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「バカに見える日本語」のこと、フラング+リフィッツのプロコフィエフのこと

 相変わらず、かなりハードな生活を送っている。

 一昨日は奈良県の立命館宇治中学高校で、私が塾長を務める白藍塾がらみの仕事、昨日は京都で私用。

今日は1時限のみ大学で講義。多摩大学の専任教員全員が1回ずつ問題解決学について語ろうという試み。私は、問題を解決するための発信力・文章力の必要性を説き、「上手な反論の仕方」について話した。問題解決学と言えるかどうかかなり怪しいが、まあそれなりには役に立ったと思う。

講義が終わると、すぐに帰って、自宅の電話で、テレビ愛知の昼の番組「トコトン!1スタ」に電話出演。名古屋に出向いて生出演するように依頼を受けたのだったが、大学の授業があるので、電話だけで話をすることにした。若者言葉についての特集で、先ごろ刊行された拙著「バカに見える日本語」にからめて話をした。

ただ、もう少し話をしたかったが、時間が短かったので、思っていること、言いたいことの五分の一もいえなかったのが残念。が、電話出演であるからには、やむをえないだろう。

ついでに言うと、この「バカに見える日本語」、売れ行きが伸びているようで、朝日新聞の書評サイト、ブック・アサヒ・コムでは、この本がブックマランキングの1位になっていることを編集者が知らせてくれた。以前出した「頭がいい人、悪い人の話し方」と同じ路線なので、売れてくれるとうれしい。

 

テレビ番組の時間が終わると、すぐに自宅を出て、都内某所にて仕事を片付け、夕方からHAKUJUHALLでヴィルデ・フラングのヴァイオリン、ミハエル・リフィッツのピアノによるデュオを聴いた。フラングは、昨年だったか、武蔵野市民文化ホールで無伴奏の演奏を聴いて素晴らしいと思ったので、今回、ぜひまた聴きたいと思ったのだった。

 曲目は、モーツァルトのヴァイオリン・ソナタ第25番K377とブラームスのハンガリー舞曲から3曲。そして、プロコフィエフのヴァイオリン・ソナタ第2番。

 フラングもさることながら、リフィッツのピアノが素晴らしい。芯が強く、音が清潔。透明でありながら深みを感じさせる。音の粒立ちも実にきれい。

 フラングはモーツァルトとブラームスも良かったが、特にプロコフィエフが素晴らしいと思った。音がきれいなだけでなく、実に率直で直截的。メリハリの付け方も実にプロコフィエフにピッタリ。攻めるべきところはぐんぐんと大胆に攻めてくる。派手なメリハリをつけるが、決して下品にならないのは、音楽家というレベルを超えた美少女だからというわけではない。音に対して率直で素直なために、媚びを感じないためだろう。そして、その盛り上げが、いかにもプロコフィエフらしいためでもある。ともあれ、とても気に入った。

 明日もまた忙しい。ゆっくりとブログを書いている時間はない。このくらいにする。

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音楽」カテゴリの記事

コメント

樋口 先生
若者言葉についてテレビでの電話御出演(この言葉、初めて聞きました)や、著書出版など、ご活躍ですね。
 言葉については、若者に限らず、小生も顧みて恥ずかしい思いは限りなくあります。

 問題とされるのは、空気が読めない場当たり的な発言や禍いを呼ぶような言葉使いなどを言うのでしょうが、反対に最近の傾向として「言葉が少な過ぎる」故の問題?もあるような気がいたしております。

 アマチュア演奏家がかかわっている室内楽の分野での話ですが、
◇ ケータイ、ツイッター、フェイスブック、ブログ等の普及----- つまり発信量の増加と反比例するかのように、合奏場面での意見交換、感想の披瀝、等が目に見えて減ってきているように思われる。
◇ アマチュアの演奏(合奏)技術の向上に反比例するかもように、上記のような傾向が顕著になってきているような観がある(ように思われる)。

 これがどういうことなのかが私には理解しにくい面があるのです。
 以前は------ アマチュアのオーケストラや室内楽活動が緒につき始めた頃は、技術も未熟だったせいか、とにかく音が出るだけで楽しく、ああでもない、こうでもない、と音をいじり回して喜んでいた時期があったように思われます。

 一方で、厳しさが求められるプロの合奏の世界では、言葉の遊戯よりもまず実践が求められ、黙っていても完成された演奏やそこに漲る音楽の力がすべてを代弁してくれるような趣きがあったような感じを受けておりました。

