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ザルツブルク音楽祭総括

 日本に戻って3日目。生活は日常に戻りつつあるが、まだ家で音楽を聴く気分になれない。ザルツブルク音楽祭の余韻をもう少し保っていたい。

 ザルツブルク音楽祭について、自分なりに総括してみる。

 私が見たものの感銘度順は以下の通り。なお、言うまでもなく、私は音楽評論家ではなく、単なる愛好者なので、これは好みの順であって、演奏を評価しているわけではない。

① 「影のない女」  ティーレマン+ウィーンフィルはあまりに凄まじかった。

② 「イオランタ」  なんといっても、私はネトレプコのファンなのです。

③ 「ドン・ジョヴァンニ」 セガン+ウィーンフィル。素晴らしい演奏。歌手もそろっている。

④ 「コシ・ファン・トゥッテ」 ミンコフスキーの指揮。歌手も演出もいい。

⑤ ウィーンフィル演奏会 曲目が私の好みではなかったので、この順位にいる。

⑥ 「マクロプロス事件」 演出が残念。サロネン+ウィーンフィル、デノケーは素晴らしい。

⑦ 「ナイチンゲール」  曲が少し弱い。ナイチンゲール役もCDのデセイほどではなかった。

・・・・・・・・・・

⑧ 「マクベス」  ムーティの指揮は私とは相性が悪い。

 ともあれ、全体としては最高に満足。バイロイト音楽祭では演出にストレスがたまるので、全体的な感銘度では、ザルツブルクのほうが高かったのではないかと思った。ただ、個人的には、やはりイタリアオペラに関しては、たとえザルツブルクに行ってさえ、感動できるわけではなさそうだと思った。これから、また余裕があったらザルツブルク音楽祭に行きたいが、やはりイタリアオペラ以外が充実しているときにしたい。

 そのほか、ザルツブルク音楽祭についていくつか思ったこと。

 字幕があると聞いていたが、十分に機能しているとは言い難かった。大劇場は、2階席に座ると、目の前に字幕が出るので見やすいが、1階では、英語字幕は右上にしか出ないので、よほど席に恵まれないと、読むのに不自然な姿勢をしなければならない。しかも昔のワープロの日本語のように、少ないドットで文字を書いているので、判別しがたい文字がいくつかあって、実に読みづらかった。

フェルゼンライトシューレでは、字が小さく、左右の壁にしか字幕が出ないので、読めるのは、もしかしたら2割程度の席の人だけではないか。私の席からはよほど目のいい人でないと読めなかったはず。モーツァルト劇場も、舞台の上に字幕が出るだけなので、1階席から読める人はほとんどいないのではないかと思った。前方の人は、字幕が上過ぎて読めず、後方の人は、字が小さすぎて読めない。総じて、字幕を当てにしないほうがよさそうだ。

 観客のマナーについては、相変わらず欧米人は演奏中に話をする人が多い。とりわけ、オペラの序曲や間奏曲(つまり、台詞が語られていない部分)やレチタティーヴォの部分ではオペラの部分ではないと考えて話をするようだ。しかも、周囲はそれをあまり気にしていない様子。

 が、日本に多いパンフレットをかさかささせたり、飴玉を取り出したりする人はいない。少し前までいたような気がするが、今回は皆無に近かった。2、3度飴玉などの音が聞こえたが、きっとそれは日本人だったと思う。一度、隣に座った日本人男性が大きな音を出して飴玉を取り出し、口に入れた後も紙をかさかさいわせていた。前方の欧米人が迷惑そうに振り返っているのに本人は気付かずにいた。私が注意するしかなかった。

 二人ほど、信じられないマナーの悪い客を見た。ウィーンフィル演奏会で、ステージが客席から近かったためもあるが、左側にいる最前列の女性客(たぶん、ドイツ系の人)が自分のハンドバッグをステージの上に置いていた。しかも、その女性、かなり偉そうな雰囲気で、演奏中、ギシギシと音を立てて足を組み、演奏が終わってもむっつりした顔のまま拍手もせず。一体どういう女性なのだろうと気になった。連れなのかどうか、隣の女性もステージ上に何かを置いていた。

 ザルツブルクの街全体については、相変わらず美しいと思った。ザルツブルクではアフリカ系の人はあまり見掛けなかったが、中東系、イスラム系の人はときどき見かけた。オーストリアの人々は、かなり肥満した人が多いのにも気づいた。このところ、バイロイト(見かけるのは音楽祭に来ている人ばかりで、それはほとんどが老人なので、比較の対象にならない)やナント(フランスの若者は痩せた人がかなりいる)ばかりに行っていたので、妙に目についた。若い人まで、腹の出っ張った人が多かった。他人事ながら、将来が心配になった。

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ザルツブルク音楽祭「ドン・ジョヴァンニ」はすばらしかった

昨晩のうちに、感想を書いていたのだが、ホテルの無線LANへの接続トラブル(しばしば、つながらなくなる!)のために、ブログに載せられなかった。朝になってつながった。

8月23日、ザルツブルク音楽祭、モーツァルト劇場で、「ドン・ジョヴァンニ」を見てきた。指揮は、ヤニック・ネゼ・セガン、演出はクラウス・グート、ウィーンフィル。

大変満足。本当にすばらしかった。ただ、前もって何も知らずに行ったので、ドン・ジョヴァンニの死で終わったのにびっくり。最後の「めでたしめでたし」の部分がカットされていた。とはいえ、確か、この部分、モーツァルトがいやいや付け加えたところだったはず。それに確かに、この部分、ちょっと変。そんなわけで、保守的な私としてはちょっと抵抗はあるが、まあいいか、と思った。

何より、指揮とオケのすばらしさに圧倒された。セガンという指揮者、これまでちゃんと意識して聴いたことはなかった。きびきびして、全体を完璧に掌握して、要所要所できちんときめる。ウィーンフィルだから当たり前だとは言え、実に中身のつまった太くて雰囲気のある音を出す。シリアスで暗めの音に徹しているが、もちろん、それは演出を意識してのことだろう。ミンコフスキーよりももっといろんな技を持っていそう。とりわけ、第二幕の、レポレッロが正体を明かされた後の五重唱のアンサンブルとオケの運びは絶妙だった。鳥肌が立った。

歌手もそろっていた。特に良かったのは、やはりドン・ジョヴァンニを歌ったジェラード・フィンリー。声も通るし、存在感がある。演技も見事。ほれぼれする。レポレッロを歌ったアドリアン・サンペトレアンもフィンリーに負けないほどすばらしかった。声に力があっていい。

ドンナ・アンナを歌ったマリン・ビストレムも実に良かった。見た目もきれい。遠目に見ると、1970年ころのカトリーヌ・ドヌーヴそっくりに見えるのだが、きっと近寄ったら違うんだろう。ドンナ・エルヴィラのドロテーア・レシュマンも同じくすばらしい。ただ、第二幕のアリアは後半、息が切れてきた。残念。マゼットを歌ったアダム・プラチェトカ(?)は若い歌手だが、とてもよかった。これからが楽しみ。

