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帰国してザルツブルクとバイロイトを総括

 昨日の午後、日航機の無事に帰国。あまりにありふれた感想だが、ヨーロッパから日本までは遠い! そして、日本は蒸し暑い!! マイレージがたまっていたので、行きはエグゼクティブにしたが、帰りはちょっとマイルが不足のためエコノミー。余計に辛さを感じた。

 音楽祭についての全体の印象を簡単にまとめておく。

 

●ザルツブルク音楽祭

昨年のティーレマン「影のない女」のような圧倒的な凄味のある上演はなかったし、演目が私の好みではなかったが、もちろん、全体的に満足。来年は、ワーグナー「リエンツィ」(コンサート形式)、「マイスタージンガー」、「ドン・カルロ」(カウフマンが歌う?)、「イル・トロバトーレ」、「コシ・ファン・トゥテ」などが予定されているらしい。来年も行けるものなら行きたくなった。

 今年、私の見た上演に敢えて順番をつけると、以下のようになる。

① アーノンクール指揮、ウィーン・コンセントゥス・ムジクス 「魔笛」

(演奏、演出を含めて、きわめて刺激的で、美しい)

② ガッティ指揮、グスタフ・マーラー。ユーゲント・オーケストラ 「ばらの騎士組曲」「ラ・ヴァルス」 (音による色彩の魔術!)

③ ハーディング指揮 ウィーンフィル 「ナクソス島のアリアドネ」

(第一幕が初版に基づく演劇だったので、せりふを十分に理解できなかったのが残念)

④ ポリーニ ベートーヴェンのソナタ30・31・32

(私がこれらの曲にもっと精通していれば、もっと楽しめただろう)

⑤ メッツマッハー指揮 ウィーンフィル ツィンマーマン作曲「軍人たち」

(ウィーンフィルの強烈な音の世界に圧倒された。このオペラについて十分に予習していなかったのが悔やまれる)

⑥ ガッティ指揮 ウィーンフィル 「ラ・ボエーム」

(ネトレプコは素晴らしいが、ネトレプコをもってしても私はこのオペラを好きになれなかった)

⑦ ラトル指揮 ウィーンフィル 「カルメン」

(知的で清潔で上品な「カルメン」だったので、魅力を感じなかった)

⑧ ボルトン指揮 モーツァルトウム管弦楽団 ヴィンター作曲「迷宮」

(楽しかったが、やはり音楽がほかと比べるとかなり劣る)

 

●バイロイト音楽祭

 ワーグナー生誕200年にあたる来年に行きたいとずっと思っていたが、入ってくる情報では、それは難しそう。そこで、今年のチケットを入手した方の誘いもあって、行くなら今だと思って行ったのだった。日本でのツアーがほとんどなかったためだろうが、例年に比べて日本人客が少ないのを強く感じた。

 上演に関してはやはり演出偏重がとても気になる。演出が音楽を邪魔するのが当然のことになっている。有名な歌がうたわれているとき、歌っている歌手に注目されることは、どの演出でも皆無に近い。必ずほかの人物が何か意味ありげなことをしていたり、舞台上で何か大きな出来事が起こったりしている。そして、その演出が、台本とはまったく関係がなく、別の物語を語ることが多い。それがあまりに音楽とかけ離れていたら、音楽が耳に入らなくなる。それほど音楽からかけ離れていなかったら、まだしもよかったと思うことになる。

 このような傾向が続くなら、私はバイロイトはしばらく行く必要がないと思った。私はオペラ作曲家としてはワーグナーを最も愛しているが、そうであるがゆえに、音楽が演出に邪魔されているのを見るのは忍びない。

 敢えて今年の上演の順位をつけると以下のようになる。

 

① ティーレマン指揮 グローガー演出 「さまよえるオランダ人」

(オペラそのものとしては、ほかのものに比べてぐっと弱いこの「オランダ人」に最も感銘を受けた。ティーレマンが素晴らしく、演出もおもしろかった。歌手たちも最高度に充実)

② シュナイダー指揮 マルターラー演出「トリスタンとイゾルデ」

(音楽を理解していない演出で、二人の主役に不満だったが、やはりワーグナーの力と、指揮のシュナイダーや脇役の力でよかった)

③ ジョルダン指揮 ヘルハイム演出 「パルジファル」

(突飛な演出だが、二度目ということもあって、あまり気にしないで音楽を聴くことができた。ヴァーンフリート館、つまりドイツの歴史が重ねあわされていることだけを重視し、それ以外の細かい意味の充満についてはあまりに気にしないことにした。演奏はまずまず。しかし、これもワーグナーの力で雄弁)

④ ティーレマン指揮 バウムガルテン演出「タンホイザー」

(胎内を工場に見立て、工場労働者たちは細菌を表現した演出。生命そしてエロスはきわめて生理的な肉体そのものに宿り、それが生命を生み出しているというメッセージなのだろう。それはわかるが、音楽とかけ離れている。ティーレマンにも凄味を感じなかった)

⑤ ネルソンス指揮 ノイエルエルス演出 「ローエングリン」

(意味不明のネズミの演出にまいった。指揮も破綻が感じられた。フォークトは素晴らしかった)

 

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バイロイト音楽祭最終日「パルジファル」に満足

8月28日、バイロイト音楽祭「パルジファル」を見た。2008年にダニエレ・ガッティ指揮で見たのと同じプロダクションで、ステファン・ヘルハイムの演出。当時、私はこの演出にかなり強い違和感を覚えた。が、今回は、「読み替え」演出に慣れたせいか、とても満足した。

指揮はフィリップ・ジョルダン。私は「サロメ」や「タンホイザー」のDVDで聴いて、その実力のほどを知っていたが、期待以上の指揮ぶり。ごく若いはずなのに、たいしたもの。ネルソンスと同じくらいの年齢かもしれないが、今回のバイロイトに関していう限り、私は「ローエングリン」のネルソンスよりも、「パルジファル」のジョルダンのほうにずっと感銘を受けた。

隙なくまとまり、統一感があり、しっかりとワーグナーの音がする。バイロイトにあった最高に美しい音の重なりが聞こえてくる。ただ、とはいえ、まだまだガッティのレベルには達していないように思う。これからバイロイトで大活躍する指揮者であることは間違いない。

歌手では、グルネマンツを歌ったクワンチュル・ユンが圧倒的。今や大歌手だカーテンコールでも主役二人を差し置いて最大の拍手喝采だったが、それも当然。安定した太くて美しい声。グルネマンツにぴったり。

それにしても韓国人歌手の活躍が目覚ましい。合唱の中に東洋系の顔がいくつかあるので、きっとほとんどが日本人で、何人か韓国、中国の人がいるのだろうと思っていたら、とんでもない。メンバーの記載された冊子を見るとほとんどが韓国系の名前。ざっとかぞえても10人くらいの名前が出ている。日本人もぼやぼやしていられない。

パルジファルのブルクハルト・フリッツ、アンフォルタスのデトレフ・ロット、クンドリのスーザン・マクリーン、クリングゾルのトーマス・イェサツコは、いずれもとてもいいが、圧倒的というほどではない。

 

演出は、典型的な「読み替え」。

昨日か一昨日あたり、NHK-BSでこの「パルジファル」が放映されたということなので、ご覧になられた方がたくさんおられるだろう。そして、きっとその方々は正確な日本語字幕が付き、もしかすると解説も付いたかもしれないので、私よりも情報量は多いかもしれない。

 音楽は紛れもなく「パルジファル」であり、それに基づくストーリーが展開されるが、それと重なって、ヴァーンフリート館で育った子供がドイツの歴史をたどっていく様子が展開される。

 細かいところはよくわからないが、「読み替え」演出として奇跡的に良くできていると思う。舞台上の仕草と音楽がぴったり合っている。雰囲気もぴったり。今回の「タンホイザー」や「ローエングリン」に比べるとずっと音楽の邪魔にならない。

 ただ、これが許されるのなら、「パルジファル」の音楽をバックにして「源氏物語」のストーリーを展開することだってできるのではないかと思ってしまう。

 これにて今年のバイロイト音楽祭は終了。私のザルツブルク音楽祭・バイロイト音楽祭の旅も無事終了。感動的な演奏にいくつも出会った。

明日、フランクフルトを経由して、日本に向かう。同じ姿勢を続けたせいで腰が痛くなりかけている。そろそろ寝ることにする。

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「ローエングリン=ミッキーマウス」説  ノイエルフェルス演出「ローエングリン」について珍解釈をしてみた

 このブログにも書いたとおり、825日、バイロイト音楽祭の「ローエングリン」を見た。フォークトのローエングリンについては素晴らしかったが、ハンス・ノイエルフェルスの演出については怒りを覚えるばかりだった。

 いったい、ネズミたちは何を意味するのか。服や仕草は何を意味するのか。この演出を批判するならするで、それらを理解したうえで批判したいと思っているうち、どう考えても意味不明で、いっそう怒りが増してしまった。

