« 2013年10月 | トップページ | 2013年12月 »

ヤルヴィ+ドイツ・カンマーフィルの「フィデリオ」に興奮

 11月30日、横浜みなとみらい大ホールでパーヴォ・ヤルヴィ指揮、ドイツ・カンマー・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会形式による「フィデリオ」を見てきた。素晴らしい上演だった。連日の興奮。

 歌手はみんな最高レベルにそろっている。ロッコを歌ったディミトリー・イヴァシュチェンコが特に素晴らしかった。深く響き渡る美声。音程もしっかりして申し分ない。フロレスタンを歌ったブルクハルト・フリッツも張りのある声で、表現力も豊かで素晴らしい。レオノーレを歌ったエミリー・マギーは、これまでバイロイトでも何度か聴いてきたが、ちょっと以前ほどの威力を感じなかった。もちろん、「悪者よどこに行く」のアリアなどとてもよかったが、以前はもっと張りのある声だったように思った。マルツェリーネのゴルダ・シュルツもヤキーノのユリアン・プレガルディエンもとてもよい。二人ともきっと近いうちに大役を歌うようになるだろう。ドン・ピツァロのトム・フォックスはもう少し迫力がほしかった。当初はシュトリュックマンが予定されていたはず。病気で来日できなかったというが、残念。

 なお、オペラのセリフはすべてカットして、ロッコの心の声を語るナレーターが登場して、ストーリーを紹介しながら話が進む形をとっていた。このナレーターの位置づけがわかりにくく、しかも語られている内容も、私はかなり陳腐に感じた。妙に詩的で妙にかっこつけているが、どうということのないことしか語っていないように思えた。ナレーターは全部カットして、音楽だけでつなぐので少しもかまわないのではないかと私は思った。

 が、いずれにせよ、先日の日生劇場での日本人による「フィデリオ」とは、やはり歌手の力量がかなり異なる。こちらは世界最高レベルの歌手たちなので、比べるほうが酷というものだろう。

 ドイツ・カンマー・フィルは圧倒的だった。厚みのある迫力ある演奏。音が生きている。昨日のベートーヴェンの交響曲と同じように、ぐいぐいと大迫力で押しまくる。切れがよく、躍動感に満ちている。もちろん、オーケストラ曲ではないので、歌手と合わせなければいけないので、それほど自由にはいかない。事実、歌手たちとちょっと合わないところもあった。が、爽快でわくわくする。

とりわけ、第二幕の大合唱の場面の躍動感は素晴らしい。ここはほかの指揮者にかかると、オラトリオのようになり、それがまた魅力なのだが、ヤルヴィとドイツ・カンマー・フィルの手にかかると、もっとドラマティックでスリリングになる。昨日の「エロイカ」のときと同じように叫びだしたくなるような興奮を覚えた。

 レオノーレ第3番が演奏されるかと思って心待ちにしていたのだが、演奏されなかった。残念。昨日の「エロイカ」のようなレオノーレ第3番がきけたら、どんなに興奮しただろう。

 ヤルヴィが世界最高の指揮者の一人であることを再確認。興奮したまま家に帰った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

パーヴォ・ヤルヴィ指揮、ドイツ・カンマーフィルの「英雄」に興奮

 11月29日、武蔵野市民文化会館でパーヴォ・ヤルヴィ指揮、ドイツ・カンマー・フィルハーモニー管弦楽団の演奏を聴いた。プログラムは、前半に「フィデリオ」序曲と交響曲第4番、後半に交響曲第3番「英雄」。アンコールはブラームスの「ハンガリー舞曲」第1番とシベリウスの「悲しきワルツ」。感動した。興奮した。

 ヤルヴィ+ドイツ・カンマーフィルの組み合わせでかつてベートーヴェンの第5を聴いて圧倒された記憶がある。メリハリがきいているとか何とかいうレベルではなく、波乱万丈でスリル満点の、ある意味で曲芸的な演奏なのだが、そうでいながら少しも不自然でなく、ぐいぐいと聴衆を引き込まれた。

これは必ずしもヤルヴィの指揮のためというよりも、両者の組み合わせのたまものと言えるようで、フランクフルト放送響などのほかのオケで聴くと、ヤルヴィ指揮でももう少し大人しい。こんな波乱万丈な音楽はカンマーフィルの持ち味なのかもしれない。

まさに今日も期待通り。前半を聴いた時点で、凄まじい演奏だと思った。わくわく感にあふれている。第4番第1楽章の序奏が終わって盛り上がっていく部分が素晴らしい。そして、スケルツォも第4楽章も、立ち上がって叫びだしたい気持ちになるような昂揚感を覚えた。

後半の「英雄」はもっとすごかった。第1楽章からして、若々しくて気合のこもった音楽がスリリングに展開される。巨匠風なところは少しもなく、スピーディー。リズムが動き、躍動するが、構成感は崩れない。まるで生き物のように音楽が躍動する。こんな凄まじい「英雄」は初めて聴いた。とりわけ、第4楽章のすごさ。変奏形式なのだが、様々な形に目まぐるしく姿が変わり、律動していく。

めくるめく思い。息をのんでいるうちに音楽が終わった。

アンコールのハンガリー舞曲のほうは、ヤルヴィがほとんど即興的に棒を振り、オケの団員がそれについていく醍醐味。リズムを伸縮自在にした音楽。しかし、それが実に楽しい。「悲しきワルツ」は、しずかにしなやかにしみじみと聞かせてくれた。

