バイロイト音楽祭「さまよえるオランダ人」NHK放送を見た
本日未明、NHK-BSで今年のバイロイト音楽祭「さまよえるオランダ人」が放送された。昨年、私がバイロイトで見て大いに感動したのと同じプロダクションによるものだ。
昨年の感想については、上演を見た直後、バイロイトでブログに書いた(http://yuichi-higuchi.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-976b.html 演奏も素晴らしかったし、グローガーの演出も斬新だった。演出のメッセージを一言でいえば、「デジタル社会に資本主義からの脱出を託して、そこに前近代的な人間性を求めようとしても無駄だ。すべて資本主義にからめとられてしまう」というものだった。それをワーグナーの音楽の中にある前近代への憧れを求める現在のワグネリアンへの一つの批判として描いていた。
そして、今年の上演の映像を録画して少し見てみた。
昨年とやや雰囲気が異なる。まず、ゼンタ役が交代になっている。昨年はアドリアーネ・ピエチョンカだったが、今年はリカルダ・メルベト(このブログではこれまでメルベートと呼んできたはずだ)。ピエチョンカはもっと透明な声で清楚な雰囲気だったが、メルベトはもっと声が厚い。こちらのほうが演出意図にあっているといえるだろう。ただ、今回の映像では声が不安定。とても良い歌手なのだが、少し緊張していたのか、あるいは不調だったのか。私は昨年のピエチョンカのほうがずっと良かったと思う。
もっと目立つ昨年との違いは演出だ。ゼンタが黒い羽根を付けているのにびっくり。昨年も羽根を付けていたが、それはボール紙で作ったというのがありありとわかるもので、むしろ「前工業社会」を象徴するものに見えた。ところが、今回は黒の色が付いており、もっと本格的な羽だ。まさしく黒天使に見える。しかも、昨年はゼンタは真っ赤な服を着ていたが、今年は黒。
一言でいえば、昨年は「前近代」と「資本主義・工業社会」の対立だったものが、今年は「黒い悪魔的なもの」と「俗世」の対立に変わっている。もちろん、これこそがワーグナーが台本を書き作曲した「さまよえるオランダ人」の本来のテーマだ(これについては拙著「ヴァーグナー ヨーロッパ近代の終焉」春秋社をごらんいただきたい)。少し、ワーグナーが本来持っているテーマに戻しつつあると感じた。
最後、ダーラントの扇風機工場では、オランダ人とゼンタの像を売り出そうとする。それは昨年の演出と同じだが、ここで注意するべきなのは、今年の演出では、売り出そうとする像の中のゼンタの羽は黒ではないということだ。「悪魔的行為であったオランダ人とゼンタの入水も、資本主義社会にからめとられて、天使的な善の行為にされてしまう」ということになる。
というわけで、少し変更になった今年の「さまよえるオランダ人」演出のなかに私は「デジタル社会に偽善的な資本主義からの脱出の夢を託して、人間のどす黒い悪魔的部分の解放を求めようとしても無駄だ。すべて資本主義にからめとられて、偽善の材料にされてしまう」というメッセージを読み取った。
私は本来、読み替え演出は大嫌いだ。ネズミの出てくるノイエルフェルウ演出の「ローエングリン」、ヴェヌスの胎内を工場に見立てて子供の誕生の物語にしてしまったバウムガルテン演出の「タンホイザー」、ワーグナーを出汁に使ってドイツ近代史を舞台上で展開したヘルハイム演出の「パルジファル」のいずれも許しがたいと思っている。が、このグローガーの演出は、ワーグナーが「オランダ人」の中に込めようとしたものを現代化して見せてくれる。これは読み替えではないと私は思う。
とはいえ、やはり「さまよえるオランダ人」は、ほかの作曲家のオペラに比べればもちろん素晴らしいが、その後のワーグナーの作品と比べると、音楽的に格段の差があるのを感じる。ワーグナーがバイロイト祝祭劇場を造ったとき、「オランダ人」も上演しないでおくつもりだったというのもわからないでもない。昨年のバイロイト音楽祭で、音楽的に充実しているほかの歌劇・楽劇の演出がいずれも突飛なものであり、最も感動したのがこの「オランダ人」だったことを思い出して、改めて残念な気持ちになった。
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