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秋期卒業式、そしてイタリアとスペインのオペラDVD

 本日、私の勤める多摩大学経営情報学部で教授会があり、その後、秋期卒業式が行われた。事情があって卒業の遅れた人たちの卒業式。卒業生代表として、私のゼミに所属する女子学生が挨拶した。大学生時代を振り返る挨拶だったが、私のゼミで熱心に活動し、苦楽を共にした学生だったので、挨拶を聴くうち、涙がこみ上げてしまった。卒業式で涙を流すなんて、本当に初めてのこと。自分の卒業式でも、自分の子どもの卒業式(そもそも、子どもの卒業式には出席した覚えがない)でも、そんなことはなかった。

 先日は、私のゼミ生の一人がオーストラリアのケアンズに短期留学し、現地の新聞の一面に取り上げられた。重い障害があって、たくさんのハンディがあるにもかかわらず、努力している姿が現地の新聞記者に目にとまったらしい。頼りない教師に頼りないゼミ生の集団ではあるが、ゼミ生の着実な成長が嬉しい。

 

 ところで、ザルツブルク、バイロイトで十分に音楽を堪能してきたので、日本に帰ってからしばらく、あまり音楽を聴く気分になれなかった。買いためたCDはたくさんあるのだが、ほとんどがバッハ、ベートーヴェン、ブラームス、ブルックナー、ワーグナー、リヒャルト・シュトラウス。バイロイトで重い音楽のためにお腹いっぱいになった身には辛い。

 そんななか、買い置きしていたイタリア・スペイン系のオペラのDVDを見る気になった。数日かけて、少しずつ見た。私は、好んで見聞きするのは、ドイツ、スラブのオペラであって、イタリア・オペラは稀にしか見ない。だから、ふだん以上に素人の感想以外の何ものでもないが、とりあえず感想を書きつける。

 

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ドニゼッティ「ドン・パスクァーレ」メトロポリタン歌劇場

 アンナ・ネトレプコがノリーナを歌っているので、買ってみた。METだけあって、すべてにおいて最高レベル。オットー・シェンクの演出も、実に楽しい。

ネトレプコはチャーミング。意地悪なふりをするところも、実にかわいらしい。声も素晴らしい。ネトレプコが歌うのなら、もっとノリーナの役に聞かせどころがほしいほど。ドン・パスクァーレを歌うジョン・デル・カルロも愛嬌があってなかなかの芸達者。エルネストのマシュー・ポレンザーニ、マラテスタのマリウシュ・クヴィエチェンも文句なし。指揮のレヴァインも堂々とオケを歌わせて、実にうまい。

このオペラはエヴァ・メイの歌う映像(ほかに、シラグーザ、コルベッリ。コルステン指揮、カリアリ歌劇場)で楽しんでいた。エヴァ・メイも、歌はもちろん容姿も素晴らしく、見ているうちに微笑みたくなるような雰囲気を醸し出すので、とてもよかった。今回のMETのものも、それと同じくらいに楽しめる一枚。指揮とオケについては今回のMETのほうが本格的。ただ、その分、エヴァ・メイのもののほうが本来のこのオペラのあり方に近いともいえるだろう。

それにしても、ドニゼッティという作曲家、まさしくロッシーニの後輩という感じで、とてもおもしろい。気軽に聞けるし、エンターテインメントとして楽しませてくれる。ただ、やはりロッシーニに比べると、あと一歩の深い充実感が不足するのは事実だ。

 

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ベッリーニ「ノルマ」 
2003年 新国立劇場公演

 日本の新国立劇場での公演。ブルーノ・カンパネッラ指揮、東京フィル。私は、イタリア・オペラにはそれほど関心がなかったので、実演は見ていない。

 東京の新国立が高いレベルのオペラを上演していることがよくわかる。ノルマを歌うフィオレンツァ・チェドリンス、ポリオーネを歌うヴィンチェンツォ・ラ・スコーラ、アダルジーザを歌うニディア・パラシオス、オロヴェーゾを歌うジョルジョ・スーリアンの4人の外国人勢が本当に素晴らしい。とりわけタイトルロールのチェドリンスは熱唱。美しい声で、迫力がある。パラシオスとの二重唱は凄い。フラーヴィオの中鉢聡もクロティルデの鳥木弥生もまったく外国勢の遜色がない。