実に芸達者な指揮ぶり。父上のネーメに対して、その芸達者に驚いたことがあったが、パーヴォも負けていない。

音楽の楽しさ、わくわく感を存分に楽しんだ。私は、ヤンソンスのようなはったりのない細かいところまで神経の粋とどいた正攻法の音楽も大好きだが、パーヴォのような派手に動き回る音楽も大好きだ。

家に帰っても、まだ興奮している・・・

 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

日生劇場50周年公演「フィデリオ」 飯守泰次郎の指揮に感動

 1124日、日生劇場50周年記念公演「フィデリオ」を見た。指揮は飯守泰次郎。演出は三浦安浩。新日フィル。

 序曲が始まってすぐにオケの精度に不満を覚えたが、それはベルリンフィルを聴いた直後だったせいのようだ。やはり、ベルリンフィルと比べると、かなり分が悪い。

歌手については、私はマルツェリーネを歌った三宅理恵とフロレスタンを歌った今尾滋にかなり惹かれた。三宅は実に可憐。最初のうちこそやや声が上ずっていた(皇太子殿下が来られていたので、ふだん以上に緊張したのだろうか)が、すぐに立て直して、伸びのある声で歌ってくれた。今尾は、ちょっと歌が一本調子の気がするが、素晴らしい美声で音程もしっかりしていて、じつにいい。レオノーレの並河寿美、ヤキーノの升島唯博、ロッコの斉木健詞、ドン・ピツァロの須藤慎吾はとても安定した歌唱だった。

 何よりも素晴らしかったのは、飯守泰次郎の指揮。第2幕は特によかった。レオノーレ第3番に至っては魂が震えた。実にドラマティック。苦悩から歓喜へというベートーヴェンのモットーが鮮明に描かれる。考えてみると、きわめて知的で論理的な展開。私はあちこちに様々な発見させてもらった。なるほど、そのような作りになっていたのかと、何度か思った。だが、飯守の指揮は、音楽が自然にうねり、根底に明確なドラマティズムがあるので、知的すぎることはないし、あざとい感じもしない。本当の音楽が心の奥底に刺さってくる。これこそベートーヴェンだと思った。本当に素晴らしい指揮者だとつくづく思う。

 演出については、ちょっと図式的すぎる気がするが、なかなかおもしろかった。

序曲の場面からしばしば雨が降っている。ドン・ピツァロは傘を持っている。雨というのは、世界が抱える苦悩を意味するだろう。政治的な大事件や自然災害も含まれるかもしれない。傘は権力を象徴する。レオノーレやフロレスタンや囚人たちはまともに雨にあたっているのに、権力者のドン・ピツァロは傘を持ち歩き、ひとり世界の苦悩から逃れている。ドン・ピツァロは傘を持って黙役の女性カメラマンを捕え、言論の自由を弾圧する。そして、第2幕でピツァロが権力を失うと、傘もロッコから取り上げられる。

最後、フロレスタンとレオノーレが解放され、囚人たちも自由になると、雨があがって晴れ渡る。だが、またも雨が降り出す。しかし、今度はすぐに虹が出る。女性カメラマンが再び現れるが、ロッコがカメラマンに傘をさしかけている。

これからも民衆が弾圧されるような政治的な苦悩の時代が来るかもしれない。が、報道の自由が確保され、民衆がしっかりしているかぎり、雨は上がるだろうというメッセージ。ちょっとわかりやすすぎるメッセージだが、このオペラをこのように寓話的に扱うのも、とてもおもしろいと思う。確かにそのような要素がこのオペラにはある。

そして、このような演出から浮かび上がるのは、「苦悩から歓喜へ」というメッセージだ。この演出は、それを「雨から晴れへ」あるいは、「傘のない雨から、傘を持った雨へ」と言い換えたものといっていいだろう。

近年、日本人の演奏するオペラを見るごとに、世界に引けを取らない上演になっていることを痛感する。オペラファンとしてはうれしい限りだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ラトル+ベルリンフィルの「春の祭典」の凄まじさ

 11月20日、川崎ミューザ・シンフォニーホールで、サイモン・ラトル指揮、ベルリンフィルのコンサートを聴いた。前半はシューマンの交響曲第1番「春」、後半は、樫本大進のヴィオリンが加わって、プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第1番と「春の祭典」。

 もうひとつのプログラムはブルックナーの7番だったが、そちらは敬遠して、「春の祭典」のほうだけ聴くことにした。ラトルのブルックナーを聴いたら、きっと私は「これはブルックナーではない」と言いたくなるだろう、「春の祭典」なら、間違いなく素晴らしいの違いないと思ったのだった。

チケットを購入した時、どう注文したのだったか忘れたが、私の席は最前列中央だった。ラトルの「春の祭典」を前のほうの席で聴きたいとは思っていたが、最前列を希望した記憶がなかったので、着いてみてびっくり。が、少なくとも今日に限っては最前列というのは最高の席だった。

 なにはともあれ、ベルリンフィルの凄まじさにびっくり。何という音!! シューマンの最初の音を聴いただけで、あっと驚く。とりわけ最前列で聴くと、これはもう一つ一つの楽器のとてつもなく美しい音が重なり合って得も言われぬ音の世界を作り出す。遠くで聴いているとあまり聞こえてこないヴィオラの美しさを特に感じた。

