは合わせようとしているのだが、オリーマンスが勝手に突き進んでいくように見えた。

 後半、かなり良くなったが、歌に一本調子なところを感じた。フォルテになるとき、声を張り上げる。大きな声も実に美しいので、声の威力を発揮させようとするのだろう。だが、そうなると、せっかくの微妙な心が壊れてしまう。それに、シューベルト特有の悲しみ、孤独感、寂寥感が現れない。むしろ、明るめの曲のほうに魅力を覚える。まだまだシューベルトの世界を醸し出すには若すぎる気がした。確かにシューベルトは30歳前後でこの曲を作曲したのだが、これを歌うにはかなりの人生経験がなくてはならないようだ。

 オリーマンスという人、稀に見る逸材であることは間違いないと思う。あとほんの少しのテクニックで、多くの聴衆を酔わせるのだと思う。ただし、きっとその「ほんの少し」がかなり難しいことなのだろう。

 ところで、昨日(7月11日)は、実り多い日だった。いくつかの出版社関係者との打ち合わせや食事会をしていくつかの本の企画を進めた。その間に、帝国ホテル内のエッフェという工房にお邪魔した。仲介してくださる人がいて、ニコロ・アマティ作のヴァイオリンの名器を見せてもらった。ストラディバリやグァルネリ以上の評価を得ている名工のヴァイオリンだ。小ぶりで気品にあふれ、見ただけでも最高の芸術品。

ヴァイオリニストが弾くと素晴らしい音を奏でるのだろう。このような名器を触るなんて罰が当たると思いながら、私もちょっとだけ開放弦で鳴らしてみた。やはり、私では百万分の一もその価値を出すことができない。やはり、弾くべき人に弾いてほしい。といいつつ、やはり名器を触った感覚は忘れがたい。

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最近、気になっていること

・イチロー選手の調子が悪い。私は時間のあるとき、しばしばネットで大リーグの途中経過や結果を調べる。イチロー選手が気になるからだ。今年は絶不調の時期があったが、その後も調子に乗れない。かつてのように破竹の勢いで打ち始めるのを待っている。

 私は子どものころから、かなりプロ野球が好きだ。子どもの頃はもちろん巨人ファンで、長嶋が大好きだった。私が小学校1年生に上がった時に、長嶋が巨人軍に入団した。創刊時からの少年サンデー、少年マガジンの愛読者だった私は、マンガを通して野球を楽しみ、巨人の情報を仕入れた。川上哲治の晩年も記憶にある。数年前までは年に何度かは球場に足を運んでいた。今も、テレビで野球を見ることが多い。

 大人になってからはむしろアンチ巨人になったが、その中でとびきり熱烈に応援してきたのが落合(現、中日監督)とイチローだった。二人の孤高の職人といったところが実にいい。それだけに今季の不振は心配だ。もちろん、私が心配しても仕方がないのだが。

・以前は、イタリアオペラはほとんど見なかった。海外のオペラがやって来ても、イタリアオペラは自分には関係ないと思っていればよかった。だから実際には、来日オペラの演目の3分の1ほど見ていればよかった。ところが、オペラ関係の本を書くなどしているうち、そうも言っていられなくなった。プッチーニはまだ大いに苦手だが、それ以外ならイタリアものでも見るつもりになっている。が、そうなると、経済的に追いつかなくなった。

 数日前、NBSから2012年から13年にかけての3つの団体のオペラの来日案内が来た。全8演目のロイヤルシートが何と68万円! S席で43万円。できるだけ良い席で見たいが、さすがにこんなにオペラにお金を使ったら、家族に何といわれるかわからない!

