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ザルツブルク音楽祭の「魔笛」は凄まじかった

 817日、ザルツブルク音楽祭、フェルゼンライトシューレで「魔笛」を見た。ニコラウス・アーノンクール指揮、ウィーン・コンセントゥス・ムジクス。演出はヤンス・ダニエル・ヘルツォーク。一言で言って、言葉をなくすほど凄い。演奏ももちろん、演出にも「ぶったまげた」という表現がふさわしい。

 まず、アーノンクールの指揮とオケが素晴らしい。厚みがあり、凄味があり、しかも限りなく美しい。古楽器であるがゆえに、現代楽器の表面的な美しさとは違った本物の味わいがある。若いころのアーノンクールのようなアクセントの強いとんがった演奏ではないが、かなり個性的な演奏であることは間違いない。しかし、すべてにおいて説得力があるので、打ちのめされる。序曲からして、あまりの凄さに圧倒された。最後まで全くゆるぎなく緊密の構成され、最高の美しさで終わった。

 歌手では、ザラストロを歌ったゲオルク・ツェッペンフェルトとパミーナを歌ったユリア・クライターが特に素晴らしいと思った。ツェッペンフェルトは深く強いバスの声で、最低音もしっかりと出ている。クライターも澄んだ美しい声。二人とも表現力も見事。タミーノを歌ったベルナルト・リヒターとパパゲーノのマルカス・ヴェルバも遜色ない。リヒターは容姿もよいし声もきれいなので、これからきっと大人気になるだろう。歌い回しや顔は、今、ローエングリンで大スターになったフォークトを思わせる。夜の女王のマンディ・フレドリヒは今年デビューしたごく若い歌手。しっかり歌っていたが、やはりちょっと堅かった。最高音はダムラウなどに比べると、少し声の美しさが不足。

 

 実は、「魔笛」は、モーツァルトのオペラの中で特に好きなオペラではない。ダ・ポンテ台本の3作のほうが好きだ。理由は単純。ストーリーの脈絡のなさが我慢ならないからだった。前半、どう考えても善玉でしかありえない夜の女王が、突然、奇妙なつじつま合わせで悪者になっていくのが、どうにも耐え難い。「実は辻褄が合っている」という説にも納得できないし、「音楽が美しいから、気にしなくていいじゃないか」という意見にも従えない。なぜこんなストーリーになったのか、モーツァルトとシカネーダーに何が起こったのかを解明したいとずっと思い、何冊か本も読んできた。このオペラを見る時も、この矛盾をどう解決しているかが何よりも気になる。

 ヘルツォークの演出はものの見事にこの矛盾を処理している!

 ザラストロの寺院は寄宿学校という設定になっている。教員のほとんどが白衣を着ているので、医療系の寄宿学校といったところか。時代はほぼ現代。ただ、正確には20年ほど前の雰囲気だ。

パミーナは高邁な理念を掲げるザラストロの寄宿学校にいるが、母親の夜の女王はそこの教育方針が気に入らない。モノスタトスは、その寄宿学校の品行の良くない教員で、パミーナにセクハラをしている。パミーナはというと、寄宿学校に入ったものの、厳しさについていけずにホームシックにかかっている。そうこうするうち、モノスタトスのセクハラがザラストロにばれてクビになる。そのような話になっている。なるほど、そう考えると、辻褄があう。モノスタトスという存在も納得がいく。

 ザラストロが胸に光る時計のようなものをぶら下げている。いったい何だろうかと思っていたら、どうやら世界の権力を象徴するものらしい。ワーグナーの四部作の指環と同じような意味を持っていると考えるとわかりやすい。光る時計が頭にコードでつながっているのは、おそらく理性による世界の支配を意味しているのだろう。

 最後、ザラストロの勝利で終わるものとばかり思っていたら、違っていた! 最後、ザラストロと夜の女王が光る時計を奪い合う。要するに権力を奪い合う。そしてザラストロが「太陽の陽射しは、夜を追い払い、 偽善者どもが盗み取った権力を滅ぼす」と歌うところで、ザラストロ自身がまさしく夜の女王とともだおれになって舞台に転げる。

 要するに、ザラストロの寄宿学校(すなわち寺院)は偽善の世界だったということだ。だからこそ、モノスタトスのような教員も出てくることになる。第二幕で、タミーノの腕時計を寄宿学校の教員の一人(つまりは寺院の僧侶の一人)がくすねる仕草があったが、これも偽善を意味しているだろう。

 タミーノの手に渡った光る時計(すなわち権力のしるし)は、パパゲーノとパパゲーナの間に生まれてくる子どもたちのおもちゃにされる。要するに、世界を支配する権力は、権力欲に駆られた地位の高い大人たちではなく、未来の民衆に託されるというメッセージだろう。

 つまりは、ザラストロも夜の女王も同じ穴のムジナだったということだ。

ヘルツォークの見つけだした、このオペラの矛盾を処理する方法は、これだった。恐るべき解決! そんな方法があったのかと驚嘆した。

 ところで、三人の少年がずっと禿げ頭の老人の扮装をしている。この三人の少年は、夜の女王とザラストロの両者に従うあいまいな存在であり、まさしく偽善の側の存在なのだ。だったら、未来を託される「子ども」とは別の存在でなくてはならない。それを明確にし、この三人の少年が偽善の側にいることを示すために、老人の扮装になったのだろう。

見終わってから、もしかしたら、モーツァルトの作曲の意図にも、ヘルツォークが演出に込めたようなものがあったのではないかとさえ思えてきた。モーツァルトはこのオペラにフリーメーソンの思想を盛り込んだといわれるが、確かにザラストロの語る思想はあまりに偽善じみている! モーツァルトが暗にフリーメーソンの偽善性を告発していたとしたら…。そんな想像をしてみたくなるような演出だった。

ともあれ、ザルツブルクに来た甲斐があった。こんなすごいものを見られるのなら、毎年でも来たくなる。

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