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ハーディング+新日フィルのブラームス 凄まじい演奏

 6月29日、サントリーホールでダニエル・ハーディング指揮、新日本フィルハーモニーを定期演奏会を聴いた。前半、ピアノのポール・ルイスが加わってブラームスのピアノ協奏曲第1番、後半はブラームスの交響曲第1番。凄まじい演奏!!

 まず協奏曲の出だしに驚いた。これまで聴いたハーディングの演奏は、切れがよく颯爽としたものだった。ところが、あまりに悲劇的で重々しい音。凄絶なほど深刻な音楽だった。遅めのテンポで深く沈潜する。それが実に説得力がある。魂が震えた。

 ピアノも実に美しく深い音。重々しいオケの中で、オケよりは少し明るめ。しかし、それだけにくっきりと音が浮かんで、聴きごたえがある。オーケストラも実に美しい。とりわけ、管楽器にほれぼれした。オーボエ、クラリネット、フルート、ホルン、いずれも見事。

 実は私はこの曲に対して、これまでずっと肩に力が入りすぎていると思っていた。情念が空回りしている傾向がある。ところが、今日の演奏を聴くと、これが実に説得力がある。肩に力が入っているどころではない。深刻な世界を真正面から描いている。素晴らしい曲だと思った。ハーディングはきっと、この曲を説得力あるものにするには、このような悲劇性を強調した音にするべきだと考えたのだろう。

 後半の交響曲も同じような雰囲気で始まった。しかし、一層ドラマティック。しかも、音が実に美しい。力感にあふれ、構成もしっかりして、音の重なりもいかにもブラームス。深い思いにあふれ、そこに甘美なメロディが入ってくる。第4楽章は例のクララ・シューマンゆかりのメロディがくっきりと浮きたって、まさしく愛の賛歌になる。甘ったるくなく、ぐっと情熱を抑えながらも高揚してくる愛の想い。恐らくハーディングは「愛」ということを頭において演奏していると思う。純音楽的というよりも、かなり表題的な雰囲気を感じた。しかし、もちろん形式はがっしりとしているので、まったく違和感がない。最高に高揚して音楽は終わった。ここでも魂が震えた。

 本当に素晴らしい演奏だと思った。初めてハーディングを聴いたのは10年ほど前だったと思うが、今や押しも押されもしない巨匠だ。

 ところで、演奏中、うなり声のようなものがしばしば聞こえたが、あれはハーディングの声だったのだろうか。それとも、私の席はかなり音のバランスが悪かったが、席のゆえの空耳だったのか。

 ともあれ、素晴らしい音楽に興奮した。とても幸せに思った。

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TAMA女と男がともに生きるフェスティバル2014 映画「少女は自転車に乗って」

多摩市の関戸公民館ヴィータホールで、「TAMA女と男がともに生きるフェスティバル2014」の2日目。多摩大学樋口ゼミはこの催しに協力している。ゼミ生も昨日に続いて、本日もお手伝いをしている。会場整理、ギャラリーの受付、力仕事の手伝いなどなど。ゼミ生に市民活動に参加し、同時に、女性問題についても考えてほしい。

私も一応は実行委員の一人なのだが、少しだけスタッフとしてお手伝いをしながら、自分に都合のよいように解釈して、ともあれこの催しの客として行動し、時々ゼミ生を監視した。

午前中、催しの一環であるサウジアラビア映画「少女は自転車に乗って」を見た。法律によって映画館が禁止されているサウジアラビアで初めて女性監督が作った劇映画だという。監督はハイファ・アル=マンスール。

サウジアラビアでは、女性は自転車に乗ることははしたないこととされている。自転車に乗りたいと思った活動的な少女があの手この手を使って自転車を手に入れようとする。コーラン暗唱の賞金が出ると知って、大会に参加して優勝するが、「賞金を自転車に使いたい」といったために、校長に賞金を取りあげられてしまう。が、その日、母は、夫(つまりは少女の父親)が第二夫人を娶ったために悲嘆にくれながらも自分で生きることを決意し、その一つの覚悟として娘に自転車を買い与える。翌日、少女はさっそうと自転車に乗る。そんな物語。

 女性は男性に一切顔を見せることができず、黒づくめで外出する社会。理不尽なまでの性差別。少女の父親が第二夫人を娶るのも、第一夫人である少女の母親がもう男の子を出産する可能性がなくなったせいだろう。むしろ女性が自ら女性の行動を束縛している様子もわかりやすく描かれる。

 単なる性差別を告発するだけでなく、家庭内での女性の本音を出した生活や少女の生き生きとした姿を描いて、ステレオタイプを逃れている。最後、少女が自転車を乗る場面では、少女の誇らしさと同時に、母の無念も重なり、しかも、近くに住む男の子が少女を追いかけることで将来への希望も見えて、とても感動的。初めての劇映画とは思えない手腕ではある。

 女と男がともに生きるフェスティバルにふさわしい内容。その意味ではとても良い映画だった。ただ私の個人的な趣味からすると、もう少しひねってくれたほうがおもしろかった。やはり社会への抗議が表に出すぎていて、人間を見る目が甘い気がする。

 それにしても、母親役の女優さんが肉感的で美しい。こんな美人が黒づくめで外に出るなんて、なんともったいないことだろう・・・という実に下卑た、しかし男として当然の感想を抱いた。

 映画を見終わった後、ハンドマッサージを受けたり、コーヒーの正しい入れ方の実演を見たりして、フェスティバルに客として参加。そうこうするうち、強い疲労を覚え、原稿締め切りが迫っていることから、夕方、会場を後にした。

 

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若き才能による素晴らしい演奏!!

  627日、多摩市の関戸公民館ヴィータホールで、「TAMA女と男がともに生きるフェスティバル2014」の一環として樋口ゼミ協力によるコンサート「誰もが楽しみ感動できるクラシックの名曲を集めて」が開かれた。大変素晴らしい演奏だった。

 演奏するのは、久保山菜摘(ピアノ)、犬嶋仁美(ヴァイオリン)、松本亜優(チェロ)、松島理紗(ソプラノ。いずれも桐朋音大在学中の才能ある女性たち。これまでも何度か、多摩大樋口ゼミ主催のコンサートで演奏してもらい、素晴らしい演奏を聞かせてくれた。今回もまた、これまで以上に素晴らしい演奏。

 まず、松島さんの歌唱に圧倒された。表現力が素晴らしい。強い声、優しい声、響かせる声、内面的な声など様々な声を聞かせてくれる。シューベルトとグノーの二つのアヴェ・マリアの雰囲気を見事に歌い分けている。オッフェンバックのホフマン物語のオランピアの歌は滑稽なパントマイムが加わる。機械じかけのオランピアにぴったりの動きと歌。すでにベテランの味わい。いや、それどころか、これほどオランピアらしいこの歌をこれまで聞いたことがないと思ったほど。こんな力を発揮する学生さんがいることに驚く。

 ヴァイオリンの犬島さんもドラマティックな要素をふんだんに盛り込んで「序奏とロンド・カプリチオーソ」。小柄な女性なのに荒々しいまでにドラマティック。チェロの松本さんのポッパー「ハンガリアン・ラプソディー」も超絶技巧もさることながら、その音色の美しさ、深い味わいにも驚いた。そして、ピアノの久保山さんは、すべての伴奏を完璧にこなし、ソロでは「ラ・カンパネッラ」。すばらしい音色。華麗で軽やかで、しかもドラマティック。この三人による「大公」の第一楽章も堂々たる演奏だった。プロに引けを取らないどころか、これほどの演奏ができるプロが一体どのくらいいるだろう。本当に素晴らしい演奏。

 アンケートを見せてもらったが、評判は上々。「感動した」「素晴らしかった」という答えがほとんどだった。私自身が本当に感動した。若い才能は本当に素晴らしい。これからのますますの活躍が楽しみだ。