 ラトルの音の出し方が実にいい。それぞれの楽器の音がリズミカルにはずみ、あれこれの音が生き物のように動いていく。整理しすぎずに、自由にばらばらにひかせているように思えるのだが、全体的に力動感にあふれているので、少しも乱れない。人工的でないメリハリがつき、勢いにあふれている。

 樫本大進の演奏を目の前で聴いた。汗がぽたぽた垂れてヴァイオリンに落ちかかり、床にも垂れる。まさしく力演。きわめて正当的な演奏。少しも崩さず、ロシア性やモダニズム的な点を強調しすぎることもなく、しかしきわめてダイナミックに演奏。目の前で聴くと、ヴァイオリンの細かい音にニュアンスも聴きとれて、実にすばらしい。

 後半の「春の祭典」は、とりわけ名演だと思った。ともかく、音そのものが素晴らしい。濁りのない鮮明で生き生きとした音。フルオーケストラの大音響が鳴り響いても、少しも濁らず、くっきりと音像を結ぶ。力感にあふれ、弛緩するところがない。最前列で聴くこのオーケストラはまた格別。いやはや、こんなにすごい音を出せる演奏家が世の中にはいるんだ・・・というきわめてプリミティブな感想を抱いた。

「春の祭典」の初演から100年。パリで「春の祭典」の初演を聴いた評論家のジャック・リヴィエールは、そこに象徴主義的な「もやもや」を打ち砕く東方からのバルバリズムを聴きとった。19世紀のヨーロッパ的な内にこもる精神主義をこの音響は打ち砕いたのだった。同時にそれは、それまでヨーロッパ文明の中心をなしていたキリスト教文明が相対化されたことを意味したのだと、私は考えている。

実は、そのようなことを書いたのが、「1913年のフランス文学」を分析した私の修士論文だったのだが、40年近く前に書いた事柄をここで持ち出しても仕方がない。ともあれ、今日の演奏は、西洋文明が受けた衝撃が伝わるような力を持っていた。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

METライブビューイングの「鼻」、アヴァンギャルドな精神を満喫

 11月19日、銀座の東劇で、METライブビューイング、ショスタコーヴィチ「鼻」を見てきた。とても面白く、刺激的。

 私が最初にこのオペラを見たのは、1970年代か80年代の初め。ポクロフスキー演出のモスクワ室内歌劇場の来日公演だった。指揮は誰だったかよく覚えていない。あまり有名な歌手はいなかった。モスクワでこのオペラのすごい演出が話題になっているというニュースが伝わってきて、しばらくしてからの来日公演だった。胸を高鳴らせていって、期待以上の感動をしたのを覚えている。その後、何度かこのオペラのCDや実演や映像に触れてきた。

そして、今回のメトロポリタン歌劇場の映像。

ウィリアム・ケントリッジ演出がなかなかおもしろい。CG映像を駆使したもので、オペラの雰囲気をうまく伝えている。鼻の形の人間の姿が映し出される。舞台上もコラージュ風で、いくつかの舞台が漫画のコマのように配置されている。

そして、音楽はまさに若きショスタコーヴィチのモダニズム精神にあふれるもので、ロシア革命直後のマールイ劇場でのメイエルホリドの時代のアヴァンギャルドな精神を体現している。このドタバタ感がたまらない。私は「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の警察署の場面が大好きなのだが、それと似た雰囲気が全体を覆っている。コラージュ風にあれこれの場面が無秩序につなぎ合わされ、奇想天外で奇怪なゴーゴリ特有の物語が展開していく。

私は一時期、ロシア・アヴァンギャルドの時代の芸術にかなり関心を持って、この時代の精神を表現している舞台を見たいと長らく思っていたが、かなりアメリカナイズされた形ではあるが、ともあれ見られたという思いを抱いた。

歌手たちはみんなが最高レベルにそろっている。さすが、MET。コワリョフを歌うのはパウロ・ジョット。ロシア人ではないというが、まったく違和感はない。登場する人物みんなが、まさにアヴァンギャルドで面白い。

ただちょっと不満を言うと、指揮のパヴェル・スメルコフがもっとはじけてもいいのではないかと思った。もっともっと猥雑感がほしい。猥雑であればあるほど、奇怪でつじつまの合わない面白さが引き立つと思う。また、かつて見たポクロフスキーの演出と違って、大劇場での上演なので、観客との一体感が薄い。もともとマールイ劇場(小劇場の意)で初演されたオペラであって、小規模で観客との一体感を前提にしている。そのあたりが、不満といえば不満だが、メトロポリタンという巨大劇場で上演する以上、これはやむを得ないことだ。

 ともあれ、大変満足。このライブビューイングで多くの人にこのオペラの面白さを知ってもらいたい。そして、もっともっとあちこちの劇場でショスタコーヴィチやプロコフィエフのあまり知られていないオペラを上演してほしい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

岡田博美リサイタル、ネマニャのCD「パガニーニ・ファンタジー」

 11月14日、東京文化会館小ホールで岡田博美リサイタルを聴いた。ただし、大学のゼミの後半を学生に任せ、車で会場に向かったが、首都高速が大渋滞で少し遅れた。30キロほどの距離に高速道路を使って2時間ほどかかった。焦りに焦った!

