フジコ・ヘミングを初めて聴いた
6月21日、武蔵野市民文化会館大ホールで、フジコ・ヘミングとN響メンバーによる名曲モーツァルトの夕べを聴いた(主催:サンライズプロモーション東京、提携:(財)武蔵野文化事業団)。指揮者なしの演奏。ちょっと欲求不満。
最初にディヴェエルティメントニ長調K136と「ジュピター」。ディヴェルティメントに関しては、とても美しい音で、指揮者がなくてもとてもアンサンブルもしっかりしていると思った。だが、「ジュピター」ほどの大曲になると、やはり指揮者がいないとつらい。時々アンサンブルが曖昧になり、とりわけ緩徐楽章で集中力が途切れる印象を受けた。ただ、第4楽章はなかなかの迫力。
後半、フジコ・ヘミングが加わって、モーツァルトのピアノ協奏曲第21番。私はもともとピアノ曲はあまり聴かないし、フジコ・ヘミング現象には無関心だった。ところが、最近、信頼できる人がフジコ・ヘミングを高く評価していると知って、一度聴いてみたいと思ったのだった。
とても印象的な音。きっとフジコ・ヘミングが好きな人は、この音に惚れるのだろう。だが、音の連なりがあまりに個性的で、私には形が崩れているように思える。恣意的というか、あまりに不安定というか。このように演奏されると、モーツァルトらしくならない。ロマンティックになりすぎ、モーツァルト特有の美しさ、特有の悲哀がこもらない。この曲をこのように演奏されると、私はちぐはぐに感じてしまう。
しかも、このような個性的なピアノにオーケストラがついていかない。指揮者がいれば調整できるのだろうが、それがいないので、乱れてしまう。
そのあと、フジコ・ヘミング一人が残って、ショパンの遺作のノクターンと、「ラ・カンパネッラ」。モーツァルトよりはずっと感銘を受けた。が、これも私には、あまりに不安定で恣意的に聞こえる。
ところで、コンサートの運営について考えさせられた。曲間だけでなく、楽章の合間にも、遅れてきた客を入れるため、演奏中も客が席を探している。そのためもあって、コンサート会場がざわつき気味になり、普段以上に、演奏中に話をする人、ガサガサと音を立てる人が多いように思えた。クラシック音楽のコンサートらしからぬ雰囲気を感じた。
私たちのゼミがコンサートをする時に、これらのことに気を付ける必要がありそうだ。
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コメント
フジコさんは何度か実演を聴きましたが、昔はともかく、ここ数年はその日の自分が最初に出した音でその日の弾き方を決めるような、しかも演奏中に、突然何か気が向いたり閃くと、それまでのことはそのへんに置いといて、そのままそれらを実践してしまうという、かなり自由気まま、悪く言えば野放図な演奏者という気がしました。
この人が猫がとても好きなのは、そんな自分のスタイルと猫の気ままで、自分本位な生き方がダブってるのかもしれません。
ですから室内楽や協奏曲は基本あまり向いてませんし、ソロそのものも、きわめてその日暮らしのいきあたりばったりというかんじのものが基本となっているようです。
俳優でいえば勝新太郎さん、落語でいえば「まくら」における柳家小三治師匠、そしてピアニストではチェルカスキーがこのタイプなのかもしれません。
何が出てくるかはその日そのときのお楽しみというタイプなので、それを知らないとかなりしんどいかもしれません。
投稿: かきのたね | 2014年6月26日 (木) 22時02分
かきのたね様
コメント、ありがとうございます。
おっしゃる通りだと思います。そうですね、「行き当たりばったり」という感じが、私の受けた印象に最も近いと思います。私はフジコ・ヘミングは初めてでしたので、大いに戸惑いました。
次回、聴くときには、心したいと思います。
投稿: 樋口裕一 | 2014年6月27日 (金) 23時40分