 

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ファウスト+メルニコフ 最高の演奏

626日、東京芸術劇場で、イザベル・ファウスト+アレクサンドル・メルニコフのコンサートを聴いた(都民劇場)。すばらしい演奏。感動した。

 曲目は前半にモーツァルトのヴァイオリン・ソナタ第29番イ長調とシューベルトの幻想曲ハ長調D.934。シューベルトにとりわけびっくり。二人の掛け合いが最高。繊細にしなやかに。チャーミングで可愛らしくて、ちょっと俗っぽいのだが、そこに繊細で傷つきやすく悲しみをたたえたシューベルトが顔をだす。魂の奥底が見えるような音楽。そうか、シューベルトというのはこういう曲だったのか!!と思った。二人の息が絶妙にあって、美しくもはかない音楽を奏でる。ただ、シューベルトの器楽曲に感じる通り、ちょっと長すぎる気がするが・・・・。

 それにしてもなんと美しいピアノの音、そしてヴァイオリンの音。ピアノに反応することのあまりない私が、メルニコフのピアノの音にはうっとりする。深みがあり、一つ一つの音があまりに美しい。そしてファウストのヴァイオリンも音程が良く、クリアでありながらも、知的でかつロマンティック。いうことなし。

後半はシューマンの3つのロマンス作品94とブラームスのヴァイオリン・ソナタ第3番。ブラームスはまさしく圧巻。

むしろ抑え気味に演奏。少しもドラマティックには鳴らさない。繊細に、しなやかに。音楽を小さく作っているのではない。がむしゃらに弾くのではなく、むしろ静かに演奏しているが、スケールが大きい。ときに大きく飛躍する。すさまじい集中力。聴くものをひきつける。

アンコールは、F.A.Eソナタのシューマンの作曲した「インテルメッツォ」のブラームスの部分。これも圧巻。

あまりのすごさに興奮した。ただそのわりに観客はあまり興奮した様子は見せなかった。都民劇場の一環であって、あまりクラシックに慣れていない人も多いせいかもしれない。

 

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6月27日 関戸公民館ヴィータホールで樋口ゼミ協力のコンサート開催

 明日(627日)、午前11時から関戸公民館ヴィータホール(聖蹟桜ヶ丘駅前 オーパ内)で、樋口ゼミ協力によるコンサート「誰もが楽しみ感動できるクラシックの名曲を集めて」が開かれる。「TAMA女と男がともに生きるフェスティバル2014」の一環だ。

 入場料無料。0歳から入場できる。演奏するのは、桐朋音大の女性演奏家たち。まだ学生さんだが、いくつものコンクールに入賞した実力者たち。これまで私たちのゼミでは何度も演奏をお願いして、大きな感動を与えてきた。お時間のある方はぜひお越しいただきたい。昨年のTAMA女と男がともに生きるフェスティバルでも同じメンバーで演奏し、多くの人々に感動の声をいただいた。

 なお、このフェスティバルは、私たちが協力したコンサート以外にも、27日と28日の2日間、男女参画社会や首都直下地震についてのシンポジウム、映画「少女は自転車にのって」上映会、男のたちの料理教室など様々なプログラムが用意されている。これらにつてもぜひお越しいただきたい。

https://www.city.tama.lg.jp/bunka/bunka/5841/015403.html

 

 

曲目 (演奏者の都合により変更の可能性があります)

1 シューベルト  アヴェ・マリア (ソプラノ、ピアノ) 

2 グノー  アヴェ・マリア (ソプラノ、ピアノ)

3 ベートーヴェン ピアノ三重奏曲第7番「大公」より第1楽章  (ヴァイオリン、チェロ・ピアノ) 

4 サン=サーンス  序奏とロンド・カプリチオーソ  

5 ポッパー  「ハンガリアン・ラプソディー」 (チェロ、ピアノ)  

6 フォーレ  歌曲「夢のあとに」 (ソプラノ、ピアノ) 

7 オッフェンバック  歌劇「ホフマン物語」より 「オランピアの人形の歌」(ソプラノ、ピアノ) 

8 リスト  「ラ・カンパネッラ」 (ピアノ)

9 作曲者不詳  「アメイジンググレース」(ソプラノ、ピアノ) 

 

演奏

久保山菜摘 (くぼやま なつみ)  ピアノ

犬嶋仁美(いぬじま ひとみ) ヴァイオリン

松本亜優(まつもと あゆ) チェロ

松島理紗 (まつしま りさ) ソプラノ

 

場所 

関戸公民館ヴィータホール (ヴィータコミューネ8階) 

 (聖蹟桜ヶ丘駅徒歩1分 オーパ内)

 

日時

2014年6月27日(金) 11:00~12:00

  (10:45 開場)

 

料金 無料  (0歳のお子さんも入場できます) 申し込み不要。先着順。

当日は階段席ではなくフラットな状態にいたします。ベビーカー、車イスでお入りいただけます。お席は床にマットを敷いたスペースと椅子席を用意してお待ちしております。

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河瀨直美監督の映画に感動

 河瀨直美監督の映画をまだ見たことがなかった。カンヌ映画祭で受賞がかなうのではないかということで話題になっていたので、何本か見てみた。制作年代とは異なるが、DVDを見た順番に感想を書く。

 

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「殯の森」

 素晴らしい映画。カンヌ映画祭のグランプリ受賞作のわりに、必ずしもみんなが高い評価をしているわけではなさそうなので、最初に見てみた。この一本で、私は、最も高く評価する側に位置することになった。日本映画の最高峰の一つだと思う。もう少し前に見ておくべきだったとつくづく思った。監督に対して少し偏見を抱いていたことを深く反省!!

 認知症患者をケアするグループホームに新任の介護士(尾野真千子)がやってくる。彼女は、息子を亡くしたばかりで、まだ癒えていない。そこで、ずっと前に妻を亡くして認知症を患っている初老のしげき(うだしげき)と心を通わせるようになる。そして、ある日、介護士の運転でしげきとともに出かける(説明がほとんどないので、よくわからないが、どうやら亡き妻の墓参りに出かけたということのようだ)、途中で車は脱輪し、森を歩くうちに遭難し、大雨に襲われながら夜を明かす。濡れた体を温めるうち、二人は性的な関係を持つ。そうして、生命の木に出合い、妻の墓に辿りつく。

 生とは、そして死とはこのようなものなのだとつくづく思う。まさしく、生そのものの営みを描き出した映画。昔、新藤兼人監督の「裸の島」を見て深く感動した記憶があるが、それに通じる生命の賛歌。賛歌とはいっても、素晴らしさをたたえるのではなく、どうしようもない悲しみや理性ではコントロールできないエネルギーに翻弄された生そのもの、そして否応なく迎えざるを得ない死そのものを肯定的に描いている。人間を超えた生命そのものの力のようなものがひしひしと感じられる。そして、その生命の世界の中で、人は精一杯に生き、他者を支え、頼りあい、もたれあい、苦しみ、性の営みを行い、死を迎え、他者の死を味わう。それらが画面から立ち現れる。これこそが生の本質だと思う。それをきわめて抒情的に描き出している。

 映画の最後で語られる通り、タイトルの殯(もがり)とは、本葬の前に遺体をしばらく安置して死を確かめることをいうらしい。語源的には「喪あがり」だといわれる。この現世を、死の世界への通り道ととらえているがゆえにタイトルなのかもしれない。

 それにしてもなんと美しい映像だろう。茶畑、森、木、草がまさに生きて、存在している。しばしば風が吹いて植物が揺れるが、まるで死者の魂が、あるいは生命そのものが自然を動かしているかのようだ。それらの風景から、生命の神秘と人間がつながっていることを、この映画は、これ見よがしにではなく、淡々とわからせてくれる。

