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キアロスタミ監督 「だまし絵」の世界?

原稿の締め切りと締め切りの間のため、少しゆっくりしている。

「ある過去の行方」「別離」「彼女の消えた浜辺」のファルハディ監督に導かれる形でイラン映画を見ることにした。イランの何人かの映画監督が世界的に話題になっていることは知っていたが、実はこれまで一度も見たことがなかった。ネットでDVDやVHSを購入して、何本か見てみた。まずは、アッバス・キアロスタミ監督の映画を4本立て続けに見たので、それについて感想を書く。

 

「桜桃の味」 

 キアロスタミの作品のなかでは、最初にこの映画を見た。キツネにつままれたように思った。

中年男が車で土埃のする不毛の土地を回り、次々と数人の男に声をかけ、「あすの朝、穴の中で寝ている自分に声をかけ、返事がなかったら土をかけて埋めてほしい」と依頼する。依頼された男たちは気味悪がって逃げだしたり、断ったり。それがずっと映し出される。最後に老人だけが引き受けるが、「自分も自殺を考えた経験があるが、死のうとしてふと食べた桑の実のおいしさのために思いとどまった。桜桃の味を味わうべきだ」と話して聞かせる。自殺志願の男はこれでそれまでの決意が揺らぐ。老人を探して、「もしまだ生きていたら、砂をかけないでほしい」というような依頼をする。が、最後、予定通り、穴に行き、目をつむる。暗転。これで終わりかと思ったら終わらない。突然、画面が明るくなり、撮影風景が映し出される。登場人物たちは元気に撮影に参加しており、周囲はそれまでの不毛の土地とは打って変わって、木々があり、緑にあふれている。

老人の言葉に動かされて自殺を思いとどまるのかと思っていたら、そうではなかった。男が桜桃を食べる場面もない。しかも、再び会いに行った老人は、親身になって自殺志願の男の話を聞くというよりも、うるさそうにして、かなり冷淡でいるし、そもそも老人は鳥を殺して剥製を作るという、いわば生命を軽んじる仕事をしている。これでは、桑の実で自殺を思いとどまったという話も、もしかすると出まかせだったのではないかと疑いたくなる。そして、不思議なラスト。

ネットで検索してみたが、多くの人が「生命の賛歌」「人間賛歌」と見なしているようだ。主人公が死を思いとどまるのなら、「生命の賛歌」「人間賛歌」だろう。だが、自殺してしまうようだし、最後には撮影風景が映し出される。これのどこが「生命の賛歌」「人間賛歌」なのだろう。

ほかのキアロスタミ作品を見た後で、これはむしろ観客を裏切り続ける映画ととらえるべきなのではないかと思い返した。まさしく「だまし絵」の世界。生命賛歌に見えて、むしろそれに冷水を浴びせる映画にも見え、最後にはそれすら無に帰して、すべてが虚構であったことを暴露してしまう。それ自体がこの映画のテーマではないのか。そのような謎めいたからくりそのものが人生だとキアロスタミは考えているのではないか。私は、キツネにつままれたような思いがしたのだが、キアロスタミは観客にそう思わせたかったのではないか。

それにしても、演出と映像美は素晴らしい。声をかけられる男たちの戸惑い、死や生についてプリミティブに、そして遠慮がちに語る声やしぐさは実にリアル。私はむしろ、これらの映像、これらの表情、そして映画の作りに世界の不条理そのものが体現されているように思うのだ。

 

 

「オリーブの林をぬけて」 アッバス・キアロスタミ監督

 ある映画製作チームが大地震に見舞われた村で映画を撮ることになり、登場人物の一人に撮影助手のホセインが選ばれる。ところが相手役の女性は、かつてホセインが求婚して断られた相手タヘレだった。ホセインは、字も読めず、家もなく、貧しい。それでも誠実に愛を通し、機会あるごとに愛を告げる。しかも、撮影中の映画の中で二人は新婚夫婦を演じる。しかし、タヘレは冷たくするばかり。そうして、二人の出演する映画の撮影が終わった時、オリーブの林を通り抜けて、ホセインはタヘレを追いかける。映画のラスト、遠景になるので、二人のやり取りはわからないが、平和で幸福感にあふれるチマローザのオーボエ協奏曲がかかり、二人の姿が重なり、一人が勢いよく走りだすところから、ホセインの愛は受け入れられたらしいことが想像できる。映画というフィクションの中で夫婦を演じるうち、現実にもそのような心が少しずつ芽生えたということだろうか。

