« 2014年2月 | トップページ | 2014年4月 »

エリシュカ指揮、音楽大学フェスティバルオーケストラのすごさのことなど

 昨日(3月29日)、ミューザ川﨑でラドミル・エリシュカ指揮による音楽大学フェスティバルオーケストラの演奏を聴いた。学生オケによる演奏だが、プロの演奏家にまったく引けを取らない。正真正銘の名演奏だった。

 前半はスメタナの「わが祖国」から「高い城」「モルダウ」「シャルカ」の3作。後半にドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」。ともに名演。

 もちろん、私の目当ては名指揮者エリシュカ。札幌交響楽団での名演の噂を聞いて初めて東京での演奏を聴いたのが2010年。その素晴らしさに驚嘆した。その後、何度か実演、録音を聴いたが、いずれにも圧倒された。

 まず音に独特の表情がある。しなやかで厚みがあり、深みがある。私はワイエスの描く農具の絵を連想する。生活に根付き、命が宿っている。そして、その音で、少しも誇張なく、しかししっかりとした情緒を伴って音楽が展開していく。音の重ね方も実に美しく理にかなっている。謙虚で堅実で温かく、しかも内面の激しさを備えている。

 オーケストラも実にすばらしい。エリシュカの求める音をしっかりと出している。とりわけ弦のしなやかな厚みに驚いた。もちろん、クラリネットやオーボエ、フルート、そしてイングリッシュホルンの音の抒情にも圧倒された。

 世界の若者を集めたグスタフ・マーラー・ユーゲント・オーケストラのすさまじさ(ベルリン・フィルにも勝ると思った!)を知っている私は、日本の音大生のエリート集団であるこのオーケストラも素晴らしいに違いないと思っていたが、予想通りのすごさ。グスタフ・マーラー・ユーゲント・オーケストラのように、この音大生選抜のオーケストラを常設化して、エリシュカのような指揮者に振ってもらったら、どんなに大きな活躍の場が広がることだろう。そんなことを夢想した。

 ところで、音大生の身内の人が多かったのか、演奏中、プログラムをガサガサさせる人がとても多くて閉口した。完全に静まることがなかったのではないかと思えるほど。私の隣に座った高齢の女性二人組は演奏中にチラシを見たり、それを下に落としたり、バッグに入れたり。できるだけ寛大でいたいと思っている私もさすがに耐えかねて、「新世界」の第二楽章で、口頭で注意をした。不満そうに私の顔を見ていたが、ともあれ静かになった。

 終了後、友人のS氏(大学院時代からの付き合い。広告・出版業界で活躍し、私の本の編集をしてくれたこともある)とともに、そのまま仙川に移動。仙川駅付近のプラザ・ギャラリーで開かれる「春のトーク&レコード・コンサート 野村あらえびすコレクションからドイツの名唱を聴く」に出席した。

 野村あらえびすというのは、クラシック音楽好きにはなじみ深いが、「銭形平次」の原作者、野村胡堂のもう一つのペンネーム。日本最初の音楽評論家と言って間違いない。膨大なレコードのコレクションを残したが、その一部が最近CDで復刻された。それを聞きながら、野村胡堂研究家でもあるエッセイストの太田愛人さん、ドイツ文学者の高辻知義さん、コーディネーターとして 小中陽太郎さんが主体となって話を進めるという会だ。

 ロッテ・レーマンなどの歌手たちの歌、とりわけワーグナーの中のアリアやシューベルトの歌曲を聞いた。とてもよい音で復刻されている。

 野村胡堂の奥の深さ、その周囲に集まる人脈について、太田さんは生き生きと話してくれた。80歳を越しておられるのに、固有名詞にも年代にも詰まることなく、膨大な知識を披露してくれるのに圧倒された。高辻先生は、これまでワーグナーに関してたくさんの著書を読ませていただいて、その博識と見識はよく存じ上げている。今回もいろいろと教えてもらえた。

 小中さんに勧められての出席だったが、突然、小中さんに振られて、前に出て再生するCDの曲名や演奏家名を読み上げるように指示された。しかも、「ワーグナーにとって大事なのは音楽か文学か」という「論争」についての発言を求められたりもした。小中さんとお付き合いして数年になるが、何かの会に誘われて何気なく出席すると、突然、何かをさせられたり、発言を求められたりするので、実に困る。が、小中さんのお人柄もあって、それが実に楽しく進んでいく。昨日も楽しく話ができた。その後、ワインを飲みながら歓談。

 とても充実した一日だったが、少々くたびれた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ツァグロゼク+シュトゥットガルト州立歌劇場の「ニーベルングの指輪」DVD感想

 今年度も終わりに近づいた。この2年間、入試委員長の立場にあったため、実に忙しく、実に苦しかった。あと数日で重荷から解放される。4月からは少し羽を伸ばしたいと思っている。

 昨日、やっとスマホを購入。これまで「ガラケー」を使っていた。人前に出して使うのを多少ためらうようになった。ちょっと見栄を張って、スマホを使うことにした。ipadは発売直後から使っているので、一日で使いこなせるようにはなかったが、設定のミスのためか、メールが届かなかったり、送信できなかったり。気の短い私は、不備のある機器をいじって長時間を費やすのを非常に不愉快に感じる。

 そんな中、ともあれ、オペラDVDを見た。感想を書く。

 

