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ケント・ナガノのバイエルン国立歌劇場管弦楽団は素晴らしかった

 9月28日、ケント・ナガノ指揮、バイエルン国立歌劇場管弦楽団演奏会に行った。曲目は、前半、ワーグナーの「タンホイザー」より、序曲とヴェーヌスベルクの音楽(パリ版)と、シュトラウスの「四つの最後の歌」。ソプラノはアドリエンヌ・ピエチョンカ。国版、ブラームスの交響曲第4番。アンコールは「ローエングリン」の第三幕への前奏。

 一言で言って、素晴らしかった。

 「タンホイザー」は、実に知的。音の重なりが絶妙で、構成感がしっかりしている。ただし、ワーグナー的なうねりはなく、かなり直截的で、ややエロスには欠ける。つまり、私の最も好きなワーグナーではない。が、力感があり、音に重なりが実に美しいし、小気味よいし、魂の奥に突き刺さる面がある。それはそれで見事な演奏。

 「四つの最後の歌」もとてもよかった。オケはますます色彩的になり、シュトラウスにピッタリの音になった。ピエチョンカの歌も実にいい。きわめてリート的な歌い方で、力任せに歌うのではない。小声の効果を上手に使う。観客をぐっと引きこむ力を持っている。第三曲「眠るとき」のヴァイオリンソロ以降は、まさしく絶品。ヴァイオリン・ソロも美しかった。

私は、この歌手、大いに気に入った。今回のバイエルンの公演でアリアドネを歌うが、楽しみだ。

後半のブラームスは実に整理された、構成のがっちりしたブラームス。ワーグナーがエロスに欠けていたと同じように、ブラームスも憂愁が不足。つまり、あまりロマンティックではない。もやもやした煮え切れないブラームス特有の暗さがないので、私としてはちょっと物足りない。とりわけ、第一楽章の出だし、少しもすすり泣き風の音楽ではないし、第一楽章の最後もドラマ性に欠ける。が、第三楽章から論理的な盛り上がりを見せた。感情で盛り上げるのでなく、音の積み重ねによって、息もつかせないほどの迫力を示す。そして、そのまま第四楽章に入り、理詰めに音を繰り広げていく。これはこれで凄まじい迫力。これには感服するしかない。 実に見事な演奏だった。最後、かなり感動した。

が、好きな演奏だったかというと、そうでもない。素晴らしいと思いながらも、大感動には至らなかった。ブラームスはもっと暗くあってほしいと私は思う。そして、ナガノはもう少し羽目をはずして、爆発してもいいのではないかと思った。きっと、この人が、我を忘れて知性をはみ出した時、ものすごい音楽が出てくるに違いない。

今回、バイエルン国立歌劇場の団員100名ほどが日本の放射能漏れのために来日を拒否したという。100名の中にオーケストラ団員がどのくらい含まれるかは知らないが、もし、全員が本来のメンバーだったら、もっとすごい演奏をしてくれたのかもしれない。次の機会を待ちたい。

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鳥栖のラ・フォル・ジュルネが来年は開かれない?

 私にとっての衝撃的なニュースが入ってきた。

鳥栖市議会9月定例会で、来年のラ・フォル・ジュルネ鳥栖の準備経費を削減する修正案が全会一致で可決されたという!

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110922-00000236-mailo-l41

 事情はよくわからないが、文字どおりにとれば、来年のラ・フォル・ジュルネを開催できないということなのだろうか。まさか、そんなことはないと思うが、もしそうだとすると、大変なことだ。市長と議会の軋轢でもあるのだろうか。

 私もブログで書いたとおり、今年の鳥栖のラ・フォル・ジュルネは客を7万人近くを集め、大成功に終わった。演奏も素晴らしいものが多かった。私は大いに興奮した。これまでクラシック音楽に触れたことのない人々が、世界最高レベルの演奏に触れて、心から感動したはずだ。しかも、鳥栖は、ラ・フォル・ジュルネによって存在感を示し、文化都市として名を知られるようになった。これを機会に、鳥栖が、そして九州がもっともっと豊かな文化を誇るようになるものと思った。

 おそらく、ラ・フォル・ジュルネに足を運んだほとんどの人が、来年の開催を求めているはずだ。世界レベルの演奏家たちが次々と鳥栖を訪れて、名演奏を披露してくれるのに感動したはずだ。

このような音楽の祭典を1年だけでやめてしまうのは、あまりにもったいない。なんとかならないのだろうか。もちろん、クラシック音楽だけを特別扱いするのは問題があるかもしれない。が、クラシック音楽をきっかけにして、美術、演劇、文学など様々な技術文化への関心を広げることができるのではなかろうか。

 もし、どうしても鳥栖でできないのなら、私の故郷である日田市で、鳥栖のラ・フォル・ジュルネを受け継ぐことはできないだろうか。いずれにせよ、九州のクラシック音楽の大イベントがなくなってしまうとすると、残念で仕方がない。何とかうまい形で解決することを祈る。

 今日は、京都の立命館小学校で仕事。原稿を書くなどの仕事があるので、日帰りで自宅に戻った。夕食は、贔屓の店、京都駅前の新阪急ホテルの美濃吉で、今回もまた「鴨川」を食べた。絶品。

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バイエルン国立歌劇場「ローエングリン」はちょっと物足りなかった

