二期会「パルジファル」は飯守・田崎・グートに感服
9月17日、東京文化会館で二期会公演「パルジファル」(最終日)を見てきた。見事な公演だった。
バイロイト音楽祭で「パルジファル」を見たのが、8月28日のこと。まだ2週間ほどしかたっていない。そんなわけで、第一幕を見ている間は、歌手のレベルがバイロイトとはかなり違うと感じていた。バイロイトの世界最高の公演と比べるほうが無理だろう。とはいえ、第二幕を過ぎると、遜色なくなってきた。
クンドリーを歌った田崎尚美が素晴らしい。強くて美しい声で、表現力もあり、ビンビンと心に響く。容姿も文句なし。第二幕後半は圧倒的な存在感だった。グルネマンツの山下浩司もよかった。クリングゾルの友清崇、ティトゥレルの大塚博章、パルジファルの片寄純也、アムフォルタスの大沼徹も健闘。
指揮の飯守泰次郎、読売日本交響楽団もまさしく世界レベルの演奏をしてくれた。飯守さんのワーグナーのうねりが何ともいえず、素晴らしい。じっくりとワーグナーの世界を聴かせてくれる。とりわけ第二幕は魂が震えてきた。飯守ワーグナーは世界の誇るべきものだ。レコーディングやDVD収録をしてほしいものだ。
クラウス・グートの演出もとてもおもしろかった。この人の演出は、昨年のザルツブルクで「ドン・ジョヴァンニ」と「コシ・ファン・トゥッテ」を、そして映像で「フィガロの結婚」を見たが、私はとても気に入っている。
モンサルヴァットが病院という設定。回り舞台で、病院の中庭や病室で話が進んでいく。蓄音器が置かれ、病人たちのレコード鑑賞の様子が見られるので、1910~30年ころか。騎士は傷病兵たち。アムフォルタスは特別入院患者とでもいったところ。傷病兵の一人が激しく痙攣しているが、どうやら、何ものかへの憧れに身もだえしているということのようだ。第三幕の聖金曜日の音楽のあたりで、身もだえしていた人たちは、明確な目標を見出して、しゃきっとする。
人の歩く足がしばしば映像で流れる。第三幕では一次大戦(?)の様子が描かれる。歴史の歩みを象徴しているのかもしれない。キリスト教意識が薄れて、残酷なことが進行していく時代を選んだということだろう。
そうした点を除けば、それほど台本との違いはなく、今時珍しいくらい「読み替え」なしの「パルジファル」のストーリーが展開されていく。が、最後でどんでん返しが待っていた。
第三幕の最後、パルジファルは王になる。ところが、その途端、パルジファルは軍服姿になり、絶対的な権力者としてふるまう。騎士たちは忠誠を誓う雰囲気。残されたアムフォルタスはクリングゾルと仲良く座るところで終わる。
エロスを排除して純潔さを絶対視すると、むしろ専制的・独裁的になってしまい、エロスがあったほうが人間らしい、というメッセージなのだろう。
私がグートの演出をおもしろいと思うのは、これが決して「読み替え演出」ではないことだ。たとえば、ヘルハイムという演出家は、「パルジファル」の音楽をBGMにしてまったく別の物語を舞台上に展開する。ノイエルフェルスという演出家は、「ローエングリン」とはまったく異なるネズミの話をでっちあげる。ところが、グートはワーグナーの中にあり、「パルジファル」でも濃厚に展開されるエロスの魅力を演出によって表に出してくれる。ワーグナーはクリングゾルやクンドリーのエロスの世界を否定的に描きながらも、そこに大きな意味を付与している。この「パルジファル」の中には間違いなく「エロスの世界こそ人間的」という思想が流れている。音楽の邪魔はしないで、少しだけ舞台上を加工して、このようなもともとワーグナーの中にある思想を表に出してくれる。
深く感動して、会場を後にした。
ところで、「パルジファル」を見る前、東京都美術館でフェルメールの「青いターバンの少女」を見ようとしたのだった。ところが、今日が最終日で、50分並んでやって中に入れるとのこと。この絵は、オランダのハーグでも日本でも何度か見たので、今回、人ごみの中で見るのはやめることにした。代わりに、国立西洋美術館で、ベルリン国立美術館展を見た。ここにもフェルメールの「真珠の首飾りの少女」が来ている。