 ツァグロゼク指揮、シュトゥットガルト州立歌劇場の「ニーベルングの指輪」DVD。10年ほど前、それぞれ別の演出家が担当しての「リング」4部作ということで話題になっていたものだ。以前、この上演を録音したCDは購入して聴いたが、「読み替え演出」で有名なプロダクションであるだけに映像の購入をためらっていた。数年前にクラシカ・ジャパンで放映されたときに、それほど気合を入れないまま見ただけだった。DVDが安売りされているのを見つけて、先ごろ購入。あらためて見てみた。

 全体的に、演奏についてはレベルが高いと思う。それぞれ原則として別の歌手が演じているが、良い歌手もかなりいる。もちろん中には、このような大きな役を歌うべきでないと思えるような歌手もいないではないが、全体的にはこんなにたくさんヴォータンやらブリュンヒルデやらフリッカやらを歌える歌手がいるのは頼もしい。指揮のツァグロゼクは素晴らしい。知的すぎる演奏だという評を読んだ記憶があるが、そんなことはない。抒情的な部分もあり、ドラマティックな部分もある。ワーグナーらしく流動し、スケール感もある。オーケストラもとてもいい。ただ、やはり演出に関しては、ワーグナーの神秘性や形而上学性を徹底的に排除しようとするという点で、私好みではない。

067 「ラインの黄金」は、ローゲのローベルト・キュンツリとフリッカのミヒャエル・シュースターがとてもいい。シュースターは、いやな女を歌わせると最高の味を出す。ヴォータンのヴォルフガング・プロープスト、アルベリヒのエサ・ルートゥネンもいい。図抜けた歌手はいないが、うまくまとまっている。

演出はヨアヒム・シュレーマー。もちろんすべての登場人物が現代の服を着ている。ライン川は公園の噴水のようなものであらわされ、全幕が館の中庭のようなところで展開される。神々も少しも神々らしくなく、小人も巨人もふつうの人間たち。が、まずはストーリー通りに展開するので、それほど違和感はない。ともあれ、非常に高い完成度。

 

068 「ワルキューレ」 

 ジークリンデのアンゲラ・デノケが素晴らしい。容姿もさることながら、声の張り、表現の幅などが図抜けている。ジークムントのロバート・ギャンビルはやや不安定だが、それが気にならなくなるほどデノケに聴きほれる。フンディングのアッティラ・ユン(サミュエル・ユン、クワンチュル・ユンと並ぶ韓国人バスの一人。それにしても、どうして韓国人の世界的ワーグナー歌手はみんなユンなんだ??)、ヴォータンのヤン=ヘンドリク・ロータリング、ブリュンヒルデのレナーテ・ベーレ、フリッカのティチーナ・ヴォーン、いずれも素晴らしい。

演出はクリストフ・ネル。第三幕はうらぶれた劇場のような場所。ワルキューレたちは、学芸会のような手作り風のくたびれた羽を手にしている。そして、ヴォータンとブリュンヒルデはステージの上と下に分かれてしまい、父と娘の愛を感じながらも直接に触れ合うことがない。ブリュンヒルデだけでなく、ヴォータンもワルキューレたちも神性をはぎ取られている。現代社会の状況を描いているといってよいだろう。ただし、特に演出が音楽の邪魔をするわけではないので、それほど気に障るほどでもない。

 

069_2 「ジークフリート」

音楽的に、「ラインの黄金」や「ワルキューレ」よりもかなり劣るように思う。ジークフリートのジョン・フレドリック・ウェスト、さすらい人のウォルフガング・シェーネ、アルベリヒのビョルン・ワーク、森の鳥のガブリエラ・ヘレラともにあまり好調とは言い難い。とりわけ、シェーネはかなり声が不安定で歌唱が荒い。ミーメのハインツ・ゲーリヒとファフナーのアッティラ・ユン、ブリュンヒルデのリサ・ガステーンは悪くないが、かといって素晴らしいとは言い難い。ただ、オーケストラについてはしなやかでドラマティックで素晴らしい。

ヨシ・ヴィーラーとセルジオ・モラビトの演出については、これまでの2作と同じようなワーグナーの神話性をはぎ取ろうという意図が目立つ。下層の人々の風体をした主人公たちがうらぶれた舞台で動き回る。そして、今回はかなりコミカルな点を強調している。ジークフリートは、「Sieg Fried」と書かれたTシャツを着ているが、英語読みにすると「フライにされたジーク」「揚げジーク」という意味になる。丸々と太ったウェストがこのTシャツを着て動き回るとコミックになってしまうが、それが演出家の意図なのだろう。

第一幕はスラム街にあるようなうらぶれたアパートの室内。第二幕はこれまたスラム街にありそうな鉄条網で囲われた都会の空き地。第三幕は荒れはてたホテルの掃除作業員控室のようなところでの作業員の格好をしたエルダとヴォータンのやり取りで始まり、ブリュンヒルデはホテルの一室で眠っているという設定。ただし、ホテルの一室だけは豪華でこぎれい。そこで、ジークフリートとブリュンヒルデの愛の場面になる。二人とも100キロを超す巨体で、なおかつ枕を奪い合ったり、ベッドに倒れこんだりする。これでもかといわんばかりに漫画的になる。英雄的なジークフリートではなく、漫画的なジークフリート。

ワーグナーから神話性、聖性をはぎ取ろうとしているだけの演出でしかなく、演出の冴えは感じない。演出によって展開されるストーリーは、「下層社会で生きる肥満した無邪気なおじさんが、スラム街の空き地でけんかして気が強くなって、ホテルの高級な部屋で寝ている肥満したおばさんをものにして、とても楽しい気持ちになった」という物語に仕立てただけだ。私にしてみれば、かなり不愉快な読み替え演出でしかない。

 

