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エリシュカ+読響に魂が震えた

 1030日、東京芸術劇場で、読売日本交響楽団の「世界のマエストロシリーズ」、ラドミル・エリシュカの演奏を聴いた。曲目は、前半にスメタナの「売られた花嫁」序曲と、河村尚子が加わってモーツァルトのピアノ協奏曲第21番、後半に「新世界から」。素晴らしい演奏。魂が震えた。

 エリシュカを知ってから、実はまだ間がない。音楽ジャーナリストの岩野裕一さんやヤナーチェク友の会の山根さんが絶賛するので半信半疑で東京フィルを振った「新世界より」を聴いてみたのが、2010年だった。本当に素晴らしかった。それ以来のファンで、一度、山根さんに連れられて楽屋に行き、そのあと打ち上げにも参加して少しだけお話したこともある。物静かで落ち着いた、まさに演奏する音楽の通りのお人柄だった。1931年生まれというから、もう83歳。しかし、音楽は熟成しているが、少し老いを感じさせない。

 まず、「売られた花嫁」の冒頭の弦の音に驚嘆。私は風に吹かれて麦の穂が揺れる畑の様子を思い浮かべた。田舎の自然豊かな風景が目の前に現れるかのよう。厚みがあって、しなやかで、本当に美しい音。ゆるぎなく、確信を持って音楽が展開していく。「売られた花嫁」は実演や映像を何度か見たことがあり、決して嫌いな曲ではないが、この曲がこれほど豊かでこれほど美しい曲であるとは、ついぞ今日まで考えたこともなかった。エリシュカにかかると魔法のように深くてしなやかで美しくて田舎じみた音楽になっていく。

 ピアノ協奏曲も実に美しい。私は河村さんのピアノを聴くは初めて。評判はもちろん多くの人に聞いていたが、なるほど。生き生きとはずんで、音の粒立ちが最高に美しい。まるで音が生き物のよう。第一楽章のカデンツァにびっくり。交響曲第40番の第一楽章のメロディが出てきた。よく使用されるカデンツァなのだろうか。私初めて聴いた。

第2楽章も美しかったが、私はそれ以上に第3楽章の躍動感に惹かれた。エリシュカの指揮するオーケストラも素晴らしい。最高に美しい。

河村尚子のアンコールはモーツァルトのソナタ第12番第3楽章だとのこと。すばしっこくてチャーミングで、まさに生き物のような音の塊。河村尚子というピアニスト、おそるべし!!

 後半の「新世界より」は、前半以上に素晴らしかった。前半よりも厚みを増したスケール感のあるオーケストラ。鳴らすべきところはしっかりと鳴らし、ドラマティックに展開する。オケを完璧に掌握し、ふだん聞きなれない声部を強調することもあるが、すべてが理に適っているのを感じる。音に厚みが増し、しみじみとした美しさを作り出す。しかも、そこに少しも作為を感じさせない。

それにしても第二楽章の美しさときたら。確かにこれは郷愁を歌う音楽だと思う。コールアングレのメロディも弦楽四重奏の部分も、得も言われぬ美しさ。「時間よ止まれ、お前は美しい」といいたくなった。

第3楽章のスケルツォで躍動し、第4楽章で爆発する。第4楽章の最後の部分で、これまでの楽章の断片が現れる、とりわけ第3楽章の冒頭のモティーフが印象的だ。このモティーフは「生命の躍動」のモティーフではないかと、今回初めて思った。

老齢になり、命が燃え尽きようとする。だが、それでも生命の躍動を抑えきれない。そして、もう一度、故郷に戻って自分らしい生活をしたいと願う。故郷を思い、自分の生命の根源を思う。そして命の限り生きようと決意する。第4楽章の最後の部分を聴きながら、そんな心境を読み取ったのは、自分とエリシュカを重ね合わせたためかもしれない。

