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河瀨直美監督の映画に感動

 河瀨直美監督の映画をまだ見たことがなかった。カンヌ映画祭で受賞がかなうのではないかということで話題になっていたので、何本か見てみた。制作年代とは異なるが、DVDを見た順番に感想を書く。

 

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「殯の森」

 素晴らしい映画。カンヌ映画祭のグランプリ受賞作のわりに、必ずしもみんなが高い評価をしているわけではなさそうなので、最初に見てみた。この一本で、私は、最も高く評価する側に位置することになった。日本映画の最高峰の一つだと思う。もう少し前に見ておくべきだったとつくづく思った。監督に対して少し偏見を抱いていたことを深く反省!!

 認知症患者をケアするグループホームに新任の介護士(尾野真千子)がやってくる。彼女は、息子を亡くしたばかりで、まだ癒えていない。そこで、ずっと前に妻を亡くして認知症を患っている初老のしげき(うだしげき)と心を通わせるようになる。そして、ある日、介護士の運転でしげきとともに出かける(説明がほとんどないので、よくわからないが、どうやら亡き妻の墓参りに出かけたということのようだ)、途中で車は脱輪し、森を歩くうちに遭難し、大雨に襲われながら夜を明かす。濡れた体を温めるうち、二人は性的な関係を持つ。そうして、生命の木に出合い、妻の墓に辿りつく。

 生とは、そして死とはこのようなものなのだとつくづく思う。まさしく、生そのものの営みを描き出した映画。昔、新藤兼人監督の「裸の島」を見て深く感動した記憶があるが、それに通じる生命の賛歌。賛歌とはいっても、素晴らしさをたたえるのではなく、どうしようもない悲しみや理性ではコントロールできないエネルギーに翻弄された生そのもの、そして否応なく迎えざるを得ない死そのものを肯定的に描いている。人間を超えた生命そのものの力のようなものがひしひしと感じられる。そして、その生命の世界の中で、人は精一杯に生き、他者を支え、頼りあい、もたれあい、苦しみ、性の営みを行い、死を迎え、他者の死を味わう。それらが画面から立ち現れる。これこそが生の本質だと思う。それをきわめて抒情的に描き出している。

 映画の最後で語られる通り、タイトルの殯(もがり)とは、本葬の前に遺体をしばらく安置して死を確かめることをいうらしい。語源的には「喪あがり」だといわれる。この現世を、死の世界への通り道ととらえているがゆえにタイトルなのかもしれない。

 それにしてもなんと美しい映像だろう。茶畑、森、木、草がまさに生きて、存在している。しばしば風が吹いて植物が揺れるが、まるで死者の魂が、あるいは生命そのものが自然を動かしているかのようだ。それらの風景から、生命の神秘と人間がつながっていることを、この映画は、これ見よがしにではなく、淡々とわからせてくれる。

 プロの役者はほんの数人らしい。主人公の刺激を演じたのも、まったくの素人だという。それが実に素晴らしい。演技ではなく、まさに地のままの生が現れる。セリフがほとんどなく、それらのセリフも特に意味がないのが、実にいい。新藤の「裸の島」は、確かまったくセリフのない映画だったが、生の営みそのものを描こうとするとどうしても、言葉は少なくならざるをえない。このような映画で、プロの役者が演技をしたら、どんなにテーマをぶち壊しにしてしまうことだろう。それを的確に計算する監督の才能たるや恐るべし。

 私自身これまで偏見を抱いて見なかったのにいうのはおこがましいが、こんなすごい映画があまり理解されなかったということが、私にはとても意外だった。

 