070_3 「神々の黄昏」

 演出はペーター・コンヴィチュニー。実は、私はこの演出家に一度も共感を覚えたことがない。一度、パーティの席で少しだけ通訳を介して話をしたことがあるが、その時も、話に少しも納得できなかった。カタリーナ・ワーグナーやクラウス・グートなどの演出に対しては、私は少しも怒りは覚えない。むしろかなり感動する。だが、ヘルハイムやノイエルフェルスやコンヴィチュニーにはしばしば怒りを覚える。今回の「神々の黄昏」は、アイデアがかなりありふれているだけにさすがに怒りは覚えないが、げんなりしてくるのは間違いない。

 一言でいえば、ジークフリートをドン・キホーテとみなしている。グンターやクートルーネやハーゲンはスーツなどの現代の服をきちんと着こなした知的現代人。ジークフリートは、いかにも頭が悪そうな田舎者で、中世の服を着ている。昔ながらの騎士物語を信じ、空気も読まず、一人で騎士ごっこをしている。ジークフリートの英雄譚は木馬などであらわされるチンケな夢物語でしかない。「ブリュンヒルデの自己犠牲」においては、ト書きが文章で画面に映し出されるだけで、舞台上では何も起こらない。まさに現実ではない、単なる妄想として扱われる。これではワーグナーを茶化しているにすぎない。

 ただし、現代の論理で生きるギービッヒ家に対して、野生のジークフリートという構図はパトリス・シェローの時代からしばしば取り上げられてきた。特にコンヴィチュニーの創意というわけではなかろう。私自身、新たな発見はこの演出からはなかった。

 現代演出についていまさら固いことを言うつもりはないが、やはりこれは聞こえてくる音楽と差がありすぎる。音楽はきわめて英雄的で奥が深いのに、目の前で茶化され、コケにされているのは、かなり違和感がある。

 アルベルト・ボネマのジークフリートが声を張り上げるだけの、いかにも頭の悪そうな歌い方。もしかしたら、演出によってこのような歌い方をしているのかもしれない。そうだとすると、最高度に芸達者ということになるが、私には受け入れられない。音程も良くないし、声も通らない。グンターのヘルナン・イトゥラルデもハーゲンのローラント・ブラハトも不安定。ブリュンヒルデのルアナ・デヴォルはその中ではかなり健闘。そして、ツァグロゼクの指揮、シュツットガルト州立歌劇場の管弦楽団はとても素晴らしい。

 私としてはかなり不満の残る上演だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

シャイー指揮、ゲヴァントハウスのショスタコーヴィチ第5番に興奮

 3月21日、サントリーホールでリッカルド・シャイー指揮、ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏を聴いた。素晴らしかった。

 かつてのゲヴァントハウスの伝統的で少し田舎くさい音とはかなり異なる。もっと透明でもっと切れが良い。シャイーの持ち味というべきだろう、シャープでありながら軽みがあって歌心がある。実にしなやか。そこが、アメリカのオケとは違う。味わいのある美しい音。とりわけ木管楽器の美しさに惚れぼれ。フルートとオーボエが特に耳に残った。

 前半はメンデルスゾーンの「ルイ・ブラス」序曲とヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリンは五嶋みどり。五嶋は、青春の謳歌として演奏されることの多いこの曲を、陰影の深い人生の音楽にして、さまざまなニュアンスを含ませた。そして、ベートーヴェン張りの「苦悩から歓喜へ」というようなストーリーをこの曲に含ませようとしたようだ。第三楽章で明るさが増し、スケールが大きくなる。とても説得力がある。確かに、ユダヤ人として決して幸せではなかったメンデルスゾーンの心象風景は、むしろこのようなものだっただろう。ただ、第三楽章はもう少し弾けてほしかった。ちょっと内面的なまま終わりすぎたように思う。もっとはじけていれば、もっと深い感動を覚えただろう。

五嶋みどりから、昔の凄まじい集中力はなくなったが、もっと深い音楽になってきた感がある。チョン・キョンファと同じような方向を進んでいるのを感じる。

ヴァイオリンのアンコールはバッハの無伴奏ソナタ第2番のフーガ。大喝采だったが、実は私はそれほど強い感銘は受けなかった。どのように音楽を作っているのかよくわからない…という感想を持った。

 後半はショスタコーヴィチの交響曲第5番。きわめて知的で明晰。オケの響きは完璧。豊穣でシャープで歌心にあふれたオケをシャイーは完璧に束ねていく。

初めはかなり抑え気味。最初から活劇風に盛り上げるのではなく、徐々に精神の高揚を描いていく。いかにもショスタコーヴィチらしい盛り上がり方。第一楽章後半の盛り上がりは素晴らしい。第二楽章は、諧謔性を表に出した演奏。ショスタコーヴィチの複雑な精神をえぐりだしている。第三楽章はいかにもマーラー風。第四楽章で爆発する。諧謔と怒りと皮肉がないまぜになり、勝利の歌になる。

このショスタコーヴィチの5番には中学生のころから好きだったが、諧謔にどのような意味があるのか、なんだかよくわからない。だが、それでも大いに感動した。魂が震えた。

 この曲を聞くうち、先ごろから話題になっている佐村河内守の(というか、新垣さんが代作していた)交響曲を思い出した。

 ショスタコーヴィチの交響曲を聞くごとに思うのだが、これらは本気で作られた曲ではないのではないか。ソ連当局による批判をかわす目的だったのかどうかはわからないが、ショスタコーヴィチは交響曲を作る際、明らかに自分の本心を描いていない。本音は室内楽のほうに現れる。交響曲は無意味に大袈裟であったり、あまりに諧謔的であったり、聞く者を馬鹿にしたようなメロディが現れたりする。おそらく、ショスタコーヴィチは、「ソ連の愛国者ショスタコーヴィチ」という仮面をかぶって作曲したのだろう。だが、そうであるがゆえに交響曲を作曲できたのだろう。もし仮面をかぶらなかったら、内省的で、自我の分裂を描くような室内楽曲を作曲するばかりだったのではないか。