 バウムガルテン演出の「タンホイザー」も細かいところはわけのわからない演出だったが、大まかには自分なりに理解できたと思っている(昨日のブログ内容をご覧いただきたい)。それと同じ程度には理解したいと思いつつ、できずにいた。

 が、上演から2日以上がたち、あれこれ考えるうち、一つの仮説を思いついた。自分でもかなり突飛だとは思うが、以下のように考えると、ちょっとだけ辻褄は合う。

 結論から言うと、「ローエングリンはミッキーマウスだった!」というものだ。

 演出の中に、ハリウッド映画、そしてとりわけディズニー映画へのほのめかし、あるいはオマージュと呼べるものがいくつもある。

黄色のスーツ姿やきらびやかな服を着ての群舞はミュージカル映画を思わせる。コミカルな手足の動き、たびたび挿入されるアニメ映像の使用はまさしくディズニー映画を思わせる。そして、第二幕では、死んだ馬の横に馬車が置かれている。これはディズニー映画の「シンデレラ」を暗示している。いうまでもなく、シンデレラは、魔法の力でカボチャを馬車に、ネズミを馬に変えて、宮殿に向かう。エルザがシンデレラに重ねあわされている。

 つまりこういうことだ。

 ブラバント公国はネズミ(ラット)の世界。実験動物にされて遺伝子操作をされている。そこで除け者にされたエルザ(彼女ももちろんラットだが、第一幕で矢が刺さっているところをみると、「パルジファル」などの連想から、少し白鳥の性質を帯びている)が夢にローエングリンを見て、救いを求める。ローエングリンもネズミだが、実はマウスであって、ラットよりも高貴な存在だ。ラットであることに劣等感を持っているラットたちはローエングリ=マウスに救いを求める。

 ラットとマウスの間には遺伝子上の厚い壁がある(それが冒頭の「開かないドア」で象徴される)。これまでは、人間の手で遺伝子操作が行われ、実験動物にされてきたが、ラットたちは自ら、それを乗り越え、新しい種族を作ろうとする(動物実験しようとする人間をネズミたちが襲う場面がそれを表している)。だが、保守的なネズミの一派(テルラムント)に阻まれてしまう。そして、希望の星に見えたローエングリン(マウス)は元に戻り、希望でも何でもなかったことになる。

 最後、白鳥の卵の中から胎児らしい現れる。これはきっと、エルザ(ネズミではあるが、白鳥の性質を帯びている)とローエングリン(何と言っても白鳥の騎士!)の間に生まれてくるはずの胎児を暗示している。遺伝子を乗り越えようとした結果、不気味な存在が誕生する・・・という警告にほかならない。

 つまりは、これはニーチェの、そしてワーグナーにも傾向のみられる「超人思想」の否定なのではないか。遺伝子を操作するなどして、超人を目指してもろくなことはない。むしろ悲惨な結果になる、そんなメッセージ。

 とまあ、考えてみたが、われながら自信があるわけでもない。きちんとした裏付けのない単なる思い付きでしかない。それに、もし私の説が正しいとしても、この演出を是とするつもりはまったくない。音楽を邪魔するだけのひどい演出だったことは間違いない。

 こうしてあれこれ「意味」を考えてしまうこと自体、ノイエルフェルスの思うツボなのだろう。まんまと罠にかかってやったわけだが、私はどちらかというと、「意味の病」にかかった人間で、どうしても様々なものに意味を求めてしまう。ある程度、自分なりに意味を定着させないと先に進めない。

そんなわけで、まんまと罠にはまったとはわかりながら、あえて突飛な解釈をしてみた。少しは説得力があるだろうか・・・。誰も納得しないだろうなあ・・・。私自身、納得していないながら、まあ遊び半分でブログに乗せてみることにした。こんな遊びをするしか、この演出を楽しむすべはないと思うと悲しい。

 

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バイロイト音楽祭「タンホイザー」にちょっと失望、またしても演出に怒り!

8月27日、バイロイト音楽祭「タンホイザー」を見た。一言でいって、ちょっと期待外れ。

ドレスデン版に基づくと思うが、あちこち耳慣れない音楽が聞こえてきた。第一幕冒頭や、牧童の登場の場面、第二幕の終わりの部分の合唱の場面など、ふだん演奏されない個所がいくつもあるように思った。会場で知り合った若い音楽学者O氏に尋ねてみたところ、ふだんカットされる個所が演奏されているとのことだった。もっと詳しく知りたいものだ。

歌手は素晴らしい。最も素晴らしいと思ったのは、へルマンを歌ったギュンター・グロイスベック。若い歌手だが、声量豊かで、しかも声が美しい。エリーザベトを歌ったカミッラ・ニールンドも清純で芯のしっかりした声。素晴らしいと思った。タンホイザーのトリステン・ケルルはちょっと癖のある声だが、声量も十分。ヴェヌスのミシェル・ブリートも色気があっていい。ヴォルフラムのミカエル・ナギーも柔らかく太い声で見事。さすがバイロイトだけのことはあって、最高の歌手をそろえている。合唱も見事。

セバスチャン・バウムガルテンの演出にはかなり怒りを覚えた。

体内(あるいは胎内というべきか)を工場に見立てた演出といっていいだろう。ずっと舞台上には工場が据えられている。第一幕ではヴェヌスとタンホイザーの性交の後、精子のぬいぐるみまで登場する。

合唱団は細菌を表現しているのだろう。掃除をしたり、ものを食べたりしているのは、きっと体内で細菌が雑菌を食べたりしていることのアナロジーだろう。大まかなストーリーとしては、ヴェヌスが第一幕で妊娠し、最後、子供を出産する。要するに、妊娠賛歌。人間誕生賛歌というべき演出。最後には、人間だけでなく、様々な動物が現れるが、すべての生命の誕生への賛歌ということだろう。

大筋では演出意図はそんなものだと思うが、映像あり、様々なドイツ語の文章あり、登場人物たちの細かなパントマイムありで、わずらわしいこと、この上ない。「意味」が充満し、ことごとく音楽を邪魔する。そして、それらのパントマイムはほとんど意味不明。それに、そもそも「タンホイザー」をこのように解釈し、ヴェヌスがタンホイザーの子供を産んで、それを祝福するという筋立てにすること自体、あまりに音楽とかけ離れている。

そのせいか、私はティーレマンの指揮に心踊らなかった。弛緩したところがあるように思えたのは、私が演出に気を取られていたせいだろうか。昨年のザルツブルクの「影のない女」のような、そして数日前のバイロイトの「オランダ人」のような引き締まって躍動し、隅々まで生き生きした音楽を、今日は感じなかった。

 いくらなんでもこんなに音楽を邪魔する演出を許すべきではないと思うのだが。そもそも歌手たちに本来のストーリーとは無関係なパントマイムを要求するということ自体、オペラ演出としては、あるまじきことだと思う。正直言って、いくら演奏がよくても、こんな演出ばかりでは、バイロイトに来たくなくなると思った。

 終演後、レストラン「オイレ」で数人とワーグナーについて話しながら食事。

 

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バイロイト音楽祭「トリスタンとイゾルデ」に感動

 827日、バイロイト音楽祭「トリスタンとイゾルデ」を見た。全体的には、とても感動した。

 演奏に関しては、まずペーター・.シュナイダーの指揮が素晴らしい。実に精妙な音。盛り上がるところは盛り上がり、とろけるような味わい。まさしくトリスタンの世界。これまでの「さまよえるオランダ人」や「ローエングリン」と違って、この劇場建設後に、ワーグナーが音の特性を知った上で作曲したものであるだけに、それにふさわしい音がする。第二幕、ちょっと不発だったと思ったが、それは指揮やオケのせいではないだろう。

 歌手では、マルケ王のクワンチュル・ユンが素晴らしい。凄い歌手になったものだ。第二幕も第三幕も、厚いオーケストラを突き抜けて太くて美しい声が響く。クルヴェナールのユッカ・ラジライネン(昨日のブログで、ラジライネンがマルケ王を歌うと書いたが間違いだった!)、ブランゲーネのミシェル・ブリート、メロートのラルフ・ルーカスともに見事。声に酔うことができる。

主役二人は、脇役に比べてちょっと劣ると思った。それでもイゾルデのイレーネ・.テオリンは第二幕は抑え気味だったが、最後の「愛の死」は素晴らしかった。全身が震えた。ヴィブラートの強い歌がちょっと気になるが、しっかり歌っていた。問題なのは、トリスタンのロバート・ディーン・スミス。この人もヴィブラートが強く、しかも声がオケの中に埋もれて、届かない。昨日のフォークトと比べると、あまりに非力で、声に輝きがない。そのため、第二幕は感動できなかった。