 9月25日、NHKホールでバイエルン国立歌劇場公演「ローエングリン」をみた。指揮はケント・ナガノ。演出はリチャード・ジョーンズ。ローエングリンは、カウフマンがキャンセルになって、代役はヨハン・ボータ。

 第一幕の前奏の出だし、あの精妙なはずの弦の音が、あまり精妙ではなかった。第三幕への前奏も炸裂しないまま。合唱もバランスが崩れることが何度かあったし、オケと歌手の微妙なずれも何度か感じた。ともかく、全体がぴしっと決まらないままだった。

 本番中は、もしかしてまだオケ団員達の時差ボケしているのか、それとも、CDで聴くとあんなに素晴らしいケント・ナガノの実力というのは、こんなものなのだろうかと思っていたが、その後、放射能汚染を理由に、バイエルン国立歌劇場の団員100人が来日を拒否したというニュースを聞いた。そのせいで、オケがうまく機能しなかったのかもしれない。彼らの実力がこんなもののはずがない。

 とはいえ、もちろん、悪くはない。ボータのローエングリンも、容姿の上でのカウフマンとの差は限りなく大きいが、歌唱の面では、遜色ない。が、そうは言うものの、このオペラでの主役の容姿はかなり大きな意味を持つ。150キロのボータがどたどた歩いても、少しも高貴に見えないのが苦しい。

エルザのエミリー・マギーは、きれいな声で、悪くないのだが、あまりに線が細い。テルラムントを歌ったアフゲニー・ニキーチンは真面目な悪役ぶりがおもしろい。伝令を歌ったマーティン・ガントナーもとてもよかった。ハインリヒ王のクリシティン・ジークムントソンはちょっと期待外れだった。もっと太い声がほしかった。

圧倒的だったのは、オルトルートを歌ったワルトラウト・マイヤー。ちょっと声のコントロールが全盛期ほど完璧ではないと思ったが、声の迫力と存在感は相変わらず。

ただ、第二幕の悪役二人が復讐を誓う暗黒の場面は、ナガノの指揮、あるいはオケの精度のせいか、不燃焼気味だった。もっとどす黒い悪の世界を聞かせてほしかった。

演出はあまり好きではない。あまりに単純。この物語全体を、エルザが家を建てようし、それをローエングリンが手伝うものの、オルトルートとテルラムント二人の悪役によって邪魔される・・という話にまとめている。従来の形而上学的な解釈を否定して、あくまでも形而下的な物語にしようということだろう。そして、この家は、労働者階級の夢としての家ということらしい。手伝うのが、Tシャツを着た労働者階級っぽい人々。テルラムントの仲間たちはネクタイ姿のプチブル階級として描かれる。労働者階級の夢であった家の建設(もしかしたら、社会主義国家の建設というかつての東ドイツの夢が重ねられているのかもしれない)が、ブルジョワ階級の手先によって邪魔され、崩れてしまう物語といえるだろう。

この「ローエングリン」をそんな下世話の話にしてしまったら、つまらなくなってしまうと思うのは、きっと私が昔のワーグナーにとらわれすぎているせいなのだろう。が、そうは言いつつ、ドイツで放射能が大きな話題になっている中、来日してくれたことには感謝するばかり。

 少し不満を抱きながら、帰った。

 ついでに愚痴を。帰りに新宿の駅ビルのベトナム料理屋に一人で入って、フォー(ベトナムうどん)の定食と生ビールを注文したら、生ビールは来ないまま、伝票にだけビール代金が加算されていた。結局、ビールはキャンセルした。フォーは箸で食べようとすると、切れてしまって口に入らないほどふやけていた。味自体は悪くないが、箸で食べられないフォーなんて、聞いたことがない。仕方がないので、スプーンですくって飲みこんだ。しかも、支払いにずいぶん待たされた。忙しい時間帯だったのかもしれないが、苛立ちを覚えた。

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藤原亜美&長尾洋史デュオ、リストに感動

 9月24日、多摩大学で午前中から午後まで、学務をこなした後、上野の東京文化会館小ホールに直行して、藤原亜美&長尾洋史スーパー・ピアノ・デュオを聞いた。前半は、ドビュッシーの「白と黒で」とシューベルトの幻想曲ヘ短調、後半に、リストの「ドン・ジョヴァンニの回想」とモーツァルトの2台のピアノのためのソナタニ長調。見事な演奏。

 そもそも私はピアノに疎く、しかも2台のピアノのための曲や連弾曲は特に聴いたことがないので、今日聞いた曲で、聞きおぼえがあるのは、モーツァルトだけだった。久しぶりにコンサートで知らない曲が続いた。

だから、あまり深いことは言えないが、藤原さんと長尾さんは音楽に対するアプローチがよく似ている気がした。それとも、長尾さんが音楽の基盤を作っているのか。今日のデュオは、私がこれまで聴いた長尾さんの演奏ととてもタッチが似ていた。

 たとえば、シューベルトの幻想曲。普通だったら、もっとメロディを浮きたたせて、リズムを崩しながら思いを込めて演奏するだろう。モーツァルトも、もっと旋律線を強調するだろう。が、あえてそうしようとはしない。ある意味で、旋律線も伴奏のピアノの音の中にちょっとだけ埋もれがちになる。ややポリフォニックな表現といえるかもしれない。が、そこにリリシズムが立ち上がる。