ツェリーナのクリスチアーネ・カルクは見た目も歌もチャーミングだけど、もう少し迫力がほしいと思ったが、欲張りすぎかもしれない。オッターヴィオのホエル・プリエトは最初のアリアは後半、息切れがしてめろめろになったが、第二幕はまずまず。

 グートの演出は、私には大変おもしろかった。第一幕も第二幕も、ずっと同じ森の中で展開される。しかも、ずっと暗い。が、確かに、このオペラは暗い曲だ。主要な男性の役はすべてバスかバリトン。ドン・オッターヴィオという存在感のない人物だけがテノール。だから、暗くて重いのには違和感はない。

「コシ・ファン・トゥッテ」と同じように、この森は「本能」のようなものを象徴しているのだろう。汚れたところもあるが、人間が持つ生命の本能。

 第一幕のはじめ、ドン・ジョヴァンニは騎士長との闘いでピストルで撃たれて傷を負って血を流す。傷は「罪」を意味するだろう。ドン・ジョヴァンニは森=本能を讃え、ある意味で輝かしく生きていた。が、騎士長を殺すことで「罪」を犯してしまう。それが傷=血で象徴される。罪を犯してしまったら、森はかつての輝きを失うしかない。だから、第二幕になると、木が折れ、森がかつての精彩を失っている。罪を犯した本能は、罰を受けざるを得なくなる。これは、一人の人間が生命の命ずるところにしたがって雄雄しく生きようとしたが、その結果、罪を犯してしまい、雄雄しいはずの生命までもが弱まってしまう物語だろう。いってみれば、すべての人間が経験している物語といえるかもしれない。

 ドンナ・アンナははじめからドン・ジョヴァンニを愛しており、関係を持っている。そして、ドン・オッターヴィオと二股をかけている。つまり、ドン・ジョヴァンニの本能=生の魅力にひきつけられ、生真面目なドン・オッターヴィオに不満を覚えている。父親を殺されても、ドン・ジョヴァンニを愛するのをやめない。ドンナ・エルヴィラと同じような心理と考えればいいだろう。が、ドンナ・エルヴィラにドン・ジョヴァンニの行動を聞いて、ドン・ジョヴァンニから離れようとする。が、最後まで決意が揺らいでいる。だから、ドン・ジョヴァンニを制裁する側には最後まで立たない。が、これも人間の一つの典型的な姿だろう。人間誰しも、本能を表に出して生きる人間に惹かれるが、やはり、それに徹することはできずに二股をかけているのだ。

 ともあれ、実に満足。繰り返すが、指揮とオーケストラが本当にすばらしかった。

 これで、今回の私のザルツブルク音楽祭は終わる。ほとんど、毎日が感動だった。そして、毎日、暑かった!! 

書くのを忘れていたが、私がザルツブルクに到着してから今日まで、毎日、30度を越えていた。湿気が少ないので、半袖でいられれば、そんなに不快ではないのだが、何しろ音楽祭なので、私も一応は黒い上着を着てネクタイを締めて出かける。とんでもなく暑い。しかも、私の黒服は、2001年の冬だったか、ベルリン・シュターツ・オパーでバレンボイムがワーグナー10演目を振ったときに、黒服を用意していなかったので、あわててベルリンのスーパーで買った生地の厚いものだ。ザルツブルクはきっと気温20度くらいだろうからそれで大丈夫だろうと思っていたら、とんでもない。本当に暑くて、上着を着るのが苦痛だった。実際にはほとんど上着は手に持っているだけだったが。

しばらくして、ホテルを出て、あとは帰国するのみ。

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ムーティの「マクベス」は私には受け入れがたかった

8月22日、ザルツブルク音楽祭フェルゼンライトシューレで、「マクベス」を見て、先ほどホテルに戻ってきた。指揮はリッカルド・ムーティ、演出はペーター・シュタイン。一言でいって、私には受け入れがたかった。

 私はもともとイタリアオペラ好きではないし、「マクベス」も、それほど何度も見たり聴いたりしているわけではない。そのせいもあるかもしれない。が、やはり、私が激しい抵抗を感じるのは、ムーティの指揮だ。

 ムーティはずっと昔から苦手な指揮者だ。ベートーヴェンやワーグナー(スカラ座で指揮した「ワルキューレ」の映像がある!)の録音を聴いて、何と浅薄な指揮をするんだろうと思ってきた。実演も二度ほど聴いた記憶があるが、いずれも感動しなかった。が、きっとムーティの得意とするイタリアオペラであれば、私でも感動するだろうと思って、今回足を運んだのだった。何しろ、ザルツブルク音楽祭という大歌手たちが集まり、ウィーンフィルが演奏する場なのだから。

 が、やはりダメだった!

 イタリアオペラ好きは、そしてムーティ好きは、そこがいいのだろうが、あの、「ジャンッ」という感じの大見得の切り方に居心地の悪さを感じる。いちいち盛り上げ、すぱっと切り上げる。 ホテルで知り合いになったご夫婦(こんなに礼服とドレスの似合う日本人も珍しい!)が、「ズンチャッチャッ」と表現しておられたが、まったくその通り。単純明快。それが、ほぼドイツ音楽一辺倒の私には、受け入れがたい。

 そんなわけで、周囲が大喝采する中、私は蚊帳の外だった。きっととてもよい演奏だったのだろう。が、私にはさっぱりわからない。

 歌手はもちろん悪くなかった。アルファベット表記をいい加減に日本語にしているので、間違っているかもしれないが、マクベスをジェリコ・ルチッチ、マクベス夫人をタチアナ・セルジャが歌ったが、二人ともなかなか良かった。マクベス夫人のセルジャは第一幕より、第二幕の舞踏会の場面のほうがぴったりだった。第三幕の手を洗う場面もなかなか。バンコーのドミトリー・ベロセルスキーもよかった。マクダフはジュゼッペ・フィリアノーティは、最後のところでちょっと処理がザツだったが、きれいで伸びのある声ですばらしい。

 演出は、かなりふつうなのではないだろうか。私が見た覚えのあるメトロポリタンの映像と似た雰囲気だったように思う。

 まあ、毎日感動していても疲れるので、こんな日もあっていいだろう。

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ザルツブルク音楽祭「影のない女」、ティーレマンの凄まじさ!!

 8月21日、ザルツブルク音楽祭祝祭大劇場で、「影のない女」を見た。指揮はクリスチャン・ティーレマン、演出は.クリストフ・ロイ、ウィーンフィル。

 一言で言って、ティーレマンの指揮とウィーンフィルにぶったまげた!! このものすごさには言葉をなくす。ヤンソンスも凄いと思ったが、まったく違う音の作り方で、もっと凄まじい効果をあげている。シュトラウスの複雑極まりない、しかもこの上なく美しいオーケストラをものの見事に鳴らす。厚い音なのだが、一つ一つの音の絡み合いがしっかりと聞える。うねり、躍動し、時には甘く、時には劇的に。が、それがきわめて自然なので、まったく下品にならない。シュトラウスの音の渦の中でひたすら感動。

 場面の転換の間奏部分がことのほか凄まじい。このままずっと間奏が続いてほしいとさえ思ってしまう。いやあ、ティーレマンはものすごい指揮者になっていた!!