 それが時代が進むにつれて、相対的にもアマチュアの演奏力の向上が見られ、それとともに、発言量も少なくてすむようになった------ 大変荒っぽい推測の域を出ておりませんが、ともかく、アマチュアも「音」だけで勝負出来る域に達しえたのではないか、その反面、だんまりの合奏では、何か合奏の楽しみに「一味」欠けているのではないか------ という、根拠があるような無いような話になってきたというわけなのです。

 「クラシックよ永遠に」という著書を出された音楽評論家/宮本英世氏は、昨今のクラシック音楽界の低迷を懸念され、「語ること」自体を苦手とするクラシックファンが増えたのではないか、あるいは、知りたいことはパソコン検索で手軽にすませ、断片的な興味の持ち方を今風だと、人は感じるようになってきているのではないか----- といった趣旨のことを述べられています。

 私にはよく分りませんが、こうした風潮も、いまの若者たち、あるいはクラシックファンに共通している、と考えられるのでしょうか。

 脈絡がるのかどうか分りませんが、先生のブログを拝見していて、そのような感じが頭を過った次第でした。
                            権兵衛

投稿: 権兵衛 | 2012年5月18日 (金) 23時44分

樋口先生こんばんは

ヴィルデ・フラングさん体調回復されたんですね。
先週金曜日に東京交響楽団を聴きに行きましたが、開演30分前にホテルで倒れたらしく、協奏曲はなしで、フィンランディアとシベリウスの1番だけの演奏会になってしまい聴けずじまいでした。
終演後払い戻しに数百人が長蛇の列を作っていました。
いつか彼女の演奏を聞いてみたいです

投稿: Y.M | 2012年5月19日 (土) 00時46分

権兵衛様
コメントありがとうございます。
アマチュア音楽家における「言葉」のあり方、とてもおもしろく読ませていただきました。
音楽家に限らず、語るべき言葉を持たない若者が多いのには危機感を抱きます。言葉を持たないということは、感覚を高めることもできないということだと思います。貧弱な思考と感覚しか持たないために貧弱な言葉でしか表すことができず、貧弱な言葉しか使えないから、いつまでも貧弱な思考と感覚のままなのです。その意味でも言葉の大事さを感じます。

投稿: 樋口裕一 | 2012年5月20日 (日) 09時22分

YM様
そうでした。フラングがキャンセルしたというニュースはどこかで読みました。が、私が聴いた日、まったくそのようなことは感じさせない演奏でした。
なにはともあれ、育ちのよさそうなきれいなお嬢さんがプロコフィエフをまさに自分のものにして弾きまくる様子は壮観でした。

投稿: 樋口裕一 | 2012年5月20日 (日) 09時27分

樋口 先生
 コメント 有難うございました。
「言葉」の専門家である先生のブログに何かを書き込むというのは、少し勇気のいることです。

>>貧弱な思考と感覚しか持たないために貧弱な言葉でしか表すことができず、貧弱な言葉しか使えないから、いつまでも貧弱な思考と感覚のままなのです。

----- 思考と言葉との関係の御説明、有難うございました。

 私は欲張りなので、では、何故上記のような状態になってしまうのか、その要因/遠因を知りたいと思っております。
◇ 簡便に使えるネットに遠因があるのでしょうか。
 ケータイのメールやツイッターの文面は電報のように短文ですむ場合が多く、頭を使う必要がなく、使わない頭は長文に不向きとなりそうです。
 匿名のネットでは、文章が荒れ、また信憑性がなくなります。誹謗中傷が日常化すれば、人は遠ざかってしまうでしょう。また、フェイスブックのように実名では、本音が書けません。
◇ プロ/アマを通じて演奏技術が上がれば、反比例して口が重くなるのでしょうか。
 プロは、より一層音楽の厳しさを実感して、口を慎み、または、音楽をして自分の考えを語らしめようとするのか。あるいは、作用あれば反作用ありで、名前が上げるにつれて厳しくなる批評から身を守ろうとするのか。
 アマチュアは、そこそこに弾けるようになった境遇に安住して、ものを言うのが面倒になるのか、あるいは、批評がないことに甘えて、自分/仲間だけの世界に閉じこもってしまうのか。