 新垣さんも、「佐村河内守」という時代遅れの仮面をかぶったからこそ、交響曲を作曲できたのではないか。現代人は19世紀的な仮面をかぶることなしに交響曲を作曲できないのではないか。現代人が本気に音楽を作ろうとすると、分裂した自分を反映させることしかできない。そのような人間に統一ある宇宙を創りだす交響曲を作ることはできない。統一ある存在の仮面をかぶってこそ、統一ある曲を作ることができる。そういえば、佐村河内作曲とされる交響曲と、このショスタコーヴィチの第5番は雰囲気が似ている。

 とくに音楽学的な裏付けがあるわけでもなく、単に直感でしかないのだが、ショスタコーヴィチの交響曲第5番を聞きながら、そんなことを考えた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「死の都」、外国人歌手の圧倒的な素晴らしさ

 3月18日、新国立劇場でコルンゴルトのオペラ「死の都」を観た。このオペラの実演を見るのは初めて。3人の外国人歌手の力量たるや圧倒的。新国立劇場のこれまでの多くの上演の中でもトップクラスの完成度だと思う。素晴らしかった。

 パウルを歌うのはトルステン・ケール(これまで、このブログでは常にケルルと表記してきたが、今回は劇場のプログラムに合わせて、ケールと表記する)。かなり癖のある声と歌いまわしだが、ヴィブラートが少なく、よく通る声で、実に安定している。体形によるのか、演技もかなり個性的に見えるが、それが実にリアル。幕切れの歌はジーンときた。CDで聞いた「トリスタン」、映像で見た「リエンツィ」、バイロイトで実演を観た「タンホイザー」、いずれも素晴らしい。

マリエッタを歌うミーガン・ミラーもケールに負けない力演。容姿も美しく、声も響き渡り、しかも力感だけでなく色気がある。生気にあふれた肉感的な女性を見事に演じている。マリエッタはこうでなくては! フランクとフリッツの2役を歌ったアントン・ケレミチェフも実に安定した歌唱。声が美しい。最強の外国人歌手3人という感じ。

日本人歌手(山下牧子・平井香織・小野美咲・小原啓楼・糸賀修平)も健闘しているが、やはり3人の外国人勢を前にすると大きな差を感じざるを得ない。

指揮はヤロスラフ・キズリンク。管弦楽は東京交響楽団。素晴らしかった。豊穣で官能的な雰囲気が実によい。厚みのある美しい音が響いた。ただ、このオペラに関して、私はそれほどなじんでいるわけではない。昔、ホルライザー指揮、ジェームス・キングがパウルを歌い、マリエッタをカラン・アームストロングが歌ったLDを何度か見て、とてもおもしろいと思ったが、それからしばらく聴く機会がなかった。だから、演奏についてあまり語る資格はない。演出はカスパー・ホルテン。私としては、もっとお墓じみた部屋を予想していたが、かなり現代的な部屋にして、やや違和感があったが、全体的には十分に楽しめた。

私はフランス文学の出身なので、コルンゴルトより前に、むしろローデンバック(昔、私はフランス語読みをして、ローダンバックを呼んでいた)の原作「死の都ブリュージュ」になじんでいた。学生のころ翻訳書を読み、強い衝撃を受けた。倒錯的で幻想的で世紀末的。死の中を生き、死と生を重ね合わせる主人公の視線に強く共感した。1980年代にヨーロッパ旅行した時ブリュージュに立ち寄った。沈滞した暗い町かと思っていたら、自然も修道院などの建物もこの世のものとも思えないほど美しい町だった。「天国に最も近い都市」だと思ったのを覚えている。相模大野駅近くにあったブルージュというベルギー・フランス料理の店(のちに北里病院近くに移転したが、しばらくして店を閉じた。実においしかった。今もどこかで開いているなら、ぜひまた食べたい!!)のなじみにもなった。もちろん、存在は知っていたが、コルンゴルトのオペラをLDで見たのは、そのあとだった。

コルンゴルトのオペラは、原作とはかなり異なる(原作では、夢オチになっていない!)が、それはそれで原作の雰囲気を十分に伝えている。改めて、オペラとしてのこの作品の魅力を知った。20世紀のオペラとしては間違いなく大傑作といえるだろう。コルンゴルトのヴァイオリン協奏曲や交響曲は最近CDを何枚か聞いて、とてもひかれている。気になりながら、最近発売されたこのオペラの映像をまだ見ていない。さっそく、消費税が上がる前に購入しよう・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

東京室内歌劇場公演「利口な女狐の物語」、ヤナーチェク特有の音に興奮

 3月16日調布市せんがわ劇場で、東京室内歌劇場公演「利口な女狐の物語」を見た。私は日本ヤナーチェク友の会の会員(あ、また会費を払うのを忘れている!!)でもあり、ヤナーチェクのオペラは大好きなので、これを見逃すわけにはいかない。と言いつつ、実はまったく知らずにいたところを、先日、サントリーホールでたまたま出会った友の会のメンバーに聞いて、大慌てでチケットを購入したのだった。短縮版による日本語上演。収容人数が120名ほど。ピアノとヴァイオリンとフルートが一台ずつの伴奏。今週は、毎日、午後と夜の2回、上演を続けてきて、今日は最終日。午後からのAキャストを見た。