 クリストフ・マルターラーの演出に関しては、2008年に見たものとかなり違っているように思った。私の記憶では、2008年の演出では、トリスタンとイゾルデは視線を交わすこともなく、抱擁することもなく、そっぽを向いたままで、まったく愛し合わなかった。それゆえ音楽との違和感があまりに強かった。今回も、「愛」は表に出てこないが、まあ愛を音楽で感じるのをそれほど強く邪魔しないようにはできている。

 とはいえ、せっかくクワンチュル・ユンが素晴らしい歌を歌っているときに、天井の蛍光灯が点滅したり(第三幕の瀕死のトリスタンの場面でも同じようなことが繰り返されるので、たぶん、これは「死の予感」を意味すると思う)、第三幕でクルヴェナールが小股でちょこちょこ歩いたり(これは、きっと「死の世界」の暗示だろう)といった、音楽を邪魔する小芝居が入って実にわずらわしい。このような姑息な罠にはまって「意味」を考えないように、できるだけ目をつむって音楽に集中した。

 第二幕まで少し不満に思っていたが、第三幕が終わってみると、感動し、魂を震わせ、涙を流していた。全体的には素晴らしい公演だった。

 

 今日は雨模様で、急に気温が下がった。昼間も20度前後だっただろう。10時半ころの終演だったが、そのころは15度なかったのではないか。昨日まで、席に着いた途端に黒服を脱いで汗をかきながら見ていたのに、今日は、むしろ寒さを感じる。

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バイロイト音楽祭 「ローエングリン」、演出に怒り、フォークトは凄い!

 8月25日、バイロイト音楽祭で「ローエングリン」を見た。危惧したとおりになってしまった!

 アンドリス・.ネルソンスの指揮、ハンス・ノイエルフェルスの演出。昨年、日本でも生中継されたのと同じネズミが出てくる演出。私は、途中で演出が不快になってテレビ放送をみるのをやめたので、ちゃんと見るのは初めてだった。

 で、やはり演出に対して不快に感じた。それどころか、怒りを覚えた。

 ネズミが不気味と思うわけではない。ただ、あまりに意味不明。どうやら、ネズミを実験台にした研究室という設定のようだが、そもそもなぜネズミなのか、これとローエングリンとどう関係があるのか、ネズミたちの様々な服装(禿げ頭のカツラ、黄色い服、黒い服、白い服、鮮やかな色の服、あれこれのしっぽ)や仕草にどんな意味があるのか、まったくわからない。おそらく、演出家本人以外、誰ひとりわからないだろう。いや、おそらく、ローエングリンとは全く無関係なことをネズミを使ってやっているのだろう。

 あまりにプリミティブな感想だが、こんな演出家の独りよがりを許していいのだろうかと思ってしまう。このような妄想に付き合わされるのはたまらない。

 そんなわけで、音楽に集中したいと思うのだが、目の前でネズミたちがあれこれの仕草をしているので、それに気を取られて、音楽が耳に入らない。しかも、目の前の仕草と音楽は全く無関係。

 おそらく、演出家は偉大な伝説となったワーグナーを卑小化したいのだろう。そして、むしろ笑いの世界にしたいのだろう。現に、第二幕や第三幕など、ネズミの仕草に対してあちこちで笑いが起こっていた(きっと笑っていたのは、ワグネリアンと呼ばれる人たちではないと思うが)。そうすると、ワーグナーの音楽とまったくかみ合わなくなってしまう。が、おそらく演出家はあえてそうしているのだろう。

 しかし、それはワーグナーの音楽を聞きにバイロイトまでわざわざ来た人にとっては、演出が音楽の邪魔をしていることにほかならない。

 近年の演出過剰の一つの現象を見て、私は大いに落胆し、怒りを覚えたのだった。

 

 音楽に関しても、昨日ほどには感動しなかった。もしかしたら、演出に気を取られたせいかもしれないが。

 圧倒的に素晴らしかったのは、ローエングリンを歌ったクラウス・フローリアン・フォークト。これはもう言葉をなくす凄さ。バイロイトの歴史に伝説として残されるのではないかと思われるほど。軽く声を出しているのに、芯のしっかりしたやわらかくて美しい声がまっすぐに響き渡る。高貴で優雅。まさしくローエングリンにぴったり。第三幕は独壇場といってよいほど。しびれた!

 オルトルートを歌ったスーザン・マクリーンもドラマティックな声でなかなか良かった。 テルラムントは第一幕はトーマス・J・マイヤーが歌ったが、体調が悪いとのことで、第二幕からユッカ・ラジライネンに交代。ラジライネンは、明日、マルケ王を歌うはずなのだが・・・。とてもよかった。伝令のサミュエル・ユンは昨日のオランダ人に続いての出演だが、これもいうことなし。

 ただ、ハインリヒ王のヴィルヘルム・シュヴィンクハンマーとエルザのアネッテ・ダッシュはほんの少し弱いように思った。とりわけ、ダッシュは、第二幕以降はかなり持ち直した気がしたが、第一幕はオーケストラと合わなかったり、ほかの歌手と音程がかすかにずれたりしたように思う。ただ、全体的には、容姿も美しく、可憐で清潔な声で、とても感銘を受けた。

 指揮のネルソンスについては、私は少し疑問に思った。第一幕では、集中力を失って、宙に浮いたような部分があるように思った。第二幕も、私の大好きなオルトルートとテルラムントの二重唱の部分が、ぞくぞくするような迫力に乏しかった。弛緩したような部分を感じた。どうしたのだろう。ティーレマンに比べると、やはりまだまだだという感じがしてしまう。ただ、第三幕はすばらしかった。

 わけのわからない演出に気を取られずに、もっとワーグナーの音楽を聞きたかった! 明日は、2008年に見て、今日と同じように演出に対して怒りを覚えたのと同じプロダクションのマルターラー演出の「トリスタンとイゾルデ」。しかも、私は昨年のザルツブルク音楽祭でマルターラー演出の「マクロプロス事件」を見て、これまた激しい怒りを覚えたのだった。

 明日もまた、今日と同じように演出に対する怒りを書くことになるかましれない・・・

 

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バイロイト音楽祭「さまよえるオランダ人」は最高だった!

 8月24日、バイロイト音楽祭「さまよえるオランダ人」を見た。最高の演奏! 素晴らしいという言葉では足りない。演出も刺激的。私は大いに興奮した。

 指揮はクリスチャン・ティーレマン。凄い指揮者になったものだ。昨年、ザルツブルク音楽祭であまりに圧倒的な「影のない女」を見て驚嘆したが、今日の「オランダ人」もそれに匹敵する。この劇場特有のやわらかい音が全体を満たし、隅々まで神経が行き届き、しかも生き生きとして張りのある音楽が進んでいく。バイロイト祝祭劇場を知り尽くしたティーレマンでなければできないことかもしれない。まったくの隙もなく、たるんだところもなく、ぐいぐいとドラマが推し進められる。

 歌手もみんな素晴らしい。何よりも素晴らしいと思ったのは、ゼンタを歌ったアドリアーネ・ピエチョンカ。昨年だったか、バイエルン国立歌劇場が来日した時、アリアドネを歌い、特別演奏会で「四つの最後の歌」を歌った歌手だ。その時も素晴らしいと思った。まるでリートを歌うような丁寧な澄んだ声だが、会場全体に響く。歌い回しも清潔。バラードはまさしく絶品。

 オランダ人はサミュエル・ユンという韓国人歌手。入れ墨問題で降板になったニキーチンの代役だが、ニキーチンに一歩も引けを取らないと思う。二度ほど、声が濁ったのを感じたが、それ以外はほぼ完璧に美しい声で歌いきった。韓国人歌手の勢いは止まらない。日本人も藤村さんの後に続く人が早く出てほしい。

 ダーラントのフランツ・ヨーゼフ・ゼーリヒもエリックのミハエル・ケーニヒも、舵手のベンヤミン・ブルーンスも完璧。どこといって穴がない。誰もが素晴らしい。合唱も最高。このオペラは合唱がよいとぐっとしまる。

 ジャン・フィリップ・グローガーの演出もおもしろかった。大ブーイングが出ていたが、私はこれは傑出した演出だと思う。

 

 幕が上がると、まるでハイテク機器の中身のようにIC回路のようなものがめぐらされ、数字が点滅している。オランダ人は、デジタル世界の人間という設定だろう。オランダ人の頭に黒い斑点があるが、それが情報人間のしるしだと思われる。オランダ人は、デジタル世界の人間でありながら、そこに激しい枯渇感を抱いて旅をして回っている。オランダ人は自ら腕にナイフで傷をつけるが、それは生きる力を得たいが得られないという焦燥を意味するのだと思う。

ダーラントと舵手は工業社会に属している。ダーラントは紳士的なスーツを着たブルジョワで、舵手はビジネスマンらしい身のこなし。第二幕の糸車の場面では扇風機工場という設定になっている。オランダ人の属する情報社会と違って、まさしくアナログ。登場人物は1950~60年代のハリウッド映画を戯画化したような制服姿で一律的な動きをしており、アナログ性が強調されている。エリックも工業製品を手にしており、同じ時代に属する。