素晴らしい絵だと改めて思ったが、やはりここも人混みができていて、十分に堪能できなかった。もっと前に来るべきだった。が、この絵も数年前にベルリンで静かな環境で見たので、それでよしとしよう。
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コメント
樋口先生
「パルジファル」、過去、バイロイトのヴォルフガング演出やメトのシェンクのオースドックスな演出から、クプファーの斬新な演出、感動的なゲッツ・フリードリッヒの演出、先日のバイロイトのヘアハイム演出(これは個人的にはいただけなかった。なぜしつように老人を出すのか)など、様々観ましたが、この作品は、やはりキリスト教の許しの概念(これはキリスト教の根本思想である)をクンドリーにしっかり託した作品であると思います。
あの足を洗う行為で、それまでのエロスをまとった生き方から悔悛するのがクンドリー。そこに過去の罪への許しが集約されているのです。グートの演出ではこのあたり、どう描いていたでしょうか。
グートの演出は残念ながら拝見していないため、大きなことは言えませんが、無垢の「パルジ」な「ファル」(無知な愚か者の意味)を凝縮した主人公は、やがて軍人(ナチ?)に成長(?)し、悪者クリングゾルも、アムフォルタスも共に仲良く居座るのは、何が善で、なにが悪か不明な現代を暗示しているのでは? エロス礼賛というより、そこに聖なる宗教も(今、ヴァチカンも魑魅魍魎の部分があり)、世界の様々な宗教の善悪はとてもコンプリケイト(煩雑)な状況がありますね。その意味で興味深い演出です。飯守氏は過去にバイロイトでも称賛されました。
ともあれ、音楽、舞台について論議を交わすのは楽しいですね。
音楽享受は人さまざまですが、やはり生の演奏に接して感動する、発するものは計り知れません。
今年、樋口先生はザルツ、バイロイトで歴史に残る(さまざまな意味で)舞台を堪能されたことは、大変貴重でした。大切になさってください。
判断基準は自らのメルクマールを持って行う(自分の物差しで測る)ので、他人の脳内は理解不明な場合が発生するのも致し方ないでしょう。周囲の騒音雑音に足をとられるとせっかくの素晴らしい音楽体験がもったいないと思います。
投稿: 白ネコ | 2012年9月18日 (火) 13時17分
白ネコ様
コメント、ありがとうございます。
「悔悛」については、それほど強調されていなかったように思います。クンドリーがパルジファルの足を洗う場面も、私の見える範囲では、自分の髪で洗っている様子はありませんでした。よく見えませんでしたが。
私は、ニーチェに大いに関心があり、とりわけ「神の死」という問題を追いかけていましたので、本文に書いたような解釈をしました。が、確かに、何が正義かわからない・・・という解釈も成り立つかもしれません。
細かいところでは、よくわからないところがたくさんありました。二度か三度見ればよかったのですが、その時間がなかったのが残念です。
本当に、音楽について語り合うのは何よりも楽しいことです。
投稿: 樋口裕一 | 2012年9月18日 (火) 21時56分
樋口先生
二期会「パルジファル」最終日9月9日と記しておられますが、9月17日です。小生は初日13日を観ましたが、この日は第一幕からバイロイトに匹敵する舞台だと思わせるできでした。日本人がこれほどのワーグナー上演ができるとは、本当に夢のようです。
投稿: hatashun | 2012年9月19日 (水) 17時16分
hatashun様
ご指摘、ありがとうございます。
どういうわけか、カレンダーを見て大きな勘違いをしていたようです。あわてて修正しました!!
おっしゃるとおり、日本人だけで、このレベルのワーグナーを公演できるようになったというのは、素晴らしいことです。私が初めてワーグナーの実演に接したのは、1972年の二期会の「ワルキューレ」でした。指揮は若き飯守泰治郎。あのときも、「日本人がこれだけのワーグナーを演奏できるようになった!」と思ったのでしたが、きっと今とはレベルが違うと思います。まさしく夢のようですね。
投稿: 樋口裕一 | 2012年9月19日 (水) 19時47分