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二期会「ドン・カルロ」 若手歌手たちの輝かしい名唱

 223日、東京文化会館大ホールで二期会公演「ドン・カルロ」を見た。素晴らしい公演だった。

 もっと前に見たかったのだが、先週は京都で集中講義をしていたので、最終日にやっと間に合った。ダブルキャストの若手中心のメンバーによるもの。二期会の若手の実力を思い知らされた。ただし、エリザベッタ役の安藤赴美子はインフルエンザだということで、横山恵子が代役。横山は二日続けての出演ということになる。安藤さんのエリザベッタが聴けないのはとても残念。

 4人の男声陣がいずれもすばらしい。ロドリーゴの上江隼人は張りのある美声で高貴な精神をうたい上げていた。ドン・カルロの山本耕平は張りのある澄んだ美声。姿かたちも申し分ない。気品ある王子を見事に演じている。フィリッポ2世のジョン・ハオは人物造型も明確、声も太くて威厳がある。宗教裁判長の加藤宏隆も迫力ある声で、狂信的な残酷さをうまく表現している。これほどレベルが高いと一人ひとりのアリアはもちろん、二重唱、三重唱も心が震えるような力感がある。ヨーロッパのひのき舞台で歌っても十分に通用すると思う。「ドン・カルロ」特有の男のドラマが炸裂。歴史ドラマ特有の思想と権力と恋愛がからんで、どす黒くも崇高な世界が展開する。かなり興奮した。

 女声陣も負けていない。エボリ公女の清水華澄の有名な二つの歌はいずれも大変感動的だった。エリザベッタの横山恵子も最終幕の歌は清純で悲しくて切ない。

 オーケストラは東京都交響楽団。申し分なかった。木管楽器にとりわけ美しさを感じた。ガブリエーレ・ファッロの指揮についても、私が不満に思うところはない。スケールの大きな深い演奏。じわじわとドラマを盛り上げていた。デイヴィッド・マクヴィカーの演出については、私はちょっとだけ不満。経費の問題もあるだろうが、もう少し幕ごとの違いが明確でもよいのではないかと思った。すべての幕を通して同じ雰囲気なので、雰囲気の違いが伝わらない。やはり第一幕はもう少しフォンテーヌブローの森らしくあってほしい。それがないと、ドン・カルロとエリザベッタの恋愛の出発点が曖昧になるのではないか。

「ドン・カルロ」というオペラについても小さな発見をいくつかしたが、明日までにしなければならない仕事があるため、今日はそれについて書く時間がない。そのうち、思い出したら書くことにしよう。

 ともあれ、小さな瑕疵はあるにせよ、全体的には本当に素晴らしかった。堪能し、感動し、世界に誇る日本オペラの実力を知ることができた。若手がどんどんと出てきていることにも頼もしさを感じた。昨日きいた岸七美子さんも、今日聴いた歌手たちも、本当にこれからが楽しみだ。

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岸七美子の楽しくて、しかも深い歌声

 昨日(221日)の夜中に京都から東京に戻った。京都も寒かったが、東京も寒い。

222日、羽村市生涯学習センターゆとろぎ大ホールで、東京フィルハーモニー交響楽団のフレッシュ名曲コンサートを聴いた。若手演奏家を集めてのコンサートだ。指揮は現田茂夫。

 羽村市には初めて行った。もちろん、ゆとろぎ大ホールも初めて。「ゆとろぎ」とは「ゆとり」と「くつろぎ」を足して「りくつ」をとったものだという。おもしろい命名だが、私としては、「ゆとり」や「くつろぎ」と同じくらい「理屈」も大事だよと言いたい!

音響的にはあまり理想的ではないと思ったが、地方にこのようなホールがあるのは実にいい。各地でこのようなコンサートが開かれ、地域の子供からお年寄りまでがクラシックを聴く環境ができるというのは、なんと素晴らしいことだろう。

 前半は弦楽合奏によるチャイコフスキーの「アンダンテ・カンタービレ」に始まった。客の多くが高齢者であるが故の選曲なのだろうか。次に羽村市出身の若いヴァイオリニスト福嶋慶大によるヴァイオリン曲。序奏とロンド・カプリチオーソ、レゲンデ、ツィゴイネルワイゼン。なんだかよくわからない選曲。もう少し統一感がほしい。福嶋のヴァイオリンも、一生懸命弾いていることに共感は持つが、それだけで終わっていると思った。オケに関しても、こころなしか生気のなさを感じた。

 後半になって俄然生き生きとしてきた。「こうもり」序曲が実に楽しくチャーミング。岸七美子のアデーレの歌が始まって、ますます生き生きとしてきた。次に羽村市出身のバリトン大井哲也が加わって、「セヴィリアの理髪師」から、有名なフィガロとロジーナのそれぞれのアリア、次に「魔笛」の「おいらは鳥さし」と「パパパの二重唱」。アンコールは「メリー・ウィドウ」の愛の二重唱。大井の歌も生き生きとして声もしっかり出ていてとても楽しかった。

 実は私の目当ては岸七美子。以前、ワーグナー協会の例会のコンサートで聴いた「ブリュンヒルデの自己犠牲」が見事だった。ちょっと暗めの太くて迫力のある声。小柄なのに、バイタリティに溢れるブリュンヒルデだった。

 今回、最初の歌がアデーレのアリアだったので、ちょっと意外に思った。しかも、最初に聞こえてきたのがアデーレらしからぬ深々とした声。だが、その深い声でまぎれもなくアデーレのチャーミングな歌を聞かせてくれた。高音もびしっときまって、実に美しい。すべての声が完璧にコントロールされていて、音程もしっかりしているし、なによりも表現の幅が広い。ロジーナもパパゲーナもハンナも実に説得力がある。

 はじめて聞いたのがブリュンヒルデだったので、太くて重いドラマティックソプラノだとばかり思っていたら、そうではない。スーブレットと呼ばれる軽い役も素晴らしい。ちょっと驚いた。どちらもできる歌手なんてめったにいないのではないか。かわいらしい役を歌っていても、太くて深い声であるだけに、楽しいだけで終わらずにずしっとした感動を覚える。人生の深みのようなものを感じさせる。とてもおもしろい個性だと思う。これからいろいろな役を歌ってほしい。きっと、すぐにあちこちで主役を張るようになると思う。岸さんの歌を聞けて、とても幸せだった。

 

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京都で映画「鉄くず拾いの物語」「フォンターナ広場」「光にふれる」