 演出はウーゴ・デ・アナ。かなりオーソドックスな演出だが、十分に楽しませてくれる。

 ただ、やはり東京フィルは、ドイツ、オーストリアの世界最高レベルのオケに聴き慣れた耳からすると、心細い音を出したり、処理がザツだったりといった箇所をところどころに感じる。が、世界の各地の一流劇場でのイタリア・オペラの公演と比べて特に劣るわけではなかろう。

 イタリア・オペラに対して、私はそれほど酔うことはないが、ベッリーニはときどき胸に迫ることがある。凛として気高いアリアの旋律が素晴らしい。ただ、オーケストレーションがうまくないのと、ストーリーが不自然なのが、やはりどうしても感動を妨げる。

 

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ベッリーニ 「カプレーティ家とモンテッキ家」 
2005年 ルチアーノ・アコチェッラ指揮

「ロミオとジュリエット」の物語の別ヴァージョンだが、イタリア・オペラに疎い私は、予備知識なしに見始めて、ロメオがいわゆるズボン役なのにびっくり! 「この女、誰だろう?」と思いながら見ているうち、しばらくしてロメオだと気付いた。

 このロメオ(クララ・ポリート)、とてもいい。十分にロメオに見えるし、声にも力がある。そして、パトリツィア・チョーフィのジュリエッタが、何といっても可憐で清純で、たおやかな歌いぶりでとても美しい。昨年の新国立でヴィオレッタを歌った歌手だが、私は別の用があって急に行けなくなり、知人にチケットを譲ったのだったが、今さらながら残念に思った。

ただ、指揮のアコチェッラとイタリア国際管弦楽団をどうも美しく感じない。常識といえるのかもしれないが、ドイツ系のオペラばかり聞いてきた人間からすると、「イタリア・オペラの歌手たちは層が厚くて、出てくる人出てくる人、みんな素晴らしいが、指揮とオケには感動しないなあ」とつい思ってしまう。

ベッリーニ特有のメロディは素晴らしい。ただ、やはり「ノルマ」や「夢遊病の女」「清教徒」などと比べると、聞かせどころなく終わってしまったという思いは禁じえなかった。

 

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ファリャ「はかない人生」(「はかなき人生」) ヴァレンシア歌劇場

 CDは聞いたことがあったが、映像は初めて見た。もちろん、実演も見たことがない。CDを聴いた時、まるでフラメンコみたいな節回しの歌だと思っているうち、本当にフラメンコが出てきて驚いた記憶がある。

 恋人にもてあそばれたと知ったジプシーの娘が、恋人と金持ちの女との婚礼の場に押し掛け、そこで命を失う物語。演出では、自ら命を絶つことになっている。

 情熱にあふれ、迫力ある音楽。いかにもスペイン的な音楽だが、ヤナーチェクと同じような激しい緊迫感がある。とりわけサルーを歌うクリスティーナ・ガラルド=ドマスの第二幕の初めの嘆きの歌が感動的。悲嘆がひしひしと伝わってくる。短いオペラだが、サルーが出ずっぱりで、まるでモノオペラの雰囲気(そういえば、このオペラ、三枝成彰さんのモノオペラ「悲嘆」を思わせるところがある!)。フランメンコを歌うエスペランサ・フェルナンデスも最高に素晴らしい。一時期、フラメンコに惹かれて、アントニオ・マイレーナやウトレーナ姉妹を感動して聴いていたが、久しぶりにフラメンコにしびれた。

 演出はジャンカルロ・デル・モナコ。赤い色調に統一し、秘めた暗い情熱を暗示する。スペインを表に出している。舞台上でしばしば天上扇がぐるぐる回っている。それが運命の回転を思わせる。

 指揮はロリン・マゼール。よく知らない曲なので、演奏についてどうこうはいえないが、緻密で中身の詰まった音楽は素晴らしい。

 ファリャという作曲家については、実はよく知らない。実演は、数年前、ファンホ・メナ指揮ビルバオ交響楽団で「三角帽子」組曲を聴いた驚いた記憶があるくらい。CD数枚と「ペドロ親方の人形芝居」のLDくらいしか持っていないような気がする。もう少し聞いてみたい気になった。