(*)アマチュアオケの分野に見られがちなことですが、団員の腕が上がるとそこでオケの伸びが止る傾向があるように思われます。
 まず、練習が疎かになり、欠席が増え、曲目が刺激的なオケに偏向しがちになる傾向があるように思われます。
 また本番には、手慣れたエキストラを迎えることがありますが、普段の練習に出ていない彼らが微妙な指揮棒に従うことは期待出来ず、プルトの後方に位置する事が多い
彼らが、勝手に振舞って演奏を阻害することだってありうることなのです。

 どうすれば思考と言葉(演奏)を平行して充実/向上させることが出来るのか。

 例えば、先生が付き合われる若い学生たちの言葉は、社会の荒波に揉まれる事によって磨かれることが期待出来ましょう。
 ところが、アマチュア音楽家の場合には、他律的にも自律的にもそうした機会を期待することが出来ないような気がいたします。

 私の乏しい経験を申しあげてみましょう。
 最近のことですが、あるアマチュアの室内楽合奏団体に参加して、そこで(止せばよかったのに)、ハーモニーや歌わせ方について、若干の感想を述べてみたところ、それは団体の不文律に反したことだったらしく、後で「ご注意」を受けてしまいました。
 とりわけ驚いたのは、そうした感想を述べた者は私が初めてだ、と言われたことで、そんな無風状態が普通とされているところで、皆様は何が面白くて合奏をやっているのだろう----- と、これまた「ご注意」を招きそうなことを考えてしまいました。

 どの団体ににも、規律があるのは当然のことですが、もう少し合奏が楽しくなるような、安全無害?な規律があってもいいのではないか、と思ってしまいました。
 この「安全無害な規律」というのも問題か
もしれませんが。「安全無害」が「とにかく黙っておれ」ということでは困ります。
 所詮は趣味の世界ではないか---- と思っていると、なかなかそういうものでもない、という事らしいです。

 プロの世界はもう少しはっきりしているのでしょうが、それにしても、特に弦の演奏家の御発言(著書)が少ないように思われてなりません。 

 しかし、そんななかで面白いと思われたのはヴァイオリニスト/千住真理子氏のエッセイです。氏は日本人音楽家の西欧コンプレックスに触れ、次のように書かれていました。

 ------ これまで、日本の歌はクラシック演奏家のジャンルではないと思っていた。西洋音楽を探求するなかで、日本人であることの、些かコンプレックスさえ感じつつ、西洋音楽を奏でる自分から無意識に自分から、日本の匂いを排除しようとしていたのかもしれない。

 これが、東北の大震災で一転して、氏は日本の歌曲の演奏にも積極的に心が向くようになった、と言われるのですが、現在のようにクラシック音楽が彼我の区別なく普及しつつある流れのなかで、こうした心情を率直に披瀝されたことがとても印象的でした。
 それにしても、音楽界には、未だにこうしたこと(西欧コンプレックス)に捉われている風潮があるのでしょうか。それが一つのネックになって、文章を書くことへのトラウマとなっているのでしょうか。
 音楽家も日本人なのですから、仲間うちだけの雑談では、演歌などにもを話題が及ぶこともあるのではないか、と思われるのですが。 権兵衛

投稿: 権兵衛 | 2012年5月20日 (日) 17時03分

権兵衛さま
コメントありがとうございます。
先日、一般論として、思考が貧弱であると言葉も貧弱であると語りましたが、私はアマチュアの演奏家ですらありませんので、実は状況はよくわからずにいます。
ただ、アマチュアで演奏なさっている方の話を聞いて感じるのは、もともとは音楽を愛するあまりに演奏を始めたはずなのに、いつのまにか技術的水準に達することが目的となり、音楽表現が二次的になっていることです。
彼らと話すと、「あそこが難しい」という話ばかりになって、「あそこの音楽が素晴らしい」「あそこの展開にはこんな秘密があるんだ」というような話が出てこないことです。
もちろん、演奏する側の視点も音楽の中で重要なことだと思うのですが、ときどき違和感を覚えるのも事実です。
ご指摘の点は、そのようなことを関係があるかもしれません。
明確に答えることができず、申し訳ありません。私には難しすぎる問題です。

投稿: 樋口裕一 | 2012年5月22日 (火) 09時34分

樋口先生
 コメント 有難うございました。
>>技術的水準に達することが目的となり、音楽表現が二次的になっている

問題はこれに尽きる感じもあり、これに違和感を持つというのも当然の成り行きでありましょう。

「バカに見える日本語」という主題からやや外れたような感じもありますが、バカな日本語が生まれる背景と、合奏での言葉が貧しくなることとは、何か似ているようにも感じられるわけです。
 今後の音楽活動を盛り上げる為には、やはりこうした現象の由来/遠因を知っておきたいものと考えております。