 私は残念ながらドビュッシーにはあまり心ひかれなかった。モーツァルトについては、あまりモーツァルトらしくなかったので、ちょっと違和感があった。が、シューベルトとリストがとりわけ素晴らしかった。特に、リストが本当にすごい。「ドン・ジョヴァンニ」の中のメロディがくんずほぐれつして、時々炸裂する。そのピアノの音のからみを、二人の演奏家が実にきれいに表現してくれた。ただ残念ながら、私の耳には、二人の音の区別はできなかった。

 実に満足。私のピアノ不感症は癒えつつある。

 

 猛烈な忙しさが続いている。原稿を書き終わらないうちに夏休みが終わってしまっただけでも焦っているのに、バイエルン国立歌劇場公演にも明日から何度か行くことになる。ますます時間がなくなる。

 そんな中、一つ心配事がある。我が家のイチジクに元気がない。2本の幹のうちの1本は、台風で倒れたので、根元からのこぎりで切った。もう一本のほうは無事なはずだったが、どうもそうでもなさそう。葉っぱがしおれた感じになり、すでに枯れた葉も何枚かある。台風の威力はかなり大きかったということだろう。しばらく様子を見守るしかなさそう。

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無念! ブロムシュテット+N響のブルックナーに台風のせいで行けなかった!!

 楽しみにしていたヘルベルト・ブロムシュテット指揮、NHK交響楽団によるサントリーホールでのシューベルトの7番とブルックナーの交響曲第7番の演奏。台風のために、行けなかった。

 私の住む地域では、午後、暴風雨のために都心に向かう電車が止まった。残るは車で行くしかない。着替えていざ出発しようとして、激しい風雨に恐れをなした。車で道路を走るのに恐怖を覚えるレベルの風雨だった。

 私は九州の生まれなので、子どものころにはよく台風を体験した。昔の台風は凄まじかった。東京に出てきてから、このような台風に出会った覚えがない。

 なにはともあれ、残念。最も嬉しいのは、主催者がさっさとコンサートを中止にしてくれて、後日、同じプログラムでコンサートを開いてくれることだったのだが、そうもいかなかっただろう。主催者の事情を考えれば、どんな台風でも強行するしかなかっただろう。

 今日、都心に出ていた人がうらやましい。考えてみれば、昼間のうちに都心に出ていればよかった! 夕方まで自宅で仕事をしようと思っていたのが、甘かった。悔やんでも悔やみきれない。

 台風が去って、庭に出てみたら、イチジクの木の幹が一本、根本から倒れていた。最も太い幹は少し傾きながらも、どうやら無事だった。倒れたのは、その横に生えているもう一本の幹。今回の台風に威力を思い知らされた。

 今回、ブロムシュテットはシベリウスとドヴォルザークしか聴けなかった。ラフマニノフとチャイコフスキーのプログラムは、京都産業大学の集中講義と重なった。最も好きなブルックナーが聴けるので、まあいいかと思っていたのだったが。テレビ放映に期待したい。そして、ブロムシュテットの次の来日を待ちたい。

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ボルトンのモーツァルトは期待ほどではなかった

 9月20日、武蔵野市民文化会館で、アイヴァー・ボルトン指揮、モーツァルテウム管弦楽団のモーツァルトのコンサートを聞いてきた。一言で言って、期待ほどではなかった。もしかしたら、ザルツブルク音楽祭の大感動の後遺症が残っているのかもしれないが。

 前半には、モナ=飛鳥・オットのピアノが加わって、ピアノ協奏曲第21番と交響曲第40番。後半に交響曲第41番ジュピター。

 ボルトンとモーツァルテウム管弦楽団の演奏は、ザルツブルク音楽祭で、「ナイチンゲール」と「イオランタ」を聞いた。特にものすごいということはなかったが、悪くなかった。ロシア的な濃厚さはなかったが、音楽が生き生きとしていて、とても楽しめた。今日も同じような感じで楽しめるものと思っていた。

 私のきわめて個人的な感覚では、この指揮者、部分部分を拡大させて、生き生きと演奏するように思う。古楽的な奏法もおもしろい。オケの力量も確か。だから、それぞれの部分はとてもよいのだが、そうすると形が壊れてしまう。構成感を感じない。全体を貫く推進力がない。少なくとも、私はそう感じた。

それが最も顕著なのは、ジュピターの終楽章。対位法の小気味よい楽章なのだが、その小気味よさを私は少しも感じなかった。むしろ、オペラのような感じになっている。すべての楽章が、交響曲の一部というよりも、オペラ的な雰囲気に思えた。

 少なくとも、これは私の好きな交響曲ではない。私はもっとがっちりと構成されたものが好きだ。モーツァルトはベートーヴェンではないとはいえ、もう少し、均整美を重視するべきではないかと思った。私に言わせれば、この人は本質的にオペラ指揮者だ。

 アンコール曲は、モーツァルトの「行進曲」と「カッサシオン」。ともに、若書きの曲で、私は初めて聴いたが、私には交響曲よりも、これらのほうがおもしろかった。もともと形式を気にしなくてよい曲なので、自由に演奏できるのだろう。

 協奏曲のピアノについても、私はあまりわくわくしなかった。指揮とうまく息があっていない気がしたが、気のせいだったか。

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プーランクとフォーレのCDのことなど

 金曜日、京都産業大学の集中講義を終えて東京に戻った。春学期の15回の講義を5日間で済ませてしまおうというのだから、かなり疲れる。とてもよい学生たちだったので、教えやすかったが、それでも、東京に戻ったときにはぐったり。

