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ザルツブルク音楽祭「ドン・ジョヴァンニ」はすばらしかった

昨晩のうちに、感想を書いていたのだが、ホテルの無線LANへの接続トラブル(しばしば、つながらなくなる!)のために、ブログに載せられなかった。朝になってつながった。

8月23日、ザルツブルク音楽祭、モーツァルト劇場で、「ドン・ジョヴァンニ」を見てきた。指揮は、ヤニック・ネゼ・セガン、演出はクラウス・グート、ウィーンフィル。

大変満足。本当にすばらしかった。ただ、前もって何も知らずに行ったので、ドン・ジョヴァンニの死で終わったのにびっくり。最後の「めでたしめでたし」の部分がカットされていた。とはいえ、確か、この部分、モーツァルトがいやいや付け加えたところだったはず。それに確かに、この部分、ちょっと変。そんなわけで、保守的な私としてはちょっと抵抗はあるが、まあいいか、と思った。

何より、指揮とオケのすばらしさに圧倒された。セガンという指揮者、これまでちゃんと意識して聴いたことはなかった。きびきびして、全体を完璧に掌握して、要所要所できちんときめる。ウィーンフィルだから当たり前だとは言え、実に中身のつまった太くて雰囲気のある音を出す。シリアスで暗めの音に徹しているが、もちろん、それは演出を意識してのことだろう。ミンコフスキーよりももっといろんな技を持っていそう。とりわけ、第二幕の、レポレッロが正体を明かされた後の五重唱のアンサンブルとオケの運びは絶妙だった。鳥肌が立った。

歌手もそろっていた。特に良かったのは、やはりドン・ジョヴァンニを歌ったジェラード・フィンリー。声も通るし、存在感がある。演技も見事。ほれぼれする。レポレッロを歌ったアドリアン・サンペトレアンもフィンリーに負けないほどすばらしかった。声に力があっていい。

ドンナ・アンナを歌ったマリン・ビストレムも実に良かった。見た目もきれい。遠目に見ると、1970年ころのカトリーヌ・ドヌーヴそっくりに見えるのだが、きっと近寄ったら違うんだろう。ドンナ・エルヴィラのドロテーア・レシュマンも同じくすばらしい。ただ、第二幕のアリアは後半、息が切れてきた。残念。マゼットを歌ったアダム・プラチェトカ(?)は若い歌手だが、とてもよかった。これからが楽しみ。

ツェリーナのクリスチアーネ・カルクは見た目も歌もチャーミングだけど、もう少し迫力がほしいと思ったが、欲張りすぎかもしれない。オッターヴィオのホエル・プリエトは最初のアリアは後半、息切れがしてめろめろになったが、第二幕はまずまず。

 グートの演出は、私には大変おもしろかった。第一幕も第二幕も、ずっと同じ森の中で展開される。しかも、ずっと暗い。が、確かに、このオペラは暗い曲だ。主要な男性の役はすべてバスかバリトン。ドン・オッターヴィオという存在感のない人物だけがテノール。だから、暗くて重いのには違和感はない。

「コシ・ファン・トゥッテ」と同じように、この森は「本能」のようなものを象徴しているのだろう。汚れたところもあるが、人間が持つ生命の本能。

 第一幕のはじめ、ドン・ジョヴァンニは騎士長との闘いでピストルで撃たれて傷を負って血を流す。傷は「罪」を意味するだろう。ドン・ジョヴァンニは森=本能を讃え、ある意味で輝かしく生きていた。が、騎士長を殺すことで「罪」を犯してしまう。それが傷=血で象徴される。罪を犯してしまったら、森はかつての輝きを失うしかない。だから、第二幕になると、木が折れ、森がかつての精彩を失っている。罪を犯した本能は、罰を受けざるを得なくなる。これは、一人の人間が生命の命ずるところにしたがって雄雄しく生きようとしたが、その結果、罪を犯してしまい、雄雄しいはずの生命までもが弱まってしまう物語だろう。いってみれば、すべての人間が経験している物語といえるかもしれない。

 ドンナ・アンナははじめからドン・ジョヴァンニを愛しており、関係を持っている。そして、ドン・オッターヴィオと二股をかけている。つまり、ドン・ジョヴァンニの本能=生の魅力にひきつけられ、生真面目なドン・オッターヴィオに不満を覚えている。父親を殺されても、ドン・ジョヴァンニを愛するのをやめない。ドンナ・エルヴィラと同じような心理と考えればいいだろう。が、ドンナ・エルヴィラにドン・ジョヴァンニの行動を聞いて、ドン・ジョヴァンニから離れようとする。が、最後まで決意が揺らいでいる。だから、ドン・ジョヴァンニを制裁する側には最後まで立たない。が、これも人間の一つの典型的な姿だろう。人間誰しも、本能を表に出して生きる人間に惹かれるが、やはり、それに徹することはできずに二股をかけているのだ。

 ともあれ、実に満足。繰り返すが、指揮とオーケストラが本当にすばらしかった。

 これで、今回の私のザルツブルク音楽祭は終わる。ほとんど、毎日が感動だった。そして、毎日、暑かった!! 