 16日(日曜日)の夜から京都に来ている。京都産業大学での集中講義のため。昼間、大学で教えるので、観光はほとんどできない。夜になるとくたくたになっている。それに、17日・18日・21日は学校関係者との会食や打ち合わせ。ホテルに戻って原稿を書く元気もないので、フリーの2日間は四条にある京都シネマで映画を見ることにした。合計3本の映画を見た。

ボスニア・ヘルツェゴビナ映画「鉄くず拾いの物語」。これは正真正銘の素晴らしい映画。

ロマ(昔でいうジプシー)族の一家を追いかける。父親は失業状態で、鉄屑を拾って小銭を稼いで暮らしている。ところが、妊娠していた妻が流産し、胎児が死んでいることがわかる。手術をしなければ母親の命が危ないために病院に行くが、手術料を支払えないので治療を拒否される。最後には妹の健康保険を使って命を取り留める。

それだけの話なのだが、映像が実にリアル。事実そのものとしか思えない。薪にするために木を切ったり、鉄屑を拾ったり、車を壊して鉄くずを取り出したりといった作業がずっと描き出されるが、映像に力があるために、見ていて少しも飽きない。貧しいながらも必死に生きる人間の姿がありありとした存在感で迫ってくる。

日常的な貧しさの中で生きる人たちの過酷な生活。ワイルドな面も持つ主人公、家庭的で優しく、そして肥満した妻。そして何より子どもたち。決して育ちがよいとも、気立てがよいとも言えない女の子二人が、両親が深刻な状況にいる時もわがままを言い、騒いでいる。それなりに可愛いのだが、「わあ可愛い」などと言いたくならないような子どもたちだ。それだけにリアリティがある。また、主人公について回る犬も実にリアル。本当の家族としか思えない。あまりに自然。

ロマ族の悲惨とか、不公平への怒りとか、貧しい人々への共感とか、そのようなテーマよりも何よりも、私は人間存在のリアリティを作り出す力に圧倒された。

台湾映画「光にふれる」。チャン・ロンジー監督。

盲目のピアニストであるホアン・ユィシアンが自ら出演するというので、日本でいえば梯さんや辻井さんのようなピアニストをモデルにした音楽映画であって、かつての「北京ヴァイオリン」のようなものかと思ってみた。かなり予想と違った。音楽よりも男女の触れ合いに重点を置いた青春ドラマだった。

子どもの頃ピアノコンクールに優勝しながらも、「目が見えないから優勝したんだ」という陰口がトラウマになってコンクールを恐れる盲目の音大生(ユィシアン自身がユィシアン役を演じる)、ダンサーを目指していたはずなのに失恋し、挫折している少女。その二人が出会い、影響を与えあう。ともにトラウマを乗り越え、ふたりの関係が恋愛へと発展していきそうになる。そこで映画は終わる。

梯さんや辻井さんも同じような思いをしているのだろうと初めて思いあたった。相手役のサンドリーナ・ピンナがあまりに美しい。ただ、どうみても中国系ではなく、ヨーロッパとのハーフ。そんな人が中国名で登場し、何の説明もなく一般の中国人の役を演じるのはかなり違和感がある。

悪い映画ではないが、私が見る必要はなかったなと思った。

もう一本は、イタリア映画「フォンターナ広場 イタリアの陰謀」。

 マルコ・トゥリオ・ジョルダーノ監督。1969年に起こったミラノのフォンターナ広場にある全国農業銀行爆破に題材をとっている。捜査に当たった実在の警視を中心に描き、闇の深層にたどりつこうとするが最後には殺害されるまでを描く。アナキストやネオ・ナチや警察関係者など大勢の人物が次々と登場して、犯罪を行ったり、隠ぺい工作をしたり、脅したり、裁判がおこなわれたりするので、人間の顔の識別能力が人並みよりもかなり劣る私としてはしばしば途方に暮れた。が、それを除けば、大変よくできた面白い映画だった。

謎が謎を呼び、徐々に明らかにされるが、最後まで謎のまま残る。複雑な事件を実に手際よく、しかもそれぞれの人物を魅力的に描いている。感情移入をしないで、リアリズムに徹してテキパキと描きながら、おのずと主人公の真面目な生き方、深い悩みに共感できるように作られている。

映画を見ているうち、恩師であるイタリア文学者の今は亡き米川良夫先生を思い出した。

そういえば、この事件について、その昔、米川先生に聞いたことがあったような気がする。40年以上たった今となっては、よく覚えていないが、1970年代にミラノを訪れた時、「そういえば、ミラノのどこかで爆破事件があったと米川先生が言われていたけど、どこだっけ?」と思った記憶があるので、間違いなく、話をうかがっていたと思う。当時、一か月に一回ほど、米川先生のお宅にお邪魔して、何時間も長居して、いろいろなお話をうかがっていた。知識に飢えていた当時の私には、それが何よりも楽しみだった。翻って考えると、私のような、米川先生の勤める大学の学生でもない若者に長時間付き合ってくださる米川先生に、今更ながら頭が下がる。

・・・久しぶりにイタリア映画を見て、つい米川先生を思い出してしまった。

 

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すさまじい大雪、そして東京03のDVD

 先週末に続いて、また雪だった(2月14日から15日にかけて)。40年に一度だったという前回ほどではあるまいと思っていたが、起きてみて驚いた。先週よりずっと大雪。都心では20数センチと言っていたが、多摩地区の外れの我が家付近そんなものではない。

 ふと見ると、隣の家のガレージの屋根が雪の重みのために崩れ落ちている。隣家のガレージには車を置いていなかったようで、自転車などがつぶれただけで済んでいるようなのが不幸中の幸いだ。よそ様のことはともかく、その横には我が家のガレージがある。そして、私の家のガレージには車を置いている。しかも、ガレージの屋根に積もる雪は間違いなく60センチくらいある。なお悪いことに、雪がやみ、雨が降りだしている。雪に雨が交じると一層重くなって、車の上のガレージの屋根を落ちてこないとも限らない。事実、ガレージの柱はたわみ、屋根がゆらゆらと揺れている。