疲れもあって、ここ数日、沈みがちだった。エリシュカのおかげで気力が湧いてきた。

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音楽」カテゴリの記事

コメント

樋口先生
今回の「新世界より」の御感想は熱が入っておりました。「新世界」がそうさせるのです。
私もアマオケの一員として何回もこの交響曲の演奏に参加させて貰いましたが、全曲 非の打ちどころのない傑作で、私はすべての交響曲のなかでこの曲に一番心を惹かれます。
批評家/演奏家のなかには(アマチュアのなかですら)、また「新世界」か----- と辟易される方も居られるかに伺っておりますが、これを演奏会で聞く人は違っているのです。演奏会は「聞く人」のためにあることを忘れないで欲しいものです。
プロ演奏家には、この曲の演奏レベルは「通常」程度なのでしょうが、実は相当に難しく、殊に第3楽章は、涙を飲んでこれを割愛するアマオケもあるくらいです。
 普通、どんな名曲でも(こう申しては失礼ながら)弾いていて心を奪われる部分と、早く通過させて欲しいな、という部分が混在しています。
 全編、頭から終りまで、難しいながら、旋律、ハーモニー等のすべてに亘って「音楽する喜び」に溢れた名曲は意外と少ないものです。「新世界」は「運命」(ベートーヴェン)、「未完成」(シューベルト)とともに、名曲中の御三家に挙げられているのは故なしとしないでしょう。なかでもこの「新世界」は常に首位にある、というアンケート結果もあると聞いています。
 音楽の世界では、好みとしてこれら3曲を挙げるのをどこか躊躇うような風潮があるようですが、私は胸を張って「新世界」が好きです、と言うことが出来ます。
その魅力は、先生が縷々御解説下さった通りなのですが、この「新世界」は、ドヴォルザークが招かれてアメリカに赴任してから、僅か数か月後に着想されたものなのだそうです。私はアメリカ滞在後の音楽的成果の集大成として完成され、故郷に錦を飾るにふさわしい作品と自負されていたものだろう、と思っていたのですが。
ドヴォルザークは赴任後のアメリカで余程強烈な印象を受けたものと思われます。名曲中の名曲として名高い第2楽章は、名旋律メーカーとして定評のあったドヴォルザークも、流石に苦心したようで、これが完成した時は彼自身が興奮された、と伝えられています。
 第4楽章の最後、ホルンの旋律、そして、一瞬の静寂のあと、すべての音が炸裂して大団円に向かうところ----- 実に感動的で素晴しい音楽です。
 私は、いつも、朝霧のなかにけむるマンハッタンの摩天楼群か、夕日に赤く染まるグランドキャニオンの威容を連想させられます。

投稿: 権兵衛 | 2014年10月31日 (金) 11時28分

エリシュカさんの演奏を聴かれた感想、私も「うんうん」と頷きながら読みました。私も何度か氏の演奏を聴きましたが、ドヴォルザーク、スメタナ、ヤナーチェクはエリシュカさんでないとと思っているほどです。また権兵衛さんのコメント、アマオケが第三楽章を割愛することもあるを読んで早速ブロムシュテット指揮N響で聴いてみました。妻と二人で??、う、こんなところ、こいうところが難しいのかななんて言いながら楽しみました。私は例えば魔笛の夜の女王のアリアは仰け反るくらいですが(劇場では仰け反りませんが)、ピアノやバイオリン、オーケストラは演奏の難易度を慮ったことはほとんどなく、心地よく聞いています。これからは作曲家のわがままに演奏家がいかに努力したかを慮りながら聴くようになるのかな?ならないのかな・・・?と思った次第です。