 が、ふと疑念がよぎった。チマローザののどかな曲がかかっているから、この結末はハッピーエンドに思える。しかし、もっと激しい曲、狂気を思わせるような暴力的な曲がかかっていたら、どうだろう。ホセインは意を決してタヘレを追い、暴力的に襲う。タヘレは必死に抵抗する。ホセインは逃げ出す・・・という残虐な結末にも見えなくもない。

「トスカーナの贋作」を見た後で考えると、これはむしろ、どちらの見方もともに正しかったのではないかと思う。監督は、大地震の後のイランの人々の心の復興を願いながらも、悲しい行く末もまた視野に入れているのではないか。深読みかもしれないが、そう思った。

 それにしても、車の中での対話のカメラワークは、「桜桃の味」のように実にすばらしい。おそらくプロではない俳優たちの自然な演技もいい。私の好きなタイプの映画ではないが、大いに楽しむことができた。

 

「トスカーナの贋作」

 ある著述家(ウィリアム・シメル)のオリジナルと贋作についての講演から映画は始まる。その場を訪れた骨董屋を営むフランス女性(ジュリエット・ビノシュ)が著述家を誘いドライブに出かける。簡単に言ってしまうと、二人の会話は「オリジナルと贋作は同価値ではないか」という贋作の復権に集約できる。二人は「トスカーナのモナリザ」と呼ばれる贋作の絵画を見る。200年以上本物と思われ、最近になって贋作と判明しながらも、本物よりも美しいことで知られている。そして、その後、二人はカフェに入るが、そこで女性店主に夫婦と間違われ、そのまま話を合わせる。そこから映画自体が突然、変化をはじめ、二人は徐々に、誤解された通りの夫婦として行動することになる。初めのうちは、たんに夫婦のふりをしているだけ、とりわけ男のほうは女の風変わりな演技に付き合っているだけにも見えるが、徐々に15年間よりそって倦怠期になって、亀裂が入りかけている中年夫婦そのものの物語になる。

 まさしく「だまし絵」の世界。エッシャーのだまし絵のように、どちらが本物の世界なのかわからない。本物と偽物が並立し、観客は目の回るような思いをする。

 この映画の趣向としてはそれだけだろう。それで十分だ。それにしても何と美しい映像であることか、すべてが一幅のイタリア絵画のよう。そして、そのような画面またオリジナルの絵画のものまね、すなわち贋作でもあるのだろう。

 

「ライク・サムワン・イン・ラブ」

 キアロスタミが日本を舞台にして監督した映画。とてもおもしろかった。

 元大学教授の老人(奥野匡)が、デートクラブで働く大学生(高梨臨)を自宅に呼ぶ。女性はこのようなアルバイトをしていることを恋人に感づかれそうになっており、後ろめたく思っている。老人は知的で常識をわきまえた人間で、まるで娘や孫を相手にするように接する。翌日、女性を車で送って大学に行き、女性が恋人らしい男(加瀬亮)と言い合いをしているのを目撃。男は老人を女性の祖父だと思って話をする。三人は合流して車で移動するが、老人と孫という役割をぎこちなく演じる。だが、ほどなく男は事実を知ったらしく、女性は暴力を振るわれ、それを介抱しようとした男性の家に男が押し掛け、ドアを激しくたたき、車に乱暴し、窓に石を投げる。これから厄介なことになりそうだと暗示して、映画は終わる。

「トスカーナの贋作」と同じような、偽の人間関係というテーマが現れる。映画の後半、老人と女性は、祖父と孫のようにふるまう。しかし、「トスカーナの贋作」とは異なって、これは最後には「偽の関係」が崩れる。二人だけであれば、その関係が成り立っていたのだろうが、女性の恋人という第三者の存在によって、それが崩壊するわけだ。あるいは、第三者の存在のために、「だまし絵」が成り立たずに、真実が露わになるというべきか。

 なるほど、実査の生活もこのようにして成り立っているな・・・と思った。私たちは様々な人格を演じ、場面場面で別の人間になり、別の関係を作る。が、しばしば他の人間によってそれが壊される。

 老人がなぜ女性を呼んだのか、かつて実際の妻子とどのようなことがあったのかは明らかにされない。それもまた面白い。そして、ストーリーを遮る意味のない多くのセリフ、車の中の光の反射など、実にリアル。役者たちもとてもいい。老人と娘のふたりともまったく覚えのない役者だが、とも実に魅力的。

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