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昨日見た「パルジファル」の感想を付け加える

 昨日、二期会の「パルジファル」についての感想を書いた。その後、書き忘れていたこと、後で思いついたことを加える。

 グート演出による舞台上の時代は20世紀の前半に設定されている。昨日は、これを「キリスト教が薄れていく時代」と捉えて書いた。それに間違いはないと思っている。

 軍事病院の中で激しく痙攣する病兵がいる。あるいは、音楽に耳を傾けてうっとりしている病兵がいる。神が失われ、生きる指針を失ってあがく人々の姿だろう。音楽というのは、崇高な宗教に代わるものなのだから。アムフォルタスがエロスに負けて聖槍を奪われ、モンサルヴァットは信仰を弱めていた。そうした台本上の状況と、ニーチェやワーグナーの時代に続く「神の死」の時代を重ね合わせている。

 昨日書き忘れたのは、国民が絶対的なものを求めた結果、出現したのが、ナチだったということだ。第三幕最後の軍服姿のパルジファルがヒトラーに似ておらず、ナチの制服も着ていなかった(とはいえ、実は、ナチの制服や、そもそもドイツ史についてよく知っているわけではないので、確信をもっていえるわけではない)し、ヘルハイム演出を真似てナチを出すのはあまりに安易だと思ったので、ナチについては考えなかったのだが、やはりそれは考慮したほうがよさそうだ。

いってみれば、ヒトラーという「純粋な愚か者」を絶対視し、不純なものを退廃として排除し、キリスト教信仰を称えて誕生したのが第三帝国だった。

だから、最後の部分は、ワーグナーの死後、「パルジファル」の精神がドイツで独り歩きしてしまって、ファシズムを呼んでしまったことを暗示しているだろう。

幕切れで、アムフォルタスとクリングゾルが仲良く座るが、アムフォルタスは「こんなはずではなかった。こんなことなら、エロスを許容するほうがましだった」という思いでいるだろう。そして、もちろんこれはグートのメッセージだろう。

私がこのようなグートのメッセージに説得力を感じるのは、これがきっと、ワーグナー自身の視点だろうと思うからだ。偉大なるワーグナーを矮小化して大変申し訳ないが、もしワーグナーが第二次世界大戦に至るドイツの「歩み」(「パルジファル」で繰り返し流れた歩みの映像を思い出しながら、私は書いている)を知ったなら、こう言いそうな気がするのだ。

「え? おれの作品の精神がそのような方向に向かって第二次大戦に結び付いたの? そんなはずではなかった。そんなことなら、もっとエロスを許容するように書いておけばよかった。だって、おれ、本当言うと、エロスを称えたい気持ちがあったんだから」。

 それをグートが代弁しているように思う。

 ともあれ、素晴らしい演奏、刺激的な演出だった。

 それにしても、客が少ないのに驚いた。こんな高いレベルの上演なのに、残念! 超満員でチケットが取れないかと思って、焦ったのだったが!

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二期会「パルジファル」は飯守・田崎・グートに感服

 9月17日、東京文化会館で二期会公演「パルジファル」(最終日)を見てきた。見事な公演だった。

 バイロイト音楽祭で「パルジファル」を見たのが、828日のこと。まだ2週間ほどしかたっていない。そんなわけで、第一幕を見ている間は、歌手のレベルがバイロイトとはかなり違うと感じていた。バイロイトの世界最高の公演と比べるほうが無理だろう。とはいえ、第二幕を過ぎると、遜色なくなってきた。

 クンドリーを歌った田崎尚美が素晴らしい。強くて美しい声で、表現力もあり、ビンビンと心に響く。容姿も文句なし。第二幕後半は圧倒的な存在感だった。グルネマンツの山下浩司もよかった。クリングゾルの友清崇、ティトゥレルの大塚博章、パルジファルの片寄純也、アムフォルタスの大沼徹も健闘。

 指揮の飯守泰次郎、読売日本交響楽団もまさしく世界レベルの演奏をしてくれた。飯守さんのワーグナーのうねりが何ともいえず、素晴らしい。じっくりとワーグナーの世界を聴かせてくれる。とりわけ第二幕は魂が震えてきた。飯守ワーグナーは世界の誇るべきものだ。レコーディングやDVD収録をしてほしいものだ。

 クラウス・グートの演出もとてもおもしろかった。この人の演出は、昨年のザルツブルクで「ドン・ジョヴァンニ」と「コシ・ファン・トゥッテ」を、そして映像で「フィガロの結婚」を見たが、私はとても気に入っている。