 若い歌手たちが中心だが、とてもレベルの高い上演だった。動物たちを演じる子供たちも含めて、歌手たちは演技も歌もみんなみごと。とりわけ、森番の杉野正隆は的確な歌い回しで、味のある歌を聞かせてくれた。女狐ビストロウシュカの中川美和は、ヴィブラートの少ないきれいな声で若々しくて活動的な女狐を聞かせてくれた。ほかのメンバーもそろっている。演出も、おとぎ話性を強調したもので、とても楽しかった。そして、最後の森番の歌の場面は、すべての動物による生命の讃歌という趣が強く、とても感動的。

 指揮は佐藤正浩。ヴァイオリンは鎌田泉、ピアノは松本康子、フルートは遠藤まり。とてもよかった。たった3台の楽器だが、まぎれもないヤナーチェク特有の音楽が鳴り響いた。編曲もうまくいっている。日本語の訳詞も工夫の跡がたくさん見えて、とてもよくできている。言葉の聞き取りにくい個所もあったが、それはやむを得ないだろう。小編成で日本語による短縮版を小劇場で行うというのは、ヤナーチェクのようなオペラをもっとなじみやすくするために、決して悪い試みではない。もっともっとこのようなことをしてほしい。

 ただ、致し方ないとはいえ、やはりヤナーチェクのオペラの台本はよくわからない。チェコでは子供たちがこのオペラを見て楽しんでいるといわれるが、子どもが楽しむのは少し難しいのではあるまいか。大人の私でも、まさしく狐につままれたような気分に陥ってしまう。神父さんや校長先生、そしてテリンカという人物の存在の意味がよくわからない。いくら親しみやすくしても、なぞの部分が大きく残る。そのわかりにくいところがヤナーチェク・オペラの魅力なのだが、子供にも親しまれるようにしてしまうと、その謎の部分が薄れて、魅力も減じてしまう。そこがこのオペラの厄介なところだ。

 ともあれヤナーチェクの音楽の独特の興奮を久しぶりに味わうことができた。もっともっとヤナーチェクにオペラが上演されることを望む。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

山形西高校でのクリティカル・シンキング講演、筑波での見舞い

 3月12日。午前中、大学での仕事を終えて、いったん自宅に戻り、すぐに山形へ。山形西高校での講演のため。

私は雪国とはほとんど縁がない。東北地方には何度か講演などの仕事で訪れたことがあるが、冬は初めてだと思う。新幹線で山形に向いながら、途中、大雪が積もっているのを見て、ちょっとしたカルチャーショックを覚えた。これほどの雪が積もっている場所で日常生活を送っている人がいるということが、九州生まれの私には想像できない。山形市に到着したら、それほどの積雪はなかったので、ちょっと安心した。12日の夜は山形駅付近の郷土料理の店で夕食。薯煮が実にうまい。山形牛のステーキもよかった。

13日、朝の9時前から山形西高校でクリティカル・シンキングについての講演。この高校は阿部和久校長がもともとクリティカル・シンキングの重要性を主張なさっている方であり、私が学研・白藍塾とともに開発した「クリティカル・シンキング」の教材を知って、取り入れてくださった。そこで、高校2年生対象にこの教材の意義を説明し、その練習のための講演を行うことになったのだった。

クリティカル・シンキング、すなわち「うのみにしないで、ものごとを自分で問題を発見し、分析し、解決策を考え、それを発信し、反対者と議論する思考法」がこれからの社会いかに大事であるかを話し、私たちの作った教材を高校2年生に解いてもらい、簡単な授業を行った。

素晴らしい生徒さんだった。まじめでしっかりしていて、私たちの問題にきわめて的確に答えてくれた。模範解答として私が用意していた理想的な答えが生徒に口から語られることも何度かあった。私はこの教材を、何よりもゲーム感覚で楽しみながら解いているうちに力がつくことをめざしているが、この生徒さんたちは、とても楽しそうに積極的に問題を解いてくれた。私もおかげでとても楽しく講演ができた。クリティカル・シンキングとは何か、それがいかに重要かについて、生徒さんたち、そして先生方に十分にわかっていただけたと思う。

講演後、阿部校長と談笑。校長にユニークで画期的な指導について話を伺った。クレイティ刈新器具の重要性についても意見交換。この校長にしてこの素晴らしい学校、この素晴らしい生徒たちありだと強く思った。昼食は阿部校長に連れられて、学研のY氏とともに蕎麦屋に行って、盛り天そばを食した。そば本来の素朴な味もさることながら、そのあまりに量の多さに驚嘆。

講演後、雨の中を市内を少しだけ見物して、東京に戻った。

明けて14日は妻と娘とともに筑波市にあるつくば記念病院に義父を見舞った。救急車で運ばれ、集中治療室にかつぎこまれ、一時、深刻な状態だった聞いていたが、今ではかなり回復して、顔色もよく、昼食も全部たいらげる元気さ。安心した。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

バッハ・コレギウム・ジャパンのヨハネ受難曲の祈りの心

 3月9日、ミューザ川﨑シンフォニーホールで、バッハ・コレギウム・ジャパンによるヨハネ受難曲を聴いた。指揮は鈴木雅明。このメンバーによるヨハネ受難曲は2009年のラ・フォル・ジュルネで聴いた記憶がある。実に見事な演奏。日本人がこれだけのバッハを演奏できることに世界は間違いなく驚いているだろう。