・「探偵ナイトスクープ!」は今週もおもしろかった。タイムカプセルを見つけて、そこに書かれていた「お姉さんがほしい」という言葉を実現するべき、自分のお姉さんを貸し出すというエピソードが最高だった。見ず知らずの「姉」と「弟」のやり取りがいい。淡い恋心にも似た、「姉」願望。実によくわかる。

家族は誰もこの番組を喜ばないので、私は一人で笑い転げながら、そして涙を流しながら見た。

 背後からの視線を感じたことがないという相談者が、数十人から見られているのを本当に感じないのるかという実験もおもしろかった。昔の友人に、突然「誰かの視線を感じる。きっと誰かが俺を見ている」と言い出すような変な奴がいた。彼は「あの女は俺がじっと見つめていても、まったく気付かないような鈍感な女なので、いやになった」などといっていたこともある。もちろん、私は背後の視線など感じたことがないので、この実験は楽しんだ。

最後に、相談者は背後の視線に気づいたわけだが、それは、もしかしたら物音のせいだったのではないか。数十人が物音をたてずにいるのは難しい。音を感じて背後を振り返るくらいのことはあるだろう。その点についても検証してほしかった。

・それにしても暑い。外に出るのがつらい。できるだけ外に出ないで、家で原稿を書き、車で大学に行って、そこでもできるだけ暑くないところにいるようにしている。大学も教室、研究室とも、室温は28度に設定されているが、大勢を相手に大声でしゃべっていると、28度は暑すぎる。しかも、電気の使い過ぎのときなど、教室のエアコンが強制的にストップするようだ。まさしく試練の夏。

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松本復興相辞任について思うこと

 今、京都にいる。京都は思ったほど暑くはない。逆に言えば、東京がかなり暑いために、暑さにすでに免疫になっているということなのか。

 午前中、新幹線で京都に移動中、朝日新聞社から取材依頼があった。京都に到着してから、こちらから連絡し、電話で松本復興相の辞任(私は8時過ぎに自宅を出たので、このニュースは知らなかった)に至るまでの暴言の数々についてのコメントを求められた。15分ほどにわたって、話をした。

 京都で買った朝日新聞75日付夕刊には、倉田真由美さんとともに私のコメントが掲載されているが、首都圏ではどうだろう。取材を申し込んできたのは大阪支社の方だったので、首都圏には出ていないのかもしれない。それに、関西版の私のコメントも紙面の都合上、短くまとめられている。もちろん、短くされたことはやむをえないが、私としてはもう少し言いたいことがあった。

 このブログにもう少し詳しく私が電話で語ったことをまとめておく。

 私が松本復興相の発言を聞いて思ったのは、おそらく多くの人と同じように、「傲慢だ!」「何様のつもりだ!」ということだった。

 まるで、先進国の人間が途上国に行って援助してやろうという態度ではないか。敗戦後の日本を復興させようというGHQはこのような態度だったのだろう。つまり、自分が大災害の当事者であるという意識がない。他人事だと思っている。自分はそこに所属していない孤高の存在だという意識を持っている。自助努力の意識のない惨めな被災者を軽蔑し、自分がそれよりも上位にそびえていると思っている。だから、県知事が当然、応接室で前もって入って出迎えるべきだと考えている。

 松本復興相が言った「民主も自民も公明も嫌いだ」という言葉もしばしば紹介されているが、それも、そのような意識を示している。「私は、ほかの人たちとは違う。民主や自民や公明に所属し、その中でうごめいているような人間ではない。そのような当事者ではない。もっと上にいる人間だ」、そんな意識がこの言葉にも表れている。

 きっとこの人はお坊ちゃんとして育ったのだろう。だから、このような選良意識を持つ。が、鳩山前総理などのような最高レベルのお坊ちゃんではない。どこかしら劣等感がある。だから、自分の優位を他者に見せ付けないと気が済まない。ほんとうのお坊ちゃんであれば、わざわざ他者に対して自分の強さを見せ付けたりしないのだが、この人はそれをしないではいられない。

 そして、九州的べらんめえ調で親分肌を見せようとする。センスのよくない冗談を言ったり、すごんで見せたりする。ほかの人と一味違うエリートを演じようとする。それがカッコいいと思っている。

「B型の九州男児」だということを暴言の言い訳にしているが、それもまた極めて不愉快。かく言う私も「B型の九州男児」だが、まさか、このような状況であのような暴言を吐いたりしない。いや、そもそもそのような被災者無視の意識を持ったりもしない。