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「沙羅双樹」

 これも稀有な名作だと思う。私は大いに圧倒されてしまった。

 5年前に双子の兄と遊んでいるうちに、突然、兄が神隠しにあったかのように行方不明になってしまった過去を持つ高校生の少年が主人公。わだかまりを持ちながら暮らしているところに、行方不明になった兄が見つかったという話が起こる(ただし、その後、その話がどうなったのか映画の中では触れられない)。近所に暮らす同級生の女の子も、同じころ、育ての母が実の母ではないと打ち明けられて、平静ではいられない。その二人の高校生がキスを交わし、心を通わせていく。そして、バサラ祭りの日、少女は集団の先頭に立って町を踊り歩くが、狐の嫁入りのように突然、大雨になり、ずぶぬれになる。そうなりながら、何かから吹っ切れたように踊りまくる。その後、少年の母が自宅で出産。その現場に二人の高校生も立ち会う。

 それだけの話なのだが、奈良という歴史を持つ古い街の中の人間の生命の営みが鮮烈に描かれていく。

 先祖や家族の死があり、代々続いてきた生活があり、新たに生まれる生命がある。何気ない生活の中に先祖への思いがあり、土地の霊が宿っている。バサラ祭りはまさしくディオニュソスの祭りを思わせる。死に彩られた生命を燃やす。この祭りの場面は実に美しい。

「神隠し」という不思議な出来事それ自体も、そしてその真相も映画の中で明らかにされないことが、土地の霊の雰囲気を高める。そして、最後、生まれたばかりの赤ん坊を映したカメラはそのまま移動して、ふらふらと古い家並みを通って屋根へと昇り、空へと上がっていく。まるで、家族を見守っていた先祖の霊が空の上へと浮遊するかのように。

 昔から淡々と続けられる生と死。悲しいことも苦しいことも慟哭もつらいこともあるが、ともあれ、ごく日常的でありふれた生と死の営み。それが飾らぬ日常を描くことで露わ荒れてくる。

 プロの役者は父親役の生瀬勝久と、少女の母親役の樋口可南子くらい。ほかのほとんどはほぼ素人が演じる。主人公の母親役は河瀬監督自身。ドキュメンタリー・タッチで、演技らしさのない演技で描かれていく。このような映像を見ると、私たちが普段、どれほど不自然な演技をするドラマに慣れさせられているかを思い知らされる。自然で日常的なやり取りが実に生き生きとしている。このようなタッチだからこそ、日常の中の生と死というテーマが浮き彫りになる。

 どうやら配役は目力(めぢから)で決まったのではないかと推測する。高校生役のふたりも目力がある。生瀬は役者の中でもとびきり目力のある人。ただ、生瀬の目力は異様なほどなので、実は少し違和感を覚えた。

 

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「朱花の月」

 これも名作だと思う。

 太古の時代に香久山と耳梨山が畝傍山を巡って争ったように、太平洋戦争の頃の祖父母の時代、そして現代において、二人の男が一人の女性を巡って争う。土地と血縁と自然が織りなす。代々にわたって同じような生を生き、脈々とつながる生と死、そして性の営み。そのような世界が、奈良の飛鳥を舞台に、説明を排したドキュメンタリー・タッチで描かれる。

 一言でいえば、戦争中に愛し合っていた男女の孫たちが、時代を経て、同じように恋に落ち、朱花(「はねづ」と読むらしい)の染物を行う女性が、現代的な仕事(PR誌の編集者)をしている夫(ネットで見たところ、正式の夫ではないらしい)を捨てて、自然とともに生きる木工作家の男にひかれ、夫のほうは自殺をする・・・という物語。

 万葉の時代から続く明日香の圧倒的に美しい自然、とりわけ三つの山、そして地中に埋まった都を背景に、人間の業とでもいうべきものが、少しの誇張もなく淡々と描かれる。映画的な演技は抑え、自然に演じられるので、本物の存在感をもって祖父母の時代と現代の男女の相克が浮き彫りになる。土地に根付いて生き、歴史と一体となった人間そのものの姿が見えてくる。

 カナリア、燕、虫が強調される。鳥かごの中で息苦しく生きる動物カナリア、つがいとなって飛翔する燕、そして心の底でうごめく本能としての虫、そんな象徴的な意味があるのかもしれない。が、いずれにせよ、昔から続く生命の連鎖が映画全篇を彩っている。