 モンサルヴァットが病院という設定。回り舞台で、病院の中庭や病室で話が進んでいく。蓄音器が置かれ、病人たちのレコード鑑賞の様子が見られるので、191030年ころか。騎士は傷病兵たち。アムフォルタスは特別入院患者とでもいったところ。傷病兵の一人が激しく痙攣しているが、どうやら、何ものかへの憧れに身もだえしているということのようだ。第三幕の聖金曜日の音楽のあたりで、身もだえしていた人たちは、明確な目標を見出して、しゃきっとする。

 人の歩く足がしばしば映像で流れる。第三幕では一次大戦(?)の様子が描かれる。歴史の歩みを象徴しているのかもしれない。キリスト教意識が薄れて、残酷なことが進行していく時代を選んだということだろう。

 そうした点を除けば、それほど台本との違いはなく、今時珍しいくらい「読み替え」なしの「パルジファル」のストーリーが展開されていく。が、最後でどんでん返しが待っていた。

 第三幕の最後、パルジファルは王になる。ところが、その途端、パルジファルは軍服姿になり、絶対的な権力者としてふるまう。騎士たちは忠誠を誓う雰囲気。残されたアムフォルタスはクリングゾルと仲良く座るところで終わる。

 エロスを排除して純潔さを絶対視すると、むしろ専制的・独裁的になってしまい、エロスがあったほうが人間らしい、というメッセージなのだろう。

 私がグートの演出をおもしろいと思うのは、これが決して「読み替え演出」ではないことだ。たとえば、ヘルハイムという演出家は、「パルジファル」の音楽をBGMにしてまったく別の物語を舞台上に展開する。ノイエルフェルスという演出家は、「ローエングリン」とはまったく異なるネズミの話をでっちあげる。ところが、グートはワーグナーの中にあり、「パルジファル」でも濃厚に展開されるエロスの魅力を演出によって表に出してくれる。ワーグナーはクリングゾルやクンドリーのエロスの世界を否定的に描きながらも、そこに大きな意味を付与している。この「パルジファル」の中には間違いなく「エロスの世界こそ人間的」という思想が流れている。音楽の邪魔はしないで、少しだけ舞台上を加工して、このようなもともとワーグナーの中にある思想を表に出してくれる。

 深く感動して、会場を後にした。

 ところで、「パルジファル」を見る前、東京都美術館でフェルメールの「青いターバンの少女」を見ようとしたのだった。ところが、今日が最終日で、50分並んでやって中に入れるとのこと。この絵は、オランダのハーグでも日本でも何度か見たので、今回、人ごみの中で見るのはやめることにした。代わりに、国立西洋美術館で、ベルリン国立美術館展を見た。ここにもフェルメールの「真珠の首飾りの少女」が来ている。

素晴らしい絵だと改めて思ったが、やはりここも人混みができていて、十分に堪能できなかった。もっと前に来るべきだった。が、この絵も数年前にベルリンで静かな環境で見たので、それでよしとしよう。

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昨日の「電車マナー」のブログ記事について付け加えること

昨日、私は電車内で吊革に傘の柄をかけて手に持っていた女性に怒りを覚えて、強い言葉で注意してしまった話を書いた。もう少し言葉を選んで言えば良かったのだが、怒っていたので、つい皮肉な言い方をしてしまった。

この記事をブログに出して10分やそこらでコメントが三つ入っていたのでびっくり。しかも、そのうちの二つは私を批判するものだった。

ただ、このマナーの件については、私の中で決着がついている。私のいい方は大人げなかったにせよ、傘を吊革にかける行為は間違いなく危険なので、誰かが注意するべきことだ。相手が屈強の男性であれば、傘のせいで乗客が怪我をする確率よりも、注意した私が暴力をふるわれる確率のほうが高いので、身の安全を考えて黙るしかないが、そうでなければ、できるだけ誰かが注意するべきだ。私の考えは変わらない。

私が大いに怒りを覚えたのは、むしろ「常識人」と名乗る人のコメントだった。そこには、「演奏が終わった直後の女性演奏家の控え室にずけずけ乗り込むほうが非常識だ」と書かれていた。

その後、私と「常識人」および「???」と名乗る人の応酬が続いたが、それを読んだ方の中には、事情がよくわからない方も多いだろう。余計なことだとは思うが、少し解説をすることにする。

 