 ゼンタは工場では浮いた存在で、制服を着ないまま子どもの工作のようなものを作っている。つまりは、ゼンタは資本主義以前の手工業時代、もっといえば「前近代」の存在だということを意味するだろう。

 オランダ人とゼンタは恋に落ちる。つまり、オランダ人は、情報時代の枯渇感の救いを前近代に求める。二人は意気投合し、工場を子どもの工作のようなつくり物で満たし、前近代の夢に耽る。

 第三幕はじめのオランダ船と幽霊船の合唱合戦は、アナログ的な資本主義と情報社会の戦いという様相をとる。まるでウイルスに侵食されるかのように、アナログ社会の人々は敗北しそうになる。

そして、幕切れに至る。オランダ人とゼンタはともに死を選ぶ。ただし、この場合の死は悲劇を意味しない。二人は傷つけあい、血を共有し、ともに死ぬことによって情報社会から脱出し、前近代に旅立とうとするのだろう。ところが、二人が死のうとしている瞬間、アナログ資本主義に属す舵手が二人の様子を写真に撮る。

ここでいったん幕が閉じる。そして、ふたたび幕が開くと、第二幕と同じ工場で、今度はオランダ人とゼンタが死のうとしている瞬間の像が工業製品として作られている。ここで歌劇全体が終わる。

要するに、いかにデジタル世界に資本主義からの脱出し、もっと人間らしい前近代の理想を描いてみても、結局はデジタル世界も資本主義に抱合され、売れる製品として広まっていくだろう・・という結末。

私は「読み替え演出」は大嫌いだ。だが、この演出は「読み替え」とは思わない。確かに「さまよえるオランダ人」というオペラを、そしてワーグナーの作品を現代において上演することは、この演出の提出した問題をはらんでいるのだから。

今、私たちは、情報化がこれまでの資本主義と異なる、もっと個人の生のあり方を満たす方向に向かうことを求めている。そして、私たちがワーグナーの歌劇や楽劇に心惹かれるのも、現代社会の枯渇感からの救済を、ワーグナーの持つ神話的な世界に求めるからだ。私たちは、今日の演出のオランダ人とまったく同じように、現代社会に満たされぬ思いで生き、もっと生きる喜びを感じたいと思っている。だからワーグナーを聞く。そこに資本主義とは違う、前近代の神話世界を感じている。だが、それははかない夢想でしかない。実際には、その思いは資本主義にかすめ取られ、商品化されていく。情報化も資本主義を一層強力にすることにしか役に立たない。

そうした現代社会の宿命を今回の演出は語っている。これは読み替えではなく、ワーグナーを現代において上演することの意味を突き付けている。

演出も含めて、大いに刺激を受けた。そして、このようなことを含めて考えさせてくれるワーグナーが私は大好きなのだと、改めて思った。

 明日は「ローエングリン」。昨年、この演出による「ローエングリン」をテレビで見始めて、演出が気に入らなくて途中でやめたのだったが、実演を見るとどうだろう。ちょっと心配・・・

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久しぶりにバイロイトの町を歩いてみた

 バイロイト、2日目。

バイロイトの町自体には、はじめてヨーロッパ旅行をした1977年にも訪れたが、バイロイト音楽祭は、97年、99年、2008年に次いで4回目。4年ぶりのバイロイトだ。

朝は原稿を書く仕事をして(実は、ザルツブルクでも、音楽を聞きに行っている時以外はホテルで原稿を書いていた!)、昼間、いつものように一人でフラフラと外出した。まずは祝祭劇場まで歩いてみた。丘の上に赤みを帯びた劇場を見て、35年前に初めて劇場を見たとき、そして15年前に初めて音楽祭に来た時の感動がよみがえった。

その後、中心街を歩いた。歩くうち、バイロイトの地理を思い出してきた。マクシミリアン通り、リヒャルト・ワーグナー通りを通って、久しぶりにヴァーンフリート館(ワーグナーの私邸)まで行った。中に入ろうとしたら工事中でしまっていたので、ワーグナーの墓参りだけしておいた。

今日は昨日ほど暑くはない。昨日は30度近くあったので、エアコンのない部屋はこたえたが、今日はたぶん25度くらい。日向は暑いが、陰に入ると涼しい。ホテルの室内も、日が当っても、なんとか耐えられる。

 昨日書き忘れていたが、このホテル、決してひどいホテルではない。確かに、エアコンもバスタブも冷蔵庫もないが、外観は美しく、清潔で朝食も悪くない。昔ながらのヨーロッパのホテルということだろう。泊っているのも、品の良いヨーロッパ人たち。かなり高齢の人が多い。朝食の時、横でドイツ人の夫婦らしい2人が話していたが、言葉の中に、「ヴァーグナー、ヤンソンス、バッハ」などという人名が交じっていたので、きっとほとんどが音楽祭を聴きに来た人たちだろう。ここから会場まで歩いていけるので、音楽祭の客には便利だ。

 明日は「さまよえるオランダ人」。5日連続でワーグナーが続く。

 日本に戻ると、仕事の上での厳しい現実に立ち向かわなければならない。明日から帰国までの間、つかの間の夢の日々を過ごそう。

 

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バイロイト到着

 午前中にザルツブルクを出て、列車でバイロイトに到着。途中、ミュンヘンとニュルンベルクで乗り換えた。

30数年前、院生だったころ、ユーレイルパスというヨーロッパ乗り放題のチケットを使って、こんな感じでふらふらとヨーロッパを旅していた。だが、還暦を過ぎて、これはやはり大変。いちいち重い荷物を持ち運ばなければならない。しかも、今回は、フランクフルトからザルツブルクまでの道中と同じように、年上の女性のエスコートをしている。私も腰痛に悩んでいるので、手助けできないが、それはそれで私なりに気をつかう。

ドイツ、オーストリアの人の親切さには驚く。婦人が荷物を持てずにいると、必ず若い男性が手伝おうとする。横断歩道を人が歩いていると、必ず車は止まる。日本も見習うべきだ。

旅の道中、オーストリアとドイツの美しい川や森や田舎の家を味わった。日本と違って、実に整然として美しい。まるでおとぎ話に出てきそうな村が見える。なぜこのように美しく保てるのか、実に不思議に思う。

バイロイトのホテルは、エレベーターなし、バスタブなし、エアコンなし、冷蔵庫なしだった! まさに30数年前によく泊っていたのと似たりよったりのホテル。懐かしさを覚える。このようなホテルに泊まるのは慣れている。とはいえ、これまた還暦を過ぎると、このようなホテルはつらい。

バイロイト音楽祭に行く人がよく泊るホテルということで予約したのだったが、甘く考えていた。今日は30度近くあるので、部屋に入ると汗が噴き出した。夜が暮れて、やっと過ごしやすくなった。明日以降が心配。

明日は公演はない。一日、休息に当てている。久しぶりにバイロイトの街を歩いてみよう。

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グスタフ・マーラー・ユーゲントの「ばらの騎士」と「ラ・ヴァルス」に興奮!

 8月21日、ザルツブルク音楽祭祝祭大劇場で、ダニエレ・ガッティ指揮、グスタフ・マーラー・ユーゲント・オーケストラの演奏を聴いた。私の今回のザルツブルク音楽祭で最も興奮する演奏だった。

 前半は、「パルジファル」の「聖金曜日の音楽」と、ベルクのヴァイオリン協奏曲。要するに、亡き人々を偲んで祈る曲。始まったとたん、グスタフ・マーラー・ユーゲントの音の凄さにびっくり。数年前、ハーディングの指揮で聞いて、その時もオケのあまりのうまさに驚いたがそれ以上。びしっと音程があって、研ぎ澄まされ、透明で、しかも機能一点張りではなく最高の美しさがある。はやくも涙が出てきた。あまりに美しい。

 フランク・ペーター・ツィンマーマンのヴァイオリンが加わってのベルクの協奏曲は、実はあまり感動できなかった。以前、日本でツィンマーマンの演奏するブラームスの協奏曲を聴いた記憶があるが、その時と同じ印象。はっきりいって何をしたいのかよくわからなかった。音も小さめで深い思いが伝わるわけでもなかった。ツィンマーマンのアンコールでバッハの無伴奏(ソナタ第2番のアンダンテ?)も、構築性がなく、ただ進んでいく感じ。少しがっかり。

が、休憩後が凄かった。ワルツを中心とした曲が2曲。まずは、シュトラウスの「ばらの騎士」組曲。私はオペラ「ばらの騎士」は大好きだが、組曲に感動したことはなかった。たいした曲と思っていなかった。ところがところが、これが凄まじかった。

