« 2013年1月 | トップページ | 2013年3月 »

京都滞在

 昨日、昼間には、福岡で年の離れた若い従兄弟(とはいえ、もう若者ではない)の結婚披露宴が行われた。夜は、大分県で、一昨日亡くなった伯母の通夜が行われた。そして、今日と明日は私の勤める多摩大学でもきわめて重要なイベントがある。本来であれば、このすべてに私は絶対に出席しなければならなかった。

 が、私は京産大の客員教授であり、1年以上前から今週に京都産業大学の集中講義を行うことが決定していたため、変更できず、これらのすべてに出席できない。残念であり、強い責任を感じるが、やむをえない。

 授業が終わった後、智積院にいって、久しぶりに長谷川等伯とその息子、久蔵の障壁画を見たいと思った。人の生と死を感じるとき、これらの絵を見たくなる。が、調べてみると、16時で閉館とのこと。授業の後に行くことはできない。残念。

ともあれ、しっかりと与えられた仕事に励むしかない。

それにしても、京都は寒い。全国的に寒いようだが、京都の底冷えは身にしみる。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

映画「レ・ミゼラブル」と伯母の死

 日曜日の夜から京都に来ている。京都産業大学の集中講義のため。

 京都に着いてすぐになじみのマッサージ店に行き、なじみの和食の店、新阪急ホテルの美濃吉で京懐石「鴨川」を食べた。これが京都に来た時の習慣になっている。相変わらず「鴨川」はおいしかった。白みそ仕立てがまさしく絶品。これほどリーズナブルな料金でこんなおいしい和食を食べられるのは実に幸せ。

 今日は大学での授業が終わった後、京都駅付近のイオンモール内の映画館に急ぎ、「レ・ミゼラブル」を見た。

「レ・ミゼラブル」は、子どもの頃「ああ無情」を感激して読み、大人になってから新潮文庫でユーゴー原作の大部の小説を読んだ。私はミュージカル映画はあまり好きではない(オペラ好きの人間からすると、ミュージカルを歌う役者たちの歌の下手さがどうにも我慢できない)ので、今話題の映画については特に見たいとは思っていなかったのだが、信頼できる知人の何人もがこの映画に感動したというので、京都滞在中に見ようと思い立った。

 入場券を買おうとして、何とシルバー料金で入れることを知った。複雑な思いもしないではないが、一般料金の半額近くで見られるのは、なにはともあれ、うれしい。

 とても良い映画だった。実によくできている。ストーリーの運び、映像、役者たちの演技、カメラワークなどなど、圧倒されてしまう。コゼット登場まで、前史のように手際よくストーリーを進めるが、映像と音楽の力によって、まるであらすじ紹介のような画面ながら、十分に登場人物に感情移入させられる。

ジャン・バルジャンのヒュー・ジャックマンとジャベールのラッセル・クロウ、フォンティーヌのアン・ハサウェイの顔の表情、仕草の一つ一つが実にいい。ちょっと癪に障るが、監督の意のままに操られて、登場人物の何人かに激しい怒りを覚え、強く共感し、涙を流してしまう。私は、学生運動さかんな時期に高校生、大学生時代を送ったので、今でも民衆が蜂起するような場面になると、血が沸きたってくる。ジャンの死の場面以上に、民衆蜂起の場面に涙を流しながら見た。

 いつのころからか7月革命が舞台のような気がしていたが、そうではなかった。その2年後のことらしい。王政からの解放が、国民中心の国家統一やロマン主義に結びついていることが、この映画からもよくわかる。

 オペラが、グルックからモーツァルト、ワーグナー、シュトラウスへと進化したように、ミュージカルも、私が以前見ていた「サウンド・オブ・ミュージック」や「マイ・フェア・レディ」などと比べてかなり進化しているように思えた。「マイ・フェア・レディ」がモーツァルトだとすると、「レ・ミゼラブル」はまさしくワーグナー。台詞と歌の区別がなく、ずっと歌が続くところもワーグナーに近い。

ただ、音楽に関しては、「やはりオペラのほうがいいなあ」と思ってしまう。とはいえ、歌手が下手だという気持ちはほとんど持たなかった。まったく違和感なく、映画の世界に引き込まれた。