私は、基本的に「2ちゃんねる」などという薄汚れた場所には立ち入らないことにしているが、やはり時々その内容が見えてしまうことがある。そうして、あるとき、私がソプラノ歌手、飯田みち代さんの2010年のラ・フォル・ジュルネのコンサートの後、むりやり控室に乗りこんでいったという、事実とまったく異なる内容が2ちゃんねるで伝えられ、悪意をもって中傷されていることを知った。

反論したい気になったが、2ちゃんねるに関わって自分まで薄汚れた存在になるのは避けたいので、自分のブログの中で少しだけ触れるにとどめ、深入りしないでおいた。

「常識人」「???」と名乗る人物のコメントは、明らかにそのような中傷を真に受けて、私を誹謗中傷しているものと思われた。

 

昨日、悪意あるコメントへの「返事」として書いたことだが、2010年の飯田さんのコンサートの際の状況について繰り返しておく。迷惑がかかるのを恐れて、飯田さんのお名前を出さずにいたが、うそつき呼ばわりされるのは不愉快なので、お名前を出させていただいた(飯田さん、つまらないことに巻き込んで、ごめんなさい!)。

私は、以前から飯田さんとは知り合いだった。二度ほど一緒に仕事をし、飯田さんの歌にほれ込んだ。何度もコンサートやオペラに招待され、そのたびに飯田さんの歌唱力に感嘆し、メールのやり取りの中でそれを伝えて、及ばずながら応援してきた。飯田さんがラ・フォル・ジュルネに出演する時も、前もって連絡を取った。その中で、「コンサートの後、ぜひ控室に来てください」という言葉をもらった。

そこで、私はコンサート直後、約束を守って控室に行った。感動を伝えたいとも思った。確かに、入口でアルバイトの人に「関係者以外は立ち入り禁止です」と言われたような気がするが、私は出演者にじきじきに来るように言われ、約束を守ろうとしているのだから、むしろ、約束を守らないほうが失礼だろう。その場で名前をいうと、私を待ってくれていた飯田さんが、すぐに入るように声をかけてくれた。その後、控室で少し話をした。そして、地下の喫茶室に場所を移して、着替えを終えた飯田さんととても楽しく話した。その後も、何度かメールのやり取りをした。

きっと私が控室に入るところを見ていた人が、私に先入観を持っていたために、事情も知らずに私を一方的に非難したのだろう。そして、それを真に受けて、私を恥知らずだと思いこんでいるウブな人がいるのだろう。

飯田さんと私の関係は、二人の名前をネットで検索すれば、すぐにわかってもらえるだろう。私がウソをついていないことは、飯田さんに確認していただければ、すぐにわかるだろう。ただし、飯田さんほどの名歌手にそのようなことをするのはとても失礼だし、今は大事なコンサートを控えているので、そのようなことはしてほしくないが、私を非難するのであれば、事実を確かめてからにしてほしいものだ。

 

ところで、このことについて、2チャンネルの中傷に反論する必要がありそうだと思いながら、そのままになっていたが、今回「常識人」「???」と名乗る方の悪意あるコメントのおかげで、事実を示す機会ができた。きっと心の中では、コメントの主も、私が事実を語っていることを認めざるを得なくなっているのだろうと思う。このような機会を与えてくれた「常識人」「???」氏にむしろ感謝したいほどだ。

 

それにしても、2ちゃんねるなどで私ごときを中傷したり、ウブにそれを信用して、そこに悪乗りするなんて、何と暇な人たちなんだろうと思う。もっと恵まれた人、もっと大物を相手にすればいいのに。それとも、私は、2ちゃんねるに悪意ある書き込みをする人たちからすると、妬みや羨望の対象になるほど恵まれた存在なのだろうか。もしそうだとすると、ある意味でありがたいことだ。

30代のはじめ、私は地位もなく、金もなく、愛する人もなく、まともな職もなかった。しばしば絶望し、世の中を呪いながら鬱々と生きていた。支えは音楽だけ。きっとずっとこのようにして生きていくしかあるまいと諦めかけていた。

その私が、今や、一部の人からであれ、妬まれ中傷されている。努力と苦労の甲斐あって、ついに私も妬まれる存在になったのかと考えると、実に感慨深い。

私は音楽の専門家ではなく、単なる愛好者に過ぎないし、今後、ラ・フォル・ジュルネにも深く関わることもできない(何しろ、ナントのラ・フォル・ジュルネが開かれる1月末から2月初旬は、多摩大学の入試の時期なので、入試委員長である私が、この時期に日本を離れ、音楽に浮かれているわけにはいかない)ので、当然のことながら、音楽の世界での私の影はますます薄くなるだろう。私が妬まれ、中傷されるのもあと少しなのだから、それを楽しむというのも一つの考え方ではある。