 歌手もそろっていた。皇后はアンネ・シュヴァーネヴィルムス。美しい声。立ち居振る舞いも声も、清楚で高貴。ただちょっと声量的にはバラクの妻のエヴリン・ヘルリツィウスに負けていたかもしれない。ヘルリツィウスはえりすぐりの歌手陣の中でも最も目立っていた。ドラマティックでありながら、弱音もきれいに出し、しかも演技的にも見事。乳母のミカエラ・シュスターも、こんな役をやらせると本当にうまい。男では、皇帝役のステファン・グールドもよかったが、バラクのヴォルフガング・コッホのほうがうまく聞かせてくれた。

 問題は演出。一言で言って、細かいところはよくわからなかったが、特に気に障ることもなく、音楽の邪魔にまったくならなかった。その意味では、とても良かった。

 が、考え出すと、やはりよくわからない。

 実は、私はNHKで放映された今回の「影のない女」の放送を見ていない。ザルツブルク出発前の猛烈に忙しい時期だったので、録画だけして見ないまま出てきた。しかも、シュトラウスは大好きな作曲家で、「影のない女」も何度も見聞きしているとはいえ、字幕なしにわかるほどではない。だから、今日、実演で英語の字幕で見て、ただでもわかりにくいオペラを英語字幕なので、細かいところはよくわからなかった。だから、不正確なところはあるかもしれない。が、今日の演出は、プログラムに書かれていた簡単なインタビューを参考にしてまとめると、こういうことだろう。

 レコード録音をするために歌手たちが集まって、「影のない女」の収録をしている。皇后役の歌手は新人で小さくなって、先輩たちの中に入れずにいる。そして、収録を進めるうち、だんだんとオペラの世界が現実の中に入り込んでくる。第二幕は、まさしくオペラの世界になってくる。新人歌手=皇后は仲間に入れないために、自分の居場所をなくし、現実感覚を失い、激しい違和感を覚える。突然、放送局のスタッフたちが子どもになるのはそのようなことを意味しているのだと思う。影を持たず、子どものできないことで苦しむ皇后、すなわち、世間との絆を築けずに苦しむ皇后が、仲間に入れずに一人きりである歌手と重なり合う。第三幕では、皇后が影を授かることによって、絆は回復し、皇后はとりあえず居場所を確保する。原作はそこまでなので、めでたしめでたしで終わるかと思ったら、今回の演出では、最後、バラック夫妻と皇帝がさっさと立ち去ってしまって、皇后は一人取り残されてしまう。実は、絆は本当には回復していなかった、ということが暗示されて終わる。

 ところで、おもしろかったのは、新人歌手が孤独の世界に入り込んでしまう(つまり、スタッフが子どもたちになる)場面の契機に「エレクトラ」への暗示があること。バラクの妻が斧を持って踊るが、まさに「エレクトラ」の幕切れの仕草。わざわざ「斧」を出してくるからには、意図的だろう。いわれてみれば、この部分の音楽は「エレクトラ」によく似ている。要するに、まるで「エレクトラ」のような音楽が出てくるのを契機にして、新人歌手の現実との違和感が最高潮に達するわけだ。このあたり、日本に戻ったら、NHKの放送で確かめてみたい。

 シュトラウスとホフマンスタールの時代には、人は絆を信じることができた。だが、戦後、人々は絆を信じることはできず、人々は自分の居場所を失い、一人でいなくてはいけなくなっているというメッセージなのだろうか。そのあたりがよくわからなかった。結論としては、演出に対して保守的な私としては、それなりにはおもしろかったが、もっとわかる演出であってほしいということだ。読み解かなければならない演出は、私は演出として失格だと確信している。

が、何はともあれ、ティーレマンはものすごかった。それで私としては最高の満足。興奮して眠れないほど。

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最高の一日! ウィーンフィル演奏会とネトレプコのイオランタ

最高の一日だった。ヤンソンスとネトレプコ!!

 まず午前11時から、祝祭大劇場で、ウィーンフィル演奏会。まり巣・ヤンソンス指揮。

一言で言ってすばらしいコンサートだった。 最初に「ペトルーシュカ」。最初の音で、ウィーンフィルの威力に改めてびっくり。音そのものに感動してしまう。ウィーンフィルの最強のメンバーが本気を出したときの実力たるや凄まじい。ひゃー、これがウィーンフィルか!!と改めて思った。一つ一つの音が最高度に洗練され、その重なりがえも言われぬぬ色彩を作り出す。そして、鮮烈でありながらも柔らかい音が充満。前から3列目で聴いたが、まさに美しい音の渦の中に入り込んだ感じ。

 指揮についても、私に理解できる範囲において、まったく申し分なし。要所要所できっちり決まり、潤いがあり、ドラマがある。何より高貴な音がする。ヤンソンスの「ペトルーシュカ」は2度目(コンセルトヘボウの来日公演で聴いた記憶がある)だが、こんないい曲だったのかと改めて思った。

 休憩後、ラン・ランが加わって、リストの協奏曲1番。リハーサルを見て思ったとおり、ヤンソンスとラン・ランの雰囲気があまりよろしくない感じ。音楽の質もかなり異なる。ラン・ランは、思い入れたっぷりにリズムを崩して弾こうとする。しかも、あまり品格がある音色とは言いがたい。ヤンソンスはロマンティックだが、ラン・ランのように思い入れたっぷりではないし、音楽にもっと品格がある。が、後半になって、急に二人の音楽が合ってきた。そのころから、アイコンタクトも盛んになり、最後は凄まじい盛り上がり。終わった後、ヤンソンスも満足げ。「若いの、なかなかやるじゃないか」と言う感じ。

 ラン・ランは私の好きなタイプのピアニストではないが、これを間近で聴くとやっぱり圧倒されてしまう。ラン・ランがアンコールを弾いたが、私の知らない曲。リストではなさそうな気がするが、何しろ私はピアノ曲に疎いので、よくわからない。

 その後、「ラ・ヴァルス」。これはまさしく最高の演奏だった。

 私は、この曲を、龍のような生命体が命を吹き込まれ、最初は形にならなかったものがうねっているうちにだんだんと形をなし、空を飛び、やがて空一杯を覆い尽くして、宇宙全体が一つの生命になる・・・というイメージを持っている。

が、今日のヤンソンスの演奏は、そのような演奏ではなかった。もう最初から生命体そのもののど真ん中に連れ込まれた感じとでも言おうか。徐々に形を成すのでなく、うねりと生命の中にどっぷり浸かったというか、自分がうねりそのものになったというか。しかも、それがウィーンフィル。私は前から3列目にいる。快感というか、しびれるというか。