 映画館から出て、携帯電話を確認したら、父の声で伯母の死を知らせる留守電が録音されていた。

父は五人兄弟で、これまで全員が90歳前後で元気だった。その一人だった伯母がついに亡くなったことになる。明るくて元気な伯母だった。生涯を九州の山間部で暮らしたが、ピアノを弾いたり、自費出版の本を出したりして、実に開明的な伯母だった。田舎の価値観と合わずに、しばしば周囲と衝突を起こしていたらしい。生まれたのがもう少し後だったら、社会的に活躍した女性になっていたかもしれない。ガンにかかったとのことだったので、今度、九州に行く機会があったら見舞おうと思っているのだが、間に合わなかった。

伯母が元気だったころが目に浮かぶ。それは、伯母が今の私よりもずっと若いころの姿だ。

合掌。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

樋口ゼミの唐木田菖蒲館コンサート大成功

 2月16日、多摩市にある唐木田菖蒲館(唐木田コミュニティセンター)で多摩大学樋口ゼミ主催のコンサートを開いた。こじんまりとしたコンサートだったが、大成功といってよいだろう。

 今回も企画、運営を学生に任せて、私はできるだけかかわらないようにしていた。それゆえ、このブログにも、このコンサートのことはあえて書かなかった。それなのに、学生たちは、きちんと企画し、それなりに客を集めた。そして、客を感動させるコンサートを作り上げた。ゼミ生の成長を感じる。

 とはいえ、学生だけの功績というよりも、実は、音楽家であり、音楽指導者であり、菖蒲館での文化活動を支援している栗原もちまさんにコンサート運営のあれこれを教わったおかげだったといえるだろう。感謝。栗原さんのノウハウを見て、今まで私たちがいかにレベルの低いコンサート運営をしていたかを痛感。

 演奏は、昨年も唐木田菖蒲館で演奏してもらった桐朋学園大学の学生である三人の有望な女性演奏家、久保山菜摘(ピアノ)、犬嶋仁美(ヴァイオリン)、松本亜優(チェロ)。今回は、小さいお子さんにも聞いてほしかったので、エルガーの「愛の挨拶」、サン・サーンスの「白鳥」、モーツァルトの「トルコ行進曲」やショパンの「小犬のワルツ」、モンティの「チャルダーシュ」などの有名曲やジブリの曲など、親しみやすい、だれもが知っている曲を並べた。

 このような曲だと、演奏を嫌がる学生が多い中、さすがにプロ意識を持った三人はしっかりと演奏してくれた。三人三様、いずれ劣らぬ才能だと思う。しかも、キチンと聞き手を感動させ、楽しませる。途中、久保山さんは、幼い日のモーツァルトにならって、目隠しをしてトルコ行進曲を弾いてみせるといったパフォーマンスも織り交ぜた。

 先日は山本裕康さんの無伴奏バッハのコンサートを開いたばかりだったが、そのような日本を代表する演奏家だけでなく、今回のようなコンサートも私たちのゼミで開いていきたい。若手の才能ある演奏家が、演奏機会を持てずにいる。そんな人たちの演奏の場を提供し、それを聞きに来た人に感動を提供する。そんなゼミにしたい。

 さまざまな事情があって、私のゼミのいくつかのグループの企画したコンサートが、1月から2月に集中してしまった。が、今年度のゼミ活動はこれで終わった。

 ともあれ、今日は満足。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

オッフェンバック「ロビンソン・クルーソー」

 2月10日、東京新国立劇場中劇場で東京オペラプロデュース公演、オッフェンバック作曲「ロビンソン・クルーソー」日本初演を見た。オッフェンバック上演の難しさを改めて感じた。

 私はオッフェンバックがかなり好きだ。とりわけ、「地獄のオルフェウス」と「パリの生活」が大好き。うきうき、わくわくして、からりとしていて、実に爽快。カンカン踊りの音楽も、最高だと思う。だから、時間が合えば、実演はなるべく見ることにしている。

そんなわけで、今日は、かなり楽しみにして、東京オペラプロデュース公演「ロビンソン・クルーソー」を見に行った。

 デフォーの「ロビンソン・クルーソー」の物語とはかなり違う。確かに、ロビンソンが無人島であれこれと工夫するところはオペラにならないだろう。両親の反対を押し切って船に乗るまでが第一幕。第二幕では、すでに無人島で暮らして6年がたっている。確か、デフォーでは20年以上、無人島で暮らしたと思うが、オペラではこの時点でかつての恋人や友人たちがやってきて人食い人種やら海賊やらと戦って島を脱出する。