 車の上に屋根が落ちかかる恐れが大いにありそうだった。だからといって、大雪なので、ガレージから車を出すこともできない。あわてて妻と一緒に、物干しざおなどを使って、ガレージの屋根の雪降ろしを始めた。外に出てみると、雪は私の膝を超す。場所によっては腰のあたりまでずぼりと雪に埋まる。1メートル近く積もった場所もあったのではないか。重装備で作業をしたが、それでもずぶ濡れになった。半分ほどで雪を降ろしたところで諦めたが、その後、晴れてきて、とりあえず危機は乗り切れた。

 本日、夕方からコンサートに行く予定でいたが、多摩地区の、しかも駅から遠い我が家では、動ける状態ではない。我が家の前はまだ車も通れない状態。けがをするよりはと思って今日のコンサートはあきらめることにした。

 実は、しばらく前からお笑いのDVDを見ている。落語のDVDもここ数カ月で40枚ほど購入して少しずつ見ている。が、それについて書くのはそのうちにして、今日はコントについて書こう。

 私は実は子どものころからお笑いが大好きだ。テレビ初期から落語や漫才が何よりも楽しみだった。1970年代に東京に出てからは、末広亭などの寄席に通ったものだ。テレビのお笑い番組はかなり熱心に見ている。最近では、やはりM1グランプリやTHE MANZAIに出場した人たちが圧倒的に面白い。とりわけ、オードリー、サンドウィッチマン、笑い飯、ノンスタイルが楽しい。

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 そして、以前から好きなグループだったが、最近になって真価を改めて知ったのが、東京03のコント。娘が彼らのファンであり、12本DVDボックスを購入していたので、私も見せてもらううち、その面白さを知った。全12本のDVDに収録されるライブのほとんどすべてに笑い転げる。

 3人はどこにでもありそうな日常の場面を演じる。ちょっとした見栄を張ってしまったり、つい行きがかり上言ってしまって取り返しがつかなくなってしまったりしたことでおこる居心地の悪さ、表面上のことばと心の中の乖離、そのようなものが描かれる。気の小さな小市民が日ごろふと感じる日常的な心持ち。誰でも身に覚えのある気持ち。ところが、それが増幅されて話が時折シュールに展開する。3人の力関係がふとした言葉で変わることもある。日常の出来事に亀裂を入れ、それをさりげなく、知的に、そして都会的に、しかし十分に泥臭く見せてくれる。市井の人々の心の中を描いて笑わせる。

それを成り立たせているのは、角田晃広の魅力的なキャラクターと抜群の演技力、飯塚悟志の普通の人らしい的確な突っ込みとこれまた見事な演技力、そして、豊本明長の不思議なキャラクターだ。チームワークが実にいい。

仕事の合間合間にちょこちょこと見ただけだが、そのうちもう一度すべてを見直して、彼らの笑いの本質についてもう少し考えてみたいと思う。そのくらいの価値がありそう。5月に行われる彼らのライブを見たいと思っている。

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バティアシュヴィリのショスタコーヴィチに興奮

 2月13日、サントリーホールで、アラン・ギルバート指揮、ニューヨーク・フィルの演奏を聴いた。大変見事な演奏。

最初の曲はフィデリオ序曲。機能性抜群の、いかにもアメリカのオケらしい音。弦楽器のほとんどが女性(しかも、アジア系が目立つ)なのに、力感あふれ、びしっとアンサンブルのあった音。しかも、ギルバートの指揮は構成感があり、しなやかでダイナミック。十分にヨーロッパ的な味わいがある。

次の曲は、リサ・バティアシュヴィリのヴァイオリンが加わってのショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番。これは言葉を失うほどの凄まじさ。私は大いに興奮した。音が美しく、しかも繊細。まったく弛緩することなく、完璧な緊張感にあふれている。しかも、ショスタコーヴィチ的な「狂気」が宿っている。単なる美しい音を奏でる美しい女性ではない。人生を知り、苦悩を知った人間が人生への思いをヴァイオリンの音に載せて語りかける。そして、興奮し、高揚していく。それを完璧なテクニックで行う。

 アンコールにバッハの無伴奏ソナタ第2番のアンダンテ。深く沈潜した音で何げなく始まるが。徐々に内面的に高揚していく。その研ぎ澄まされ、しかも抑制した高揚が素晴らしい。

 後半はベートーヴェンの交響曲第1番とガーシュインの「パリのアメリカ人」。実に見事な演奏。第1番をなぜ演奏曲に選んだのか、これを聴くとよくわかる。しっかりとベートーヴェンらしさを出し、その魅力を存分に伝える。スケールの大きな、まぎれもないベートーヴェンの交響曲として演奏された。「パリのアメリカ人」も、豪華で明るい音。まさにアメリカ。

 ただ、バティアシュヴィリの加わらない曲に関しては、私は実は少し違和感を覚えた。やはり、私の好きなベートーヴェンではない。アメリカのオケを聴くとどうしても思ってしまうが、私の最も愛する肝心なもの、「神聖さ」と呼ぶべきものが感じられない。どうしても、軽い音楽に聞こえてくる。

 ところで、ちょっと異様に思ったのは、私がホールについた演奏会の始まる20分ほど前にはほとんどすべてのメンバーがステージ上の席にいて、思い思いに練習をしていた。そして、そのまま本番に移行した。ほかのオケのように、直前になってステージに登場するのではない。このような光景は初めて見た。大教室で学生たちが大声で私語を交わし、そのうちチャイムが鳴って先生が登場し、授業が始まる…それと同じような雰囲気。

休憩中も、曲と曲の間も、メンバーは思い思いに楽器をかき鳴らす。あるいは、大声で近くの人と話している。そして、指揮者がタクトを振りだしたとたんに音楽を演奏し始める。

後半、ヴィオラの二人の女性奏者は演奏の始まる直前まで大声で話をしていた。険しい顔で話していたので、何か口論していたのかもしれない。演奏が終わったとたんにまた話し始め、次の曲の始まりまで話を続ける。そして、また曲が終わると、その途端に話し始める。その二人は極端だったが、ほかのメンバーも、指揮者がタクトを振り下ろす直前までおしゃべりをしていて、指揮者が降っている時だけ音楽を演奏する。

気のせいかもしれないが、そこにこのメンバーの音楽性のようなものを感じてしまう。音楽がビジネス的で、そこに神聖さが感じられない。神聖な音楽を演奏しているという意識が希薄だ。聞こえてくる音楽も、確かに実によくできているのだが、神聖さを感じない。私としては、ベートーヴェンの中に神聖さを求めているのだが、それがない。