 アンコールはなかった。これ以上、アンコールの必要はまったくなかった。

 そして、夜の8時半から、演奏会形式のストラヴィンスキー「ナイチンゲール」とチャイコフスキーの「イオランタ」。ともに、イヴォール・ボルトン指揮のモーツァルテウム管弦楽団。

先に「ナイチンゲール」。ナイチンゲールをユリア・ノヴィコヴァ、水夫はアントニオ・ポーリ、料理人がユリア・レージネヴァ(21歳なんだそうだ!!)。いずれも見事。ただ、昼間聞いたウィーンフィルに比べるとややや分が悪いとは思う。

が、オペラが終わってホテルに着いたのが夜中の12時少し前で、早く寝たいので、すっとばす。「イオランタ」を前にすると、すべてがかすんでしまう。

休憩後、「イオランタ」。凄いの一言。コンサート形式だが、途中から、まったく不足を感じない。ネトレプコの歌と仕草で十分にイメージが広がる。演出が邪魔しないだけ、音楽に集中できる。

ただ、赤と白のバラの花だけは指揮台の横にあった。何かと思っていたら、ドラマのクライマックスの、イオランタが盲目だと気づく場面に使われるバラだった。ほとんど演技はなく全員が黒服。ただし、ネトレプコだけ白いドレスで多少演技をする。相手がそれに対応するくらい。それで十分。それで大装置を作ったと同じだけの空想の世界が広がる。

最初のネトレプコのアリアはじっくりと情感がこもっている。そして強靭な声。まったく無理をしていないのにびんびんと響く。ピアニシモからフォルティシモまで、自然に声が伸びる。

ルネ王はジョン・レリエ。声量豊かなバス。すばらしかった。ロベールはアレクセイ・マルコフ。これもすばらしい。アリアの後で大拍手が起こった。このアリア、曲自体が主役のアリアを食ってしまうくらいすばらしいのだが、それを見事に歌ってのけた。ヴォドモン伯爵をピョートル・ベチャワ。高音もしっかりと伸びて、ピアニシモも完璧にコントロールしていた。現代の最高のテノールの一人であることがよくわかる。

イオランタが盲目に気づくときの、ネトレプコとベチャワの二重唱は圧巻。私は、たぶん、生まれた初めて、音楽が完全に終わる前に拍手した。周囲で大拍手が始まったときには、ぐっと我慢していたが、あまりに感動して、オケが終わるのを待ちきれなかった。

その後は、息を止めて音楽に聞き入るばかりだった。イオランタが目が見えることになった喜びを大勢で歌っているときも、ネトレプコの声がびんびんと響く。特に大声で歌っている様子ではないのに、聞えてくるのはネトレプコの声。しかも、ネトレプコがまるで、ピアニストが弾きながら指揮する感じで、ネトレプコが歌いながら全体を仕切っているかのよう。存在感があるといったレベルではなく、巨大な花というしかない。人気だけではない、美貌だけではない。まちがいなく、現代最高のソプラノだ。

終わった後は、もちろん大喝采。私が最初にザルツブルク浮きを考えた理由は、もちろんネトレプコがイオランタを歌うことだった。来た甲斐があった。メトロポリタンで来日しなかった分、少なくとも私は取り返すことができた。

眠くなったが、寝てしまうとこの感激が薄れそうで怖い。そんな思いをすることが、青年時代には良くあったが、今、久しぶりに感じている。

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ザルツブルク音楽祭の圧倒的「コシ・ファン・トゥッテ」と、ウィーンフィル公開リハーサル

19日、ザルツブルク音楽祭モーツァルト劇場で、マルク・ミンコフスキ指揮、クラウス・グート演出、グルノーブル・ルーヴル宮音楽隊の「コシ・ファン・トゥッテ」を見t、先ほどホテルに戻った。すばらしかった。当たり前かもしれないが、私の「コシ」体験の中ではずば抜けて最高! まだ興奮している。

歌手は全員が最高レベル。ただちょっとデスピーナを歌ったアンナ・プロハスカが弱かったか。

中でも、フィオルディリージを歌ったマリア・ベングトションMaria Bengtssonが圧倒的。録音や実演のこれまでのフィオルディリージすべての中で最高。つまり、シュヴァルツコップをも凌駕する! 少なくともシュヴァルツコップ並みの表現力と、それ以上の美しい声! 私はこの歌手を知らなかったが、これから世界のプリマドンナになっていくのだろう。あるいは、私が知らないだけで、すでにそうなっているのかもしれない。容姿もよく、演技もいい。ただ、ちょっと線が細いので、何でも歌えるわけではなさそうだが。

フィオルディリージの二つのアリアもすばらしかったが、ミシェル・ロジエの歌うドラベッラとの二重唱は声質がぴったり溶け合って最高! グリエルモ(クリスタファー・マルトマン)やフェランド(アレク・シュレーダー)との二重唱も劣らず良かった。そのほか、ドン・アルファンゾのボー・スコーフスもなかなか良かった。要するに、みんな良かった。

ミンコフスキーをナマで聴くのは初めてだったが、CDなどで聴いていたとおりの、きびきびした躍動的でドラマティックな演奏。オケも18世紀の音をしっかり出して、実に小気味よく、またシリアスだった。演出のシリアスさにぴったり合った演奏だった。ずっとこの調子でやられると一本調子になって飽きるのではないかと心配したが、そんなことはなかった。あっという間に3時間近くがすぎた。

演出もおもしろかった。ドン・アルファンゾとデスピーナは序曲の間に、真っ白な舞台の中に黒い羽をつけて黒づくめで登場。要するに人間を悪の世界に誘惑する「黒天使」ということだろう。喜劇性は影を潜め、ひたすらシリアス。二人の女性は、二人の黒天使に操られた二人の男に誘惑される。心を動かされるだけでなく、身体まで与えることになる。しかし、最後、もとのカップルに戻る。だが、二人の女性は、汚れ(背景の白があちこち汚され、二人の女性の下着に泥がついていることで象徴される)を、つまりは罪を残したままで。それを象徴するように、最後の「めでたしめでたし」の歌の部分で、四人の表情は晴れず、背後に黒天子の羽が舞っている。つまり、この四人は(そして、おそらく誰もが)、このようにして悪魔に誘惑されたしるしを業のように背負いつつ生きていくしかないということだろう。

そうしたストーリーが服を着替えた、上着を脱いだりといったことで表現される。昨日見た「マクロプロス事件」を演出したマルターラーのように原作にない台詞をつけたり、横でオペラとは無関係の黙劇を延々とやらせたりしないで、きちっとモーツァルトを読み取ることによって、しっかりと新しい解釈を示している。これこそが才能の違いだと私は思う。

「コシ」は、現代ではこのようにシリアスにやるか、それとも徹底的な笑劇にしてしまうかのどちらかしかないのだろう。今回は、シリアスにして成功した最高の例だ。

何度か森が見える。この森は、同じ演出家の「ドン・ジョヴァンニ」(そのうちみる予定)でも使われている。どうやら、森、そして土は、「罪」の象徴として使われているようだ。人間の本性に根ざす抗いがたい罪。人間の誕生からずっと持ち続けた暗い情念。ずっしり重いものが残るオペラだった。

とはいえ、これがザルツブルク音楽祭の実力なのだろう。大感激!