 女主人公(大島葉子)と同居する男(明川哲也)と恋人(こみずとうた)をあえて長髪の似た雰囲気の男性にしているのかもしれないが、顔の識別の苦手な私としては、しばしばどちらの男性なのかわからなくなって困った。カンヌ映画祭に出品されたというが、外国の人々に見分けがついたのだろうか。心配になってきた。とはいえ、三人ともに実に魅力的。とりわけ、大島葉子の清楚でありながら、どこかエロティックな容姿に大いに惹かれた。

 

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「萌の朱雀」

「殯の森」に匹敵する稀有の名作だと思う。これが河瀨直美の劇場映画デビュー作とは思えないほど完成度が高い。圧倒されると同時に、後半涙が出てきた。

 ほかの河瀨映画と同じようにセリフが少なく、説明が排除されている。ストーリーや人間関係、登場人物の心の動きをほんの少しのほのめかしから読み取らなければならない。しかも、登場人物は大げさな動きはしない。そうであるがゆえに、まさにリアルに山里で生きる人々の生のあり方を追体験できる。実人生も、実はこのような不確定で曖昧な事柄の連続で成り立っており、大袈裟でドラマティックな葛藤が大声で演じられるわけではない。だからまさしく実人生を切り取ったかのようなリアリティ。

 舞台は奈良の山奥で、男(國村隼)と妻、その娘みちる、男の母親が男の姉の子ども栄介を引き取って5人で暮らしている。みちると栄介は仲の良い兄と妹のように育っている。それから10年後。鉄道がとおる予定だったが、中止になる。男は希望をなくしており、今では甥の栄介の収入で細々と暮らしているようだ。妻は働きに出ることを決意するが、体が弱くてすぐに倒れてしまう。男はいよいよ気力をなくし、8ミリカメラを持って出かけ、そのまま自殺してしまう。残された妻は中学生の娘(尾野真千子)とともに実家に帰ることにする。そして、栄介と祖母も住み慣れた山里の家を離れ、栄介の働き口の近くに住むことにする。栄介は男の妻に女性としての魅力を感じているらしい。そして、みちるは栄介に恋心を抱いている。だが、離れ離れになる。

 それだけの話なのだが、一人一人の思いが交錯し、それぞれの考えに納得ができ、しみじみと人生を感じさせる。しかも、山里の自然の美しさ、少しずつ形を変えながら繰り返される日常、悲しい思いを抱えながらも平凡に生きていく人々の生のあり方などが重なり合って、歴史を重ねて生きてきた人類の生の重みを感じさせる。

単に山間部の過疎化を描く映画ではない。自然の美しさを訴える映画でもない。もちろんメロドラマでもない。脈々と歴史の中で続いていく悲しみと愛にあふれた平凡な人間の日常生活への愛おしさを通して、人間そのもの、歴史そのものを描きだしている。

 男が死ぬ前に撮影したとされる8ミリ映像が映し出される。平凡な人々の生、日常の生活、そして自然の風景が続く。まさしくこれこそが脈々と生きてきた人間の生だと思った。そう思って涙が出てきた。

 今や大女優になった尾野真千子のデビュー作。河瀬監督がたまたま声をかけたのだったという。初々しくて素晴らしい。自分が中学生だった頃を思い出しつつ、そうか、あのころの同級生の女の子たちはこのような感性を持っていたのか・・・と納得しながら見た。

この映画の最後、「沙羅双樹」と同じようにカメラが上昇して家を見守る霊の存在を暗示する。風鈴の音が鳴る。見えない存在の音。このような一画面一画面に監督の思想がこめられてる。

 

4本の河瀨映画を見て、私はこの監督を小津、黒沢、大島、北野とつながる歴代の世界的名監督を凌駕する存在だと思った。これまで見なかったことを恥じた。

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