 鈴木雅明の指揮は、きびきびとしていながら信仰心にあふれ、まさに崇高。オーケストラと合唱もよくついている。ソリストでは、エヴァンゲリストのゲルト・テュルクと、ソプラノのジョアン・アンが素晴らしい。とりわけジョアン・アンは、輝かしく強い声で、合唱をうたっていても一人アンの声が美しく響く。イエスの浦野智行、テノールの水越啓も外国陣に少しも劣っていなかった。

 ただ、客が満員というわけではなかったせいか、圧倒的感動とまではいかなかった。とても高水準の演奏だし、十分に心を動かされた。しばし「祈りの世界に」に浸れた。だが、ところどころ緊張感が薄れるところを感じた。

 数日前から家庭の事情で落ち着いて仕事ができない状態にいる。本来なら、今日もコンサートに行っている場合ではない。が、バッハの祈りの世界の少し浸りたいと思った。

 ところで、一つ我が家のニュースがある。

 ひと月ほど前、あるレストランの狭い駐車場に車を入れようとして、側面をかなり派手に壁にぶつけてしまった。修理に出したら、ディーラーに買い替えを勧められた。まんまと乗せられた形だが、確かにむざむざと修理に無駄なお金を出すよりも、買い替えるほうが生産的だと思った。ただし、これまでハイブリットのサイに乗っており、ディーラーからはランクアップを勧められたが、私としては大きめの車はもうこりごり。実を言うと私は、とくに車が好きというわけでもなく、器用でもなく運動神経も良いほうではないので、かなり運転が下手だ。いっそのことアクアにしようかと思ったが、ここはプリウスで手を打つことにした。そして、一昨日、めでたくプリウスが我が家にやってきた。

 ただし、またこすったりぶつけたりするのではないかとひやひやしながら運転している。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

佐村河内守氏の会見のことなど

 昨日(3月7日)、テレビを見ている余裕がなかったので、録画して夜中に帰宅してから、佐村河内守氏の会見の様子を見た。話が音楽以外のところに行っている感じなので、もはや私の関心外なのだが、これまで何度かこの問題についてこのブログで触れてきたので、簡単に感想を書く。

 まず、容姿の変わりようにびっくり。佐村河内氏がどうこうという以上に、髪型やひげやサングラスでこれほどまでに人の印象が変わるということ自体に驚いた。人間は何と外観によって惑わされてしまうものなのか!

「全聾の作曲家」として自ら強烈に売り出したこと自体がすべてウソだったのであり、東日本大震災や義手のヴァイオリニストにかかわる美談もすべてウソだったことが判明しているのであるから、彼には抗弁の余地がないはずだ。平謝りに謝るしかないと思う。小さなところで新垣さんの言うことに不満があっても、それは黙って耐えるしかない。裁判にでもなったら自分を守る必要はあるかもしれないが、会見の場では、「新垣さんの言うことに私と認識の違いがあるが、それについては今は語らない」とするのが大人のあり方だ。それなのに、謝罪はさっさと済ませ、後半はずっと自己正当化。これでは、この人の社会的な未成熟を強く印象付けるだけのことだ。

 多くの医者の証言にもある通り、全聾だった人間が聞こえるようになることはあり得ないという。それなのに、「3年前から聞こえるようになった。それ以前は聞こえなかった。聞こえたかのように語る新垣氏はウソをついている。新垣氏はお金に執着した」などといっても笑止千万。ばれてしまったウソについては言い繕うことができないので認めて謝罪するが、ばれていない点については何とかウソを守ろうとして、むしろ「名誉棄損で訴える」などと攻撃に出る。天性のウソツキというのはこのようなものなのだろう。事実が暴露されてからひと月ほど、ずっとこのような作戦を立てて準備してきたのだろう。

 もちろん、新垣さんが聖人だとは思わないし、もしかしたらお金に執着した部分もあったかもしれない(私が新垣さんのような立場だったとしても、同じようにしたのではないかと強く思う)が、そんなことは問題ではない。新垣さんも間違いなく共犯であり、その社会的な思慮不足は非難されてしかるべきだが、新垣さんを攻撃するための場ではないはずだ。

 社会的に未成熟な人間の作った幼稚なフィクションを、善良でまじめな人たちが、あまりにプリミティブなウソであるがゆえに真に受けてしまい、それを真実として社会に広めてしまった。フィクションに加担していた気弱で社会的にいっそう未成熟な芸術家が、その大それたウソが恐ろしくなり、「現代のベートーヴェン」の美談が我慢ならなくなって告白した。それだけのことだ。

 むしろ私の関心は、新垣さんが今後、良い曲を書いてくれることだ。調性があって、人々を感動させる現代曲を、なぜ新垣さんは佐村河内作曲という仮面のゆえに作曲できたのか。なぜその曲は多くの人を感動させたのか。ペテンというだけでは済まされない部分があると思う。ここに交響曲というものの秘密があるのではないかとさえ思う。そうしたところに関心がある。

 

 実は昨日の午後から夜にかけて京都に出かけ、京都産業大学付属中学高校の辻村先生の通夜に参列していた。付属中学高校を立ち上げ、国語課をまとめ、教頭・副校長として活動なさってきた方だ。私が塾長を務める白藍塾にとっては、私たちの小論文指導を高く評価してくださり、付属中学校での指導に取り入れてくださった恩人だ。文章教育についての思いを同じくしていたので、何度か楽しく話をさせていただいた。御病気だとは聞いていたが、ここまで深刻だとは思っていなかった。私には突然の悲報だった。まだ50歳代。残されたご家族の悲しみ、そしてご本人の無念が胸に刺さる。年下の方の他界は本当につらい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

METライブビューイング「ルサルカ」、札幌交響楽団のシベリウス ともに大感動!