ショパンはきけず、ブラームスのパガニーニによる変奏曲はドアの外で聴く羽目に。残念無念。後半はシューマンの「森の情景」と「クライスレリアーナ」。アンコールにメンデルスゾーンの無言歌の「春の歌」、リストの「愛の夢」、シューマンの「トロイメライ」。

実は私はシューマンの音楽がかなり苦手だ。いや、嫌いではない。「詩人の恋」をはじめとする歌曲やいくつかの室内楽はかなり好きだ。だが、ヴァイオリン協奏曲などのいくつかの曲に関して、私の頭の中で曲の構成が整理できず、しばしば途方に暮れる。あえて差別的に言わせてもらうと、「この人、やっぱり頭がおかしい」と思ってしまう。あちこちで唐突だったり、執拗に同じことを繰り返したり。

岡田さんの演奏を聴いて、そのシューマンの繊細さ、情緒不安定さが研ぎ澄まされ、余計なものがそぎ落とされ、しかも絶妙のニュアンスをもって再現された感じがした。ある種の狂気が目の前に現れるように思った。破綻しかけたロマンティズム。だから、心地よくはなかった。ベルリオーズの「幻想交響曲」の中にある毒気を、もっとずっと内向的にしたかのよう。しかし、同時に、このようなシューマンを聴いているうち、なんと美しい、しかもなんと愛するべき曲だろうとも思った。シューマンを愛する人の気持ちがよくわかった。

それにしても、岡田さんのピアノのタッチの美しさ、完璧なリズムと音の重なりに驚いてしまう。情緒に流されないがゆえに、ロマンティックな情感が、その毒気を含めて立ち上ってくる。

先日、このような圧倒的なピアニストを迎えて多摩大学でリサイタルを運営できたことを改めて誇りに思った。そして、またぜひ、私たちの手で岡田さんのリサイタルを実現したいと強く思った。

 

112


ところで、ネマニャ・ラドゥロヴィチの新しいCD「パガニーニ・ファンタジー」を聴いた。ネマニャのファンになった多摩大学の同僚がフランスで購入したものを借りて聴いたのだ。カプリースからの3曲がとりわけ素晴らしい。パガニーニの協奏曲第1番もいいし、ほかの小曲もいいが、カプリースのすさまじさは言葉をなくす。それにしても、先日の来日でも感じたが、ネマニャの音楽スタイルに変化が表れているようだ。以前のように激情を表に出すことが少なくなった。より本格的になり、音楽の中身に肉薄するようになっている。三鷹で聴いたバッハやイザイと同じような深い凄みがカプリースの中に表れているように思う。近日中にカプリース全曲を録音してほしいと改めて思った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

最近見たオペラDVD フランクフルトの「リング」、トゥルーズの「リエンツィ」、「賭博者」

 忙しいとはいえ、少し前に比べると、多少は時間的な余裕が出てきた。何本か、ためていたオペラDVDを見た。感想を書きしるしておく。

 

323


 「ニーベルングの指輪」全曲  セバスチャン・ヴァイグレ指揮 フランクフルト歌劇場

 ひと月以上前から、少しずつ見ていたが、やっと見終わった。全体的に大きな感銘は受けなかった。歌手たちは、全体的には悪くないのだが、突出した存在はいない。それぞれにちょっとした傷を感じる。声がよかったら、音程に少し難があったり、音程は良くても声の輝きに不足があったり。とてもまとまりの良い歌手なのだが、あと少しの迫力に乏しかったり。ヴォータンを歌うテリエ・ステンスヴォルトやブリュンヒルデのスーザン・ブロック、ハーゲンのグレゴリー・フランクはとても良いと思う。劇場で聴くと十分に感動するだろう。だが、映像として家庭でみると、声の響きについても少し不満を感じる。

 ただ、私は肝心のジークフリート役のランス・ライアンについては、私は最大限の不満を覚える。以前、ヴァレンシア歌劇場の「リング」のDVDを見たときも同じように感じたが、私の耳には音程が不安定に聞こえるし、発声が苦しく、声自体に美しさを感じない。むしろミーメの声のほうが美しいくらいだ。私はこの人が歌い始めると、しばらく耳をふさぎたくなる。なぜこの人がバイロイトで主役を歌えるのか、なぜこの人をほめる人がいるのか、私にはわからない。もしかしたら、実演を聞くと気にならないのだろうか。

 指揮のヴァイグレについても、びしっと決まらない。間延びしたような瞬間を感じてしまう。もう少し力感がほしい。ヴェラ・ネミロヴァによる演出についても、かなり穏当。細かいところでは多少の違いはあるが、ラインの三人の乙女は娼婦のようだし、グンターとハーゲンは現代的な服を着ているし、この10年ほどの間に上演されてきた「リング」を寄せ集めたような印象を持った。

 

 

598


ワーグナー 「リエンツィ」 トゥルーズ・キャピトール管弦楽団 ピンカス・スタインバーグ(指揮)

とてもよかった。先日、ベルリン・ドイツ・オペラのこのオペラのDVDを見て、なかなかおもしろかったが、それに勝るとも劣らない。ベルリン・ドイツ・オペラのものも主役は今回と同じトルステン・ケルルだった。実にすばらしい。当たり役といえるだろう。強くて豊かな声で明確に歌う。かなり癖のある声なので、けっして美声とは言えないと思うが、最高の存在感。イレーネ役のマリカ・シェーンベルクもしなやかでありながらしっかりした声で自在に歌う。若い歌手だと思う(登場人物は全員が顔を白塗りにしているので、顔の造作がよくわからない)。アドリアーノ役のダニエラ・ジンドラムもしっかり歌ってドラマを盛り上げる。この主役三人は特に充実している。