投稿: 豊島健次 | 2014年11月 4日 (火) 08時19分

豊島健次 様
 コメント 拝見いたしました。
 私は、アマオケは「涙をのんで第3楽章を割愛することもある」----- としるしましたが、この「涙」とは如何なるものか、改めて考えてみました。
 勿論、口惜しい涙があります。しかし、お客様に失敗作をお聞かせするわけにはいかない、とする立場からすれば、むしろ誠実な態度であるとも言えます。あとは、如何にして失敗しないようにするか、オケの練習態様/成果が問われることになります。
 好んで失敗するオケはありませんが、不測の失敗は付きものです。オケの練習とは、この「不測の失敗」を予測出来るレベルに高め、なお完璧を期することにあります。その後は「作曲家のわがままに演奏家がいかに努力したか」、つまり、千変萬化する音楽の内容にどう向き合うか---- 音楽の解釈というレベルに入っていくことになります。
 「割愛する」というのは、つまりは低次元の話ではありますが、それではプロは失敗することはないのか。
 車を運転する人が、免許証を持っているにも拘らず事故を起こすのは何故か。絶対に事故を起してはならない、安全な筈の飛行機が墜落するのは何故か。
 むしろ、事故が起こるのは当然と考えて事に当るのが自然ではないでしょうか。
(*)市販のCD等で失敗作が販売されている筈はなく、必ず事前のチェックで除かれている筈です。
 ですからプロも当然のように練習します。練習しないと、忽ち批評家に見抜かれます。ただプロの練習はアマチュアと比べては、レベルは高いでしょう。プロのオケについてよく聞かれることは、練習は1回で完璧である筈だから、繰り返すことはあまりない、ということ。 
 本当だ、と言う方は居られます。新曲ならともかく、団員が熟知している曲なら 1回ですむことはあるでしょう。ベテラン指揮者なら、ここで 「上出来です。では念のため、皆様もう一度」と言って、これが先に申した「音楽の解釈というレベル」に当る(らしい)のです。
 しかし、ウイーンフイルなどは、指揮者を無視して、サラサラと弾いてしまうこともある、といいますから恐ろしいことですね。(練習での)指揮者なし、練習なし、でそのまま本番ということもあるかもしれません。
 「新世界」第3楽章は難物だと思います。日本人は3拍子に弱い、ということではなく、早い3拍子で、音符に妙にスラーが掛かっていたり、他の楽器が変に(巧みに)絡んでいたり----- つまり「作曲家のわがまま/腕の見せどころ」に的確に対応するのは、慣れた人でも冷汗ものなのです。
 オケですと上手な奏者がいて崩壊を未然に予防することが出来ますが(そういう奏者だけが採用されている筈です)、アマオケの場合は、初心者にベテランが心ならずも引き摺られて心中させられてしまうということがあります。弦楽器ですと、2列に並んでいる、その後方から崩れてくると、もうなす術がありません。心得たオケは後方にこそベテラン奏者を配置するようですが、奏者のなかには、見栄を張って、前方に座りたがる人もいるので、ここでオケの練習の構え方が問われることになります。
 この第3楽章に似た曲がドヴォルザークにあります。弦楽四重奏曲「アメリカ」第3楽章。 
 早い3拍子ですが、ここでは四人の奏者しか居ませんから、一人でも失敗すると、すぐ全体が止ります。多くの人が経験している筈で、ここをうまくクリア出来るかどうかが、カルテット奏者としてやっていけるかどうかの関所となります。
 涙をのんで割愛するか、恥に堪えて挑戦するか、苦あれば楽あり。
 ベートーヴェンの言葉を借りてカッコよく言えば「苦悩を越えて歓喜へ」。小さな合奏の世界は、一つの人生そのものです。
 長文 失礼しました。  権兵衛。

投稿: 権兵衛 | 2014年11月 4日 (火) 15時25分

権兵衛様・豊島健次様
コメント、ありがとうございます。
子どものころに少しヴァイオリンを、最近少しチェロをかじっただけの私は、豊島さん同様、超絶技巧の曲の場合を除いて、難しさについては度外視して音楽を聴いています。権兵衛様のご意見を聞いて、そんなものかと驚く次第です。いわれてみれば、確かに「新世界」の第三楽章、難しそうですね。
かなりまえ、新日フィルだったと思いますが、ゲルギエフ指揮の「サロメ」のコンサート形式の演奏で、チェロの目の前に座っておりましたら、チェロパートに超絶技巧とでも呼ぶしかなさそうな個所がいくつもあるのに驚いたことがありました。
聴くほうはうっとりとしていればよいのですが、演奏する方は大変なんだなあと改めて思いました。「サロメ」に限らず、多くの曲がそのような面を持つでしょう。いよいよ、音楽家に頭が上がらなくなってしまいます。