 京都にいる間、2度、贔屓の美濃吉(新阪急ホテル京都の地下)で夕食を取った。二度とも同じ「鴨川」という懐石膳。白みそ仕立てもいつもながら実においしい。秋刀魚の味噌柚庵焼きが絶品だった。これが絶品だったので、二度、そこに行き、同じものを食べたのだった。ここの料理のおかげで京都に来るのが楽しみだ。

 先日、このブログに書いたとおり、中丸三千繪の歌う三枝成彰作曲のモノオペラ「悲嘆」に圧倒されたものの、同時に上演されたプーランクの「人間の声」は少々不満だった。それをきっかけにして、プーランクを聞き返したい気持ちになった。新たに何枚かCDやBDを購入した。ついでに、フォーレなどのフランス音楽も聴いてみた。その感想を少し書いておく。

285  プーランク作曲『カルメル会修道女の対話』のバイエルン・シュターツオパーでの上演(BD)。指揮はケント・ナガノ、演出はチェルニャコフ。

修道女の姿ではなく、女性たちはみんな現代の平服。小さなカルト集団という感じ。女性たちはずっと小さなガラス張り(とはいえ、本当にガラスだったら声が通らないので、ほかの素材なのだろう)の小屋の中に閉じこもっている。小さな自分たちの宗教を必死に守ろうとしているが、現代から追い詰められていく。そのような様子がうまく描かれている。

最後、修道女たちはギロチンで死刑にされるのではなく、警察によって取り囲まれ、火に焼かれようとするが、ブランシュがそれを救い、自らは犠牲になってしまうという筋立て。このオペラを現代に舞台を移すとすれば、このように改変するしかないだろう。私には、これは十分に納得できる。

歌手はみんなよかった。とりわけ、リドワーヌ修道女を歌ったソイレ・イソコスキがやはり貫録を見せて圧倒的。ブランシュのスーザン・グリットンも存在感にあふれ、陽気なコンスタンスを歌ったエレーヌ・ギルメットも実にチャーミング。数人、フランス語の発音が変な人がいたが、全体的には発音も悪くない。

私が最も魅力を覚えたのはケント・ナガノの指揮。私が理想とする繊細でフランス的な演奏ではない。かなりダイナミックで切れがいい。演出のせいかもしれないが、マダム・ド・クロワシーの歌をドラマティックに描いていて、それはそれで非常に説得力があり、悲劇性が浮き彫りになる。

改めて、この曲は素晴らしい名オペラだと思った。

838 もう一枚は、メノッティ作曲のオペラ「電話」とプーランクのモノオペラ「人間の声」のDVD。ともに、ソプラノはキャロル・ファーレイ、「電話」ではテノールのラッセル・スミスが加わる。スコットランド室内管弦楽団、指揮はホセ・セレブリエ

メノッティの「電話」はかなりおもしろかった。喜劇調の30分ほどの作品で登場人物は二人きり。英語で歌われるが、十分にオペラ的に歌われる。ファーレイが実に魅力的。明るくてちょっとおっちょこちょいの女性を上手に描いている。

が、「人間の声」のほうは、ずっと違和感が去らなかった。フランス語を使っているが、フランス女性と立ち居振る舞いが違う気がする。発音もフランス人らしくない。そのため、おしゃれで孤独で見栄っ張りで、しかもかわいらしいフランス女性の姿が見えてこない。私は女性に共感できないままだった。指揮はまずまず。あまり素晴らしい演奏ではないと思った。

270_puranku プーランク室内楽全集のCD。これは実におもしろい。エマニュエル・パユのフルート、ポール・メイエのクラリネット、エリック・ルサージュのピアノによる。要するにフランスを代表する名手たちによる演奏だ。洒落ていて、時々ふまじめで、時々まじめ、そして、反時代的というプーランクの世界を満喫できる。ますますプーランクが好きになった。

374_fore フォーレ室内楽全集のCD。これは先ごろ発売になったばかりだが、これも素晴らしい。ルノーとゴーティエのキャプソン兄弟を中心にし、ミシェル・ダルベルト、ニコラ・アンゲリッシュのピアノ、エベーヌ弦楽四重奏団を加えた演奏だ。ルノー・キャプソンの繊細で透明な音、研ぎ澄まされており、しかもリリックな音楽性。本当に素晴らしい。私はこれまでジャン・ユボーが中心になって演奏しているCDを聞いてきたが、今回の新しい全集のほうにずっと魅力を感じた。しかも、私はこの5枚組CDを1500円で買った。何というお買い得! この演奏家たち、ラ・フォル・ジュルネでおなじみ。とりわけ、ナントのラ・フォル・ジュルネにはほとんど毎年のように出演している。改めて彼らの実力を実感することができた。

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ピアノ不感症人間も驚嘆した二人のピアニスト、長尾洋史とアレクサンダー・メルニコフ