 3月4日、東銀座の東劇でMETライブビューイング「ルサルカ」を見た。一言で言って、完成度の高い素晴らしい上演。

指揮はヤニック・ネゼ=セガン。私はザルツブルク音楽祭で「ドン・ジョヴァンニ」を聴いて以来、大ファンになった。躍動感にあふれ、ドラマティックでスケールの大きな音楽。小じんまりしたファンタジーではなく、人間の深層を描き、ワーグナー的な深みを持った音楽になっている。演出はオットー・シェンクの伝統的なものだが、大変美しい。このオペラがこれほどの振幅の大きな深いものだったと今回初めて気づいた。

歌手はみんなこの役の現在最高の歌手といってよいだろう。ルネ・フレミングはしなやかで色気のある歌でしっとりと歌う。ひところよりも声の威力は落ちたかもしれないが、その表現力は素晴らしい。「月に寄せる歌」はやはり最高に美しい。このようなとろけるような歌はこの人にしか歌えない。

しかし、それにしても歌手たちの演技のうまさに圧倒される。神話の世界から抜け出したかのよう。まさにハリウッド映画のようなリアリティ。一つ間違うと娯楽超大作になりそうなところを、ドヴォルザークの音楽とネゼ=セガンのドラマティックな指揮が、格調高く、心の奥底をえぐる芸術にしている。

王子のピョートル・ベチャワもイェジババのドローラ・ザジックも声に張りがあり、しかも役を生きている。水の精のジョン・レリエ、 外国の公女のエミリー・マギーも、役そのものの魅力を持っている。マギーのワーグナーの楽劇のようなドラマティックな歌唱は実にいい。ルサルカの姉妹たちも魅力的。

METライブビューイングを見るたびにメトロポリタン・オペラの圧倒的なレベルを思い知らされる。私はかなり「ヨーロッパかぶれ」でアメリカには縁が遠かったが、METを見たい気持ちが高まってくる。

 

3月5日、サントリーホールで札幌交響楽団の東京公演を聴いた(ホクレンクラシックスペシャル)。指揮は尾高忠明、曲目は前半に組曲「恋人」と交響曲第4番、後半に交響曲第2番。アンコールは「悲しきワルツ」。まだ興奮から醒めないほどの素晴らしい演奏だった。

「恋人」が始まったとたん、弦楽器の素晴らしい音に驚嘆した。シベリウスの弦に特有の音。寒々とした空気の中、凛として存在を主張するような音とでもいうか。素晴らしいアンサンブル。弦楽器だけではない。管楽器も特有の陰りがあり、しかも力強く、美しい。まさしく北欧の音がする。札幌交響楽団はこれほどまでに力のあるオーケストラだと知らずにいた自分を恥じるしかない。たんに良いオケいうだけでなく、実に味わいがある。北の国の名門オケにふさわしい音だと思った。

尾高の指揮も素晴らしい。じっくりと腰を据えたシベリウスで、深い静寂をたたえ、冷気にあふれていながら、徐々に魂が熱してくる。第4番は難しい曲だと思うが、あわてず騒がず、丁寧にしっとりと音を重ねて、ジワリジワリと感動を高めていく。音の積み重ねが絶妙。

第2番は圧巻だった。この曲は多くの演奏では、通俗名曲的になってしまうが、尾高の指揮は、第4番と同じようにじっくりと腰を落ち着け、抑制している。いたずらに煽り立てるわけではない。だからこそいっそう深く沈潜した思いがじわりじわりと爆発する。まさしく巨匠の音楽だと思った。感動した。何度か全身が震えた。

札幌交響楽団を聴くのは二度目のような気がする。初めてだと思っていたが、札幌でモーツァルトを聴いたのを思い出した。10年近く前のことだ。とてもよいオケだと思った記憶はあるが、今日聴いた音はそんな生易しいものではない。ここまで素晴らしいオーケストラになったのかと改めて驚く。

改めてシベリウスと尾高忠明と札幌交響楽団のものすごさを知ったコンサートだった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

新国立劇場オペラ研修所公演「ナクソス島のアリアドネ」 最高レベルの舞台!

2月28日、新国立劇場中劇場で、新国立劇場オペラ研修所公演「ナクソス島のアリアドネ」を見た。素晴らしい上演だった。これは私の大好きなオペラなので、海外での公演(ザルツブルク音楽祭やウィーン国立歌劇場など)や来日公演、日本人による公演など、機会あるごとにすべて見ているつもりだが、これまで見た世界的な舞台に少しも劣らないと思った。

まず歌手がそろっている。先日から若手のオペラ歌手の力量に圧倒されてきたが、またもそう思った。プロローグもすべての歌手が実に見事だったが、プロローグだけに登場する人物の中では、特に音楽教師の駒田敏章と作曲家の今野沙知恵にひかれた。駒田は安定感ある歌いっぷり。今野は声の質も容姿もちょっと女性的すぎて男性とは思えない面があったとはいえ、声も美しく、とてもチャーミング。そして、何よりも感じたのは、歌手たちの仕草のリズム感の素晴らしさ。演出の三浦安浩の意図なのだと思う(ただし、幕間に少しだけ三浦さんとお話したら、仕草についてはかなり歌手に任せたとのことだった)が、音楽だけでなく舞台上の動きも実に流動的で見ていて飽きないし、うるさすぎもしない。