 私はいずれあるアマチュアオーケストラにお邪魔することになるかもしれません。
 私はオケの縮小版が室内楽---- というのではなく、室内楽の延長がオケである、と思っております。
 その意味では室内楽の諸問題はそっくりオケに移植されてしまうことがあり得る訳で、その意味ではオケは「音楽演奏集団」ではなく、音楽を演奏する「人間の集団」であるわけです。

 アマオケは無数にありますが、私の経験では、例えば、ステージに並んでいる弦楽器群の、前のほう(指揮者に近いほう)は、通常、技術が優れた人たちの座る場所で、初級者や新人は後方に座る習わしとなっております。(必要により、ベテランが後方に座ることもありますが)。
 オケでは前方の人たちは技術を話題にすることが多く、後方の人は、集団にありがちな、より人間臭い話題を好むようになります(おおよその観測を言っているだけです)。

 問題は、技術の優劣(ステージでの並ぶ順位)が人間的な上下関係に繋がってしまってはいけない、ということでしょう。

 こうした風景は、人間ドラマを生業とする小説家やテレビプロジューサーからはどう見えるのでしょうか。
 しかし、現実の小説やテレビドラマ作品を見ると、その描き方に作者の見る目----- どれだけ音楽世界に通じているか、が如実に反映されていて、それらは必ずしもプロ/アマ音楽関係者/演奏家を満足させるものとはなっていないようです。
 人間集団ドラマの一部分だけを強調したような趣きがあり、なかなか多くの人を満足させうるような先品には仕上がらないようです。

 私の感じですが、製作関係者/文筆家は、少なくとも弦楽器の奏法や生理(楽器を扱う人間の息使いや体臭)に理解や体験を持ってくれたら、もっと良い作品になるのに、と思うことがままあります。

 大体が、音の世界を文字/画像で表現することは無理だとされていますが、ケータイやツイッターがいくら発達しても難しいことかもしれません。
 これらデジタル機器が表現出来ないものならば、いっそアナログ表現に拘ってみたらどうだろうか。
 つまり、人間が汗を流しながら、苦労して演奏する楽器を尊重する、CDではなく生演奏を、それからワープロではなく萬年筆、自動車ではなくて自転車---- そんなことも考がえてしまいます。
 そこでは、ひょっとしたら貧しくなった「言葉」の復権が見られるかもしれません。

 演奏は、みんなでワイワイ言いながら、ああでもない、こうでもない、と表現をいじりまわして楽しむ姿-----これが人本来の在り方ではないか、と思われるのです。権兵衛

投稿: 権兵衛 | 2012年5月22日 (火) 17時05分

権兵衛様
コメントありがとうございます。また、多摩大の私たちのゼミにご配慮をいただきましたこと、学生から聞きました。ありがとうございます。
オーケストラや室内楽の演奏家たちが、人間の集団であるという認識、その通りだと思います。プロは仕事という割り切りができるでしょうが、自発的に行うアマの場合、いっそうそれが際立つのでしょう。それをドラマや小説が描ききれずにいるというのもおっしゃる通りだと思います。
権兵衛さんの問題意識とからむかどうかわからないのですが、自分自身を振り返り、人々と触れ合いながら感じるのは、周囲に合わせるばかりで、自分の率直な感想をいわず、それどころか自分の思想を持たずにいると、その言葉は強さを失ってしまうということです。とはいえ、他者を理解しようとせず、周囲を見ようとしないと、言葉が下品になってしまって、これもまた本来の力を失ってしまうのですが(ネット内の罵倒や中傷の言葉が典型的です)。それが強い形で表れるのが、今のアマチュア音楽家たちということが言えるかもしれません。
自分の意見を言い合い、音楽に対する思いをぶつけあい、音楽に対する愛情を楽器と言葉で表現するのが、プロ、アマ問わず、音楽を演奏する者の理想なのだと思います。


投稿: 樋口裕一 | 2012年5月25日 (金) 08時22分

樋口 先生
 コメント 有難うございました。
 ピアノトリオの御盛会/御成功をお祈りします。                 
権兵衛

投稿: 権兵衛 | 2012年5月25日 (金) 11時07分

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