ところで、今日の午前10時から、祝祭大劇場で行われたフィーンフィルの公開リハーサルに運よく入ることができた。明日の本番のチケットは入手済み。それについて、記しておく。

 最初に「ラ・ヴァルス」。最初に通しで演奏。すでに見事。おそらく、一度か二度はリハーサルをしたのだろう。その後部分部分の直し。ドイツ語がわからないのでなんともいえないが、ヤンソンスはアクセントのつけ方にこだわっているように見えた。だんだんと表情が豊かになっていく。

 ただ、あまりフランス的ではない。いや、それ以上に私の好きな「ラ・ヴァルス」のタイプではない。もちろん、それはそれでいいのだが、ともかく本番がどうなるか楽しみ。

 次に「ペトルーシュカ」。これは、最初から部分練習。そして、最後に合わせ。これも、表情のつけ方、アクセントのつけ方が中心。ウィーンフィルとヤンソンスはとてもうまくいっているように見えた。何かを団員に注意して演奏を始めると、その度に満足そうに「ヤー、ダンケ」と言って団員を誉める。

 休憩があって、ランラン登場。リストのコンチェルトの1番。これも部分練習から。オケ中心の練習なので、ランランは手持ち無沙汰の様子。そして、通しの練習。ランランの豪華絢爛、思い入れたっぷりのピアノに圧倒された。好みのタイプではないが、それはそれで凄い。

 ただ、ヤンソンスはほとんどランランを無視。オケにばかり気を配って、ピアノが演奏に加わってもほとんど考慮しない。ランランは困った様子を見せていた。リハーサルが終わったあとも、ランランはヤンソンスに挨拶しようとしていたようだが、ヤンソンスはオケにかかりきりで、気づかない様子。もしかして、あまり仲が良くない? いや、それよりも、ヤンソンスの誠実で繊細な音楽と合わないのではないかと気になった。

ともあれ、それを含めて、明日確かめてみよう。

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昨晩の「マクロプロス事件」の追記

 昨日の「マクロプロス事件」公演について、もう少し言いたいことがあった。一晩寝て、少し気になったので、書き足しておく。

 私が第一幕が終わった時点で、おもしろいかも・・・と考えた理由、それは、このオペラの喜劇面を強調していることだった。よく言われることだが、チャペルの原作では喜劇性が強いらしい(残念ながら、未読)。それをヤナーチェクは深刻なオペラに仕上げたことは有名だ。マルターラーは、チャペルの原作に戻って、喜劇性を高めようとしていると思えたのだった。

 が、残念ながら、ほとんど喜劇性は感じられなかった。同じ行動が執拗に繰り返されることも、チャプリンやキートン的な笑いを引き起こす計算もあったのかもしれないが、それも不発。

 裁判の場面は確か、チャペルの原作にあるのではなかったか? マルターラーはそれを加えたのかもしれない。が、ほとんど意味を持っていなかった。しかもと言うべきか、ほかにどのような意味があるのかわからないが、裁判の場面で、裁判官や関係者たちはずっと居眠りしている様子で、裁判の場ということ自体機能していなかった。

 いずれにせよ、演出、そしてその謎ばかりが頭に残る現代のオペラのあり方に、強い疑問を改めて持った。ヤナーチェクの音楽のすばらしさが薄れてしまっていた。

 そのせいか、拍手もそれほど盛大ではなかった。終わった途端に数箇所からブーイングが飛んだが、もちろん演出に対してだっただろう。ただ、デノケに対してだけは熱狂的な拍手だった。幕が閉じると、観客は淡々と帰っていった。

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ザルツブルクの「マクロプロス事件」は演出が不快だった!

 8月18日、ザルツブルク音楽祭の祝祭大劇場での「マクロプロス事件」を見た。私はヤナーチェク友の会の会員でもあり、ヤナーチェクは大好きなので、年甲斐もなく、期待に胸を膨らませて行ったのだったが、やや期待はずれ。いや、音楽はすばらしい。最高の演奏。が、演出がひどい。演出に関してきわめて保守的な私としては、これはかなりつらかった。

 指揮は、エサ=ペッカ・サロネン。演出はクリストフ・マルターラー。ウィーン・フィル。エミリア・マルティを歌うのはアンゲラ・デノケ、アルベルト・グレゴルはレイモンド・ヴェリー、ヴィテックはペーター・ホーレ、プルスがヨハン・ロイター。

 音楽が始まる前から幕があいており、左端にガラス張りの小部屋があった。何かと思ったら、どうやら喫煙のための小部屋らしい。音楽が始まる前に、老女と若い女の二人が中で煙草をすって話をする。声は聞こえないが、字幕で会話が語られる。もちろん、ヤナーチェクのオペラにはない台詞。「私はもっと長く生きたい。300歳まで生きたい。選ばれた人間は300歳まで生きられるようにしたらどうか」などなど。「私はオペラなんて見たくない。わめくだけで何言っているのかわからない。ストーリーを前もって読んでも、さっぱりわからない」(英語の字幕なので、間違っているかも)というようなやり取りも含まれて、客席からかなり笑い。

 そのあとでやっと音楽が始まるが、その間も、ガラス張りの部屋では小芝居が続いている。第一幕はほぼ原作どおり。登場人物もすべての役の歌もすばらしい。演技も見事。圧倒的なのはデノケ。歌も完璧、声もすばらしく、貫禄も十分。300歳の永遠の美女エミリア・マルティはこうでなくっちゃ! ただ、厚化粧のため、プログラムの写真を見たときには、デノケとはわからなかった。厚化粧にも何か意図があるのだろう。

第一幕が終わった時点で、小芝居はうるさいが、この分なら、かなりのレベルになりそうだと期待した。

が、第二幕以降が良くない。第二幕も場所が変わらず、弁護士事務所のままらしい。原作では舞台がはねたあとの劇場なのだが。しかも、また老女が小芝居。舞台の左側では、警備の男性に老女は連れ出されながらも老女が元に戻るシーンが何度も何度も繰り返される。間違いなく、5回以上、もしかする10回近く繰り返された。しかも、舞台の右側にも同じようなガラスの部屋があって、なんだか小芝居が続いている。何しろ、私は左側の前から3列目に座っているので、目の前で老女の小芝居が続く。せっかくの音楽に集中できない。

第二幕が終わったあたりから、いっそう意味不明になってくる。第二幕と第三幕の間に、なぜか裁判所の場面になり、裁判官や傍聴人など大勢が入廷し、そのまま退場する。それが2度繰り返される。3度目にみんなが登場したときに音楽が始まり、被告人席にエミリアとプルスが現れて第三幕が始まる。原作では、もちろんエミリアの家のはずだが。そして、ここでも老女の小芝居が続く。先ほどの警備の男性が老女に花を渡し、老女は驚きながら受け取るという行為がこれまた10回くらい繰り返される。老女はだんだんと若返っているようだが、それにどんな意味があるのか。エミリアが300歳を越すエレーナ・マクロプロスであることを告白するときも、あちこちで小芝居。