透明な音が重なりあって、妙なる音の世界を作り出していた。「オックス男爵のワルツ」のなんと美しいこと。これがこんなに美しい音楽だったなんて! 信じられないようなヴァイオリンの弱音。第三幕の三重唱の部分の管楽器の微妙な美しさも、これまで聴いたことがない。音そのものの快感で涙が出てきた。最高の音の響きの世界。すべての楽器が一糸乱れぬ動きで生命を帯びて動き出す。最後の盛り上がりにおいても、透明に鳴り響いて一つ一つの楽器の音がクリアに聞こえる。それを束ねるガッティも素晴らしい。

最後の曲がラヴェルの「ラ・ヴァルス」。これも「ばらの騎士」と同じ雰囲気。楽器が次々と命を吹き込まれ、大きなうねりとなってワルツを奏でていく。そして、それがまるで音の龍のようになって見えない空に舞い上がる。一人ひとりのメンバーのうまいこと。ウィーンフィルも凄いが、それとは違った凄さ。もっと研ぎ澄まされ、もっと新鮮で、もっと透明。こんなオーケストラ、聴いたことがない。

アンコールはとてもよく知っている曲。私はワーグナー好きでありながら、この部分をとりだされて演奏されると、「あれ、この曲、何だっけ?」と思った。たぶん、ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の第三幕。ふだん独立して演奏されることのほとんどない部分なので、音楽の才能のからきしない素人の悲しさというべきか、どの部分なのか自信がない。CDで確かめたいが、今、ザルツブルクなので、その術がない。

静謐で柔らかくて深くて豊かな音楽。「こんな音楽もこのオケは上手に演奏できるんだよ」と示すための選曲だろう。

弦楽器を演奏するオケのメンバーはほとんどが女性。しかも、みんな20代に見える。若くてきれいな女性がずらっと並んでいる。管楽器、打楽器はかなり男性がいるが、もちろん、みんな若い。本当に将来が頼もしい若者たちだ。

昼間、ホテルで夜のコンサートに備えて昼寝をしようとしたら、突然楽器の音が聞こえてきて、眠れなくなった。トランペットやホルンの音で、音階を鳴らし、有名曲のパッセージを断片的に吹いている。それが数時間続いた。どうも私と同じホテルに、グスタフ・マーラー・ユーゲントのメンバーが宿泊していたようで、その練習だったようだ。このような音のために眠れないのなら幸せだと思うべきだと思い直した。

明日、バイロイトに移動する。今日のコンサートで私の2012年のザルツブルク音楽祭が終わる。昨年ほどではなかったが、最高に満足できた。

 

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ザルツブルク音楽祭「軍人たち」は凄い音楽だった

 8月20日、ザルツブルク音楽祭、フェルゼンライトシューレでツィンマーマン作曲のオペラ「軍人たち」(「兵士たち」とも訳されているが、新国立で上演された時のタイトルの合わせておく)を見た。いやはや凄まじい音楽!!

 まず曲自体がとてつもない。ベルクの「ルル」をもう一歩先に進めたような音楽とストーリーだ。次々と男を変え、激しい欲望に身を任せ、最後には物乞いにまでなり下がるマリーの姿を描く。

私は20世紀音楽についてはまったく詳しくないので、正確なことは言えないが、ともかく無調の音楽が炸裂する。大規模なオーケストラ編成で、横長のフェルゼンライトシューレの会場の本来のオーケストラボックスに入りきらずに、右と左の特設ボックスにも打楽器を中心とする楽器が並んでいる。

 新国立劇場で上演された時、時間が合わなくて私は見なかったので、今回、初めて実演を見た(CDでは聞いたことがあった)。複雑に音楽が重なり、爆発していく。圧倒されるばかり。

 インゴ・メッツマッハーの指揮するウィーンフィルは、もののみごとにこの複雑な音を最高の音の響きで再現していく。無調の音がこれだけ炸裂すると、それはそれは凄まじい。きっとメッツマッハーだからこそできる技なのだろう。しかも歌手がそろっている。すべての歌手が分厚いオケの音に負けずに声を出す。マリーを歌うラウラ・アイキン、伯爵夫人を歌うダニエラ・ベニャチコヴァ、シュトルチウスを歌うトーマス・コニエチヌイが素晴らしいと思った。後でプログラムを見て、あの凄い伯爵夫人を歌っているのが、あの可愛らしかった、そしてその後、大ソプラノとして鳴らしたベニャチコヴァだったと気づいた!!

 ただ、残念なことに、私は登場人物たちの見分けがつかなかった。以前、修道女たちばかりが登場してまったくわけがわからなかった「カルメル会修道女の対話」を見たときと同じで、同じような軍服を着た男たちの区別がつかない! 4、5人、よく似た体形の男性が出てきて、なんだかよくわからないまま、ただただ音楽に圧倒されて見ていた。

 演出はアルヴィス・ヘルマニス。ガラス戸で仕切られたこちら側でオペラは展開され、ガラス戸には、卑猥な写真などがしばしば映し出される。ガラス度の向こう側は兵舎という設定だが、むしろ精神病院のようにも見える。その向こうに厩舎があり、本物の馬が4、5頭動いている。

 馬が出てくるのは、人間の中の動物性の象徴なのだろう。そして、しばしばマリーがワラをかぶってうごめくのは、抑えても抑えきれない不定形の衝動のようなものを表しているのだろう。マリーは、理性で抑えきれない衝動に身を任せて堕落していく。マリーが堕落し、大音響が炸裂するとき、馬の何頭かは鞍を外されている。動物性が解き放たれてしまったのだろう。

 ただたんに一人の頭の悪い女が身を持ち崩すだけの物語なのに、なぜこんなに大オーケストラを用い、不協和音を炸裂させて、絶叫する必要があるんだろう・・・と思いながら見ていた。が、見ているうちにわかった気がした。オペラの中で、従軍牧師がかなり大きな役割を果たすが、まさしくマリーの行為はキリストの教えに背き、神を否定することだったのだろう。最後に十字架を背負った女性がガラス戸に映し出されるのは、そのことを意味しているだろう。だからこそ、マリーの行動は激しい音を炸裂させるに足る精神的な大事件なのだ。

 きわめて納得のいく音楽、納得のいく演出だった。もちろん私は音楽についてかなりの保守主義者であって、無調音楽は決して好きではないので、感動したとまでは言わないが、大満足の上演だった。

 

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ザルツブルク音楽祭、ポリーニのベートーヴェン、30・31・32番のソナタの境地

 8月19日夜、ザルツブルク音楽祭祝祭大劇場で行われたマウリツィオ・ポリーニによるベートーヴェンのソナタ303132番のリサイタルから先程帰ってきた。いやはや、さすがというべきか、凄い演奏。

 このブログを読んでくださっている人はお気づきだと思うが、私は実はほとんどピアノソロの曲は聴かない。ピアノが嫌いというわけではない。協奏曲や室内楽はピアノの入っているものを聴く。ただ、ピアノ独奏となると辛い。そんなわけで、私としては久しぶりのピアノソロ。そして、ピアノソロ曲について批評めいたことを言う資格は、ほかの曲以上に、私にはまったくない。今回演奏された三つのソナタも、もちろん何度も聴いたことがあるが、交響曲や協奏曲やヴァイオリンソナタほどに繰り返し聴いてなじんだ曲ではない。それゆえ、きわめて素朴な印象だけを書かせていただく。

 いやはやポリーニも歳をとったと思った。悪い意味ではない。私が初めてポリーニの演奏をCDで聴いた時のような激しく緊張感にあふれる演奏ではなかった。音もかつてのような輝かしく強い音ではなかった。老チェリストがバッハの無伴奏を自由な境地で演奏するように、ベートーヴェンの最晩年のソナタを演奏して見せてくれていると思った。

 とりわけ32番の終楽章の変奏曲。変奏をいつくしみ、楽しみ、これまでと違った高みを描いてくれる。力まず、巧まず、自然に深い境地を流れるように描く。そして、それがベートーヴェンの最晩年の境地と重なる。そして、もちろん爆発するべきところは爆発する。しかし、そこに深い思いが重なっている。私は何度か魂が震えた。この私がピアノソロに動かされることはめったにないのだが、まさに魂が震えた。

 そうか、ベートーヴェンの最後の境地というのはこんなものだったのか…と思った。

 2曲、アンコールされたが、ピアノ曲に強くない私は何の曲かは知らない。ベートーヴェンだとは思うが。知らないながら、これらにも十分に感動した。

 私は最前列。ポリーニがまさに目の前。好んでとった席ではないが。それに、こんなことを言うとバチが当りそうだが、初めのうちポリーニ自身の鼻歌が気になってピアノの音に集中できなかったが、ともあれポリーニの生の姿をしっかりと味わうことができた。

 それにしても、ポリーニは、登場し、演奏し、演奏が終わって退場するまで、ずっと暗い表情をしている。笑っても、むしろひきつったような笑いに見える。観衆におびえながら、ただ音楽に救いを求めている・・・というようにも見えた。