 プロの役者はほんの数人らしい。主人公の刺激を演じたのも、まったくの素人だという。それが実に素晴らしい。演技ではなく、まさに地のままの生が現れる。セリフがほとんどなく、それらのセリフも特に意味がないのが、実にいい。新藤の「裸の島」は、確かまったくセリフのない映画だったが、生の営みそのものを描こうとするとどうしても、言葉は少なくならざるをえない。このような映画で、プロの役者が演技をしたら、どんなにテーマをぶち壊しにしてしまうことだろう。それを的確に計算する監督の才能たるや恐るべし。

 私自身これまで偏見を抱いて見なかったのにいうのはおこがましいが、こんなすごい映画があまり理解されなかったということが、私にはとても意外だった。

 

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「沙羅双樹」

 これも稀有な名作だと思う。私は大いに圧倒されてしまった。

 5年前に双子の兄と遊んでいるうちに、突然、兄が神隠しにあったかのように行方不明になってしまった過去を持つ高校生の少年が主人公。わだかまりを持ちながら暮らしているところに、行方不明になった兄が見つかったという話が起こる(ただし、その後、その話がどうなったのか映画の中では触れられない)。近所に暮らす同級生の女の子も、同じころ、育ての母が実の母ではないと打ち明けられて、平静ではいられない。その二人の高校生がキスを交わし、心を通わせていく。そして、バサラ祭りの日、少女は集団の先頭に立って町を踊り歩くが、狐の嫁入りのように突然、大雨になり、ずぶぬれになる。そうなりながら、何かから吹っ切れたように踊りまくる。その後、少年の母が自宅で出産。その現場に二人の高校生も立ち会う。

 それだけの話なのだが、奈良という歴史を持つ古い街の中の人間の生命の営みが鮮烈に描かれていく。

 先祖や家族の死があり、代々続いてきた生活があり、新たに生まれる生命がある。何気ない生活の中に先祖への思いがあり、土地の霊が宿っている。バサラ祭りはまさしくディオニュソスの祭りを思わせる。死に彩られた生命を燃やす。この祭りの場面は実に美しい。

「神隠し」という不思議な出来事それ自体も、そしてその真相も映画の中で明らかにされないことが、土地の霊の雰囲気を高める。そして、最後、生まれたばかりの赤ん坊を映したカメラはそのまま移動して、ふらふらと古い家並みを通って屋根へと昇り、空へと上がっていく。まるで、家族を見守っていた先祖の霊が空の上へと浮遊するかのように。

 昔から淡々と続けられる生と死。悲しいことも苦しいことも慟哭もつらいこともあるが、ともあれ、ごく日常的でありふれた生と死の営み。それが飾らぬ日常を描くことで露わ荒れてくる。

 プロの役者は父親役の生瀬勝久と、少女の母親役の樋口可南子くらい。ほかのほとんどはほぼ素人が演じる。主人公の母親役は河瀬監督自身。ドキュメンタリー・タッチで、演技らしさのない演技で描かれていく。このような映像を見ると、私たちが普段、どれほど不自然な演技をするドラマに慣れさせられているかを思い知らされる。自然で日常的なやり取りが実に生き生きとしている。このようなタッチだからこそ、日常の中の生と死というテーマが浮き彫りになる。

 どうやら配役は目力(めぢから)で決まったのではないかと推測する。高校生役のふたりも目力がある。生瀬は役者の中でもとびきり目力のある人。ただ、生瀬の目力は異様なほどなので、実は少し違和感を覚えた。

 

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「朱花の月」

 これも名作だと思う。

 太古の時代に香久山と耳梨山が畝傍山を巡って争ったように、太平洋戦争の頃の祖父母の時代、そして現代において、二人の男が一人の女性を巡って争う。土地と血縁と自然が織りなす。代々にわたって同じような生を生き、脈々とつながる生と死、そして性の営み。そのような世界が、奈良の飛鳥を舞台に、説明を排したドキュメンタリー・タッチで描かれる。

 一言でいえば、戦争中に愛し合っていた男女の孫たちが、時代を経て、同じように恋に落ち、朱花(「はねづ」と読むらしい)の染物を行う女性が、現代的な仕事(PR誌の編集者)をしている夫(ネットで見たところ、正式の夫ではないらしい)を捨てて、自然とともに生きる木工作家の男にひかれ、夫のほうは自殺をする・・・という物語。

 万葉の時代から続く明日香の圧倒的に美しい自然、とりわけ三つの山、そして地中に埋まった都を背景に、人間の業とでもいうべきものが、少しの誇張もなく淡々と描かれる。映画的な演技は抑え、自然に演じられるので、本物の存在感をもって祖父母の時代と現代の男女の相克が浮き彫りになる。土地に根付いて生き、歴史と一体となった人間そのものの姿が見えてくる。

 カナリア、燕、虫が強調される。鳥かごの中で息苦しく生きる動物カナリア、つがいとなって飛翔する燕、そして心の底でうごめく本能としての虫、そんな象徴的な意味があるのかもしれない。が、いずれにせよ、昔から続く生命の連鎖が映画全篇を彩っている。

 女主人公(大島葉子)と同居する男(明川哲也)と恋人(こみずとうた)をあえて長髪の似た雰囲気の男性にしているのかもしれないが、顔の識別の苦手な私としては、しばしばどちらの男性なのかわからなくなって困った。カンヌ映画祭に出品されたというが、外国の人々に見分けがついたのだろうか。心配になってきた。とはいえ、三人ともに実に魅力的。とりわけ、大島葉子の清楚でありながら、どこかエロティックな容姿に大いに惹かれた。

 

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「萌の朱雀」

「殯の森」に匹敵する稀有の名作だと思う。これが河瀨直美の劇場映画デビュー作とは思えないほど完成度が高い。圧倒されると同時に、後半涙が出てきた。

 ほかの河瀨映画と同じようにセリフが少なく、説明が排除されている。ストーリーや人間関係、登場人物の心の動きをほんの少しのほのめかしから読み取らなければならない。しかも、登場人物は大げさな動きはしない。そうであるがゆえに、まさにリアルに山里で生きる人々の生のあり方を追体験できる。実人生も、実はこのような不確定で曖昧な事柄の連続で成り立っており、大袈裟でドラマティックな葛藤が大声で演じられるわけではない。だからまさしく実人生を切り取ったかのようなリアリティ。

 舞台は奈良の山奥で、男(國村隼)と妻、その娘みちる、男の母親が男の姉の子ども栄介を引き取って5人で暮らしている。みちると栄介は仲の良い兄と妹のように育っている。それから10年後。鉄道がとおる予定だったが、中止になる。男は希望をなくしており、今では甥の栄介の収入で細々と暮らしているようだ。妻は働きに出ることを決意するが、体が弱くてすぐに倒れてしまう。男はいよいよ気力をなくし、8ミリカメラを持って出かけ、そのまま自殺してしまう。残された妻は中学生の娘(尾野真千子)とともに実家に帰ることにする。そして、栄介と祖母も住み慣れた山里の家を離れ、栄介の働き口の近くに住むことにする。栄介は男の妻に女性としての魅力を感じているらしい。そして、みちるは栄介に恋心を抱いている。だが、離れ離れになる。

 それだけの話なのだが、一人一人の思いが交錯し、それぞれの考えに納得ができ、しみじみと人生を感じさせる。しかも、山里の自然の美しさ、少しずつ形を変えながら繰り返される日常、悲しい思いを抱えながらも平凡に生きていく人々の生のあり方などが重なり合って、歴史を重ねて生きてきた人類の生の重みを感じさせる。

単に山間部の過疎化を描く映画ではない。自然の美しさを訴える映画でもない。もちろんメロドラマでもない。脈々と歴史の中で続いていく悲しみと愛にあふれた平凡な人間の日常生活への愛おしさを通して、人間そのもの、歴史そのものを描きだしている。