指揮のピンカス・スタインバーグも力感があってとても好ましさを感じた。きびきびと、そしてダイナミックにオペラを進めていく。「リエンツィ」は、「さまよえるオランダ人」以降のオペラと違ってめったに聴く機会がないが、聴いてみると、なかなかの名曲だ。めったに上演されないのは実に惜しい。

演出は、ジョルジュ・ラヴェッリ。全員が顔を白塗りにしていること以外は、それほど驚くような斬新な演出はない。白塗りになっているのは、二つの敵対する家族も、そして英雄的なリエンツィも、一様に人類の一人でしかないこと、実は個性などない、生命のうごめきのような存在でしかないことを象徴しているのかもしれない。ただ、こうされると、見ているほうは登場人物の識別ができなくなる。合唱団も含めて全員が匿名の存在になる。もちろん、それが狙いなのだろうが、これでは歌っているほうも歌い甲斐がないのではないかと余計な心配をしてしまう。

 ともあれ、ワーグナー生誕200年だということでこのような映像が発売になるのはうれしい。

 

640


プロコフィエフ 「賭博者」 マリインスキー歌劇場 ヴァレリー・ゲルギエフ指揮。

 プロコフィエフ作曲、ドストエフスキー原作のオペラ。原作は高校生時代に読んだ記憶があるが、よく覚えていない。したがって、ほとんど予備知識なしに見たに等しい。いかにもドストエフスキーらしい登場人物なのだが、オペラでこのような人物を見せられ、せりふを聞かされても、深層が描かれないので、見ているほうは納得できない。そのせいか、ストーリーに納得のいかないところがあった。そのうちドストエフスキーの原作を読み返してみたいものだ。

 プロコフィエフの音楽はショスタコーヴィチのようには鬱積していないので、ここに展開されるのはドストエフスキー的世界とは言い難い。だが、最後の、アレクセイがルーレットに勝つ場面と、ポリーナとのいかにもドストエフスキー的なやり取りの部分の音楽は破滅的で狂気じみていて、とてもいい。名作オペラというわけではないと思うが、とても楽しめた。

 はじめて聴くオペラなので演奏については何とも言えないが、不満はない。将軍をうたうセルゲイ・アレクサーシキンが実に芸達者で、太い声が魅力的。ポリーナを歌うタチヤナ・パヴロフスカヤは知的な美人だが、得体のしれないドストエフスキー的な魅力を振りまいて、とても魅力的。アレクセイを歌うウラジーミル・ガルージンは、さすがに25歳には見えないが、声も出ていてとてもいい。青を基調にしたテムール・チヘイーゼの演出もとても面白かった。ゲルギエフの指揮も実にダイナミックで躍動的。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

多摩大学第5回 「私の志」小論文コンテスト授賞式が開かれた

昨日(11月10日)、午前中、多摩大学経営情報学部キャンパス内で、多摩大学主催第5回 「私の志」小論文コンテストの授賞式が行われた。出席者は受賞者8名とその保護者や学校の先生。審査をした多摩大学の教員と運営にかかわった職員。そして、協賛くださった大学新聞社の方。私はこのコンテストの審査委員長ということで、全体の講評を述べ、受賞者に表彰状を渡した。

今年は1600通の応募があり、全体的に大変レベルが高かった。とりわけ、最終審査に残った人々は「志」の内容、文章力ともに目を見張るほどだった。「甲乙つけがたく、どれが最優秀賞になってもおかしくなかった」という言葉が審査委員長の決まり文句になっているが、今回はまさしくその通りだった。10人の教員がいくつもの基準によって審査したが、私自身、審査の過程で数人に同点を付けた。1点差、2点差の人も多かった。それほど接近していた。

厳正な審査の結果、最優秀賞は九州文化学園高等学校の坂口舞さんの「最後が最後であり続けるために」。長崎を最後の被爆地にするためにもっと世界に長崎を知ってもらう活動をしている状況を喚起力のある文体で書かれており、説得力があった。

優秀賞は横浜雙葉高等学校の谷川春菜さんの「私と考古学」と大妻高等学校有賀萌さんの「『他者』と向きあう幸せ」。いずれも自分の体験をしっかりと普遍化し、自分の志を明確に示すと同時に、その社会的意味を深く考察していた。佳作、入選の作品もこれらの3作に劣らない小論文であり、私自身大変感銘を受けた。

私たちの大学は、「志」を持って社会にかかわることを重視している。若者がしっかりとした意識を持って社会に立ち向かい、社会をよくするように努力してほしい。そうすることによって、社会の中の自分を見つめ、自分の考えを明確にしてほしい。そのために、このような小論文コンテストを開き、全国の多くの高校生に改めて自分の志を考え、社会と自分を考え直すきっかけにしてほしいと考えている。

これらの作品は、私たちの望み以上の形で、志をしっかりと示し、社会と自分のかかわりについてそれについて考察してくれた。将来を託すべき若者がしっかり育っていることを確認して、大変頼もしく思った。