「ラ・ボエーム」と「カルメン」の二つのオペラに少々不満が残った後だったので、とても満足。幸せな気分で眠ることができそう・・・

 

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ちょっと微妙なザルツブルク音楽祭の「カルメン」

 8月19日、ザルツブルク音楽祭、祝祭大劇場で、歌劇「カルメン」を見た。指揮はサイモン・ラトル、演出はアレッタ・コリンズ。演奏はウィーン・フィル。

「微妙」という言葉が最も私の気持ちを表している。

演奏はもちろん悪くない。悪かろうはずがない。ウィーン・フィルは美しい音を出している。歌手たちも見事。だが、私の知っている「カルメン」ではない。「カルメン」の魅力も感じない。

まず、カルメンを歌ったマグダレーネ・コジェナーが、カルメンに見えない。知的で神経質。色気はまったく感じない。カルメンが叫ぶところは、我が強くて頭のいい神経質な女がヒステリックにわめいているように見えるし、そう聞こえる。体臭がむんむんとしながらもあらがいがたい魅力を放つカルメンを感じなかったのは、私だけではないだろう。どうもコジェナーは何を演じても知的になりすぎるきらいがあるように思う。

ドン・ホセを歌うヨナス・カウフマンは素晴らしい歌と演技。CDやDVDで最高の歌をいくつか聴き、楽しみにチケットを買いながらずっとキャンセルされていたカウフマンを初めて聞いて、その見事な声に感嘆。しかし、これまた知的で凛としており、カルメンに首ったけで人生を台無しにするダメな男には見えない。だから、ドン・ホセがカルメンを刺し殺す最後の場面もリアリティを感じない。

そして、それに輪をかけて、ラトルの指揮が明快で知的。「カルメン」の魅力である下品さ、色気、地中海的情熱、やるせなさというものを感じない。なるほど、このような「カルメン」をラトルはやりたかったのか、とは思うが、これでは「カルメン」好きを納得させるのは難しいのではなかろうか。私はまったく「カルメン」好きではないが、やはりこれでは、「カルメン」に魅力を覚えない。

そのなかで、ミカエラを歌ったゲニア・キューマイヤーが清楚で美しい声で、いかにもカエラらしかった。素晴らしい歌手だ。エスカミーリオを歌ったコスタス・スモリギナスも立派な歌唱で、十分にエスカミーリオに見えた。

演出はまずまずだと思った。セヴィリアということをかなり強く意識した演出。第一幕に出てくる子どもたちが、煙草をかすめ取る悪童たちだったり、第二幕の最後、ホセがピストルでスニガを殺したり、第三幕が地下道になっているなど、驚くようなところはあったが、独自の解釈言うほどのものではなさそう。

というわけで、まさしく微妙。昨日と同じように、不完全燃焼の気持ちで会場を後にした。

 

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ネトレプコをもってしても、私のプッチーニ嫌いは治らなかった

 8月18日、ザルツブルク音楽祭、大祝祭劇場での「ラ・ボエーム」を見てきた。一言でいって、ネトレプコをもってしても、私のプッチーニ嫌いは治らなかった。

 歌手たちは素晴らしい。やはりネトレプコが圧倒的。まったく無理をしていない。まったく声を張り上げていない。それなのに、会場中に透明で澄んだ声が鳴り響く。驚異としか言いようがない。そのため、瀕死のミミの状況も無理なく演じられる。ちょっと心配だった体型も、服のおかげで十分に痩せて見える。脚が細いためだろう。しかも、演技力があるので、観衆をひきつける。ネトレプコが一声出したとたんに会場が突然、劇空間になるのは、私がネトレプコのファンだからというわけではあるまい。すべてのアリア、二重唱も絶品。

 ロドルフォを歌ったピョートル・ベチャワも素晴らしい。超一流のテノール歌手になったのがよくわかる。ムゼッタのニノ・マチャイゼも実に魅力的。マルチェッロのマッシモ・カヴァレッティも文句なし。現代最高のメンバーだと思った。

ウィーンフィルは実に美しい。プッチーニの指揮については、私はまったくわからないが、指揮のダニエレ・ガッティについても、私に文句はない。

演出はダミアノ・ミキエレット。現代のパリの市内を強く意識した演出で、ロドルフォの部屋は今時のパリの若者の「ステュディオ」を模している。第二幕は、カルチェ・ラタンっぽい。パリの地図が舞台いっぱいに張り出されているが、そこに20世紀フランス文学を学んだ人間にはなじみ深い「シェークスピア・アンド・カンパニー」(シェークスピア書店)が大きく出ているが、まさしくその付近がこのオペラの舞台なのだろう。第三幕はパリの高速道路の高架下の雰囲気。ただし、私にわかる範囲では、特に目新しい解釈はなさそう。

そんなわけで十分に感動してしかるべきなのに、やはり私はプッチーニに感動できない。

今さらいっても始まらないのだけど、プッチーニの甘ったるいメロディ、これみよがしの盛り上げ方、お涙ちょうだいの台本、そして何よりも歌のメロディ線に沿って流れるオーケストラのメロディ。これらのせいで感動のスイッチが入らない。歌手たちの声にゾクゾクするところはたびたびある。が、プッチーニのオーケストラが出てくると、萎えてしまう。歌のメロディは今のままでいいから、オーケストレーションをリヒャルト・シュトラウスか誰かにやり直してほしい・・・と本気で思ってしまう。プッチーニ好きはこのオーケストレーションが好きなのだろうが・・・

ネトレプコのおかげで私のプッチーニ嫌いも治るか、もしかしたら今日は私の人生で初めてのプッチーニに感動した日になるかと思って出かけたのだったが、無理だった。

 そんなわけで、周囲の大熱狂にもかかわらず、いたって冷静に会場を出た。

 それにしても、ザルツブルク音楽祭の客は、演奏中も実によくしゃべる。二人以上で来ている客で話をしなかった客は私の周囲に一人もいなかったほど。間違いなく、みんながしゃべる。ザルツブルクの客に物見遊山のスノッブがたくさん混じっているせいなのか、それともヨーロッパのクラシック音楽ファンは演奏中にしゃべるのが当たり前なのか。疑問に思った。

 今日はプッチーニのせいで欲求不満。

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ザルツブルク音楽祭の「魔笛」は凄まじかった

 817日、ザルツブルク音楽祭、フェルゼンライトシューレで「魔笛」を見た。ニコラウス・アーノンクール指揮、ウィーン・コンセントゥス・ムジクス。演出はヤンス・ダニエル・ヘルツォーク。一言で言って、言葉をなくすほど凄い。演奏ももちろん、演出にも「ぶったまげた」という表現がふさわしい。

 まず、アーノンクールの指揮とオケが素晴らしい。厚みがあり、凄味があり、しかも限りなく美しい。古楽器であるがゆえに、現代楽器の表面的な美しさとは違った本物の味わいがある。若いころのアーノンクールのようなアクセントの強いとんがった演奏ではないが、かなり個性的な演奏であることは間違いない。しかし、すべてにおいて説得力があるので、打ちのめされる。序曲からして、あまりの凄さに圧倒された。最後まで全くゆるぎなく緊密の構成され、最高の美しさで終わった。

 歌手では、ザラストロを歌ったゲオルク・ツェッペンフェルトとパミーナを歌ったユリア・クライターが特に素晴らしいと思った。ツェッペンフェルトは深く強いバスの声で、最低音もしっかりと出ている。クライターも澄んだ美しい声。二人とも表現力も見事。タミーノを歌ったベルナルト・リヒターとパパゲーノのマルカス・ヴェルバも遜色ない。リヒターは容姿もよいし声もきれいなので、これからきっと大人気になるだろう。歌い回しや顔は、今、ローエングリンで大スターになったフォークトを思わせる。夜の女王のマンディ・フレドリヒは今年デビューしたごく若い歌手。しっかり歌っていたが、やはりちょっと堅かった。最高音はダムラウなどに比べると、少し声の美しさが不足。

 

 実は、「魔笛」は、モーツァルトのオペラの中で特に好きなオペラではない。ダ・ポンテ台本の3作のほうが好きだ。理由は単純。ストーリーの脈絡のなさが我慢ならないからだった。前半、どう考えても善玉でしかありえない夜の女王が、突然、奇妙なつじつま合わせで悪者になっていくのが、どうにも耐え難い。「実は辻褄が合っている」という説にも納得できないし、「音楽が美しいから、気にしなくていいじゃないか」という意見にも従えない。なぜこんなストーリーになったのか、モーツァルトとシカネーダーに何が起こったのかを解明したいとずっと思い、何冊か本も読んできた。このオペラを見る時も、この矛盾をどう解決しているかが何よりも気になる。

 ヘルツォークの演出はものの見事にこの矛盾を処理している!