アンコールは2曲。アラン・ギルバートが日本語で紹介。メノッティの曲だと言って説明があったが、曲名は忘れた。もう1曲はシューベルトの「ロザムンデ」から。これらについても同じ印象を持った。

ともあれ、初めてなまのバティアシュヴィリを聴けただけで最高に満足。

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都知事選の結果について、そして、ワイダ監督「菖蒲」のこと

 都知事選が終わった。結果について、私はとても残念に思っている。これによって、東京都民は、原子力発電所の再稼働にゴーサインを出してしまった。そのつもりはなかったのだろうが、そうみなされ、その方向に進むだろう。

今回の都知事選は、将来的に原発を廃棄する最後のチャンスだった。ここで即時停止を選択してこそ、将来的に廃止になったはずだ。それをしないと、なし崩し的に再稼働され、また同じことが繰り返される。

大震災後のあの反原発の盛り上がりは一体何だったのか・・・。そして、田母神候補があれほどの票を取ったことにも、非常な危険を感じる。ますます右傾化すると、大変なことになるのではないかと危惧する。

このブログにはできるだけ政治的な話も仕事の話も書かないつもりなのだが、今回ばかりは少しだけ書くことにした。

建国記念日の今日は一日骨休みをした。これまで仕事と遊びに忙しい毎日だった。今日は一歩も外に出ないで、CDを聴き、DVDを観た。

その中の一つ、アンジェイ・ワイダ監督の映画「菖蒲」の感想を書くことにする。

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 ワイダは大好きな映画監督だ。「灰とダイヤモンド」「地下水道」「夜のおわりに」「カチンの森」はいずれも映画史に燦然と輝く大傑作だと思う。ほかに「白樺の林」「約束の土地」「ヴィルコの娘たち」「聖週間」なども大好きだ。そんなわけで、今回、DVDを購入して、「菖蒲」を見た。これまで見て大好きだった映画に匹敵する。

 重病のために死を前にした初老の女性と若者の交流を描くヤロスワフ・イヴァシュキェヴィチ(「尼僧ヨアンナ」の原作者)の短編小説をもとにした映画を中心に、その映画を撮影しようとする映画チーム(ワイダ監督が出演)と、夫を亡くしたばかりの主演女優クリスティナ・ヤンダの独白からなっている。

 菖蒲は濃厚な香りがすると同時に、泥にまみれた死の臭いがするという。それが題名の由来のようだ。

 舞台は1960年前後のポーランドの小さな村。医師の妻である女主人公は、体調がすぐれない。死が間近であることが夫の診察でわかるが、本人はまだ知らずにいる。そんなときに、村の青年にひかれ、近づく。その若い肉体にひかれ、同時におそらくかつてワルシャワ蜂起で亡くした息子たちと重ね合わせているのだろう。男のほうもヒロインと親しくするのを嫌わない。二人で川に泳ぎに行き、飾りにする菖蒲を青年がとるうち、青年が溺れる。ヒロインは助けようとするが間に合わない。

 その物語が美しい川の風景とともに情緒豊かに展開される。そこに、ヒロインを演じるヤンダ(これがあの、「大理石の男」の颯爽としたヒロインなのかとちょっと驚いた!)が亡くしたばかりの夫(ワイダの親しい映画仲間でもあったカメラマン)について語るモノローグが重なり、映画撮影中のヤンダの行動が映される。

 死を前にした老齢の女性が輝くような若い生命に惹かれるが、その若い生命も川によって死を迎える。死という避けようのない宿命。ありふれたテーマだが、それが淡々と身に迫ってくる。そのテーマが、演じられるドラマだけでなく、演じている女優の側からも語られることになる。生と死、現在と過去、現実と虚構が入り混じって、すべてが死を語る。

 村の風景、川の情景が素晴らしい。淡々として、誇張がなく、しっとりとしてリアル。これだけで詩の世界を生きることができる。

 これを見ながら、私が思ったことがもう一つある。私は、故郷である大分県日田市の昔の風景と重ね合わせてみていた。1960年代に60歳前後に見える主人公たちは私の祖父母の世代に設定されているのだろう。東洋と西洋なので、風景はかなり異なる。人々の容貌も服装も異なる。だが、私が子どものころの田舎の川辺の様子を思い出した。三隈川(みくまがわ)やその支流の風景を思い出した。当時の祖父母たちの心の中も見える気がした。

 当時の私には、大変な年寄りに見えていた祖母は確か62歳で胃がんで死んだ。私はすでにその年齢になっている。子どもだったので、祖母の女性としての心の中など考えてもみなかった。この映画を見て、突然、50年以上前に死んだ祖母が一人の女性として私の頭の中によみがえった。

 

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東響+飯森「カルミナ・ブラーナ」の素晴らしい演奏

2月9日、ところどころに大雪が残る中、サントリーホールに出かけて、飯森範親の指揮による東京交響楽団の定期演奏会を聴いた。前半にモーツァルトの「フィガロの結婚」と交響曲第38番「プラハ」、後半はオルフの「カルミナ・ブラーナ」。

 前半のモーツァルトについては、私には「カルミナ・ブラーナ」のための準備運動のようなものにしか聞こえなかった。ちょっと退屈した。で、問題の「カルミナ・ブラーナ」。

 飯森の指揮は、力感にあふれ、壮大でエネルギッシュ。実に切れがいい。しかも、丁寧に音楽を描き、オケを完全にコントロールして小気味いい。東京交響楽団もよくついている。響きが豊かで、重くなりすぎず、とても心地よい。ただ、ちょっと壮大すぎ、気まじめすぎる気がする。劇的要素が強く、運命への祈りや愛の美しさ、人生の豊かさが強調される。居酒屋のおふざけの部分はあまり強調されない。きっと意識的にそのようにしているのだろう。それはそれで説得力がある。

東響コーラスの力感あふれる声が素晴らしい。そしてソリストも日本最高レベル。与那城敬のバリトンは声量も豊か、声も美しく、申し分ない。ただちょっとふざけているところも、NHKのアナウンサーがお笑い番組でふざけようとしているのにまじめさが残っているのと同じような雰囲気が漂う。しかし、それにしても何という美声、そしてなんという風格。まさしく日本を代表する歌手だ。半田美和子のソプラノも清澄で美しい。申し分なし。そして、私の大好きな高橋淳ももちろん最高。高橋さんの伝説的な白鳥の歌が聞けて満足。デフォルメされながらも実に存在感にあふれてリアルさを感じる。ずっと前から聴きたいと思いながら、時間が合わなかった。ほかの人がこのような仕草と歌い回しをすると、どうしても白けてしまうところ、この人に手にかかるとまったく違和感がなくなる。日本人にめずらしい。

