« ネマニャ 相変わらずの凄み! | トップページ | 多摩大寄席とネマニャのイベント »

マリボール国立歌劇場公演「アイーダ」 少々退屈した

 10月21日、武蔵野市民文化会館大ホールでスロヴェニアのマリボール国立歌劇場公演「アイーダ」を見た。

 実は、「アイーダ」の実演を見るのは初めて。もちろん40年以上前から録音や録画には触れてきた。が、初めて聴いた時から、「カルメン」や「ラ・ボエーム」などとともに、これのどこが名曲なのかよくわからなかった。つまり、「アイーダ」は私の苦手なオペラの一つ。何度聞いても、何度見ても、あまりおもしろいと思わないまま現在に至っている。そのようなわけだから、大枚はたいて「アイーダ」を見る気が起こらず、武蔵野で低料金で上演されるのを機会に見てみようと思ったのだった。

 で、結論を言うと、やはりあまりおもしろいと思わなかった。そして、どうせ見るのなら、超一流の劇場の上演を見るべきだったと反省した。

 歌手はそろっていた。ラダメスのレンツォ・ズーリアンは声量たっぷりの美声。出演者の中では図抜けていると思った。アイーダのアンダ=ルイゼ・ボクザも声量があり、声も美しかった。アムネリスのイレナ・ペトコヴァも美しい声。女性陣は容姿も魅力的。ただ、全体的にいえるのだが、どの歌手も細かい処理がちょっと雑な感じで、びしりと決まらない印象は残った。だから、アリアでも、せっかく声は出ているのに、強い感動を呼ばない。

 私としては、オーケストラに大いに不満を抱いた。かなり大雑把な音楽づくりで、細かいところが合わない。オケのバランスも崩れるし、オケと歌もピタリと合わない。楽器が音をはずしたところも数か所あった。合唱も出だしがそろわない。めいめいが勝手に演奏している感じで、指揮者(フランチェスコ・ローザ)がコントロールできていない。演出は昔懐かしいタイプ。きわめて当たり前の演出だった。

 そのような演奏だったせいもあるかもしれないが、私はやはりアイーダにもラダメスにも感情移入できない。ストーリーにも納得できない。感情移入できずにいるのに、音楽が煽り立てるので、居心地が悪くなる。ヴェルディのオペラで時々起こる現象だ。今日もそれが起こって、少々退屈した。

 近いうち、最高レベルの演奏で「アイーダ」を見ることにしよう。それを見てからでないと、私にとっての「アイーダ」の真価について判断できない。

 コンサート疲れしている。10月は調子に乗ってチケットを購入しすぎた。なんだか、コンサートに追われている感じ。仕事がたまっている。

 

|

« ネマニャ 相変わらずの凄み! | トップページ | 多摩大寄席とネマニャのイベント »

音楽」カテゴリの記事

コメント

樋口先生
 スロヴェニアのマリボール国立歌劇場公演「アイーダ」をご覧になったとのこと。
 誤解があってはいけませんが、東京都心ならずとも、武蔵野で「アイーダ」や「ネマニヤ」など、世界一流の芸術が鑑賞出来るなど、一昔前は夢にも考えられなかったことですね。良い時代となりました。
 先生ほどの見功者にかかっては、流石の「アイーダ」も顔色無しというところでしょう。いろいろと御指摘のあった点はその通りだろうと想像いたします。
「感情移入」や「ストーリー」展開等は、演出家の腕に左右されるところも大きいのでしょう。