私は、高校生の頃、文章は上手なほうだったし、かなり社会的な意識を強く持っていたが、今回の入賞者のようにバランス良くしっかりと自分を見つめた文章は書けなかった。なにしろ、私は高校生の頃、マルクスとニーチェという相反する二人の思想家に夢中になって、自分が社会とどうかかわるべきなのか全く見えない状態だった。そんな私に、他者を納得させるような文章は書けなかった。その意味で、受賞者たちのしっかりした意識に脱帽。

ただ一つ、今回の授賞式で残念だったのは、入賞者の全員が女子だったこと。男子生徒の入賞者がいてほしかった。厳正な審査の結果なのでやむを得ないが、男の一人としては少々さびしい。男子諸君は高校生当時の私と同じような五里霧中状態なのだろうか。

とはいえ、本コンテストに応募してくださった若者が、このコンテストを自分と社会のかかわりを考えるきっかけにしてくれたとすると、関係者としてとてもうれしく思う。

授賞式の後は、軽食を取りながらの懇親会。受賞者やその保護者と話したが、とてもしっかりとした感じのいい高校生たちだった。

午後は、多摩大学経営情報学部のオープンキャンパス。今度は、入試委員長として活動した。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

パノハ弦楽四重奏団によるドヴォルザーク。精妙だが、私の好みではなかった

 11月7日、武蔵野市民文化会館でパノハ弦楽四重奏団によるドヴォルザークの弦楽四重奏曲を聴いた。

 パノハ弦楽四重奏団は初めて聴く。前半に「糸杉」弦楽四重奏版から4曲と第13番。後半に第12番「アメリカ」。

 精妙で緻密な音。「アメリカ」の第2楽章など、あまりの精妙さにびっくり。しなやかな音。いぶし銀のようなというか、なめし皮のようなというか。細かなニュアンスはみごと。これはこれですばらしい。

 ただ、実を言うと、この種の音は私の好みではない。私には、あまりに小さくまとまっているように感じられる。玄人好みすぎる。もちろん、これもドヴォルザークの特質だろうと思う。しみじみとして地味で美しい。こじんまりとして、懐かしい気分がいっぱい。しかし、少なくとも、「アメリカ」はもっとメリハリをつけてダイナミックに演奏してもいいのではないか。

 私は、かなり年齢になるとはいえ、あまりにこじんまりとしたものは好きではない。子どものころから今に至るまで、恥ずかしながらベートーヴェンやワーグナーやブルックナーのようなエネルギーにあふれる音楽が大好きだ。

 以前、ヤナーチェク弦楽四重奏団の演奏を聴いたときにも同じような印象を抱いたのを思い出した。もしかしたら、あえて音楽を小さく演奏するというのは、チェコの弦楽四重奏団の一つの特徴なのかもしれない。

 そんなわけで、「実に美しい」と思いながらも、パノハ弦楽四重奏団には多少の不満も抱かずにはいられなかった。

 アンコールはモーツァルトから2曲。1曲目は多分ごく初期の弦楽四重奏曲。2曲目は「狩り」の第2楽章。緻密で溌剌としている。が、これもかなり小さく音楽を作っていた。これが持ち味なのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

往年のテレビドラマ「ローン・レンジャー」DVDを見た

 数日前、書店で見かけて、懐かしさのあまり「ローン・レンジャー」のDVDを購入した。「ローン・レンジャー」といっても最近のディズニー映画ではない。テレビ放映が始まってほどない1950年代に放送されていたアメリカの西部劇だ。8枚組1980円という激安商品。

小学生のころ、「ローン・レンジャー」が大好きだった。白馬に乗って「ハイヨー・シルバー」と呼び掛け、覆面をして西部にはびこる悪漢たちをやっつけていく。痛快この上なかった。

実はこの番組の冒頭、タイトルの出る場面で毎回、白馬に乗ったローン・レンジャーの映像とともにロッシーニの「ウィリアム・テル」序曲の第4部「スペイン軍の行進」がかかる。

 私はこれまで人に聞かれるごとに、「小学校5年生の時、学校の音楽鑑賞の時間に聴いた『ウィリアム・テル』序曲に感動してクラシック音楽にのめりこんだ」と答えてきた。本の中にも何度かそのことを書いた。もちろん、これは嘘ではないが、実を言うと、「ウィリアム・テル」序曲に感動した理由の一つは、大好きな「ローン・レンジャー」の冒頭に使われているのがこの曲だと発見したことだったのだ。もし、当時私が「ローン・レンジャー」を見ていなかったら、きっと『ウィリアム・テル』序曲に感動することもなく、クラシック音楽好きになることもなく、もしかしたらまったく違った人生を歩んでいたかもしれない。

 そんな意味もあって、家での仕事の合間に「ローン・レンジャー」を見てみた。もちろんストーリーにはまったく覚えがない。だが、ローン・レンジャーの乗馬姿が最高にカッコよかったこと、トントという原住民が登場していたことなど、ドラマの雰囲気は思い出した。山のように仕事があるというのに、ついやめられなくなって、ちょこちょこと6話ほど見た。

 基本的に23分程度で一話完結なので、実にスピーディに話が進む。登場人物たちはさまざまなことを二言三言話を交わすだけで納得し、すぐに決断し、すぐに実行に移す。あまりに都合よく話が進んでいく。が、そうでありながら、ストーリーに起伏があっておもしろい。さすがにアメリカのドラマはよくできている。映像も映画並みに本格的。