最後に「運命の女神」が繰り返されるところになって、不覚にも涙がこみ上げた。素晴らしい演奏だった。

 

実は昨日は自宅に戻らずに、都区内の仕事場に泊った。昨日は新国立劇場中劇場で「ミレイユ」を見たが、そのあと自宅に帰ると、今朝、大雪のためにこれなくなるのではないかと思ったためだ。今日の夕方、サントリーホールから自宅に帰った。都心ではかなり雪が解けていたが、自宅近くは道にもまだ雪が積もったままだ。都心でも28センチの積雪とのことだったが、我が家の庭に置いてごみ入れとして使っている高さ60センチほどのポリバケツが雪に埋まっていた。たまたま雪のたまりやすいところなのかもしれないが、我が家では部分的に積雪が60センチほどあったことになる。改めて大雪だったことを痛感した。

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東京オペラ・プロデュース公演「ミレイユ」、そして佐村河内事件について(その2)

20年に一度という大雪の中、新国立劇場中劇場に行き、東京オペラ・プロデュース公演「ミレイユ」を見た。

 昨年のラ・フォル・ジュルネでコルボ指揮のグノーのレクイエムを聴いて以来、グノーに関心を持っている。しかも、「ミレイユ」はミストラルの小説に基づくオペラ。昔、杉富士雄訳のこの小説を読んで、すがすがしさを感じた記憶がある。プロヴァンスの明るくのどかな自然を舞台にした悲劇は鮮烈だった。ぜひ聴きたいと思っていたら、東京オペラ・プロデュースが上演してくれるので、楽しみにしていた。

 一言で言って、やはりフランスものは難しい。歌手もオケも合唱もみんな健闘している。大変な努力だっただろう。だが、歌手たちの歌は、私の耳にはほとんどがカタカナ・フランス語に聞こえる。歌手によっては、ヴィブラートが強くて言葉らしいものが聴きとれないことも多かった。だから、グノーを聴いている感じがしない。ヴァンサンの高野二郎など素晴らしい美声だと思うのだが、朗々とイタリアオペラのように歌うので、違和感が付きまとう。日本でフランス語のオペラを聴くたびに、この不満を覚える。何とかならないだろうか。

 そんな中、私の耳に自然に聞こえたのは、ヴァンスネットの岩崎由美恵とアンドルルーの北嶋信也だった。フランス語らしい響きがあって安心した。

 オーケストラは東京オペラ・フィルハーモニック、指揮は飯坂純。音を外したり、歌手と合わないところなどもときにあったが、全体的にはとてもよかった。演出は池田理代子。とてもきれいな舞台で、話も分かりやすく見せてくれているが、あまりにありきたりのメロドラマになってしまっているように思った。しかも、ヴァンサンがあまりに女性的で、少女漫画を見ているような気がして仕方がなかった。かつてミストラルの小説を読んで思い浮かべたプロヴァンスの風景や不思議な情緒を十分に表現されていないように思った。

 オペラそのものについても、やはり作品として弱いと言えそうだ。ストーリーも不自然。魔女タヴァンの位置づけがよくわからない。ウーリアスがなぜ死ななければならないのか、そもそもミレイユも最後、なぜ死ぬのか。きれいなメロディはいくつもあるのだが、うまく全体像を結ばない。そもそも、このオペラは何を言いたいのか。よくわからないまま終わってしまった。

 ちょっと欲求不満が残ったが、ともあれグノーの珍しいオペラが見られたことはとてもうれしかった。これからも珍しいオペラの上演を望む。ただ、繰り返すが、フランス語の発音は何とかならないものか・・・

 

 ところで、昨日に続いて、佐村河内ゴーストライター事件について少し書く。

 その後、ネットで佐村河内守問題について検索していたら、一部で「新垣さんの記者会見は売名行為。お金がほしくて言っている。フィギュアスケートの高橋選手のことを考えれば、今告白なんてありえない」という意見があることを知った。

そのように主張する人は、おそらくシビアな世界で暮らして、ご自分が有名になること、お金をもうけること、ビッグになることを何よりも重視しているのだと思う。だからほかの人も同じような野望を持っているのだと思うのだろう。だが、世の中には、そのような野望を持たない人がたくさんいる。とりわけ、クラシック音楽を学ぶ人たちの多くが、そのような人たちだ。

もちろん、そのような人も、かつては大演奏家になりたいとは思っていたのだろう。だが、さすがにそれはすでにあきらめている。だが、自分の技術を磨き、音楽性を高め、少しでもよい音楽を作りたいと思って、日々精進している。子どものころから莫大なお金を使って音楽のレッスンを受け、かなりの才能があったために音大に行き、楽器に途方もない金を使ってきたのに、音大を出ても音楽では食えず、それでも音楽にしがみついている人々。そんな人々が、音楽をこよなく愛し、音楽以外のことは何も知らず、必死に音楽を続けている。

新垣さんはそのような人の一人だ。そんな人が、大それたペテンに加担したことに恐怖を覚えて告白した。それを売名行為とみなすことはできない。

オリンピック前に告白すると高橋選手に申し訳ないというが、それは反対だ。オリンピックで世界レベルにこのペテンが広まる前に何とか食い止めるほうが大事だ。世界に広まると、高橋選手にも傷がつく。恥は日本だけでおさめておいて、世界に広まるのを止めることは、高橋選手にとっても好ましいことだ。それに、フィギュアの音楽の作曲者がどうこうということで、滑りに変わりはなかろう。

私は、新垣さんの姿の中に大学非常勤講師の悲哀も感じる。私も長い間、大学の非常勤講師として安い時間給で暮らしてきたが、新垣さんもその一人らしい。もしかしたら、家庭が裕福であって経済的には困っていないのかもしれないが、もし桐朋学園大学の非常勤の1コマだけしかないとすると、年収は50万円にも満たないのではないか。繰り返すが、子供のころから大変な才能に恵まれ、莫大な投資をして音大に入り、音楽家になった結果がそのような収入の状況なのだ。そのような人が、生活のために音楽アシスタントをしたとしても当然のことだろう。気が弱いために、そして、貧しくてお金が必要なために、とんでもないことに巻き込まれて何も言えなくなったとしても、同情の余地はある。