 私はピアノ独奏曲をあまり聴かない。ヴァイオリン・ソナタを聴いても、私の耳はヴァイオリンばかりを追いかける。ピアノ協奏曲にはもちろん大好きなものが多いが、それでもヴァイオリン協奏曲に比べると、聴く回数はずっと少ない。私は、もっぱらオペラ、交響曲、弦楽器中心の室内楽、そして歌曲を好んで聴いている。以前、デュメイのヴァイオリンを聴きに行って、むしろピアノ伴奏をしたピリスのほうにいっそう感動したことはあった。さきごろ、ラ・フォル・ジュルネで野原みどりと児玉桃を聴いて、ピアノの素晴らしさに打たれた。だが、それでもピアノ独奏のCDを自ら聴くことはほとんどなかった。

 ところが、そのピアノ不感症の私が、最近になって心底しびれたピアニストが二人いる。

 一人は、長尾洋史。先ごろ、メゾソプラノの加納悦子さんのコンサートで長尾さんのピアノを聴き、その抑制されたロマンティシズムに圧倒され、そのことをこのブログに書いたところ、ご本人からコメントをいただいた。そのご縁で、CDを何枚か聞かせていただいた。どれもすばらしい。社交辞令でもなんでもなく、本当にすばらしい。そのうちのラヴェルとドビュッシーの曲集については、すでにブログで紹介した。

055 ところが、先ごろリリースされたリストとレーガーの一枚がそれ以上にすばらしい。まず私は最初の曲「バッハのカンタータ『泣き、嘆き、憂い、おののき』の主題による変奏曲に驚嘆した。ピアノ不感症の人間をも圧倒させる力を持っている。テクニックも見事。まったく乱れなく、リストの超絶技巧を弾きこなす。が、それどころではない。とりわけ、始まってから5分を過ぎたころからの高揚は圧倒的。研ぎ澄まされた音で、誇張がなく、ただ本質だけを的確に取り出している。そうすると、抑制された、そうであるだけにいっそう魂の奥底に響くロマンティシズムが解き放たれる。脳天にまで届くような感動に襲われた。

リストについての私のこれまでの理解がいかに浅かったか、思い知らされた。これがリストだったのかと思った。そうだとすると、私の最も好きなタイプの作曲家ではないか!

リストのほかの曲も、レーガーの曲もいい。このようなタイプのピアニストが日本にいるとはつい最近まで知らなかった。以前から活躍しておられたのを私が知らなかっただけだと思うが、「ものすごいピアニストが現れたものだ」と思った。

とはいえ、私はピアノ曲についてはまさに勉強不足。ピアノの演奏についても、評価したり論じたりする言葉を多く持たない。ともあれ、多くの方のこのCDを聞いていただきたい。

9月24日に上野の東京文化会館小ホールで、藤原亜美さんと長尾さんのデュオコンサートがある。とても楽しみだ。

745 もう一人のピアニストは、アレクサンダー・メルニコフ。王子ホールで聴いたイザベル・ファウストのバッハ無伴奏がすばらしかったので、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全集のCDを買ってみた。ファウストは予想通りすばらしかった。現代最高のヴァイオリニストの一人だと確認した。同時に、ピアノ伴奏をしているメルニコフにもびっくり。こんなベートーヴェンのピアノ伴奏、聴いたことがない。ファウストのアプローチにぴったりのピアノだと思った。鮮烈にして、リアル。タッチが本当に美しい。どの曲もすばらしいが、私は8番のソナタの第一楽章の鮮烈さにとりわけ息を呑んだ。ファウストに少しも負けていない。二人でこの上なく鮮烈で美しくスリリングなベートーヴェンを作り上げている。

きっとメルニコフも多くの人に注目されているピアニストであって、今頃になって知った私が不明を恥じるべきなのだろう。が、長尾とメルニコフという二人のピアニストを知ったことで、これから私にとっての音楽の世界が広がることになるだろう。そのうち、私の不感症が癒えるような気がしないでもない。が、これ以上のピアノ曲まで聴くようになると、ますます時間とお金がなくなってしまうのが怖い!!

11日(日曜日)の夜から京都に来ている。京都産業大学での集中講義。昨日、締め切りの原稿を送信して少しだけ余裕ができたので、観光したいと思っていたが、暑くて、そのような気になれない。まるで真夏の暑さだ。

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ブロムシュテットとN響の素晴らしい「新世界」

 9月10日、NHKホールで、ヘルベルト・ブロムシュテット指揮、NHK交響楽団の演奏を聴いてきた。前半は、竹澤恭子が加わって、シベリウスのヴァイオリン協奏曲。後半、ドヴォルザークの「新世界から」。竹澤は、急遽、健康上の事情でキャンセルになったカヴァコスの代役。カヴァコスは聴いてことがないので、大いに期待していたのだったが、ちょっと残念。

 竹澤さんは、これまで何度か聴いて実力のほどはよく知っている。そして、間違いなく安定した実力を聴かせてくれた。が、あと一歩突き抜けたものを感じなかった。ブロムシュテットの指揮も、もちろんとてもよい音を出しているのだが、あくまでも「つけている」という印象をぬぐい切れなかった。ちょっと不完全燃焼気味。シベリウスはもっともっともりあがってほしい。

 後半の「新世界から」は、素晴らしい演奏。

 クリアな音で、リズムが実に決まっている。音楽の表情もみごと。一つ一つの音がしっかりと聞こえ、それぞれが実に生き生きとして、形はまったく崩れない。オーソドックスといえばオーソドックスで、何も変なことはしていないのだが、実に新鮮に聞こえる。細部まで神経が行き届いていて、音そのものが実にリアル。目の前で音楽が生きているという印象。これが80歳を超えた指揮者の音楽だとは信じられない。