 現代のドラマのように、まるで観客がその場に立ち会っているかのように詳細に状況を描かない。当時の日本の子供たちが見ていた紙芝居のように、あるいはアメリカ人が好んでいた「スーパーマン」の漫画のように、臨場感が強調さえることなく、かなり客観的に描かれる。それほどしつこくリアルに描かなくても、インパクトある西部の風景、ヒーローのカッコよさで、当時の人々はリアリティを感じたのだろう。むしろ、近年の映画やドラマはあまりに臨場感を重視しすぎているようにも感じた。

 それにしても、団塊の世代前後の人々(私は団塊の世代のほんの少し下の世代に当たる)がいかにアメリカ文化を吸収していったのか、改めてよくわかる。小学生時代には、「名犬ラッシー」「ルーシー・ショー」「ローハイド」「サンセット77」「アンタッチャブル」でテレビドラマの面白さを知り、その少し後、「コンバット」「逃亡者」「ナポレオン・ソロ」に夢中になった。これらによってアメリカの正義、アメリカの家庭、アメリカの歴史さえ知った。「コンバット」が放送されていたのは、日本がアメリカ軍とあれほど熾烈に戦い、あれほどの死者を出して20年もたっていないころだった。このドラマはヨーロッパ戦線でのドイツ軍との戦いを描いているとはいえ、日本のテレビ視聴者がアメリカの兵隊に感情移入して見ていたのが不思議だ。

ところで、子どものころにローン・レンジャーというのは主人公の名前だと信じ込んで、これまでまったく疑問に思ったことがなかったが、「たった一人のレンジャー隊員」という意味だったことを、第一話を見て知った。考えてみると、そりゃそうだ。英語を学び始めたころに気付くべきだった。

 子供のころはまったく疑問に思わなかったが、今見ると、主人公が覆面を付けている必然性がないのを強く感じた。ほとんど常に覆面はむしろ強盗か何かと間違われて逆効果になるし、覆面で顔を隠すメリットもない。同じころテレビで放送されていた「怪傑ゾロ」(これも大好きだった!)などは、正体を知られては困るので覆面を付ける必要があるだろうが、ローン・レンジャーについてはそれはなさそうだ。もう少し必然性を示してほしいと思った。逆にいえば、覆面というものの持つ魅力というのは、とりわけテレビ初期の映像が重視される時代には、大きな意味を持っていたのだろう。

 もうひとつ気づいたのは、音楽にクラシックがかなり使われていること。小学生だった私が知るはずもなかったが、「さまよえるオランダ人」序曲が頻繁に出てくる。そのほかベートーヴェンの交響曲第7番やらリストの「レ・プレリュード」やらボロディンの「イーゴリ公」やらに気付いた。曲名は思い出せないが、聞き覚えのある曲がほかにもいくつもある。当時のテレビドラマにはクラシック音楽が普通に使われていたのだろうか。

 ともあれ、童心に戻って、実に楽しめた。といっても、まだ6話までしか見ていない。あと10話楽しめる。ディズニー映画の「ローン・レンジャー」も見たくなった。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

三枝成彰「KAMIKAZE -神風-」DVD、そして「25年目の弦楽四重奏」のこと

 土曜日と日曜日、二日連続で休みが取れたのは実に久しぶり。毎週、イベントや会議があって、毎週、何らかの形で大学で仕事をしていた。家にいても、もちろん原稿を書く仕事がたまっているとはいえ、二日間、大学に行かなくてよいと思うと、心に余裕ができる。そんなわけで、金曜日の夜から。ずっと見たいと思いながら、時間に追われて見られなかったDVDを見た。また、先ごろ時間を見つけて映画館で見ながら、ブログに書くための時間を見つけられなかった映画もある。それらについて、まとめてここに書くことにする。

 

410


 今年、東京文化会館で見た三枝成彰作のオペラ「KAMIKAZE -神風-」のDVDを見た。実演を見て大感動したのだったが、映像を見て改めて考えるところがあった。

 実演では涙を流し、音楽そのものやそれぞれの登場人物に感情移入をしていたが、DVDではもっと冷静になれる。正直言って、歌手の方々に小さなミスがいくつかあることに気付いた。だが、それはたいしたことではない。全体的には本当に力演。容姿も素晴らしい。オーケストラも見事。演出も簡素ではあるが、実にセンスが良く、日本の美しい原風景を作り出している。

 やはり私が最も惹かれるのは音楽だ。DVDで聴いて、三枝さんの作曲技法の工夫にあれこれ気づいた。とはいえ、もちろん私は全くの素人なので、専門的なことはわからない。きわめて単純な印象でしかない。

 オーケストラの音の様々な音の微妙な絡まりに驚嘆。管楽器がとりわけ美しい。人の心の襞が管楽器で歌われる。声から注意を楽器に向けても実に雄弁。世界全体が悲しみをうたっているかのように、オーケストラが鳴っている。

 日本語は高低アクセントなので、どうしても歌詞は抑揚が平板になってしまう。私には具体的にどのようにしているのかはまったくわからないが、何らかの作曲技法によって、平板にならないように、ニュアンスが変わり、微妙に楽器が異なって展開していく。専門的な知識がないので、具体的に説明できないのが歯がゆい。