 新垣さんは、きっと佐村河内守のゴーストとして、全聾の作曲家を「演じた」がために優れた交響曲を作曲できた。ともあれ、新垣さんは交響曲作曲のコツを見つけたのではないか。昨日書いたことだが、繰り返す。私は新垣さんにぜひ自分の名前で交響曲を作曲してほしい。ここでつぶされずに、もっと名曲を書いてほしい。それが、この事件に巻き込まれた人に対して、新垣さんが行うべき最大の自己弁明だと思う。

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佐村河内守ゴーストライター事件について思ったこと

 昨日(2月6日)、ずっと家にいた。基本的には原稿を書いていたが、夕方はテレビで佐村河内ゴーストライター事件にかかわる新垣隆さんのインタビューを見た。

 私は、発売直後に交響曲第1番のCDを購入した。私のブログにこのCDを紹介するコメントをくれた人がいたので、好奇心を抱いて聴いてみた。正直に言って、退屈なところもあった。過去の大作曲家たちの語法のつぎはぎだと思った。が、同時に現代日本の交響曲としては見事な出来だとも思った。ところどころ感動的なところがあった。現代の日本人でも交響曲を作れるんだ! と思った。吉松隆さんよりも良いとは思わないが、吉松さんに匹敵する曲だと思った。その後、どんどんと有名になり、知り合いで何人もがコンサートで感動したというので、私も生で聴いてみたいと思ってチケットを購入していた。

 その私がインタビューを見て頭に浮かんだことを、ともあれ書いてみる。

・ゴーストライターだったことを告白した新垣さんの語っていることはほぼ百パーセント信じてよいと思う。きっと新垣さんは、お金にはそれほどの執着がなく、ただ音楽を愛し、俗世間とかけ離れて一人静かに音楽を作るのを無上の喜びとしている人なのだろう。ただそこそこお金を稼がないわけにはいかないので、仕事をあてがわれて、それを不満に思うこともなく、コツコツと音楽を作り続けていた。ゲーム音楽を作るときには、きっとこのようにして作るのだろう。そのつもりで作っていた。ところが、だんだんと話が大きくなって佐村河内守が「現代のベートーヴェン」といわれるようになり、オリンピックでも使われるようになって、恐怖を感じるようになった。そのような新垣さんの話は偽りはないだろう。売名行為などではないだろう。もらった金に対する不満で自己主張をしているのでもないだろう。

・新垣さんに対しては、私は大いに共感する。この人の気持ちはよくわかる。だが、私は新垣さんをあまりに情けないと思う。あまりに世間知らずであり、あまりに生真面目であるところが情けない。もっと強く主張する必要があった。おとなしく人のいいなりになるべきではなかった。

・佐村河内については、初めは軽い気持ちで「全聾の作曲家」を演じていたのだろう。きっと彼は、ちょっとだけ音楽が好きな人であって、作曲の知識や素養もなく、ピアノも弾けないのだろう。そもそも佐村河内という名前も本名ではないのかもしれない。すべて嘘で固められているのだろう。安易な悲劇の作曲家のストーリーを思いつき、それを自分で演じただけだった。だが、思いのほか、それを信じる人が増え、だんだんと話が大きくなり、引っ込みがつかなくなった。それに伴いどんどん図に乗っていった。そこで、新垣さんは恐怖に駆られたのだが、佐村河内は演じることで全能感を覚えるようになった。

・全聾で、しかも目が悪く、そのうえ変人・・・というのは、ベートーヴェンのマネであり、悲劇の人を作りだすということ以上に、人前で音楽に対する無知を晒さないための仕掛けであっただろう。このような状態であれば、人前で楽器を演奏する必要もなく、曲についての批評をしなくて済み、作曲しているところを人に見せなくてよい。何を求められても常に逃げることができる。しかも、障害のある人間ということにしておけば、たとえ怪しまれたところで、追い詰められたりしない。

・実は私は、佐村河内に会ったことのある演奏家たちから「どうも耳は聞こえるようだ」という噂を聞いていた。佐村河内に会った多くの人がそう思っていたようだ。テレビのインタビューを見ていても、まったく耳が不自由だとは思えない。健常者のしゃべり方だし、そもそも質問にふつうに答えている。おそらく演奏家たちやメディア関係者のかなりが、そのような疑いを抱いていただろう。しかし、「全聾の作曲家」として有名な人であり、しかもそのブームに乗って演奏会が開かれ、メディアが騒いでいる。気付いた人々もその流れに加担している。だから、うすうすわかっていながら、あえて声を上げることはなかったのだろう。小さな声で仲間どうしで「怪しいね」というにとどめていた。とはいえ、それらの人たちも「耳は聞こえるのに聞こえないふりをして、自分を売り出そうとしている」とは思っていたのだろうが、まさか他の人が作っているとは思っていなかったと思う。

・音楽、とりわけ言葉のない純音楽には、作曲家の物語がまとわりつくものであることを改めて思った。健常者の作った曲だとしたら、おそらくこれほどの感動を呼びはしなかっただろう。感動した人がたくさんいたということは、そのことを示している。多くの人がクラシック音楽に物語を求めている。

・どうも現代の作曲というのは、私たちが思っているような、一人の人間が最初から最後まですべてを作るのとは違うようだ。漫画家がアシスタントを使っていることはよく知らているが、工房のような形で作られているのかもしれない。とりわけ、ポップスやゲームの音楽がそうなのだろう。それが芸術音楽の分野にも入り込んでいる。その曖昧さが今回の事件の発端にある。

・もちろん、このような工房を作って分業するというのは、音楽が商品として売り出されているということだ。芸術音楽に関してはこのようなことはないと思っていたのだが、佐村河内という人物は、芸術音楽にまとわりつく悲劇のストーリーを作り上げ、それを自分で演じることによって完璧な商品にしてしまった。

・佐村河内が新垣さんに最初に示したというプラン図のようなもので「作曲」と言えるのなら、私もあのようなプランを示して「作曲」したいものだと思った。私のほうがたぶん佐村河内よりもたくさんの曲を聴いているだろう。あのくらいのプラン図なら書ける。だれか有能でおとなしく生真面目な作曲家を見つけて、一緒に組んで作曲してみたいものだ。

