我が家のイチジクの木
我が家には、イチジクの木がある。
私は、植物を目で見て愛でるタイプの人間ではない。もっと実益をもたらしてくれる植物が好みだ。とりわけ、実をつける植物が大好き。庭になる果物を食べるのが何よりもの贅沢だと思っている。
数年前、東京都内多摩地区のはずれの、駅からかなり遠い地域に土地を探していたとき、柿の木と枇杷の木があるのが気にいって購入した。そして、そこに、大分県日田市の山奥の母の実家に植わっていたイチジクの木を接ぎ木した。九州のイチジクの木は、毎年、最高においし実をつけていた。私はそれ以来の大のイチジク好きだ。
接ぎ木して4年以上になるが、昨年まではほとんど実はならず、なっても数個だった。やはり九州の木を東京に持ってきても、根付かないのかと諦めていたところ、今年は20も30も実がなっている。すでに4つほど食べたが、実にうまい。見かけは九州で食べていたものほど茶色く熟さないが、味は変わらない。
毎日、少しずつ大きくなって熟していくイチジクの実を庭から見て、どれを最初に食べようか、高いところにある実をどうやって取ろうかと考えるのを楽しみにしている。もう少し待とうと思っているうちに、熟しすぎて地面に落ちてぺしゃんこになっていたりすると、実に悲しい。摘み取ろうとして失敗し、実が地面に落ちてしまったときも、数分間、後悔で胸がいっぱいだった。
ところが、こんなにおいしイチジクなのに、家族は食べようとしない。イチジク好きの私のために遠慮しているわけではない。20代の子どもたちは、イチジクに限らず、我が家になる柿も枇杷も食べようとしない。果物屋で買うのが、しっかりと管理された本物の果物であって、家になる果物は果物と呼ぶ資格のないものと思っているふしがある。とりわけ、形が崩れやすくてあまり果物屋に出回らないイチジクを、ミカンやリンゴにはるかに劣るものと思っているようだ。
田舎育ちの私はむしろ逆に、本来、果物というのは自宅や近所の林の中にあるのをちぎって食べるものだと思っている。果物屋にあるのは、長持ちするので流通しやすい「商品」でしかない。イチジクの立場になって、流通しやすいものが一流とみなされ、そうでないものが見向きもされない現在の風潮に憤りたくなる。
今、3個、明日か明後日には食べごろになりそうな実がある。台風のせいで吹き飛ばされやしないかと心配していたが、そんなこともなさそう。しばらく楽しめそうだ。
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