 今回、改めて音楽を聞きながら、きっと三枝さんは平板な日本語を平板なまま用いたうえでオペラとして成り立つようなある種の実験をしているのではないかと思った。台詞にはまさしく平板な言葉が続いている。とくに平板さを避けているようには見えない。アクセントが平板だという日本語の特質を隠すことなく、それを真正面から取りあげ、そこに音楽によってニュアンスを込めて、日本語の名作オペラを作り上げている。

 そして、もう一つ気づいたこと。それは、三枝さんの西洋的でモダンなセンスのために、一つ間違うと演歌調の暗く怨念のこもったものになってしまいそうなテーマが、普遍性を帯び、まさしく人類の悲劇として描かれていることだ。戦中の日本にしては異様なほどおしゃれでセンスの良い女性たちのファッションや舞台のフランス風色づかいも、そのような音楽の性格を強調している。

 それにしても、「平和をお与えください」の歌は涙なしに聞くことができない。

 

映画「25年目の弦楽四重奏」

 

ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第14番が使われているというので、見に行った。

世界的な弦楽四重奏団の最年長のチェリストがパーキンソン病のために退団したいと言い出したことから、それまでまとまっていたメンバーに亀裂が入り、あれこれの事件が起こる。そして、ラストコンサートが開かれ、チェリストが途中で演奏を中断。代わりの若いチェリストが後を続ける。そんなストーリーだ。ヤーロン・ジルバーマン監督。演じるのは名優たち。かつて、小池昌代の「弦と響き」という小説を読んだ。とてもよく似たテーマだと思う。

ふだんあれこれの弦楽四重奏団の演奏を聴きながら、私はときに彼らの人間関係を不思議に思うことがある。異性が混じっている場合、夫婦や兄弟が混じっている場合、彼らはどのような生活を送っているのか、いさかいがあったらどうしているのか、音楽観の違いをどのように克服しているのか。つまりは個人の問題を音楽という非人格的な場でどのように解決しているのか。そうした問題をこの映画は描いていく。

もちろん私は音楽家ではないし、弦楽四重奏団の生活も知らないが、きっとこのようなことがあちこちの弦楽四重奏団で起こっているのだろうなと想像できる。その点、きわめてリアル。そして、その中で、心が夫に向かずにいる女性ヴィオラ奏者、その夫で、妻への不満のあまり、若いフラメンコ踊り子と浮気してしまう第二ヴァイオリン奏者、その夫婦の娘であり才能あるヴァイオリニストと関係を持ってしまう芸術に厳しい第一ヴァイオリン奏者を描いていく。それぞれが人間くさく、しかもその真摯さが伝わる。役者たちのうまいこと。楽器の演奏もまるで実際に演奏しているかのよう。

最後、そのような一人ひとりの事情はともあれ、ベートーヴェンの第14番のもと、一つにまとまる。そこが感動的だ。一人ひとりが悩みを持ち、人生を持ちながら、最後には音楽という個人を超えたもののなかに昇華されていく。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ビエロフラーヴェク+チェコフィル+ファウスト、すばらしい演奏

 時間がないので、簡単に書き留めておく。

 1031日、サントリーホールでビエロフラーヴェク指揮、チェコフィルハモニーの演奏を聴いた。前半は「ルスランとリュドミラ」序曲と、イザベル・ファウストが加わってのベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲。後半はチャイコフスキーの「悲愴」。

 ファウストに関しては実にすばらしい。きわめて知的でありながら、リリック。硬質な音だが、澄んでいて限りなく音がきれいで、音に陰影があるので、凛とした雰囲気になる。形がまったく崩れず、情緒に負けることがない。とりわけ第二楽章が素晴らしかった。本当に美しい音。アンコールにバッハの第2番のパルティータのサラバンド。これも妙に小細工しないところがいい。真っ向勝負の音楽。

 ただ、ビエルフラーヴェクについては、実はもっと期待していた。99年、プラハ国民劇場の来日公演で、この指揮者の「ルサルカ」と「イェヌーファ」を見た。恥ずかしながら、その時はじめて私はビエロフラーヴェクの名前を知った。素晴らしい指揮者がいるものだと思った。緊迫感にあふれ、音の扱いが実に清潔だという印象を持った。

 今回、チャイコフスキーの「悲愴」も、もちろん素晴らしい演奏だ。音の重ね方が実に手際がよく、美しい。情緒に流されず、音楽的にしっかりと構成して聞かせてくれた。第3楽章など、とりわけ圧巻。だが、こうなると少し物足りなくなる。もう少し濃厚なロシアっぽさがほしくなってくる。ちょっと薄味で品のいいチャイコフスキーという感じ。そのため、あまり深く感動できなかった。

 

 オーケストラはとてもいい。菅楽器に実に雰囲気がある。弦の重なりも美しい。コンサートマスターは、先日、武蔵野で無伴奏曲を聴かせてくれたシュパチェク。

 アンコールはスラブ舞曲と日本の「故郷」。不思議な編曲の「故郷」だった。あまり日本的ではない。懐かしい雰囲気なのだが、日本的な懐かしさではない。そう、まるでドヴォルザークの一部のよう。

 ビエロフラーヴェクについては、もっともっと期待していたのだが、これがこの人の音楽性だろう。チャイコフスキー以外の曲を聴くほうが、私にはあったかもしれない。ドヴォルザークかブラームスの日に聴くべきだった(時間が合わなかったので仕方がないが)。とはいえ、もちろんとてもよい演奏だった。十分に満足。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

« 2013年10月 | トップページ | 2013年12月 »