投稿: 樋口裕一 | 2014年11月 5日 (水) 07時24分

樋口先生
 コメント、有難うございました。
 なんでもないような曲の演奏や評論家の音楽批評を前にして、陰で涙を堪えている演奏家も居ることを御理解下さい。(私が言うのもおかしなことですが)。
>>音楽家に頭が上がらなくなってしまいます。
 ------ これは立場、立場で物の言い様が違うのが当然でしょう。プロ演奏家は音楽を聞かせるのが仕事で、厳しい評価を受け、また、それによって器量が大きくなる部分があるのです。ただ、先般も触れましたように、演奏技術系の人は文筆を避ける(嫌う)傾向があるのは事実のようで、「音楽家に頭が上がらなく」なるのではなく、演奏の実態をよく理解して頂いた上でのことであれば、未来は明るい、ということになります。
 それにしても「演奏するほうは大変」なのですが、自分で選んだ道ですか自業自得という面はあります。一方、楽器から音が出るのは自己責任ですから、演奏の難しさ、恥をかかされることについては重々承知して居る筈です。
 ですから(演奏の)「難しさについては度外視」するのでなく、充分に分ってやって下されば、演奏冥利に尽きるというものです。
 しかし、この「演奏冥利」については、当然、プロとアマチュアには違いが見られます。
 以下、私が日常接しているアマチュアの実態について、(私限りの)率直な感想を述べてみることとしましょう。(複数のアマリュアには複数の感想がありあます)。
● アマチュアは、難しい曲を難しそうに弾くが、易しい曲も難しそうに弾く(そのようにしか弾けない=涙)。 
 また、楽しい曲も’(心ならずも)詰まらなく弾いてしまう。クライスラーは、詰まらない曲を素晴しく聞かせられるのが名人というものだ、と言っています。
● 好んで難曲を弾きたがり、小品を軽視する。これは上手な人にも共通して見られる傾向のようです。(また、クライスラーから一言ありそうです)。
● 指が早く回るようになっても、音楽的な綺麗な音を出せる人は少ない(ようだ)。人によっては、これを名手とは認めない人もいます。「音楽的であること」が究極の決め手なのです。
(*)疑問に思うことがあります。名手/巨匠とされる方でも、近くで聞く演奏は音が汚い場合がある、ということ。(録音してCD化すれば美音になる、という意味でしょうか)。私は、例えば、家庭音楽会などで、近くで聞いて美音でなければ本物ではあるまい、と感じているのですが。
● アマチュアの演奏技術は驚くほど高くなっています。が(音の清濁は別として)アマチュアがミニプロになるのを問題視する人もいます。つまり、厳しい音楽批評に晒されることがないのをいいことに「天狗」になられてはどうもネ、ということでしょう。
 私が読んだ本に「船に乗れ」(藤谷治)があります。音楽学校で、一寸ばかりチェロが弾けるのをいいことに基本を軽んじ、結局は脱落(プロになれない)して、改めて基本の大切さに目覚める、という内容です。
 聞いた話で、これはどうかな、と思われたことがあります。
 腕の立つアマチュア天狗たちが、難しい曲の公開演奏会を開いたのはいいのですが、集って練習することはせず、各自が自宅で練習してきてそのまま舞台に上がる、ということをしたらしいのです。
 それくらい腕が立つのは素晴らしことですが、お客様はどう感じることでしょうか。演奏者のなかには、録音を断る人もいたとか。自信のない演奏を聞かせるのは構わないのでしょうか。
 私が素敵だな、と思った事例は-----,
 友人同士のパーテイに、急遽 招かれたアマチュア演奏家(弦楽四重奏)が、別室で持ち寄った楽譜類を見て、パーテイにふさわしい曲を選んで、そのまま会場に出て即席で見事に演奏した------ これなら立派なものです。
 客席から離れたステージ上で演奏するならともかく、客間で、お客さんの息使いが聞こえ、ヴァイオリン弓が弦を擦る音までもが伝わるような近さで演奏するというのは、度胸があるというか、プロにも劣らぬ見上げたもの、と言えます。
 ------ 以上、アマチュアの生態について
恥をものともせずに述べたててみました。アマチュアの演奏については「頑張りました」「先生からよく出来ました、と褒められました」------というような「美談」はよく聞くところですが、陰の (涙の)部分はなかなか聞こえてきません。
 そうそう、アマチュアの名誉のために、一席弁じてみれば、礼節を心得、プロに劣らぬ技倆と美音を備えた名手は少なくない、ということです。
 それから、公演に際して練習を1回しかしない団体もあります。
 掛値なしに、充分な事前研究と腕前が備わっていれば、練習を1回しただけで、もう失敗のしようがないことが分ってしまうからです。
 遠い将来のことですが、私もそのレベルを目指したいと思っております。

投稿: 権兵衛 | 2014年11月 5日 (水) 11時56分

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