電車の中のマナーに怒りを覚えて、久しぶりに音楽以外のことをブログに書いたのだったが、これはこれで刺激的だ。思うところがあったら、音楽以外でも、またここに書きこもう。

ついでに付け加えると、尖閣、竹島を発端とする中国、韓国との関係には危機感を抱く。なんとか平和的解決の道はないのだろうか…。今はそれが最も心配だ。

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電車のつり革に傘をかける女性と口論した

 私はおとなしくて物静かで善良で気弱な人間なのだが、ただ、あまり泣き寝入りするタイプではない。腹が立つと一言言いたくなる。そんなわけで、子どものころからつい最近まで、あちこちでトラブルを起こしてきた。

 昨日も、京都からの帰り、新横浜で乗り換えた電車の中でちょっとしたトラブルがあった。

立っている人がかなりいた。途中から席に座れた。すると、私の前に50歳前後に見える女性と、その娘さんに見える若い女性の二人組が立った。50前後とはいえ、おしゃれな服装で、いわゆる「おばさん」ではない。ところが、その女性、傘の柄を吊革にひっかけて、吊革を延長するようにして、傘を持ってぶらぶらさせ始めた。中学生がこのようにしているのを見かけたことはあるが、中年女性がこんなことをするのは初めて見た。傘は濡れてはいなかったが、十分に迷惑。

初めは私の目の前の吊皮に傘をかけていたので、まさしく私の目の前に傘の先があった。幸い、すぐに私の正面からは離れて、隣の席の前の吊皮に傘をかけた。もし列車が揺れて、席に座った人に傘がぶつかったらどうなるんだろう、席に座った人ではなくても、周囲の人にぶつかりはしないかと思って、気が気ではなかった。

降りる前、我慢できなくなって、その女性に注意することにした(もちろん、相手が女性だったから私も強気に出られたのだった。相手が屈強の男性だったら、黙って耐えただろう)。「吊革に傘をかけるなんて、非常識ですよ。電車が揺れたら、危ないじゃないですか。やめてくださいね」と言った。すぐに納得してくれるかと思ったら、その女性、納得できない様子。「自分のほうを向けているから、大丈夫」などと的外れなことを言っている。「そんな問題じゃないでしょう。迷惑ですよ」というと、その女性、私のキャリーバッグ(もちろん、座っている間、できるだけ乗客の邪魔にならないように、私はバッグは両足の間にきっちりと挟んでいた)を見て、「おたくのほうこそ邪魔じゃないですか」などと言い出した。

新横浜から乗ったのだから、同じ車両の中にも、私のほかに大きめのバッグを持った人など何人もいる。そりゃ邪魔かもしれないが、そこはお互い様だろう。「邪魔かもしれませんね。でも、危険じゃないですよ。吊革に傘をかけるのは周りの人に危険ですよ。危険なことはやめてくださいね」と、言わば捨て台詞を残して電車を降りた。もちろん、穏やかに、しかし、ちょっと皮肉な口調で言った。

私が何よりあきれたのは、その女性の想像力の欠如だった。なぜ、これが危険だという認識ができないのだろう。そして、目の前で傘をぶらぶらさせられて不愉快に思う人が多いということに、なぜ頭が回らないのだろう。吊革に傘をかけることとキャリーバッグを持っていることを同列に扱うという論理性の粗雑さは何に基づいているのだろう。しかも、中学生ではなく、いい年をした女性がこのような思考をすることに、むしろ驚嘆したのだった。売り言葉に買い言葉として感情的に私のキャリーバッグに文句をつけたのなら、まだ許せるが、本気に二つの行為を同列に考えているとすると、許しがたい論理だと思った。

そしてもうひとつ怒りを覚えたのは、私がせっかく非常識な人間に対して正当な注意をしているのに、そして、その女性の隣に立っていた人は明らかに迷惑そうに女性を見ていたのに、私が注意している間、誰もが知らんぷりをしていたことだ。最も被害を受けるはずの男性は、女性と私の間でやり取りをしている間も、何食わぬ顔で本を読み続けていた。「そうだ、そうだ、この人の言うとおりだ。傘を吊革にかけるなんて非常識だ」と言ってほしかったのに、知らんぷり。