>>超一流の劇場の上演を見るべきだった

 との御意見、ごもっともです。
 その際には改めての御感想を御願いいたします。

 私にとっての「アイーダ」は、とても大きな存在です。私にとっての「超一流の上演」と言うべきものは、終戦後、初来日したイタリア歌劇団公演でした。もう半世紀も前の出来事(むしろ、戦後の音楽文化の大事件)でしたが、初めて本格的オペラというものをナマで鑑賞出来た日本人は(勿論、私はオペラは生涯初めて)圧倒、驚倒させられたものです。
 オーケストラは全力投球の感のあったN響で、このオペラ公演はいま考えても「超一流の上演」の名に恥じないものと思われます。
 私はこの時、幸運にも「アイーダ」の奴隷役(科白なしのアルバイト)で、当時のモナコ、シミオナートといった超一流歌手と同じ舞台に立つ(30秒の出演)ことが出来ました。生涯唯一の自慢話です。
 「アイーダ」の舞台は、ファラオのエジプト時代、エチオピアとの戦争にまつわる一種の悲恋物語です。史実との相違点など詮索するのは野暮な話でしょう。感情移入という面では人によりましょうが、私は、エジプトのラダメス将軍とアイーダ(エチオピア王女)の恋路を嫉視するアムネリス(エジプト王女)の女心の明暗を描いたもの------という点に興味を持って視ています。
 オペラでは、アイーダが故郷を憶って歌う「望郷の歌」(第3幕)が絶品で、いまもこの好演を凌駕する名唱はあるまい、と思っています。
 このアイーダは私にとっての「大事件」でしたので、以来、アイーダ公演と聞くと、いつも緊張させられます。
 その後、アマチュアオーケストラで市民オペラ「アイーダ」に参加する機会を得て「アイーダ」の、特に奴隷たちの出演------ に対する愛着が深まりました。
 この「アイーダ」公演のビデオを見せて貰うと、超一流劇場の上演とは程遠く、涙が出るくらいのお粗末な舞台です。それでも全員熱気で頬を赤くして頑張りました。
 私の「感情移入」の拠り所となっています。
 思いで話を長々として失礼致しました。

投稿: 権兵衛 | 2014年10月23日 (木) 17時24分

権兵衛様
コメントありがとうございます。
「アイーダ」に出演なさったのですか!! 素晴らしい経験をお持ちなのですね。
ただ、ドイツ音楽一辺倒だった私は、「ドン・カルロ」「ファルスタッフ」などの少しドイツ的、ワーグナー的な要素のあるものは抵抗なく受け入れられるのですが、そうでないものはなかなか素直になれずにいます。そのためにも、よいものに一度接してみたいと思っています。
ところで、「技術系」と「音楽学系」のお話、興味深く読ませていただきました。私が強く感じているのは、日本語のアクセントは、クラシック音楽には向かないのではないか、日本語を母語とすると、どうしても平板な音感になってしまうのではないかということです。もちろん、そうでないことを願うのですが、気になってしまいます。

投稿: 樋口裕一 | 2014年10月24日 (金) 16時17分

樋口 先生
 コメント 有難うございました。
 私はオペラは初心者なみで、筋立てはともかく、イタリアもの、フランスもの、ワグナー風、など、音楽、演出、歌唱が素晴しければそれで万歳というレベルです。
 それで教えて頂きたいのは、先生の言われる、

>>ワーグナー的な要素

とは、どのようなものなのでしょうか。 
 漠然とした御尋ねですが、ライトモチーフがあることでしょうか、音響(音楽)的な面でしょうか。「ワーグナー的な要素」に共感しない楽派とどう対立しているのでしょうか。素人の鑑賞に影響しておりましょうか。今後どるなるのでしょう。
 どんな本をよめばよろしいですか。

 演奏面では「祝婚歌」「ヴァルキューレ」「タンホイザー行進曲」ぐらいなら良いのですが、ワグナーと聞くと、まずその「長さ」に辟易させれてしまいます。
 演奏技術は難しく、オケ指揮者は、団員が煩いと「タンホイザー序曲」「ボレロ」をやるぞ、と脅かすと、団員たちは黙る、という話があります。「タンホイザー序曲」の弦は殺人的ですから。

>>日本語のアクセントは、クラシック音楽には向かないのでは

 これについては、オペラを日本語訳する時に苦労があるようです。まず邦語の長いのを縮める苦労があり、それが出来ても、次ぎは「アクセント」で、歌唱に迫力を欠く、という次第です。
 邦人作のオペラでは最初から良く配慮されているのでは、と思われますが。
 日本で良く歌われる「第9」は、これを流行らせるために「カタカナ訳」を付けるとかの苦心があるようですが、とにかく歌ってしまえ、という日本人の熱意にはベートーヴェン先生も脱帽でしょう。