 男が死ぬ前に撮影したとされる8ミリ映像が映し出される。平凡な人々の生、日常の生活、そして自然の風景が続く。まさしくこれこそが脈々と生きてきた人間の生だと思った。そう思って涙が出てきた。

 今や大女優になった尾野真千子のデビュー作。河瀬監督がたまたま声をかけたのだったという。初々しくて素晴らしい。自分が中学生だった頃を思い出しつつ、そうか、あのころの同級生の女の子たちはこのような感性を持っていたのか・・・と納得しながら見た。

この映画の最後、「沙羅双樹」と同じようにカメラが上昇して家を見守る霊の存在を暗示する。風鈴の音が鳴る。見えない存在の音。このような一画面一画面に監督の思想がこめられてる。

 

4本の河瀨映画を見て、私はこの監督を小津、黒沢、大島、北野とつながる歴代の世界的名監督を凌駕する存在だと思った。これまで見なかったことを恥じた。

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フジコ・ヘミングを初めて聴いた

 621日、武蔵野市民文化会館大ホールで、フジコ・ヘミングとN響メンバーによる名曲モーツァルトの夕べを聴いた(主催:サンライズプロモーション東京、提携:(財)武蔵野文化事業団)。指揮者なしの演奏。ちょっと欲求不満。

 最初にディヴェエルティメントニ長調K136と「ジュピター」。ディヴェルティメントに関しては、とても美しい音で、指揮者がなくてもとてもアンサンブルもしっかりしていると思った。だが、「ジュピター」ほどの大曲になると、やはり指揮者がいないとつらい。時々アンサンブルが曖昧になり、とりわけ緩徐楽章で集中力が途切れる印象を受けた。ただ、第4楽章はなかなかの迫力。

 後半、フジコ・ヘミングが加わって、モーツァルトのピアノ協奏曲第21番。私はもともとピアノ曲はあまり聴かないし、フジコ・ヘミング現象には無関心だった。ところが、最近、信頼できる人がフジコ・ヘミングを高く評価していると知って、一度聴いてみたいと思ったのだった。

 とても印象的な音。きっとフジコ・ヘミングが好きな人は、この音に惚れるのだろう。だが、音の連なりがあまりに個性的で、私には形が崩れているように思える。恣意的というか、あまりに不安定というか。このように演奏されると、モーツァルトらしくならない。ロマンティックになりすぎ、モーツァルト特有の美しさ、特有の悲哀がこもらない。この曲をこのように演奏されると、私はちぐはぐに感じてしまう。

 しかも、このような個性的なピアノにオーケストラがついていかない。指揮者がいれば調整できるのだろうが、それがいないので、乱れてしまう。

 そのあと、フジコ・ヘミング一人が残って、ショパンの遺作のノクターンと、「ラ・カンパネッラ」。モーツァルトよりはずっと感銘を受けた。が、これも私には、あまりに不安定で恣意的に聞こえる。

 ところで、コンサートの運営について考えさせられた。曲間だけでなく、楽章の合間にも、遅れてきた客を入れるため、演奏中も客が席を探している。そのためもあって、コンサート会場がざわつき気味になり、普段以上に、演奏中に話をする人、ガサガサと音を立てる人が多いように思えた。クラシック音楽のコンサートらしからぬ雰囲気を感じた。

私たちのゼミがコンサートをする時に、これらのことに気を付ける必要がありそうだ。

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エマーソン弦楽四重奏団を聴いた

 619日、武蔵野市民文化会館でエマーソン弦楽四重奏団のコンサートを聴いた。ただし、ヴィオラのローレンス・ダットンが来日不可能とのことで、代わりにポール・ニューバウアー。

 前半はモーツァルトの弦楽四重奏曲第16番とショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲第14番。後半にベートーヴェンの弦楽四重奏曲第8番(ラズモフスキー2番)。

 私がこの団体の実演を聴くのは初めて。まず彼らが登場したとき、かなりお年を召していることに驚いた。1980年代に、それまでアルバン・ベルク・カルテットばかりが脚光を浴びていた時、さっそうとデビューしてきた若々しい姿と演奏が鮮烈だったので、まだ当時のイメージを持っていた自分に気づいた。当然のこととはいえ、エマーソン弦楽四重奏団も年齢を重ねていた。

 そして、まさに年齢を重ねてきたことを示すような演奏だった。デビュー当時のような切れの良い雰囲気はない。むしろもっとずっと内省的で奥深い。とりわけ前半の2曲は、焦らず慌てず、特に面白さを引き立てようともせず、地味に、そして深く演奏。大変説得力がある。ショスタコーヴィチの第三楽章の秘めた情熱が徐々に高まり、そして静まっていく。 ただし、テクニックが衰えているわけではなく、ラズモフスキー第2番の終楽章のテクニックの冴え、盛り上がりは凄まじい。

 とても良い演奏だと思った。ただ、実は私はもっと爆発的な名演奏を期待していた。が、それは訪れなかった。ヴィオラの交代のせいなのか、ほかに原因があるのか。

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 道楽亭で落語4席を聞いた

 6月18日、新宿2丁目にある「道楽亭」で落語を聞いた。実は、ナマの落語を聞くのは30年ぶりくらい。20代のころ、毎週のように末広亭に通っていたが、30歳を過ぎたころから、足が遠のいた。その後、テレビ、録画ではずいぶん楽しんできたが、そういえば、まったく寄席に通わなくなってしまった。

道楽亭は高校時代の同級生である橋本龍児氏が経営する小さな寄席居酒屋とでも呼ぶべき場。ずっと前から一度行こうと思いながら、機会がなかった。が、多摩大学の私のゼミでそのうち落語を企画しようということになって、ゼミ生二人を連れて出かけた。

 出演は前座から二つ目に昇進したばかりの古今亭始さんと関西出身でかつて吉本興業に所属していたという鈴々舎八ゑ馬さん。まずは古今亭始の「初天神」。きわめてポピュラーな出し物だが、軽やかで、こましゃくれた子どもの描写がとてもおもしろい。後半の「鈴が森」も、ドジな泥棒の様子が楽しい。ただ、後半、少し余裕をなくしたように思えたが、客が20人程度の小さな小屋で演じるのも、客が迫っているだけにやりにくいだろうと思った。

 鈴々舎八ゑ馬さんは、さすがに一日の長があると思った。これもおなじみの「青菜」をはじめに語ったが、人物の描きわけも鮮やか、関西弁の明るい語り口も面白い。後半は「幸助餅」。これもポピュラーな人情噺。しみじみとしてはいるが、八ゑ馬さんの明るいキャラクターのせいでからっとしていて、それが最後にしんみりさせる効果を上げていた。

 これほど狭い小屋で聞くと、臨場感があって実にすばらしい。語り口の一つ一つを楽しむことができ、言葉によって鮮やかに雰囲気が立ち上がる。そして、客との間に一体感が生まれる。それがまた楽しい。

 30数年落語から遠ざかっていた私としては、あれこれと語る資格はない。が、ともあれ、とてもとても面白かった。これからもっと落語を見ようと、本当に思った。

 終演後は、演者さんと残った客で打ち上げ。ゼミ生とともに私も残って話に加わった。落語通が数人、初心者も数人、私はその中間。中に一人、幼稚園のころから落語好きで、いまも落語おたくという若くてきれいな女性がいたのでびっくり。八ゑ馬さん、始さん、ともに話がうまくてコミュニケーション力があるので、とても楽しい雰囲気がうまれた。

 せっかくの楽しい夜だったが、ただ、新宿駅に向かう途中、地下街に降りたら道に迷ってしまい、電車に乗り遅れそうになって、途中から500メートルほど小走りに駆けた。20歳ころからスポーツと呼べることは一切せず、とりわけ30歳を過ぎてからは、走ることもほとんどなかった私としては、駅に着く前に息が上がり、足ががくがくして、しかも酔いが回って気分が悪くなった。夜中になって家についても、風呂からあがって寝るときになっても、まだ最悪の気分が抜けなかった。今朝、目が覚めても、まだ足ががくがくしている。実に情けない・・・

