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メッツマッハー+新日フィルの「未完成」に大感動

 118日、パルテノン多摩大ホールで、新日本フィルハーモニー多摩定期公演を聴いた。インゴ・メッツマッハー指揮で、シューベルトの交響曲第7番「未完成」と、ブルックナーの交響曲第9番。要するに、シューベルトとブルックナーの二つの未完成の交響曲。

 メッツマッハーについては、昨年のザルツブルク音楽祭でツィンマーマンのオペラ「軍人たち」でその力量の程を見せつけられて以来、生で聴くのは二度目だった。

  シューベルトについては文句なしに素晴らしいと思った。遅めのテンポでじっくりと鳴らしていく。緩急の変化をつけ、歌うところは歌わせ、鳴らすところは鳴らす。音の重なりが鮮烈。音そのものが生きている。新日フィル見事! とりわけ、第一楽章のフォルテの部分が素晴らしい。シューベルトの人生への行き場のない怒りや悲しみをたたきつけるかのよう。第二楽章は、シューベルトのあきらめにも似た挽歌に聞こえた。あまりの素晴らしさに涙が出てきた。 

 シューベルトはどちらかというと苦手な作曲家であって、シューベルトに感動したことは数えるほどしかない私が、今日はずっと感動しっぱなしだった。何度か、全身がふるえるような感動を覚えた。「未完成」をきいてこれほど感動したのは、ヴァントの最後の来日の時以来。あのときも、今日と同じ二つの「未完成」のプログラムだった。

 後半のブルックナーもとてもよい演奏だった。シューベルトと同じようなアプローチといえるだろう。

 しかし、ついあの一言をいいたくなった。私はずっと、この言葉を言うのを自分に禁じてきたのだが、やはり今日ばかりは言わざるを得ない。「これはブルックナーではない」という言葉だ。

少なくとも、メッツマッハーのブルックナーは、間違いなく、私の好きなブルックナーではなかった。

 私はマーラー嫌いなので、実はよくマーラーを知らない。が、まるでマーラーのようなブルックナーと言えるのではないか。昨年だったか、同じパルテノン多摩で聴いたハーディングと新日フィルのブルックナーの8番も同じように感じた。とりわけ今日の第三楽章はまるでマーラーそのもののように思えた。私の好きなブルックナー特有のじっくりと構えて徐々に高揚して宗教的法悦が爆発する醍醐味がない。そもそも宗教的雰囲気は皆無。音の処理は素晴らしいと思うし、ところどころはっとする部分はあるが、全体的にはどうも強い違和感を覚えた。

 というわけで、ブルックナーに対しては、前半の「未完成」ほどには感動できなかった。ただし、これがメッツマッハーのブルックナーなのだろう。それはそれで素晴らしい演奏なのだと思う。ただし、繰り返すが、私の好きなブルックナーは、まったく浮かびがって来なかった。

 しかし、最高に素晴らしい「未完成」が聴けただけでも満足。昨日のジンマン+N響に引き続き、今日も、目当ての大曲に少々不満を抱き、前半の曲に強く感動した。

 それにしても、パルテノン多摩大ホールには、空席が目立った。半分くらいしか埋まっていなかったかもしれない。この曲目では、多摩では人が集まらないのだろうか。

 ・・・明日はセンター入試の監督。受験生にとって特別の日だが、試験監督をする人間にとっても、大変気をつかう一日だ。何事もなく、無事に終わってくれればいいが・・・

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コメント

● 「未完成」の素晴しさについては、誰にとっても異論の余地はないでしょう。主題の美しさ、巧みな展開とその劇的な効果、さざ波のようなトレモロ様の音の効果、心に刻印を残すようなチェロのピチカート----- どれをとっても古今東西、超一流の名を恥ずかしめない素敵な音楽です。しかも、僅かの2楽章だけで大曲に匹敵するだけの内容を備えています。「未完成」は「未完成」ゆえに既に完成された名曲であり、2楽章以上に必要とされる音はありません。
● 私はアマチュア(Vc.)ですが、これまで何回となく演奏の機会に接し、そのたびに感銘を深くしてきました。演奏の難所は第2楽章に素人の域を超えた所にあるのですが、皆で渡る赤信号のように、そこはフォルテの音響の影に隠れてどうにかやり過すことが出来ます(シューベルトさん、ご免なさい)。
 この素晴しい「未完成」がアマチュア仲間うちではどう受け取られているかというと----- 私の狭い見聞の範囲で申し訳ないのですが、あまり熱烈歓迎、という雰囲気でもない、という感じはあります。
 あまりに高く評価され、珍重される作品であるだけに、あちこちで演奏されているうちに、つい「慣れ」が生じて、身近な存在であるにも拘らず、その有り難味や唯一無二の存在感を忘れがちになるような風情がないとはいえなくなります。で、そのうち、高名な指揮者や評論家がこれを取り上げると、そんな高名な作品は我々はとっくにクリアしているよ、と言わんばかりに(慌てて)再演してみる----- というような光景が見られるのではないか、というのが(私限りの)実感となるような気がします。
 回りくどい表現となりましたが、そんな曖昧な雰囲気が「未完成」の周辺に存在し、それらが却って「未完成」の存在価値を高めているのだ、とも言えそうです。
● しかし、現実に「未完成」の演奏に接しえた時の感銘については、上記のような曖昧模糊とした感じとは全く異質の、つまり、無上の法悦感にも似た感銘を覚えつつ、舐めるような思いで小節を追ってゆく、という感じになります。
 樋口先生は、