 せっかくの復興相がこのような残念な人間であったこと、そしてそれが露わになって辞任し、リセットされてしまったこと、本当に残念だ。いったいいつまで、国民を置き去りにした愚かな政治が続くのだろう。

 私はそのようなことを電話で話したのだった。

 今日一日、京都に泊まって、明日、東京に戻る。

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20数年ぶりの休肝日、そして、ラ・プティット・バンドのコンサート

 私は大酒のみではない。酒好きでもない。人と一緒に飲みに行くということも、ほとんどない。どうして世の中に酒好きがいるのか、常々不思議に思っている。

 が、そうでありながら、実は30年近く、私は一日たりと酒を欠かしたことがなかった。もっぱら寝酒として、私には酒がなくてはならなかった。

 私は大雑把な性格であり、何をしてもザツなのだが、かなり神経質なところがあるらしく、若いころから寝つきが悪い。10代から30代にかけて、布団に入っても一睡もできずに朝を迎えたということがよくあった。そうでなくても、ほとんど毎日のように、1時間、2時間眠れずに煩悶していた。

 そうしたころ、自分がアルコールにいたって弱く、酒の類を飲むとすぐに眠くなることを発見した。そして、30代後半から、毎晩、必ずウィスキーやブランデーや日本酒や焼酎を少量飲んで寝ることにしたのだった。それが習慣になってしまった。

 ところが、最近になって、年齢とともにだんだんと朝早く目が覚めるようになった。このごろ、朝の7時まで寝ていられることはない。5時過ぎには目が覚めてしまう。1時ころ寝ても、やはり5時ころに目が覚める。そこで、翌日、コンサートがあったり、長時間の車の運転をする予定があるような場合には、もっと長く寝るために、枕元に酒を置いて、朝に再び酒を飲むようになってしまった。

しかも、いくら酒に弱いといっても、20年以上にわたって毎日飲んでいると、多少は強くなる。だんだんと酒量も増えてきた。さすがにこれはまずいと思い始めた。これでは、酒依存の生活にほかならないではないか。

 そこで、決意した。そろそろ酒なしで寝ることにしようと思ったのだ。もしかしたら、酒なしでも寝られるようになったのではないかと思った。ここ数日、幸いなことに、かなり疲れている。そこで、夜の寝酒を何日かやめてみた。

すぐには寝付けなかったが、それでも思ったよりも早く眠ることができた。ところが、やはり、朝の4時か5時に目が覚める。そこで、また酒に手を出してしまった。

 そしてついに一昨日。

酒なしで眠りにつき、しかも、そのまま酒なしで朝まで寝ることができたのだった。何という快挙! もうまる2日間ほど酒を飲んでいない。ここ30年ほどで初めてのことだ。

もちろん、特に酒の上で失敗をしたわけでもなく、特に体を壊しているわけではないので、きっぱりと酒を断つつもりはない。が、できるだけ寝酒も朝酒も控え、特別な場合に飲むだけにしたいと思っている。そのほうが酒を楽しむことができようというものだ。

 72日、オペラシティのコンサートホールで、ラ・プティット・バンドのコンサートを聴いた。見事な演奏だった。が、実は、あまり感動できなかった。

 曲目はすべてバッハ。前半にブランデンブルク協奏曲の2番と6番と三重協奏曲イ短調。後半にブランデンブルク協奏曲5番、3番。アンコールは3番の終楽章。

 何曲かはシギスヴァルト・クイケン自身がヴィオロンチェロ・スパッラを担当。2番ではナチュラル・トランペットが用いられて、バッハの時代を彷彿とさせる演奏だった。生き生きとしたリズム、精妙なアンサンブル。その点では見事だった。

 ただ、ジャン・フランソワ・マドゥーフの演奏するナチュラル・トランペットは、この人がいたからこそこの楽器が演奏できたということだが、やはり音程があまりに不安定。私にはかなり辛かった。