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オペラ映像「ミレイユ」「シェリュバン」「ポーギーとベス」

 しばらく前から、時間を見つけて何本かのめったに上演されないオペラの映像を見ていた。感想を書く。

 

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グノー 歌劇「ミレイユ」 パリ・オペラ座公演

 

 今年の2月に行われた東京オペラ・プロデュース公演の予習のためにBDを注文していたのだが、いつまでも到着せず、公演には間に合わないどころか、公演後数か月たっても、届かなかった。いったんBDをキャンセルして、DVDを注文しなおしたら、比較的早く届いた。初めからDVDにしておけばよかった。

 実に素晴らしい映像。大スターは出演していない。突出した歌手はいない。だが、よくまとまっており、実に良い雰囲気。歌手たちもそろっているし、容姿を含めてまるで登場人物そのまま。演出(ニコラ・ジョエル)も無理がなくわかりやすい。南フランスの雰囲気を表に出している。麦畑が実に美しい。

 グノーらしい美しいメロディがふんだんに現れる。確かに、ワーグナーやヴェルディやシュトラウスのような傑作ではないかもしれないし、感動に震えるということもないが、楽しく心地よい雰囲気を味わい、じっくりと音楽を楽しむことができる。

指揮はマルク・ミンコフスキ。いつもおとおりに歯切れのよい演奏だが、意外に抒情的。南フランスの豊かな自然、明るくてさわやかな雰囲気が味わえて実に気持ちがいい。インヴァ・ムーラのミレイユが特にいい。チャールズ・カストロノヴォのヴァンサンはちょっと声が弱いが、この役はこれで十分だと思う。そして、当たり前のことだが、登場人物たちのフランス語がとても美しい。これは、フランス以外の国での上演ではなかなかないことだ。逆に言えば、フランス・オペラ上演において、フランス語の響きがかなり重要だということだ。これは私がたまたまほかの言語よりもフランス語が多少は理解できるということによるのではあるまい。

ただ、東京オペラ・プロデュースの上演でも思ったが、かなりストーリーに無理がある気がする。無理やりミレイユを死なせているようで、あまり納得できない。昔、杉富士夫先生の翻訳で原作を読んだ時にはそうは思わなかった記憶があるので、台本に難があるのだろう。

 ともあれ、多くの人にぜひとも見てほしい映像ではある。

 

 

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マスネ 歌劇「シェリュバン」 カリアーリ歌劇場 

 カリアーリというのは、カリャリなどとも表記されるサルデーニャ島の都市。調べてみたら、人口50万人ほどらしい。そのようなところで上演されたマスネのあまり有名ではないフランス語によるオペラのDVDなので、あまり期待しないで見てみた。ところが、どうしてどうして、見事なレベル。

「シェリュバン」というのは、ケルビーノのフランス語表記。「フィガロの結婚」のケルビーノの後日譚ということになっている。恋に恋するシェリュバンが伯爵夫人、男爵夫人などの何人もの女性、そして夫などを巻き込んで繰り広げられる恋の騒動が描かれる。

 シェルバンを歌うミシェル・ブリート(2012年のバイロイトで、ブランゲーネやヴェヌスを歌うのを聴いた)、アンソレイヤードを歌うパトリツィア・チョーフィをはじめ、歌手たちが素晴らしい。ただ、女性歌手たちはみんなかなりきれいな雰囲気の人で、しかもみんな顔の雰囲気なので人物の識別に困った。エマニュエル・ヴィヨームの指揮も、いかにもマスネらしい柔らかくてしなやかな演奏。演出はポール・カラン。みんなが貴族らしい大げさな服装をして、まさに革命前の享楽的で豪華な貴族の世界を見事な色遣いで、しかもかなり戯画化して描いている。色のセンスが抜群。ケルビーノというのは、キューピッドの役割をする天使ケルビムのこと。だから、シェリュバンは羽をつけ、恋をかきたてる。

演奏、演出ともに、いかにもフランス・オペラらしい、小ぶりながら繊細で美しい舞台を作り出す。

 きれいなメロディがしばしば聞こえるが、とはいえ、やはりあまり人気のないオペラだけあって、口ずさみたくなるような親しみやすいメロディというわけではない。とても楽しめるが、やはり名曲ではないな、と納得するのも事実だ。

 

 

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ガーシュウィン 歌劇「ポーギーとベス」 サンフランシスコ・オペラ公演

「ポーギーとベス」は紛れもなく古今東西のオペラの大傑作の一つだと思う。このBDを見ても、音楽の完成度、台本のおもしろさに改めて驚く。よくもまあこれほど革新的なオペラが作れたものだと思う。台本を書いたのはジョージ・ガーシュウィンの兄アイラだが、古今東西のすべてのオペラの中でも出色の出来栄えではないかと思う。アメリカの黒人の文化をヨーロッパ伝統のオペラに完全にしてしまって、しかも、従来のオペラをはみ出している。社会の底辺に生きる人々の生活感がにじみ出ている。演出はフランチェスカ・ザンベロ、指揮はジョン・デメイン。

 とりわけ、この映像は、まず歌手が揃っている。ポーギーを歌うエリック・オウェンズが圧倒的。現代のバリトンを代表する歌手だが、ポーギーこそが最高の持ち役なのではないかと思えてくる。彼が存在したからこそ、この企画があったのだろう。

ベスを歌うラキタ・ミッチェルも、声、そして肉感的な容姿ともにとても魅力的。悪役のチョンシー・パッカー(スポーティング・ライフ)、レスター・リンチ(クラウン)はともに憎たらしく、しかもきわめて魅力的。映画の名優のように演じて、しかも声も伸びている。あの「サマータイム」を歌う清純なエンジェル・ブルー(クララ)も哀れを誘う。登場人物全員がじつにいい。そして、黒人たちの合唱が泥にまみれた宗教性を醸し出していて、とても感動的。神への祈りと欲望、犯罪がまじりあって、これまでのオペラにはない世界を作っている。大いに感動して見た。

 

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イラン映画を見続けている

 ファルハディ監督の「ある過去の行方」を見て以来、入手可能なDVD(ただ、あまりに高価なものは再発売を待つことにする)を購入してイラン映画を次々とみている。簡単な感想を書いておく。

 

「カンダハール」 

 モフセン・マフマルバフ監督作品。主人公はアフガニスタン出身で今はカナダでジャーナリストになった女性。内戦状態のアフガニスタンから脱出するとき、妹が人形に仕掛けられた地雷にふれたために、父親が死亡、妹は足を失った。そのため、妹を現地に置いたまま一人で出国した過去がある。それから数年。妹から絶望したために日食の日に自殺をするという手紙が届いたために、アフガニスタンに入り、妹の住むカンダハールに行こうとする。だが、タリバンに支配された社会では自由に行けるはずもない。しかも、カンダハールはタリバンの本拠地でもある。現地の女性になりすまし、何人もの人の手助けでカンダハールに向かう。そうした状況を描く。

秘密の潜入によるスパイ映画的な緊迫感も見事だが、やはりそれ以上に、タリバンに支配されたアフガニスタンの状況を描くノンフィクション的な訴える力に打たれる。主人公ナファスを演じるのは、実際にアフガニスタン出身の女性。そのせいもあってノンフィクションのようにリアル。色とりどりのブルカをかぶった女性たち、砂漠を行きかう人々。貧しさのゆえにずるく、いやしい人々。しかし、そうでありながら崇高な精神を持ち合わせている。義足が救援物資としてヘリコプターから投下され、それを追いかける片足の男たちの表情には息をのむ。アフガニスタンの凄まじい現実(実際にはフィクションだが)を見る思いがして、唖然とさせられる。そして同時に、色彩の美しさ、人間の営みの尊さも強く覚える。