・交響曲というジャンルについても考えさせられた。おそらく新垣さんは自分自身の曲ではなく、佐村河内という架空の人間のフィクションとしての曲であるから、壮大な交響曲を作曲できたのだろう。自分の曲としてであれば、このような曲にならなかっただろう。言い換えれば、現代における交響曲はフィクションとしてしか成り立たないということかもしれない。神聖で悲劇的で激しい自我の葛藤を持った人間というフィクションと交響曲は切っても切り離せない。大きな物語をなくして社会の中の小さな個人を意識せざるを得ない現代人には交響曲を作るのは難しい。

・私としては、せっかくの才能を生かして、新垣さんにこれから本当の自分の曲を作曲してほしい。今回の事件では、道義的な責任はあるにしても、法的な責任はないだろう。今回の事件による苦悩と、それなりの社会への認知は決して彼の音楽を大成させるのにマイナスにはならないと思う。ただ、今のような小心者であれば、それはできないかもしれないが、もっと図太くなってぜひ自分の音楽を書いてほしい。ぜひ、新しい交響曲を書いてほしい。

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「ときめきのクラシック」発売 そして佐村河内守事件

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拙著『ときめきのクラシック「成熟と若さ」は音楽からの贈り物』(幻冬舎)が発売になった。クラシック音楽を聴くと、成熟すると同時に若さを保つことができる…ということを書いたクラシック音楽入門書。

クラシック音楽に効用はいらない。何の役に立つ必要もない。それ自体で至高の存在だ。だが、効用があることも間違いない。そして、効用を目指して聞いてくれる人がいてもいい。そう思ってこの本を書いた。私は成熟したのは間違いなくクラシック音楽のおかげだし、私がそれなりに若さを保っているのも、クラシック音楽を聴き続けているおかげだと思う。本書では、成熟をもたらす曲、若さを満喫できる曲などを紹介している。

 なお、この本は今年のラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンの公式本であって、この音楽祭についての説明、ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンに出演した演奏家たちについてもかなりのページを費やしている。

 繰り返すが、もちろんこれはあくまでも初心者向けの本だ。できるだけわかりやすく、クラシック音楽の魅力が伝わるように工夫したつもりだ。ラ・フォル・ジュルネに関心のある方、クラシック音楽をこれから聞いてみたいと思っている方には是非読んでいただきたい。

なお、先ごろ、TOKYO FMの番組SymphoniaJFNの番組「学問ノススメ」の収録も行った。いずれも、この本とラ・フォル・ジュルネを紹介するためにゲスト出演する。いずれの収録も、話し上手で魅力的なパーソナリティと楽しく話ができた。

 

ところで、今日、クラシック音楽ファンに衝撃のニュースが飛び込んだ。先ごろから大きな話題になっていた作曲家・佐村河内守氏の作曲とされてきた曲の多くが、別の人の作曲したものだったという。以前、交響曲第1番のCDを購入。特に感動したわけではなかったが、なかなか良い曲だと思った。これほど注目を浴びているからには、一度ナマを聞いておこうと思って、神奈川フィルによる交響曲第1番と室内楽のコンサートのチケットを購入したところだった。どうやら公演は中止になるらしい。どのような事情なのかはわからないが、このようなことが起こるなんて大変残念。

 

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野村胡堂賞受賞パーティのこと。そして最近見たオペラ映像「サンドリヨン」「フィエラブラス」「影のない女」

 それなりに忙しい毎日を送っている。授業は終わったのだが、入試監督や入試にかかわる業務、そして様々な会議のために大学に出ることが多い。

 書く機会がなかったが、1月31日の夕方、浅草ビューホテルで行われた第1回野村胡堂賞受賞パーティに出席した。記念すべき大回の受賞者は小中陽太郎さんの「翔べよ源内」。平賀源内を主人公にした小説だ。現代の視点から自由で脱領域的な源内の生きざまを生き生きと描いている。現代の平賀源内というべき小中さんらしい傑作だ。私もこの本を読んですぐにこのブログに感想を書いた。

 野村胡堂はいうまでもなく銭形平次の作者。しかも、私たちクラシック音楽ファンにとっては、最初のクラシック音楽評論家「あらえびす」でもある。そのためもあり、また小中さんの人脈の広さもあり、会場に来ていた人も、テレビで見かける有名人がたくさんおられた。有名文筆家も勢ぞろい。私は末席で小さくなっていた。小中さんのほか、何人かの文筆家と話をした。ただ、実はその日、朝からずっと仕事だったので、かなり疲労。しかも、立食パーティだったので、腰痛に悩む私としては途中でつらくなって退席した。

 昨日(2月3日)は、多摩大学の一般入試Ⅰ期。現場責任者として大学で待機し、その間も会議を行っていた。

 

 そうこうしながら、この数日、オペラのDVDを何枚か見た。感想を書きつけておく。

 

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マスネ「サンドリヨン」 ベルトラン・ド・ビリー指揮 ロイヤルオペラハウス

 

 マスネの作った「シンデレラ」のオペラ。見るのも聴くのも初めて。とてもおもしろかった。実にすばらしい映像。まず曲がおもしろい。オペラ・ブッファ的な作りで、ユーモアにあふれる。が、その中にマスネ特有の繊細で優雅な音楽がこぼれだす。

 やはり何と言ってもサンドリヨン役のジョイス・ディドナートが溌剌としながらも女性的で最高にすばらしい。強い声でありながら繊細に歌うので、聴く者の心をとらえる。高い声も低めの声も美しい。王子役(といってもメゾの女性が歌う)のアリス・クートもまったく引けを取らない。強い声で男役にぴったり。2011年のバイエルン国立歌劇場の来日公演「ナクソス島のアリアドネ」で作曲家をうたった歌手のようだ。とても良い歌手だと思った記憶がある。ほかの歌手たちもそろっている。父親のジャン・フィリップ・ラフォン、エヴァ・ポドレスも最高の歌と演技。

 そして、ローラン・ペリーの演出が最高にさえている。漫画仕立てといった雰囲気で、コミカルな踊りをたくさんとりいれて、実に楽しい。しかも、まったく音楽を邪魔しないし、しかも斬新。

 第三幕のサンドリヨンと王子と魔女(魔法使いではなく魔女の魔法でサンドリヨンは助けられる)の女性三人の愛の三重唱は「ばらの騎士」を思わせる。この場面がこれまであまり取り上げられなかったのが不思議だ。

それにしても、このオペラ、登場人物のほとんどが女性。聞こえてくる声は女性の声ばかり。その意味でもとてもおもしろい。

 

 

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シューベルト「フィエラブラス」 フランツ・指揮、チューリヒ歌劇場