 歌はフランス語、セリフは日本語で進んでいく。セリフまでフランス語にするのは、歌手が日本人であるからには、かなり難しいだろう。が、日本人の歌手が日本語でオッフェンバックの、かなり洒落の利いた芝居をすると、どうにもサマにならない。かなり間延びして、どうしても学芸会風になってしまう。そもそも台本自体、当時のフランスの人々を楽しませようとしたものなので、現在の日本で上演するにはかなり無理がある。歌手たちは頑張っているし、工夫の跡は確かに見えるが、違和感はぬぐえなかった。

 しかも、歌だけであったとしても、日本人にはフランス語はかなり難しい。Je t’aime. をまるでJou t’aimou.と歌うのでは、フランス語のオペラにはならない。何人もの歌手がまったくのカナカナのフランス語だったのではないか。鼻母音らしい音もほとんど聞こえてこなかった。これだと、オッフェンバック独特の洒脱な雰囲気がまったく出ない。とはいえ、たった一度だけの上演のために、歌手がフランス語を基本からしっかり勉強するように強制するのも、酷かもしれないが・・・

 そんななか、スザンヌをうたった岩崎由美恵の歌が、私にはもっともフランス語らしく聞こえた。歌い回しがフランス風で違和感がない。声も伸びて、明快。とても楽しく聞けた。トビーの古橋郷平も私は大いに楽しめた。エドヴィージュを歌った垣岡敦子は、とても声が美しかった。

 オーケストラと合唱に関しては、やはり練習不足を感じざるを得なかった。おそるおそる音を出している雰囲気が伝わってくる。いろいろの制約から、これもやむを得ないのかもしれない。制約が多い中、最大の苦労をしているのだと思う。

  いっそのこと、全部、日本語にして、不必要な部分は大胆にカットして、時事ネタなどのギャグを入れて、完全に日本化してしまうほうが、練習も楽になり、観客の違和感もなくなるのではないか。事実、私が一番面白くて、オッフェンバックっぽいと思ったのは、時事ネタなどを入れて軽妙に演じた海賊の親玉ウィル・アトキンス役の村田孝高だった。ジム・コックスの石川誠二とともに、とても芸達者で、楽しめた。

 そんなわけで、オッフェンバックを現在の日本で上演するのは、かなり難しそうだと感じつつ、帰途についた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

山本裕康、バッハの無伴奏チェロ組曲第1番と第5番は素晴らしかった

 2月9日、九段下の寺島文庫カフェ、みねるばの森で、多摩大学樋口ゼミ主催のコンサートを開いた。曲目は、山本裕康のチェロによるバッハの無伴奏チェロ組曲第1番と第5番。最高の演奏だった。

 みねるばの森は、多摩大学の寺島実郎学長が運営するカフェだ。私は、はじめてこのカフェを見たときから、ここで無伴奏曲のコンサートを開き、ここを無伴奏の殿堂にしたいと思った。それができたら、どんなに幸せだろうと思った。

 バッハをはじめとする無伴奏曲は、ホールよりも、小さな室内に適している。親密な空間で楽器を目の前にして聴いてこそ、無伴奏の醍醐味を味わえる。寺島学長の運営する知の殿堂は、まさしくバッハの無伴奏の演奏にふさわしい。そもそも、ミネルヴァとは、知の女神にして音楽の創造者でもある。

 この場所が無伴奏の殿堂になり、毎週のように無伴奏曲が演奏され、音楽好きの人々がここに集まって、くつろいだ空間でバッハを聴く。ここに来たら、バッハの無伴奏曲が最高の演奏で聴ける・・・そんな評判のできるカフェ。それを夢見た。そして、それを私のゼミ活動の一環としてできたら、どんなに良いだろうと思った。

 実を言うと、多摩大樋口ゼミでは、学生と相談して、クラシック音楽のコンサートを行っている。が、今回は、ゼミ生に手伝ってもらうだけで、私の夢を推し進めることにした。ゼミ生には、私の夢の実現を手伝ってもらうことにした。

 最初の無伴奏コンサートにぜひ演奏をお願いしたいと思ったのが、山本裕康さんだった。山本さんには、2009年に一度、無理を言って多摩大学で演奏をお願いしたことがある。その時、バッハの無伴奏組曲の第一番を弾いていただき、あまりの素晴らしさに感動した。CDも聞かせていただいたが、それも圧倒的だった。

そこで、私の夢を実現するべく、おそるおそる山本さんに私の夢をお話しした。すると、うれしいことに快諾を得たのだった。こうして、今日、私の夢である、山本さんによる無伴奏組曲のコンサートが実現したのだった。