 ザラストロの寺院は寄宿学校という設定になっている。教員のほとんどが白衣を着ているので、医療系の寄宿学校といったところか。時代はほぼ現代。ただ、正確には20年ほど前の雰囲気だ。

パミーナは高邁な理念を掲げるザラストロの寄宿学校にいるが、母親の夜の女王はそこの教育方針が気に入らない。モノスタトスは、その寄宿学校の品行の良くない教員で、パミーナにセクハラをしている。パミーナはというと、寄宿学校に入ったものの、厳しさについていけずにホームシックにかかっている。そうこうするうち、モノスタトスのセクハラがザラストロにばれてクビになる。そのような話になっている。なるほど、そう考えると、辻褄があう。モノスタトスという存在も納得がいく。

 ザラストロが胸に光る時計のようなものをぶら下げている。いったい何だろうかと思っていたら、どうやら世界の権力を象徴するものらしい。ワーグナーの四部作の指環と同じような意味を持っていると考えるとわかりやすい。光る時計が頭にコードでつながっているのは、おそらく理性による世界の支配を意味しているのだろう。

 最後、ザラストロの勝利で終わるものとばかり思っていたら、違っていた! 最後、ザラストロと夜の女王が光る時計を奪い合う。要するに権力を奪い合う。そしてザラストロが「太陽の陽射しは、夜を追い払い、 偽善者どもが盗み取った権力を滅ぼす」と歌うところで、ザラストロ自身がまさしく夜の女王とともだおれになって舞台に転げる。

 要するに、ザラストロの寄宿学校(すなわち寺院)は偽善の世界だったということだ。だからこそ、モノスタトスのような教員も出てくることになる。第二幕で、タミーノの腕時計を寄宿学校の教員の一人(つまりは寺院の僧侶の一人)がくすねる仕草があったが、これも偽善を意味しているだろう。

 タミーノの手に渡った光る時計(すなわち権力のしるし)は、パパゲーノとパパゲーナの間に生まれてくる子どもたちのおもちゃにされる。要するに、世界を支配する権力は、権力欲に駆られた地位の高い大人たちではなく、未来の民衆に託されるというメッセージだろう。

 つまりは、ザラストロも夜の女王も同じ穴のムジナだったということだ。

ヘルツォークの見つけだした、このオペラの矛盾を処理する方法は、これだった。恐るべき解決! そんな方法があったのかと驚嘆した。

 ところで、三人の少年がずっと禿げ頭の老人の扮装をしている。この三人の少年は、夜の女王とザラストロの両者に従うあいまいな存在であり、まさしく偽善の側の存在なのだ。だったら、未来を託される「子ども」とは別の存在でなくてはならない。それを明確にし、この三人の少年が偽善の側にいることを示すために、老人の扮装になったのだろう。

見終わってから、もしかしたら、モーツァルトの作曲の意図にも、ヘルツォークが演出に込めたようなものがあったのではないかとさえ思えてきた。モーツァルトはこのオペラにフリーメーソンの思想を盛り込んだといわれるが、確かにザラストロの語る思想はあまりに偽善じみている! モーツァルトが暗にフリーメーソンの偽善性を告発していたとしたら…。そんな想像をしてみたくなるような演出だった。

ともあれ、ザルツブルクに来た甲斐があった。こんなすごいものを見られるのなら、毎年でも来たくなる。

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ザルツブルク音楽祭、「魔笛」の続編である「迷宮」はおもしろかった

8月16日、ザルツブルク音楽祭、レジデンツホフでピーター・フォン・ヴィンター作曲のオペラ「迷宮」を見た。

会場が「レジデンツホフ」だというので、あちこち探したが、ザルツブルク旧市街のレジデンツ(宮殿)内部の中庭での野外劇場だった。第二幕の前で簡易屋根が張られた。夜の8時に始まり、111時半近くに終わった。昼間の気温は25度前後あったと思うが、夜は冷え込んだ。まさか野外劇場とは思っていなかったので、厚着していなかったため、かなり寒かった。

このオペラは、モーツァルトの「魔笛」の続編で、台本は同じシカネーダー。「魔笛」の大成功に味をしめたシカネーダーが、モーツァルトの死後、ヴィンターという当時人気のあった作曲家に依頼して、続編を完成させたという。初演は1798年というから、モーツァルトの死後6年余りがたっている。

 ストーリーは「魔笛」とよく似ている。ほとんどが同じ登場人物。タミーノとパミーナ、パパゲーノとパパゲーナの二組の結婚を、夜の女王とモノスタトスが邪魔しようと画策するが、試練のための迷宮を克服したタミーノが改めてパミーノを射止めるお話。三人の少年、三人の侍女、ザラストロが登場する。新たな登場人物としては、パミーナに恋し、夜の女王と結託してタミーノの邪魔をしようとするティフェウス、その友人シトス、そしてパパゲーノの両親がいる。

 台本は、「魔笛」と同じように、だらだらとして無駄が多く、わかりにくい。これと比べると、あのわけのわからない「魔笛」も、まだしもよくできた台本だと思えてくる。だが、これは大衆オペラなのだから、これでいいのだろう。それはそれでとても楽しい。次から次にいろいろなことが起こって盛りだくさん。

 音楽は、言うまでもなくモーツァルトに比べるとまさしく凡庸。しかし、なかなかおもしろい。モーツァルトよりももっと平易で親しみやすいメロディがふんだんに出てくる。しかも、モーツァルトにとてもよく似ている。序曲の最初の和音は「魔笛」を彷彿とさせるし、それぞれの登場人物のアリアも、雰囲気がそっくり。夜の女王のコロラトゥーラのアリアもちゃんとある。パパゲーノはパパゲーノらしく、しかも笛の音も出てくる。タミーノの吹くフルートのメロディもとてもよく似ている(「魔笛」のメロディの変奏と言えるのかもしれない)。あちこちで既視感を覚える。ただし繰り返すが、モーツァルトをモーツァルトたらしめている圧倒的な美、圧倒的な凄味が全くない。改めて、モーツァルトの偉大さを感じる。

演出はアレクサンドラ・リートケ。とても楽しい演出。わかりにくいオペラをよく整理していたし、野外オペラという制約をうまく利用していた。

 演奏はまずまず。野外劇場であるため、歌手たちはかなり苦しかったかもしれない。そのなかで全体的に男声陣のほうがよかった。タミーノを歌ったミハエル・シャデは、容姿はとてもタミーノに見えないが、よく伸びる美声で、しっかりと歌っていた。パパゲーノのトーマス・タッツィもとてもよく演じ、しかも良く通る声。クリストフ・フィッシェッサー(ザラストロ)も悪くなかった。女声陣はやや劣る。夜の女王のユリア・ノヴィコヴァは声が伸びず、音程も少し不安定だった。不調だったのかもしれない。パミーナのマリン・ハルテリウスもかなり弱さを感じた。ほかの歌手陣はなかなかの芸達者。パパゲーノの姉妹を演じた小さな子どもたちや合唱もよかった。

 指揮はアイヴァー・ボルトン。メリハリのあるキビキビした演奏で、このオペラにはぴったりだと思った。オケはモーツァルテウム管弦楽団。もちろんとてもよいオーケストラだが、やはりウィーンフィルとはかなりの違いを感じる。

 感動というほどまではいかないが、ともあれ珍しいオペラがみられてよかった。明日は、正真正銘の「魔笛」をアーノンクールの指揮で見る。

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ザルツブルク音楽祭「ナクソス島のアリアドネ」は素晴らしかった

8月15日、ザルツブルク音楽祭、モーツァルト館で「ナクソス島のアリアドネ」オリジナル版を見た。一言で言って、素晴らしい! 大いに感動した。

ずっと忙しかったので、実は今回のザルツブルク音楽祭について、あまり情報を仕入れていなかった。オリジナル版ということは知っていたので、かつて何度か聴いた覚えのあるケント・ナガノ指揮、リヨン国立歌劇場管弦楽団のCD(ちなみに、これはとても良い演奏であり、私はこの演奏でケント・ナガノの名前と真価を知ったのだった!)と同じ版だとばかり思って会場に行き、プログラムを購入して中身をみてびっくり! なんと、第一幕第一場、最初に声を発するのはホフマンスタールということになっている! いわずとしれたこのオペラの台本を書いた大詩人だ。どういうことだろうと思って、幕が開く前に必死にプログラムの英語を読んだ。

本来の第一幕が始まる前に、ホフマンスタールと伯爵夫人オットニーのやり取りが加えられていた。おそらく今回の公演のために新たに加えられたのだろう。ホフマンスタールがモリエールの町人貴族を題材にオペラを書いていることを、思いを寄せている未亡人のオットニー(実在の人物だろうか?)に語り、語られた内容が目の前で上演されているという仕掛け。しかも、ホフマンスタールが町人貴族の登場人物であるドラントに扮し、オットニーがドリメーヌ夫人に扮する。このオペラ自体が劇中劇なのだが、そこにまた新たな劇中劇を組み入れた形になっている。