 

「パンと植木鉢」

 モフセン・マフマルバフ監督の代表作。とてもおもしろかった。

 マフマルバフ監督は10代のころ過激派として、警察官をナイフで襲って拳銃を奪おうとして、投獄された過去があった。マフマルバフに刺されて人生が狂ってしまった元警官が、有名監督になったマフマルバフの元を訪れ、過去のいきさつを映画にしてもらおうとする。監督は、若かったころの自分や警官を演じる俳優を探す。元警官も、若かったころの自分を演じる若い俳優に演技を指導しようとする。そうこうするうち、現在と過去、現実とフィクションが交錯していく。そうした様子がほのぼのとしたタッチで描かれる。

 事件のあったころ、警官はいつも時間を聞くなどして接触してくる若い女性に好意を抱き、その女性に植木鉢をプレゼントしようとしていた。ところが実は、その女性はマフマルバフの共犯だった。女性が警官に気をそらしているうちに、パンの下にナイフを隠したマフマルバフが拳銃を奪おうとしていたのだった。

 かつての事件の撮影は元警官と監督の2チームに分かれて行われるが、時間的にかみ合わずに何度もやり直す。そうこうするうち、暴漢がナイフを用いて警官の拳銃を奪う場面ではなく、警官が植木鉢を差しだし、男がパンを渡す形になってしまう。そこでストップモーションになって映画は終わる。

 かつて暴力によって社会を変えようとした監督が、自分の過去の映画を作ることによって、そうした態度を改め、植木鉢とパンを交換するような、心と心の交流をめざそうとする。そのようなメッセージが伝わってくる。いわば、これは「過去の改竄」だろう。映画監督は自分の過去の映画を作ることによって、暴力的な場面を、心と心の交流の場に改竄しようとする。そのような心理をにおわしている。

 鮮烈な色を用いて現実の政治の世界を鋭く描いた「カンダハール」と異なって、「パンと植木鉢」は、ほのぼのとしたタッチ。しかも、不思議な映画のマジックで、いつの間にか過去が改竄される。その手法が実に面白い。このような趣向に映画をこれまで一度も見たことがなかったので、とても新鮮。

 

「セックスと哲学」  モフセン・マフマルバフ監督

 DVDを買おうとしてネットを検索した際、かなり評価が低いことを知った。実際に見てみたが、確かにあまりおもしろくない。モフセン・マフマルバフが故国イランではなく、タジキスタンで撮影したものだという。確かに、愛について、セックスについて語る映画をイランでは作れなかっただろう。とはいえ、セックスにかかわる映像が実際に映し出されるわけではない。

 ダンス教室を経営する男性が、40歳の誕生日に、同時に付き合っている4人の恋人を呼び寄せ、それぞれとの過去や愛について語る。女性の多くは、自分以外に愛人がいたことにショックを受けて去っていくが、その様子が過去と重なりながら詩的に描かれていく。

 映像は実に美しい。バラやワインの赤、枯葉の黄、そしてあちこちに使われる青や白。ただし、愛について語られる事柄は、単に愛は永遠に続かないということに尽きる。私には少しも説得力がなく、特に惹かれるところはなかった。

 

「私が女になった日」

 脚本はモフセン・マフマルバフ。監督はマルズィエ・メシュキニ。マルマルバフ・フィルウ・ハウスの作品。3話からなる。第1話は、9歳になったために、チャドルを着て大人の仲間入りをする日、最後に子供らしく男の子たちと遊ぶ少女の物語。第2話は、女子自転車レースに紛れて、夫から逃げようとしながら、家族にとらえられる若い女性の話、第3話は遺産が入ったために金にあかせて家事道具一式を買う老女の話。イスラム社会の女性の一生を描いているのだろう。最後の話は、おそらく、これまで何も持たず、何も欲望を満たすことができず、自分らしく生きることができなかった老女が最後になってむなしく夢をかなえる物語といってよいだろう。

 美しい映像、素人風のカメラワーク(パゾリーニの初期の映画「アッカートーネ」の素人っぽさと雰囲気が似ている)、はとても魅力的だが、私としてはちょっと単純すぎてものたりない。時間をかける割に情報量が少なく、ずっと同じシーンが続き、ずっと同じことを語っている印象を持つ。

 

「ブラックボード -背負う人―」

 モフセン・マフマルバフの娘サミラ・マフマルバフが19歳で作った映画。イラン・イラクの国境地帯の子どもたちに勉強を教えるために黒板を背負って方々を歩き回る、いわば宅配の教師たちを扱っている。

 顔の認識が苦手なので、もしかすると間違っているかもしれないが、どうやら二人の教師を追いかけているようだ。一人は岩山の山中で密輸品を運んで暮らしを立てる少年たちちと行動を共にし、銃撃にあって、せっかく心を通い始めた子供を失ってしまう。もうひとりは国境を移動する人々の集団(クルド人らしい)と行動を共にし、ある女性と形だけの結婚をするが、国境付近で集団と別れて独りぼっちになる。

まるで動物の群れのように行動する人々。愚かで、生きることに精いっぱいで、読み書きもできず、しっかりと考えることもできない人々。そして、ちょっと押しつけがましい教師たち。ハリウッド映画のように登場人物に感情移入はできない。ドキュメンタリー・タッチというか、あるいはネオ・レアリスモ風というか。ドラマティックに描かずに、行動の理由についても詳しく説明されずに、淡々と出来事を追いかけていく。しかし、監督が人間たちに共感をもって描いていることはとてもよくわかる。そして、砂漠のような岩山での行動そのものがあまりにリアル。

 どのくらい事実に基づいているのか。イラン・イラク国境付近はこのような状況だったのか。よくはわからないが、ともあれ鮮烈な映像ではある。

 

 

「子供の情景」 

 マフマルバフの末娘ハナ・マフマルバフが19歳のころに撮影した作品。原題は、Buddha collapsed out of shame 。「恥によって崩壊したブッダ」とでも訳すのだろうか。

 アフガニスタンのタリバンがバーミヤンの大仏を爆破した。もちろん、イスラム原理主義者であるタリバンにとって、仏教の偶像崇拝は許されないものだった。仏像の爆破後のバーミヤンに住む少女バクタイの物語。

学校に行く隣の年上の男の子アッバスをうらやましく思い、家の卵を売ってノートと鉛筆を買って学校に行こうとする。だが、卵が割れ、ノートだけしか買えない。しかも、男の子だけの学校からはのけ者にされる。女子の学校を探すうち、タリバンのまねをして戦争ごっこをする少年たちの一団につかまる。やっと逃げだして女子の小学校に到着するが、すぐに追い出される。そして、またタリバンを気取る男の子たちに追いかけられ、アッバスの「死んだほうが自由になれる」という声とともに死んだふりをするところで映画は終わる。

 気の強いバクタイの表情が素晴らしい。演技とさえ言えないだろう。まさに自然。どのような演出したのかわからないが、ほとんどドキュメンタリーのように思える。子供らしい表情が随所に出る。意地を張るところ、けんかするところ、悲しそうにするところ、まさに幼児がそのような感情を持つときに浮かべる表情。そして、気の弱そうなアッバス、タリバンを気取る残酷な少年たち。演技と思えない表情を見せる。アメリカ文化に毒された人間を目の敵にして、本当に人を殺してしまうのではないかと思わせる。

 タリバンが力を持った時代の愚かな人間たちの行動に翻弄される子供の世界を、まさしく子供の視線から描いて見せてくれる。しかも、土色の荒野を背景にした人々の生活のリアリティもすさまじい。ただ、アフガンやイスラム教徒の生活習慣や社会背景をよく知らない私には、謎に思えるところはたくさん残る。学校はいったいどのように機能しているのか、大人たちはどう考えているのか、本物のタリバンはどこにいるのか・・・・など。