 私が何よりもこの演出を不快に思ったのは、登場人物がみんないらだっていること。とりわけ弁護士のコレナティが始終いらいらしている。手袋が脱げなかったり、マフラーが脱げなかったり、ネクタイがほどけなかったりして、そのたびごとに手袋やマフラーやネクタイを振り回していらだつ。第三幕では、エミリアの告白を聞く前、弁護士、ヴィテック、アルバート、プルスが激しく貧乏ゆすりをして苛立ちを示す。

 登場人物がこんなにいらいらしていると、みているほうもいらいらしてくる。しかも、私は、左端のほうに座りながら、英語字幕は右端に出るので、首を大きくかしげなければならない。しかも、英語なので、しばしばわからない単語が出てくる。そして、わけのわからない演出。こちらこそ、いらだってくる。第三幕では、字幕をみるのをやめて、台詞は記憶に任せて音楽を聴いていた。

 一体、なぜこの人たちはこんなにいらいらしているのだろう。ずっと不思議に思っていた。第二幕になって気づいた。ヤナーチェク特有の小刻みな上下の音形の部分が出てくると、登場人物は苛立ちを見せる。つまり、演出のマルターラーは、あのヤナーチェクの音を苛立ちと捉えているのだ!! 驚いてしまった。なんという浅い理解!!

 あのヤナーチェク特有の音形は、確かにのっぴきならない運命への苛立ちをあらわすときにも現れる。「イェヌーファ」や「カカーチャ・カバノヴァ」ではそのような面が強い。だが、あれは苛立ちを描いているのではない。抑えても抑えきれない生命のうずき、それがあの音なのだ。「利口な女狐の物語」では、生命への賛歌としてあの音形が現れる。この「マクロプロス事件」の第三幕にあの音形が続出するのは、このオペラが「生命」を描いているからなのだ。それなのに、これを苛立ちと捉えて、登場人物みんなに貧乏ゆすりをさせるなんて!!

 それに、警備員と老女など、同じことの繰り返しが執拗になされていたのも、ヤナーチェクの繰り返しの音形を具象化したつもりかもしれない。なにをかいわんや。

 これに気づいてから、マルターラーのヤナーチェク理解の浅さを思って、ついていけなくなった。

 が、繰り返す。音楽はすばらしかった。美しい音であるだけでなく、心の底をえぐるような激しい音も何度も聞えた。この難しい音楽をサロネンは完璧にコントロールしていた。そして、これも繰り返すが、デノケが凄い。それだけに演出が良くないのが、残念だった。

 一体いつまで、意味不明の、音楽の邪魔をする演出が幅をきかせるのだろう!! そろそろこのような演出家が音楽を台無しにする時代を終わりにしてほしいものだ。

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ザルツブルク3日目

 今日(8月17日)は、ザルツブルク見物をした。明日からのオペラに向けて、体調を整え、時差ぼけを直すことを第一に考えている。

 午前中、ホテルを出てまっすぐにモーツァルトの生家に向かった。まずはここから出発しなくてはいけない。博物館を見た。ここを訪れるのは、これで3回目だと思うが、それはそれで刺激的。モーツァルトの二人の息子の肖像画があった。一人は音楽家だったという。そういえば、これまでモーツァルトの息子について考えたことがなかった。

 その後、旧市街をうろうろし、大聖堂に入り、明日以降の会場になる祝祭劇場を確認し、ケーブルカーで丘の上にそびえるホーエンザルツブルク城塞に登った。私は、観光地に行くと、最初か最後には必ず、その町の最も高いところに上ることにしているので、きっとここも3回目だと思うが、記憶がなかった。それにしても速いケーブルカーだった。下りなど、さながらジェットコースタ! 事実、叫び声を挙げる子どももいた。

 城塞からの眺めはまさに絶景。ザルツァッハ川が蛇行し、そこに青い尖塔の教会や宮殿のある旧市街が広がっている。城っぽい壁が夏の光を受けて輝いている。緑が多く、静かな佇まいであることがよくわかる。今日は、気温が30度近い(とはいえ、湿気がないので、ずがすがしい)のに、丘の上にあがった途端に2、3度温度が下がったように思ったが、気のせいだったか。ともあれ、風が心地よかった。

 その後、市場でパンや果物を買って、ホテルに戻って昼食。

 出発前、知人に「おいしい食事や新しい出会いを楽しんでください」といわれたが、基本的に単独行動。食事は、ホテルのバイキングのほかは、屋台でのホットドッグやスーパーで買ったパン、果物で済ませている。その種の楽しみはまったくない。

 私は学生時代から、ずっとこんな旅を続けてきた。だいたいいつも一人旅。ヨーロッパでは一人でレストランには入りづらいので、必然的に食事も質素になる。なるべく飛行機は使わず、列車に乗って、流れる風景を見ながらぼんやりしている。目的地まではなるべく歩き、道に迷ったら迷ったで、それを楽しむ。

学生時代と異なるのは、ホテルがいくらか高級になったのと、夜の散策に出歩かなくなったこと、そして疲れたらためらわずにタクシーに乗ることくらい。あ、そして、以前はただ新しい土地を見たいがための旅だったのが、今は音楽祭が目当てになっている。が、ホテルの中でスーパーで買ったものを食べているのは、以前と少しも変わりがない。

 夕食も昼間買ったパンと果物で済ませた。パンは、中に木の実などの入ったもの。これはなかなかうまかった。ブドウとチェリーとイチジク(要するに、ナイフで使わずにむける果物)を買って食べたが、どれもうまくなかった。むしろ、まずいと表現するほうが事実に近い。残念。

 しかし、幸せをかみ締めている。高校生のころから、バイロイトやザルツブルクに行きたいと夢見ていた。きっとかなわぬ夢だろうと思っていた。が、それを実現できている。バイロイトには3回行った。私はイタリアオペラをほとんど見ないので、25年ほど前、新婚旅行の際にザルツブルクに寄ってちょっとだけ音楽祭を見たあとは、ザルツブルクに来るのをためらっていた。今年は、ネトレプコが「イオランタ」を歌い、サロネン指揮の「マクロプロス事件」とティーレマン指揮の「影のない女」が上演されると聞いて、ザルツブルク行きを思い立ったのだった。

 あすから、いよいよオペラを聴く。本当に楽しみだ。

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ザルツブルク到着

 ザルツブルクのホテルにいる。 

昨日(8月15日)、到着後、ホテルで無線ランを申し込もうとしたが、高い! 3日間で25ユーロ! フランスなどでは原則として無料なんだが・・・。 しかも、腹をきめて接続しようとしたが、できない。何度やってもエラーがでる。いったん諦めて、寝た。