こうした芝居が、第一幕全体にわたって、ほとんどが、歌でなく普通の台詞で語られる。

そんなわけで、私たちの聴きなれた「序幕」は演奏されなかった。「作曲家」はあの魅力的なメゾ・ソプラノで歌われる人物ではなく、男性が演じる。代わりに、私たちが「町人貴族」組曲として知っている曲のいくつかが演奏される。とはいえ、私の記憶が正しいとすると、ケント・ナガノのCDともかなり異なるようだ。近いうちにDVDが発売になると思うが、その際、専門家に詳しい説明を書いてほしいものだ。

第二幕は、私たちの知っているものとほとんど同じ「オペラ」。ただし、ツェルビネッタの大アリアなど、ところどころ耳慣れない音楽が現れる。上演されているオペラを町人貴族ジュールダン氏がみているという設定で、時々、声を挟む(ケント・ナガノのCDでもオペラの中にジュールダン氏が登場して声を挟むが、これもかなり異なっているように思った。どちらかがオリジナルを修正しているのか?)。

また、演出上、ホフマンスタールとオットニーが舞台の登場し、バッカスとアリアドネに重なる。つまり、ホフマンスタールは自分と伯爵夫人の恋をバッカスとアリアドネの恋に重ねて台本を書き、結局恋を成就した・・・という物語になっている。

・・・と、この台本について説明したが、かなりわかりにくい。見ていない人にわかってもらえる自信は全くない。このくらいにしよう。

 私は最前列だったので、字幕を読みにくいこと、この上ない。歌でも、英語の字幕だと苦労するのに、台詞が多いので、字幕を追いかけるのが間に合わない。よくわからないところが多かった。が。わからないところが多いながらも、ともあれ、とても面白かった。役者たちの芸達者なこと。しかも、容姿も、まるで台本からできたかのよう。

そして、何よりも音楽が素晴らしい!!

 エミリー・マギー(アリアドネ)、エレナ・モシェク(ツェルビネッタ)、ロベルト・サッカ(バッカス)、そして道化役者たち、三人の妖精、すべてが完璧。図抜けた歌手はいないがアンサンブルが素晴らしい。マギーもモシェクもサッカも、シュヴァルツコップやグルベローヴァやカウフマンと比べると少し劣るのかもしれないが、生を聴いている間はそのようなことは気にならない。指揮はダニエル・ハーディング。かつては切れの良さを強く感じていたが、今回は実にしなやかで美しい。そして、ウィーンフィルの音の美しさ! 潤いがあり、しなやかで色気がある。弦とクラリネットにうっとりした。

 演出も、第一幕の芝居の部分といい、第二幕のオペラの部分といい、一つ一つの動き、顔の表情など、ほんとうに見事というしかない。芝居として最高の楽しさ。色づかいも最高。

 ただ、少々腰が痛くなったのが心配・・・・

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ザルツブルク到着

 8月13日の昼間、成田を出て同日の夕方(といっても、もちろん7時間の時差がある)、フランクフルトに到着。すぐにタクシーでホテルに向かった。翌日の移動を考えて、フランクフルト駅前の小さなホテルで一泊。

 空港に到着してすぐに携帯でメールなどを確認しようとしたところ、圏外になっている。今回は、私にザルツブルク、バイロイト行きを誘ってくれた私よりも年上の女性をエスコートする形で行動を共にしているが、その方の携帯も同じ状況。あれこれいじってみるが、全く通じない。

 しばらくして、これが私たちだけの問題ではなく、ドコモの障害で全世界的に起こっているとわかって、まずは安心したが、それにしても、仕事などでもしもの事が起こったら携帯で連絡し合おうとの心づもりで来ているので、通じないと実に不安。携帯がなかった時代には考えられないことだ。携帯によって社会とつながっていないと不安で仕方がなくなっている自分を改めて発見。

ホテルの周囲の雰囲気は最悪。私の泊まるホテルの通りまではまだましだが、先に一歩進むと、ひたすらいかがわしい店が立ち並んでいる。足を踏み込むとロクなことにならないのが一目でわかるレベル。ホテルの質も良くないが、日本の常識からするととてつもなく安いので、よしとしよう。夕食は駅付近で済ませて、眠くなるのを必死にこらえて、11時ころに寝た。

 翌14日、列車でミュンヘンを経由してザルツブルクまで列車で移動。ガラガラだろうとは思いながら、念のために駅で指定席をとっておいたが、予約しておいてよかった。満員だった。しかし、列車はきれいで、乗客の雰囲気もとてもいい.騒ぐ子どもたちはいるが、それも旅というもの。ミュンヘンに到着したところで、やっと携帯が通じた。ひと安心。

 列車の旅は大好きだ。35年ほど前、一人で1ヶ月以上、ふらふらと列車でヨーロッパを動き回った。25年ほど前の新婚旅行でも2ヶ月間、列車で17カ国を回った。ぼんやりと流れゆく景色を見ていると、自分が曖昧になり、非人称的な存在になる。それがたまらなく心地いい。ワーグナーを聴いているときにもそんな気分になる。ただしこの幸福感はしばしば眠気を伴うので、バイロイトでは注意しなければならない。

 午後、ザルツブルクに到着。駅付近のとても快適なホテルにいったん入って、すぐにフェスティヴァルホールにバスで向かい、購入した以外にめぼしいコンサートのチケットはないかと探したが、無駄だった。ザルツブルクには昨年も来たので、勝手はよく知っている。

 市内を見て食事をして、ホテルに戻り、ぐっすり寝た。

今は、こちらの時間で15日午前10時過ぎ。15時に始まる「ナクソス島のアリアドネ」を見る予定。高校生のころ(つまり45年ほど前)、カラヤン+フィルハーモニア、シュヴァルツコップ、シュトライヒの歌うレコードを聴いてしびれて以来、大好きなオペラだ。ベームがウィーン国立歌劇場と東京にやってきて、グルベローヴァがツェルビネッタを歌ったときも大感動してみた。

 仕事を持ってきているので、本番までホテルで仕事をしようと思っていたが、手に付かないで、これを書いている。数日前のこの公演ではバッカスをカウフマンが歌ったはずだが、今日はロベルト・サッカ(と発音するのかな?)という歌手。ちょっと残念だが、やむを得ない。カウフマンに負けない名歌手であることを望む。

 これを書いて少し心が落ち着いたので、出かけるまで仕事をすることにしよう。

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ザルツブルク音楽祭とバイロイト音楽祭に出発する

 明日、ザルツブルク音楽祭に向けて出発する。その後、バイロイトに移動する予定。その間、本来の仕事が停滞するため、この1・2週間、猛烈に忙しかった。やっと一息ついた。

 荷物をスーツケースに入れてみた。今回はかなり長期間、ザルツブルクとバイロイトに滞在するので、荷物が多い。機内に預ける荷物の重量制限が改訂されたので、これまでよりも重くても何とかなりそうで、少し安心。が、力いっぱい押し込んでやっと閉められた。

 数週間、部屋を片付ける暇もなかったので、ドアから机まで、一本道に沿って歩いていかなければ本やCDや箱の山にぶつかる始末。だいぶ片付けて、やっと床が見えてきた。

 が、いろいろと見つからない。旅行中にしなければならない仕事のための資料を探すが、見つからない。大学の研究費に必要なためにまとめていた領収書の束も見つからない。困った!

 

 アレクサンドル・ニキーチン(以前、このブログでニキティンと表記したかもしれない)が鍵十字の刺青のためにバイロイトの役を降板になったとのニュースが先日、あちこちのメディアに流れた。刺青については、以前、ナマでニキーチンを見た時(バイエルン国立歌劇場の来日公演の際だったと思う)に、気付いていた。初めは演出かと思ったが、そうではなさそうだった。が、まさかナチスの鍵十字をいれていたとは。

私個人はニキーチンがどんな刺青をしていても別に問題を感じない(確かにワーグナーの中にはナチス的な部分がある! よって、ワーグナー好きの中にそのような人がいるのも当然だと思う)のだが、確かにヨーロッパの世論からすると、これは大問題だろう。ニキーチンは好きな歌手だが、今回の措置はやむを得ない。

 

消費税増税法案とそれにまつわる不信任案騒ぎについて。消費税増税自体はやむを得ないと思う。消費税に反対し続けるのはむしろポピュリズムだろう。いつまでも反対するよりも、どうやって景気への悪影響を減らすのかの議論を進めるほうがよいと思う。しかし、それにしても、不信任案騒ぎ、そして谷垣総裁と野田総理のどたばた首脳会談! 何をかいわんや。政党政治の未成熟にあきれる。

政治のニュースがあまりに不愉快なので、ニュース番組でこの問題が取り上げられると、オリンピックを放送している局を探していた。オリンピックについては、私は男女の水泳に最も興奮した。

 

一休みしたので、もう一度、あちこちを探さなければならない。それにしても、ザルツブルクとバイロイトは楽しみだ・・・

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