 電車は一時的に共同体を作り出す。そこでは、ぎすぎすしないで、できるかぎり許容し合い、寛大でいるべきだが、その共同体の安全を壊す人に対しては団結して闘うべきだ・・・と思うのは、ちょっと大げさすぎるだろうか。

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京都のホテルにて

 9日(日曜日)から京都に来ている。京都産業大学の集中講義のため。ついでに観光もしたいが、その時間がない。朝、ホテルを出て大学に行き、仕事を終ると、すでにほぼ夕方。どこにも行けない。しかも、暑い! 今日は、これまた仕事の打ち合わせで大阪まで足を伸ばした。ホテルに戻ると、さすがに疲れが出て、ぼんやりとテレビを見るだけ。

ただ、夕方、多少、おいしいものは食べている。

 一昨日は松坂牛。昨日は、ひいきの京都駅前の新阪急ホテル内の「美濃吉」で京懐石「鴨川」を食べた。実は、先週も仕事で京都に寄った折に、「鴨川」を食べたので、今月2度目。リーズナブルな料金で、最高においしい。主菜は選択になっていたが、先日食べた秋刀魚胡麻味噌柚庵焼きも、昨日食べた京地鶏と木の子朴葉焼も絶品。もちろん、白みそ仕立ても木野子の炊き込みご飯もうまかった。満足。しばらく京都には来られないかもしれないので、時間があったら、今週中にもう一度行こうかと思っている。

 ザルツブルク、バイロイトでずっとホテルで過ごしていたので、京都でまたもホテル暮らしをするのにかなり飽きた。私は自宅でごろごろするのが大好きだ。

 

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東響、シュタインバッハーのヴァイオリンにしびれながらも、指揮に不満だった

 98日、東京交響楽団東京オペラシティシリーズを聴いた。指揮はマーク・ウィグルスワース。前半はアラベラ・美歩・ュタインバッハーのヴァイオリンが加わって、ブラームスのヴァイオリン協奏曲。後半はチャイコフスキーの「悲愴」。CDを何枚か聴いてとても魅力的だったので、シュタインバッハーを聴きたくてチケットを購入したのだった。

 シュタインバッハーは、私の席からは、細身の美少女に見えた。見慣れた写真よりはずっと外見も美しく見える。

ごく最初の音に失敗したせいか、第一楽章は乗りきれなかったが、その後、だんだんと調子が上がった。清潔でしっかりとしたヴァイオリンの音。小細工をしないで真正面から演奏して、それでいて素晴らしい。ただ、ブラームスの協奏曲については、私には指揮が邪魔しているように思えた。そのため、あまり感動できなかった。

むしろ、アンコールで弾いたイザイの無伴奏ソナタ第2番第1楽章が最高に素晴らしかった。技巧をひけらかすわけではない。むしろ、抑え気味。きわめて冷静で知的。透明で筋の通った音がびしっと決まって、一つ上の境地に人々を導くかのよう。情をかきたてるのではなく、知的に感動させる。ヒラリー・ハーンほど怜悧ではなく、もっと温かみがあるが、同じほど素晴らしいと思った。

ウィグルスワースという指揮者、名前も初めて聞いた。もちろん、演奏を聴くのは初めて。どうも私にはこの人の指揮は理解できない。味を感じない。

食材はあれこれ使っているし、量も多いが、少しも出汁がきいていなくてコクのない料理を連想した。指揮台での顔の表情を見ているとロマンティックに演奏しようとしているように見えるのだが、出てくる音に、少なくとも私はロマンティスムを感じない。どの楽章も同じような音の作りで、ブラームスとチャイコフスキーにもそれほどの違いがあるとも思えない。あれこれといじってはいるが、本質的に一本調子に感じてしまう。後半、かなり音響としてはまとまってきたが、音楽そのものは少しもおもしろくならなかった。正直言って、後半、かなり退屈だった。

東京交響楽団の音については、ザルツブルク、バイロイトでウィーンフィルやマーラー・ユーゲント・オーケストラなどの超一流のオーケストラを聴いた直後だったので、初めのうち、かなりザツさを感じた。だが、徐々に縦の線が合って来て、しかも音も美しくなった。後半、オーケストラとしてはなかなかの力演だと思った。しかし、やはり、指揮がこのようでは、私としては不満に思わざるを得ない。

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