 最後の場面、誇り高く生きる気の強いバクタイも、残虐な少年たちに囲まれて、死んだふりをするしかないということなのか。しかも、それを見ている大人たちは、バクタイを助けようともしないで黙々と農作業をするばかり。

「私が女になった日」や「ブラックボード」と雰囲気はとても良く似ているが、子供たちの表情とテーマの衝撃力によって、私はこの映画も最も深い感銘を受けた。

 

「運動靴と赤い金魚」

 マジッド・マジディ監督作品。ちょっとした不注意のために、妹の靴をなくしてしまった少年。家が貧しいために、新しい靴は買ってもらえないどころか、なくしたことも秘密にして、少年の靴を妹と交互に使ってすごす。そんなある日、マラソン大会の三等賞の商品が運動靴であることを知って、大会で三等賞を狙う。ところが、日ごろから走っていたために一等賞になってしまって、靴は手に入らない。ただ、どうやら父親が給料で二人分の靴を買ったようなので、その日のうちに二人は靴を手に入れることになるだろう。

 それだけの話だが、イランの貧しい家庭の状況を手際よく描き、子供の気持ちも手に取るようにわかる。手法としては、きわめてオーソドックスで、まるで一昔前のハリウッド映画を見るよう。

 最後、少年がマラソン大会で疲れた足を休めるために、公園のプールに足を入れると、赤い金魚が、疲れた足をいたわるように寄ってくる。そこで映画は終わる。貧しい中、肩を寄せ合い、愛を示しあって生きる人々の生き様が伝わってくる。ただ、かなり当たり前の愛の物語であって、私としてはあまり心を動かされなかった。

 

「太陽は、ぼくの瞳」

「運動靴と赤い金魚」と同じマジット・マジディ監督。テヘランの盲学校で学ぶモハマド。再婚しようとしている父にとって盲目の息子は邪魔でしかない。長期休暇に入って生徒たちは故郷の村に戻るが、父はなかなか迎えに来ない。遅れてくるが、不機嫌。故郷に到着後、祖母や姉、妹には優しく接してもらえて、幸せに暮らすが、父はやはり邪見にする。そして、父は独断でモハマドを盲目の彫刻家に預けて弟子入りさせようとする。それを知った祖母は怒るが、雨に濡れたのが原因で寝込んでしまい、ついには死んでしまう。父親の再婚相手は、不吉として結婚を断る。父は預けていた息子を家に連れ戻そうとするが、嵐の後だったために途中でモハマドは馬もろとも川におぼれる。父は必死に助けようとするが、海岸に打ち上げられた息子を見つけ、抱きしめる。最後、抱きしめられたモハマドの手が動くが、光の具合が非現実的なところを見ると、実は息があった・・・というのではなく、天に召されたということだろう。

 要するに、目の不自由な息子を邪魔に思っていた父だったが、息子が溺れる段階で必死に助けようとするが、それでも失ってしまう話。

 とても良い映画には違いない。村の色彩が美しい。ただ、話の展開がハリウッド映画風で、ほかのイラン映画のような圧倒的なリアリティを感じない。それに、考えてみると、ほんの少し間に母親と息子をなくし、再婚も破談になってしまう父親があまりに不幸で、私はむしろあまり説得力を感じない。

 

「明日へのチケット」

 イラン映画というよりも国際映画。エルマンノ・オルミとアッバス・キアロスタミとケン・ローチの3人の監督によるオムニバス映画。チケットをもってヨーロッパの列車に乗る人々にまつわる3つの物語による。

 オルミ(私の好きな監督の一人。「木靴の木」はこれまで見た映画の中で最も感銘を受けたうちの1本だ)の短編は、他人にあまり干渉しないできた老教授が、テロによる厳戒態勢の列車の中で、チケットを手配してくれた女性に淡い恋心を抱き、車内で聞こえるショパンの前奏曲をきっかけに昔の恋心を思い出し、困っている子どもを助けようとする話。どうということのない話だが、過去と現在が交錯し、人間関係に臆病な老教授のおずおずしつつも他者に心を開こうとする様子が私的に語られて、私は多い言感銘を受けた。

 キアロスタミの映画は、兵役奉仕(というのがどういうものなのかよくわからないが)のために、列車内でかつての上官の横暴で支配的な未亡人の理不尽な指示に従わされていた青年が、横暴に耐えかねて未亡人を一人置き去りにして逃げ出す話。青年は列車の中で二人の少女と出会い、別人に間違われ、そのままその人間になりきって話を合わせる。現在の自分とは異なる自分を夢想しているうちに逃げ出す決意をしたということだろうが、二重人格的なところがいかにもキアロスタミの映画らしい。

 ローチの短編は、サッカーチーム、セルティックを応援にローマに向かうスコットランドの3人組の青年の話。切符をアルバニアの難民に盗まれるが、その苦労話にほだされて、自分たちのチケットを譲ってしまい、無賃乗車で捕まることになる。平凡だが気のいい3人の演技が素晴らしい。演出力のすごさというべきだろう。「ちょっといい話」としてみごとな仕上がり。

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 ラザレフ+日フィルの個性的なブラームス

 6月8日、相模女子大学グリーンホールで日本フィルハーモニー管弦楽団相模原定期演奏会(マチネー)を聴いた。指揮はアレクサンドル・ラザレフ。前半には上原彩子が加わってショパンのピアノ協奏曲第1番、後半はブラームスの交響曲第1番。全体的にはとても良い演奏だった。

 ショパンについては、実は少しちぐはぐな気がした。ピアノは間違いなく軽やかで抒情性を持っていながらも力感にあふれた情熱的なショパンを演奏しているのだが、オーケストラはそれについていかない感じ。少し重いというか、力点の置き方が異なるというか。なんだか納得できないまま終わってしまった。

 とはいえ、実はピアノの独奏曲をほとんど聞かず、しかもショパンを長年避けてきた私にはショパンを語る資格はない。

 後半のブラームスはとてもおもしろかった。

 きわめて個性的な演奏。これまでこの曲で聞いたことのない音がしばしば聞こえてくる。スケールが大きく、力にあふれ、あれこれといじっていながらも全体的なまとまりがくずれない。渋いブラームスという雰囲気はなく、金管楽器が大活躍し、跳ね回り、躍動するブラームス。やはりロシア的という言葉がふさわしいだろう。チャイコフスキーやスクリャービンを聴いている気持になってくる。私の好きなブラームスではないが、これはこれでとても魅力的。

 アンコールはスラブ舞曲。不思議な雰囲気だった。曲が終わった後、ラザレフはしばしば観客に向かってジェスチャーをして、煽ろうとする。「もっと楽団に拍手してあげてください」といっているのかもしれないが、ロシア人のジェスチャーはどうも通じにくい。ラザレフがとてもおもしろい人物であることは伝わるのだが、もう一つはっきりとつかめない。彼の音楽を聴いているのと同じ印象だと思った。

 相模女子大グリーンホールは相模大野駅近くにある。私の家からは行きやすい。相模女子大は昔、非常勤で教えていたこともあるので、なじみもある。もっと都心ではなく、ベッドタウンで多くのコンサートをふやしてほしいと思った。

 

 ところで、少し近況報告をしておく。

 先週見たMETライブビューイングの「チェネレントラ」のディドナートの歌がすごかったので、しばらくうっとりしていた。車や自宅でもディドナートのCDを聴いていた。近いうち、セールがあったら、ネット販売で大量にロッシーニのオペラDVDやディドナートのCDを購入しようと思っている。