そして今日。昨日の日記代わりに書いたものとあわせて、ここに載せる。

8月15日

 早朝に家を出て成田に向かい、11時10分発のオーストリア航空ウィーン行きに乗り、ウィーンで乗り継いで、無事、ザルツブルクに到着した。定刻の到着。

 自分で手配するのが面倒だし、自信もないので、とある予行代理店の「フリープラン ザルツブルク音楽祭の旅」に申し込んだのだったが、今日の出発は私だけ。要するに、単独行動。

 オーストリア航空には初めて乗ったが、感じがいい。機内で、離陸前と着陸後にウィンナワルツがかかるところがおもしろい。ユニフォームやシートや毛布などの色のセンスもとてもいい。乗務員のサービスも、とても行き届いている。うるさすぎもしない。ただ、日本人としてはもう少し日本語対応の映画が見られたら、うれしかったのだが・・・

 ザルツブルクは3度目。が、最後に来たのは1985年なので、25年以上たったことになる。ウィーンは素通りしただけだったが、考えてみれば、かつて5回以上訪れていたウィーンも、25年以上訪れていないようだ。久しぶりに見てみたくなった。

 ザルツブルクに到着してから、ホテルの周りを歩いてみた。覚えのあるところには出くわさなかった。街自体が変わってしまったのかもしれない。旧市街に行けば、昔のままだと思うが、今日は疲れていたので、そこまでは行かなかった。

 時差ぼけを早く直すべく、遅くまで寝ていたい!!

8月16日

 ぐっすり寝て、午前中、リンツに向かった。音楽祭でオペラを見る前に2日間、時差ぼけのための時間をとっている。その間、まずはリンツに行くことを考えた。リンツは、これまで訪れたことがない。列車で通過しただけだった。もちろん、モーツァルトの交響曲で小学生のころからなじみだったし、何しろ、ブルックナーゆかりの地。一度は行ってみたいと思っていた。

 ザルツブルク駅に着いてチケットを買うと、すぐにリンツ行きがあった。どうやら各駅停車らしい。それもおもしろいだろうと思って、乗り込んだ。田舎の光景が間近に見えて、とても楽しい。おとぎばなしに出てくるようなきちんと整えられたきれいな家、整然とした集落。年寄りが孫の手を引いて駅のホームにやってきて、客を迎えている。子どもたちがホームで遊んでいる。若者たちがリュックをしょってあちこちたむろしている。田舎の日常風景がそのまま見られる。車内も、買い物に行ったり、デートしたりの客たちだろう。

 と言いつつ、あまりにのろいのでウンザリ。列車が遅いのはいいとして、駅での待ち時間が長すぎる。この調子だと、特急なら1時間ほどのところを3時間はかかりそうだった。途中のアトナング・プフハイム(と発音するのかな?)駅で待っていると、そこにウィーン行きの快速のような列車が来たので、あわてて乗り換えた。そして、出発から2時間弱でリンツ到着。

 駅のマクドナルドで昼食を済ませて、駅前で待っているタクシーに乗って、すぐに最大の目的地、ザンクト・フローリアン修道院に行った。いわずとしれた若きブルックナーがオルガンを弾いていた修道院だ。

121  20分ほどで着いた。ロシアで見た修道院のような広大で暗い雰囲気の修道院を想像していたら、思ったよりは狭くて、とても清潔で美しい修道院だった。昔、修道院の町ブリュージュに行って、その美しさに驚いたことがあったが、雰囲気は似ている。

131  修道院付属のチャペルに入った。そこにブルックナーの弾いていたオルガンがあった。巨大なオルガン。確かに、ブルックナーの交響曲が聞えてきそう。

どこか、このあたりに、「ここにブルックナー眠る」という碑銘があると聞いていたが、と思って探したが見当たらない。あちこち歩いて、ひょいと下を見たら、そこに碑銘があった。そのときの写真を載せてみる。下のほうの黒い影は、私の靴! 罰当たりなことに、ブルックナーの墓碑を踏んでいた!!

137 その後、タクシーを待たせておいて、同じタクシーでリンツ市内に戻った。ブルックナーゆかりの旧大聖堂に連れて行ってもらったつもりだったが、その後、歩いたところ、どうやらつれてこられたのは、新聖堂だったようだ。私が、「旧大聖堂(アルター・ドム)!」というと、タクシーの運転手さんは自信たっぷりに頷いたのだが、私の発音が悪かったのか・・・。タクシー料金は往復で40ユーロ。かなり安かったので、ほっとした。

ともあれ、タクシーを降りて、ドナウ川まで歩き、ニーベルンゲン橋に足を踏み入れ、その後、中心街を抜けて駅まで歩いた。結局、旧大聖堂は分からなかった。

駅からまっすぐにザルツブルクに戻った。疲れきったので、今日はこれでおしまい。近くのスーパーで買い物をしただけで、今晩は外には出ないで、ホテル内で食事をすますことにする。

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夏休みになったが、忙しい

 ザルツブルク音楽祭に向けて出発する日が近づいた。大学は夏休みに入ったが、それまでにきりをつけなければならない仕事が山積み。猛烈に忙しい。もちろん、ザルツブルクにもパソコンを持ち込んで、昼間は原稿を書く予定。

 しかも、できれば出かける前に、音楽祭の予習をしておきたい。オペラを中心に見るが、間違いなく日本語字幕は出ないわけだから、ストーリーはしっかりと頭に入れておきたい。バイロイト音楽祭の場合は、どの演目もこれまで何百回も見たり聞いたりしているので、心配ないが、ザルツブルクではそうはいかない。

ストラヴィンスキーの「ナイチンゲール」は、一度、コンサート形式で聴いた記憶はあるし、CDは何度か聴いたが、ストーリーがよくわからない。やっと英独仏の対訳を手に入れたので、出発前にしっかりと読んでおく必要がある。そのほか、ヴェルディの「マクベス」、チャイコフスキーの「イオランタ」、ヤナーチェクの「マクロプロス事件」もおさらいしておくほうがよさそう。

 夏休み中に聴こうと思って購入したCDも大量にあるが、まだ聴けずにいるものが多い。これらは、ザルツブルク出発前に聴くのは難しいだろう。

 ところで、これまで私の体調のことをブログに書いたところ、知人にその後の様子を何度か尋ねられた。その後について、ここに書いておこう。

かなり前、腰痛と膝痛に襲われた。つい先日まで薬を飲んだり、体操をしたりしていた。が、今はほとんど全快。違和感を覚えたときにあわてて体操をする程度になっている。

わきの下の痒みは、検査の結果、原因不明だったが、薬が効いたのか、自然に治ったのか、やっと痒みは感じなくなった。ただし、私はじんましん体質なので、身体のあちこちに軽い痒みはほとんど常に感じている。全快は難しいのかもしれない。しばらくの間、痒み止めの薬のせいで、眠気に襲われて、仕事が進まず、車の運転にも危険を感じた。