 それかから、マリボール国立歌劇場「アイーダ」には、いろいろと難点があって退屈されたとか。
 先日、御紹介した岡田暁生氏の「実技系」と「音楽学系」のエッセイでは、「実技系」は「文章」(音楽批評)に反発を覚えることがあるそうです。
 マリボール国立歌劇場は、まさに「実技系」集団ですから、もし先生の辛口批評を読まれたら、発憤して次回来日公演での成功(雪辱?)を心に期していることでしょう。

 ここで、マリボール国立歌劇場 擁護のために、私の経験を申しあげてみます。
 それは演奏面で「ズレ」のようなものがある、という事ですが、これについては私が聞いたパリ/オペラ座/カラスの「カルメン」で、オケ、歌唱等に「ズレ」が聞こえた、ということがあります。
 これは、察するに、オケピットを隔てた指揮者とステージ(更にステージ裏のバンダ隊)との距離感が影響しているようなのです。
 これは、余程、劇場の音響に詳しい演出家、音響担当の指摘を得なければならない点で、演奏者自身には自覚出来ないことです。
 オケピット内のオケは、ステージが全く見えず、指揮者だけが頼りです。演奏がオケピットを這い上がって客席/ステージに届くまでには、若干の時間を要しましょう。(ウイーンフイルのようなベテランオケなら、指揮者を無視し、ステージの音を聞きながら演奏してしまうでしょうが)。
 マリボール国立歌劇場の名誉のために、付記しておきましょう。

 もう一つ、「実技系」は演奏技術に執心するあまり「文章」に弱い、と言われています。アマチュアは、俺の演奏を聞けば、俺の心が分るだろうーーーと言えるほどの自信も(自惚れも)ありません。
 ただ偉大な例外があります。
 「ロシアから西欧へ」(ミルステイン、春秋社)。
 ヴァイオリンのミルステインがピアノのホロヴィツと組んでの(凄いデユオ!)演奏旅行の途次、出会った音楽の巨人たちとのエピソードを綴ったものです。
 話に出てくるのは、イザイ、セルゲイ ラフマニノフ、ストラヴィンスキー、フルトヴェングラー、トスカニーニ、クライスラー、オイストラフ、バランシン、等々、目を見張るばかりの巨匠たちです。
 素人は、サインを貰うだけでも「事件」なのに、会って対談できっるほどの演奏家/教養人が日本に居るでしょうか。驚くべきことです。権兵衛

投稿: 権兵衛 | 2014年10月26日 (日) 15時49分

権兵衛様
コメント、ありがとうございます。
私が「ワーグナー的要素」といったのには深い意味はありません。ヴェルディは後年、ワーグナーの影響を受けますので、それを指して言ったつもりでした。ライトモティーフということ以上に、歌をつなぐお芝居ではなく総合芸術としての楽劇にするということのほうにヴェルディは関心を持ったのだろうと思います。
私が書いた「日本語」の件につきましては、何の検証もしていない単なる勘ですので、まだまだ考えてみる必要があると思っています。
ところで、最近、合唱指揮者の三澤洋史さんの「オペラ座のお仕事」という本を読んだのですが、少なくとも私がみたマルボール国立歌劇場の上演の際、合唱指揮者がうまく機能していなかったのではないかと思いました。なお、三澤さんは実技者ですが、素晴らしい文章を書く方だと思います。

投稿: 樋口裕一 | 2014年10月30日 (木) 00時01分

樋口 先生
 コメント 有難うございました。
 最近、アマチュアの演奏でも、ネット上で動画で配信されるようになりました。
 すると、普段目にしている初級レベルの演奏でも「生きた人間が呼吸しながら熱演しているよう」に見えてきます。
 オペラ/オペレッタ、ミュージカルは、一流の舞台装置、音響、照明、オケ/合唱、ソロを総動員した、活きた「動画」?で、わけもなく惹き込まれてしまいます。最高級の発明品/文化遺産です。
 都市、地方を問わず、お粗末な小屋で上演されている芸能作品も、そこに生きた人間が介在している限り、魅力的です。権兵衛。

投稿: 権兵衛 | 2014年10月30日 (木) 00時47分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/532807/60524114

この記事へのトラックバック一覧です: マリボール国立歌劇場公演「アイーダ」 少々退屈した:

« ネマニャ 相変わらずの凄み! | トップページ | 多摩大寄席とネマニャのイベント »