 予想にたがわぬ素晴らしい演奏だった。ゆったりとしたふくよかな響き。お人柄を示すような心が広く、深みにあふれた音。一つの音にもさまざまな音色が聞き取れる。バッハの曲は、その人のすべてが現れる。抑制された中で高揚し、シャイで心やさしくて、まじめでしかも情熱的な山本さんが聞こえてくる。

 狭い空間なので、目の前でチェロが鳴り、チェロの音に包まれる。観客の全員がチェロと一体になる。

 第1番も素晴らしかったが、私はどちらかというと、これまでちょっと苦手意識を持っていた第5番に非常に強くひかれた。

 この曲は、重々しくて暗いと思っていたのだが、山本さんが演奏すると、そうはならない。むしろ、人生の深みとやさしさを感じる。人生の悲しみを抱えながら、それを抑えて高みを目指そうとする精神が感じられる。

 実に感動した。それはその場に居合わせた40人ほどの客全員も同じだったようで、終演後、多くの人が興奮して感動を口にしてくれた。

 ゼミ生たちもよく働いてくれた。

 今日はともあれ、私の夢の第一歩が実現した日だった。が、これで満足してはいられない。みねるばの森を無伴奏の殿堂にするべく、努力したい。もっと多くの人に無伴奏曲を味わっていただきたい。

 なお、次回、4月20日(土)には、同じ山本裕康さんの演奏で無伴奏曲の2番と6番、6月22日(土)には3番と4番をお送りする。かなり席が埋まっているが、あと少し余裕がある。ご希望の方、ご連絡をいただきたい。

 チケットの予約申し込みは、以下に。 tamazemi@gmail.com

 

| | コメント (8) | トラックバック (0)

森美代子+松尾俊介デュオ、素晴らしい演奏

 2月3日、永山ベルブホールで多摩大学樋口ゼミ主催の森美代子+松尾俊介デュオを開いた。これまで何度かこのブログにも案内を出したが、森さんは、若手ソプラノを代表する歌手、松尾さんは若手のギタリストとして注目を浴びている人。ギター伴奏によるソプラノという趣向。

昨年、ピアノのない場所で森さんに演奏してもらうために無理やりギター伴奏という方法を考えて松尾さんにお願いしたのだったが、実際に演奏を聞いてみると、実にぴったり。お二人の息も合っていた。そんなわけで、今年も再びお二人に演奏をお願いしたのだった。

 またも、森さんのチャーミングでありながらも、迫力ある声に圧倒された。のっけから、グノーの「ロメオとジュリエット」のコロラトゥーラのアリア。ドリーブの「カディスの娘たち」もみごと。武満徹の「翼」と「小さな空」も実にチャーミング。森さんは、オペラだけでなく、このような日本の歌も輪郭を明確にして、くっきりと歌いだす。情緒に流れず、一つ一つの言葉を明確に発声する。素晴らしい声の力だと思う。

そして、私が最も素晴らしいと思ったのは、アレクサンドル・アリャビエフの「夜鳴きうぐいす」だった。声の威力が増し、鳥の鳴き声を模すソプラノが実に美しい。

 松尾さんのギターも素晴らしかった。「禁じられた遊び」は、私が中学生だった頃からギターの定番として何度となく聞いてきた曲だったが、松尾さんのギターを聞いて、改めて、こんなに表情豊かで深みのある曲だったことを再認識。そして、そのあとに演奏されたローラン・ディアスの「タンゴ・アン・スカイ」がまさしく絶品。繊細であり、内面的にドラマティック。決して表面的にならず、深く内面に根ざした音を出す。超絶技巧の曲を演奏しても、どこか気高く繊細。

 私自身のゼミによる企画だが、本当に素晴らしいコンサートだと思った。ただ、これほどに素晴らしい演奏なのに、私たちの力不足というべきか、余り客を集められなかった。日曜日の夜、永山というベッドタウンで演奏会を開くのは、無謀だったと思い知った。しかも、定期試験があり、その後すぐに休みに入ったため、ゼミ生が集まれる機会が少なく、きちんと打ち合わせができなかった。そのために不手際が目立ってしまった。

 素晴らしい演奏をしてくれたお二人に本当に申し訳ない。が、私としては、このような素晴らしい演奏を機会を与えることができたのは何よりもうれしい。

 私は、多摩地区の人が気軽に出かけて、近所のホールですばらしい演奏を聴けるような環境を作りたい。駅近くの公民館で、週末の夜にあちこちで高レベルのクラシック音楽のコンサートが行われる・・・というような状況を作りたい。