アルコールに頼らずに寝ようとして、寝酒をやめたことを書いたが、それについては、まずまず守れている。が、アルコールが入っていないと寝つきが悪いので、早く寝たいときにはやはりアルコールは欠かせない。今のところ、週に3、4日は寝酒を飲んでいる状態。以前に比べると、かなり酒量は減った。

ザルツブルク音楽祭の「影のない女」とバイロイト音楽祭の「ローエングリン」が今晩と明日の夜中にNHK-BSで放映される。「ローエングリン」は生中継らしい。地震など起こらず、画面に速報などが出ないで、無事に見られることを祈っている。

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やっと夏休み、そして最近聴いたCD

 昨日、やっと私の勤める多摩大学は、春学期が終わって、晴れて今日から夏休み。震災で始まりが遅れたわけでもないのに、規定通りに授業が組まれて、この時期になった。

昔、私が大学生だった頃、大学の授業は7月の10日にならないうちに夏休みに入った記憶がある。しかも、当時、授業があるといっても、休講はしょっちゅう。授業のある日も、教授は30分近く遅れて教室にやって来て、30分ほど前に研究室に戻っていった。今は、どの先生もベルが鳴ってすぐに教室に入り、ベルが終わるまでみっちり教える。私の大学では原則として休講が禁止されている。

 時代が変わったものだ! いや、私はぼやいているのでも、不平を言っているのでもなく、ただ単に事実を言っているだけ・・・。

 この間、CDは折に触れて聴いている。いくつか、あっと驚いたCDを挙げてみる。

053 長尾洋史のピアノによるラヴェルとドビュッシーの曲集。先日、加納悦子さんのメゾソプラノと長尾さんのピアノのコンサートを聴いた。素晴らしい演奏だった。感想をこのブログに書いたら、長尾さんご本人からコメントをいただいた。CDを数枚買ってみた。これはその中の一枚だが、本当にすごい。ピアノに心を動かされることのめったにない私が、ピアノの素晴らしさに揺り動かされた。このCDの最初に聞こえてくるラヴェルの「プレリュード」の音から、その美しさに圧倒される。そして、「高雅で感傷的なワルツ」の高雅さ、音楽の形式にぴったりと合致した音と曲想。静かで、しっかりと安定し、男性的で抑制的な音楽だが、そこに抒情が炸裂する。ドビュッシーの「12のエチュード」は、私の知らない曲だが、ピアノの美しさに耳を傾けるだけで、色とりどりの音が微妙に目の前に展開して飽きない。

若いヴァイオリニスト枝並千花とデュオによるフランクとフォーレのソナタも素晴らしい。こんな素晴らしいピアノストをこれまで知らなかったことを恥じた。

397 クラウディオ・アバド指揮、ルツェルン祝祭管弦楽団によるベートーヴェンの『フィデリオ』全曲。

私はこれまでアバドのベートーヴェンには満足できなかった。ベルリンフィルとの交響曲全集も、ほとんどの曲が中途半端で退屈だと思っていた。が、この「フィデリオ」を聴いて、アバドのベートーヴェンもついにこのような高みに達したかと思った。このようなベートーヴェンを模索していたのか!と、初めて納得できた。

 いたずらに劇的に盛り上げようとはしていない。だが、緊迫感が持続し、実にリアルな音がする。一時期、古楽コンプレックスを感じさせる音のつくりだったが、古楽的なアプローチをしっかりと自分のものにして、リアルな音を作り出していると思った。中庸を守っていながら、そこに中身の詰まったしっかりとした音を作り出している。序曲からして、実に安定し、わくわく感もある。

 歌手も粒ぞろい。ニーナ・シュテンメのレオノーレは実に美しい。ただ、あまりに女性的なので、ちょっと肩すかしを食う。そして、なんといってもフロレスタンを歌うヨナス・カウフマンが凄い! 登場して最初の、ピアニシモから徐々に盛り上げていく声には、あっと息をのむ。何という美声、なんという強靭でしっかりした声。ピツァロはファルク・シュトルックマン。例によって、癖のある、やや気取った歌い方。偉そうな悪漢という感じはよく出ている。アーノルト・シェーンベルク合唱団の合唱もすばらしい。

ピツァロがフロレスタンを殺そうとして、レオノーレが助けに入る場面の緊迫感は比類がない。私はこのCDをアバドの代表的な名盤の一つだと思った。

378 大友直人の指揮、東京交響楽団による佐村河内守(さむらごうち・まもる)の交響曲第1番『HIROSHIMA』。

 ブログにコメントが寄せられて、このCDの存在を知った。被爆二世で、聴覚障害によってほとんど全聾になった作曲家が絶望的な精神状態の中で作った80分を超す大曲。好奇心を刺激されたので、聴いてみた。まさしくブルックナーやマーラーを連想させる曲想。第二楽章は、シュトラウスの「メタモルフォーゼン」を彷彿とさせる。これを名曲というのかどうかはわからない。第二楽章は少々退屈だった。だが、間違いなく聞き取れるのは、これが「ものまね」ではなく、作曲者の心の底から出来上がった音楽だということだ。そうであるだけに、異様な迫力がある。最後、「救い」の曲想になるが、それまで重苦しい曲をずっと聴いてきたものは、心の底から感動を覚える。これまで、ブルックナーやマーラーの亜流のような曲はずいぶん聴いてきた気がするが、それとはまったく異質。

 どっこい交響曲は生きていた、しかも日本で! と思った。こんな曲が今、必然を持って、今の日本で作れるんだという驚きが大きかった。が、同時に、ふつうの人とはかけ離れた生き方をして人にしか、このような必然性のある交響曲が作れなくなっているというのも事実なのだろう。

 

321 ズビン・メータのミュンヘンの代表的なオーケストラのメンバーによる日本復興支援演奏会でのバッハの「アリア」とベートーヴェンの第9。

 4月10日の日本でのメータ+N響の第九(新国立の「ばらの騎士」と重なったので、行けなかった!)もテレビで見て凄い演奏だと思ったが、それにも勝ると思った。N響のときほどの異様な雰囲気はないが、もっとのびやかで、もっと安定している。しかも十分に緊迫感にあふれている。10年ほど前だったか、メータの第九を聴いて、第三楽章までかなりザツなのに、第四楽章になって大迫力の祝祭になったのだったが、今回は、最初からじっくりと丁寧に演奏。「日本復興」ということについての思い入れをなくしても、素晴らしい演奏!

41pqpzqsl__sl500_aa300_ ディアナ・ダムラウのコロラトゥーラ・アリア集。伴奏は、ダン・エッティンガー指揮によるミュンヘン放送管弦楽団。驚いたといえば、このCDを挙げる必要があるだろう。言葉をなくすほどの超絶技巧の声。私はこの種のアリア集はあまり聴かないのだが、これは驚きの連続だった。「アリアドネ」のなかのツェルビネッタのアリアはとりわけ圧倒される。きっと、ダムラウは、今グルベローヴァやデセイを超える声の力の持ち主なのだと思う。

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