 そして、全体的に優等生的な演奏で、もっと自由でもっと楽しくていいのではないかと思った。私は昨年(だったかな?)聴いたベルリン古楽アカデミーの演奏のほうがずっとおもしろかった。

それに、オペラシティの会場は、この種の音楽には広すぎる。私は後ろから5列目あたりで聴いたが、音のリアリティが感じられなかった。

ちょっと欲求不満で家に向かった。

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樋口ゼミ主催の多摩フィル、金管五重奏のコンサートの演奏に満足。

 昨日(71日)、パルテノン多摩小ホールで、多摩大学樋口ゼミ主催のコンサートを開いた。私のゼミは、クラシック音楽を日本に、とりわけ多摩地区に広める活動を行っている。そのために、来年以降、「多摩音楽祭」を開催したいと思っているが、その前夜祭として、地域の誇るプロフェッショナルのオーケストラ、フィルハルモニア多摩の金管楽器のメンバーに演奏をお願いした。クラシック音楽を通して、多摩地域の文化を向上させ、お年寄りと若者、子どものコミュニケーションを活発化させ、子どもから大人までが楽しむことをめざしている。

 前半は、シャイトの「カルメン・ファンタジー」とサン=サーンスの「動物の謝肉祭」を中心にした曲。小中学生も何人か来てくれていたようだが、十分に喜んでくれている様子が、外から見ても伝わった。トランペットの柴田紘子さんが楽器や曲目、そして、「動物の謝肉祭」では、動物の様子などを解説しながら演奏。

 私はブラスバンドの出身ではないので、実は金管五重奏を聞く機会はほとんどなかった。独特の味わいに驚いた。前半、所々、音の硬さを感じたが、徐々に馴染んできて、見事なアンサンブルだった。「動物の謝肉祭」はとりわけおもしろかった。ただ、チェロで聴きなれた「白鳥」がホルンを中心とする金管楽器で演奏されるのは、ちょっと違和感があった。主旋律はいいのだが、ほかのメロディが金管で演奏されると、主旋律が際立たず、ほかの楽器に埋もれてしまう傾向を感じた。私の耳が弦楽器向きにできているということでもあるが。

 後半はフンパーディンクのオペラ「ヘンゼルとグレーテル」を音楽監督の今村能(いまむら・ちから)さんの語りと金管五重奏によって展開するもの。企画段階で、この曲が候補として挙がったとき、どうなるのかと心配しながらも決定したのだったが、今村さんの語りも見事、演奏も前半にも増してアンサンブルの精度が増し、素晴らしいリアリティだった。多摩フィルのメンバーの力量に感服。金管で美しいピアニシモを吹くのは至難の業だと思うのだが、それがびしっと決まり、ほかの楽器に溶け合っていた。

 目の前にヘンゼルとグレーテルがいるように感じた人も多かったと思う。歌詞が付いていないのに、十分に音楽によって情景が理解できた。

 今村さんの語りの原稿(今村さんご自身が作った日本版)を前もって読んだとき、ちょっとおじさん臭い表現が多いのが気になり、学生に頼んでもう少し今の若者に受けそうな表現に改めさせてもらおうかとも思ったのだった(今村さん、ごめんなさい!)が、このままのほうがよかったと、確認した。今村さんの語り口によって昔のヨーロッパの童話の雰囲気がありありと現れていた。私たちがいじっていたら、この雰囲気は絶対に現れなかっただろう。

 アンコールでは今回のコンサートに関わったゼミ生もステージ上に上がった。

 とてもよいコンサートだったと私は思う。演奏家たちも満足げだった。これほどレベルの高い演奏会を、多摩地区で行い続けることに意義があると思う。それが、地域の文化、地域のコミュニケーションを高めると思う。

 ただ、残念ながら、私たちの力不足のために、せっかくの素晴らしい演奏なのに十分な客を呼ぶことができず、空席が目立った。これを満員のお客さんに聞いてほしかった。私たちのゼミのこれからの目標は、良い演奏を地域に提供するだけでなく、できるだけ多くの客に来てもらう努力をすることだと、改めて痛感した。

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