 先週あたりから、やっと少しずつ2台のwindows 8を使い始めた。ところが、outlookのメールの一部が消えたり、表示が少し前まで日本語だったのに、別の画面を見て戻すと英語に変わってしまい、その後、どうやっても戻らなくなったりとトラブルが絶えない。しかも、

ipodで聴くために使っているitunesの音楽を移動できずに困った。ところが、あれこれいじっているうちに、重要な変更が行われてしまったらしい。どうしようもなくなって、アップルと東芝のサポートセンターに電話をして、2時間くらいにわたって、あれこれと教えてもらって修復。とても親切に教えてくれた。感謝。

 ただ、実はまだ完全に機能するようになったわけではない。昨日の夜、突然、パソコン画面が真っ暗になり、その後、「お使いのPCは修復する必要があります」という表示が出て、そのまま動かなくなったので、びっくり。あきらめて寝たが、朝起きてみたら、一応、使えるようになっていた。

 パソコンについては、摩訶不思議なことばかり。私が使用しているのは、ワードとメールと音楽関係。そして、ネットを覗くくらい。摩訶不思議なPCのほんの1パーセントくらいを、それなりにわかった気になって使っているが、その実、何一つ理解しているわけではない。きっと人生も同じように摩訶不思議な世界のほんの一部の中で生きているにすぎないのだろうが・・・。

 ところで、先週、とても残念なことがあった。

 金曜日の昼、同僚二人と、多摩大学近くにあるフランス料理の店エル・ダンジュに昼食を食べに出た。感動的においしいスープ。サラダも肉も最高だった。3人で口々に感動を言い合っていた。が、午後の授業時間が迫ったために、デザートを食べる暇なく店を出なければならなかった・・・・。無念。

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セルビア洪水募金ありがとうございました

 

 

先日、セルビア大洪水のための募金をこのブログで呼びかけました。

 

何人もの方のご協力いただき、ありがとうございました。

 

ネマニャ・ファンクラブ「プレピスカ」では、5月末を一応の締め切りとして、会の代表がセルビア大使館に出向いて皆様の募金を寄付してまいりましたので、ご報告いたします。

 

 

 

最終募金額は349,050円ですが、端数となったため、プレピスカの会費から950円上乗せして、総額35万円を寄付金額としました。

 

セルビア大使館の職員の方の話では、「ベオグラードは水が引いてきていますが、南部では浸水が続いている状態です。これからは、衛生面の悪化が懸念されています。頂いた募金は、責任をもってセルビアに送ります。本当にありがとうございます」とのことでした。

 

心より感謝申し上げます。

 

この記事の詳しい内容は以下の「プレピスカ」からの報告をご覧ください 

 

https://www.facebook.com/pages/Nemanja-Fanclub-Prepiska%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%94%E3%82%B9%E3%82%AB/199242906768733

 

 

 

 

 

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METライブビューイング「ラ・チェネレントラ」 ディドナートがあまりにすごい

東銀座の東劇でMETライブビューイング「ラ・チェネレントラ」を見た。指揮はファビオ・ルイージ、演出はチェーザレ・リエーヴィ。とてつもない名演だと思った。

 チェネレントラとは、もちろんシンデレラのこと。ロッシーニ作曲のシンデレラの物語だ。

 チェネレントラを歌うジョイス・ディドナートがあまりにすごい。とりわけ最後のアリアは言葉をなくすようなテクニックと声の美しさ。しかも、映像の中でルイージが言っていたとおり、役と完全に一体化している。あまりの凄さに涙が出て来た。ディドナートがこの役を歌うのはこれが最後だという。METだけでの「引退」なのだろうか。どういう事情があるのか知らないが、あまりにもったいない。これ以上のチェネレントラが存在するとは思えない。

 王子を歌うのはフアン・ディエゴ・フローレス。大人気の歌手だが、実は私はあまり好きではなかった。声の輝きが不自然な気がする。それに、若い頃、かなり音程が怪しかった記憶がある。とはいえ、やはりこうして聞くと、実に素晴らしい。高音の美しさは比類がない。ディドナートとのコンビはほかには代えがたい。

 そのほか、ドン・マニフィコを歌うアレッサンドロ・コルベッリも実に芸達者。歌い回しもさることながら、喜劇的な演技も見事。そのほか、アリドーロを歌うルカ・ピザローニ、ダンディーニを歌うピエトロ・スパニョーリも申し分なし。2人の姉の喜劇的な演技も最高。すべての登場人物が圧倒的な名演技を見せてくれる。

 そしてルイージの指揮もまた素晴らしい。生き生きと躍動し、しかも細かいところにまで神経が行き届き、楽しく美しい。これぞロッシーニの醍醐味。この曲を演奏するのは初めてだというが信じられない。ロッシーニのクレシェンドをうまく演奏するコツは、焦らずに抑制すること・・・と語っていたが、なるほどと思った。

 先日の「コジ・ファン・トゥッテ」も素晴らしいと思ったが、それ以上。我を忘れ、ただひたすら興奮していた。名演ぞろいのMETの上演の中でも最高の部類に入るのではないか。

 

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ネゼ=セガン+フィラデアルフィア管に興奮

 6月2日、サントリーホールでフィラデアルフィア管弦楽団のコンサートを聴いた。指揮はヤネック・ネゼ=セガン。素晴らしい演奏。大いに興奮した。

 前半は諏訪内昌子が加わって、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲。諏訪内の情熱的でありながらも折り目正しい美しいチャイコフスキーに対して、ネゼ=セガンの指揮はかなりダイナミックでうねり、律動し、高揚する。音楽性にかなりの違いはあるが、それがうまく折り合って、面白い味わいを出していた。うねってダイナミックなオケをバックに、すっくときれいな音楽が奏でられる。形が崩れず、下品になることがない。チャイコフスキー特有の憂愁美もあり、激しい情熱もある。むしろ、このような激しいオケがバックであるだけに、諏訪内のヴァイオリンの美しさが引き立つ感じがした。

 後半は「悲愴」。これは凄まじい名演だと思った。強調するべきを強調し、緊張感があり、メリハリの強い音楽を作っていく。力感があり、魂の爆発がある。ドラマティックであると同時に、感情に訴える力も強い。抒情性にも事欠かない。第一楽章第二主題のメロディの歌わせ方のうまさには舌を巻いた。何と美しくなんと抒情的であることか。そして展開部の盛り上がりも素晴らしい。

 フィラデルフィア・サウンド健在。かつての軽やかで華やかな音ではなく、かなり深みが増しているが、しかし、最高に美しく色鮮やか。素晴らしい音が重なり、得も言われぬ音の世界を作っていく。すべての音がクリアに聞こえ。それでいてデモーニッシュに輝いている。第三楽章の後半、クライマックスへの盛り上がりも圧倒的。第四楽章の悲劇的な音楽も感情がこもっている。深く沈潜した、しかし熱い情熱にあふれた音楽。

 私がネゼ=セガンの凄さを知ったのは一昨年のザルツブルク音楽での「ドン・ジョヴァンニ」だった。悪の魅力にあふれた情熱的で凄みのある演奏だった。その後、CDを何枚も聴いて、大好きな指揮者の一人になった。ただ昨年だったか、ロッテルダム・フィルとの来日公演でブラームスを聴いて少しがっかりしたのだった。

 チャイコフスキーを聴きながら、ブラームスの音楽の作りも確かにこのような感じだったことを思い出した。これだと、間違いなく私の好きなタイプのブラームスにはならない。うねり流動し、感情を激しく表出させるオペラ的なブラームスだった。だが、チャイコフスキーであれば、これがぴったり。第一楽章の展開部、第三楽章後半、第四楽章後半はずっと興奮していた。

 アンコールは「エヴゲニ・オネーギン」のポロネーズ。これも見事。力感にあふれ、音楽の楽しさにあふれている。

 ネゼ=セガンは大指揮者だと改めて認識。また、フィラデアルフィア管弦楽団がとてつもなく素晴らしいオーケストラであることも改めて実感。

 最高の音楽。心の底から満足できた。

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