N響の実力たるや、大したものだと思った。ブロムシュテットの指示に敏感に反応しているのがよくわかる。弦はもちろん、木管も金管も素晴らしい。金管楽器が素晴らしいと、日本のオケで感じたのは、もしかしたら初めてかもしれない。

ただ、素晴らしいと思い、何度も感動に震えたが、一昨年のチェコフィルと来日してこの曲を演奏したときほど感動しなかった気がする。あのときは、もっともっと感動したのを覚えている。第四楽章、もっと燃焼してほしかった。

もしかすると、ザルツブルク音楽祭であまりに凄い演奏を聴いてしまった後遺症かもしれない。それと、隣の席の男性が大きな身動きをする人で、しばしば手を大きく動かしたり、体をのけぞらせたりし、しかも時々指揮のまねごとをするために、集中できなかったせいもありそう。残念。もっと集中したかった。

とはいえ、素晴らしい演奏であることは間違いない。ブロムシュテットは凄い指揮者だとは、改めて思った。

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10月21日(金)、多摩フィル木管楽器による楽しい音楽祭を開きます!!

10月21日(金)、パルテノン多摩小ホール(19時開場)で、多摩大学樋口ゼミと、多摩地域のプロフェッショナル・オーケストラであるフィルハルモニア多摩の共同主催によるコンサートを開きます。

夜空のきれいな季節になりました。月や星をながめてみるのはいかがでしょう。そこで、今回は、「星空の窓辺から」というテーマで、月、星、夜にまつわるロマンティックな音楽や楽しい音楽を集めてみました。フィルハルモニア多摩のフルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルンのメンバーが演奏します。幼稚園に通うお子様からお年寄りまで、家族みんなで楽しめる音楽です。どうか、皆様お越しください。

 

曲目

W.A.モーツァルト

    歌劇「魔笛」より序曲(木管八重奏版)

W.A.モーツァルト 

    「きらきら星」による12の変奏曲 K.265(木管五重奏版)

C.ドビュッシー

    月の光(木管五重奏版)

F.メンデルスゾーン

    劇音楽「真夏の夜の夢」作品61より(木管九重奏版)

J.イベール

    3つの小品(木管五重奏)

W.A.モーツァルト

    セレナーデ ハ短調 K.388 「ナハトムジーク」(木管八重奏)

出演者

フルート.  畑野美紀子 
オーボエ 廣木 睡、 後藤望実

クラリネット 村田明日香、宇野晶太
ファゴット 湯本真知子、楠瀬裕子

ホルン 田中大地、田中夏樹

音楽監督 今村 能

20111021日(金)19:00 開演 (18:30開場) パルテノン多摩小ホール

(小田急多摩センター駅、京王多摩センター駅、多摩モノレール

・多摩センター駅

下車)

   入場券 : 一般 2,000円 学生・児童 1,000  [ 全席自由 ]

パルテノン多摩チケットセンター Tel. 042-376-8181 

お近くのファミリーマート(Famiポート)

フルーリール・ムジカ(京王相模原線・稲城駅前)Tel.0120-125-26

e+ イープラスhttp://eplus.jpでお申込 → お支払い&お受取り:お近くのセブンイレブン、ファミリーマート

多摩大学樋口ゼミ http://higuchiseminar.web.fc2.com/ Tel.090-98084356(大久保)

多摩フィルハルモニア協会 tama-fil-777@nifty.com  Tel. 07055677056

主催:多摩大学樋口裕一ゼミ 多摩フィルハルモニア協会 協賛:小田急電鉄株式会社

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金聖響シティフィルのシュトラウス、あまり感動せず

 98日、東京オペラシティで、金聖響指揮、東京シティフィルによるリヒャルト・シュトラウスを聴いてきた。前半は「ドン・ファン」と「死と変容」、後半は佐々木典子が加わって、四つの最後の歌。やや欲求不満。

 オーケストラの響きはとてもよかった。いくつかミスはあったと思うが、それはほとんど気にならなかった。美しい響きを出すことについては成功していると思った。オケ全体が最高度に盛り上がるところは、とても美しく鳴り響いた。

 が、金聖響の指揮がちょっとまじめすぎると私は思う。きっと、手練手管を使って芝居っけたっぷりに演奏するのをよしとしないのだろう。音楽に対する一本気なまでの思い入れということなのだと思う。そして、きっと意識的にそのようなアプローチをしているのだろう。だが、やはり、シュトラウスの曲をそのように演奏すると、私は一本調子に感じて退屈してしまう。シュトラウスはマーラーではないのだから、もう少し遊んでほしい。遊びの心こそがシュトラウスだと私は思っている。

もちろん、これはシュトラウス好きの素人の勝手な思い込みといえば、その通りなのだが、私にはどうしてもそう思える金聖響は十分にそのような遊び心を持っていると思うのだが、今日は私には感じられなかった。

 私は金聖響のベートーヴェンやブラームスやブルックナーはとても好きだ。だから、期待していたのだったが、乗り切れなかった。残念。

「四つの最後の歌」の佐々木典子はとてもよかった。この曲のリート的な側面とオペラ的な側面をうまく使い分けている印象。深く内向的でありながら、しっかりと外面的な面を備えた曲に仕上がっていた。オケも、内面的で色彩豊かな雰囲気を出していた。ただ、残念ながら、魂が震えるまでに至らなかった。

 実は「四つの最後の歌」は大好きな曲だ。高校生のころ(つまりは、45年近く前)から愛してやまない曲の一つ。CDも30枚以上、もしかしたら40枚くらい持っているはず。あまりにたくさんの名演CDを聴きすぎて、感動できなくなってしまったのかも。

 ところで、いっこうに時間的な余裕ができない。もう少し余裕ができる予定だったが、一つの仕事に手間取ってしまって、どうにもならなくなった。ある関係で、ワーグナーの「ジークフリート」と「神々の黄昏」の簡単な解説を書く仕事を頼まれ、字数も多くないので、気楽に引き受けた。ところがところが!!