そのために私たちはゼミ活動をしているのだが、やはり多くの客を集めるのは難しい。反省点が多い・・・

| | コメント (0) | トラックバック (0)

三枝成彰作曲 オペラ「KAMIKAZE-神風-」のカタルシス

 2月2日、東京文化会館で三枝成彰作曲のオペラ「KAMIKAZE-神風-」世界初演(ただし2日目)を見た。原作は堀紘一。演出は三枝健起。第三幕では不覚にも涙を流して、感動に震えた。特攻隊員の死という重苦しいテーマなのに、強いカタルシスを覚えた。

 昭和という時代は、太平洋戦争の死者の礎の上に成り立ってきた。現在の繁栄も平和も、太平洋戦争の兵士と銃後の人々の屍の上に成り立ったものだった。そうした戦死者たちの中でもっとも悲劇的でもっとも戦争の理不尽を象徴するのが、特攻隊員だ。

 三枝さんは、昭和に生きた人間であるからには、特攻隊の生と死について考えを巡らすのが義務だと考えておられるのだろう。それこそが昭和に生きた者の原罪のようなものと考えておられるのだろう。特攻隊の生と死を、日本人の魂を象徴する桜と重ね合わせて、まさしく一つの神話として描こうとする。

 第一幕と第二幕は、ありきたりのセリフが多く出てくる。昭和を生きた人間であれば、これまで特攻隊の話として何度も聞かされてきたエピソード。しかも、しばしば軍歌の代表のような「同期の桜」がうたわれる。背景には大きな桜の木が映し出されている。まさに日本人にとっての「ありきたり」を絵にかいたかのよう。

 しかし、この「ありきたり」の物語が、音楽の力によって、普遍的な神話になる。日本人が持つべき共通の過去になる。逆にいえば、このような普遍的な神話性を作り出すために、あえて「ありきたり」のエピソードを連ねているのだろう。

 私はずっと「トリスタンとイゾルデ」を重ね合わせてみていた。 光司と知子の愛の二重唱があり、最後には愛の死が展開される。純粋な愛の物語。「トリスタンとイゾルデ」が西洋人にとっての形而上学的な愛と死の原型を描くとすれば、「神風」は、昭和の人間の心の奥に潜む愛と死の原型を描き出す。

 音楽的には、第二幕がおもしろかった。専門的なことはまったくわからないが、「同期の桜」という音楽的に他愛のない軍歌を違和感なく挿入し、その音楽を昇華し、深く美しい世界に仕立て上げていく。

 三枝オペラはいつもそうだが、あえて「現代音楽」を否定し、調性のあるわかりやすいメロディで魂を歌いあげようとする。センチメンタルなメロディを多用する。情緒的なメロディにもあふれている。「現代音楽」を好む多くの人が三枝さんのこのような態度を批判するだろう。しかし、「現代音楽」では絶対に日本人の魂の原型を描くことはできない。それを普遍的な神話にすることはできない。しかも、少し聞いただけでわかるが、調性のない音楽よりももっとずっと複雑で精緻。途方もないテクニックを持っているからこそ、このようなわかりやすい音楽が書ける。

 最初と最後、ラテン語、英語、フランス語、イタリア語、ロシア語、中国語、韓国語などのさまざまな言語で平和への祈りが合唱によって歌われる。まさしく鎮魂。しかも、こうすることで日本人の魂を描くオペラがインターナショナルな広がりを持つ。ジョン健ヌッツォが主役であることも、このオペラを日本だけのものでない広がりを持たせている。

 演奏も素晴らしかった。神埼光司少尉をうたうジョン健ヌッツォもみごと。そのほかでは、知子を歌う小川里美、木村愛子を歌う小林沙羅、冨田トメを歌う坂本朱の三人の女性にとりわけひかれた。

 音楽のことばかり書いてしまった。舞台もよかった。CGを使った背景の戦闘機、そしてなによりもまさしく生きた桜の木のセンスのよさに驚嘆。何よりも、幕切れの桜の花びらで舞台一面が覆い尽くされる場面は感動的だった。昭和の日本人の心の原型が映像として定着するような舞台だった。日本のずば抜けた才能が結集してこの新作オペラが出来上がっていることがよくわかる。

 

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2013年1月 | トップページ | 2013年3月 »