書くのを忘れていたが、私がザルツブルクに到着してから今日まで、毎日、30度を越えていた。湿気が少ないので、半袖でいられれば、そんなに不快ではないのだが、何しろ音楽祭なので、私も一応は黒い上着を着てネクタイを締めて出かける。とんでもなく暑い。しかも、私の黒服は、2001年の冬だったか、ベルリン・シュターツ・オパーでバレンボイムがワーグナー10演目を振ったときに、黒服を用意していなかったので、あわててベルリンのスーパーで買った生地の厚いものだ。ザルツブルクはきっと気温20度くらいだろうからそれで大丈夫だろうと思っていたら、とんでもない。本当に暑くて、上着を着るのが苦痛だった。実際にはほとんど上着は手に持っているだけだったが。

しばらくして、ホテルを出て、あとは帰国するのみ。

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コメント

こんにちは。初めてアップします。今回のザルツブルグのブログを拝見しました。ヨーロッパに音楽を聴きに行くときの行動パターンが私とあまりにそっくりなのと、22~23日にかけて私も20数年ぶりでザルツブルグ音楽祭に行ったこと、また、23日のドンジョバンニを聴いて、オケと指揮の素晴らしさに酔いしれた一人としてアップいたします。
私の席は2階席の前から7列目、正面からやや右側という位置でした。何しろザルツブルグ音楽祭は学生時代に来て以来24年ぶり。モーツアルト劇場の雰囲気やいかに、という気持ちで劇場に入りました。
劇場内は近代的な造りで舞台上方に英語、ドイツ語の字幕が出ることに驚きました。さて演奏ですが、序曲の序盤で若干違和感を覚えたものの、そのあとは終始美しいアンサンブルと巧みな指揮さばきに魅せられました。セガン指揮のウィーンフィルは流麗、繊細で澱みなく、かつ劇性を備えた素晴らしい内容。ご指摘の五重唱以外にも何度も夢心地にさせられる場面がありました。私の席は2階だったこともあるのでしょうか、弦、木管、金管などの音がそれぞれの演者の位置から鮮明に浮かび上がって聴こえます。また、視覚的には、舞台とオケの両方を俯瞰できる位置で、私はあまりのアンサンブルの美しさに、しばしば舞台よりオケと指揮者に目を奪われてしまいました。歌手は総じて歌えていたと思います。個人的にはツェルリーナ(Christiane Karg)の声質が気に入りましたが、一部の歌手でアリアの出来がやや不満。例えば2幕のドンナアンナ(Malin Byström)のアリアは高音の処理が不完全でやや苦しい感じでした。最後の「地獄落ち」後の処理(カット)は、開演前に教えてくれた人がいたので驚きはありませんでした。初めてドンジョバンニを聴いた時以来「なぜモーツアルトはこの部分を書いたのだろう」と不思議かつ残念に思っていたのでカットは大歓迎。ただし、モーツアルトの音楽を冒涜するものだと終演後に不満を言っている人もいました。とにかく、オケと指揮の素晴らしさに陶酔した夜でした。

投稿: 赤垣裕介 | 2011年8月26日 (金) 09時33分

赤垣裕介様
コメント、ありがとうございます。
あの「ドン・ジョヴァンニ」の時間を共有し、同じように感動していたこと、とてもうれしく思います。
本当に素晴らしい演奏でした。歌手ももちろん素晴らしかったとはいえ、やはり陶酔したのは、セガンの指揮とウィーンフィルでした。私は1階の後方で聴いたのですが、2階のほうが楽器はしっかりと聴き分けられ、指揮ぶりも見られたでしょうね。
個人的に少し残念なのは、前もって「地獄落ち」で終わると知っていれば、もっと盛大な拍手ができたことです。拍手が起こったとき、心の中で、まだ続きがあるのに、何でこの人たちは拍手するんだ、だれか制止してくれないだろうか、と思いました。場内が明るくなって、やっと本当にこれで終わりだと確信したのでした。

投稿: 樋口裕一 | 2011年8月27日 (土) 15時10分

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