「神々の黄昏」のそれぞれの幕を120字で説明しなければならなかった。ほかの作曲家のオペラだったら十分に1本分の長さがあり、ストーリも複雑怪奇で人間関係も入り組んでいる物語なのに! たとえば第一幕を「ジークフリートがブリュンヒルデと別れて、グンターの館に着くと、そこに妹のグートルーネと異父兄弟のハーゲンがいて」と書くと、まだ何も物語は動いていないのに、もう55字ほどになっている! しかも、これではそれぞれの人物のキャラクターも家系もわからない。ごくかいつまんで最小限必要なあらすじを説明すると、一つの幕が800字くらいになる。それを、120字にするのに、信じられないほど時間がかかった。かなり長い間、途方に暮れて、頭を抱えていた。そんなこんなで、合計3000字ほど書くのに、3日ほど費やしてしまった! いやはや、実に苦労した。

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三枝成彰のモノオペラ「悲嘆」は大傑作だと改めて思った

 中丸三千繪のソプラノ、奥田瑛二演出、Yuki MORIMOTO指揮、シアターオーケストラトーキョーの「ひと夜にふたつのモノオペラ」を見てきた。プーランクの「人間の声」と三枝成彰の「悲嘆」。

 ザルツブルク音楽祭から戻って最初のコンサートがこれだった。ザルツブルクの後だと、レベルの差を感じるのではないかと心配していたが、まったくそのようなことはなかった。

「人間の声」が50分くらい。中丸さんは大熱演。モノオペラだから、当然のことながら、中丸さんは一人で歌う。一晩で二つのモノオペラはいくらなんでも無理だろうと思った。三枝さんにもお会いして、少しだけお話ししたが、三枝さんも心配しておられた。

が、中丸さんの声の力にびっくり。「悲嘆」は90分ほどだった。間違いなく、ワーグナーの大楽劇を歌う以上に長く歌ったはず。それなのに、最後までびくともしない声量と輝き。

 もしかしたら、「人間の声」がなかったら、「悲嘆」はもっともっと素晴らしかったのかもしれないが、これだけ歌ってくれれば、最高!! この二つのモノオペラを並べるのはあまりに無謀と思ったが、いやいや、この二つを一緒に聴いたのは、実に意味があった。

「人間の声」については、実は、不満がないでもない。プーランクはもっと違うように演奏するほうがよいのではないかという、私なりの意見がある。もちろん、素人の意見には違いないが、あまり単調に盛り上げずにひたひたと悲しみが盛り上がるようにするほうがよいと思った。それに、中丸さんのフランス語、とてもきれいなのだが、フランス人のフランス語とはやはりちょっと違うような気がした。フランス語を美しく歌うのは難しい!!

 が、もちろん、これは私の個人的な趣味を押し付けているだけの話であって、見事な演奏だったことに間違いない。

 が、私が何よりも感動したのは、「悲嘆」だった。初演は短縮版だったとのことで、今回はノーカット版。確かに、覚えのない個所がいくつかあった。

 それにしても、なんと素晴らしいオペラだろう!!

 私は三枝ファンなのだが、この「悲嘆」が一番好きだ。「忠臣蔵」も「最後の手紙」もいいが、「悲嘆」は、もっともっと素晴らしい。聴くたびに興奮するくらい素晴らしい。

私は、プーランクの「人間の声」も大好きなのだが、「悲嘆」はこの「人間の声」に勝るとも劣らぬ作品だと思う。少なくとも今日は「悲嘆」のほうにずっと感動した。

歌もさることながら、オーケストラが素晴らしい。とりわけ、クラリネットが本当にいい。死んだ夫の声のように響く。ソプラノと一緒にクラリネットが鳴るところは、まるで夫婦の二重唱のようだ。小規模であるだけに、一つ一つの楽器がとてもきれいに響く。そして、楽器の絡み合いがとてもよくわかる。一つ一つの楽器のメロディがとても美しい。「現代音楽」にたてつきながら調性のある音楽を作り続けるには、これほどの技術と音楽性が必要なのだろう。

ウェスカーの台本も本当によくできている。心の襞が伝わってくる。奥田瑛二の演出もおもしろかった。セミステージ形式の中で、十分に分かりやすく、しかも感動的だった。

もっと大喝采が起こるのかと思ったら、意外と静かだった。感動して家に帰った。

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我が家のイチジクの木

 我が家には、イチジクの木がある。

私は、植物を目で見て愛でるタイプの人間ではない。もっと実益をもたらしてくれる植物が好みだ。とりわけ、実をつける植物が大好き。庭になる果物を食べるのが何よりもの贅沢だと思っている。