 シューベルトのオペラは実演も見たことがあり、CDも何枚か持っているが、実はあまりおもしろいと思ったことがない。とても奇麗なメロディが続くのだが、盛り上がりに欠け、人物の描きわけが曖昧でドラマとしての醍醐味に欠ける気がしていた。この「フィエラブラス」についても、そのようなこれまでの印象を覆すには至らなかった。

 歌手はそろっている。フィエラブラスはヨナス・カウフマン。とはいえ、題名役なのに、それほど登場しない。カール王のラーズロ・ポルガール、エマのユリアーネ・バンゼ、ロランドのミヒャエル・フォレ、エギンハルトのクリストフ・シュトレール、ボラントのギュンター・グロイスベックともに最高の歌唱だが、なぜかドラマに引き込まれない。

演出はクラウス・グート。私の好きな演出家なのだが、今回についてはちょっとやりすぎではないか。シューベルトらしい人物が登場し、黒子のように舞台上で行動する。フィエラブラス、ロランド、エギンハルトの3人もシューベルト同じ服装をしている。舞台になっているのは、シューベルトの書斎らしく、ピアノや楽譜が見える。おずおずとして引っ込み思案のシューベルトが登場人物を分身にして自分の思いをオペラにしている様子が描かれるということだろう。

前衛的な演出家であるグートに依頼すれば、当然、このような演出になるだろうが、めったに上演されないシューベルトのオペラをこのようにいじくられても、見るほうとしては困ってしまう。私もこのオペラ初めてみる。ほとんどの人がそうだろう。だったら、もう少しオーソドックスにストーリーがきちんとわかるような演出であってほしい。黙役を続け、さまざまなパントマイムを行うシューベルトがかなり鬱陶しく感じられた。ウェルザー=メストの作りだす音楽は生き生きとしていてともて奇麗だが、感動的というほどではなかった。

 

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「影のない女」 マルインスキー歌劇場 ヴァレリー・ゲルギエフ指揮

 2011年のマルインスキー歌劇場来日公演で一度見たプロダクションだが、そのことはすっかり忘れており、「おや、こんなBDが発売されてるんだ!」と思って購入した。が、私がこれまでなじんできたシュトラウスと雰囲気の異なる演奏を聴きながら、この感覚はどこかで味わった記憶があると思い当たった。バラクの妻の登場に及んでやっとこの演出でこのオペラを見たことを思い出した。いやはや、忙しい日々を送っているとはいえ、こんなに物忘れがひどくなるなんて!

ゲルギエフのワーグナーやシュトラウスはかなり独特だ。ロシア人であるためかもしれないが、リズムや楽器のアクセントの置き方が私のなじんできたものと明らかに違う。もちろん、それなりにとても精妙で力感にあふれている。好きな人も多いだろう。が、やはり私はティーレマンのほうが好きだなと思った。

歌手たちはそろっている。エデム・ウメーロフのバラクとオリガ・セルゲーエワのバラクの妻に特にひかれた。皇后を歌うムラーダ・フドレイと乳母のオリガ・サヴォーワもなかなかいい。ジョナサン・ケントの演出もおもしろい。宮廷の世界を歌舞伎風の東洋世界にし(かつてのバイエルン国立歌劇場の市川猿之助演出の影響か?)、バラクの世界を現代に話を移しているのも、それほどの違和感はない。ただ、新しい解釈があるわけではなさそう。

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サダヴニコヴァのソプラノに興奮

2月2日、武蔵野市民文化会館小ホールでロシア人歌手エカテリーナ・サダヴニコヴァのソプラノ・リサイタルを聴いた。あまりの素晴らしさにまだ興奮している。

 前半はリヒャルト・シュトラウスとラフマニノフの歌曲。最初の曲であるリヒャルト・シュトラウスの「夜」でまずびっくり。柔らかくてしなやかで、最高に美しい声が完璧にコントロールされて響いてくる。しっとりとして奥が深い。情感にあふれ、歌心にあふれている。観客をひきつける力を持っている。うっとりと聴きほれた。

 容姿もすばらしい。大変な美人で、まだかなり若い。落ち着いてしっとりとした雰囲気。ピアノ伴奏は斎藤雅広。実に見事な伴奏。

シュトラウスの「献呈」では、華やかで明るくてはちきれるような表現も聴かせてくれた。「あしたに」はまたしっとりと囁くように。表現力もすばらしい。そのあとは、ラフマニノフの歌曲を6曲。いずれも、ロマンティックでふくよかな香りにあふれている。高温がとりわけ美しい。大きな声になると最高に美しい声が響き渡る。こんなに美しい声をこれまで聞いたことがあっただろうか。そう思わせるほどの美声。

 後半はオペラ・アリア。

最初は「魔笛」のパミーナのアリア。悲しみをしっとりと歌い上げる。ベッリーニの「カプレーティ家とモンテッキ家」のジュリエッタのアリアと「清教徒」の狂乱の場のアリアは凛として気高く美しい。せつない気持ちが伝わってくる。言葉の一つ一つに表情がある。次に「椿姫」から、まず「さらば、過ぎし日よ」。あまりの悲しさに涙が出てきた。まさしく、死を前にしたヴィオレッタの思いのたけを歌い上げる。最後に「ああ、そは彼の人か。花より花へ」。これはもう絶品としか言いようがない。最高に美しい声がホール内にビンビンと響く。しかも、ドラマティックに盛り上がる。

アンコールもすばらしかった。ジャンニ・スキッキのアリアとアリャヴビエフの「ナイチンゲール」。実を言うとせっかく前半はラフマニノフがたくさん選ばれていたので、「ヴォカリーズ」を歌ってくれるのではないかと期待したが、「ナイチンゲール」だった。もちろん、これもすばらしい。コロラトゥーラの声が広がった。

これまで武蔵野市民文化会館で、未知の素晴らしい歌手に出会ってきた。まだ無名だったころのニールンドを初めて聞いて驚嘆したのもここだった。今日のエカテリーナ・サダヴニコヴァの歌はそれに勝る。こんな素晴らしい歌を聴いたのは久しぶりだ。ネトレプコなどの世界最高の歌手たちにまったく劣らないだろう。近い距離で聴けただけ、ネトレプコを聴いたとき以上に心打たれた。

こんな歌手が一般には知られずにいたなんて。それを聴かせてくれた武蔵野市民文化会館に感謝。

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