>>第一楽章のフォルテの部分が素晴らしい

とされていますが、具体的にはどういう感じなのでしょうか。
 
>>シューベルトの人生への行き場のない怒りや悲しみをたたきつけるかのよう

 そうですね、オーケストラの中にあって周囲の音のうねりに包まれていると、そういう実感を覚えることがあります。
 以前、オーケストラでシューベルトの交響曲第4番を経験したことがあるのですが、この曲には彼自身が名付けた「悲劇的」という題名が付いており、19歳のシューベルトが感じたであろう「人生への行き場のない怒りや悲しみ」が描かれているとされております。
 若書きの作品ですが、彼の作曲技法のすべてがここに盛り込まれています。例えば、シューベルトらしい和声、高弦と低弦との対話、など。そこで題材と練度さえ変わればそのまま「未完成」が出現するかのような趣きがあります。ただ、青年らしい未消化の部分も散見されるのですが、後年の「未完成」に熟成/昇華されたような感情の高まりの萌芽が既に見て取れます。
 第4番から第7番「未完成」に至る間は僅かな期間だと思われるのですが、彼に何が作用して「未完成」ほどの質の高い(違った)完成度に至らしめたのか、これは私にとって大変に興味のあるところです。
● 「未完成」で驚くのは、第4番になお窺われるハイドン、モーツアルト、ベートーヴェン等の影が殆ど見られず(払拭されて)、シューベルト独自の世界が展開されていることです。「未完成」は勿論ですが、「鱒」「死と少女」「イ短調弦楽四重奏曲」「アルペジオーネ」「ピアノトリオOp.99」等の傑作群-----彼はどこから、どうやってそれらの楽想を得たたのでしょうか。天才には何でもあり、としか言いようがないのでしょうか。
 唯一変わっていないのは滾々と湧き出るような楽想が絶えることなく、演奏者にとっては時に「天国的な長さ」に感じられることです。それは彼の才能が止まることなく溢れ出ることの証左なのですが、「未完成」も作為してあれだけの長さになったというのではなく、楽想の赴くままに作曲のペンを走らせていたら結果として自然にそうなった、というのが実態のようです。凡百の作曲家が羨んでも到底実現困難な境地でしょう。
● 「未完成」には演奏上、様々な魅力があります。冒頭、小刻みなヴァイオリン群の伴奏に乗って管の主題が現れるところ、後世のどの交響曲をみても、類似の展開は見られません。
 私はとりわけ「未完成」の第2楽章が好きです。特に彼の天才に打たれるのはシンコペーションの扱いの巧みさです。管がある音を伸ばしているうちに、伴奏の弦のシンコペーションが微妙に変化し----- と思っているうちに管の音そのものが転調してしてしまったかのような印象を齎す。この魔法のような流れはこれまでに見られなかった奇跡のような、新しいピアニッシモ音楽世界ではないのでしょうか。その後も、これを超える作品例は見られないように思われます。
 奇妙な連想ですが、私は後年の音楽の革命児ドビュッシーがそこに出現したかのような感銘さえ受けるのです。
● 「未完成」の印象については、以前に見た名画「未完成交響楽」(白黒作品。なお「未完成交響曲」ではない)。が大きく作用しています。伯爵令嬢の家庭教師をしていたシューベルトは、そこでのサロンパーテイで、新作の交響曲を披露するのですが、何かの拍子で笑い声を立てた令嬢に立腹し、3楽章以下の楽譜を破り捨て、それで新作が未完成に終わった、という筋立てでした。
 ウイーン郊外一面にたなびく金色の麦畑のなかでの、儚なく消えた令嬢との淡い恋---- 忘れ難い名画でした。
● 脈絡もなく長々と述べてしまって失礼しました。
 私の申したいことは、ただ「未完成」は素晴しい、この人類の貴重な文化遺産をもっと大切にしよう、ということだけなのです。
権兵衛
http://d.hatena.ne.jp/e-tsuji/ (「権兵衛の領分」)

投稿: 権兵衛 | 2013年1月20日 (日) 15時09分

権兵衛様
コメント、ありがとうございます。
ブログ本文にも書きましたが、実はシューベルトはあまり好きな作曲家ではありません。「歌」の連続であるため、どうも構成面の弱さが気になってしまいます。ただ、ときどき、シューベルトのリアルな側面を見せてくれる演奏に息をのむ思いを抱きます。
新日フィルとメッツマッハーの演奏はまさにそのような「未完成」でした。素人ですので、うまく表現できないのですが、鋭くて激しいずしんと来るようなフォルテの音がたびたび第一楽章で響きました。
まずますのご活躍をお祈りいたします。

投稿: 樋口裕一 | 2013年1月28日 (月) 14時33分

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