数年前、東京都内多摩地区のはずれの、駅からかなり遠い地域に土地を探していたとき、柿の木と枇杷の木があるのが気にいって購入した。そして、そこに、大分県日田市の山奥の母の実家に植わっていたイチジクの木を接ぎ木した。九州のイチジクの木は、毎年、最高においし実をつけていた。私はそれ以来の大のイチジク好きだ。

接ぎ木して4年以上になるが、昨年まではほとんど実はならず、なっても数個だった。やはり九州の木を東京に持ってきても、根付かないのかと諦めていたところ、今年は2030も実がなっている。すでに4つほど食べたが、実にうまい。見かけは九州で食べていたものほど茶色く熟さないが、味は変わらない。

毎日、少しずつ大きくなって熟していくイチジクの実を庭から見て、どれを最初に食べようか、高いところにある実をどうやって取ろうかと考えるのを楽しみにしている。もう少し待とうと思っているうちに、熟しすぎて地面に落ちてぺしゃんこになっていたりすると、実に悲しい。摘み取ろうとして失敗し、実が地面に落ちてしまったときも、数分間、後悔で胸がいっぱいだった。

ところが、こんなにおいしイチジクなのに、家族は食べようとしない。イチジク好きの私のために遠慮しているわけではない。20代の子どもたちは、イチジクに限らず、我が家になる柿も枇杷も食べようとしない。果物屋で買うのが、しっかりと管理された本物の果物であって、家になる果物は果物と呼ぶ資格のないものと思っているふしがある。とりわけ、形が崩れやすくてあまり果物屋に出回らないイチジクを、ミカンやリンゴにはるかに劣るものと思っているようだ。

田舎育ちの私はむしろ逆に、本来、果物というのは自宅や近所の林の中にあるのをちぎって食べるものだと思っている。果物屋にあるのは、長持ちするので流通しやすい「商品」でしかない。イチジクの立場になって、流通しやすいものが一流とみなされ、そうでないものが見向きもされない現在の風潮に憤りたくなる。

今、3個、明日か明後日には食べごろになりそうな実がある。台風のせいで吹き飛ばされやしないかと心配していたが、そんなこともなさそう。しばらく楽しめそうだ。

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人間は何かを探して人生を過ごす

 人間はいつも何かを探している。人間は何かを探して人生を過ごすといっていいほどだ。

 人は生きがいを常に探している、アイデンティティを求めている、生きている証を求めている・・・といった高尚?なことではない。文字通り、ものをさがしているといいたいのだ。

 私は、ほとんど毎日、何かを探している。私の人生から、ものを探している時間をゼロにしたら、かなり時間的余裕が出るのではないだろうかと、本気に思う。

 出かけようとするのに、携帯電話が見つからない、財布が見つからないなどしょっちゅう。ときには、カバンが見つからないことがある。

 そして、それ以上に、本を探し、CDを探している。

 先日は、あるテレビ番組から出演依頼があって、音楽の話をしてくれと言われた。必要になりそうなCDを10枚ほど探しだすのに数時間かかった。それでも、最後まで見つからないものもあった。しかも、結局、テレビ出演の話は、スタッフの考えている方向にならないとわかって、お断りするしかなかった。

何かの仕事でCDが必要になるごとに、毎回、何時間もかけて探しまわっている。もともと整理能力のない人間である上に、うちには、5000~10000枚(かなり幅があるのは、数えるのが面倒だから)のCDやDVDがあるので、整理できずにいる。

 昨日は、数時間かけて本を探していた。少し前まで、その本を参照して文章を書いていた。その後、別のことをした。そして、同じ本を見ようと思ったら、ない!! 仕方がないので、ついでに部屋の整理をしたが、それでも出てこない。私がたまに部屋を整理するのは、お客が来るときと、ものを探すときくらいだ。

 本がないことに気づいて、15時間くらいたつが、まだ出てこない。いったい、どうなっているんだろう! 神隠しにあった? もしかして、私の書斎には、異次元スポットがあって、ものが吸い込まれている?とでも思いたくなる。

 そういえば、今まで、何度か同じようなことがあった。そんなとき、仕方なしに改めて購入した。しばらくして出てきたものもあったが、そのまま現れないものもある。まあ、一言でいえば、私の机の上や部屋の中が、本やCD、DVDや書類でごった返していること、そして、自宅のほか、大学の研究室など数か所、ものを置ける場所があって、置き場所がすぐにわからなくなってしまうのが最大の原因ではあるだろうが。

 しかし、考えてみると、多くの人が、私と同じようにいつも何かを探しているのではなかろうか。

 所有物すべてに番号を付けて、紛失したときにどこにあるかを教えてくれるようなシステムはできないものだろうか。番号を自分でつけるのは面倒なので、そのものを部屋に持ち込むときに自動的にコンピュータが検知し、置き場所を認識していてくれると嬉しい。

 とはいえ、そうなると、ますます人間は退化してしまうだろう。考えてみると、所有物のありかを認識しているというのは、人間のあり方の本質的な部分を占めるのかもしれない。だからこそ、いつも探し、それが見つからないと自分の一部が取り除かれたような不安を覚えるのかもしれない。

 ザルツブルクから戻って、たまっていた仕事をこなすのに精いっぱい。昨日、締め切りだった原稿をとりあえず送ったが、今日も必死に原稿を書かなければならない。ただ、あと数日で、今の忙しさから解放されそう。

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