劇中劇が始まると、音楽と舞台は一層素晴らしくなった。三人のニンフ(種谷典子・藤井麻美・原璃菜子)も声がそろい、実に雰囲気がある。アリアドネの林よう子も見事。ちょっと気まじめすぎる感じがあって、もう少し自在に歌ってほしいとも思ったが、これも演出意図によるのかもしれない。私がこれまで録音や実演で聞いた世界のプリマドンナには負けるかもしれないが、情感あふれるアリアドネだった。バッカスの伊達達人も、この難しい役を輝かしい美声で歌いこなしている。アリアドネとバッカスの愛のシーンは実にリアルでみごと。

ハルレキンの村松恒矢、スカラムッチョの岸浪愛学、トゥルファルディンの松中哲平、ブリゲッラの小堀勇介に関しては、ただただ見事。動きも歌唱も最高に楽しめた。これほど4人が納得のゆく動きをしているのを見たのは初めてだと思うほど。

そして、やはり舞台全体を圧倒していたのは、ツェルビネッタの天羽明惠。研修生公演にあってただ一人の大ベテラン。その歌唱力と演技力はやはり研修生とは格が違う。しかも、こんなことを言うと大変失礼だが、容姿的にも研修生たちにまったく引けを取らず、若々しくチャーミング。「偉大なる王女様」の大アリアも楽々とのびのびと歌い、高音もぴたりと合って申し分なし。それ以外の部分もツェルビネッタの魅力を存分に発揮していた。

天羽さんは覚えておられないかもしれないが、実は私は天羽さんと仕事をご一緒してお叱りを受けたことがある。7、8年前だったと思うが、あるコンサートで私がコンサートのナビゲーターをしたのだが、その時、観客に向かって「天羽さんの迫力ある歌」という表現をしたところ、天羽さんに「そのように表現されると、歌いにくくなる」と言われたのだった。が、私は今も私の表現を撤回する気はない。私はかなり以前から天羽さんのファンなのだが、その歌唱にすさまじい迫力を感じる。シュヴァルツコップの歌にド迫力があるのと同じような、音楽の本質をとらえた迫力。ツェルビネッタを聞きながら、またもその迫力を感じた。

指揮は高橋直史。素晴らしいと思った。ちょっと停滞するところがあったが、それは初日の本番ではやむを得ない。全体的には実に流動的に繊細に、そして丁寧に音楽を作ってくれた。演奏によってはこのオペラが真面目になりすぎたり、ロマンティックになりすぎたりするが、そのようなことはない。知的で軽やかで遊び心もあった。ポロニア・チェンバー・オーケストラも実に美しい。

演出も素晴らしいと思った。ごちゃごちゃした人物の動きをごちゃごちゃ感をしっかりと残しながら、うるさくしていない。動きが音楽に合っているからだろう。

プロローグはほぼ現代に設定されている。コメディア・デッラルテの面々はロックバンドという出で立ち。「神聖なる音楽」対「俗世間」という対立とともに、「過去の音楽」対「現代」、「静謐・孤立・退歩」対「にぎわい・仲間意識・流動」という対立が明確になる。

アリアドネがテセウスとの愛を記したと思われる日記を大事そうにしているのに対して、ツェルビネッタがドン・ジョヴァンニの「カタログ」のような男性遍歴の手帳を持っているという対比は実におもしろおかしい。そして、最後、アリアドネはその日記を捨てることになる。うまく描いている。

劇中劇とプロローグが、「戸板返し」のように舞台の裏表を使っているのも秀逸な演出だと思った。劇中劇の途中、舞台がぐるりと回ってプロローグの場面が再び見える。そして、プロローグと劇中劇が輝く赤い線で結ばれているのが見える。これは迷宮からの出口を示す「アリアドネの糸」を意味するだろう。プロローグと劇中劇が、「迷路からの脱出」というテーマで結ばれていることを暗示している。

幕切れでアッと驚いた。音楽が終わりつつあるところで、背後に劇中劇を見るプロローグの登場人物たちが現れる。プロローグに登場していなかった唯一の人物はセリフの中でたびたび触れられる主人ジュールダン氏なのだろう。そのなかにズタズタにされた自分のオペラを見て嘆いている作曲家がいる。そこにツェルビネッタが近づく。おそらく愛をささやいたのだろう。アリアドネとバッカスの口付けと同時に、ツェルビネッタと作曲家も口付けする。「ほら、このオペラを観客はこんなに喜んでるでしょう? 聖なるものと俗なるものの合体はすばらしいことだったのよ。多くの人に聖なる音楽を味わってもらうには、俗なものとの合体が必要なのよ。そうしてこそ、一層魅力的に聖なる音楽が分かってもらえるのよ」とおそらくツェルビネッタは口付けによって語ったのだと思う。

そして、これがプロローグと劇中劇を結ぶ「アリアドネの糸」だったのだろう。迷路からの脱出の糸口は、両者の合体にあったわけだ。

そして、それは言うまでもなく作曲家リヒャルト・シュトラウスのこのオペラを作った意図だった、というのが演出家の三浦さんの解釈だろう。「カプリッチョ」の中で歌われるラ・ロッシュの演説とも符合する。そして、同時に、これはさまざまな対立によってぎすぎすしている現代社会へのメッセージなのかもしれない。

いろいろと考えさせられた。ここには書かなかったが、ほかにもいくつかこのオペラについて発見した。このオペラについての私の考えは拙著「ヴァーグナー 西洋近代の黄昏」(春秋社)に書いているが、三浦さんの演出に刺激されて、少し考えが深まった。

ともあれ、本当に素晴らしい舞台だった。研修所公演だが、日本でのオペラの最高水準の上演だと思う。これからの日本のオペラ界が実に頼もしい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2014年2月 | トップページ | 2014年4月 »